鎌倉 佐助の風街便り

陶芸、街歩き、クルマ、オーディオ・・。思いのまま徒然に

あわただしい年の瀬、今年もお父さんの影を慕いてスカイブルーの横浜めぐり…

2018-12-18 22:05:17 | 日記

毎年、年末ともなると落語の世界ではいつの頃からか「暮れの芝浜」と言って、多くの噺家さんが夫婦の機微を主題にした「芝浜」を演ずるようになっています。そしてわが家では、今を去ること15年前の暮れに亡くなった義父のお墓参りが年末の大事な行事の一つです。今年も「キミのお父さんは気持ちのまっすぐなステキな親父さんだったなぁ…」という感じで偲んでいた矢先の朝、いつものように新聞を読み進めるうちに、訃報欄に目が止まり「えっ!?」と呟いたきり、しばしカラダが固まってしまいました。

そして、「小円朝が死んじゃった。円之助の息子が死んじゃった。49歳は早過ぎるよ… 」とつぶやき、気がつくとウチの同居人さんを前に、今は亡きワタシの父の幼馴染だった三遊亭円之助とその息子・三遊亭小円朝の思い出を語り続けていました。

たとえば、11月15日にアップした当ブログにも、ワタシと父、そして円之助に関する思い出を記載したばかりでした。以下、その時の一部を…

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今となっては還暦を過ぎ、お酒ばかり飲んでいる不良中年となってしまったワタシですが、遡ること約57年前の七五三の折にはこんなシーンがありました…。スーツ姿の白ポチャはワタシの父。そして写真左側の痩せオトコは父の幼馴染み。当時、落語家・三遊亭小円朝に弟子入りして真打ちを目指し、朝三(ちょうざ)という名で二ツ目として修業中の身でした。ワタシは親しみをこめて「コイデさん」と呼んでいました。その後、朝三はこの数年後に真打ち・三遊亭円之助となり、晩年は落語協会の幹部の要職に就きました。

ワタシの幼少時、我が家に居候しながら師匠のもとへかよっていたコイデさんは当時のワタシにとってまさに格好の遊び相手。日々、一緒に遊んでもらい、そして目の前で落語を聴かせてもらっていた、とても「手の合う」仲間でした…。
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といった具合です。

ちなみにこのたび50歳を目前に亡くなった小円朝の本名である「秀帆」の名は、ワタシの父が円之助から「生まれた息子の名前を考えてくれ」と頼まれて名つけた経緯があります。ワタシの父はこの「秀帆」という名前がお気に入りだったようで、その後に知り合いの人から「子供の名前を考えてください」と請われたときに何度か「秀帆」を候補に挙げて何人もが「秀帆」と命名されてきています。かくして、父を囲んで知り合いの集まりの際、あそこにもここにも「秀帆」くんが遊び戯れているという光景がいくたびかありました…。

おりしも、父をとおして円之助と懇意にしていた母もこのたびの小円朝の訃報に触れて「円之助の息子がねぇ。まだ若いのに。私が代わってやりたかったわよ…」としみじみ語り、気がつくとお互い合掌していました。かくして平成最後の年の瀬は、思い出多き人の記憶を呼び起こし、そして区切りをつける時でもあるようです。

かくして、本日はウチの同居人さんの父が眠る横浜・本牧のお寺へお墓参りに。師走にもかかわらず、今年も春めいた陽気に恵まれた墓参の日となりました。これまで、厳しい寒さとなったことは一度たりともありません。

お寺の境内と奥の丘にあるお墓、そして隣の丘の上に佇むお宅の風情もまったく変わることはありません。

横浜・本牧の一角にあるこのお寺に詣でるたびに「こんなに陽当たりの良い場所に眠るお父さんはホントに幸せだ…」と、つくづく感じます。南方向には八景島や横須賀の丘がゆったりと広がります。


東には東京湾の向こうに遠く千葉・木更津方面…。


北東方向には横浜ベイブリッジの橋塔もくっきり見渡せます。


お墓を後にして暮れの慌ただしいさなか、元町、山手方面へと少しばかりまわり道して、しばしプチドライブ…。山手の尾根筋を貫く道路からは、平成の時代に入って急速に発展をとげた みなとみらい の雄姿が望めます。


通りの両側にはフェリス女学院や重厚な造りの教会をはじめ、趣きある建物が目白押し。

この通りをドライブする時はいつも、ウチの同居人さんは頼みもしないのに「このお店は…」「あのお店は…」と、若い頃の思い出をオーバーラップさせて良くしゃべります…。

山手の洒落た街並みを経て簑沢まで走ると、そこは高台にもかかわらず下町の風情。

朽ちかけた木造の古家やお蕎麦屋さんが並ぶ光景を前に、「やっぱり自分は昭和がしっくり来る」と、妙に納得してしまいます。

そして、今もかろうじて残る旧根岸競馬場メインスタンドを望める場所まで。

なんとも良い風情を醸し出しています。今ではこのような感じの建物は作ることは出来ないのでしょう。なぜでしょうか? でも、ワタシの生業たる陶芸においても先人が遺した趣きある作品に肩を並べる作を生み出すことはまず不可能でもあります。時代は確実に変わってきているということなのでしょうか。

根岸で生まれ育った同居人さんから、幼い日々のお父さんや街の様子を聞きながら、帰途につく途中、焼き物を焼く際に窯にお供えする「森戸の清め塩」を求めて、葉山・森戸神社へ向かいます。神社では「大晦日の大祓い」の案内や、年末発行のお正月特集雑誌の撮影と思われる和服姿のお嬢さんの姿が見受けられて、早や約10日後の「年末年始モード」が色濃く流れています。


帰り際、富士山や江ノ島、大山を向こうに真っ青に広がる相模湾を眺めつつ


慌ただしい年の瀬、今年もつかの間の心安らぐ時を与えてくれたお父さんに合掌…。







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