Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

歴史を知らないと責任を語れない

2013-02-19 | Weblog
『カウラの班長会議』、舞台美術打合せ。模型を見て話が進む。……稽古場近くのファミレスで仕事をしていると、近くに座る人たちの会話が耳に入ってくる。何者なのか。どういうグループなのか。彼らにとって何をしている時間帯なのか。どうしても耳に入ってくる以上、この社会にこのように人間が生きているのだ、と感慨深く聞いてはいる。たまたま隣席に座った、ほとんど言われている言葉を理解できない三歳以下の子供に、とうとうと中学生にさえ難しいかもしれない言葉で同じ事を繰り返し繰り返し叱っている神経質な父親には、呆れた。自分のストレス発散と、同席している義母にいいところを見せようとしているつもり、の混合のようだ。義母の困惑に気づいていない。この家は虐待も家庭内暴力もあり得るだろう。全てのことには原因がある。……「ピースおおさか」の「南京大虐殺」展示撤去の話は、ひどい。展示を「空襲などに特化」だそうだ。私は「自虐史観」というコトバが嫌いだ。歴史を捏造してはいけない。被害者でいることを強調するのでなく、加害者であったことを認めることの方が重要だ。自分が被害を受けたとすれば、それがどのような経緯の結果かを知ることが必要だ。「責任を取ること」「正しく歴史を知ること」を、誰が遮ろうとしているのか。この「責任」は過去のことばかりではない。誤った歴史認識を放置していることは、「現在の責任」だ。……五十年前にできた「茨城県民の歌」、歌詞と曲を公募して一九六三年に制定されたというその三番は、当時、次世代のエネルギーと期待された原子力を「世紀をひらく原子の火」と直接礼賛する。そして「このあたらしい光」で「あすの文化をきずくのだ」、と高らかに歌う。福島での原発事故の後、歌詞を問題視する声が相次いでいるという。公募に提出された当時高校教員だった人によるオリジナルの歌詞では「原子」という言葉を用いていないという。当時の審査委員会が原子力賛美を強調する手直しをしたらしい。というか、震災による福島の事故を契機としてでなく、十四年前、まさにご当地というべき東海村事故のさいに、この論議が出るべきだった。いずれにせよ県は「県民に長く親しまれてきた歌」として「歌詞を変える予定はない」としている。県当局の思惑とは別に、将来の人たちは、「歴史を知ること」はできるだろうが、この時代の人たちが「責任を取ること」からはほど遠い対応をしていたことも、知ることになるだろう。未来の人から見られたときに恥ずべき行為は行いたくない、というのは、自然と人間に備わるべき「常識」であってほしい。ごまかしと捏造は、見苦しい。……『カウラの班長会議』にあらわれる「カウラ事件」も、「戦陣訓の教え」から「帝国軍人に捕虜はいない」とされていた戦時中はもちろん、戦後長い間、日本国民に知られることはなかった。以前よりも知られるようになったことには、オーストラリアと日本のさまざまな人たちの努力がある。感謝と敬意を表したい。
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