椿物語

2006年03月24日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 「椿に育てられ、桜を課題とし、竹に支えられて今日あります」と語った花道家が亡くなって二週間がすぎた。椿への長い長い旅路に終止符が打たれたのは平成十八年三月十日午前七時八分。奇しくも、わたしが椿の「散華」の記事をアップロードした日時と重なった。このことがどうしても偶然とは思われず、惜しまれつつあまりにも早く散った花に誘われるように、近くの小高い山懐にある椿苑まで車を走らせた。平日の公苑は人影もなく、去りゆく季節と来るべき季節のゆきかう空のもと、わが世の春とばかりに咲き誇る薄桃色の花をいっぱいにつけた有楽椿の木がわたしを迎えてくれた。その先には公営のフォト・サロンがあり、毎年この時期に椿の花と写真を展示している。わたしは有楽椿のそばを軽く会釈して通りすぎ、そのちいさな写真館に入った。
 手狭な会場に陳列された椿の花は、いったい何種類あったろうか。大輪のもの、筒咲きのもの、一重の八重の、絞りや斑入り、有香のもの、絵巻や屏風に描かれたものまで、まさに椿の百花繚乱。まだ訪れる人より会場を運営している裏方の人たちのほうが多い午前中だったにもかかわらず、会場は華やいでいた。ひとつひとつの花と語らい、笑みを交わすうち、いつしかわたしは花追人になったようだった。展示をひとまわりしたころ、ふと時間を持て余しているらしい人たちの話し声が聞こえてきた。話題はどうやらあの花道家のことらしく、いけばなに添えられていた江戸期の『百椿図』の写を見ているふりをしつつ話に耳を傾けているうちに、とうとう「ねぇ、あなた」と声をかけられてしまった。花道家から直接花芸の手ほどきを受け、名に花道家の一字をもらっていた女性だった。

   

 昭和二十二年、花道家の父が家族と焼跡の銀座を歩いていて、通りすがりの骨董屋で偶然見つけた『百椿図』の写本から、花道家の椿への旅が始まった。

 巨勢山(こせやま)のつらつら椿
             つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を

 (『万葉集』 坂門人足)

 日本は(北海道を除いて)太古から全土が椿に覆われた国だったというから、古歌に詠われたのはこの国の原風景といえる。花は原種の薮椿である。室町のころは茶花として育てられた“京椿”の時代、江戸期になると将軍家が愛好し奨励したこともあって、桜花を駆逐するほどの勢いで庶民にまで園芸ブームが広まり、この“江戸椿”の時代に椿は文化となった。いまでは亜種を含めると6,000種あるという。
 『百椿図』の原図を見ぬまま昭和四十四年に花道家の父は逝き、娘が遺志を継ぐことになる。のちに原本(伝 狩野山楽筆 『百椿図』、1663年頃)は旧家から東京青山の根津美術館に寄贈されていたことが分かり、ついに江戸時代前期、三百数十年前の椿物語がひもとかれることとなる。
 「桜が精神文化を語るとすれば、椿は生活文化を誇り続けている」という花道家の言葉どおり、『百椿図』には、茶碗や竹で編んだ籠などの生活道具への花あしらいや、三方や水指、扇などに添えたり懐紙に包んでみたりという楽しみ方が、ひとつひとつ、皇族や僧侶、武士、当時の文化人の賛を添えて紹介されており、なんとも雅びな絵巻物となっている。これはまた、このころの世の中がいかに平和であったかを物語っている。そして平成十五年、花道家は養女とともに、この『百椿図』をもとにした花芸作品を披露して「椿物語展」を展開し、歴史に育まれ多様な文化を形成してきた椿を顕彰したのである。

