1999年 なぜかサッカーのベルギーリーグ観戦記 クラブ・ブルージュ編 その3

2017年07月30日 | スポーツ
 疾風怒濤のベルギーリーグ観戦記第3弾(前回は→こちら)。

 ブルージュというベルギー屈指の観光地で、ここを本拠地とするクラブ・ブルージュのスタジアムに足を運んだ私。
 
 イングランドやイタリアとちがい、ずいぶんとまったりした雰囲気で、これならのんびり観戦できそうだと思っていたところ、選手入場と同時に大歓声が起こって、イスから転げ落ちた。

 突然の大盛り上がりに困惑する私。おいおい、なにが起こったんやと周囲を見渡すと、観客たちは総立ちになってコールを送るではないか。

 「ウー! アー! バンデレー! ウー! アー! バンデレー!」

 鼓膜を突き破るかのような「バンデレー!」コールがスタジアムに鳴り響いている。

 周囲をもう一度見渡すと、さっきまでお互いもたれあって、愛を語っていたはずの恋人たちや、子供にアイスを買ってあげていたやさしそうなお父さんたちが、みな狂気のように声を合わせている。

 それまでのピクニックムードが一変。

 「ウー! アー! バンデレー! ウー! アー! バンデレー!」

 すごい音量である。まるで、俳句の会からロックフェスの会場に、瞬間移動させられたかのようなギャップ。オバマ元大統領も裸足で逃げ出す「チェンジ」っぷりだ。

 コールの意味もよくわからない。ウー! アー! というのが、かけ声というか、いわゆる「ゴー!」みたいなものであることは、なんとなくつかめるが、「バンデレー」ってなんなのか、だれなのか、こちらにはサッパリだ。

 わかがわからないので、とりあえず静観していると、前列の席に座っていた大学生くらいの男子が、こちらを振り向いてこう声をかけてきた。

 「エクスキューズミー」

 おや? 見知らぬ外国人に、なんの用なのか。

 これはもしかすると、ついにフーリガンのお出ましか。てめえ、よそものがなにやってんだ、キックアス、ユーファッキン、ゴーアヘッド、ミーはユーをコロス的バイオレントな展開になってしまうのでは、とややおののいたが、そのベルギー青年は、

 「ウェア、ユー、フロム?」。

 どこから来たのか。ややつたない感じの英語で、そうたずねてきたのだ。

 実を言うと、さいぜんから自分が周囲から、少しばかり注目を集めていたことには自覚的だった。

 さもあろう。イタリアやスペインのリーグならともかく(いや、当時ならそれでも)、小国の、それもやや地方のチームのクラブサッカーを東洋人が観戦しているのだ。目立つのも無理はない。

 現に、スタジアム入りしたときから、ブルージュ人はシャイなのか、あからさまではなかったにしろ、好奇心の入り混じった、

 「あの東洋人はだれやボン? こんなところに、なにしに来よったビヤン?」

 そう言いたげな視線を感じていたのだ。

 そこにはフーリガン的「外国人は出ていけ」な空気は皆無であったので、多少恥ずかしいが気にはならなかったが、こうストレートに訊かれると、応えざるを得ない。

 「日本人である」と回答すると、質問者であるブルージュ兄さんは「オー」と、口をすぼめて驚いていた、やはり日本人が珍しいようだ。

 おそらく、彼が周囲の人たちの好奇心を代表して名乗り出たのだろう。そこで、今度はこちらからたずねてみることにした。さっきから聞こえる、この歓声はなにを表しているのか。
 
 するとベルギー兄さんが答えることには、

 「あー、これね。今日は、ベルギーの英雄であるフランキー・ヴァン・デル・エルストの引退試合なんですよ」。

 フランキー・ヴァン・デル・エルスト?

 だれだろう? うーん、勉強不足でゴメン、ちょっとわからないや。

 こちらが首をひねっていると、ベルギー青年は気を悪くした様子もなく、あれこれと説明してくれた。

 フランキー・ヴァン・デル・エルスト。ベルギーはリール出身のサッカー選手。ディフェンダーとして活躍し、ベルギー代表のキャプテンも勤めたこともある名プレーヤーだ。

 リーグ優勝を何度も経験し、ワールドカップも1986年メキシコ大会から1998年フランス大会まで、毎回のように出場している、まさに英雄であり、クラブでも代表でも精神的支柱ともいえる存在なのだ。

 ほええ、すごい選手だ。そら、知らなかったこっちの恥です。

 なるほど、そりゃこのコンパクトでかわいいスタジアムでも、大歓声が巻き起こるはずや。

 日本でいえば、元ガンバの宮本選手か、ドイツでプレーする長谷部選手の引退試合のようなものか。そら熱狂しないはずがない。で、ヴァン・デル・エルストが勢い余って「バンデレー」に聞こえるわけか。

 うーむ、思わぬところで、歴史的瞬間に立ち会ってしまった。試合の方はわりと平凡な内容だったけど、今日の主役はサッカーではなく、ひとりの英雄の最後の勇姿だから、そこはまあいいのだろう。

 もう、ともかく試合の間中「フランキー!」「バンデレー!」コールが鳴りやまず、フランキー・ヴァン・デル・エルストという選手のベルギーでの存在の大きさを、これでもかと体感させられたのだった。

 あの、おとなしそうなブルージュの人がこの狂乱。ヒーローというのは、人を虜にし、狂わせる麻薬のようなものであるのだなあ。

 そうしみじみしていると、やがて試合の方は無事終了した。終わった瞬間、ブルージュファンの皆さんが、興奮のあまりスタジアムのフェンスを上って、フィールド上になだれこんでいった。

 もうゲームは終わったのに、この盛り上がり。芝生の上で、歓声を上げながらフランキー・ヴァン・デル・エルストをかつぎあげるファンの皆さんを見ていると、なんだか私もあやかりたくなって、関係ないのに一緒にフェンスをよじのぼって、中に入ってみた。

 警備員もいたので、怒られるかなという危惧もあったが、特におとがめもなく放っておかれた。そこは祭の無礼講か。

 こうして私は、勢いとはいえベルギーリーグのスタジアムに、ポツンと立つことになるのである。

 そうかあ、これがプロもプレーしてるフィールドかあ。すごいなあ。ベルギーの選手は、こんな景色でサッカーをしてるんやあ。

 そんなところに、私なんかが入っていいのかしらん。でも、すっごい得した気分。

 さすがにヴァン・デル・エルスト選手のところに行くのは部外者として気がさすので、遠巻きにそっと見ていただけだが、やがてフェンスを越えられると危ないと見たのか、それともブルージュ人は無茶をしないと判断されたのか、なんとスタジアムと観客席を仕切っているゲートが解放されたのである。

 これには大喜びでファンたちが、フィールドになだれこんできた。

 こうなると、もうなんでもありである。人であふれかえった芝の上で、大歓声の中、私はなぜかここで寝ころんでみたくなった。

 そんなことしていいのかはわからないが、まあ怒られたらやめりゃあいいやと、その場でゴロリと横になった。

 短く刈られた芝が、少しチクチクする。5月のヨーロッパの空は抜けるように青い。鳴りやまない歓声。ここではないどこか遠い場所から聞こえてくるかのような、非現実的な感覚だった。

 いつまでそうしていたのだろうか。5分程度かもしれないし、ずいぶんと長く寝そべっていたような気もする。結局、だれにもとがめられるようなこともなかった。

 もうずいぶん前のことなので、スコアや試合内容のことはほとんどおぼえていない。

 ただ今でもうっすらと記憶にあるのは、背中に感じるやわらかい芝の感覚と、乾いた青空、そして彼らのヒーローへの感謝を表しているのだろう、遠くから流れてくる、

 「ウー! アー! バンデレー!」

 という、ブルージュ人たちの大合唱なのであった。


 (フランスリーグ編に続く→こちら

 

