ブルージュというベルギー屈指の観光地で、ここを本拠地とするクラブ・ブルージュのスタジアムに足を運んだ私。
イングランドやイタリアとちがい、ずいぶんとまったりした雰囲気で、これならのんびり観戦できそうだと思っていたところ、選手入場と同時に大歓声が起こって、イスから転げ落ちた。
突然の大盛り上がりに困惑する私。おいおい、なにが起こったんやと周囲を見渡すと、観客たちは総立ちになってコールを送るではないか。
「ウー! アー! バンデレー! ウー! アー! バンデレー!」
鼓膜を突き破るかのような「バンデレー!」コールがスタジアムに鳴り響いている。
周囲をもう一度見渡すと、さっきまでお互いもたれあって、愛を語っていたはずの恋人たちや、子供にアイスを買ってあげていたやさしそうなお父さんたちが、みな狂気のように声を合わせている。
それまでのピクニックムードが一変。
「ウー! アー! バンデレー! ウー! アー! バンデレー!」
すごい音量である。まるで、俳句の会からロックフェスの会場に、瞬間移動させられたかのようなギャップ。オバマ元大統領も裸足で逃げ出す「チェンジ」っぷりだ。
コールの意味もよくわからない。ウー! アー! というのが、かけ声というか、いわゆる「ゴー!」みたいなものであることは、なんとなくつかめるが、「バンデレー」ってなんなのか、だれなのか、こちらにはサッパリだ。
わかがわからないので、とりあえず静観していると、前列の席に座っていた大学生くらいの男子が、こちらを振り向いてこう声をかけてきた。
「エクスキューズミー」
おや? 見知らぬ外国人に、なんの用なのか。
これはもしかすると、ついにフーリガンのお出ましか。てめえ、よそものがなにやってんだ、キックアス、ユーファッキン、ゴーアヘッド、ミーはユーをコロス的バイオレントな展開になってしまうのでは、とややおののいたが、そのベルギー青年は、
「ウェア、ユー、フロム?」。
どこから来たのか。ややつたない感じの英語で、そうたずねてきたのだ。
実を言うと、さいぜんから自分が周囲から、少しばかり注目を集めていたことには自覚的だった。
さもあろう。イタリアやスペインのリーグならともかく(いや、当時ならそれでも)、小国の、それもやや地方のチームのクラブサッカーを東洋人が観戦しているのだ。目立つのも無理はない。
現に、スタジアム入りしたときから、ブルージュ人はシャイなのか、あからさまではなかったにしろ、好奇心の入り混じった、
「あの東洋人はだれやボン? こんなところに、なにしに来よったビヤン?」
そう言いたげな視線を感じていたのだ。
そこにはフーリガン的「外国人は出ていけ」な空気は皆無であったので、多少恥ずかしいが気にはならなかったが、こうストレートに訊かれると、応えざるを得ない。
「日本人である」と回答すると、質問者であるブルージュ兄さんは「オー」と、口をすぼめて驚いていた、やはり日本人が珍しいようだ。
おそらく、彼が周囲の人たちの好奇心を代表して名乗り出たのだろう。そこで、今度はこちらからたずねてみることにした。さっきから聞こえる、この歓声はなにを表しているのか。
するとベルギー兄さんが答えることには、
「あー、これね。今日は、ベルギーの英雄であるフランキー・ヴァン・デル・エルストの引退試合なんですよ」。
フランキー・ヴァン・デル・エルスト?
だれだろう? うーん、勉強不足でゴメン、ちょっとわからないや。
こちらが首をひねっていると、ベルギー青年は気を悪くした様子もなく、あれこれと説明してくれた。
フランキー・ヴァン・デル・エルスト。ベルギーはリール出身のサッカー選手。ディフェンダーとして活躍し、ベルギー代表のキャプテンも勤めたこともある名プレーヤーだ。
リーグ優勝を何度も経験し、ワールドカップも1986年メキシコ大会から1998年フランス大会まで、毎回のように出場している、まさに英雄であり、クラブでも代表でも精神的支柱ともいえる存在なのだ。
ほええ、すごい選手だ。そら、知らなかったこっちの恥です。
なるほど、そりゃこのコンパクトでかわいいスタジアムでも、大歓声が巻き起こるはずや。
日本でいえば、元ガンバの宮本選手か、ドイツでプレーする長谷部選手の引退試合のようなものか。そら熱狂しないはずがない。で、ヴァン・デル・エルストが勢い余って「バンデレー」に聞こえるわけか。
うーむ、思わぬところで、歴史的瞬間に立ち会ってしまった。試合の方はわりと平凡な内容だったけど、今日の主役はサッカーではなく、ひとりの英雄の最後の勇姿だから、そこはまあいいのだろう。
もう、ともかく試合の間中「フランキー!」「バンデレー!」コールが鳴りやまず、フランキー・ヴァン・デル・エルストという選手のベルギーでの存在の大きさを、これでもかと体感させられたのだった。
あの、おとなしそうなブルージュの人がこの狂乱。ヒーローというのは、人を虜にし、狂わせる麻薬のようなものであるのだなあ。
そうしみじみしていると、やがて試合の方は無事終了した。終わった瞬間、ブルージュファンの皆さんが、興奮のあまりスタジアムのフェンスを上って、フィールド上になだれこんでいった。
もうゲームは終わったのに、この盛り上がり。芝生の上で、歓声を上げながらフランキー・ヴァン・デル・エルストをかつぎあげるファンの皆さんを見ていると、なんだか私もあやかりたくなって、関係ないのに一緒にフェンスをよじのぼって、中に入ってみた。
警備員もいたので、怒られるかなという危惧もあったが、特におとがめもなく放っておかれた。そこは祭の無礼講か。
こうして私は、勢いとはいえベルギーリーグのスタジアムに、ポツンと立つことになるのである。
そうかあ、これがプロもプレーしてるフィールドかあ。すごいなあ。ベルギーの選手は、こんな景色でサッカーをしてるんやあ。
そんなところに、私なんかが入っていいのかしらん。でも、すっごい得した気分。
さすがにヴァン・デル・エルスト選手のところに行くのは部外者として気がさすので、遠巻きにそっと見ていただけだが、やがてフェンスを越えられると危ないと見たのか、それともブルージュ人は無茶をしないと判断されたのか、なんとスタジアムと観客席を仕切っているゲートが解放されたのである。
これには大喜びでファンたちが、フィールドになだれこんできた。
こうなると、もうなんでもありである。人であふれかえった芝の上で、大歓声の中、私はなぜかここで寝ころんでみたくなった。
そんなことしていいのかはわからないが、まあ怒られたらやめりゃあいいやと、その場でゴロリと横になった。
短く刈られた芝が、少しチクチクする。5月のヨーロッパの空は抜けるように青い。鳴りやまない歓声。ここではないどこか遠い場所から聞こえてくるかのような、非現実的な感覚だった。
いつまでそうしていたのだろうか。5分程度かもしれないし、ずいぶんと長く寝そべっていたような気もする。結局、だれにもとがめられるようなこともなかった。
もうずいぶん前のことなので、スコアや試合内容のことはほとんどおぼえていない。
ただ今でもうっすらと記憶にあるのは、背中に感じるやわらかい芝の感覚と、乾いた青空、そして彼らのヒーローへの感謝を表しているのだろう、遠くから流れてくる、
「ウー! アー! バンデレー!」
という、ブルージュ人たちの大合唱なのであった。
(フランスリーグ編に続く→こちら)