ライブも無事に終わり、普通の日常の生活にようやく戻った。
とは言え、いろいろと用事があってしまう、今朝は右手中指のバネ指のために病院に行って来た。
しかし、やはりライブの前の緊張や練習などがない分、解放された心は新芽のように生き生きとしている。
病院の待ち時間、モーリヤックの「蝮のからみあい」を読んでいた。
昨日まで読んでいたベルナノスの「田舎司祭の日記」は仕事場に置いてきてしまったので、仕方なく次に読もうと思っていたモーリヤックの「蝮のからみあい」を読んでいた。
この二冊は遠藤周作氏の愛読書の二冊であり、「田舎司祭の日記」の主人公である若い司祭は、生涯遠藤氏の小説のモデルとなっていたとも言われる苦悩に満ちた司祭だった。
もちろん、その司祭は苦悩だけには終わらない、救いは姿形は様々であるが訪れるのである。
この二冊は素晴らしい本だと思う、思うが、一つ難点がある。
それは昭和27年出版なので当時の仮名遣い、難しい漢字を使っていることである。
ぜんぜん読み進めない、難しい漢字で何度も何度も立ち止まり、普通の小説を読む早さまでのギアが入らない、ゴールデンウィークの渋滞のようなもの、止まっては進み、進んでは止まり、そして、終いには眠くなってしまう。
スマホを駆使し、グーグル翻訳アプリを使っても見つからない分からない漢字までもあってしまう。
読むのを諦めようとも思ったが、やはり負けたくはないので、しがみつくようにして読んでいるが、漢字に意識を取られ、小説の内容や表現の美しさ・豊かさを十分に感じることが出来ないでいる。
誰か新訳を出してほしいと願いながら、その願いを時にすっかり忘れ、悶々としながらも読んでいる。
すると、本来の小説を読む楽しみのではない楽しみがポツリと生まれて来た、それは運良く漢字がすべて読むことが出来、文章が理解出来た時は何だか試験で良い点を取った時のような嬉しさが込み上げてくる。
遠藤氏はこの二冊は原語のフランス語で読んだのだが、この翻訳のも読んだろうか。
私は読めない漢字があった場合、そこで必要以上の時間を使うのを辞めようと決め、私なりに勝手に訳してもいる、そして、読み進めていく内に難しい漢字が文章の並びから分かると、私の訳が違っているところまで戻り、また読み直している、その繰り返しである。
とても読み辛い本ではあるが、簡単に読み終えてしまう本にはない、魅力と意味・時の流れ、などなどをせっかくなので味わいながら読むことにしようと思っている。
遠藤氏が若かった頃、読みたい本も読めず、読める本も限られ、読める本をむさぼるように何度も読んだ時代だった、その時代の目には見えないホコリの一粒のようなものをもしかしたら感じられるかもしれないとも思いながら。