●●志忠屋亭主 雑口雑言●● ☆☆滝川浩一☆☆
●亭主、更に観劇す 「桜の園」(3)
●いよいよ芝居が始まった。原作通りの台詞が交わされる、総ての台詞を覚えているわけではないが、違和感は無い。ところが、この導入部からしてそこはかとなく可笑しい。台詞のニュアンスが変わっている、殊更ギャグを挿入せずとも、それだけで笑いが起こる。
●「泣き」の芝居と違って、「笑い」には注釈が必要である。100年前には笑えた状況も、現代人には意味不明である事が多い、よって、現代的に台詞を変えたりギャグを挿入する必要がある……と、早速エピホードフ(高木渉)にいかにもテレビバラエティー的なギャグが…「これはやり過ぎ?」と思うも会場の反応は温かい、そしてまた原作通りのやりとりに戻って行く。
●見ていて感心したのが、このシーンに出ている人々の人間関係がすんなり理解出来る事。ロシア戯曲のネックは、まず人名に馴染みが無いこと、またやたらと重々しく演じられる為、台詞に込められた意味になかなか到達できない、だから、当然の帰結として人間関係の把握に時間がかかる。だが、笑いを導入する事によって、見事にこの呪縛が外されている。私だけなら、過去の経験から判るのだろうと言われそうだが、一緒に行った友人が本作初見にも関わらず、頭から全部判ったと言っている。
●以後、これは挿入ギャグだなと思う台詞もあるが、基本、元のテキストのまま、チェーホフが本作を喜劇として書いたのだと確信、三谷の読み解き方は間違ってはいない。
●以降、次々と登場する人物達が各々少しずつズレており、各人がそれぞれにそこはかとなく可笑しい。
●筆頭は、やはりラネーフスカヤ(浅丘ルリ子)だろう、この人は“絶品”である。天然の貴族夫人の可笑しさ
、それ故の悲しみ、しかし本人は自覚も後悔もしていない、と言うより理解していない。今や、世界はその様相を変えようとしている。その激動の時代の荒波を、木っ端のように、全く無防備に前世紀の遺物が渡って行く……このイメージ、そこにラネーフスカヤの悲劇があるのだが、浅丘はそれこそ自然体でさらりと演じている。まるでラネーフスカヤその人がそこに佇むようである。
●次いで、これも無邪気ではあるが、新しい世界を積極的に生きようとするアーニャ(大和田美帆)とトロフィーモフ(藤井隆)がフレッシュだった。殊に藤井は出色の出来と言って良い。もとより彼を単なるコメディアンと見た事はなかったが、今回の舞台には驚かされた。
●三谷は「桜の園」を何から何まで笑いに変えたわけではない。三幕ラスト、桜の園が競売に賦されたその後、ロパーヒン(市川しんぺー)が「桜の園を買い取ったのは、農奴の倅のこの俺だ!」と叫ぶシーンはそのままである。ただ、ここに至るまでが笑いの連続なので、かえってこの台詞の残酷さが浮かび上がる。
●ロパーヒンは、この物語の冒頭からラストまでほぼ出ずっぱりの役、彼一人だけが事態を正しく把握しており、終始状況打破の為に説得するのだが全く受け入れられない。市川は、この役を極めて誠実に演じていたが、この日は疲れが出たのか声を飛ばして(喉を潰して)いた。それが力みに繋がったようで、声が正常であれば違った演技だっただろうと思われる。
●他にも何人か、声を飛ばしている役者がいたが、ナマモノの舞台としては、こういう日も避けがたい。
●阿南健次(没落地主ピーシク)は、いかなる役にも飄々と入っていく人なのだが、今一乗り切れていないように見えた。あるいは旧来の「悲劇」作法に引きずられたか?
