島本和彦原作 ドラマ『アオイホノオ』に大いにハマる その3

2014年09月30日 | オタク・サブカル

 前回(→こちら)に続いて『アオイホノオ』の話。

 私がこのドラマにハマッたのは、「表現したい願望ほとばしるボンクラ男子」に感情移入してしまうからだが、もうひとつおまけの要素として、舞台となる場所がある。

 そう、大阪芸術大学。

 私は芸大生ではないが、高校時代の先輩や友人が、マンガ家になりたくて美術を学びにとか、ラジオの仕事がしたくて放送学科にとか、演劇部から女の子がとか、まあまあな数、ここに通っていたのである。

 その流れもあって、あの富田林のド田舎にある大阪芸大にはよく遊びに行ったもの。

 キャンパスに忍者が飛び跳ねていたり、眉村卓がそこらを歩いていたり、着流しの学生がいて「アレだれ?」と聞いたら、「ああ、文豪や」と返ってきて、それ以上なんの説明もなかったり(だから「文豪」ってだれやねん!)

 もちろんゲーダイガーのショーも堪能するなど、毎回興味深い光景が見られたものだ。

 ドラマにも登場する「CAS」には友人が所属していたこともあって、部室にお邪魔したこともある。

 たしか、春の新入生勧誘の時期だったか、部室で特撮映画やドラマの爆破シーンばかりを集めたビデオがエンドレスでかかっていたのだが、そこにちょっと目をひく映像が混じっていたことがあった。

 ビルが爆発して粉々になるという、特撮ではよくあるシーンだが、それがゴジラやウルトラマンしてはややチープだが、素人にしてはずいぶんと出来が良いといったレベルのものだった。

 はて、これはどの作品に出てきたシーンだろうか。まさか学生が作ったわけではあるまいと、一緒にいた友人の芸大生サヤマ君に問うならば、その答えは、

 「これ作ったん、芸大の先輩なんやで」

 たいそう誇らしげである。

 ふーん、学生レベルでこんなんできるなんて、さすが芸大やなあと深く感心したものだったが、なんのことはない。

 それは庵野秀明、赤井孝美といった、ドラマの登場人物たち、のちにガイナックスの主流メンバーとなる面々が制作した『帰ってきたウルトラマン』だったのである。

 「庵野秀明の仕事や。すごいやろ!」

 そう友は自慢したが、私はピンと来なかったのをおぼえている。

 特撮は好きだがアニメにうとかったので、『マクロス』や『トップをねらえ!』の名前を出されても、さほどの感慨がなかったのだ。

 この件については、「キミ、アホか! ガイナックスを知らんのかいな!」と、サヤマ君にずいぶん説経されたけど、あのときは、ナディアもまだ見てなかったし、かろうじてゲーム好きの友人が遊んでいた『プリンセスメーカー』くらいしか知識がなかったのだ。

 後に「あー、あのときの!」と膝を打つのは、さらに何年も経って『新世紀エヴァンゲリオン』を見てからだった。

 ちなみに、エヴァを教えてくれたのもサヤマ君だったが、そらあんなアニメを作る人は若いころから才能見せよりますわ。まさに栴檀は双葉より芳しとはこのことであろう。

 ちなみに、このとき見た『愛國戦隊大日本』などは、『流星人間ゾーン』や『怪傑ズバット』『ウルトラファイト』などと並んで、友人との「おもしろビデオ上映会」では鉄板のネタとなったものだ。

 調子にのって、「好きな子ができたから、恋の橋渡しをしてくれ」という友人ハビキノ君に、

 「よっしゃ、じゃあビデオ上映合コンやって仲良くなったらええやんけ」

 上記の作品に加えて『超人バロム1』『プロレスの星アステカイザー』『幻の湖』などと共に流して女の子たちをドン引きさせてしまったこともあったが。

 当然のごとくハビキノ君はフラれ、

 「オマエは人間やない!」

 涙目で胸ぐらをつかまれたことも、今となっては私だけ良い思い出である。



  ■おまけ DAICON FILM「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』は→こちら




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島本和彦原作 ドラマ『アオイホノオ』に大いにハマる その2

2014年09月28日 | オタク・サブカル

 前回(→こちら)に続いて『アオイホノオ』鑑賞記。

 私がこのドラマにハマッたのは、「表現したい願望ほとばしるボンクラ男子」に感情移入してしまうからだが、もちろん内容もおもしろい。

 監督をはじめ制作者側が本気で作っている。そのことが伝わってくるのがいいではないか。

 日本のトレンディなドラマの大半が、スターだけ出てきて中身は(特に脚本と演技が)ヘッポコピーなものが多いのだが、ことこのドラマに関しては、なにかもうカメラの向こうから

