その夜、最期の一杯をベランダに出て、満月を眺めながらゆっくりと楽しんでいた。
数人の友達に「元気でいるかい?とても綺麗な満月だね」と無事を願い、祈りを込めてメールした。
次の日、昨夜メールを送った、現在コルカタにいる友人から返信があった。
「ハレルヤ!ちょうど昨日、素晴らしいことがありました」と。
彼いわく、少し前から、私のゴットファーザーである、ステーションワークをし切っているジムが入院の手配を進めていた路上の患者が、昨夜遅くにアイルランドのNGOの病院に無事に入院出来たとのことだった。
写真を載せるかを迷ったが、上記の写真が無事に入院出来た患者である。
この患者をピックアップする前に患者の確認が必要だったらしく、私の友人は朝にシアルダー近くの路上にいる患者に会いに行った。
患者は精神障害者であり、数日前にタクシーに轢かれ、臀部を骨折していた。
動けないはずの患者が友人が見に行った時、何故かは分からないが道路の真ん中にある生垣にもたれ、足を延ばしていた。
またいつ車に足を轢かれてもおかしくない状態だった。
一人でその場に行った友人はその光景を目にし、少しパニックになった。
患者を急いで安全な場所に移動させなくはならなかったが、骨折している患者を一人で運ぶのは不可能だった。
友人は近くでその状況を見ていたインド人に助けを求めたが断られてしまった。
友人は絶望した。
もう患者を救うことが出来ないのではないかと嘆いた、その時だった。
友人の脳裏に祈ると言うアイデアが浮かんだ。
友人は目をつむり、必死に祈った。
祈り終えて、後ろを振り向くと、見るからに親切そうなインド人がいた。
その彼は進んで手助けをしてくれ、無事に患者を安全な場所に移動させることが出来たとのことだった。
友人は改めて「祈ること」の大切さを学んだと、神さまから素晴らしい贈り物を頂いたと、心の底から喜んでいた。
患者は精神障害者であった。
「助けて」と声に出すことが出来なかった。
そのままであれば、数日後には間違えなく死んでいただろう。
いま世界中、厳しい状況下のなか、「助けて」と声に出すことが出来ない人がいるだろう。
その「声なき声」に気付けるように祈りたい。
そして、私たちの内に在る痛みのなかにある微細な「声なき声」にも気付けるように祈りたい。
祈っても何も変わらないかも知れない、にもかかわらず、私は祈らずにはいられない。
大切な想いは誰かと必ず繋がっているのであるから。