行方尚史ジャンキーズ

2013年05月31日 | 将棋・雑談

 行方尚史八段王位戦の挑戦者に決まった。

 彼と同じくミッシェル・ガン・エレファントのファンであるという共通項から、デビューからこのかた注目していた私としては、実にうれしいニュースである。

 「なめかたひさし」と読みます。

 青森出身で、音楽好きの酔いどれロッキン棋士。愛称はナメちゃん。

 昨年の結婚以来、前期の順位戦では、開幕から11連勝のぶっちぎりでA級に復帰するなど絶好調。

 この王位戦でも紅組リーグで宮田敦史大石直嗣広瀬章人藤井猛松尾歩といったそうそうたる面々に全勝

 挑戦者決定戦では、過去5度王位戦の舞台に立っている超強豪、佐藤康光を下してのタイトル戦初挑戦。

 その実力は充分に認められながらも、なぜかタイトル戦に縁のなかったナメちゃんだったが、ようやっと大舞台に登場。

 長かったが、ともかくも、勝ってくれたら待ったかいもあったというものだ。

 久しぶりに、結果にドキドキした一番だった。

 ナメちゃんに関しては、ちょっと前に彼について書いており(→こちらと→こちら)、順位戦昇級を受けて調子に乗った私は、

 「ここはひとつ、棋王か王位でも奪ってみてはどうか」

 などと書き散らかし、我がことながら「はは、ちょっと浮かれすぎかな」と頭をかいていたところだったので、この挑戦のニュースには驚かされた。

 うーん、今の行方はただの勢いだけでない。

 私の無責任な予言さえをも一気に実現させてしまうとは、これは本物だ。強いぞナメちゃん!

 このニュースに思うことは、まず「団鬼六先生も、天国でよろこんでおられるだろうなあ」

 団先生といえば、ポルノ小説の大家として有名すぎるほど有名だが、将棋ファンの間ではその筆力とともに、大の将棋気ちがいであることでも知られている。

 ここであえてファンではなく「気ちがい」という言葉を使ったのは、これはもう先生がファンなどというゆるい範囲を軽く飛び越えて、ドップリと将棋と棋士たちに浸かっていたから。

 作家で、小説を書くかたわら将棋エッセイを書いたり、連盟から六段の免状をもらったりする。

 このあたりは、まあよくある話だが、先生の場合はそこからのハマりかたが尋常ではない。

 自宅にどでかい対局部屋を作るわ、廃刊寸前の『将棋ジャーナル』という雑誌を買い取って、エロ小説や若手棋士の猥談を載せるなど好き放題して、あげくつぶして借金まみれに。

 伝説の真剣師小池重明さんの晩年にも深くかかわり、またアマ強豪やプロ未満の奨励会員たちを大いにかわいがるなど、プロアマ問わず、現在の将棋界に密かなる大きな影響を与えているのだ。

 そこに出てくる名前は、富岡英作中村修塚田泰明、先崎学、伊藤能、豊川孝弘、飯塚祐紀、深浦康市、屋敷伸之などなどなんとも多彩。

 中でも、もっともかわいがられていたのが、行方尚史なのである。

 その出会いは、団先生の『鬼六将棋鑑定団』(ヒドいタイトルだなあ……)という本によると、まだ行方が子供のころの青森将棋祭。

 そこに招待された団先生は、弘前城の桜など観光を楽しむのだが、そこで運転とガイド役を務めてくれたのが、ナメちゃんのお父さんだった。

 そこで「息子をよろしくお願いします」とあいさつされたわけだが、奇しくもその一週間後、ナメちゃんの師匠である大山康晴十五世名人の将棋会で

 

 「腹話術の正ちゃん人形みたいな」

 

 という行方少年がやってくる。

 そこから二人の師弟(?)関係がはじまったのだ。

 のちにプロとして大成したもの、プロになれなかった者と、数え切れないほどの奨励会員をかわいがってきた団先生だったが、なべても行方少年はお気に入りだったようだ。

 そのことは『鑑定団』にも描かれており、もともとこの本は『将棋マガジン』という雑誌で企画された、「鬼の五番勝負」という連載をまとめたもの。

 アマ強豪である団先生が若手、女流ベテランなど多彩なプロと将棋を指し、その自戦記を書くというもので、オールドファンなら山口瞳先生の『血涙十番勝負』を思い起こさせるやもしれぬ。

 その面々というが、羽生善治からはじまって、中原誠内藤国雄郷田真隆森下卓といったヘビー級の猛者ばかり。
 
 なんとも豪華な企画であるのだが、そこにポツンと登場するはずだったのが、デビューしてすぐのころの行方尚史四段だった。

 (次回【→こちら】に続く)