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1999年 なぜかサッカーのベルギーリーグ観戦記 クラブ・ブルージュ編 その2

2017年07月29日 | スポーツ
 前回(→こちら)に続いて、ベルギー・リーグ観戦記。

 ひょんな思いつきから、ベルギーでサッカーを見ることとなった欧州旅行中の私。

 セリエAで活躍していた中田英寿選手を見に、日本人がイタリアに集結していた時期であり、みながローマだユベントスだインテルだとさわいでいるのをよそに、ベルギーリーグの試合を見るなど、いかに思いつきの行動とはいえ、なかなかに因果である。

 さすがは私、サッカーという巨大メジャーの世界においても、どこまでいっても怒濤のマイナー野郎である。ベルギー人には悪いが、なぜそんなところにいくのか。イタリアかスペイン行けよと、あのころの自分につっこみたいところだ。

 まあ、このあたりの道のはずし方は、「いっそ、逆においしい」という魔法の言葉乗り切るとして、観戦するとなると、まずチェックするのは、どんなチームの試合かということである。

 スマホなどない時代、さっそく駅で新聞を購入し、スポーツ欄をチェックする。

 当然ながら書いてあることははサッパリなのであるが(ベルギーの公用語はフラマン語とワロン語。それぞれオランダ語とフランス語とほぼ同じ)、順位表や日程くらいはなんとなくわかる。

 判明したのは、ここブルージュでは「クラブ・ブルージュ(ブルッヘ)」というチームがあること。

 クラブ・ブルージュ。ちゃらんぽらん富好さんの漫談ではないが、「知らんなあ」である。

 私のブルージュの知識は、ローデンバックの『死都ブリュージュ』くらいであって、どんなはかなげなところだろうとイメージしていたら、むちゃくちゃに雰囲気の明るい、ディズニーランドみたいなところで驚いたくらい。

 死の街どころか、新婚旅行とかに超オススメのステキなところだったが、当たり前だけど、そんなところにもサッカーチームはあるのだ。

 拍子のいいことに、明日の土曜日にホームで試合があるというので、バスに乗ってクラブ・ブルージュの本拠地であるヤン・ブレイデル・スタディオンに向かうこととなる。試合はデーゲームで、夜の時間つぶしのはずというアテははずれたが、まあそこはもうよかろう。

 来てみると、スタジアムは、ずいぶんとこじんまりしていた。

 スポーツ観戦はもっぱらテレビが専門だが、甲子園球場や長居競技場などには行ったことはあり、その規模くらいは比較できる。

 ふつう、スタジアムというのは通路を抜けてスタンドに出た瞬間、その広さと熱気から思わず、

 「おー」

 と歓声がもれるものだが、このスタジアムはそういった圧のようなものはない。

 コンパクトにまとまったそれは、サッカーの本拠地というよりはむしろ近所の公園の運動場のようであり、イメージ的には長居や国立というよりは、夏の高校野球の予選をやっている舞洲球場みたいなのであった。

 うーん、さすがはヨーロッパとはいえ、ややマニアックなベルギーサッカーだ。思ってたのと、ちと違う。

 こちらは本場のサッカーといえばフーリガンがスタジアムを破壊したり火をつけたり、あげくには観客同士がなぐりあって死人が出てみたいな、そういうものだと身構えていたのだ。

 もしそんなことになったら、私も男だ。暴力など容認できないぞとばかりに、そこは腕まくりをしてどーんと、ダッシュで逃げるけど、どうも、そもそもそういう空気ではないようだ。

 客層はみな健全なブルージュ市民ばかりで、親子連れとか、孫をつれたおじいちゃんとか、若いカップルとか、そういった面々。

 そこをどう見ても、全身タトゥーとか顔中ピアスとかヘイファッキン、ゲラウトヒヤーみたいなフーリガンはいなのであった。

 さらにいえば、ファンの層も若干地味目である。

 日本だとサッカーといえば、

 「リア充の見るメジャースポーツ」

 というイメージだが、実際のところ、欧州や南米でサッカーといえば、むしろ社会的地位や経済面に恵まれない層の娯楽だ。ここベルギーでも、日本代表の試合で熱狂するような、

 「イケてる若者が大騒ぎ」

 といった空気は感じられない。

 メインの客層であるベルギーおじさんたちは、みな一様にモノトーンのシャツに、グレーっぽい上着を着ている。オシャレとは対極の静けさである。

 のちにセリエAを見たときも思ったけど、ヨーロッパのサッカーファンの空気感は、日本でいえば一昔前の将棋道場とかプロ野球の外野席とか、完全に「オッチャンの社交場」。ホワイトカラーよりはブルーカラー。

 つまるところ、生活感が強いわけだが、そんなローカル感バリバリなブルージュのスタジアムも、活気という点ではやや物足りないところもあるけど、まったりと自然体で地元を応援するというゆるい空気は、落ち着いていて、それはそれで観光の醍醐味ともいえる。

 スポーツ観戦いうたら、うるさいかと思ってたけど、のんびりしてるなあ。天気もいいし、こらサッカーよりも昼寝の方が気持ちええんとちゃうやろか。

 などとのんきなことを言っていたのであるが、あにはからんや、そんなゆるいムードなど、この日の試合には向かなかった。寝るなど、とんでもない話だったのだ。

 そのことは、試合開始のホイッスルが鳴ると同時に、いやでも気づかされることになる。ピーという音が響いた瞬間、スタジアムは耳が抜けるかといった、嵐のような怒号と歓声に包まれたからである。


 (続く→こちら



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1999年 なぜかサッカーのベルギーリーグ観戦記 クラブ・ブルージュ編

2017年07月28日 | スポーツ
 サッカーのベルギー・リーグを観戦したことがある。

 というと周囲のサッカーファンは、

 「いいなあ、川島選手や鈴木選手を見に行ったんですか。わたしも日本人選手を応援に、ヨーロッパに行きたいです」。

 などと熱く語ったりするが、残念なことに私はベルギーで川島選手も鈴木選手も見ていない。

 いや、観ようにもまだ2人はそのころ、ベルギーに行っていないどころか、川島選手などプロ入り前の高校生くらいだったはず。これでは見に行こうにも行けないというものだ。

 では、そんな日本人選手もいないころ、なぜにてわざわざベルギーくんだりでサッカーを見たのかと問うならば、これが単なる思いつきであった。

 今から約15年近く前になるのか、私はテニスのフレンチ・オープンを観戦するため、フランスへ飛んだ。

 そのころは私もヒマだったので、せっかく飛行機に乗って欧州に遠征するのだから、パリだけでなく他のところもいろいろ見て回りたいと、ドイツやベルギーなども観光したのである。

 で、そこでのナイトライフが問題であった。

 旅行というのは楽しいものだが、夕飯を食ってからの時間のつぶし方が案外もてあます。

 昼は観光地をめぐっていそがしいけど、夜になると安宿に帰ってすることがない。外は暗いし、街によっては下手に出歩くと危険だったりもする。

 まあ、これがパリやロンドンのような大都会なら、夜景を見に行ったり、ミュージカルを観劇したり、ライブハウスで盛り上がるなどなんなりすることもある。

 が、私がそのとき滞在していたブルージュ(現地の発音ではブルッヘ)という街は、日本でいう倉敷とか金沢みたいな歴史テーマパーク的場所であり、昼間は運河めぐりなどして充実した時を過ごせるが、夜になるとパタリと店じまいしてしまう。

 関西だと大阪や京都ではなく、奈良の大和高田みたいなところというか。飲み屋やディスコのような夜遊びスポットがない、健全無害な観光地なのだ。

 これでは、夜に出歩こうにもどうしようもない。かといって、安宿のボロい壁を見て悄然と過ごすには私もまだ若く血気盛んであった。

 そこでひねりだしたのが、

 「そうだ、サッカーを見に行こう」

 当時、中田英寿選手がイタリアでがんばっていたころであり、日本人の間で、

 「セリエAでプレーする中田を見にイタリアへ行く」

 というスタイルの旅行が、かなり流行っていたのだ。それにあやかったわけである。

 ただ問題なのは、ここがイタリアではなくベルギーであるところ。

 まあ、別にヒデのファンというわけではないから、そこにはこだわらないけれど、日本人選手うんぬん以前に、そもそもベルギーリーグって、どんなんかいな?

