夏目漱石vsピューリタン革命 愛媛県松山市が『坊っちゃん』に見せた不屈の英国流ユーモア

2024年05月06日 | 

 「もしかして、これが噂の【英国式ユーモア】というヤツか!」
 
 
 その発見に感嘆しそうになったのは、夏目漱石坊ちゃん』について考えていたときのことであった。
 
 ここまで私は漱石の代表作ともいえる『坊ちゃん』において、
 
 
 「松山の人は、なぜ作品中で、あんな地元ボロクソに描いている小説を球場や観光施設の名前に取り入れているのだろう」
 
 
 という疑問に対し、
 
 
 「そもそも原作を読んでいないのではないか」
 
 「いや、読んではいるけど
 
 【漱石に悪口を描かれている】
 
 という屈辱的事実に耐えきれず、《なかったこと》にしているか、あたかも《寛容》なフリをしている、という岸田秀的態度ではないか」
 
 
 などと予想してみたが、先日サウナでリラックスしているときに、ふとこういうものも思いついたわけなのだ。
 
 それが、
 
 
 「松山人が発揮する反逆の英国式ユーモア」
 
 
 人生にはユーモアが大事とは、よく言われるところである。
 
 とはいえ、ユーモアと言われても、にわかにはピンとこないところもある。「お笑い」とかとは違うモノなの?
 
 ここで参考になるが、河合塾で講師もされている青木裕司先生の名著『世界史講義の実況中継』。
 
 大学受験で世界史選択だった私が大いにお世話になった本で、レーニン毛沢東を礼賛する思想的に偏っ……全編が熱い信念につらぬかれた渾身の講義なのだった。
 
 そんな青木先生の授業の中で、こんな一説があった。
 
 
 「ユーモアとはなにか」
 
 
 先生が言うにはユーモアというのは基本的に、失敗したり、だれかにバカにされたりしたときに、
 
 
 「こんな自分を、みんなで笑ってくれよ」
 
 
 というスタンスで見せるものだと。
 
 一方、フランス人の得意な「エスプリ」というのは逆で、
 
 
 「こいつはバカだから、みんなで指さして笑おうぜ」
 
 

 ただ、青木先生が言うには、ユーモアとは単に自虐するだけでなく、そこに「反骨」「反逆」の精神がなくてはならないと。
 
 そこで例に挙げるのが、イギリス清教徒
 
 「ピューリタン革命」でおなじみのピューリタンだ。
 
 彼ら彼女らはエリザベス朝時代、堕落した英国国教会カトリックに対し、もっと純粋な信仰を取り戻すべきではないか、と訴えたプロテスタントの人々。
 
 いわば、自習時間に教室でさわぐ生徒たちに、
 
 
 「かにしてください! 自習時間は自習をする時間で、遊んでいいわけではありません!」
 
 
 とか注意していた学級委員みたいなものだが、こういう人が煙たがられるのは、どこも同じである。
 
 
 「男子、ちゃんとして!」
 
 
 みたいなノリで詰め寄る新教徒に、旧教エリザベス女王軽蔑の念を隠さず、こう言い放ったという。
 
 

 「アンタら、えらいマジメっ子やねんね。純粋無垢やわー。ピュアでかわいいわねー。あ、純粋って言葉のホンマの意味わかってはるかな? 《阿呆》ってことやねんで」


 
 
 メチャクチャにイジリ倒したのだ。
 
 それを受けたイギリスのプロテスタントはどうしたか。
 
 ふつうはブチ切れ案件だが、そこはユーモアの本場であるイギリスのこと、なんとプロテスタントたちは、
 
 

 「ほう、ワシらがピュアとな。そら、おもろいやん。じゃあ、こっちはにアンタらが言うように《ピュアな奴ら》(ピューリタン)って名乗ったるわい!」


 
 
 相手の悪口を、そのまま自分たちの名前にしてしまったのだ。
 
 またオランダでは、スペイン植民地支配に抵抗した貴族たちが「ゴイセン」(現地読みでは「ヘーゼン」)を自称していたが、なんと意味は「乞食」。
 
 貴族が乞食。同じように、スペイン人から

 

 「おまえらなんか乞食や!」

 

 とののしられたのを、
 
 

 「ハイ、それいただき!」

 


 とばかりに名乗ってしまったのだ。
 
 青木先生が言うには、こういう相手のディスにヘコまない不屈の闘志こそが「英国式ユーモア」であるというのだった。

 日本でも「萌え豚」「社畜」「パチカス」「バキバキ童貞」なんて自称して、自らの境遇をたくましく「キャラ」に昇華させる人は多いが、それみたいなものであろう。

 なんてことを思い出して、「そっか」となったわけだ。
 
 だとしたら、これは松山市とも当てはまるのではないか。
 
 松山は夏目漱石に『坊ちゃん』の中で「荒くれの住む田舎」みたいに描かれて、善人のはずのにすら悪く言われている。
 
 ふつうなら落ちこむところだが、そこをあえて「英国式ユーモア」で切り返しているのではないか。
 
 
 「え? 夏目が悪口言うてる? じゃあ、オレらはあえてそれにノッて、こっちで色々アイツの名前つけたろうやないけ!」
 
 
 これなんである。

 大嫌いな土地に、自分の作品の名前が残ったら、アイツ嫌がりよるでワッハッハ!
 
 こうして松山と『坊ちゃん』を結びつけることによって、われわれは松山に飛んだり、現地で野球の試合を見るたびに、
 
 
 「『坊ちゃん』ってどんな話やっけ」
 
 
 と気になり、今回の私のように読んでみたりすることもあろう。

 なれば必然、その内容にあきれ返り、
 
 
 「松山のことをこんなに悪く言うなんて、なんて夏目は性格が悪いんだ!」
 
 
 その悪評は際立ち、むしろ松山に同情するようになる。
 
 夏目はそれこそ自分の「黒歴史」をユーモア小説で塗りつぶしたつもりかもしれないが、逆に松山によってそれをいつまでも掘り返されるのだ。
 
 なんという見事な意趣返し

 実際、『坊ちゃん』を読んでみても感じるのは、主人公のイヤな言い草と、松山に対する判官びいきのみだ。

 しかも、その漱石ファンの「聖地巡礼」で観光客もやってくる。

 そういう連中からお金が落ちれば、

 

 「悪口書いてもらったおかげで、すわってるだけで金がチャリンですわ! を刷ってるようなもんや! 夏目先生、アザーッス!」

 

 てなもんであろう。なんと痛快なことか。

 そこまで計算しての「坊ちゃんスタジアム」「坊ちゃん列車」だったとは……。
 
 松山人の骨太なユーモアには恐れ入るしかない。これこそが、パンク魂ではないか。
 
 
 「悪口言われてるのに、媚びてるのかな?」
 

 「愛媛の有名人が、夏目漱石をボコボコにしばく映画を撮ったらいいのに」


 
 などと、一瞬でも想像した自分が恥ずかしい。
 
 抵抗者たちとの魂の抱擁。これぞ真の「日英同盟」といえるだろう。

 カッケーぜ松山!

 夏目漱石といえば、『吾輩は猫である』などでユーモアが評価されているそうだが、松山のやり口にくらべれば足元にも及ばないと言っても過言ではあるまい。 

 私は今、松山の見せている熱き反逆の魂に、感動の震えが、いまだ止まらないところなのだ。

 ……て、そんなわけないか。
 
 
 

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『坊っちゃん』vs松山は「屈辱感の回避による自己欺瞞」という岸田秀っぽい解釈

2024年04月30日 | 

 「これって、屈辱感の回避による自己欺瞞やろうか」
 
 
 そんなことを考えたのは、バーナード嬢曰く7巻の感想を書いていたときのことだった。
 
 この中で夏目漱石坊ちゃん』が取り上げられているんだけど、この物語には強烈な
 
 
 「松山ディス」
 
 
 こいつが盛りこまれていることで有名。
 
 いろんな文芸評論漱石本でも取り上げられる一方で、愛媛県には

 

 「松山坊ちゃん列車」

 「松山坊ちゃんスタジアム」

 

 といった、「坊ちゃん推し」施設があったりもする(「松山坊ちゃん空港」もあった気がしたが、正式名称ではないらしい)。
 
 ふつうは、いくら文豪とは言え自分の地元をボロクソに描いた作家の作品など、使いたくもないと思うものだが、なぜか坊ちゃん大人気

 そこで前回は、

 

 「松山市は文豪に媚びるより、仮面ライダー友近が夏目漱石をボコボコににする地方映画を撮れ!