 日本を北限にアジアからはじまり、十七世紀以降にポルトガルやイギリスに渡って、十九世紀にはアレクサンドル・デュマ・フィスのオペラ『椿姫』が欧州を風靡する。アメリカにいたって椿ブームに拍車がかかり、西へ西へと伸びていった椿ロードは四百年の歳月を経て戦後の日本に帰ってきた。いまでは世界中に「国際ツバキ協会」が誕生しているという。欧米人の好む華麗な大輪咲きも、そのほとんどが日本の薮椿を母にもっている。そのせいか、日本人はどうしてもこの退紅色で一重咲きの花から逃れられないようである。もちろんわたしも例外ではない。しかし、と花道家は言う。「華麗に変身した洋種椿にも目を開く時が来ています。400年前海を渡り、地球をひと廻りした『カメリア・ロード椿の道』を振り返る今、日本文化の主体性が世界的な評価を持つに到る民族の自覚を問われている気がしてならないからです」。

   

 「先生は完璧主義の方でした。たくさんの花の中からよい花を数本だけ、選んでゆくような。 ‥いけばなの各流派とは目指すものが違うからと言って交わることもなく、最後までご自分の流儀を貫かれました。それをわたしたちが守ってゆかなくては。 ‥先生は豪華な八重咲きよりも、一重の清楚な花を好まれました」。椿展の会場でうかがった偉大な花道家の人柄は、薮蔭に人知れず凛と咲く一輪の椿の花を思わせた。

 みちとせをやちよにそへてももといふ つはきそ花のかきりしられぬ
 (『百椿図』本の巻より「桃椿」の歌 松花堂昭乗)

 玉椿見れともあかすさくはなに 八千よの春をなとや契らん
 (『百椿図』末の巻より「桑名椿」の歌 北村湖春)


 桜がこの国の春を荘厳するまで、もうしばらく、この花とともにすごそうと思う。


 【参考文献】 『安達瞳子の世界の名花 椿物語展』 図録 (2003年3月)
 
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14 コメント

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日本文化はすごい (さよ)
2006-03-24 11:37:06
今日ははじめの一歩♪で書き込めました。

昨日、おとといとコメントありがとうございます。

世の中ってつながっているのかな、不思議と親方の話から感じたこととつながります。



>日本文化の主体性が世界的な評価を持つに到る民族の自覚を問われている

そうなんだなあ、そうなんだなあと、とっても納得します。

ジャンルが違うもののイチローが燃えた姿もなんだか神様がそうさせたような気もします。

およろこびのことでしょう (朝子)
2006-03-24 13:54:47
最近テレビでもこの言葉を耳にしますが、私は子供の頃から「この世に偶然はない、皆必然です」と聞いて育ちました。人と人との出会いも同じで 偶然の出会いはなく、会うべくしてその人に出会ったのだから大事になさい、と。



雪月花さまが椿苑で安達先生に縁の方からお声をかけられたのも きっと天界から安達先生が雪月花さんに何かを伝えたくて その方に取り付いでいただいたように思えます。

きっとご自分の思いを雪月花さまが皆様にお伝えくださったこと、お喜びになっておられるのでしょうね。



明後日、お墓参りに京都へ行こうと思っております。

そろそろ元気の素が切れてきましたので充電に。
潮花の椿は・・ (黒潮丸)
2006-03-24 19:25:05
TB、有難うございます。



安達潮花は世田谷の自宅に1万5千本の椿を植えた。

瞳子が椿に育てられたというのは文字通り椿の中で育ったの意味であろう。



瞳子の家出・絶縁、潮花の死去で邸は荒れた。

その椿を資生堂が引き取ったというが、今を知らない。
TB有難う (絵手紙)
2006-03-24 20:46:41
TB有難うございます。

私などはただ表面しか見ていなかったような気がします。

いい勉強させて頂きました。有難うございます。

これからも宜しくお願いします。
厚葉木とか (櫻灯路)
2006-03-24 20:57:30
 福井県鳥浜貝塚から ツバキで造られた石斧の柄が出土した 5000年以上前になると言われている 古くから生活に密着していた そうして300年前に ポルトガルを通じて伝播して行った藪椿 ヨーロッパのどこだったか 多分ウィーンだったのではないか 藪椿の巨大な樹を観たことがある 花として実用として 古今東西に親しまれた椿 安達瞳子さんの御冥福を 今更ながらにお祈りしたい 僕の好きな胡蝶侘助をお供えして そう言えば雪月花さんは 一重の藪椿が好きでしたね
花の人 (みい)
2006-03-24 22:14:33
とう子さんは、「椿」そのもの、着物姿が凛と美しかったですね。

