誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々に従って従うとバカを見る。それはすでに昔の人が経験済みだ。
社会という大きな枠に、その社会の構成員は囲い込まれて生きている。構成員にはいつもその枠からできるだけはみ出さないように、という圧力がかかっている。
人間は大昔から、ずっとそうやって生きてきた。
キリストだって、人間と神様の関係を、羊と羊飼いに例えている。
人間に限らず、社会を構成する生きものはみんなそうだ。
道徳は、そういう観点からすれば、その社会の枠を湿すものといえる。
いうなれば牧場の柵だ。
武士道にしても、騎士道にしても同じだ。
「武士道というは死ぬことと見つけたり」というのも、武家社会の構成員である武士が、羊である自分と羊飼いである主君との関係を如何するかっていう話のわけだ、結局は。
命を捨てて忠義を尽くすとか、大義のために死ぬとか。
そういえばなんか格好いいけれど、柵の中の自分を美化しているだけじゃないか。
武士が主君に絶対的忠誠を誓い、忠臣は二君に仕えずなんていうことをやかましくいうようになったのは、江戸時代になってからの話だ。その前の戦国時代は、「士はおのれを知る者のために死す」で、自分を高く評価してくれる主君がいれば、二君でも三君でもどんどん仕えた。
実力主義の時代と終身雇用の時代では、道徳は変わるのだ。
変わるのは当たり前だ。
牧場の柵なんだから。
牧場の持ち主が変われば、柵のカタチや場所が変わる。昨日まで自由に往き来できたところが、いきなり立ち入り禁止になったりもする。
道徳はしょせんそんなものだと思っていれば害はないのだけれど、普通には道徳を教えない。道徳が相対的なものだといいだしたら、誰も道徳を守ろうとしなくなるからだ。
だから、まるで永遠の不変真理のように道徳を教える。
世の中が変わらなければ、それでも問題はない。柵を柵と思わずに、自分が此処にいから此処にいるんだと思っている方が、羊はよっぽど幸せだ。
だけど、なかなかそうはいかない。この世はいつも動いている。
いちばんわかりやすいのは戦争に負けたときだ。
ある歴史学者が何かの本に書いているけれど、戦争とは、敵国の社会を成立させている基本原理に対する攻撃なんだそうだ。
「俺たちが正義だ。お前の考え方が間違っている」
そういって戦争するわけだ。 アメリカとソ連(当時)の冷戦も、まさくそういうものだった。太平洋戦争中に、日本が鬼畜米英なんていっていたのもそうだった。
戦争の勝ち負けと、どちらが正しいかは別問題だと思うけれど、現実には勝った方の正義が通って、負けた方は間違っていたことになる。負けた国は、その国を成り立たせている基本原理を否定される。今まで白だったことが黒になり、黒だったことが白になる。太平洋戦争に負けた日本の教科書は、あちこちを墨で黒く塗りつぶされた。
鬼畜だった米英の兵隊はヒーローになって、子どもたちはガムだのチョコレートほしさに追いかけ回す。子どもだけでなく、若い女もそうなった。今もそれが続いているのは夜の六本木あたりを歩けばすぐにわかる。
良いの悪いのなんて話をしているわけじゃない。道徳なんてそんなものだという話だ。
正義なんてものは、戦争に負けたくらいのことで簡単にひっくり返るのだ。
戦争の世代は、そのことを身に沁みて経験したはずだ。
戦後の教師は、それまでとまるで反対のことを、子どもに教えなくてはなくてはいかなくなった。真面目でいい先生ほど、そのことに悩んだり傷ついたはずだ。
いい加減で、人の尻馬に乗るのが大好きな奴は、そうでもなかっただろうけど。
戦後の日本で幅をきかせたのは、だいたいそういう連中だった。昨日までバリバリの軍国主義者だった奴らが、今度は占領軍の手先になって、またデカい顔をする。
腹の立つ話だ。
だけど生きものとして考えれば、そういう奴は環境適応力がすぐれているともいえる。
牧場主が自分の都合で牧場の柵を作るように、権力者は自分の都合で道徳をつくる。都合が変われば、道徳もコロコロ変わる。
ころころ変わるのが道徳の宿命なのだから。
学校で教わった道徳を、絶対と信るからおかしくなる。
戦後の日本が世界も驚くような復興を遂げたのは、戦前の道徳がひっくり返って、道徳なんてどうでもいいやってことになったおかげともいえる。人生はなんぞやなどという難しい話はやめて、ひたすら経済活動に邁進したおかげで今の日本がある。かってはエコノミックアニマルなんていわれたものだけど、それはつまり道徳を失った動物ってことだろう。
今更になって、日本人はエライとかスゴイとか、日本人の道徳を取り戻せなんていい出したのは、その反動にちがいない。
だけど、なんだかそれも虚しい。
世の中の道徳が変わったからといって、自分まで変わる必要はない。誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々としたがうとバカを見る。
それはもう、すでに昔の人が経験済みのことだ。