 

 そう主張したが、もちろんこの『坊ちゃん』へのスタンスにはの理由も考えられる。

 たとえば「屈辱の回避による自己欺瞞」。
 
 人は自分が受け入れがたい苦しみを味わうと、その苦痛をごまかすために、なにか欺瞞を生み出し、その説にすがろうとすると。
 
 これは心理学者岸田秀さんが繰り返し著書で書いていることだが、たとえば大東亜戦争に敗れた日本人の言い分。
 
 みじめな敗北に終わった日米戦争を振り返って、戦後の世論は大きく2つにわかれた。
 
 ひとつは保守派
 
 
 「あれは日本がアジアを解放した聖戦だった。侵略なんてとんでもない。実際、あれでインドネシアビルマは欧米列強から独立できたではないか」
 
 
 もうひとつは左翼系
 
 
 「それはウソだ。あれはまごうことなき侵略で日本は間違っていた。あの時代を大いに反省し、その代償に得た平和憲法を遵守し、2度と戦争という過ちを犯さないようにしなければならないのだ」
 
 
 一見、正反対の主張のようだが、岸田先生に言わせると、実はこれ中身は同じものだそうな。
 
 どちらも、
 
 
 「300万人もの尊い命を犠牲にし、持てるものをすべて投入して必死に戦ったにもかかわらず大敗した戦争」
 
 
 という正視したくない、みじめな現実から目をそらすために、
 
 
 「あれはアジア解放戦争だった」
 
 「いや、負けて結果的に日本は平和憲法民主主義を手に入れた」
 
 
 という「あの戦争は無駄ではなかった」と思いたいだけの自己欺瞞にすぎないと。
 
 これわかるのは、体育会系の部活に居て「しごき」を受けて、明らかにその過去がつらかったのに、
 
 
 「あれは苦しかったけど、あれがあるから自分は強くなれた
 
 
 とか言ってた友達を思い出すからだ。
 
 その顔見て、「あー、ウソついてるなあ、この子」と思ったものだ。
 
 全然、楽しそうじゃないんだもん。
 
 でも、「そうでも思わないと、あの時代のことは振り返れない」というも伝わってきたので、
 
 
 「それ、自己欺瞞やろ? 岸田秀が言うてたで」
 
 
 なんてにはイジれないわけで、その記憶からも「はあ」とため息が出るような分析だ。
 
 「特攻隊」を美化する人もいるのも、その狂気的な作戦を批判するのに、
 
 
 「英霊のことを無駄死にと呼ぶのか!」
 
 
 とかカツアゲしてくるヤツはただの卑怯者だと思うけど、結構本気

 

 「批判してはいけない」

 

 って思ってる人もいるもの。

 たいていは「心のやさしい人」で、これもきっと、
 
 
 「若くして無意味に命を散らした兵隊たちが、あまりにもかわいそうすぎる
 
 
 という、あまりにもつらい現実に耐えかねて、「無駄死に」という言葉を否定するのではあるまいか。
 
 という方程式からこの「『坊ちゃん』問題」を考えると、こうも思えるわけだ。

 つまり、松山の人は夏目漱石が地元をボロクソにディスっているのをとっくに知っているか、あるいはだれかに気付かされるかしてショックを受けた。
 
 でも、それを認めるのは屈辱的であるから、気づかないふりをしている。
 
 あるいは逆に金之助を持ち上げることによって、それを「なかったこと」にしているか、
 
 
 「たしかに悪くは書かれているが、それでも漱石先生に取り上げられて名誉である」
 
 
 と感動、あるいは寛容な地元民のフリをしているのか。
 
 なんかこう、イジメられっ子が自分からバカにされるような行動をし、


 「いじめられてるのではない、イジられキャラなんだ」


 とアピールしたり、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』のトホホなラストを

 

 「あれが正解で、真のエンディングなんだよ。お前ら、エヴァをわかってないな」

 


 とか強がったりするようなものではないか。
 
 『エヴァ』の最終回に関しては、岡田斗司夫さんが意地悪な分析をしていて、あの最終回への反応は結婚詐欺師にダマされた女の人と同じだ、と。
 
 否定派
 
 
 「だまされた! 絶対にゆるせない!」
 
 
 とストレートに怒りまくって、肯定派は逆に、
 
 
 「あの人はもともとあーゆう人だったでしょ。こっちはわかったうえで遊んでたのよ。それがわからないなんて、まだまだね」
 
 
 ぶん殴ってやりたいのをグッとこらえて、余裕っちなフリをする。
 
 嗚呼、大東亜戦争の日本人と同じだ。これは今起こっている様々なスキャンダルへの反応にも、応用できそうである。
 
 で、松山の『坊ちゃん』に対するスタンスも、似たようなものではないのかなあ。
 
 どれだけイヤな気分なのか、あるいは気がついてないだけなのかはわからないけど、どこかに「屈辱回避」はからんでいそうな。

 うーん、邪推かなあ。
 
 でも、やっぱり変だよ、あれを地元民がありがたがるの。

 私は断然、地方をバカにする夏目よりも、松山市を応援します。

 

 

 

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『坊っちゃん』を書いた夏目漱石を仮面ライダーと友近がボコボコにする松山の地方映画が存在してほしいので3000字くらいかけて紹介するブログ

2024年04月24日 | 

 「きっと、これは原作を読んではらへんのやろな」
 
 
 そんなことを考えたのは、バーナード嬢曰く7巻の感想を書いていたときのことだった。
 
 この中で夏目漱石坊ちゃん』が取り上げられているんだけど、この物語については昔から疑問に思っていることがある。
 
 それは、
 
 
 「松山の人、なんでこの小説に怒らへんの?」
 
 
 私は『坊ちゃん』は未読で、なぜか水島新司先生のコミカライズ版を読んだだけだが、この物語には強烈な
 
 
 「松山ディス」
 
 
 こいつが盛りこまれていることは知っている。

 そこで今回「青空文庫」でさっと読んでみると、やはり「あー、こらアカンは」という内容で、実際いろんな文芸評論漱石本でも、
 
 


 「漱石は実際に松山で教師やってたけど、よほどイヤな目にあったんだろう」
 
 「よくここまで悪しざまに書けるな」
 
 「松山の人、よく怒らないね



 
 
 なんて作家や評論家も首をひねっているのだ。
 
 その一方で、愛媛県には「松山坊ちゃん空港」やら「松山坊ちゃん列車」といった、「坊ちゃん推し」施設があったりもする(「松山坊ちゃん空港」もあった気がしたが、正式名称ではないらしい)。
 
 ふつうは、いくら文豪とは言え自分の地元をボロクソに描いた作家の作品など、使いたくもないと思うものだが、なぜか坊ちゃん大人気
 
 まあ、これにはいくつか可能性があって、一番大きいのは、
 
 
 「松山の偉い人で『坊ちゃん』を読んだ人がいなかった
 
 
 そこで

 

 「ん? なんか漱石ってウチで働いてたことあるんやて? じゃあ、名前使うたら宣伝になるやないか」
 
 
 なんて安易に考えてしまったか。
 
 これはありえそうで、実際、大阪は東大阪市の本屋で東野圭吾の『白夜行』が
 
 
 「東大阪市の布施を舞台にした小説です」
 
 
 とか「地元応援!」みたいな感じでポップを出されてたそうな。
 
 でもあれ、読んでみたらわかるけど、布施ってゴッサムシティみたいな書かれ方してて、絶対に「地元応援」ではないよなあと苦笑した次第。
 
 まあ、東野さんは布施とかその隣の今里出身らしいから、地元への愛憎がからんで漱石の「100%悪口」とはニュアンスが違うんだろうけど。

 実際、同じ場所を舞台にした『浪花少年探偵団』シリーズは楽しいジュブナイルになってるわけだし。

 それはそれとしても、たぶんその本屋さんは『白夜行』読んでないんだろうなあとは感じられるところだ。

 なんにしろ、どっちの作品も読んでたら地元民は、絶対にイヤな気持ちになること確実。

 とにかく『坊ちゃん』は全編ずーっと

 

 


 「いけ好かない連中だ」

 「田舎者はけちだから」

 「こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなものだ」


 

 なんかもう、

 

 東京の人って、こんなに意地悪なの?」

 

 あきれたくなるくらい悪口が次々と飛び出す。

 あまつさえ、漱石作品の良心的象徴であり「善人」であるはずのですら、 

 


 「田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に遭わないようにしろ」


 

 「人がわるい」のはおまえだろ!