 ブルージュにチームはあるのか? あっても日程は? スタジアムの場所は? チケットはどこで買うの? もしなにかのトラブルで終電に乗れなかったら、どうやって帰ればいいのか。

 今のように、海外でのネット事情が充実してなかったころだ。スマホもなければ、グーグルマップも、翻訳アプリもない。ネットカフェに行っても、日本語対応のパソコンがなかったりする。

 まったくの五里霧中である。どこから手をつけていいか、サッパリわからない。思えば、昔は不便だったというか、今がすごすぎるというべきか。なんにしても、技術の進化万歳。

 こうなると頼れるのは、度胸と自らの足しかない。私は市内にあるツーリストインフォメーションに走ると、

 「ブルージュでサッカーを見たいから、日程と試合会場を教えたまえ」。

 これには、受付のお姉さんがキョトンとしていたのをおぼえている。

 最初は私の言語力の問題かと思ったが、どうもそうではなく、

 「サッカー? 日本人が、この観光都市ブルージュで、なんでそんなもんを?」

 という疑問なのであった。

 嗚呼、そうなのだ。今はともかく、当時はまだ日本といえばサッカーのイメージなどあまりないころ。

 中田ヒデのプチバブルのせいで、悪い現地人がダフ屋でボッたくろうと手ぐすね引いていたイタリアとちがって、ここベルギーでは後にワールドカップで手合わせすることなど知るよしもなく、

 「日本人がサッカー? 聞いたことないわあ」

 くらいのあつかいだったのだ。それで、おねえさんのキョトンなのだ。

 日本人がサッカーって? しかも、このベルギーで?

 今はそんなことないと思うけど、当時はその程度の認識だった。もしかしたら、ブルージュでサッカーを観に行こうとした日本人は、私が初めてであるかもしれなかった。

 そんな時代であったので、案内所のお姉さんが困惑するのも、当然といえば当然なのだ。それでも仕事なので、一所懸命探してくれたところによると、幸運なことに、週末、地元チームの試合があるというではないか。

 おお、こらラッキー。おとずれていたのが5月だったので、ヨーロッパのリーグはそろそろ店じまいのはずだが、まさにそのシーズン最後の試合が、ここブルージュで行われるというのだ。

 こういうのを縁というのだろう。こうして私は、日本人旅行者がヒデを求めてイタリアに集結する中、だれも知らんサッカーリーグの試合を見るため、ブルージュ随一の競技場であるヤン・ブレイデル・スタディオンにむかったのである。


(続く→こちら



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空手美女、フィリピンで強盗をノックアウト! のはずが……? その2

2017年07月26日 | 海外旅行
 前回(→こちら)の続き。

 「空手美女、フィリピンで強盗をノックアウト」。

 という記事が日本の新聞に掲載されたと、バックパッカー専門誌『旅行人』に紹介されたことがある。

 夜、現地のチンピラに襲われた日本人女性が空手で見事、ならず者どもを撃退したというのだ。銃を奪い取って威嚇発砲など、素人ばなれした度胸の持ち主である。

 しかしである、楽しく読んだその記事には、当然のごとく、こんな疑問がわきあがってくるではないか。

 これ、ホンマの話なんかいな。

 空手美女、強盗をノックアウト。おもしろい記事ではあるが、ちょっとおもしろすぎるのではないか。もしかしたら、若干「ネタ」が入ってるのではないか。

 と、思っていたら、あにはからんや。なんとこの記事、調査が進むにつれ真実とは違うことが明らかになったという。

 おお、それはどういうことだ。新聞といえば、真実を報道するのが仕事である。ましてやこれが掲載されていたのは朝日新聞ときたもの。

 昨今、なにかと風当たりの強い朝日だが、私は全面的に信頼していた。天下の大朝日が捏造など、するわけあるけどないのである。
 
 その判断は誤りではなかった。朝日は一切ウソなど書いていなかった。ただ、現地の新聞を、「そのまま誠実に」訳しただけなのである。

 ことの真相はこうらしい。

 日本人女性がフィリピンで強盗に襲われた、ここまでは合っている。女性二人が強盗に対して抵抗したのも事実だ。

 だがそこに「空手で大立ち回り」などといったアクションは存在しなかった。必死で抵抗する女性に業を煮やした強盗たちは、途中であきらめて逃げていった。

 その際、落とした拳銃をその女性が拾って空に威嚇発砲したのは本当らしいけど(これはこれでけっこうすごいけど)、話はそこでおしまい。

 え? そんだけ? なんか、聞いてたのと、ずいぶんとちがうような……。

 では、なぜそれが

 「空手美女、フィリピンで強盗をノックアウト」

 なんて勇ましいことになったのかと問うならば、どうもこの記事を担当した記者が、こまかいことは知ってか知らずか適当に書いた、ということらしい。

 事件を耳にした記者は、

 「なに、日本人旅行者が強盗を追い払ったやと? 記事になるやんけ!」

 すぐさまタイプを叩きはじめる。

 が、取材された事実を見るにつけ、

 「なんや、こらまた、ありがちなトラブルやなあ。いまいち、おもろないやんけ」

 と思ったのかどうか、

 「あかん、こんなんでは読者はよろこばへん! もっと盛り上げなアカンわ!」

 なんて、記者氏は妙なサービス精神と、エンターテインメント魂を発揮。そこで、

 「日本人いうたら空手ちゃうんかい!」

 と思ったのかどうか、なぜか話は大きくふくれあがり、記者氏もタイプのキーを叩きながら

 「アチョー!」

 「ホアア!」

 「チェストー!」

 などと一人で勝手に盛り上がり(推測)、そのまま筆は豪快にすべり、いつの間にかショー・コスギもまっ青の空手活劇に。

 そういった流れで、事実よりも大幅にふくれあがった記事を書き上げてしまったのである。

 ほとんど私の妄想だけど、たぶん8割がた合っていると思う。いや、たしかにできあがった記事はおもしろいけど、勝手に話作るなよフィリピンの新聞!

 いい面の皮なのは、それをそのまま訳して掲載してしまった朝日新聞だ。後日、

 「そのような事実はありませんでした」

 とちゃんと訂正したのであるが、とんだ大迷惑であった。

 一方フィリピンの方も、こちらもきちんと訂正・謝罪記事は載せたのだが、その内容というのが、

 「いやー、なんかホンマは空手とか使ってなかったらしいね、すまんッス。でも、おもしろかったからええよね、ナッハッハ!」

 といった南国的フランクなノリであり、どう考えてもそれは、謝罪しているようには見えない。なんて、ええかげんな。

 そんな「大スポかよ!」とつっこみたくなるようなお騒がせ記事であるが、

 「話を盛り上げるためには、多少のふかしは誤差の範囲内」

 という妙なサービス精神は、なんとなく憎めないところはあるなあ。




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空手美女、フィリピンで強盗をノックアウト! のはずが……?