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トッカータとグーガ グスタボ・クエルテンの技法 その2

2013年05月25日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 1997年フレンチ・オープンで、ノーシードからあっという間に頂点に立ってしまったブラジルのグスタボ・クエルテン。愛称は「グーガ」。

 この全仏優勝に、テニス界は沸き立った。降ってわいたようなニューヒーローは、このとき世界ランキングはまだ66位。

 優勝どころか、4回戦まで残れれば大活躍といったレベルの選手だったのだ。ロンドンオリンピックに出場したころの日本の伊藤竜馬がこれくらいのランキングだったといえば、その衝撃度がわかろうというもの。

 この大会、グーガは故国のイメージカラー黄色を基調にした、明るいウェアを着ていたが、まさかここまで勝つのは想定外だったのか、着がえを用意していなかった。

 それどころか、用意していたラケットは、なんとたったの2本。もし試合中にその2本が壊れるか、ガットが切れてしまっただけでも、途中棄権(!)になるという状況での快挙だった。周囲どころか、本人すら青天の霹靂の栄冠だったわけだ。

 もちろん大会終了どころか、途中からメーカーが大あわてでウェアとラケットを送ったらしいが、これこそうれしい悲鳴というやつであったろう。

 大騒ぎになったのはスポンサーだけではない、ブラジルといえば、サッカーは有名すぎるほど有名だが、テニスに関しては長らく不毛の地であった。

 そこに、まさかのチャンピオンの誕生。それも、ジュニア時代から将来を嘱望されていたわけでもない若者がである。

 クエルテンが契約していたメーカーのウェアはバカ売れし、ラケットはまたたく間に在庫がはけ、ブラジルににわかにテニスブームが訪れることとなった。まさに宝くじが当たったような騒ぎだった。

 このいきなりの優勝で、クエルテンは一躍トップ選手の仲間入りをした。

 当初はまぐれというか、たまたま調子がよかっただけでは、という危惧もあったが、グーガは多くのスペシャリスト同様、活躍の中心こそクレーコートだったものの、他の大会でもまずまずの成績を残し、上位に定着した。

 その後しばらくなりをひそめており、ジョン・マッケンローが、1997年のUSオープンで優勝したパトリック・ラフターを皮肉ったような、

 「グランドスラムに、一回だけは優勝できたヤツ」

 に成り下がったのかと思われたが(ちなみにラフターは98年も優勝し2連覇した)、2000年のフレンチ・オープンでは97年に続いてのカフェルニコフ、のちにこの赤土で優勝することとなるフアン・カルロス・フェレーロ、決勝では伸び盛りの若手であるマグヌス・ノーマンを破って2度目の優勝。

 また、シーズン最終戦のマスターズ(室内カーペット)でも優勝し、クレー以外でも結果を出せることも証明した。

 続く2001年フレンチも、やはりカフェルニコフとフェレーロを沈めて、決勝ではクレー巧者のアレックス・コレチャをやぶっての、2年連続3度目の優勝。この間、世界ランキングで1位にも輝いている。

 こうして、彗星のごとくあらわれて頂点に立ったグーガは、そのすばらしく魅せるテニスとともに、人としても愛された選手だった。

 ひょろっと細長い手足に、派手なウェア、ラスタマンのようなくせっ毛。というと、一見クセのありそうな男のようであるが、その顔は笑うとまるで子供みたいに邪気がなく、誰もが好きにならずにいられない雰囲気を持った選手だった。

 当時のテニス界でナイスガイといえば、オーストラリアのパトリック・ラフターといわれていたが、それと並ぶのがグーガという意見をよく聞いた。

 そんな彼の茶目っ気が最も発揮されたのは、そのホームグラウンドである、ローラン・ギャロスのセンターコート。

 2001年にスペインのアレックス・コレチャを破って優勝したときに、赤い土のコートに、ラケットで大きなハートマークを描いた。

 そのキュートな行動に、ファンは惜しみない拍手を送った。

 クレーコートにハート! これ以上、彼のことを表す絵はあるだろうか。彼はローラン・ギャロスを愛し、またラファエル・ナダルがあらわれるまでは、この赤土にもっとも愛された選手でもあった。

 新陳代謝の激しいスポーツの世界では、「彗星のごとく」あらわれた選手の多くが、それ一回こっきりか、もしくは急激におとずれた富と名声をもてあまし、あたら才能を浪費してしまったりしてしまうことはよくある。