 よくモノの本では、
 
 

 「主人公の気風の良いセリフ回しに舌を巻く」
 
 「清こそが、夏目作品に通底する善なるもの」

 
 
 とか書いてたりするけど、内実はこんなもんですわ。

 マジでブチギレ案件と言うか、今だったらこの人たちSNSでしょっちゅう炎上してそうだなあ。

 もうこうなったら、いっそ逆に、

 

 


 「おのれ! イギリスで背が低いことに悩んでが空き、帰国したら森鴎外に《非国民》とかののしられた、メンタルよわよわ野郎め、ゆるさんぞ!」


 

 とか言いながら、藤岡弘さんが夏目漱石をライダーキックボッコボコにする地方映画とか作ってみたらどうだろう。

 怪人のコスプレ姿で「勘弁してください!」と、泣きながら土下座して赦しを請う文豪に、

 

 「夏目さん、これはね、暴力やないの。世直しなのよ」

 
 
 とか、着物姿の水谷千重子さんが諭してる。
 
 とりあえず、私は観に行って愛媛を応援します。

 

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『ベルナールトス嬢曰く』第7巻に出てきた本、何冊読んだ? その4

2024年04月02日 | 

 施川ユウキ『バーナード嬢曰く』が好きである。

 ということで、前回に続いて、

 

 「このマンガに出てきた本を何冊読んだか数えてみよう」


 
 との企画。第7巻の第4回。

 

 


 ★『ご冗談でしょうファインマンさん』R・P・ファインマン(未読)
 

 一時期、理系の本をたくさん読んだときに買って積読
 
 おもしろそうなんだけど、長くて分厚いと、つい後回しに。
 
 ユリゲラーが、自分が曲げたスプーンでコーティングしたベンツに乗ってたって噂は本当なのかな。
 
 


 ★『奇岩城』モーリス・ルブラン(読了
 

 長谷川さんの気持ちは痛いほどわかる。
 
 最初に読んだとき、ホントにホントーに腹がたったもん!
 
 しかも、ドイル先生に怒られてもモーリスの奴ヘラヘラしてんの。

 

 「遊びやのに、コナン君がマジんなってて草」

 

 芸人気取りの大学生か! 陽キャの悪いところ出てるわー。
 
 キライなんだよー。だから今でも、ミスヲタのくせにルパンはほとんど読んでない。
 
 「愛」がないのが最悪なんよ。どついたろか、ホンマ。
 

 


 ★『マーダーポットダイアリー』マーサ・ウェルズ(未読)
 


 「あらゆる本を他人の日記だと思って読むよ!」
 

 「私小説」文化のある日本だと、すんなり入って来る発想。
 
 私が明治大正くらいの日本文学を読まないのは、きっとこの「痛い日記」を読まされる共感性羞恥が耐えられないから。

 太宰とか好きな人は、それがたまらないんだろうけど、ダメだなー。
 
 友達と朗読しながら、バンバンつっこみ入れて、笑いながら観賞すると、すげえ楽しいんだけどね。藤村とか。
 
 


 ★『映画を早送りで観る人たち ファスト映画ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』福田豊史(未読)
 
 
 この「早送り」問題。私が若いころもあったよ。VHS倍速にしてドラマ見るとか。
 
 好きでない歌手の曲をカラオケのためだけにCD買っておぼえたり、いつの世も若者は「ついていく」ために努力しているのだ。

 まあ、私は完全に放棄してましたが。おかげで怒涛のマイナー野郎だ。 
 
 


★『虛航船団』筒井康隆(未読)
 
 外国人観光客のマナーの悪さに憤っている人は、ぜひ『農協月へ行く』を読みましょう。
 
 日本人だってそうだった。なかなかなことを、よそさんでしてたんです。コメディだけど、全然笑えない。

 で、少しずつ改善していく。こういうのは「順番」なんですね。
 
 そういや、よく本やマンガや映画の話から


 
 「物語の世界にトリップできるなら、どの作品を選ぶか」


 
 なんてテーマになることがあって『ドラえもん』だ『ハリー・ポッター』だいろいろあるけど、私は筒井の『20000トンの精液』一択。

 「バキ童チャンネル」あたりで、ぜひ大いに語りたいところだ。
 
 


 ★『ぐりとぐら』なかがわりえこ(未読)
 
 有名だけど、どんな話か全然おぼえてない。

 なんか、プレゼントがスベってたから神様を怒らせて、ぐらがぐりを殺して逃げるとか、そんな話だっけ?
 
 
 


 ★『吾輩は猫である』夏目漱石(未読)
 
 
 なぜか、水島新司先生のコミカライズ版で読んだけど、漱石の魅力が、あまりよくわからない。
 
 最初に『こころ』を読まされたせいかな。

 でも坊ちゃんとか、

 

 「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」

 

 こんなこというヤツが主人公の物語、あんまし読みたくないじゃん。

 

 「オレって~無鉄砲だからさ~、人生で損ばっかしてるわけじゃん?」

 

 「知らんけど」しか答えはないよ!

 ずーっと松山の悪口言ってるし(なぜ松山人は怒らない?)、私の印象では坊っちゃんて、「器の小さい、イタいヤツ」にしか見えんのだよなあ。

 


 ★『タイタンの妖女』カート・ヴォネガット・ジュニア(読了)
 
 
 『ローズウォーターさんあなたに神のお恵みを』を読み終わったときの衝撃は、今でも忘れられない。
 
 『スローターハウス5』など、私に「文学」をつきつけてきた作家。


 
 「わたしを利用してくれてありがとう」


 
 というセリフにもシビれた。
 

 


 ★『5分間リアル脱出ゲームR』(未読)
 
 ミスヲタのくせに、この手の謎は全然解けない。
 
 だって、頭使うのめんどくさいんだもん。
 
  


 ★『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(未読)
 
 
 島田荘司は『奇想天を動かす』がすごいおもしろかったのに、ラストで急にお涙頂戴になって吃驚。

 


 ★『山田風太郎明治小說全集14 一明治十手架(下)』山田風太郎(未読)
 
 山田風太郎は全然読んだことない。
 
 絶対好きという確信はあるんだけど。 

 


 ★『The Book jojo's bizarre adventure 4th another day』乙一(未読)

 乙一さんは一時期よく読んだ。
 
 「せつなさの達人」ってキャチコピー、いまだにマジなのかイジってるのか、よくわからない。

 


 ★『ムーミン谷の仲間たち』トーベ・ヤンソン(未読)
 
 ムーミンは読んだことない。アニメも見たことない。『ドンチャック物語』は見てたけど。


 


 ★『書くことについて』スティーヴン・キング
 
 クリエイターが、どうやって自作を生み出してきたのか知るのは楽しい。

 最近、売れっ子のはずのお笑いコンビが急に解散したりして、おどろくことがあるけど、岡嶋二人おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』を読むと、そのあたりのことがちょっと想像できたり。

 あと、ニールサイモンの同様の本のタイトルが『書いては書き直し』って、コワ!

 


(『バーナード嬢曰く』6巻の感想はこちら

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『ベルナールトス嬢曰く』第7巻に出てきた本、何冊読んだ? その3

2024年03月27日 | 

 施川ユウキ『バーナード嬢曰く』が好きである。

 ということで、前回に続いて

 

 「このマンガに出てきた本を何冊読んだか数えてみよう」


 
 との企画。第7巻の第3回。

 


 ★『サバイバー』チャック・パラニューク(未読)
 

 

 『ファイトクラブ』でおなじみの人。
 
 一部ボンクラ男子にカルト的人気を誇るが、私はピンとこない。
 
 純文化系なので、「肉体の強さこそが男の生きる証明」みたいな発想がまったくないのだ。

 だから、ブルースリーや『バキ』とかも全然ハマらない。

 とか映画とか好きな文化系の中にも、「強さへの憧れ」がある人と、どうでもいいタイプに分かれるのはおもしろい。

 私は典型的な後者

 世界で一番エラい男子って、ドイツ軍歴代主要戦車の名前とか、全部言えるヤツでしょ?
 
 


 ★『汽車のえほん』『きえた機関車』ウィルバート・オードリー(未読)
 

 

 「主人公がダメな奴だと、見ている人がストレスを感じて楽しめない」
 


 というと思い出すのが、ケンドーコバヤシさんが『新世紀エヴァンゲリオン』見て、
 


 「オレ、あんなウジウジしたヤツ大嫌いや! 世界滅ぶんやろ? 男やねんから、さっさと乗って戦えよ!」

 
 とかマジで怒ってたこと。
 
 同じ「ジャンプ黄金時代世代」として気持ちはわかるけど、実際に軍隊の基地に連れていかれて、零戦に乗せられて、


 
 「これで鬼畜米英の戦艦と戦ってこいや!」


 
 とか言われたら絶対無理なわけで。

 そう考えたら、そのさらに上の無茶振り食らってるシンジ君の反応は百パー正しいとは思うけど、このあたりは時代性が出るのかもね。
 
 


 ★『プロジェクトヘイルメアリー』アンディ・ウィアー(未読)
 

 

 超オモシロ小説『火星の人』の作者。
 
 自分が好きな本を、自分が嫌いな人がほめてると、イヤなような、それでいて不思議な気分になる。


 
 「あんなヤな奴やのに、これの良さがわかるんやー」


 
 きっと、むこうも似たようなこと感じてるんでしょうね。

 そういや中学生のとき、私のことを嫌いなある子(クラスでイケてるタイプが)

 

 「おまえはどうせ、長渕剛の良さがわからんのやろ。そんなしょうもない人間や!」

 

