姿を変えられてしまうと、なぜかは一息置くというか、それまでの悲しみも姿を変えて、周りに影響を与える。
我に戻ると言うのか、またその我は誰のか。
小さな壺にその悲しみまでも封印されてしまうかのようにあるのかもしれない。
だが、時は止まってはいない。
また少し経つとやはり悲しみはじんわりと息吹をし始める。
寂しさと感謝と涙と笑顔、交互に一人ひとりの人生史のなか、奴との関わりのなかで何かを修復し、不安定なものから、何かバランスを取ろうと努め、それを再構成し、また新たに物語りを語り始める。
呼吸する命、生きている今日の意味を別れた皆に与え続ける。
別れを終えて、酔い、その酔いが覚め、静かなところから、あたたかなものがにじみ出るように溢れてくる。
すでにその前とは違う現在に呼吸し始めている。
そして、何かは変わり続ける。
変らないように見えたとしても、何かは変り続けている。
決して変えることの出来ぬ過去を生み出し続けていく。
だからこそ、今を生きる。
過去には生きれない。
寂しくて良い。
寂しくて当たり前である。
決して変えることの出来ぬ愛したという過去を身にまとったのだから。