お父様が広島出身、とう子さんも子供の頃、疎開してらしたそうですね、美しい瀬戸内の風景を見ていたのでしょうか。

安達の「花の形」は瀬戸内の風景が、ルーツとか・・・

ご冥福をお祈りいたします。

椿 生ける とは… (neige)
2006-03-25 02:02:12
椿…と拝見して読ませていただいてから、しばらく時を置いておりました。椿にひかれているからこその、時間でした…。

正直、「椿を生ける」ということ、花を切って生けるということに、勝手ながら抵抗があるからかもしれません。「生ける」と言いながらも、命を絶っているではないか、という。。。すみません勝手な解釈で。



ただ、人はともすると植物に感謝することなく命を絶っているばかりの中、安達瞳子さんのように、感謝し、ご自身が「育てられた」という意識を持って、

椿の素晴らしさを伝えた方ならば、

椿を生かしている、数少ない人間でいらしたのかもしれない。安達瞳子さんの感性を通して、人はまた椿の素晴らしさを伝えていける。雪月花さんが、その担い手の一人に選ばれたかのように。



植物は、種子によって命を伝えていく。

人は、言葉によって感じた物の素晴らしさを伝えていく。

どちらも 命をつなぐ力なのかもしれない。むしろ人として生まれたからには、伝えていくのが使命なのかなと、新しく思わされました。

ありがとうございました。長文失礼いたしました。
Unknown (ささ舟)
2006-03-25 10:42:53
京都の宝鏡寺(人形寺)は後水尾天皇の皇女久厳尼から光格天皇皇女まで、代々皇女が落飾入山された門跡寺で、有名な植物が多い。椿では「村娘」がある。花は八重の深紅紫で中輪。少し内を抱えるように咲き、雄しべのいくつかは花弁化して白くなっている。三月末から五月のはじめごろまで中庭に咲く。この寺は三月一日から四月三日と十月十五日から十一月十日まで、人形展が開かれるので、ぜひお越し下さいませ。  
花道家を偲んで (あくあ)
2006-03-25 11:09:36
物心ついた頃によくテレビに出演されていた安達瞳子さんを見て、その気品あるきもの姿に強く印象づけられました。近頃は男性の華道家が騒がしいほど活躍されているなか、あのたおやかな女性が逝かれたことが惜しまれます。

椿への格別の思いが、お父様からの影響だったことを知り、私の惜別の念もいっそう深くなりました。

花道家を偲んで、拙い歌ですがTBさせていただきます。
いのち輝く (雪月花)
2006-03-26 07:42:56
安達瞳子さん(正しくは「瞳」でなく「日」に「童」です)を偲びつつ、いけばなにはまったくの門外漢でありながら、「生花(いけはな、せいか)」とはいったい何か‥ を考えていました。花を生けるという行為は「生活芸術」だとか、「祈りのこころの発露」だとか、それは椿を生涯追い続けた花道家の言葉であって、わたしの言葉ではありません。いまのわたしに明確なのは、花道家が確立した花芸の花が、わたしの目の前で生き生きと輝いている、という事実です。もちろん、ひとつの作品になるまでに、花道家によって花は取捨選択され、たくさんの枝や葉が落とされたことでしょう。ですが、ささやかな花器に抛入れられた花の輝きは真実です。まるでこの世の何よりも美しくあるよう“人為的に”いのち(生)を与えられたかのように─。一度は断たれたいのち、それをみごとに甦らせる花道家が確かに存在した。そのことに、感動するのかもしれません。



> さよさん、

おっしゃるとおり、庭師の親方のお話とまったく通じますね。親方も花道家も、それぞれの手法は異なっても、ゆきつく先の日本文化の“核”をしっかりと掴んでいるからでしょうか。そう、WBCでイチローが背負っていたものも、きっと同じだとわたしも思います。 ‥ふふふ、実はわたし、野球が好き♪ 珍しく饒舌でゼスチュアの多かったイチローですが、世界一!カッコよかったです ^^