 とか罵倒してきて意味がわからなかったし、まあ実際、そんなに好きではない。

 でも、あんとき真顔で

 「わかるよ……。すごいわかる」

 って応えてたら、どんな反応が返ってきたんだろうとか、ちょっと考えてしまった思い出が。

 逆にコーネルウールリッチの面白さとかを、むこうに「メッチャわかる……」て言われたとき、こっちはどう感じるのか。

 よけいに嫌悪感が強くなるのか、それとも案外仲良くなれたか、どっちなんだろ。
 

 


★『マーダーポットダイアリー』マーサ・ウェルズ(未読)

 

 本に飽きることは、まあたまにある。
 
 でも、そこで飽きたままだと、


 
 「積読になってるこの子たちは、どうするのよ!」


 
 という気持ちになって、また読み始める。愛というより貧乏性
 
 

 


 ★『10月はたそがれの国』レイ・ブラッドベリ(未読)

 

 ブラッドベリは山ほど読んだから、


 「ブラッドベリはマニアックじゃない」
 

 と言われたら、たしかにだけど、でも本を読まない人は聞いたこともないだろう。

 まあ、そんなもんだ。


 
 「ワハハハハ! おまえ本当に高校生か」


 
 と言いたくなるのは、北村薫先生の「円紫さんと私」シリーズを読んだときいつも。

 フランソワコッペとか、ふつうの高校生は読まねーって。
 
 それにしても、この中に出てくる女性キャラ、どいつもこいつも、みんなヤな女だぜ。
 

 


 ★『火星に住むつもりかい?』(未読)
 ★『ゴールデンスランバー』(未読)
 ★『モダンタイムス』(未読)
 ★『オーデュボンの祈り』伊坂幸太郎(未読)
 
 
 4冊もあるのに、しかも伊坂幸太郎は一時期よく読んだのに、既読が1冊もないという。
 
 調べてみたら読んだのは『陽気なギャングが地球を回す』『重力ピエロ』『死神の精度』『終末のフール』『グラスホッパー』『アヒルと鴨のコインロッカー
 

 どれもおもしろいけど、「語りたい!」って感じにはならないなー。さわやかでオシャレだから?


 『重力ピエロ』読んだとき、これは作者「自信あり」なんやろなと思ったもの。


 
 「春が二階から落ちてきた」


 
 なんてフレーズ、「勝算」ないと書けないじゃんねえ。

 

 (続く

 


(『バーナード嬢曰く』5巻の感想はこちら
 

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『ベルナールトス嬢曰く』第7巻に出てきた本、何冊読んだ? その2

2024年03月21日 | 

 施川ユウキ『バーナード嬢曰く』が好きである。

 ということで、

 「このマンガに出てきた本を何冊読んだか数えてみよう」
 
 との企画。前回に続いて、第7巻の第2回。

 


 
 ★『NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く』パティ・マッコード(未読)

 うちはアマゾンプライムだけど、『クイーンズギャンビット』目当てにネトフリに入った。
 
 『コブラ会』『サンクチュアリ』『全裸監督』あたりも見る予定。時間あるかなあ。

 しかし『コブラ会』はすばらしいタイトルだ。「竜牙会」と並んで一度は入ってみたい会である。

 


 ★『完訳 千一夜物語9』(未読)
 
 
 黒田幸弘『クロちゃんのRPG千夜一夜』はダンジョンズ&ドラゴンズで遊びまくってたころ、『D&Dがよくわかる本』と一緒に死ぬほど読み返した。
 
 『よくわかる本』と一緒に、Kindleにならないかなあ。あとD&D版の『ロードス島戦記』も。
 
 



 ★『三体3 死神永生下』劉慈欣(未読)
 
 『三体』は電書で買って積読。いつ読むんだ。
 



  ★『刺青の男 新装版』レイ・ブラッドベリ(読了
 
 
 ブラッドベリ最初の一冊と言えば、『火星年代記』か『太陽の黄金の林檎』かコレ
 
 『万華鏡』が有名だが、それをオマージュした『サイボーグ009』のラストもすばらしい。
 
 『形勢逆転』を読むと「憎しみの連鎖を断ち切ろう」という一見美しい意見が、


 
 「アンタらの番で泣き寝入りしてくれ」


 
 というムシのいい提案だということがよくわかる。

 



 ★『進化しすぎた脳』池谷裕二(未読)
 
 脳の退化におびえる日々。なんでもすぐ忘れちゃうものなー。
 
 もっとも、イヤなこともすぐ忘れるから、それはあなどれないメリット。
 
 悩むタイプの人は、中年以降になるとちょっとになるから安心して。 
 
 


 ★『真鍋博の世界』(未読)
 
 そりゃあもう、ハヤカワっ子のクリスティーヲタでしたから、真鍋先生はおなじみでした。
 
 星新一ももちろん。古本屋で安いの山ほど買ってきて、ゴリゴリ読みまくった。みんなも読もうぜ!
 
 


 ★『ゼロ時間へ』アガサ・クリスティー(読了)
 
 クリスティーは高校生のころ夢中になった。

 ポアロもミス・マープルも出ないノンシリーズものだから、どうかなと思ったけどメチャおもしろい。

 マイナーどころだと『謎のクィン氏』や『パーカーパイン登場』もグッド。
 
 クリスティーはミステリとしても一級品だけど、当時のイギリスの雰囲気を味わう小説としても楽しくて、その点では「御三家」の中で抜けていると思う。
 
 


 ★『ライト、ついてますか一問題発見の人間学』 ドナルド・C・ゴース ジェラルド・M・ワインバーグ(未読)
 
 翻訳が読みづらい本と言えば、『嵐が丘』。
 
 だれの訳か忘れたけど、信じられないくらいの悪訳で逆に感動
 
 海外旅行に持って行ったんだけど、パリのユースホステルで日本人旅行者に読ませたら

 

 「ヒデーなコレは」

 「一行も読み進めない。マジで日本語なの?」

 「エニグマ暗号機で書いたのかと思った」

 

 などなど大ウケだったので大満足。
 
 だれか、どの訳だったか教えてくれんかなあ。
 
 


 ★『10の世界の物語』アーサー・C・クラーク(未読)
 
 ビミョーな短編と言えば、江戸川乱歩の『火星の運河』。
 
 見たをそのまま書いたとか言う、それだけでも「事故物件」のにおいがするが、内容もよくわかんねーや。

 フィリップ・K・ディック『ヴァリス』も似たようなもんなのに、こっちは妙におもしろいんだけどね。不思議。

 

 (続く

 


 (『バーナード嬢曰く』2巻3巻の感想)

 

 

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『ベルナールトス嬢曰く』第7巻に出てきた本、何冊読んだ?

2024年03月15日 | 

 施川ユウキ『バーナード嬢曰く』が好きである。
 
 読書を題材にした日常ギャグだが、本好きだとついつい、
 
 
 「オレ、この中の何冊読んだっけ?」
 
 
 みたいなことが気になってしまうもの。
 
 そこでこれまでも、「何冊読破したか数えてみよう」とやったことはあるのだが、今回第7巻も出たことだし、久しぶりにやってみたい。
 
 


 ★『ドラえもん0巻』藤子・F・不二雄(未読)
 
 『ドラえもん』は子供のころ友達に借りて、飛び飛びだけど30何巻かくらいまでは読んだ。
 
 第1話は、おもちがうまそうだった記憶があるけど、それ以外にもエピソードがあったとは知らなんだ。

 私のバージョンだとエゴむき出しで歴史を変えようとする、ドラたちの言い訳が苦しすぎて憤ったのもおぼえてるなあ。

 他人の人生をなんだと思ってるんだ。ネットのインフルエンサーとかレベルの詭弁で、ガッカリこの上なく、四次元ポケットだけ置いて、とっとと消えやがれ! とタンカを切ったものである。
 
 あと、言うまでもなくこの作品で一番の名セリフはやはり、
 
 
 「ジオラマにかかせない『三感』」
 
 「12チャンネルで4機ばらばらに動かせるんだ」

 

 ラジコン大海戦、マジで参加してー!

 円谷英二教のオレはマレー沖海戦がいいな。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを秒で沈めてやりたいぜ!
 