 だが、グーガに限ってはそんなことはなかった。ぽっと出の選手であったが、そこで終わらない才能と、その後の研鑽と、おそらくはささやかな、したたかさもあったのだろう。

 それらの要素にくわえて、彼がただの一発屋で終わらなかったのにはもうひとつ、どこかに「人柄」という面があったのではないか。

 誰からも愛されるあの笑顔とキャラクターこそが、彼の天衣無縫なテニスを存分に伸ばしていけることを助けたのではないか。勝負の世界では、ややもすると足を引っぱりかねない「いいヤツ」だったことが、グーガの場合は大きな武器だった。それもふくめての才能だったのでは。

 サンバテニスを愛したファンの一人としては、そう強く思うのである。

 
 ※グーガのサンバテニスの映像は→こちら



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トッカータとグーガ グスタボ・クエルテンの技法

2013年05月23日 | テニス
 その日パリに突然あらわれたのがグーガだった。

 スポーツの世界には、俗に「彗星のごとくあらわれる」チームや選手というのがいる。

 サッカーで言えば1992年のヨーロッパ選手権のデンマーク代表のように、ひょんなことから出てきたと思ったら、気がつけばあれよあれよといううちに頂点に立ってしまった、というような。

 テニスでも、ウィンブルドンで大会史上最年少記録の17歳7ヶ月で優勝を果たしたボリス・ベッカーのように、無名の選手が一夜で大化けするケースはあるものだが、私のリアルタイムで見たもっとも「彗星のごとく」な選手といえば、ブラジルのグスタボ・クエルテンだった。

 クエルテンが初めてその名をとどろかせることとなったのは、1997年のフレンチ・オープン。

 一昔前の全仏オープンは、クレーコートという遅めのサーフェスであるという性質上、パワーとスピードにすぐれたトップ選手が、なかなか活躍できないという特徴があった。

 ゆえに、芝のウィンブルドンやハードコートのUSオープンなど、他のグランドスラム大会ではなかなか上位に来ない「クレーのスペシャリスト」な選手が上位を占める傾向にあるのだが、その中から飛び出してきたのがクエルテン。
 
 97年大会も、遅いコートを苦手とするピート・サンプラスやゴーラン・イバニセビッチが早期敗退したのは予想の範囲内というか、ほとんどパリの風物詩だが、1995年大会のチャンピオンであるトーマス・ムスターや、96年優勝のエフゲニー・カフェルニコフなど、クレーに強い優勝候補が相次いで敗れたのは予想外であった。

 この二人を倒したのが、グスタボ・クエルテンである。

 ムスターを3回戦で、カフェルニコフを準々決勝でそれぞれ破ったのであるが、このときはじめて見たの彼のテニスは鮮烈であった。

 これまでローラン・ギャロスで勝つプレーヤーというのは、大きく後ろに下がったところにポジションを取り、体全体で打つ強烈なトップスピンとフットワークでもって、持久戦から相手をねばり倒すというのが主流な戦い方だった。

 そんな花の都のイメージとは真逆な泥臭いテニスがこの大会を席巻しており、それゆえにフレンチは4大大会の中で人気面ではかなり劣るところがあった。

 アグレッシブなスタイルで人気なトップ選手が次々と1週目で姿を消し、残った、こういってはなんだが「誰やねん」な選手が延々と終わらない単調なラリーを続けるだけなのだから、それも当然といえば当然だった。

 だが、クエルテンのプレースタイルは、それまでのクレーのイメージを一新させることとなる。

 後ろからのグラウンド・ストローカーであったことは、これまでのチャンピオンと同じだが、彼がちがったのは、そのシャープなショットと身のこなし。

 ひょろりと細長い手足を、やわらかく、しならせて打つショットは、スピードに乗って次々と相手コートにエースとなって突き刺さる。

 特に片手打ちのバックハンドは目にあざやかなほど美しく、女子のジュスティーヌ・エナンのそれと双璧だった。

 グーガ(クエルテンの愛称)のテニスは、とにかく明るかった。これまでの土と泥のにおいのする、観戦するだけで全身に力が入るような根性テニスではなく、6月のパリの青空のような、スカッと抜けるような壮快なテニスだった。

 コート上で踊るようなそのプレースタイルに、誰かが「サンバテニス」と名づけた。

 見ているだけで心躍るような見事なテニスで、次々とジャイアント・キリングを披露したクエルテンは、気がつけば決勝戦の舞台に立っていた。相手は、過去2度優勝の、スペインのセルジ・ブルゲラだ。

