青年たちはプラハを目指す その3

2012年01月30日 | 海外旅行
 前回の続き。

 中世欧州史を学ぶオーストラリア人ジョージの誘いで、プラハの街を散策する私。
 
 もちろん、ふたりの共通語は英語だ。外国人とイングリッシュでコミュニケーション。ペリーによる強制開国以来の、日本国民の悲願である。それを易々とこなす私は、まさに21世紀に求められる日本人像であるといえよう。

 などと東海林さだおさん言うところの「ドーダの人」となって、大いにに語ると、おいおいちょっと待て、そんなえらそうなことをいっているが、お前の英語力など全然たいしたことがないではないか。

 超カタコトしか操れないのに、なにをぬかしとるのかという意見はあるかも知れないが、これに関しては昔の人はいいことを言ったものである。

 それは、「語学は気合」ということなのである。

 そう、言葉は気合と根性。間違うことを怖れぬドあつかましさがあれば、コミュニケートというのはできるものだ。知識のなさは、恥を気にしない「精神力」でカバーするのである。

 無茶苦茶でも、とにかくしゃべる。そしたら、だいたいは通じるし、間違ったら訂正してくれる。それを恥ずかしがらないこと。これが鉄則。

 「あなたに伝えたい、あなたの言うことを理解したい」という誠意と大和魂さえあれば、なんとかなるものです。

 ということで、文法も単語もデタラメな独自仕様の「俺イングリッシュ」を縦横無尽に駆使し、それでそれなりにジョージと会話を楽しんでいたのであるが、カレル橋をわたり、プラハ城を観光し、戦争博物館を見学していたあたりから、ある問題が生じるようになった。

 ジョージの英語が、やや聞き取りにくくなってきたのである。

 会ってすぐのころは、私の英語能力に合わせて、ゆっくりと平易な英語を使ってくれていたジョージであるが、親睦の度合いが深まるにつれて必然、次第にくだけた口調になってきた。

 いわば丁寧語でしゃべっていたのが、タメ口になったようなものだ。

 それ自体は、「外人とこんなにフランクなオレ」として、国際人としてさらにランクアップでうれしいのだが、となると、当然使う単語も軽めのものになってくる。

 何度聞き返してもわからない単語など出てきたりして、どうやらそれはスラングのようなのであった。仲が深まるのはいいが、そこまでフランクにされても、リンダ困っちゃうなのである。いわば、若者言葉についていけないオジサンのようなものだ。それはわからん。

 ときおり、小粋なジョークでもはさんだのであろう、ジョージが一人アッハッハと爆笑するにおよんでは、こちらも愛想笑いを返すしかない。意味わからんけど。

 加えて、だんだんとなまりの方もオープンになってきた。

 オーストラリア人の英語といえば、なまっていることで有名である。

 たとえば、オージーのあいさつはハローよりも「good day」がポピュラーだが、その発音は「グッドデイ」ではなく「グッダイ」。

 また友だちをあらわす「mate」も、「メイト」でなく「マイト」だし、またこれはメルボルン出身のオージー独特らしいのだが(ジョージはメルボルンの人)、口をあまり開かずに、モゴモゴとしゃべるくせがある。

 この「もごもごオージー・イングリッシュ」が、私のしょぼい英語耳では、だんだんと聞き取りにくくなってきているのだ。

 もちろん、それはジョージが私に心をゆるしてくれており、素直にリラックスしているからこそ、お国が出てそうなるのだが、仲が近づけば近づくほど、どんどん彼の言っていることがわからなくなってくるというジレンマ。

 おまけに、欧州史専攻である彼は、あこがれのプラハで歴史を語り、興奮してきたためか、どんどん早口になってくる。

 合わせるように、話の内容もどんどんと学術的に深いものになってくるのだから、難易度も倍々ゲームで上がっていく。いや、英語でミラン・クンデラの話とかされても、まったくわかりません。
 
 スラング、なまり、早口、そして内容はチェコとフランス文学の関わりについて。そんなもん、日本語でもついていけるかい!