 ★『中学校 国語 平成24年度版』光村図書(未読)
 
 
 本を読みまくる人生を送っていたにもかかわらず、とにかく国語の成績は良くなかった私。
 
 なので、どんな教科書で勉強してたか興味津々だったが、中学で最初にやったのが
 
 『あの坂をのぼれば
 
 これはよくおぼえていて、なんかアイドルが出てこない「全力坂」みたいな話だよね(ホントにおぼえてるのか?)。
 
 ただそれ以降は、全然記憶になくてビックリ。
 
 最初のインパクトが過ぎれば、それ以降は内容はおろか、どの作品で授業をやってたのかもサッパリ記憶にない。
 
 これはヒドイと2年、3年のも見たがやはり全滅
 
 さすがに『走れメロス』は読書感想文に
 
 
 「メロスみたいな真正バカに、人生をあずけなければならなくなったセリヌンティウスが、とてもかわいそうだと思いました。王様は彼をとっとと死刑にすべきだと思いました」
 
 
 とか「感じるまま素直に書きましょう」という先生のアドバイス通りに書いたら、書き直しさせられたからおぼえていた。

 メロスで思い出すのが、たしか『3年奇面組』で、

 

 「『走れゴメス』は読んだな」

 「メロスだろ!」

 

 とかいうのがあって、メチャおもしろそうだな『走れゴメス』って思ったものだ。

 やっぱシトロネラアシッドから逃げてるのかしら。結城昌治さんの『ゴメスの名はゴメス』読んだときも、

 

 「そこは『ゴメスの名はゴメテウス』にしてほしかったな」

 

 とか思ったもの。教科書、全然カンケーねーや。

 あと魯迅の『故郷』もえらいこと辛気臭い話で、それはそれでうっすら記憶にあって、大人になってちゃんと文庫本買って読んだら、やっぱり辛気臭かった。
 
 「豆腐屋小町」ってワードがたしか出てきたはず。
 
 町一番の美女だったんだけど、人生で苦労しすぎて、ヨボヨボの意地悪ばあさんになってるという救われないエピソード。
 
 当時の中国の問題点を浮き彫りにした作品なんだけど、どこまでいっても辛気臭かった。

 今なら読書感想文に、

 

 「とても暗い話でイヤになったと思いました。映画化したときには故郷に帰ったら地底怪獣が暴れてて、それを魯迅とか孫文がみんなでやっつけるという話にしたら、すごい友情とか恋とかも生まれて、メッチャ盛り上がったと思いました」

 

 とか書くな。やっぱ書き直しか。

 

 (続く

 



 (『バーナード嬢曰く』の感想はこちら

 (1巻に出てきた作品についてはこちらからどうぞ)

 

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先崎学『一葉の写真』の衝撃

2023年12月13日 | 

 杉元伶一はもっと評価されていい。

 という出だしから前回は90年代の知られざる作家、杉元伶一さんの寡作ぶりを惜しんだが、本が好きでいろいろ読んでいるとこの人のように、

 

 「あ、こりゃ、すごい人が出てきたぞ!」

 

 胸を躍らせる出会いというのがあって、それが大きな楽しみだったりする。

 私自身の経験で言えば、前回も話題に出した森見登美彦をはじめ、他にもグレゴリ青山米澤穂信高野秀行中島京子小川一水などなど、最初に読んだ本の10ページ目くらいで、

 

 「すごいな。この人、もう絶対に売れはるやん!」

 

 そう確信させるほどの作家というのはいるもので、そういった人が実際にブレイクしたりすると、

 

 「まあな、あの○○も今はがんばってるみたいやけど、オレが育てたようなもんや」

 

 なんて、もう尻馬に乗って鼻高々なのである。

 そういった「才能とのファーストコンタクト」のひとりに、将棋のプロ棋士である先崎学九段がいる。

 先チャンといえば、『週刊文春』のエッセイや『駒落ちのはなし』『先ちゃんの順位戦泣き笑い熱局集』のような棋書のみならず、『小博打のススメ』のような本業以外の本まで出すなど、その文才は知られているが、やはり衝撃という意味ではデビュー作の「一葉の写真」にとどめを刺す。

 1990年、まだ五段時代に先チャンはNHK杯戦優勝をおさめる。

 その際、今はなき『将棋マガジン』にかなり長めのエッセイが載せられたのだが、これが衝撃だった。

 


 忘れもしない。5年前の『将棋マガジン』に一葉の写真が載った。羽生善治新四段と先崎学初段が並んで立っているだけの小さな写真だった。写真には副題がついていた。

 <左は元天才?の先崎初段>

 クエスチョンマークがなければ、僕は将棋をやめていただろう。


 

 という出だしからはじまるこの文章は、先に四段になりどんどん階段を上がっていた羽生善治と自分の比較から、奨励会時代のフーテン生活。

 そこから覚醒への道を作ってくれた室岡克彦七段の言葉や、森雞二九段へのあこがれなどが、若者らしい荒々しくも瑞々しい文体で語られるのだ。
 
 これがねえ、もう読みながらが抜けそうになったもんですよ。

 

 「嗚呼、文章を書く才能があるって、こういう人のことなんだ」

 

 いや、私は評論家ではないから、どこかどうとか具合的には言えないけど、とにかくそう受け取るしかなかった。

 今見ると、かなり粗削りな部分も多いけど(句読点の打ち方とか)、それでも「モノが違う」というオーラが感じられた。

 よくスポーツの世界とかで、

 

 「ものの数分で格の違いを感じさせた」

 

 なんて言われる人がいますが、先チャンの文章もまさにそんな感じだった。

 事実、これは私のような素人だけでなく、ミステリ評論家の茶木則雄さんなんかも目をつけていたそうだが、団鬼六先生のようなプロも感心し、すぐさま自身の主催していた『将棋ジャーナル』に原稿を依頼したくらい。

 初めて書いたに等しい文章でこの評価。天は二物を与えずとか、大ウソでっせホンマに。

 昨今ではブログnoteなんかで「文章が上手い」と言われる人もいるけど、ちょっと先チャンのポテンシャルはそれとは違うというか。

 それこそ将棋で言えば「クラスで一番強い」とか「町の道場で上の方」みたいな、強いことは強いけど

 

 「奨励会行くんだよね? 師匠とか、もう決まってるの?」

 

 とか言われてるレベルの子とは、明らかに「なにか」が違う感じというか。

 「ダンスのうまい人」と「ダンサーになれる人」のちがい。

 「準急」は各駅停車より早いけど、新幹線とは天地の差と言うか、うまく言えないけど、とにかく圧倒されたのだ。

 世の中にはスゲー人がおるもんや、と。

 その後、先チャンは本業でもA級八段になり、また文筆のほうでも活躍。

 将棋と普及の両方で大きな貢献するのだが、個人的には明らかに技術力が上がった文春エッセイなどもいいが、やはり「才能のきらめき」という点では「一葉の写真」や同じく青春期的内容の「イエスタディワンスモアをもう一度」こそが、もっとも発揮されている気がするので、これを機会に読み返してみようかな。

 


(先崎学九段の書いた闘病記『うつ病九段』についてはこちらから)

 

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杉元伶一に再評価を! 『就職戦線異状なし』『君のベッドで見る夢は』『スリープ・ウォーカー』

2023年12月04日 | 

 杉元伶一はもっと評価されていい。

 というのは、10代のころからずーっと思っていたことである。

 1987年に『東京不動産キッズ』で、第49回小説現代新人賞を受賞しデビュー。

 その後も金子修介監督により映画化された『就職戦線異状なし』(おもしろいけど、杉元さん本人は出来には不満)。

 『ホットドッグプレス』に連載され大人気だったアルバイト体験記『フリータークロニック』など、特に私と同世代くらいの本好きには、かなり知られた作家だった。

 バブル期に青春を過ごしたノリをベースに、そのシニカルでテンポの良い文体はリーダビリティが高いが、かといって軽薄というわけではなく、南米文学を好むなど随所に教養の高さを感じられるところもあって、うるさがたの読書子からも評価高い

 そらなんといっても、小説現代新人賞だ。歴代の受賞者を見ても、五木寛之といった大御所から、志茂田景樹といった有名人。

 さらには、読んだことある範囲でも『死の泉』『総統の子ら』『双頭のバビロン』など数え切れずの皆川博子とか『宇宙のウィンブルドン』の川上健一とか、『症状A』『離愁』の多島斗志之とか。

 『始祖鳥記』の飯嶋和一とか、『カレーライフ』『文化祭オクロック』の竹内真とか、他にも金城一紀とか朝倉かすみなど、まさに綺羅星のごとき人材が集まるすごいところなのだから。

 そんなことも知らなかった私は、『フリーター・クロニック』の文庫版をたまたま買ったところから

 

 「すごい新人が出たな」

 

 と感嘆し、続いて水玉螢之丞さんとの共著『ナウなヤング』でもう一発パンチをもらって、そこからすっかりファンになってしまった。

 私はある本を読んで気に入ると、その作家のまとめ読みをするという癖があり、子供のころの江戸川乱歩からはじまって、最近ならローガンとかドンウィンズロウとかヘレンマクロイとか一気読みしたけど、このときは困ってしまった記憶があった。

 杉元さんの本、あんまし出てないやん、と。

 まずデビュー作の『東京不動産キッズ』が読めない。

 小説現代新人賞受賞作は当然『小説現代』に掲載されるわけだが、そんなことは知識になかったし、今のようにネットで簡単に買うという時代でもなかった。

 他の本も全然ないというか、そもそもそれ以外が『君のベッドで見る夢は』『スリープウォーカー』という長編小説が2本しか出版されてなかったのだから、物足りなすぎるし、おまけにこの2冊も探すのにすごく苦労したのだ。