 ここでもクエルテンは、元チャンピオン相手に臆することなくコート上で舞った。右へ左へ、まるで朝の練習のような気軽さで、スーパーショットを決めていく。

 あのフットワークにすぐれたねばり強いブルゲラ相手に、こんなにも簡単にポイントが取れるものだろうか。グーガがそのラケットを一振りすれば、黄色いボールはキラキラと輝いて、赤土の上をほとばしる。

 私は思わず、古いアニメソングを口ずさんでいた。「魔法のバトンをクルリとふれば、町じゅうやさしい風が吹く」。まるで彼のことを歌っているように思えたのだった。

 私は彼のテニスに、完全無欠に魅せられてしまった。なんてきれいなショットの弾道なんだろう。

 それはきっと、これまでのローラン・ギャロスでは見られなかった、新しいクレーのテニスの在り方だったのかもしれない。退屈な土のコートでも、これだけ「魅せる」テニスをするプレイヤーがいたとは。

 試合はあっという間に終わってしまった。6-3・6-4・6-2で、クエルテンが初優勝。と同時に、それはブラジル人としても初のグランドスラム大会制覇でもあった。


 (次回→[こちら]に続く)



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トーマス・ブルスィヒ『太陽通り ゾンネンアレー』は東ドイツ発、掟破りの「壁コメディー」

2013年05月13日 | 
 トーマスブルスィヒ太陽通り ゾンネンアレー』を読む。
 
 前回(→こちら)、同作者の『ピッチサイドの男』を紹介してたら、こっちのこと書くの忘れちゃったということで、今回は『太陽通り』について。
 
 主人公は、東ベルリンゾンネンアレー(太陽通り)に住む少年、ミヒャエルクッピシュ。通称ミヒャ
 
 壁ごしに西ベルリンの子供たちとケンカするわ、禁止されてる西側の音楽をこっそり聴くわ、観光客の前で飢えた子供を演じ、西側の新聞に、
 
 
 「東ドイツの悲惨な実態!」
 
 
 一面に載っているのを見て、「こいつら、茶番を本気にしとるで!」と大笑いする。
 
 ミヒャは学校の標語の「VORHUT(前衛部隊)」をこっそり、
 
 「VORHAUT(陰茎の包皮)」
 
 に書きかえて、罰として討論会でスピーチをさせられるが、それにベルリン1の美少女ミリアムも参加することを知ると、クラス中の男子が我にも懲罰をと、学校内で暴れ回る……。
 