> 朝子さま、

いつもお優しいお言葉を有難うございます。相変わらず花に誘われ浮かれ出づるこころのままふらふらしていてお恥ずかしいです。それに、「すべての出会いは必然、大切にすべきもの」というにはまだまだわたしは未熟です。自分の気持ちの向く方向にしかゆけなくて、いけません。明日からお里帰りなのですね。都の春風が朝子さまをやわらかくつつみますように。お元気になって帰ってきてください。



> 黒潮丸さま、絵手紙さま、はじめまして。

今回の記事がきっかけで貴サイトへ伺えましたこと、うれしく思っています。お父上(安達潮花氏)の「安達式挿花」に異論を唱え、家を出て破門され、独自の「安達流」を創設する花芸への道は、おそらくわれわれの想像を超える険しいものではなかったでしょうか。けれども、安達家のことはともかく、(いまでは残された図録などで見るよりほかないのですが)瞳子さんの花を見ましょう。それが、瞳子さんのすべてだと思っています。

余談ですが、資生堂の福原義春氏は、お父上の時代から安達家を見守られていらっしゃる方のようですね。日本の化粧品にはすべて椿油が使われていたという歴史から資生堂の椿マークが生まれたとか。このことは、今回のことがきっかけで知ったことでした。



> 櫻灯路さん、

五千年前のお話、驚きました。それだけ身近に椿の木がたくさんあったことの証ですね。五月に中欧の旅に出る予定なので、ウィーンの椿の大樹のこと、覚えておきます。有難うございます。櫻灯路さまは小石川植物園の椿を覚えていらっしゃいますか? 等伯の「松林図」も。あの節はお世話になりました。わたしの手もとにそのときの花の写真が残っております。御身くれぐれもお大事になさってください。西行も長生きしました。



> みいさん、

そうです、安達瞳子さんは疎開先の安浦から瀬戸内の海を見てこんな言葉を残しておられます。



「‥父は自然界の『動』を見つめていたのではないかと。瀬戸内の海は、静かですけれど止まっているわけではない。海の底からの動きを、ひとすくいの水に深い鎮(しず)もりとして表現する。それはまさに、安達の花の形なんです。そういうことを父は一度も説明しませんでしたけれど、自分を育ててくれた風土に影響を受けていたんだということが、そのときわかった気がしました」



むずかしい言葉だけれど、安達の花は「動」という一瞬を捉えることか‥ と考えれば、安達さんのいけばなは一瞬の美を捉えてその時間・時空を留め、わたしたちの目の前に差し出していらっしゃるのかもしれない。そんなふうに思えます。



> neigeさま、

neigeさまのコメントから「生ける」という行為を深く考えさせられました。冒頭にも書きましたけれども、おっしゃるとおり、「生かす」ことのできる人がいた、それが安達瞳子さんでした。また、何よりも、その人の花は美しく、花がすべてを語っているのだという視点に立てたことが今回の収穫です。とくに激しい生き方をされた花道家だっただけに、先入観で見てしまいがちだったのです。もしほんとうに“伝える担い手”としてわたしが選ばれたのなら光栄ですが、どうもうまく花たちに“操られた”気がします(笑) 椿をめぐってneigeさまのお話を伺い、わたしの狭い視野がぐっと広がりました。有難く思っております。



> ささ舟さま、

貴重な情報を有難うございます! 椿の花のころに霊鑑寺門跡の人形を拝見しました折、宝鏡寺門跡の人形展のことを教えていただきました。「村娘」椿のこと、忘れずにいつかきっと、見にゆきましょう。



※ 下記は京都・宝鏡寺門跡の人形展の情報です。今回は高村智恵子の紙絵も併せて特別展示されるようです。

 http://www.hokyoji.net/mein.htm



> あくあさん、

雨露にそぼぬれてつややかなまま、くれなゐの椿は別れを告げて落ちてゆく‥ 雨音も色もその光景も、あざやかに目に浮かぶお歌です。美しくたおやかに、凛と生きた花道家に捧げましょう。有難うございました。



