「いちばん長い日」とえば、私のアタマに浮かぶのは、中学生のとき、新宿の映画館でみた「史上最大の作戦」である。この英語名は、「ザ・ロンゲストデー」で、アメリカ軍を中心とするフランスのノルマンディー上陸作戦である。
私とって、一番長い日は、議員になってから、黙って1日中聞いているだけの3月の「予算案提案の日」と9月の「決算案提案の日」である。
歴史探偵を名乗る半藤一利氏の一番長い日は「1945年の8月15日、敗戦の日、終戦の日」である。私は、この本を知った日から、笠間図書館で探していたが、なかなか見つからなかった。有名な本だから、手垢がつきすぎて、廃本になったのかと諦めていました。ところが、11月28日に笠間図書館にいったところ、見つかったのです。しかも、かなり新しい、手垢がついていないものでした。
もう一つびっくりしたのは、巻頭の挨拶文は、昭和40年で、書いた人は大宅壮一だったのです。私が読んだ本は、1995年の改訂版で、半藤一利氏が、次のように書いている。「当時はいろいろな事情で、大宅壮一編と当代一のジャーナリストの名を冠して発行された」
とにかく、1945年8月14日正午から翌日の15日の正午までを、時間を追いながら書いている。
全部を紹介するのはできないが、今日読んだ部分で、自分が誤解していたことを一つ紹介したい。
敗戦を、ポツダム宣言を受け入れた戦前最後の首相は、鈴木貫太郞であった。その鈴木内閣には、阿南陸軍大臣がいた。阿南はポツダム宣言の受け入れには反対していた。しかし、陸軍大臣をやめなかった。15日の朝、自刃した。
私は、これは知っていたが、これは、「鈴木貫太郞への反乱」であると考えていました。しかし、半藤氏はそうは見ない。
「もし、鈴木内閣で、陸軍大臣を辞職していたら、内閣不一致で、内閣そのものが瓦解して、終戦にもって行けなかった」というのである。
だから、15日の内閣の閣議が開かれたときの哀悼の辞はこう述べたと書いている。
「阿南陸将は忠実に政府の策に従われた。陸軍大臣が辞表を出されたならば、わが内閣は即材に瓦解したであろう。阿南大臣が辞職されなかったので、われわれはその主目標、つまり戦争終結の目標を達成できなかった。私はそのことを陸将に深く感謝しなければならない」
私とって、一番長い日は、議員になってから、黙って1日中聞いているだけの3月の「予算案提案の日」と9月の「決算案提案の日」である。
歴史探偵を名乗る半藤一利氏の一番長い日は「1945年の8月15日、敗戦の日、終戦の日」である。私は、この本を知った日から、笠間図書館で探していたが、なかなか見つからなかった。有名な本だから、手垢がつきすぎて、廃本になったのかと諦めていました。ところが、11月28日に笠間図書館にいったところ、見つかったのです。しかも、かなり新しい、手垢がついていないものでした。
もう一つびっくりしたのは、巻頭の挨拶文は、昭和40年で、書いた人は大宅壮一だったのです。私が読んだ本は、1995年の改訂版で、半藤一利氏が、次のように書いている。「当時はいろいろな事情で、大宅壮一編と当代一のジャーナリストの名を冠して発行された」
とにかく、1945年8月14日正午から翌日の15日の正午までを、時間を追いながら書いている。
全部を紹介するのはできないが、今日読んだ部分で、自分が誤解していたことを一つ紹介したい。
敗戦を、ポツダム宣言を受け入れた戦前最後の首相は、鈴木貫太郞であった。その鈴木内閣には、阿南陸軍大臣がいた。阿南はポツダム宣言の受け入れには反対していた。しかし、陸軍大臣をやめなかった。15日の朝、自刃した。
私は、これは知っていたが、これは、「鈴木貫太郞への反乱」であると考えていました。しかし、半藤氏はそうは見ない。
「もし、鈴木内閣で、陸軍大臣を辞職していたら、内閣不一致で、内閣そのものが瓦解して、終戦にもって行けなかった」というのである。
だから、15日の内閣の閣議が開かれたときの哀悼の辞はこう述べたと書いている。
「阿南陸将は忠実に政府の策に従われた。陸軍大臣が辞表を出されたならば、わが内閣は即材に瓦解したであろう。阿南大臣が辞職されなかったので、われわれはその主目標、つまり戦争終結の目標を達成できなかった。私はそのことを陸将に深く感謝しなければならない」