 共産主義政権下というと、なにやら息苦しげなイメージがあるが、どこの国のどんな街でも、少年というのはバカでボンクラなのは変わりないよう。
 
 なんだか親しみもわくというもので「つかみ」はこれで完璧だ。
 
 その脇を固める大人たちも、これがまた愉快でステキ。
 
 隣人をすべてシュタージ(東ドイツの秘密警察)と思いこみ、日々被害妄想が爆発させなが、家庭電話すらない東ドイツの現状に、
 
 
 「陳情書を書くぞ!」
 
 
 が口癖の、ミヒャのお父さんクッピシュ氏
 
 息子をモスクワの大学に入れるべく、ミヒャエルではなく「ミーシャ」とロシア風に呼ぶほど、体制万歳な姿勢。
 
 どっこい、たまたま拾った西側住民のパスポートを使って亡命すべく、写真に合わせての老けメイクに血道を上げる、ミヒャのママ
 
 愛すべきは、西ベルリンに住む、ハインツ叔父さん。
 
 叔父さんは、いつも国境警備兵の目と、強制収容所送りの恐怖に耐えながら、クッピシュ一家のために、西側の物資を「密輸」で運んでくる。
 
 だが決死の覚悟で運ばれてくるそれは、チョコレートや歯みがきなど、禁止などされていないシロモノばかり。
 
 だが、あまりの必死な叔父さんの「善意」と「冒険」の前には、
 
 「それ、近所の店で売ってる……」
 
 とは、今さらだれもつっこめない……。
 
 そう、これは旧東ドイツ出身者だけが、真にリアリティーを持って書ける共産主義喜劇であり、作者自身の言葉を借りるなら、掟破りの「壁コメディー」なのだ。
 
 政治体制をあつかった物語といえば、一見風刺とか、問題提起といった堅苦しいイメージを持つ方もいるかも知れない。
 
 が、この『太陽通り』は、たしかに東ドイツという国の矛盾点や、瑕疵を皮肉ってはいるにしても、それはどこかカラッとしている。
 
 この手の作品にありがちな、シニカルな視点よりも、むしろどこかのようなものが感じられる。そのエピソードのひとつひとつが、良質の小話みたい。
 
 でもそれは決して小説的な嘘ではなくて、実際に東ドイツで生きてきた作者ならではの、不思議なリアリティーというのがある。
 
 ボルヘスガルシアマルケスなど、ラテンアメリカの文学作品を評するのに、その不可思議で幻想的な味わいを
 
 
 「マジックリアリズム」
 
 
 と呼ぶことがあるが、この『太陽通り』で書かれる東ベルリンのできごとも、まさにそういった雰囲気。
 
 当人たちは大マジメで、また当地では生活に根ざした、ごく普通の事柄なのに、他人から見ると
 
 「んなアホな!」
 
 つっこみたくなるような事象。
 
 それが『太陽通り』の中には散りばめられていて、そのひとつひとつが抱腹絶倒。
 
 南米作家と同じく、あまりにも変なエピソードの数々に
 
 「それ、絶対作ってるやろ!」
 
 ゲラゲラ笑っていると、
 
 「いや、ウチらでは、これがふつうなんだよ!」
 
 言い返してくるのも同じ。
 
 そのズレが最高にユーモラスなのだ。
 
 風刺劇の側面バリバリの小説なのに、こんなに楽しくていいのかしらんと首をひねりたくなる『太陽通り』。
 
 伸井太一氏のドイツカルチャー紹介本『ニセドイツ』を併せて読むと、よりリアリティーを感じられ楽しめるると思います。超オススメ。 
 
 
 
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シャロン教授の東ドイツ文学と『ピッチサイドの男』について語りたい

2013年05月11日 | 

 『太陽通りゾンネンアレー』を読む。

 著者のトーマスブルスィヒは、旧東ドイツの作家。

 ドイツ文学というと、それだけで地味でマイナーなイメージで、これがさらに東ドイツとなると、ますますなじみがないよなー。

 となるところだが、なにげに手に取った戯曲『ピッチサイドの男』が、えらいことおもしろかったんで、彼の代表作である『太陽通り』も読んでみることにしたのである。

 先に『ピッチサイドの男』の説明をしておくと、戯曲といっても、これが一人芝居

 それも、主人公が動きもなく開幕から終幕まで、ずーっと一人で息継ぎもなくしゃべりっぱなし。

 なので、お芝居というよりも、モノローグ小説としても読める。

 旧東ドイツ時代に、ブイブイいわしていたサッカーチーム監督が、壁崩壊後は工場の夜勤で働きながら、無名チームの指揮を執っている。

 その監督が、舞台で吠えるわけなのだ。

 あの栄光の時代とくらべて、今のオレはなんだ!

 東西ドイツの統合は、そもそも統一という名の「西側の併合」だといわれているが、その現代ドイツの社会変革のうねりに直撃された「オッシー」(東側住民に対する蔑称)が、もうひたすらにボヤいてボヤいて、ボヤきまくる。

 サッカーしか能がない、ゴリゴリの保守主義者(だけど「左翼」になるのかな)の

 「あのころは良かった」

 からはじまって、西側に対する怒り、ひがみねたみそねみ、チームの消失失業の嘆き。

 さらには外国人や、その他モロモロの気にくわない連中への差別意識など、もうグチをこぼす、こぼす。

 あげくには、自分の弟子が軍務中に殺人事件など起こしたりなんかして、もう監督やってられません。

 町田町蔵さんの曲のごとく、「ほな、どないせえちゅうねん!」と。

 というと、なんだか暗くて救いがなさそうであるが、これがなにか妙にユーモラスというか、監督の語り口があまりにも絶妙なもんで、ついつい笑ってしまう。

 あつかっているのは重い政治的テーマなのだが、同時にこれは一級品のコメディーでもあるからだ。

 「おもろうて、やがてかなしき」

 といった、見事なボヤき漫談に仕上がっている。とにかくもう全編、監督絶好調。

 歴史のうねりに翻弄された、東ドイツの人々のかかえる問題や鬱屈を、たくみな「笑い」でコーティング。

 ともすれば「怒り」や「告発」といった単調な「社会派」になりそうなところを、一級の娯楽作に仕上げているあたりに、作者の並々ならぬ力量を感じ取れる。

 ドイツ文学といえばよく、

 

 「笑いの要素が少ない」

 

 といわれるが、トーマス・ブルスィヒはそこに、

 「そんなことないよ!」

 反旗の一石を投じたと言えよう。

 古き良き(?)祖国への愛と、郷愁と自虐が、絶妙にブレンドされた『ピッチサイドの男』。

 ぜひ一読して、「ドイツ喜劇も、全然おもしろいやん」と開眼していただきたいもの。


 ……て、『太陽通り』のこと書くスペースなくなっちゃったよ。次回(→こちら)に回します。

 

 

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