 「全力で《今まだ何者でもない若者》を悶絶させてやろう」

 という心意気がひしひしと感じられる。

 私も劇中の岡田さんや庵野さんの奇行、島本節としかいいようのない屁理……もとい熱い名セリフをゲラゲラ笑いながらも、第10話『見えてきた光』のSF大会のシーンで、思わず泣きそうになってしまった。

 そう、庵野ヒデアキが叫ぶ、

 「僕は笑いを取ろうとしたんじゃない。感動させようとして、これを作ったんだ!」

 を地で行くシーンがあるのだ。

 会場で自信作のオープニング・アニメを流す岡田トシオや庵野ヒデアキたち。ところが、どういった手違いか映像ははじまったのに音が出ていない!

 「なんでや!」「全部台無しになってまう!」と大パニックにおちいる岡田さんや武田さんたちだが、なんとアニメの方は音が無くても観客に大うけ。

 「おお!」「アカン、涙出そうや」「武田君、泣いたら負けやで」などと、一転歓喜につつまれるスタッフ一同。

 そこでアニメの中の女の子を描いていた赤井タカミ君が、緞帳をつかみながら茫然と、こうつぶやくのだ。


 「これが……ウケるということか……」。


 このシーンを見たとき、私は思わずテレビを指さし、近所迷惑だから声には出せないけど心の中で叫んでしまった。


 「そう! それや、それなんやー!」


 この「自分が創ったなにかが、だれかに大ウケする」。これこそが「表現」することの最大最高のよろこび。

 野球選手がホームランを打ったグリップの感触を忘れないように、碁打ちや将棋指しが絶妙手の感覚を指で覚えているように、スナイパーがターゲットの頭をぶち抜くあの瞬間のように。

 この「ウケる」快感は一度味わったら、もう二度と忘れることはできない。

 私がそれを知ったのは高校1年生、15歳の新人発表会。

 あのとき、1年生代表でただひとり選抜され舞台に上がった私は、「ここは聞くところ」という仕草をすると観客が耳をそばだて、「ここで共感して」というところで「うんうん」とうなずくのを見、そしてとどめに、

 「はい、ここが笑うとこですよ」

 タクトを振り下ろすと、その一振り、一振りごとにバッカンバッカン笑いを取れたことに、すっかり酩酊してしまったものだった。

 舞台でウケる。これこそは麻薬的快感。観客をあやつる支配感。大げさではなく、

 「世界は自分の思うがまま」

 そう感じられる万能感。そして、自分のやっていることが、こんなにもダイレクトに誰かを楽しませ、幸せにしている充実感……。

 これは乞食同様、一度やったらやめられない。

 あのときの私は、きっとあのドラマの赤井君と同じ顔をしていただろう。だからすごく、彼の気持ちがわかって……胸が締めつけられるような気がして……。

 そうして、少しばかり泣けたのである。

 「これが……ウケるということか……」。
 
 島本流の熱い名セリフが点在されるこのドラマだが、もっとも私の心を射抜いたのは、赤井タカミ君のこのつぶやきだ。

 これがウケるということ。世の「表現したいさん」は皆この一瞬の酩酊感が忘れられずに、報われるアテもない作品作りに精を出すのだ。

 もう一度言うが、あのときの赤井タカミ君の目は、おそらく15歳だった私と同じものだ。

 だから私は、売れようが売れなかろうが、才能があろうが無かろうが、プロだろうがアマだろうが、バカだろうがボンクラだろうが中2病だろうが。

 一度でもあの衝撃を味わった、または味わいたいと熱望している若者を見ると、

 「アホだねえ」

 なんて笑いながらも、心揺さぶられずにはいられないのだ。



 (続く【→こちら】)

■DAICON3のオープニングアニメは→こちら


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島本和彦原作 ドラマ『アオイホノオ』に大いにハマる

2014年09月26日 | オタク・サブカル

 『アオイホノオ』が今熱い。

 関西では毎週月曜日に放送しているのだが、ここしばらくは『月曜は夜ふかし』の代わりに、こちらを録画して見ている。

 いやあ、こらおもろいですわ。

 ふだんあまりテレビドラマを見ない私が、なぜにてそんなに盛り上がっているのかと言えば、もちろんドラマ自体がおもしろいというのもあるけど、それよりもなによりも、大阪芸大を舞台に奮闘する登場人物たちに大いなる共感と郷愁を覚えるから。