2017年07月25日 | 海外旅行
 「空手美女、フィリピンで強盗をノックアウト」。

 という記事が日本の新聞に掲載されたと、雑誌『旅行人』に紹介されたことがあった。

 日本は空手の国である。

 海外旅行で、とくにイスラムの国などでは、よく子供に「カラーテ!」などと声をかけられることがあった。

 沢木耕太郎さんの名著『深夜特急』でも、主人公がイタリアの田舎町で子供に、

 「カラーテ!」

 「マスタツ!」

 などと声をかけられるシーンがあった。

 どうやら、ずいぶん昔から世界の日本観は変わっていないらしい。もっとも、マス大山が主人公の『空手バカ一代』はたいそうおもしろいマンガなので、イタリアン小僧ならずとも日本人と見れば「カラーテ!」といいたくなる気持ちは理解できる。

 それくらい空手というのは国際的に有名なのであるが、それにのっかって、うっかりサービス精神を発揮して、

 「イエス、カラーテ!」

 などといって構えを取ったりすると、

 「すげえ! 本物の空手だ! 実はオレの兄ちゃん、ボクシングをやってるんだ。よかったらどっちが強いか戦ってみてよ」

 などといわれて、耕太郎のように焦ることになる。

 これは、旅行者にとっての「カラーテあるある」で、私が聞いた話では、ある旅行者がノリで「イエス、カラーテ」と返したら

 「すげえ! 空手だ。よかったら、こいつと戦ってみてくれよ」

 と、犬のドーベルマンを連れてこられたそうである。勝てるかそんなもん!

 そんな世界で愛されている空手だが、「強盗をノックアウト」となれば、これはことが穏やかではない。

 詳細を読むと、フィリピンのある島で、日本人女性旅行者2人が夜、3人組の強盗に襲われたそうだ。

 強盗はピストルをつきつけ、金目のものを奪うと、2人のうちの1人を強引にバイクに乗せ誘拐しようとする。

 おそろしい話だ。海外で女性が夜で歩くのはあぶないが、そもそも金持ちで警戒心のうすい日本人は、悪者にねらわれやすい。

 すわ! 大ピンチ! と思いきや、そこで「とう!」という、勇ましき声が、夜の闇に響きわたった。

 その刹那、取り残されそうになった女性の見事な跳び蹴りが、走り去ろうとした運転手の後頭部にヒットしたのだ。

 悲鳴を上げ、バイクから転げ落ちる強盗。そこからさらに女性は、

 「キエー!」

 「チェストー!」

 という裂帛の気合もろとも、力道山ばりの空手チョップで、他の2人の強盗に応戦し、激闘の末見事にノックアウト。

 劣勢になった強盗はピストルを撃とうとしたが「ウォワタア!」という怪鳥声とともにくり出された回転蹴りによって、はたき落される。。

 女性は、取り落とした銃を拾い上げると、空に向かって一発威嚇発砲。

 そうなるともう、たかだかチンピラの強盗たちは戦意喪失。こりゃかなわんとばかりに、スタコラと逃げ出したそうである。

 かくして、空手美女、見事強盗をやっつける、の記事が現地の新聞に載り、翻訳されて日本でも紹介されたそう。それが流れて、『旅行人』蔵前仁一編集長の耳にも入ったというわけだ。

 アッパレ大和撫子というか、すごい女性がいたものである。まるでチャーリーズ・エンジェルだ。フルスロットル!

 かくして、フィリピンでは「日本の空手はすごい」と評判になり、マス大山の意志はこのようにして、また世界へと伝わっていくのであった。めでたし、めでたし。

 と、まとめておしまいといいたいところだが、この話には続きがあった。

 一見、海外の「おもしろニュース」と見せかけて、このフィリピン発の記事には、とんでもないからくりがしかけられていたのだ!

 一読驚愕の、その結末とは。



 次回に続く(→こちら)。




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団鬼六『我、老いてなお快楽を求めん』は、白衣の天使と猥談という男子理想の最期

2017年07月22日 | 

団鬼六『我、老いてなお快楽を求めん』を読む。

 団先生といえば晩年に腎臓を病んだとき、

 

 「人工透析してまで長生きしたくない」

 

 と発表し話題となった。

 実際は、その後周囲の強いすすめで、渋々ながら病院に通うこととなったのだが、この本ではその当時の顛末がつづられている。

闘病記ということで、さすがの団さんもしんみりと筆をとったのではと思いきや、これがまあなんとも安気というか、やたらと明るくて笑ってしまったのである。

腎不全を患い、医者からすぐに透析をせよと言明される団さん。のらりくらりとはぐらかしてきたのだが、ついに観念して透析導入に踏み切ることに。

 なんでも、慢性腎不全患者は身体障害者一級ということで、それを示すパスがあればバスや電車などが半額になるという。

 医療にくわしくない私でも聞いたことがある制度だが、それを聞いた団さんがまず医者にたずねたことは、



 「キャバクラも半額になりますか」。



 もちろんダメであるが、帰りにキャバクラへ出かけパスを見せ、「半額にしろ」というと、なんと本当に割り引いてくれたという。

 シャレ(?)のわかる店もあるものだ。

 そんな老いて、ますます盛んな団先生。それから3回透析を受けることになるのだが、そのためには体中のあちこちにを刺さなければならない。

 これが最初は痛くて難儀したらしいのだが、だんだんなれてくると、ベテランの看護師さんだと、それほどでもないということが、わかってきた。

 だが、見習いの子だとそうもいかないようで、ブスリブスリと打ち間違えを食らって、悲鳴を上げることに。

 萌えの世界ではよく「ドジっ子」がかわいいなんていわれるが、気ちがいになんとかのごとく、リアルドジっ子に点滴のは困りもののようだ。

 団さんは師長に、



 「チップを払うから、指名制にしてくれ」



 これまた、キャバクラのようにしてほしいと懇願するが、それは認められず、今日も悲鳴がこだまする。

 痛がる先生には申し訳ないが、まるでコントである。

 そうして半年ほどすると痛みも気にならなくなってきて、看護師さんたちともすっかり打ち解けることとなってきたが、そのうち団先生の職業を知った看護師さんが、サインを頼んでくるようになる。

 ベッドから動けずヒマな団さんは快く受け、メッセージも求められて揮毫することには、

 

 「愛子ちゃん、やらせて」

 「君子ちゃん、やらせて」

 私がやれば顔面グーパンチのひとつもいただいたところで、警察に連れて行かれかねないが、そこは職業柄大ウケ

 白衣の天使とイチャイチャ猥談。なんという天国への階段なのか。

 セクハラどころか、看護師さんたちはエロ話に大喜びで、団先生原作のポルノ映画についてあれこれ質問して来る。実にお盛んだ。

 そのうち、若い医師までが病室をおとずれ、悩み相談をもちかけてくるようになる。

 もちろん、内容は男のレゾンデートル、股間の「ゴールデンボーイ」のことで、どうも最近パワーにおとろえが見られてきた。先生、どうすればいいんでしょう。

 どうすればいいかって、医者が自らの貧弱な「グレート・ジンバブエ」について、官能作家に相談とは、ますますコントじみている。

 バカバカしいような、男としてしんみりするような、団先生も思うところがあったのか、「これを使ってはどうか」と、家に備蓄してあったバイアグラを献上。

 そんなことをやっていると、噂を聞いた中年医師までがやってきて、自分にもくれないかと頼んできた。

 そんな医師連に団先生は侠気を感じたか、はたまたあきれたのか、ついには「これで試してみろ!」と、自分の著作を読ませて、その効果を観察してみることに。

ED治療エロ小説

 こうなると、本当にただのシチュエーションコメディーだ。まるで、フランスあたりのエロ喜劇みたいではないか。

 こうなってくると、もう団先生大暴れという感じで好き放題。

 透析患者は体の筋肉つることがあり、それを看護師さんにマッサージしてもらうのだが、先生も

 