 もうここまでくると、完全に置いてけぼりである。ジョージのラピッドなオージーイングリッシュは、こちらの耳のどこにも引っかかることなく、春風のよう脳の言語機関を華麗にスルーしていく。

 と、ここである、先ほどからあからさまに口数が少なくなってきた私に気がついたのであろう。ジョージは心配そうな表情で、

 「You understand?」

 「ボクの話、わかってる?」と聞いてきた。

 ここが引け際だった。ジョージの気づかいを温かく受け取って、「ごめん、さっぱりや。もっとゆっくりしゃべってえ」とでもいえばよかったのだ。文法など適当で。

 そうすれば、ジョージは再び気をつかって、再びペースを落として話してくれるであろう。

 が、同時にガッカリもするだろう。これまで大いに盛り上がっていたと思っていた話が、すべて独りよがりの一方通行だったのだから。

 嗚呼、日本人は思いやりの民族である。私は彼の、そんな落ちこむ姿は見たくなかった。

 もう一度、「You understand?」と聞かれたところで、親指を立て会心の笑顔で、「Yes sure! very interesting!」(あたぼうよ!キミの話、とってもおもしろいね!)。

 と答えてしまったのである。こういう態度が、日本人の悪いくせだよなあ。

 それを聞いてジョージは「そうか、安心したよ、もしかしたらボクの話を理解してないんじゃないかって思ってね。キミの英語力を疑って悪かったよ」

 と、笑顔を向けてきて、会話の内容はますます学術的で難解になり、なまりもきつくなり、時には小粋なオージージョークも飛び出し、そのたびにあいまいな日本の私は、

 「oh!」「interesting」「I think so」「You funny! hahaha!」

 などと適当な相づちを打ちながら、「日本の英語教育がどう改善されても、結局のところなまりや口語に関しては無力だよなあ」

 と、教育の未来について思いを馳せたのであった。


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青年たちはプラハを目指す その2

2012年01月29日 | 海外旅行
 前回の続き。

 「百塔の都」と呼ばれるチェコの首都プラハに到着した私。

 まるで、中世にタイムスリップしたかのような街並みに美女ぞろいと、眼福この上ない古都プラハ。

 プラハといえば個人的に好みなのは、かの三十年戦争のきっかけとなったあの事件。

 ヨーロッパを破壊し尽くしたこの凄惨な戦争の発端は、キリスト教の縄張り争いで、カトリックとプロテスタントのいがみ合いが原因となっている。
 
 なにかと自分たちを迫害しようとするカトリックの王様に切れたプロテスタントたちが、「ええかげんにさらさんかい!」とばかりに、なんと王の使者を王宮の窓から、

 「どっせい!」

 と放り投げたというのが戦争の引き金となったのだが、その事件というのが世界史の教科書によると、

 「プラハ王宮窓外放出事件」。

 いや、まあたしかに名前をつけるとそうなんだけど、「ドレフュス事件」とか、「盧溝橋事件」といわれると、「歴史の一大事」という感じがするが、

 「プラハ王宮窓外放出事件」

 といわれると、たいそうな名前の割には、中身はただのケンカだ。そのマヌケさ加減がいいので、お気に入りの世界史用語である。

 それはともかく、プラハではユースホステルに宿泊した。

 宿代の高いヨーロッパでは、ユースホステルが便利。一部屋に二段ベッドがいくつか置いてある、いわゆる相部屋方式の宿泊施設である。

 油断すると荷物を盗まれたり、同室の仲間がちょっと怪しい奴でアレだったり、いびきがうるさくて眠れなかったり、寝ていたら突然上の段で男女がベッドをギシギシ揺らす、マーベルでファンタスティックな行為を始め、あきれたりもすることもあるが、まあ大抵は快適で安全である。

 また、ユースの醍醐味といえば、世界中から集まってくるバックパッカーたちと仲良くなれること。プラハのユースでは、ジョージというオーストラリア人と同室になった。

 ユースを利用する白人旅行者は陽気で気のいいやつが多いのだが、やはりジョージもそういったフレンドリーな男であった。彼とはすぐにうち解けることとなったた。

 もちろん、コミュニケーションは英語である。私の英語力はたいしたものではないが、そこはジョージも気を使ってゆっくりと易しい単語で話してくれたので、だいたいは理解することが出来た。

 次の日、一緒に朝メシを食っていると、彼がこんなことを言いだした。「一緒に、観光しないか」。

 国際交流である。これこそが、ユースホステルの出会いである。

 さすがは私、海外に出かけると行っても、そこいらの素人観光客のように、ちゃちゃっと観光地をめぐるだけの浅い旅ではない。このように、外国人とも臆することなく交わっていくのだ。

 ジョージも私から、そのインターナショナルなオーラを感じ取ったのだろう。だからこそのお誘い。国際人の私は、もちろんのことOKし、二人でプラハの街に出たのであった。

 プラハは噂に聞く以上に美しかった。ジョージはなんでも、大学で中世欧州史を専攻しているそうで、街並みのひとつひとつに感嘆し、「……beautiful」「……marverous」としみじみとつぶやいていた。

