Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

星野文昭さん亡くなる

2019-06-03 | Weblog

星野文昭さんが亡くなられた。

私が『ブラインド・タッチ』の主人公のモデルとさせていただいた方である。

二十年近く前、獄中結婚されていた暁子さんと文昭さんに、文昭さんが出所できた後のことを想定した戯曲を書いていいかと尋ね、承諾を得た。そう記憶していたが、暁子さんが芝居にして下さいと申し入れられたという話もあって、記憶は定かでない。ただ、私が獄中結婚の劇を書きたいと思い、その頃、文昭さんの冤罪を晴らすための運動に出会ったのは、確かである。もちろん『ブラインド・タッチ』はフィクションだから、お二人の現実そのままではない。

 

共同通信が発した文昭さん死亡の第一報は、関係者の話とされているが、おそらくそうではない。体制側の情報である。

星野さんは冤罪なのだ。無実の罪で無期懲役の判決を受けていた。

1971年の渋谷事件。沖縄返還協定反対闘争の一環である。警察官殺害の罪を被せられ、75年に逮捕。証拠を確かめれば明らかなことだが、事件当時彼は物理的に離れた場所にいて、「実行犯」にはなりえない。どうみても無実の文昭さんに対し、最高裁は87年、無期懲役を確定。44年間、獄の中に閉じ込められ続けてきた。

 

昨年夏の猛暑の中、文昭さんは倒れた。徳島刑務所はたった一日、病舎で休ませただけだったという。家族や弁護団が原因究明の検査を徳島刑務所に要求し続けたが、実施しなかった。本年3月4日になって初めて、腹部のエコー検査を実施した。だが検査結果は文昭さん本人には告げられなかった。

4月18日に突然、徳島刑務所から昭島の「日本成人矯正医療センター」に移送された。一般施設のように見えるが、外界との接触ができない、刑務所の中と同じルールで過ごさねばならない施設である(写真)。

そこでの検査で、肝細胞がんだと告げられた。

 

5月28日の肝臓からのがん摘出手術は成功と伝えられ、胸をなで下ろしていた。

翌日、容体が急変。出血が止まらず危篤状態になった。

医療センターに泊まり込んでいた暁子さんだが、面会には厳しい制限があった。危篤状態になってさえ、家族としての面会、付き添いが拒絶され続けた。弁護士や支援の皆さんが面会できるよう掛け合った。その努力は実り、ようやく十分間の面会が許された。

 

そして、30日木曜日、私が劇作家大会のための会議に出ていた正午過ぎ、暁子さんから「一日二回面会しています。ハグも握手も。」というメールが届いて、私は会議の真っ最中なのに、涙がこみ上げてくるのを抑えられなかった。

出会って33年の文昭さんと暁子さんが、文昭さんが死線をさまよう状態で、初めて直接ふれあうことができた。「ハグも握手も」。初めてなのだ。

 

そのあと昭島の医療センターに駆けつけた。支援者が見守る中、私ともう一人だけ、暁子さんに弁当を渡す係としてゲートエリアに入ることを許され、激励した。疲労の色は隠せなかったが、暁子さんの目は、真っ直ぐに現実を見据えていた。

その後、その日午後9時44分、文昭さんは逝去された。


鷺宮の葬祭ホールで、初めて、じかに、文昭さんのお顔を拝見した。暁子さんと一緒にいる文昭さん。このお二人が、私の肉眼に、ほんとうに、一緒に写っている。夢のような瞬間であるが、それが文昭さんが亡くなって初めて実現することだという残酷。

 

患者として四国から東京に移送する体制に問題はなかったのか、術後の管理は間違いのないものだったのか。法務省・徳島刑務所による、一種の医療放棄の疑いを指摘する声もあるという。そうした点も含めて、きょう、記者会見が行われる予定である。

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする