天皇の「代替わり」儀式のあり方が、具体化している。昭和64年から平成元年の「代替わり」では、死去が突然来たわけではないのに、危篤になってからも、「代替わりをどのようにするのか」を日本共産党は申し入れたが、「病気療養中」を理由に一切、政府は答弁をしなかった。
今回は、「代替わり」の日程が明らかになっているので、国会で十分相談して、日本国憲法にそってやり方を変えるように申し入れたが、安倍政権は聞く耳を持たないようである。
今日の読売新聞には、代替わりの詳細が、新聞面2面をつかって、大嘗祭とか、いろいろ難しいことが書いてあった。一瞬、戦争中の新聞を読んでいるのかと錯覚しそうになった。
私は、まず、日本国憲法では「象徴」となっていることを大前提に考えなければいけないと思っている。
「天皇」の英訳は、正確には「シンボル」であるべきだと考える。つまり「シンボル」にふさわしい、代替わりにするべきだと考えるのですが・・・・・・・・。
天皇は、昔から・・・・・・・と言う人がいますが、今のように、神道の形式を重んじるようになったのは、明治になってからと言われています。
メディアは、「昔からの儀式」と、神格化しがちですが、そうではありません。
私が、昭和天皇の死去で思い出すのは、テレビが「喪に服したため」、娯楽番組を放送しなくなったため、
レンタルビデオ店が、大混雑したことです。私の家でも、小学生であった子どものため、ビデオデッキを買い、レンタルビデオを借りにいったことを思い出します。