 そうであったか。異国の地で、こんな知的な男と知り合うなんて、さすがは国際人の私である。こういうのを、「類は友を呼ぶ」というのであろう。

 そんなインテリゲンチャであるジョージは、街を見ながら「ヤン・フスが」とか、「神聖ローマ帝国の時代は」などと、歴史の講義までしてくれた。

 ありがたいことに、ガイドまでしてくれているわけだ。オーストラリアの知識人と、中世ヨーロッパの歴史にについて語り合うオレ様。

 国際人もここに極まれりであろう。ガラパゴス化と揶揄される、島国日本人には、こんな開かれたコミュニケーションなど取れないに違いない。まったく、たいした男であるといわざるをえない。

 と、日本人の夢である国際交流を今果たし、鼻高々になっている私であったが、まさかその先に大きな落とし穴が待っていようとは。

 ジョージと私の友情に、何が起こったのか。

 さらに続きます。


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青年たちはプラハを目指す

2012年01月28日 | 海外旅行
 国際交流というのは難しい。

 昨今、日本の国際化を目指して、英語教育の充実が謳われて久しいが、数々の改革や提言にもかかわらず、なかなかその成果は上がっているとは言い難い。

 その理由について、専門家が様々な角度から、「中高大と10年もやって、なぜ日本人は英語が苦手なのか」について意見を出しておられるが、私からすればなんでも何も、その理由は簡単で、

 「日本人には、英語をマスターしなければならない理由がない」

 からであるが、なぜかそのことについてあまり言及されることがない。

 これをいってしまうと、「英語なんて、いらないじゃん」という、ミもフタもない本質がばれてしまうからであろう。

 岸田秀もいってるけど、「日本人は、本当は英語なんてしゃべりたくないのだ」というのは、それを言っちゃあお終いよな本音であるよなあ。

 母国語だけで生活も仕事もできて、高等教育まで受けられるというのに、なんでわざわざ外国語習得なんていうムチャクチャに手間と時間と忍耐を要する苦行をせねばならんのか。「外国人に道聞かれたとき困るから」って、そんなもん手を引いて連れて行ってあげなさい。

 まあ、インターネットの世界は完全に「英語帝国主義」なんで、これからはそうもいってられないかもしれませんが。

 そんな、21世紀の課題でもある、日本人の国際交流だが、私がその難しさを実感したのは、チェコのプラハでのことであった。

 チェコの首都プラハは「百塔の都」と呼ばれる、1200年もの歴史を持つ美しい古都である。

 プラハ城、カレル橋、ストラホフ修道院などすばらしい歴史的建造物が多数残されており、私も来訪した際にはそれらを心ゆくまで堪能したのかといえば特にそいうわけでもなく、実際のところはもっぱら、プラハのかわいい女の子を鑑賞することの方に熱心であった。

 スラブ系のお姉ちゃんは美人が多いのである。

 これは、テニスプレーヤーを見ればよくわかるが、本当に美人だらけ。おまけに、スタイルも抜群。

 しかも、かもし出す雰囲気が、ちょっとエッチ。もう、いいことずくめ。本当に、美女をながめているだけで、楽しい一日がすごせるのである。

 それゆえか、プラハはヨーロッパの中でも、風俗産業が実に充実しているという。

 このことは宝島ムックの『中欧世紀末読本』という本でも語られているが、特にドイツでは有名である。

 プラハに入る前私はベルリンに滞在していたのだが、その折り映画でも見ようかとドイツ版「ぴあ」のような情報誌を買った。

 開いてみると、その号の特集が「プラハの風俗」であった。いやいや、これがコンビニで売ってるエロ雑誌でなくて、『ぴあ』みたいな、ちゃんとした情報誌なんです。

 ヨーロッパは、そういったお店や文化に対して寛容な地区も多く、記事を読んでみると、そこにはいわゆる「買春ツアー」の体験記のようなものが多数寄せられていた。

 まとめてみれば、「イヤッホウ! プラハの女の子は超かわいいし、サービスは超いいし、もう最高だぜジャーマニー!」ということであった。

 私は学生時代ドイツ語とドイツ文学を学んでいたのであるが、その研鑽の日々はこのベルリンの地で、浮かれたオッサンの風俗体験記を読むためであったのかと思うと、なかなか感慨深いものがあった。

 話がやや脱線してしまったが、このプラハである男と出会うのであるが、それが私をして国際交流の難しさを教えてくれたのであった。

 一体、どんなコミュニケーションが行われたのか。

 次回に続きます。


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