 なんでこんなに、著作が少ないのか。

 コミュ力が高くモテ男(杉元氏はとんでもない女好きなのである)なうえに、本人が認めるところの

 


 「行動力と順応性の高さ」


 

 という多才さゆえ、他でもっと力を発揮できる仕事を見つけてしまったか。

 それともスランプにおちいったか干されたか、それとも家庭の事情か油田でも掘り当ててバミューダにでも移住したか。

 その理由は知るよしもないが、ともかくも、この事実にはなんてもったいないと、天を仰ぎたくなるほど。

 そう思うのはだれしも同じなようで、「杉元怜一」で検索すると、とにかく

 

 「こんな才能ある人が書かなくなるとは、なんてもったいない!」

 

 という嘆き節がそこかしこに聞かれる。

 それなー、ホンマやねんなー。

 そんなガッカリ感もあって、杉元本とは長い長いブランクがあったのだが、数年前アマゾンのセールだったかでkindleの『フリーター・クロニック』を買って読み直したら、これがやっぱりおもしろい。

 ということで『就職戦線』『君のベッドで』『スリープ・ウォーカー』も買い直してみたら、昔と変わらず一気読みしてしまい、あらためてその実力を再確認したのであった。

 個人的には杉元本とのファーストコンタクトは森見登美彦太陽の塔』を初めて読んだときの衝撃と同レベルのもの。

 文才という点では、このクラスの作家にも負けてないと思うし、今からでもまたなにか書いてくれないものだろうか。

 

 

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「『ブレードランナー』はパクリ」問題と「もっと古典に触れるべきか」について その2

2023年07月26日 | 

 「若者は今の作品だけでなく、もっと古典にも親しんだ方がいい」

 

 というのは読書や映画など芸術鑑賞の際に、よくアドバイスされることである。

 そこで前回は「本当に古典を読んだり見たりするべきか」について語ったが、今回もそんなお話。

 

 これに関しては私も、ミステリならホームズからクリスティーコーネルウールリッチクレイグライス

 SFならハインラインフレドリックブラウンレイブラッドベリ

 映画ならビリーワイルダールイマルアルフレッドヒッチコック

 などなど、古典と呼ばれる古い作品も大好きだが、「タイパ」なんて言葉がはやるように昨今はコンテンツの数が多すぎて、とてもそんな時間など取れないのもわかるところだ。

 こうなると「優雅に古典」なんて夢のまた夢で、こうして書きながらもはなんで、あんなにたくさん本読んだり映画見たりできたんだろうと、ちょっと不思議な気分になったり。

 これに対しては、

 

 「それはわかるけど、オレはやっぱ《過去の名作》のすばらしさを若い子にもわかってほしい!」

 

 という意見もあろうし、まあ、それは私も本質的にはそうなんだけど、そこはねえ、そんなに気にしなくていいんじゃないかなあ。

 というのは、本当にその作品やジャンルが好きになったら、絶対に「古典をたどる」ようになるから。

 世のどんな「新しいもの」も、いきなりポッとから有へと生まれるわけではない。

 かならず、なにかからの「影響」を受けているものなのだ。

 となれば、これは中島らもさんも言ってたけど、人はその「好き」を探求したいため、どうしてもその「影響」を探っていかざるを得ない

 そうして時代をさかのぼっていくと、結局行きつく先は「古典」であるし、そこでようやく心から納得することができるのだ。

 

 「はー、すべてのはじまりは、ここやったんやなあ」

 

 よく言うではないか。クリエイターになりたかったら、好きな人の作品だけでなく、


 
 「その人が好きだった作品を、さかのぼって観賞してみなさい」

 

 かくいう私も、ミッシェルガンエレファントをバリバリ聴いていたときはドクターフィールグッドを聴いたり、筋肉少女帯の影響から町田町蔵に手を伸ばしたり。

 ビリーワイルダーから、エルンストルビッチプレストンスタージェスを観たり。

 さっきの中島らもから、東海林さだおボードレールを手に取った。

 今でも『名探偵コナン』の女性ファンが『機動戦士ガンダム』をせっせと勉強したりとか、そういうこともあるんである。

 また、私が受験生だったころは、

 

 「歴史を理解するためには「因果関係」が重要だから、学校の授業では『現代史』からはじめて、過去へとさかのぼって教えるべきではないか」

 

 なんて意見もあって、おもしろいなあと思ったものだけど、これだって発想は同じだ。

 「」を理解するためには、絶対に「過去」を知らなければならない。

 だから「古典もいいよ」派は、別にわざわざそこをアピールしなくても、

 

 「フッフッフ、キミらは今、若いからわからんかもしれんけど、その道を歩いている限り、この場所にくることは避けられへんのやで」

 

 余裕ぶっこいていればいいのだ。

 そうして私のように

 

 「今さらやけど、クイーンとかカーとかチェスタートン、いいっスね!」

 

 という「元若者」がやってきたとき、

 

 「やろー?」

 

 したり顔をしながらニコニコと受け入れてあげればいい。

 古典も新作も、両方好きなコウモリ派の私はそう思うのですね。

 

 

 

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「『ブレードランナー』はパクリ」問題と「もっと古典に触れるべきか」について

2023年07月24日 | 

 「古典ミステリはおもしろい」

 ということで、前回チェスタートンブラウン神父の知恵』を楽しんだ話をしたが、こういうことがあると、いつも思うのは、

 

 「《古典》って、別に無理して読まなくてもいいよなあ」

 

 といってもこれは、

 「古典なんて古くてつまんねーんだよベロベロバーカ」

 ということではなく、時期の問題。

 私はでも映画でも、若いころからわりと古い作品も楽しんでいたので、人生の先輩たちからの

 

 「どんなジャンルでも、今のだけじゃなく過去の名作にも接した方がいいよ」

 

 というアドバイスにそれほど抵抗はないが、接してるからこそ

 

 「古い」

 「読みにくい」

 「そこまで時間が回らない」

 

 というヤング諸君の声も理解できる。

 そのコウモリ的立場からすると、「古典」自体に興味があるならいいけど、無理してまで観たり読んだりしなくていいと思うのは、この理由があるから。

 

 「本当に普遍性のある古典は、の作品にも息づいている」

 

 映画ファンの「あるある」で、若い子と『ブレードランナー』を見たら、

 

 「あの映画って、今やってる○○とか▲▲とかのパクリですよね。ヤバいッスよ」

 

 なんて言われて、

 

 「ちがうねん! その○○とか▲▲がパクッてんねん! 『ブレードランナー』はそのすべての大元ネタなの! みーんなが影響を受けてる偉大な作品なんやで!」

 

 憤慨するというのがあるが、これが結構本質的な話。

 先輩映画ファンは、こういう目にあうと、

 

 「今の子は『ブレードランナー』も観てない。もっと名作も観て教養を深めてほしい」

 

 となるわけだが、考えてみればその「観てない後輩」は実はすでに『ブレードランナー』を鑑賞しているともいえるのだ。

 彼ら彼女らが、「これ、見たことあるぞ」となるのは、そこ。

 そう、たしかにその後輩は『ブレードランナー』自体は観てないかもしれない。

 けど、明らかにそこから影響を受けた、感動して人生を変えられた、大人になったら『ブレードランナー』を作るぞと決意した、そういう今の作品を山ほど観ている。

 つまりは直接の接点はないが、長い歴史的観点から見れば、その先輩と後輩は「同じ道」を歩いていることに、なるのであるまいか。

 すぐれた古典というのは、かならず大量のフォロワーを生み出す。

 そして、技術は高まり、改善点はされ修正され、さらには「の問題」も取り入れることによって、様々に進化していく。

 そら、そういうのに接していれば「古典」はどうしても「古い」と感じてしまうわけだ。

 でも、それでいいんである。

 われわれは今でも常に、

 

 「最新の状態にブラッシュアップした古典」

 

 これを鑑賞しているのだ。

 『ブレードランナー』だけでない。シェイクスピアも、エドガーアランポーも、オーソンウェルズも。

 升田大山の名局も、『機動戦士ガンダム』もビートルズもみんなそう。

 だから私は、「古典」の楽しさを知っている立場だけど、ヤング諸君にはこう言うのだ。

 

 「古典もいいけど、最近のおもしろいヤツ楽しんでよ」

 

 それで「古典」のエッセンスは充分学べるし、われわれ「古典派」も彼ら彼女らと接することで新しいものを知ることができる。

 これでウィンウィンじゃないかなあと、思うわけなのだ。

 

 (続く

 

 

 

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古典ミステリを読もう! G・K・チェスタートン『ブラウン神父の知恵』 

2023年07月18日 | 

 チェスタートンブラウン神父の知恵』を読む。

 私は子供のころからのミスヲタであるが、けっこう未読の名作というのがある。

 江戸川乱歩の『少年探偵団』から入って、

 

 大人向け乱歩→シャーロックホームズアガサクリスティー乱読バリバリ

 