 「つった、つった、頼む」

 

 看護師さんを呼び出し、「どこがつりましたか」というのに、ニヤリとして

 「ここや」



股間大開脚

ウブい看護師さんなら声を上げて逃げてしまうらしく、もう大笑いなのだが、それからはいちびって「つった!」というと、「社民党の土井たか子みたいな」年配看護師長がやってくるようになり、今度は氏の方が悲鳴を上げることとなる。

 白衣の天使も、負けていないのだ。

 こうして団氏は、2011年に亡くなるまで、病院でフリーダムに振る舞って、その天寿をまっとうしたそうだ。

 エロあり、笑いありで、男子にとって理想晩年といえるであろう。

 私も人生の最期は、そうありたいものだ。大いに参考にしたい。



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カラオケの「無理やり一曲歌わせる」人と、日本人的な同調圧力について その2

2017年07月19日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 「愛国心」に「自己の相対化」は必要だと私は思うんだけど、この作業を嫌う人は多い。

 わかりやすいところでは前回も言ったカラオケで、

 「一曲だけでも」

 と嫌がる人に無理強いするのは、もちろんのこと好奇心でも親切心でもなく、

 「自分が熱狂しているところを、横にいて冷めた目で見られたくない」。

 そんな心根の表れなのだ。だから、

 「そうできないように、おまえも同じ穴のムジナになれ

 こういう命令なのである。だから、むこうはむやみと必死に「おまえもやれ」と押しつけてくる。
 
 自分の熱狂に「興味がない人」がいることが不安だから。

 これは突き詰めていくと、思った以上に根の深い問題で、極北まで行けば、たまにある体育会系の集団レイプ事件とかも同じ心理であろう。

 この手の事件を調べると、よく体育会系が裸を好む傾向にあるとか、軍隊における捕虜虐待などと比較して、


 「同じ罪や恥を共有することによって、集団内の絆を深める」


 などと解説されたりするが、そういう「アップ」な部分とともに、「強要」することにより「相対的視野」を防ぐ「ダウン」の効果もあるのだろう。

 具体的にいえば「密告」や「脱走」を封じるためだ。

 「罪人」は裏切ることができない。そうすると、自らが糾弾されるから。

 おまえが言っても、説得力ねーよ、と。

 一番効果的な忠誠心の確保だ。「おまえも同罪だぞ」と。他人事みたいな目で見るなよ、と。

 昔の中国のマフィアは、仲間に皆と同じ刺青を入れさせたそうだが、そういうことなのである。

 「絆」に興味がない人を、同じ罪を負わせることにより、取りこんで「排除」するわけだ。

 カラオケと同じ。だからこれは、特に「体育会系」の問題でもない。まあ、体育会系はより圧が強い傾向はあるだろうけど、われわれだって日常でやっているではないか。

 「空気読め」

 日本人が愛し、ある意味ではこの国の秩序の根幹を形成し、同時に大いに悩まされ、民族病ともいえる「同調圧力」という言葉。

 これも、まさにその相対化の忌避のあらわれであるといえよう。「こっちは多数派。だから正しいのだ」という「マジョリティーの数の暴力」で責めたて、同化を強要する。

 「愛国」でも「飲み会の誘い」でも「サービス残業」でも「運動会でクラス一丸」でも「伝統の継承」でも、「みなと同じようにふるまえ」「和を乱すな」というのは、そういう人がいると、みな


 「自分たちがやっていることは、はたから見ればおかしいのではないか?」

 「自主的にふるまっているつもりだけど、本当はイヤだっていう本音をむりやり変換しているだけではないか?」

 「もしかしたら他にはもっと楽しいことがあって、自分だけ損してるのでないか?」

 
 そうやって、心の平安を乱されるからだ。

 このザワザワ感は単なるイヤな気分ではなく、解消するのに「他者への干渉」が必要なことから、おそらくは「いじめ」「差別」「隔離」、果ては戦争や虐殺にすらつながる、あなどれない感情だと個人的には思っている。

 小難しい理屈よりも、わかりやすいと思ったのは、ミステリ作家である芦辺拓先生のあるツイート。

 「歴史好きは大学で歴史を学ばないほうがいい」というブログ記事に対して、


 「好きなことは仕事にするな」「好きな相手とは結婚するな」に続いて「好きなものは学問として学ぶな」ですか。もうええかげんにせぇよ。そんなに他人の人生が楽しかったり面白かったりするのがいやか

 
 とつぶやいておられたが、まさにしかり。

 もちろん、芦辺先生も答えはわかって言っているのだ。

 「いやか」と問われれば答えはこうだろう。

 「イヤに決まってんじゃん!」
 
 「自分の意志」で同調圧力に乗っからない人は、単なる拒否の不快だけでなく、今の自分よりも「他人の人生が楽しかったり面白かったりする」のではないかというおそれを喚起させる。その意味で、人の幸福感を損なう。

 「ふーん。でも、こっちはこっちで、もっと楽しくやってるけどね。ま、がんばってよ」

 とか思われたくない。軽く見られたくない。妄想かもしれないけど(実際、多くは妄想なのだろう)「今の自分より、より良い世界を自由に生きる人」など見たくない。

 ましてやそんな連中に、「なんでそんなことやってんの?」という冷めた目で見られたくない。自分はマヌケではないのだ。

 ゆえに、「排除すべき敵」。

 「相対化の忌避」とは、こういうことなのである。

 「よりよいかもしれない、よそさん」がいたら、そら何らかの手段で「つぶしにかかる」という心理が働くのは、当然といえば当然だろう。

 とにかく人は、「相対化」をこばむというのは、子供のころから強く感じていることだった。

 ただ個人的には、だからといってそのことで他人に干渉したり、生き方を否定したり、同調圧力で「相手の幸福値を減らそう」とする行為は「みっともないな」とも思う。

 ほっておいてやればいいのに。自分の自信の無さや、エゴイスティックな心の平安のために、他者の足をひっぱるのって不毛だし、ましてやそこに「正義」「愛」「一体感」「場の空気」なんていう、一見美しく聞こえる「恫喝」を持ちこむのは、それこそ卑怯未練というものだ。

 人になにかを強いることによってではなく、自らが心から愛してる、信じていると言えるだけの「意志」と「知性」を身につけたとき、はじめてその人のなにかを「愛する」心が尊ばれるのではないか。

 よそさんの視点も内包し、「おまえも歌え」なしの愛こそが、真の大人の愛である。

 私はそう思っているのである。





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カラオケの「無理やり一曲歌わせる」人と、日本人的な同調圧力について 

2017年07月18日 | ちょっとまじめな話
 「愛国心」は自国文化の相対化から生まれる。

 というのは、以前(→こちら)話した私なりの「国を愛する」ための重要事項である。

 相対化というとこむずかしそうだが、平たく言えば、

 「よそさんから見たら、こう見える」

 という視点を持つことであり、その過程を経ずして「国を愛そう」なんて言っても、ただの偏狭なナルシシズムにすぎず、北朝鮮のニュース映像とさして変わらないのではないかといいたかったわけだ。

