自分はまだカトリック信者ではない。
カトリックにとても近いところにいると思うが、洗礼となると、その問いは深くなっていく。
カルカッタでも日本でもよく分からないが、「あたなはカトリックよりカトリックです」言われることがある。
日本人だけはなく、海外の一緒に働いた友達、出会った人たちから言われることがある。
自分はただマザー好きな男です。いつもそう答える。事実、そうだと思っている。
そして、神さまがいることを信じている。
誰もがいろんなものを信じて良いと思っている。しかし、自分以外は違う、自分が必ず正しい、自分の信じているもの以外は救われない。
そうした意識を作り上げ、他人を見下すことによって、自己の正当性を保つものにはなりたくはない。
なぜなら、そこには愛はない。
マザーは宗教が生活のなかにありありとあるインドで、他者を認める、他宗教を認めることをしてきた。
自分だけが絶対に間違っていないとは、彼女は言わなかった。彼女は自分から離れることによって、その身を神に委ねてきた。
何より彼女は自分が目の前の人に与える影響を常に考えていたと思う。それは人間の弱さをほんとうに理解していた。そして、その人へ最良のものを与えようと努めてきた。そうすることが彼女の幸せであった。
自分たちの毎日の生活のなかでも同じようなことが言える。
自分が正しい、間違っていないと思い込み、他者を認めることもせず、ましてや、バカにし、見下し、歪んだ優越感に偽りの安堵感にしがみついている人もいるだろう。
そうした人の奥底には認めてほしいという影があるだろう。それは自分にもある。誰もが、一人ひとり違う形のその影をどう乗り越えていくかは、その人次第であろう。そして、その人の人生であろう。
子供だって、弱い人だって、患者だって、罪人だって、自分より正しいことを言うし、教えてくれる。
反対に何もかもを受け容れてしまうのも、もちろん、怖いことである。そこにはかけがえのない自分というものが無くなってしまっている。
こうしたことを考えていくと、やはり難しい。しかし、それだけ意味深く大切なことであるからだろう。バランスを保てるようになってほしい。
そこには、マザーの「最良のものを」の祈りをただしていくことでも何かは変わっていくだろうと思う。
「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです」
この最後の三行の意味を味わえるようになると思います。ここがマザーが幸せであったことの証しのようにも思えます。
自分もいつか洗礼を受けるときが来るかもしれないが、それは一つの答えのない問いとして、あたためていこうと思っています。
泣きたいときには泣いた方がいいよ。涙は自分自身のために流れる必要なものだよ。
それにしても暑いな。。
たまには夜に顔を出すようにするよ。