 という正統派な読者だったが、そこから先の王道であるエラリークイーンジョンディクスンカーヴァンダイン、それにチェスタートンはあまり読んでないのだ。

 クイーンに関しては、あかね書房の「少年少女世界推理文学全集」で『エジプト十字架の秘密』と『十四のピストルのなぞ』(『靴に住む老婆』)。

 大人になって、その後両方とも全訳版もチェックしたけど、あとは『フランス白粉の秘密』と『十日間の不思議』だけ。

 カーは『火刑法廷』がメチャクチャにおもしろかったが、基本的にが読みにくかったのと、オカルト趣味に偏見があってそれ以上は手を伸ばさず。

 チェスタートンは短編をアンソロジーで読んで、文章が回りくどくて読みにくいし、トリックも今見ると古くて、そこで止まってしまった。

 というかそもそも、ヴァンダインとチェスタートンはあのころ手に入りにくかったのだ。

 そんな偏りがあった理由は、そのころの自分が「ロジック」「トリック」というものに重点を置いておらず、どちらかといえばエンタメ性や文学性を重視していたから。

 それはクリスティーのあとハマったのが、コーネルウールリッチクレイグライスロアルドダールヘンリイスレッサー

 といった面々であることからわかるように、論理より物語性

 つまりは「推理小説」の「推理」より「小説」部分を重んじていたわけで、雰囲気とかキャラクターとかオチの切れ味とか、そういったほうを楽しむタイプの読者だったのだ。

 まあ、ホームズも実はあんまり論理ないしね。

 なので、ミスヲタを自認しながら意外と定番を押さえてなかったりもするんですが、ちょっと潮目が変わったのが、少し前に新訳された『オランダ靴の秘密』を読んでから。

 創元推理文庫の新訳版を、たまたま古本屋で見つけたので買ってみたら、これがおもしろいんでやんの。

 新訳のおかげか、ストレスなく解決編まで行きつけて(ミステリは最後がキモなのに、訳が悪いとそこまで行きつけない)、そこでのエラリーによるあざやかな推理には大感激

 おお、なんて論理的な!

 あまりにきれいに様々な要素が結びつくため、その美しさはまるで体操競技のメダリストの演技のような、「アスリートの美」を感じさせた。

 これには心底「まいりました」と言わざるを得なかった。

 そっかー、これかー、北村薫先生や有栖川有栖さんが、しつこいくらいくりかえす「論理の美しさ」。

 若いころはピンとこなかったが、大人になって成長したのか味覚が変わったのか「本格推理」のおもしろさに目覚めてしまった。

 ということで、そこから『災厄の街』に飛んで、今ならいけるかとカーも『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』『夜歩く』を読んでみた。

 どれもおもしろく、続いて『ブラウン神父の知恵』に進んだらこれも大アタリ。

 開口一番の「グラス氏の失踪」がねえ、最高。

 名探偵風な男が、流れるように推理を披露するところあたりから、「くるぞくるぞ」と期待が高まるが、オチのバカバカしいどんでん返しで「やっぱり」とニヤリ

 他の作品も切れ味スルドク、またオチにシニカルな風味もあって、こりゃおもしろいやとサクサク読む。

 古典特有の大仰さや回りくどさも、それはそれでである。

 

 

 

古典ミステリの王道中の王道『ブラウン神父』。

ドラマ版も超おもしろいので、活字が苦手な方はこちらもオススメ。

さすが本場BBCのミステリドラマはハズレがない。アマゾンプライムなどで見られます。

 

 

 最近はこういう古典も電子書籍で簡単に買えるけど、子供のころは近所の本屋にポケミスとか売ってなくてねえ。

 なもんで、わざわざ梅田まで出ないといけないから、そもそも手に入れるのが大変だったのだ。

 その意味でも、今こういう作品を気軽に読める環境はありがたいことこの上ない。

 次はアントニーバークリーとか読もうかなあ。

 

「古典は読むべきか」問題に続く)

 

 

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「フリードリヒ」と思いきや「フェデリーコ」 藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』

2023年03月09日 | 
 藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』を再読する。

 中公新書の『物語 ○○の歴史』シリーズはよくお世話になっていて、学生時代とか気になる地域があると手に取ったもの。

 ざっと思い出してみると、猿谷要先生の『アメリカ』。阿部謹也先生の『ドイツ』。
 
 あと『北欧』『アイルランド』『ラテンアメリカ』『スペイン(「人物編」も)』『ウクライナ』『近現代ギリシャ』といったところ。

 思い入れとしては、ドイツ文学科出身で『ハーメルンの笛吹き男』などでもお世話になった自分なら、阿部先生の『ドイツ』を推したいところだが、ちょっと記述が教科書チックで単調な気もしないでもない。

 『アメリカ』のリーダビリティはさすがだし、『近現代ギリシャ』もわかりやすくて勉強になりオススメだが、やはりタイトル通りの『物語』での出来では、藤沢道郎先生の『イタリア』がダントツではなかろうか。

 藤沢先生の『イタリア』はとにかく文章がメチャクチャにうまい。

 「文章がうまい」の定義というのは難しいけど、


 「リズムテンポに優れて読みやすく、それでいてライトに堕さず格調高い
 

 くらいに取るなら、これはもう『イタリア』の独壇場と言っていいくらいにお上手なのだ。

 「聖者フランチェスコ」「ボッカチオ」「ミケランジェロ」「ベルディ」など、人物別に分かれていて、一遍が程よい長さで読み進めやすいのもポイント。

 流麗な文章に導かれてサクサク読んでいるうちに、いつのまにかイタリアの文化や歴史に親しんでいる。もう、とんでもないスグレ本なのである。

 なんといっても素晴らしいのが、これがちゃんとタイトル通り「物語」になっていること。

 この「物語」シリーズはどこかのレビューで「当たりハズレ」があると書いてあったけど、それはおそらく中身がというよりも「物語」としての出来が問題なのではあるまいか。

 阿部先生の『ドイツ』がそうなんだけど、やはりちょっと教科書みたいな感じになってしまうことがあるというか、特に専門外の時代になると(たとえば阿部先生の場合は「中世ヨーロッパ」以外)、ますますそういう感じになって、バランスを欠いてしまいがち。

 その点、『イタリア』は取り上げる時代や一編の長さから、あつかう文体まですべてが実にうまくまとまっている。

 ホント小説のようというか、シュテファンツヴァイクみたいなノリで、なんというのか「物語の完成度」が高いのだ。

 だから、このレベルとくらべると、どうしても「当たりハズレ」といいたくなる人も出てくるだろう。

 似たような件に、『○○ 旅の雑学ノート』シリーズというのがあって、探せば色んな地域が出てるんだけど、本屋では「香港」「パリ」「ロンドン」しか見かけない。

 これには旅行ライターの前川健一さんが、


 「このシリーズは最初の【香港】を書いた山口文憲と、【パリ】【ロンドン】を受け持った玉村豊男の2人がいい仕事をしすぎて、それ以降は書き手がこの水準についていけなかった」


 と、おっしゃっていたが、「当たりハズレ」レビューの人も、やはり『イタリア』あたりを基準点としていたのかもしれない。
 
 じゃあ、少々のものでは「ハズレ」になっちゃいますわな。

 とにかく、イタリアの歴史や「物語シリーズ」に興味がわけば、まずはこれを手に取るのが一番。

 あとは、塩野七生さん、須賀敦子さんや、藤沢先生が翻訳を担当されているモンタネッリの『ローマの歴史』『ルネサンスの歴史 黄金期のイタリア』(ロベルトジェルヴァーゾとの共著)とか、ガリガリ読んでいけばいいと思います。激オススメ。

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ウィザードリィ小説の傑作! ベニー松山『隣り合わせの灰と青春』

2023年02月22日 | 

 ベニー松山『隣り合わせの灰と青春』を久方ぶりに再読した。

 もうずいぶん昔の話だが、1990年代に日本で空前のファンタジーブームが起きたことがあった。

 ……て、まあ話の流れ的に完全に、前回までの米長と羽生の名人戦からの連想で、当時の思い出を掘り起こしているうちに将棋以外のアレコレも浮かんできたりしたわけだ。

 といっても、これが『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』といったコンピューターゲームではなく、テーブルトークRPGがきっかけ。

 『ダンジョンズ&ドラゴンズ』から端を発した『ロードス島戦記』や、カードゲーム『モンスターメイカー』の大ブレイクをはじめ、『(ハイパー)トンネルズ&トロールズ』に『ソードワールドRPG』に『AD&D』に『ドラゴンランス戦記』。

 グループSNE冒険企画局翔企画ORGといった面々が各所で活躍していた時期で、『ドラゴンマガジン』『ウォーロック』『オフィシャルD&Dマガジン』なんて聞くと、「あったなー」となつかしがる声が、同世代から聞こえてくるのではあるまいか。

 そんな時代だったので、「ファンタジーRPGを題材にした小説」の黎明期でもあり、よく売れたようで、この『隣り合わせの灰と青春』もその流れにある作品のひとつなのだろう。