 そう、なんといっても10代、20代のころは私も庵野さんや赤井さん、そして主人公であるモユル君のごとき、

 「『なにかを表現したい願望』がほとばしるボンクラ男子」

 であったからなのだ。

 私自身、読書や映画が好きで漠然と、

 「こういうものを、自分で作れたらいいだろうなあ」

 なんて夢想したりする少年であったが、それが具体性を持ったのは高校の部活からであった。

 そこで初めて舞台上でパフォーマンスをし、それがウケたときに、

 「世界には、こんな快感があるのか!」

 と開眼。庵野さんやモユル君は「アニメ」「マンガ」だったが、私も演劇や落語で舞台に立ったり、自主映画を作ってる友人を手伝ったり、ミニコミを作ったりと、(もちろんドラマの彼らとは比ぶべくもないレベルの話ですが)アクティブに活動していたのだ。

 私自身はモユル君のごとく「絶対プロになる!」という熱いタイプではなかったけど、素人とはいえそういうことをして遊んでいると、自然、周囲もそういった自意識過剰な「表現したい君」「したい子ちゃん」が集まってくることになる。

 映画監督や某アニメーション学院に通ってる声優にマンガ家、舞台女優にノンフィクション・ライターにミュージシャン、ゲームクリエイター、詰将棋作家などなどが跳梁跋扈。

 もちろん、その多くは頭に「自称」かお尻に「の卵」がつくが、プロとして活躍する人もいたし、その流れでジュニア小説家(今で言うライトノベル)、果てはポルノ作家といった、やや風変わりな仕事をしている方のお話を聞く機会もあったりしたものだ。

 ともかくも、プロアマ問わず、金にもならず才能があるかどうかもわからないのに養成所に通ったり、シコシコと原稿用紙のマス目を埋めたり、むやみに楽器をかき鳴らしたり、プログラムを組んだりといったヤカラがあとを絶たなかったのである。

 彼ら彼女らは、おそらくどこかで15歳の時の私のような、

 「嗚呼、こんな快感が世界にはあるのか!」

 という爆発があったり、映画やマンガなどを観て「こんなすごいものをオレもつくってみたい!」という感激があったり、
 
 「オレには人と違う才能がある。そこいらの平凡な連中とは違うのだ」

 という自意識があったり、その他とにかく世に出たいとか単に一発当てたい子などなど様々であろうが、そこにあるのはとにかく、

 「今、自分の中にある、このモヤモヤしたなにかを、形あるモノにして発表したい!」

 というマグマのような衝動。それにとらわれた、因果な連中といえるわけなのだ。

 なんといっても私は、世の中に「表現活動をしようと思わなくても人生が充実している人」が存在するというか、むしろそっちの方が社会的には多数派であることに気づいたのは23、4歳くらいになってからだったくらいだ。

 なんという偏った人脈、と人生大反省だが、まっとうな社会人的にはまさに「ご愁傷様」としかいいようがない人種。

 そういったある種「取り憑かれた」人とつきあって、自分もその中で遊んでいたため、こういう「文化系」の若者の物語に私はどうにも弱いのである。

 だから、ドラマの中の事件やセリフにいちいちビビッドに反応してしまい、


 「100%の出来ではないから、オレはあえて課題を出さん!」


 とか、


 「なぜ自分以上の才能を見せつけられて、お前らは拍手できるんだ。オレはオレのよりもすぐれた作品など見たくはない!」


 とか、


 「僕は笑いを取ろうとしたんじゃない。感動させようとして、これを作ったんだ!」


 とか、もう「わっかるわあ」とか「こんなヤツおったなあ」とか、頭をかかえて「アイタタタタ……」とか、もう泣き笑い。

 当時の自分や友人たちを思い出して、ことあるごとに胸を突くんだ、コレが。

 このドラマは多くのプロの作家やクリエイターに支持されているらしいが、本職ならずとも、すべての「表現したい君」や「表現したい子ちゃん」皆が、いたたまれない苦笑いに悶絶していることであろう。

 文化部所属学生やクリエイター志願の若者は見るべし、見るべし。大槻ケンヂさんの『グミ・チョコレート・パイン』とこれは、「表現したい若者」必読必見の二巨塔であろう。

 
 (次回【→こちら】に続く)




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2014年全米オープン決勝 錦織圭 対 マリン・チリッチ