(注)今日は、大晦日ということで、新書版5ページを延々と書いてみました。私は、この北野武氏の文章の鋭さ、凄さに感銘しています。みなさんも、是非お読みいただければ幸いです。
社会という大きな枠に、その社会の構成員は囲い込まれて生きている。構成員にはいつもその枠からできるだけはみ出さないように、という圧力がかかっている。
人間は大昔から、ずっとそうやって生きてきた。
キリストだって、人間と神様の関係を、羊と羊飼いに例えている。
人間に限らず、社会を構成する生きものはみんなそうだ。
道徳は、そういう観点からすれば、その社会の枠を湿すものといえる。
いうなれば牧場の柵だ。
武士道にしても、騎士道にしても同じだ。
「武士道というは死ぬことと見つけたり」というのも、武家社会の構成員である武士が、羊である自分と羊飼いである主君との関係を如何するかっていう話のわけだ、結局は。
命を捨てて忠義を尽くすとか、大義のために死ぬとか。
そういえばなんか格好いいけれど、柵の中の自分を美化しているだけじゃないか。
武士が主君に絶対的忠誠を誓い、忠臣は二君に仕えずなんていうことをやかましくいうようになったのは、江戸時代になってからの話だ。その前の戦国時代は、「士はおのれを知る者のために死す」で、自分を高く評価してくれる主君がいれば、二君でも三君でもどんどん仕えた。
実力主義の時代と終身雇用の時代では、道徳は変わるのだ。
変わるのは当たり前だ。
牧場の柵なんだから。
牧場の持ち主が変われば、柵のカタチや場所が変わる。昨日まで自由に往き来できたところが、いきなり立ち入り禁止になったりもする。
道徳はしょせんそんなものだと思っていれば害はないのだけれど、普通には道徳を教えない。道徳が相対的なものだといいだしたら、誰も道徳を守ろうとしなくなるからだ。
だから、まるで永遠の不変真理のように道徳を教える。
世の中が変わらなければ、それでも問題はない。柵を柵と思わずに、自分が此処にいから此処にいるんだと思っている方が、羊はよっぽど幸せだ。
だけど、なかなかそうはいかない。この世はいつも動いている。
いちばんわかりやすいのは戦争に負けたときだ。
ある歴史学者が何かの本に書いているけれど、戦争とは、敵国の社会を成立させている基本原理に対する攻撃なんだそうだ。
「俺たちが正義だ。お前の考え方が間違っている」
そういって戦争するわけだ。 アメリカとソ連(当時)の冷戦も、まさくそういうものだった。太平洋戦争中に、日本が鬼畜米英なんていっていたのもそうだった。
戦争の勝ち負けと、どちらが正しいかは別問題だと思うけれど、現実には勝った方の正義が通って、負けた方は間違っていたことになる。負けた国は、その国を成り立たせている基本原理を否定される。今まで白だったことが黒になり、黒だったことが白になる。太平洋戦争に負けた日本の教科書は、あちこちを墨で黒く塗りつぶされた。
鬼畜だった米英の兵隊はヒーローになって、子どもたちはガムだのチョコレートほしさに追いかけ回す。子どもだけでなく、若い女もそうなった。今もそれが続いているのは夜の六本木あたりを歩けばすぐにわかる。
良いの悪いのなんて話をしているわけじゃない。道徳なんてそんなものだという話だ。
正義なんてものは、戦争に負けたくらいのことで簡単にひっくり返るのだ。
戦争の世代は、そのことを身に沁みて経験したはずだ。
戦後の教師は、それまでとまるで反対のことを、子どもに教えなくてはなくてはいかなくなった。真面目でいい先生ほど、そのことに悩んだり傷ついたはずだ。
いい加減で、人の尻馬に乗るのが大好きな奴は、そうでもなかっただろうけど。
戦後の日本で幅をきかせたのは、だいたいそういう連中だった。昨日までバリバリの軍国主義者だった奴らが、今度は占領軍の手先になって、またデカい顔をする。
腹の立つ話だ。
だけど生きものとして考えれば、そういう奴は環境適応力がすぐれているともいえる。
牧場主が自分の都合で牧場の柵を作るように、権力者は自分の都合で道徳をつくる。都合が変われば、道徳もコロコロ変わる。
ころころ変わるのが道徳の宿命なのだから。
学校で教わった道徳を、絶対と信るからおかしくなる。
戦後の日本が世界も驚くような復興を遂げたのは、戦前の道徳がひっくり返って、道徳なんてどうでもいいやってことになったおかげともいえる。人生はなんぞやなどという難しい話はやめて、ひたすら経済活動に邁進したおかげで今の日本がある。かってはエコノミックアニマルなんていわれたものだけど、それはつまり道徳を失った動物ってことだろう。
今更になって、日本人はエライとかスゴイとか、日本人の道徳を取り戻せなんていい出したのは、その反動にちがいない。
だけど、なんだかそれも虚しい。
世の中の道徳が変わったからといって、自分まで変わる必要はない。誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々としたがうとバカを見る。
それはもう、すでに昔の人が経験済みのことだ。
(注)今日は、大晦日ということで、新書版5ページを延々と書いてみました。私は、この北野武氏の文章の鋭さ、凄さに感銘しています。みなさんも、是非お読みいただければ幸いです。