東京ドームの教皇のミサに集まった人数は調べてみると5万5千人だった。
それだけの人数が集まり、祈りを捧げるエネルギーとはやはり荘厳の一言をゆうに超えて行くものがあっただろう。
それをガイドしているのがフランシスコ教皇であるからこその私やその場に居た人たちの未知なる体験に個人個人特有に入り込んで行けたのかもしれない。
フランシスコ教皇への畏敬の念が溢れるなか、そこは私は私一人ではない状態のなかにいるような感覚を味わった。
私をその場所まで導いてくれた人たちのことを思い出さずには居られなかった。
私がカトリックの洗礼を授かったコルカタのマザーハウスのこと、マザーやシスターたち、ブラザーたち、司祭たち、ボランティアたちの顔が次々と脳裏に記憶とともに蘇ってきた。
すべてが私はここに呼び寄せてくれたことに感謝せずには居られなかった。
私はどのミサに授かる時も、まず自分の洗礼式のことを思い出すようにしている、そして、いつになるかは分からない最期の聖体拝領の時を想像している。
これはマザーの言葉から来ている「どのミサも最初のミサのように、また最後のミサのように授かりなさい」
そして、私はこの言葉から、すべてのものが当たり前ではなく、すべてのものはかけがえのない感謝するべきものであることを学び続ける日々を送るようになった。
ミサの間中、私は可能な限り、私が出会った人たちのために祈った。
誰かを思い、誰かのために祈れることは幸せだと実感しながら、時はあっという間に流れて行った。
大スクリーンに浮かんでくる説教の字幕は私の視力では見えなかったが、フランシスコ教皇の言葉に響きだけに集中し味わった。
ミサが終わり、これでもうフランシスコ教皇の姿が見えなくなると思うと、急に寂しくもなったが、それは私の見捨てられ不安から来るものであることを察し、私はそれではない、私の感情を追った。
私のなかに溢れるもう一つの感情はそれは大いなる感謝に他ならなかった。
私はそれを膨らまし、胸を熱くさせ、瞳から涙が溢れそうになりながら、残らずすべてをゆっくりと味わい、祈りのうちにミサの余韻に浸った。
私はここに導いてくれた、あの方に感謝せずには居られなかった。
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