2014年09月13日 | テニス
 というわけで、錦織圭のUSオープン2014は準優勝で幕を閉じたわけである。

 戦前は手術の経過のこともあって出場すら危ぶまれた錦織君だが、フタを開けてみたら、ラオニッチにウィンブルドンの借りを返し、オーストラリアン・オープンの覇者バブリンカを押さえ、ついには世界ナンバーワンのジョコビッチをも退けての決勝進出。

 正直今回は、「まあ、3回戦くらいまで行ければ……」と思っていたところからの、この大爆発。

 今年はとうとうトップ10入りという大きな仕事をやり遂げて、私などは

 「もう思い残すことはない」

 と、ファンとして充分に満足モードだったのだが、そこにきてこの快挙。

 世界9位のみならず、まだこんな爆弾用意してましたか。はあ、もうなんか、すごすぎて言葉も出ませんわ。

 グランドスラムの決勝まで行っちゃうかあ。

 つい10年前では、日本人選手はグランドスラムといえば予選を抜けるのも青息吐息だった。

 主戦場はフューチャーズやチャレンジャーで、そこで上位進出するのも大変だった。

 いや、今でも杉田祐一など多くの選手なんかはそこでもがいている。

 本来は、そのくらいが日本男子の「定位置」だったのだ。当時のテニスファンに、

 「2014年には、日本男子選手がグランドスラム大会の決勝に行くよ」

 なんて言ったら、ほら吹き男爵か希代の大詐欺師と決めつけられたことだろう。

 それが、USオープンの最終日に日本男児が残っているとは。にわかに現実とは思えません。

 脱帽の一言、まいりましたです、はい。

 そんなめでたいというか、めでたすぎていまだフワフワしている錦織圭劇場だが、準決勝のジョコビッチ戦あたりから、私はどうにも複雑な心境になるのを隠せなかったのを告白せねばならない。

 それはこういうことだ。

 準決勝、これを勝ってしまっていいんだろうか。

 というと、

 「当たり前だろ」
 「勝てば決勝だぞ」
 「セルビアのスパイか、この非国民め!」

 なんて、なんだか怒られてしまいそうだが、別に私は一部ネットなどにいる「アンチ錦織」ではない。

 もちろんのこと、そりゃ勝ってほしいに決まってる。しかしである。ここにファンとしてどうにも気になるのが、

 「準優勝に終わったら、どうしようか」

 ということなのだ。

 そう、勝負の世界には

 「準優勝するか、それともベスト4で負けるか、どちらが幸せか」問題

 というのが存在する。

 「そんなもん、準優勝の方がいいに決まってるじゃん!」

 というのは、100%の正論である。決勝戦を戦うという得がたい経験ができるし、賞金ももらえる。

 ATPポイントもたんまりもらえて、世界ランキングもさらにアップが見こめる。いいことだらけだ。

 けどである、それでもやはり準優勝というのは、あまり見たくはない気がするのだ。

 オリンピックでも、銀よりも、3位決定戦を勝って終わる銅メダルの方が良いという理論もあるように、準優勝という悔しさよりも、ベスト4の方が「惜敗」感があって、次につながる気がするのだ。

 決勝で負けたら、期待が高まった分ガッカリ感も増す。

 これはあくまで私個人の感覚であるし、「弱気すぎるだろう」「それは敗北主義では」といわれると一言もないのだが、それでもやはり、将棋のプロ棋士である先崎学九段の言葉を借りれば、準優勝は

 「生理的に気持ち悪い」のだ。

 その意味では、決勝の舞台にはフェデラーに来てほしかった。

 もちろん、おとろえは隠せないとはいえいまだフェデラーは強敵であるが、今の錦織君なら勝利もねらえるし、なにより負けても

 「相手がフェデラーだったら、しょうがないよね」

 とあきらめもつく。ストーリー的にも美しい。

 いわば、勝っても負けても「保険つき」の戦いになるはずだった。

 そこに、マリン・チリッチがあがってきた。これはイヤな相手である。

 ランク的には今は錦織君の方がかすかに格上だが、一般にはあまり知られていないとはいえ、テニス好きはチリッチが手強い相手だと知っている。

 そんな対戦成績でリードしているから有利なんて、単純には計算できる相手ではない。はっきりいって、強敵である。

 ではあるが、決して勝てない相手ではない。でも、確実に勝てることも言い切れない。

 そら優勝できればいいけど、そう簡単ではないし、でも可能性は5分かもしかしたら、もうちょっとだけ確率は上かもしれないとか、心は千々に乱れて、あーそれやったらベスト4で「おしかった」の方が良いんでないかなあ。