 こういう話をするとよく、

 「そんな視点いらないよ! 日本人なんだから、日本を愛するのは当然でしょ。なんで外国人の話なんて、聞かなきゃならないの?」

 そう言って反発されたりすることもあって、

 「ほら、やっぱり『愛国』とかいうヤツは偏狭で、怖いんだよ」

 とか拒否反応を示す人もいるかもしれないけど、自分で「相対的視点」とかいいながら、私としては彼らの気持ちもわからなくはないところもある。

 愛国にかぎらず、人は自分が偏愛しているものを、第三者的視点で見られることに警戒する生物なのだから。

 「もしかして、自分たちのやってることって、端から見たらマヌケじゃね?」

 と疑わされるのが怖いから。

 だから愛国心(だけでなく、宗教でも流行ものでもなんでも、なにかを支持する行為)とかっていうのは、ときとして声高で、押しつけがましいものになる。

 基本的に、「熱狂的な支持」=「はたから見るとマヌケ」だから。それがバレたら、目も当てられない。

 これは国を愛することをおかしい、といっているのではなく、そもそも「愛」とか「信仰」「熱狂」というのは、興味のない人からしたらマヌケなもの。

 宗教がからむ紛争や議論、暴力的なフーリガン、アイドル好きの熱狂や宝塚ファン独特の「しきたり」、バブル時代のはしゃぎっぷりなどなど、あげていけば枚挙にいとまがないく、愛国心もまたそこから逃れることはできないのだ。

 だからみな、それを見たくないし、見せようとするやつを憎む。モノマネ芸人を、マネされた本人が嫌がるように。

 いい悪いは別にして、わりと自然なことだとは思う。

 「マヌケが嫌だから、相対化されたくない」

 という心理を、一番わかりやすく体験できるのが、カラオケボックスという存在。

 そこでの「あるある」である、「カラオケ好きは、無理やり人に一曲歌わせる」というのが、まさにそれであろう。

 自分が気持ちよく歌いたいけど、それをクールな視点で見られると(もしくは「見られている」と妄想がわくと)、

 「あたしって、一人で気持ちよくなって、もしかしてマヌケで迷惑って、内心思ってる?」

 そんなザワザワした気持ちになる。

 だから、彼ら彼女らは意識的か無意識かは知らないけど、「おまえも歌えよ」と強要する。

 カラオケが苦手なタイプ(私もそう)には今ひとつ理解しがたいこの行為で、その分自分が一曲でも多く歌えばいいのにと思うけど(実際そうしている人がいるのは「自分に自信がある」「開き直ってる」「そもそも気づいてない」のどれかであろう)、「相対化をこばむ」という視点から見れば、逆にものすごくわかりやすくなる。

 みな、言うまでもなく「歌ってほしい」「キミの声が聞きたい」わけでもない。わざわざ数分の自分が歌うチャンスを棒に振ってまでせまってくるのは、

 「冷めた目で見るなよ。おまえも歌って、オレたちと同じ『マヌケ』になれ

 という命令なのだ。


 (続く→こちら



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トーマシュ・ベルディヒ、ウィンブルドンのベスト8進出を特攻野郎たちもよろこんでいます。

2017年07月11日 | テニス

 ツアーで鳴らしたオレたちチェコテニス選手は、地味だとイジられ、実績のわりにはフィーチャーされてこなかった。

 しかし、「玄人好み」とフォローされがちなポジションでくすぶっているようなオレたちじゃあない。

 地力はあるから、けっこうビッグタイトルを取ったりしてしまう、不可能を可能にし、華のある選手を粉砕して観客をがっかりさせる、オレたち庭球野郎Cチーム


 俺はリーダー、イワンレンドル。通称「退屈なチャンピオン」 

 バズーカストロークアルフォンスミュシャ収集の名人。

 俺のような旧日本兵みたいな帽子をかぶった男でなければ、百戦錬磨のつわものどものリーダーは務まらん。


 俺はラデクステパネク。通称「なぜかモテ男

 自慢のルックスかどうかは不明だが、女はみんなイチコロさ。

 ド派手なウェアを用意して、マルチナからぺトラまで、チェコ系女子ならだれとでもつきあってみせるぜ。


 私はヤナノボトナ、通称「チキンハート

 チームの紅一点。

 ウィンブルドン準優勝は、ネットプレーと土壇場の勝ちビビリでお手のもの!


 よおお待ちどう。俺様こそトーマシュベルディヒ。通称「一応ウィンブルドンのファイナリスト

 選びの腕は天下一品!

 ベルディハ? バーディッチ? だから何。


 ペトルコルダ。通称「シューゾーマツオカルール

 欽ちゃんジャンプの天才だ。全豪優勝のときでも飛んでみせらぁ。

 でもドーピング検査だけはかんべんな。




 俺達は、スター一辺倒のテニス界にあえて挑戦する。

 頼りになるいぶし銀の、庭球野郎Cチーム!

 マニア好みのを気取りたいときは、いつでも言ってくれ。



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杉田祐一 バルセロナでベスト8、アンタルヤ優勝、ついに松岡修造を超える!

2017年07月07日 | テニス
 杉田祐一が、ついにやってくれた。

 錦織圭がやや精彩を欠き、西岡良仁がケガによるまさかの長期離脱、添田豪や伊藤竜馬らも一時期のランキングを維持できていないなど、ちょっとばかし勢いを失っている感の今シーズン日本男子だったが、ここに伏兵といっては失礼だが、この男が大きな風穴を開けてくれた。

 クレーシーズンから好調を維持し、バルセロナではリシャール・ガスケやパブロ・カレーニョ・ブスタら強敵をしりぞけてのベスト8。

 これだけでもたいしたものなのに、なんと芝のシーズンに入って、アンタルヤ・オープンではダビド・フェレール、マルコス・バグダティスというグランドスラム大会ファイナリストをぶち抜いて、ツアー初優勝。

 松岡修造、錦織圭に続いて、日本人で3人目のATPツアー大会優勝。しかも、プレーの難しい芝のコートでの勝利ということで、二重に快挙ともいえる。

 おまけに、日本人選手にとって一つの大きな目標であった、「46位の松岡修造」越えというビッグボーナスまでついてきた。

 日本テニス界に、どでかい花火を打ち上げた。錦織効果でみなマヒしているが、これはとんでもない離れ業なのだ。いや、マジで。

 スゲー! 祐一やったぜ! もう抱いて!