 咲き乱るる紅の椿は雨に濡れ艶やかな葉に別れを告げる



みなさま有難うございました。

安達瞳子さんのご冥福をお祈りいたします。
椿一輪。 (道草)
2006-03-26 15:58:08
昔、疎開先の田舎の家で、母が椿の花を一輪生けていました。丹波の山村でも華道の先生がおられたのでしょう。何流か小学生の私に分るはずもなく、近くの薮陰に咲いている椿の方が綺麗だなどと、悪たれていました。今年、九十六歳で亡くなった母の三回忌を迎えました。菩提寺の境内に赤い椿が咲いていました。眼を閉じれば、六十年前に母が生けた一輪の赤い椿は、やはり綺麗だった、と思います。こちらむいて椿いちりんしづかな机(山頭火)。
RE: 椿一輪。 (雪月花)
2006-03-26 22:59:44
> 道草さま、

一輪の花がこころのともし灯になることがありますね。毎年この時期になると花のことが気にかかる一本の籔椿の木があります。安達瞳子さんが亡くなられてすぐ、その木に会いに出かけました。一時間半ほど電車にゆられてたどり着いたにもかかわらず、残念ながら今年は花が遅く、まだちいさな固いつぼみばかりでしたが、どういう訳かたった一輪だけ、落ちたばかりのようなみずみずしい花が木の根もとにあるのを見つけました。あぁこの花に呼ばれたのかと、ふと合点がゆきました。



 落椿とはとつぜんに華やげる (稲畑汀子)
さらなるカメリア・ロード (雪椿)
2006-04-08 23:52:07
はじめまして 

ツバキの花が大好きで 

ツバキにひかれてこの場所にたどりつきました。

私の住む場所はツバキそして雪椿の盛んな場所なので

幼い頃からツバキの中で育ちました。

私は華道家でも哲学者でもないので

命とか精神論的なものはわかりませんが

彼女が生ける一輪のツバキの美しさが好きでした。



日本文化の主体性が世界的な評価を持つに到る

民族の自覚を問われている

先に行われたトリノ五輪

荒川静香選手に、しなやかさ、たおやかという言葉と共に

日本人の美意識そして聡明な女性のすがたを

彼女を通して見た気がしました。

表彰台の頂点で手にした ツバキのブーケ

日本人とツバキとの運命的なものを感じました。



カメリア・ロード椿の道を経て日本に帰ってきたツバキ達は

今まで出会うことのなかった サルウィンやハイドゥンや唐椿などの

新たな原種と出会いさらなるカメリ・アロードを歩き始めています。

西王母とトウツバキとの交配種 “ベルサイユ”が

ベルサイユ宮殿の庭に植えられると聞きました。



私も彼女の感性や生き方を通してあらためて

ツバキの素晴らしさを感じました。

それゆえに彼女が逝かれたことが残念でなりません

安達瞳子さんのご冥福をお祈りいたします。

長文失礼いたしました。

RE: さらなるカメリア・ロード (雪月花)
2006-04-09 21:47:44
> 雪椿さま、はじめまして、ようこそお越しくださいました。

カメリア・ロードは、戦後の日本にもどってきてからも、なお新たな世界に伸びようとしているのですね。すばらしいお話を伺えて感激しています。有難うございました。そして、トリノ五輪の荒川静香さんの、荒川さんご自身が信じる美を追究して完成したたおやかな、情緒ゆたかなスケーティングに、わたしも雪椿さまとまったく同じもの─日本文化の主体性というもの─を見ていたことを知り、うれしい気持ちでいっぱいです。WBCで野球世界一に貢献したイチローもそうだったと思います。そして、安達瞳子さんも。安達先生のご遺志は、これから先生のお弟子さんたちやその方たちの花が受け継いで、カメリア・ロードにのってゆくでしょう。

ご紹介いただいたベルサイユ椿のように、美しいものはいともかんたんに国境を超え、ゆく先々で根を下ろし、浸透してゆきます。この国が歳月をかけて育んできた宝ものも、ぜひそうあってほしい。それなのに、わたしたちはその宝ものをいつのまにかどこかへ置き忘れてきてしまったのではないか。そんな思いからこの「雪月花」を綴っています。この椿のご縁を大切にしたいと思います。これからも雪椿さまの花物語など、機会がありましたらまたお聞かせください。楽しみにしています。