 なんて、ややこしいことを考えてしまうのが、まあファンの複雑な想いでありまして、そうこうしているうちに錦織君は大激戦の末、ジョコビッチを破ってついに歴史を塗り替えたのでした。

 はー、勝っちゃったか。

 うれしいけど、これで決勝戦を心臓バクバクさせながら見ないかんのかと思うと、なぜかちょっと気が重くなったり。

 はは、我ながら変なこと書いてるなあ。

 こうしてむかえた歴史的一戦は、ご存じの通り6-3・6-3・6-3のストレートでチリッチが錦織君を圧倒。

 思わぬ一方的展開で、クロアチアの若武者がグランドスラム初制覇を成し遂げた。

 私は録画したものを家に帰ってから見たのだが、内容的には錦織君自身も認めていたように、今ひとつなものとなってしまった。

 一方のチリッチは、準決勝でフェデラーを吹っ飛ばした勢いそのままのテニスだった。

 元々実力があることは知っていたが、それにしてもあそこまでのプレーをするとは。

 攻めてよし、守ってよし、押しこまれそうになったときの粘りもすばらしかった。

 この大一番に本人が言うような「人生最高のテニス」ができたところに、彼の大いなる才能と可能性を感じさせた。

 この試合、第3セットの第9ゲームでは、コーチのマイケル・チャンが力なく戦況を見守っていたのが印象的だった。

 錦織圭のコーチといえば、これまではダンテ・ボッティーニとの二人三脚のイメージが強かったが、チャンがチームに加わってから、あきらかに錦織君のテニスが一段レベルアップした。

 それにはチャンコーチのフィジカル、メンタル両方への厳しい訓練があったわけだが、そのあきらめるということを知らない、闘争心の固まりのようなマイケルがセンターコートを見下ろしながら脱力し、放心していたのだ。

 それくらいにマリンのテニスは完璧だったのだ。試合全体を通して、錦織君が「いけるぞ」と思わせたのは、時間にして10分もなかっただろう。

 錦織圭だけでなく、あのマイケル・チャンをもあきらめさせるとは……。まさに完敗だった。

 こうして、錦織圭のUSオープンは準優勝に終わった。こうなると予想通りの悔しさで、「ほらな、だからベスト4でよかったんだよ」などと、詮ない言葉が出たりした。

 ただ、ここまでいっといてなんだけど、やっぱりあらためて錦織君が決勝に出られたのはよかったと、今さらながら思ったものだ。

 「そらそうやろ」と笑われそうだが、たとえ負けても、日本人選手がグランドスラム大会の最終日を戦った。

 結果はともかく、それはたとえようもなくすばらしい出来事だった。

 くやしくても、どこかモヤモヤしたものが残っても、やはりそれが本音ではある。

 ベスト4でも立派だが、ファイナリストになるのはもっとグレイトだ。

 試合を見終わったちょうどくらいのタイミングで、テニスファンの友人タツミ君からケータイにメッセージが届いた。そこには「もう、決勝戦見た?」とあった。

 「見たよ。残念やったね」と返信すると、しばらくして、こんな返事が届いた。

 「勝負やから結果はしゃあないね」

 そして改行があって、こう続いていた。

 「でもまあ、ゴーランがよろこんでたからいいよ」

 ゴーランが。

 ああ、そうだった。そういえばこの戦いは、錦織圭とマリン・チリッチだけじゃなく、そのコーチであるマイケル・チャンとゴーラン・イバニセビッチの「元ライバル」対決であることも話題を呼んだのだ。

 ときおり映るファミリー席には、そういえばゴーランの姿が何度も見られたっけ。

 マッチポイントを決めたあとのチリッチとは、肩を抱き合ってよろこびをわかち合っていた姿が流れていたものだった。

 私はなんだか、急になつかしさにおそわれた。

 そう、私がテニスをはじめたときは、このふたりが現役バリバリでプレーしていたのだ。

 現役時代のゴーランは、どちらかとえいえば勝ってよろこぶよりも、大きな一番を落としてうなだれている姿の方が印象に残るプレーヤーだった。

 その彼が、愛弟子の優勝には本当にうれしそうな笑顔を見せていた。

 ゴーランがよろこんでたからいい。

 タツミ君としたらなにげなく送った一文だろうし、内容的には負け惜しみ以外の何ものでもないんだけど、それでもそれは案外と悪い考えでもないと、私には思えたのだった。





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