鎌倉 佐助の風街便り

陶芸、街歩き、クルマ、オーディオ・・。思いのまま徒然に

「文化の日」に思う、七五三と三遊亭園之助・・。

2011-11-03 20:11:07 | 日記

本日11月3日は文化の日。文化勲章授章者の方々の話題や、全国各地で行われたさまざまな催しの様子がテレビ等でしきりに紹介されていました。

なかでもひときわ目をひいた報道は、「着袴の儀」ならびに「深曾木の儀」に臨む秋篠宮悠仁さまのお姿でしょう。「着袴の儀」は、一般の人々の「七五三」にあたる行事とのことでそうですね。悠仁さまがお生まれになってもう早や5年・・。あらためてこの5年間のわが身の道程を振り返ってみると、ちっとも進歩していません、断言できます。まこと、困ったものです。

ひるがえって、成長著しい悠仁さまの「着袴の儀」、ならびに世間一般の「七五三」つながりで、お次のような一席・・。

昨夕、同居している母のもとへいつものように夕刊を届けにいくと、母が笑みを浮かべながら「面白いモノが出てきたわよ」と言って、一枚の写真を手渡してくれました。その写真はセピア色。

うーん、今からちょうど半世紀前。私の七五三の時の写真です。写真画面において私の右側・背広のシロポチャ男が私の父です。そして、左側のコートに身を包んだ男性は、私の父の幼馴染・コイデさんです。彼の姓は高橋なのですが、なぜかみんなは「コイデさん」と呼んでいました。それにしても見事なまでに「昭和」な写真です。

この写真の撮影者は私の母。そして撮影場所は、私にとって父方の祖父母が住んでいた東京都豊島区高松の家・・。今から半世紀前のことなのに、その時の状況をはっきりと覚えています。幼いころの記憶力、素晴らしい限りです。今では、昨日なにをしていたかさえ定かに記憶していない有様なのに・・。


父とコイデさんは本当に仲が良く、当時の私はいつもこの二人と一緒に上野動物園やデパート、浅草の「花やしき」という遊園地あたりに出かけていました。当時、父は考古学を研究しているしがない学者の卵。そしてコイデさんは落語界において二つ目・「朝三」という名で修業中の身でした。父とコイデさんは無類の酒好きで、私を連れて街を歩いているとふいに私に「歩き疲れた? オナカ減ったでしょ?」と言ってはお店に入り、私をそっちのけでビールをぐいぐい飲ってました。困った人たちです。

その後、父は考古学を生業とし、二つ目のコイデさん・朝三は三代目・三遊亭園之助を襲名し最終的には落語協会の重鎮になるに至りました。父とコイデさんは子どもの時から寄席通いをしていた仲で、その青春期に私の父がコイデさんに「お前、落語家になったらどうだい」と言ったことが、三遊亭園之助誕生のきっかけだったとか。

そういえば、私も若い頃に父から「キミ、焼き物って面白いよ。やってみたらどうだい」と言われてましたっけ。ちなみに父から考古学の教えを受けた方々もその多くが考古学を生業としているようです。家ではボーッとお気楽一辺倒だった父ですが、お酒も後進の指導もその実、「勧め上手」だったのかも。

ともあれ、「文化の日」、「着袴の儀」、「七五三」と三題話のお題のようにつらつらと昔をふりかえってしまった次第です。

常々、ウチの奥さんから「アンタはお気楽でいいね・・」とあきれられている私・・。その「お気楽文化」の礎を築いてくれた父とコイデさんにあらためて感謝! 本日、「文化の日」ですから。


ちなみに園之助は二十数年前に、私の父は5年ほど前に他界しました。さぞや今頃、天国でこの二人は毎夜杯を酌み交わしていることでしょう。

たとえば落語において「コイデさん」という演目があったとすれば、ここまでがいわゆる「マクラ」というヤツでしょうか。この先、「コイデさん」という演目は折に触れ、当ブログにてコソコソと果てしなく続く気配を自ら感じます。

愛しき三遊亭園之助とウチ・倉田家がともに歩んだの昭和の噺のオチは?。できることなら、園之助の「お後がよろしいようで」との言葉を聴いてみたかった・・。

本日、私なりに「お後がよろしいようで・・」。












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