雪月花 季節を感じて

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雪月花

2007年08月02日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 梅雨明け宣言を聞かないまま、葉月はさわやかな夏空で明けました。昨日は一日かけて虫干しをしまして、家の中も気分もすっきり。週末は花火大会へ出かけて、短い夏を味わいたいと思います ^^
 先日、『日本の伝統文様事典』(片野孝志著、講談社)に「雪月花」の紋を見つけて、さっそく消しゴムはんこにしてみました。(左端の画像) 「雪輪」と「月」を組み合わせて輪花文風にしたものでしょうか。めだかの印とともに、今後愛用したいと思っています。

 七年前、自分のホームページを開設するきっかけとなった言葉を思い出します。「日本文化のアイデンティティとは、季節感ではないか」─ 深く感じるものがあって、これをわたしなりにホームページに具現したいという思いから出発して七年がすぎました。「雪月花 季節を感じて」というタイトルはずっと変わりませんけれども、この七年の間に「雪月花」への思いは大きく変わりました。備忘録のつもりで、それをここに書き留めておこうと思います。


● 「雪月花」は日本の季節感と美の象徴?
 タイトルを「雪月花」にした理由は単純。きれいで、そして「日本文化のアイデンティティ」であるという季節感と、その美を代表するものを集めた言葉だったからです。(われながら浅はか) でも、いったい「雪月花」はどこから来た言葉なのでしょう。それは二年後、読者の方から教えていただきました。

 琴詩酒友皆抛我 雪月花時最憶君 (白居易 『寄殷協律』 より)

「雪月花の時、最も君を憶(おも)う」‥ 琴詩酒の友はみな去った。いま雪月花に親しむとき、君(遠い任地にいるかつての部下のこと)をなつかしく思い出す。ちなみに、この歌の花は桜ではなく梅で、『万葉集』にみられる日本最古?の雪月花の歌もまた、梅を詠んでいます。

 宴席詠雪月梅花一首
 雪の上に照れる月夜に梅の花 折りて送らむはしき子もがも
 (大伴家持)

 白居易も家持も、自然の姿に相手を思いやる気持ちを重ねたことでは同じでしょうか。「雪月花」には、美しいものに触れたとき、それを共有したい友や縁者への思いやりがこめられているのかしらと、(当時は)思ったことでした。

● あるべきよう
 作家の川端康成が、ノーベル文学賞受賞記念講演で発表した挨拶文『美しい日本の私』の冒頭に、

 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり
 (「本来の面目」 道元禅師)

が紹介されています。「本来の面目」というくらいですから、春に花が咲き、ほととぎすが夏を告げる‥という、至極当然なことを並べただけの歌なのですけど、当然のことが当然にあることへの気づきとよろこびに満ちており、これを禅語は「無事是貴人」ともいっています。さらに、道元禅師に学んだ良寛の辞世が、同じ内容の歌であることも同書から知りました。

 形見とて何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉

 わたしにとって、このときが道元と良寛との初めての出会いだったのですけど、このふたつの歌が、さらにわたしの好きな『徒然草』第十九段の「折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ‥」や、芭蕉の『笈の小文』の「造化にしたがひて四時を友とす」の文とも重なって、雪月花を愛でるこころというものを教わりました。
 そんなころ、旧ホームページに綴りましたのが「雪月花のこと」(2005年8月7日付記事)です。毎年めぐり、日々うつろい、自分がこの世を去った後も繰り返される四季というものの在り方に対して、なんの解釈も持たず、ただ有難く受けとめてゆく暮らし。それが、「雪月花」の極意なのかという思いを抱いて書いたのでした。

● 悉有仏性(しつうぶっしょう)
 『平家物語』に、平清盛から寵愛を受けた白拍子・祇王が、もうひとりの白拍子・仏御前の出現によって、清盛から見離されたときの歌があります。

 仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり
 いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそかなしけれ


これは、仏語の「悉有仏性」(一切の衆生は仏性をそなえていること)を踏まえて、祇王が舞いながら清盛に哀訴した歌ですけれども、このとき覚えた「悉有仏性」の意味を、わたしはずいぶん長い間誤解していたことに、最近ようやく気づきました。それまでは、「悉有仏性」を「悉(ことごと)くに仏性有り」、つまり、この世のものすべてに仏性が宿っている、と読んでいました。ですので、仏教(とくに禅)の修行とは、自分の中にあるはずの仏性を見つけ出すためのものと考えていたのです。
 ところが、道元禅師の教えを説いた本の中には、こうあります。

 「悉く仏性有り」と読むとき、‥一つの物体の中に、たとえば私の中に、仏性と仏性でない場所が混在している、一つの体の中に尊いものとそうでないものが混在している、そんなひびきがあります。
 道元さまの読みはそうではありません。「悉有は仏性なり」とまっすぐにお読みになるのです。「有」というのはあるなしではなく、存在そのものをいうのです。存在そのものが即仏性だというのです。むしろ仏性が縁にしたがって無限の展開をして、犬となり猫となり、皆さんとなり私となったのだということです。

 (青山俊菫著 『道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ』 より NHKライブラリ)

 まずかたちを持たない仏性があり、それが縁と仏の“御はたらき”によって、さまざまな目に見えるかたちとなって展開(出現)する、というのです。そうしてこの世に現れた存在は、すべて有限である。これが、禅のいう「無から有を生じる」ということでしょうか。さらに、(深読みすると本筋から離れそうですが)これは、この世のすべては根っこのところ(仏性)でつながっている、と読み替えられないでしょうか。

● 「雪月花」 ─ み仏の声を聴く
 そこで、わたしはもう一度、道元と良寛の歌にもどらなくてはなりませんでした。ふたりの禅僧が同じように「雪月花」の歌を残したことを、あらためて考えなおすために。
 雪も、月も、花も、わたし自身も、仏さまの御はたらきによって仏性からこの世に生じたというなら、かれらの歌は、そのままお釈迦さまのお言葉であり、ご意思であり、その大いなる御はたらきを述べたものとして受け取るべきではないでしょうか。
 同書によれば、仏教においては仏の御はたらきのことを「実相」と呼び、これを言葉よりも重んじるのだそうです。花が散るという事実があって、そこから言葉が生じる。道元が「まず見よ」といい、文字や目に見えないものの存在を信じなかった理由もここにあるのでしょう。
 いまは、「雪月花」はお釈迦さまの声であり、また「雪月花」の歌は、「み仏の声に耳をすませなさい」という道元と良寛からのメッセージと受けとめています。


 上記のようなたいそう偏ったわたしの考えが、これから先もどのように変化してゆくかは分かりません。仏さまの現れ方はさまざまで、どんなかたちになって現れるかなんて、わたしのような凡夫の知るところではないのですから。
 今後また、「雪月花」に何かの気づきがあったとき、ここに書きたいと思います。

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 一筆箋


※ 今回ご紹介した 『美しい日本の私』 『徒然草』 『道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ』 は、
  さくら書房 で紹介しています。ご興味がありましたら読んでみてくださいね。

※ 2007年9月9日(日)まで、東京国立博物館平成館にて、特別展・足利義満600年御忌記念
  「京都五山 禅の文化」展が開催されています。

 
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