 これには快哉をあげると同時に、彼にあやまらなければならないなとも思う。

 というのも、私は正直、杉田がここまでのことをやってのけるとは想像してなかったからだ。

 なんて言うと、「ちょ、マジ祐一のことディスってんスか?」なんて怒られてしまいそうだが、もちろんそんなことはない。

 いやむしろ、実力的には、いつこうやって世界を驚かすことをやってくれてもおかしくない男だ、ということも知っていたつもりだ。

 しかしだ、日本男子を応援しているファンなら、多少は理解してくれるのではないか。

 ここまで、実に長かったのだから。

 杉田はデビュー以来、デビスカップ代表入り、日本リーグでの活躍、全日本選手権V2などなど、国内での話題には事欠かなかったが、世界ランキングの面ではなかなか100位の壁を破れなかった。

 チャレンジャーで結果を出し、ツアーでもときおり予選を突破するも、大爆発がなかった。

 その間、錦織圭は別格としても、ライバルとなる添田豪、伊藤竜馬がトップ100入りし、ロンドンオリンピックにもエントリー。

 西岡良仁、ダニエル太郎らの台頭により、下からの突き上げもあり、でも自分は黙々と下部ツアーや予選で戦うことを余儀なくされる。かなり苦しい時期もあったろう。

 正直このあたりかもしれない、「杉田、ちょっときびしいかな」と思いはじめたのは。

 仲間が次々、華やかな舞台にデビューする中、自分だけが一人ドサまわり。これは、精神的にもかなりキツイはずだ。

 だが、彼はくじけなかった。私のような見る目のない阿呆の予想などものともせず、コツコツと結果を出し始める。

 まず、2014年のウィンブルドンで、なんと18回目のグランドスラム予選挑戦を実らせ、初の本戦切符を手にする。

 強敵フェリシアーノ・ロペスに1回戦で敗れたが、3セットともタイブレークの熱戦。内容も、シード選手に勝るともおとらないものだった。

 そこからも、地道に勝利を重ねポイントをため、2016年には、とうとう念願のトップ100入り。

 テニス選手は、100位の壁を越えればとりあえず一人前だ。全豪、ハレ、夏のUSシリーズなどで活躍し、トップ選手ともいいテニスを展開。徐々にツアーの常連になっていく。

 そして、今年の大爆発につながるわけだ。バルセロナでは、予選決勝で敗れながらも、

 「錦織圭欠場によるラッキールーザー」

 という、なんとも複雑な幸運を手にしたが、それがあの快進撃につながったのだから、まったく世の中はわからない。

 ちなみに、芝のハレでもやはりラッキールーザーで本戦入りし、なんとロジャー・フェデラーと戦うことに。今の杉田はまさに「持っている」状態かもしれない。

 もちろん、運だけで頭抜けられるほどテニスの世界は甘くない。「天才」ガスケに、クレーの実力者カレーニョ・ブスタを破るなど、ラッキーで片づけられるものではない。

 真の力があったからこその勝利なのは、言うまでもなかろう。ウィンブルドンではアドリアン・マナリノにアンタルヤ決勝の借りを返されたが、フルセットまでもつれこむ激戦だった。

 次への期待を持つには、充分すぎる前半戦だ。

 よかったよー、間に合ったよー、このまま力を発揮できないまま終わっちゃったら、どうしようかと思ったよー。

 遅いよ! 長かったよ! もう! もう!

 私の勝手な意見はいいとして、ともかくも、杉田祐一はやってくれた。

 もちろん彼は、こんなところで満足はしていまい。夏のハードコートシーズンでは、さらなる飛躍を期待したい。
 
 そうして、スーパージュニアテニス優勝から注目していた我々大阪のファンが、

 「まあな、あの杉田もがんばっとるけど、オレが育てたようなもんや」

 とフカせられるよう、もう2発も3発も、どデカイことをなしとげてほしいものだ。





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「助っ人ガイジン」日本を語る ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 その2

2017年07月04日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)に続いて、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』のお話。

 この本を読むと、今まで当たり前だった日本が、

 「なんか、ウチらって変じゃね?」

 そう感じられてきて、困惑すると同時に、すこぶる興味深い。

 同時思うことは、

 「これで困惑する自分は、何やかや言うても日本人なんやなあ」

 前回、私は自分に体育会系的要素はないと書いた。精神論や根性も苦手であるとも。

 そんな私ですら、本書を手に取るまで「千本ノック」に、たいして疑問を持たなかった。

 それどころか、「ゴロの心」も「甲子園で燃え尽きることが美談」という非人道的な欲求にも、その他ここに書かれている各種の

 「日本独特の勝手な思いこみ」

 を、100%ではないが、それなりに受け入れていたのだ。

 たしかに疑問もあるけど、「日本って、そういうもんや」と。

 でもそれって、本当に「常識」なの? そう思ってるの、自分たちだけじゃね?

 その、ちょっとした思考の転換。これは、「第三者的視点」なくしては、決して手に入れられないものの見方ではあるまいか。

 この本を読んで私は、まさに蒙が啓かれる思いであった。「日本人」と「ガイジン」の、個別のエピソードもそれ自体おもしろいが、それよりもなによりも、

 「どんなに自分が『常識』『当たり前』と思っていることも、よそさんからみたら『おかしなこと』かもしれない」

 というテーマが、すばらしく心に刺さった。

 ものごとを複眼的に見ること。このことによって、世界はより厚みを増してくる。理解の深度が変わってくる。「変」と切り捨てていたことの中に、あらたな思想を見出せる。

 なんというおもしろさ。

 たとえば、今でいうなら、ワールドカップなどサッカーの大きな大会でよく出てくるネタに、こういうものがある。

 「アフリカのチームは勝つために呪術を使う」

 多くの場合、これを、あたかもアフリカの後進性のように笑い話にしているが、よその国から見ると、わが大日本帝国スポーツ界の、

 「必勝祈願のお参り」

 「護摩業でメンタルをきたえる」

 という行為も十分「日本は勝つために、呪術に頼っている!」と感じるそうだ。

 はー、そら思いつかん。もし「未開国」のスポーツ選手が、オリンピックにそなえて、その土地の宗教的スポットをおとずれたりしたらどうか。

 そこで神官に謎の呪文を唱えてもらったり、キャンプファイヤーをし、全身に火ぶくれを作りながら「精神のトレーニング」なんて言おうものなら、きっと我々は「おもしろニュース」として取り上げるにちがいない。

 でも、やってること、よそさんから見れば一緒なんやなあ、と。

 少なくとも私は外国人から見たら「呪術」に見える「お参り」や「護摩業」を、さほどおかしなこととも思わない。

 誤解をしないでほしいが、私は別に

 「外国人が言っているからエライ。日本野球(日本文化)はダメだ」

 といっているわけではない。

 それは外国を踏み台に、「一眼的な日本観」をさかさまにしただけで、あいかわらず同じようなことを言っているだけにすぎない。

 「千本ノックはすばらしい」

 というのと、

 「千本ノックはナンセンス。外国人だって、そういってるぜ」

 という意見は、言葉がちがうだけで、「知性の深度」では、さほど変わらないのではなかろうか。どっちもどっち。 

 この本で学ぶべきことは、どっちがえらいとかではなく、外国人がいってるからこうすべきとか、逆に「ガイジンが上から目線でえらそうに」とか、そう怒ることでもない。

 文化というのは、どれだけその人にとって絶対的なことでも、他者の視点により相対化される運命をまぬがれない。

 大リーガーから見たら日本は変かもしれないが、こっちだってアメリカを見たら変なところはたくさんある。

 すなわち、すべての文化文明は、よそさんからみたら「変」であるということなのだ。そして、それは怒ることでもないし、劣等感を感じることでもない。

 もちろん、それで他者を「劣った文化」などとおとしめ、悦に入るのもナンセンスだ。どっちも「変」なんだから。

 で、それが「普通のこと」なのだ。だから、われわれもそれを「普通に」受け取ればいい。そのことを、ボブさんの『和をもって日本となす』は教えてくれた。

 本書に出会って以来、私はあらゆる事象を信じなくなった。

 別にニヒリストを気取っているわけではない。そうではなくて、世の中の「当たり前」や「常識」にいったん「待てしばし」が入るようになったのだ。

 だれかが信じていることというのは、もしかしたら、そのだれかの半径数メートルの範囲でしか「当たり前」でないかもしれない。それが世間でまかり通っているのは、それが「正しい」からでなく、その人が

