昨日と今日は、岩瀬地区の夏祭りです。
夕方、7時ころ、家の近くを鍬田の山車と神輿が通ったので、一緒に岩瀬駅前までついていきました。
岩瀬駅前のテントで1時間小休止をした後、また一緒に家に帰ってきました。
私は、岩瀬町に引っ越してから、長い間、何で、東区、西区、元岩瀬という地名があるのか、不思議でなりませんでした。
やっと、この疑問を解いてくださる人と出会うことができました。
それは、元岩瀬に住む元小学校校長さんです。退職されたあと、今は、シトラスに勤務しています。
鍬田が鍬田村と言っていたころ、東区は東新田村、西区は西新田村、元岩瀬は岩瀬村といっていたのです。
昭和の大合併で、西那珂村、北那珂村、東那珂村が合併して岩瀬町となった時、字名(あざめい)を岩瀬町大字岩瀬が正確なのですが、以前からの習慣で、東区、西区、元岩瀬とよばれていたようです。
NTTの電話帳は、住所名ではなく、届け出の住所なっていますので、私が岩瀬に来たとき(昭和44年)は、東区、西区、元岩瀬の住所が多くみられました。
さすがに、桜川市になってからは、市役所に届けた住所になってきました。
今でも、鍬田1210-7の住所でくる手紙もあります。習慣というものは長い間、変わらないものですね。
なぜこんなことを書いたかと言うと、東区本町の神輿をかつぐ、小学生が2人になってしまったという話から、東区1、東区2、東区3まで神輿があったという話になり、昔は、ここは東新田村であったという話まで広がったためです。
ちなみに、岩瀬駅が犬田(字常盤町)にできたのは、真壁・大和の御影石を運び出すための駅であったから、元岩瀬にはつくらなかったとの話です。
ちょうど、稲田駅と同じ役割をしていたのですね。
岩瀬というのは、大きな川(瀬)があり、大きな岩か岩盤があったので付いたのではないかというのが、元校長さんと私の推測です。ここは一致しました。