明神男坂のぼりたい
「ちょっと冷えそうだな」
明菜のお父さんは、開けたドアを締め直し、ジャケットを掴んで助手席から車を降りた。
仲居さんや番頭さんたちが、案内や荷物運びのために車の周りに寄って来る。
予約はしてあったんだろうけど、かなりの常連さんのよう。
「あ、タバコ切らしたから買ってくる」
「タバコだったら、フロントにございますが……」
「ありがとう。でも、先月から銘柄変えてね。なあに、店はとっくに調べてあるから。じゃ、ちょっと」
「すみませんね、お寒い中、お待たせしちゃって」
お母さんが恐縮する。
「ちょっと庭とか見てっていいかな?」
「ええ、いいわよ。玉美屋さんの庭はちょっと見ものよ。そうだ、あたしもいっしょに行こう」
「では、お荷物はロビーに運ばせていただきます」
仲居さん達は甲斐甲斐しく荷物を運ぶだけではなく、何人かは、お父さんとあたしたちを玄関前で待ってくれて、ひとりは案内に付いてきてくれる。客商売とは言え、なかなかの気配り。
「ほんとに、きれいなお庭」
「回遊式庭園では箱根で一番よ」
「温泉旅館て、傾斜の多いところに立ってるから、これだけの庭を作るのは大変みたいよ」
なるほど、振り返ると、建物は傾斜の上に段々になっていて、この庭を見下ろす形になっている。
梅が満開。寒椿なんかも咲いていて、ほんとにきれい。まだ春浅いのに庭の苔は青々としている。
カコーーン
え?
小さく驚くと「鹿威しが、あちらに」と仲居さんが説明してくれる。神田の街中で暮らしているので、こういう雅なものには縁が遠い……っていうか、こんなに高級な旅館は初めて。
奥へ進むと、ほんのりと温泉の匂い。
「そこの芝垣の向こうが露天風呂になっています」
「じゃ、そこの岩の上に上ったら覗けるかもね」
「ホホ、身長三メートルぐらいでないと、岩に上っても見えないでしょうね」
と、お付きの仲居さん。
「見えそうで見えないところが、情緒あっていいのよね」
明菜のお母さんは面白がる。
パン パン パン
え!?
鹿威しの一種?
いや、仲居さんの顔も訝しんでる。
「パンクかしら?」
立て続けに三回もパンクが起こる訳がない。
『大変だ! 人が撃たれた!』
どこかのオッサンの声がして、あたしたちも、声のする旅館前の道路に行ってみた。
「キャー! お、お父さん!」
明菜が悲鳴をあげた。明菜のお父さんが胸を朱に染めて倒れていた。
「さ、殺人事件!? け、警察! 救急車!」
旅館の人たちも出てきて大騒ぎになった。
「みなさん、落ち着いてください!」
お母さんは、つかつかとお父さんに近寄ると、お父さんの横腹を蹴り上げた。
「ゲフ……痛いなあ、怪我するだろ」
ぶつぶつ言いながら、血染めのお父さんが立ち上がった。
え…………?
みんな、あっけにとられた。
「こんな弾着の仕掛けで、あたしがおたつくとでも思ったの。しかし、あなたもマメね。いまどき潤滑剤の付いてないコンドームなんて、なかなか手に入らないわよ」
お母さんがめくると、お父さんの上着の裏には、破裂したコンドームがジャケットを真っ赤にしてぶら下がっていた。
「おーい、失敗。カミサンに見抜かれてた」
向こうの自販機の横から、いかにも業界人らしいオッサンがカメラを抱えて現れた。
「これ、年末のドッキリ失敗ビデオに使わせてもらえるかなあ」
「やっぱ、杉下さん。あなたの弾着って、クセがあるのよね」
「アキちゃんにかかっちゃ、かなわないなあ」
そのときの、お母さんの横顔で思い出した。梅竹映画によう出てる稲垣明子だ!
当惑を通り越して、憮然としてる明菜には悪いけど、あたしはワクワクしてきた。
※ 主な登場人物
鈴木 明日香 明神男坂下に住む高校一年生
東風 爽子 明日香の学校の先生 国語 演劇部顧問
香里奈 部活の仲間
お父さん
お母さん 今日子
関根先輩 中学の先輩
美保先輩 田辺美保
馬場先輩 イケメンの美術部
佐渡くん 不登校ぎみの同級生
巫女さん
だんご屋のおばちゃん
明菜 中学時代の友だち 千代田高校