目覚まし時計は確かに7時半になった。
寝ぼけた私はもう15分と目覚まし時計をかけなおし、また夢のなかへすぐに帰って行った。
夢のなかでけっこう15分は長いものだ、夢というものは時間を短くもすれば、長くもしてくれる、朝の15分はこうやって長く過ごさせてくれたらいいものだと思っていた。
流石によく寝たと夢のなかで感じていた・・・、15分はまだ終わらないのか・・・、夢というものは素晴らしいものだと思ってもいたが、しかし、にわかに感じる不安が疼きだし、覚悟を決めて重たい瞼を引き上げ、おぼろげに目覚まし時計を引き寄せ見ると、すでに9時をとっくに過ぎていた。
そこでやっと気が付いた、長いと思った15分の夢は実は1時間以上をもって作られていたのだった、やはり、夢のいうものは時間を短くすることが多く、長くするのは稀なのかと残念な思いととも現実に引き戻され、ハッとした。
この日は山谷でマザーのミサが12時から行われる。
その前にいつもの炊き出しがあったが、流石にこの時間に起きては間に合うはずがない、ここは午前のボランティアは休みにして、ゆっくりとミサに間に合うように山谷に行くことにした。
土曜日の山谷へ向かう前のこうした二度寝の朝寝坊はもう何年振りであろうか、思い出すことが出来なかった。
それゆえ、たまにはこれも仕方がないことであると、私はわりと素直に受け容れた。
あまりに神経質に追われるようにしてボランティアに行くよりは、身体の声も聞いて、私自身の不完全さを認めることをした方がいいのではないかと考えた。
それに私が二度寝したのは午後にマザーのミサがあることをあらかじめ知っていたことに何らかしらの起因があったのだろう。
私はその分かりきらぬ私のまま、それでも私を毎土曜日の朝の支度に向かわせた。
まずは頭を丸め、時間があったので朝食も取り、遠藤氏の本をジーンズのポケットに入れて家を出た。
この遠藤氏の本は遠藤氏の後期のエッセイの集まりである。
電車に乗るとスイッチを入れたようにエッセイに集中する、すると、このエッセイたちは老年に至る熟考を幾度も重ねてきた遠藤氏の静かな心が雨に濡れて光る岩のような佇まいを感じさせた。
なかでも、一遍上人の句が紹介されており、私はその先を読むことをしばらくやめてその言葉を胸で遊ばせた。
「心より心を得んと心得て 心に迷ふ心なりけり」
{つづく}