 「数が多い」「声が大きい」「戦争に勝った」「今たまたま流行っている」

 その程度のことのせいかもしれない。

 それがわからないと、人は簡単に視野狭窄になる。

 西欧の植民地主義も、アメリカのジャスティスも、ISのテロも、世界の大きな暴力の背景に「相対的視点の欠如」があるような気がする。

 私はなにかを愛することを愛する。でもそれが、「よそさんの目」を排した、自己愛の集積しかないとしたら、ちょっとゴメンこうむりたい。

 この文章を書くにあたって、『和をもって』を、もう一度読み直してみようとネット書店でさがしていたら、そこのレビューで、


 「自分たちが偉いと思いこんだ大リーガーの『上から目線』に腹が立つ」


 とあって、つい苦笑いしてしまった。
 
 あー、これこそが「相対化の忌避」であるなあと。

 人は他人の呪術は笑うけど、自分がやってることを「呪術じゃん」と指摘されると怒る。ちょっと、フェアではない気がする。

 先も書いたが、この本から学ぶべきところは、別に

 「外国人がこう言っているから直せ」

 ということではない。たしかに「上から目線」に感じることもないわけではないが、そこじゃなくて、何度も言うが、

 「よそさんからは、そう見える」

 ということなのだ。彼らの意見が「正しい」から聞くのではない。「視点がちがう」から聞くのだ。

 オランダのあるラジオ局には、こんなのポリシーがあるという。


 「この世には絶対理性は存在しない、すべてが正しく、すべて誤っている」


 そう、世界には数学以外100%はない。だから、大事なのは自分の変に「変じゃない!」と向き合わなかったり、「おまえの変を直してやる!」と押しつけたりすることではなく、どっちも変なのだから、それをせいぜい自覚して、「愛される変」を目指すのがよいのではなかろうか。

 おたがいに、ね。


 (「カラオケと同調圧力」編に続く→こちら




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「助っ人ガイジン」日本を語る ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』

2017年07月03日 | ちょっとまじめな話
 「愛国心」は自国文化の相対化から生まれる。

 というのは、前回(→こちら)話した私なりの「国を愛する」ための重要事項である。

 相対化というとこむずかしそうだが、平たく言えば、

 「よそさんから見たら、こう見える」

 という視点を持つことであり、その過程を経ずして「国を愛そう」なんて言っても、ただの偏狭なナルシシズムにすぎず、北朝鮮のニュース映像とさして変わらないのではないかといいたかったわけだ。

 なぜにて私がそう言った複眼的視点が大事だと思ったかといえば、ひとつはこないだも話した「海外旅行」の体験だが、もうひとつ、ある本の存在がある。

 それは、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』。

 野球について書かれた本は数多あるが、この本のユニークなところは、当時のボキャブラリーでいう(今も?)「助っ人外人」を取り上げているところ。

 といっても、「阪神のバースは史上最強」とか「一番のダメ外人はグリーンウェル」みたいな、ファン目線の楽しい野球談議をするわけではない。

 この本が画期的だったのは、「外人」をあつかう視点が、われわれとまったく逆だったこと。

 そう、ふだん我々が批評する対象だった「ガイジン」選手が、日本在住のアメリカ人であるボブさんの綿密な取材に応えて、

 「外国人選手から見たら、ここがヘンだよ日本野球

 について語るという、まさに「文化の相対化」をテーマにした、野球という枠を超えた比較文化論なのである。

 「日本にはベースボールと違った『野球』という競技がある」

 との名言というか、捨て台詞を残して日本を去ったボブ・ホーナーといった、「日本を理解できかった」選手から、ウォーレン・クロマティ―、レオンとレロンのリー兄弟のような、こちらで「レジェンド」ともいえる実績を残した「優良ガイジン」まで、実に幅広い。

 中身といえば、日本野球へのリスペクトありグチありで、いちいち興味深いんだけど、これが読んでいて、ものすごく不思議な気分になるのだ。

 なんというのか、彼ら「ガイジン」の視点から語る日本と日本プロ野球というのが、ものすごく「変」なシロモノだから。

 いや、実際は変でもなんでもなく、むしろ日本人の目から見たら彼らが違和感を感じるところは、こちらからしたら「常識」なんだけど、それを一度「外国人の目線」というフィルターに通してみると、「あれ?」と首をかしげたくなる。

 これって、なんかおかしくね? と。

 たとえば、日本の野球界には「千本ノック」という伝統がある。

 私が通っていた学校でも、野球部はそれこそ毎日やっていたし、昭和の野球漫画にはかならず、ボロボロになるまでノックを受けるシーンがある。

 日本人にとっては、ごくごく普通の練習法。まさに「常識」だが、外国人選手から見ると、これが実に「クレイジー」だという。

 ただただ黙々と単調なノックを受けるだけで、果たして練習になってるのか。それで守備を向上させることよりも「ノックを受ける」ことの方が大事なようで、ひたすらマシンのようにゴロを処理する。

 疲れてゼーゼーいってるのに「千本」終わるまでノックする。そんなバテた状態で練習しても身につかないし、変な形で体が覚えてしまって、むしろマイナスではないか。

 あまつさえ、ノックを終えた監督が、

 「これであいつも、ゴロの心がわかっただろう」

 と悦に入っている。

 え? ゴロの心って、なに?

 ほとんどスピリチュアルの世界だ。わけわからんなーと。

 アメリカと日本を比較して、こういった「つっこみ」が延々と入るわけだ。

 いわれてみて私は、急に自分の足場がぐらつくような不思議な感覚にみまわれたのを憶えている。

 あれ? そう? まあ……そうか……。

 あー、言われてみれば、変なんやなあ、と。

 たしかに「千本ノック」をはじめ、日本の精神主義や「練習のための練習」は改善点も多いところであろう。

 私自身、体育会系のノリが苦手であるし、こういう意味不明の根性論はなじめないが、あらためて「外国人」に語られると、うなずかざるをえないところがある。

 ここでポイントとなるのは、私がこういったことに、「本を読んで初めて変だと思った」こと。

 これは「外国人がいうから正しい」とかそういうことではなく、

 「もともと千本ノックがおかしな風習だと思ってたけど、そんな私ですら外国人にあらためて指摘されるまでは、本当の意味では心の底から『変』だとは実感してなかった」。

 ここなのである。

 本の中では他にも、応援団の熱狂、浪花節が支配する甲子園、通訳の苦労、メジャーに行きたかった男のトラブルなどなど、そのどれもが、

 「われわれにとっては普通だけど、外国人からしたらハッキリと『変』なこと」

 で埋めつくされている。しかもその「つっこみ」が、いちいちそれなりに理にかなっている。

 にもかかわらず、そしてそもそも「日本独特の村の掟」に違和感のあった私ですら、それをそれなりに受け入れていた。

 なぜ? どうして?

 それが「こっちでは、ふつう」だったからだ。

 読み進めると、こちらの「常識」と、むこうの「困惑」が交錯して、しだいにわけがわからなくなってくる。

 なんたって、「常識」と「変」がぶつかり合っている舞台が、「同じ事象」なのだから。

 それが、同じことに向き合ってるのに、視点が逆になるだけで、こんなにもわかりあえず、おたがいがおたがいを拒否し合う。そうして、頭をかかえることになる。

 日本になじめない「ガイジン」と、「ガイジン」を理解できな日本人。

 いったい、正しいこと言ってるのは、どっち? と。

 いや、もしかしたら、どっちもが同じくらい「正し」くて、どっちもが同じくらい「間違って」いるのかもしれない。

 で、この本を読んで私は、つくづく思わされたのだ。

 「自分は日本人なんだなあ」と。


 (続く→こちら




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