 元は雑誌『ファミコン必勝本』に連載されていたもので、こちらはテーブルトークではなくコンピューターゲームの大名作『ウィザードリィ』を取り上げたもの(というか『ウィザードリィ』自体『D&D』が元ネタなんだけどネ)。

 中学生だか高校生だかのときに読んで夢中になった記憶があるので、電子化された際に真っ先に買って読み直したが、これが今でも充分におもしろくて感心してしまった。

 再読してうなったのは、まず文章のうまさ。

 内容的には正統派でハードな英雄戦記なので、それっぽいカッコよさげな文体だが、やりすぎていないというバランスがいいし、サクサク読めるところもグッド

 この手の小説は、下手なスポーツライターがカッコよさげな文章を書くと「沢木耕太郎の劣化版」みたいになってしまうように、とても「クサイ」ものになりがちだが、この小説はそんなことなくて好感が持てる。

 それと、なんといっても魅力的なのは、子供のころも大好きだった「のパーティ」の存在。

 主人公スカルダのパーティは、クールなガディや気さくでいいヤツのジャバなど、いかにも「善」というか優等生な感じで、正直あんまし印象に残ってないんだけど、そこにはないアクというかのようなものが彼らにはあるのだ。

 まず、ホビットの忍者キム

 「手裏剣」強奪のため、忍者をねらって殺すという命知らず。

 当然、クリティカルヒットを食らって何度も即死するが、そのたびに強靭な生命力でカント寺院からよみがえってくるという、恐ろしすぎるバケモノ。

 もうアヤシイ空気が出まくりで、これぞ悪の華! 「ハ・キム」という、正体不明で無国籍なネーミングのセンスもバツグン。

 さらにはドワーフは歯が命の、笑顔がコワイ戦士ゴグレグに、冷徹でかけ引き上手な「策士」アルハイム

 ヒソヒソ話をしながら、そのスキにいつの間にか攻撃呪文を放りこんでくるという、ヤバすぎる双子の魔法使いサンドラルードラなどなど、もうキャラ立ちまくりの面々なのである。

 こんなん見せられたら正直、

 

 「スカルダとかみたいな、いい子ちゃんもういいよ。それより『隣り合わせ外伝 ハ・キムの冒険』を書いてよ、ベニ松っちゃん!」

 

 とか言いたくなるわけなのだ。

 若いころ接した作品は「思い出補正」がかかって、今見ると「あれ?」ということもなくもないが、この『隣り合わせ』はまったくそれがなかった。

 まあ、後半が展開早すぎというか、詰めこみすぎというか、なんだかバタバタしている印象だし、ワードナトレボーの部屋に侵入できたトリックも、子供のころは感心した記憶があるけど、今、冷静に見るとかなりマヌケだよなあ。

 なんて言いたいこともあるけど、その程度のことはぶっ飛ばすくらいのおもしろさ。ウィザードリィをプレーしてなくても楽しめるところも、読者としてはありがたいだろう。

 うーん、こうなるともっと、当時楽しんだこの手の本を読み直してみたくなっちゃうなあ。 

 ソードワールドの短編は電子化してるし、神月摩由璃『SF&ファンタジー・ガイド 摩由璃の本棚』が電書で復刊したのは感動だったけど、『聖エルザクルセイダーズ』とかもならないかしらん。

 あと、小野不由美十二国記』が未読なんで、これも電子化してくれると、うれしいです、ハイ。

 

 

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男だって、樹村みのりが読みたいぞ! 『ローマのモザイク』『星に住む人々』

2023年02月05日 | 

 樹村みのり『星に住む人々』を読む。

 少女マンガに特にくわしいというわけではないが、高校生のころクラスの女の子に借りて、結構ハマって読んだ時期もあった。

 そのとき彼女らが教えてくれた、

 


 大島弓子『バナナブレッドのプディング』

 萩尾望都『ポーの一族』

 美内すずえ『ガラスの仮面』

 大和和紀『はいからさんが通る』

 川原泉『笑う大天使』

 竹宮惠子『地球へ…』


 

 などの作品は、ただおもしろいだけでなく、今までなじんでいた少年マンガとはまた違う表現手法文法で描かれていたところが、すこぶる興味深い。

 世の中にはまだまだ、自分の知らない世界が広がっているもんなんだなあと蒙が開かれる思いだった。

 なので自分は、男の中ではわりと女性向け(という括りももう古いんだろうけど)に書かれたマンガも好む方。

 今でも衿沢世衣子さんとかこうの史代さんとか大好きだけど、この『星に住む人々』も、そのうちのひとつ。

 樹村みのりさんを知ったのは、バックパッカー専門誌『旅行人』であった。

 その号の特集が「旅のマンガ」であり、編集長である蔵前仁一さんが『星に住む人々』に収録された「ローマのモザイク」を紹介。

 

 

『旅行人』で紹介されていた『ローマのモザイク』の一コマ。

 

 蔵前編集長は子供のころからの樹村みのりファンで、大学生のときにもらったファンレターの返事を「宝物」というほどの「ミノリスト」。

 その取り上げ方も力が入っていて、それ以来、気になっていたのだ。

 

 

「クラマエくん」がもらったファンレターの返事。こんなん来たら感激ですわな。

 

 ただ当時は古本屋でもなかなか見つからなかったので(そのころは絶版になっていたらしい)、しばらく忘れていたのだが、最近電子書籍で復刊。

 読んでみたら、これがすばらしい作品ばかりでガッツポーズ。

 

 早春」「姉さん」「水の町」「わたしたちの始まり」「星に住む人々

 

 どれも詩的でありながら、ヒロインのの強さとあふれくる自立心など力強さも感じられる。

 それが思春期ゆえのプライド危うさと重なり合って、その「の強い繊細さ」とでもいうようなアンバランスさに目が離せない。

 今回、久しぶりにこういった少女マンガを中心とする、女性向けに書かれたマンガを読んでいて、あらためて感じたのが、その多重性の魔力。

 基本的に、私のような男子が親しむ「少年マンガ」は善悪の構造がハッキリし、登場人物の思想や行動は一貫性を持っているもの。

 物語にも「正義は勝つ」的カタルシスがあるのがふつうである(もちろん例外も多々だが)。

 だが、「少女マンガなど」には、そうでない面も、わりかし散見される。

 いや、もちろん「少女マンガなど」にも善悪やカタルシスはあるわけだけど、その部分がもうちょっと掘ってあるというか、なにやら


 「一筋縄ではいかない」


 という感じがあるのだ。

 たとえば、「早春」で主人公が友人と絶交する理由や、「姉さん」でがぶつかり合ってしまう原因など、最後まで読んでもハッキリと説明はされていない。

 そりゃ、ストーリーだけ追えば、どちらも一応「言葉で説明」はできなくもない。

 

 「できる友人にコンプレックスを持ってしまったから」

 「姿を見せない父親の姿が見えない影響をもって」


 とか、読書感想文レベルの答えなら提示はできる。
 
 しかし、樹村作品をはじめ「少女マンガなど」はときにそういう、安易な回答をゆるしてくれない。読みながらどうにも、


 「いや、そんなんだけじゃ、ねえよな」


 そう頭をかきながら苦笑いしたくなるような、そこはかとない「深み」を見せてくるのだ。

 なにかこう、それこそ思春期のトガッた女の子に、

 

 「その程度で、《わかった》とか思うなよ」

 

 そうじっと見つめられるような、問いかけられているような、そういう感覚をおぼえる。

 といっても、それは決して不快というわけではなく、そのザワザワ感こそが坂口安吾が「文学のふるさと」と称したような魅力でもある。

 「早春」の主人公はなぜ友人と絶交したのか。

 それはなにかハッキリした理由があったのかもしれないし、テクストの裏になにかもっと深いものがあるのかもしれない。

 思春期の女子の感情などそもそも「説明」「解釈」など不可能なのかもしれないし、もしかしたら二人には百合ではないが女性同士の「超友情」とでもいうような親密感があったのだろうか。

 その「わからない」の正体も、私がスカタンなだけかもしれなければ、「だから」かもしれない。

 もしかしたら男でも「乙女回路」を搭載している男子なら(これは結構いるもんです)、

 

 「え? これが理解でけへんって、マジ?」

 

 と、おどろいてしまうのかもしれない。そういった

 

 「わからなさ」

 「わかった気がするけど、それだけじゃないかもしれない感」

 「そこをつかめれば、もっとこの作品にどっぷりと淫することができるかもしれないのに、というもどかしさ期待感

 

 こういった、魂の敏感な部分をくすぐられるような、こそばゆさと、かすかな痛み

 そういったものを、樹村作品ではあますところなく味わうことができる。

 私は「女になりたい願望」というのを持ったことがないタイプの男子だが、こういうマンガを読むときだけは「2時間限定」とかで女子になってみたいと思うなあ。

 

 

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