大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校ライトノベル・息子の宿題、そのつぶやきの意味

2012-08-01 09:33:50 | エッセー
息子の宿題、そのつぶやきの意味

「まだ、やってへんのん!?」
「そやかて、三時間も掛かるねんもん」

 夏休みの宿題の山を目にした、カミサンと息子の会話である。
 可もなく不可もない息子は、この春から、それなりの高校に進学した。

 で、高校生としての、最初の夏休み。七月の最終日まで、ほとんど手を付けていなかった。
「あんた、どこまで出来てんのん?」
 カミサンが、職業的勘で聞いた。その結果が、最初の二行の単純な会話になった。
 母親としての心配といら立ち。
 息子の幼い、中途半端な反抗的いいわけ。

 宿題は、「新聞のコラムを写しなさい」という単純なもの。
「コラムてなんやねん……」
 頭を掻きながらの、ボヤキでわたしも、カミサンも気はついていた。
 新聞のコラムを写せという宿題は、夏休みの宿題の定番だからである。
 そこで、息子は、余計なことを聞いてきた。
「これも、コラムとちゃうのん?」
 息子が示したそれは、いわゆるコラムよりも短い、海外支局のトピックスで、コラムよりも五十字ばかり少ない。その五十字の少なさに目を付け、その思いつきの裏付けが欲しいために、気弱な息子は聞いてきたのである。

 息子の思いつきは、広義的には間違っていない。コラムとは、小さな囲み記事を指し。厳密な定義はない。
 しかし、一般には、新聞の一面の隅や下にある。新聞社としての看板をしょった囲み記事を指す。
 朝日なら「天声人語」 サンケイなら「産経抄」のことであり、出題した先生も、そういう意味で出題されていることは、明らかである。
 コラムの意味を知っているわたしは正直「うまいこと考えよったなあ」と、セコイながら、息子のコラム解釈に賛同してやりたい気持ちもあった。
 しかし、息子の動機は不純である。たった五十字余りの書き写しを嫌がっての屁理屈である。で、普段ブログや、ネット雑誌で「屁理屈をこねまわしている」ように見えるわたしに、遠回しに賛意を得ようとしたのである。

「そんなもん三十分もあったらできるわ」
 わたしは、横から余計なことを言った。
「そんなこと言われても、ぼくは三時間かかるねん!」
「開き直りな! 三時間かかってもやりなさい!」
 息子は、カミサンから面を取られた。

 ここまでは、どこの家庭でも見かける、親子の他愛ない会話である。
 しかし、息子の次の一言が、わたしにはイギリスに独立を認めさせたアメリカのような感動を与えた。
「そやかて、ボクは作家とはちゃうねん」

 カミサンは気づかないようだったが、わたしには、まさに記念すべき一言であった。
 わたしは、五十五歳で教師を辞め、それまで二足のわらじであったのを、一足にした。
 辞めるにについては、親の介護や、ついて行けない職場の変化など、いろいろあったが、どうしても定年前の敵前逃亡の後ろめたさがついてまわった。
 だから、ことさらに、自分は作家なんだと言い聞かせ。ブログのプロフにも名刺にも、著述業、日本劇作家協会会員と書き込んである。
 思春期の息子は、そんなわたしを、どこか脱落者を見るような目で見てきた。

 わたしは、自称作家ではあるが、経済的には、とても胸を張って言えるような状況ではない。過去、百六十あまりの拙作の上演は、そのほとんどが高校生である。一部プロの方が取り上げてくださったが、作家としての収入は二百万ほどである。念のため、年収ではなく、三十年ほどの間の総収入である。
 印税は、現物支給。上演料は、一回五千円というのが大半。ネット雑誌の記事はノーギャラである。

 そんな息子が、とっさの言い訳とは言え、父を作家として認めたのである。

 聞き直すことはしていない。聞き直せば、思春期特有の辛辣な返答が返ってくることが分かっているからである。
 密かに、家庭内においては、この息子のつぶやきの意味が、わたしには独立宣言への認知であると思っている。
コメント
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