●旧来の作り方にこだわりが有りそうなのは神野美鈴(ワーリャ)もそうなのだが、しかし彼女は三谷演出に添うべく努力しているのが良く判る。今後、この舞台で大化けする人がいるとすれば彼女に違いない。
●亭主、更に観劇す 「桜の園」(3)
●いよいよ芝居が始まった。原作通りの台詞が交わされる、総ての台詞を覚えているわけではないが、違和感は無い。ところが、この導入部からしてそこはかとなく可笑しい。台詞のニュアンスが変わっている、殊更ギャグを挿入せずとも、それだけで笑いが起こる。
●「泣き」の芝居と違って、「笑い」には注釈が必要である。100年前には笑えた状況も、現代人には意味不明である事が多い、よって、現代的に台詞を変えたりギャグを挿入する必要がある……と、早速エピホードフ(高木渉)にいかにもテレビバラエティー的なギャグが…「これはやり過ぎ?」と思うも会場の反応は温かい、そしてまた原作通りのやりとりに戻って行く。
●見ていて感心したのが、このシーンに出ている人々の人間関係がすんなり理解出来る事。ロシア戯曲のネックは、まず人名に馴染みが無いこと、またやたらと重々しく演じられる為、台詞に込められた意味になかなか到達できない、だから、当然の帰結として人間関係の把握に時間がかかる。だが、笑いを導入する事によって、見事にこの呪縛が外されている。私だけなら、過去の経験から判るのだろうと言われそうだが、一緒に行った友人が本作初見にも関わらず、頭から全部判ったと言っている。
●以後、これは挿入ギャグだなと思う台詞もあるが、基本、元のテキストのまま、チェーホフが本作を喜劇として書いたのだと確信、三谷の読み解き方は間違ってはいない。
●以降、次々と登場する人物達が各々少しずつズレており、各人がそれぞれにそこはかとなく可笑しい。
●筆頭は、やはりラネーフスカヤ(浅丘ルリ子)だろう、この人は“絶品”である。天然の貴族夫人の可笑しさ
、それ故の悲しみ、しかし本人は自覚も後悔もしていない、と言うより理解していない。今や、世界はその様相を変えようとしている。その激動の時代の荒波を、木っ端のように、全く無防備に前世紀の遺物が渡って行く……このイメージ、そこにラネーフスカヤの悲劇があるのだが、浅丘はそれこそ自然体でさらりと演じている。まるでラネーフスカヤその人がそこに佇むようである。
●次いで、これも無邪気ではあるが、新しい世界を積極的に生きようとするアーニャ(大和田美帆)とトロフィーモフ(藤井隆)がフレッシュだった。殊に藤井は出色の出来と言って良い。もとより彼を単なるコメディアンと見た事はなかったが、今回の舞台には驚かされた。
●三谷は「桜の園」を何から何まで笑いに変えたわけではない。三幕ラスト、桜の園が競売に賦されたその後、ロパーヒン(市川しんぺー)が「桜の園を買い取ったのは、農奴の倅のこの俺だ!」と叫ぶシーンはそのままである。ただ、ここに至るまでが笑いの連続なので、かえってこの台詞の残酷さが浮かび上がる。
●ロパーヒンは、この物語の冒頭からラストまでほぼ出ずっぱりの役、彼一人だけが事態を正しく把握しており、終始状況打破の為に説得するのだが全く受け入れられない。市川は、この役を極めて誠実に演じていたが、この日は疲れが出たのか声を飛ばして(喉を潰して)いた。それが力みに繋がったようで、声が正常であれば違った演技だっただろうと思われる。
●他にも何人か、声を飛ばしている役者がいたが、ナマモノの舞台としては、こういう日も避けがたい。
●阿南健次(没落地主ピーシク)は、いかなる役にも飄々と入っていく人なのだが、今一乗り切れていないように見えた。あるいは旧来の「悲劇」作法に引きずられたか?
●旧来の作り方にこだわりが有りそうなのは神野美鈴(ワーリャ)もそうなのだが、しかし彼女は三谷演出に添うべく努力しているのが良く判る。今後、この舞台で大化けする人がいるとすれば彼女に違いない。