マラソン讃歌

ランニング日記を中心に様々な趣味活動を紹介します。

インタビューし隊

2016年06月08日 | トーストマスターズ
韓国に関心を持つ大学生のグループ(「インタビューし隊」、4名)からインタビューの申し込みがあったので、早稲田大学に出かけて行きました。
私がホームステイと題する7分のスピーチをして質疑応答や意見交換をしました。
若い世代の意見が聞けて有意義な90分となりました。

そのスピーチの原稿は次のとおりです。

皆さんは全国いろいろなところを旅行されていると思いますが、下関には行ったことがありますか。下関は、本州の西の果てに位置し、東京から1000㎞離れています。この人口約20万の地方都市は、1895年に日清講和条約が締結されたところとして有名ですが、第2次世界大戦前は日本と朝鮮半島を結ぶ関釜連絡船が発着する港でもありました。ちなみに、この連絡船は、先の戦争により運航が一時中断しましたが、1965年12月の日韓国交正常化後に関釜フェリーとして復活します。そのような経緯から、50年前の日韓国交正常化当時に下関市長であった木下さんは、全国に先駆けて両国の友好親善を図るための高校生の交流を目的とした相互ホームステイ事業をすることを決めました。
その時私は17歳の高校2年生。生徒会役員をやっていたことから、1966年のある日校長から「君が我が校を代表して釜山を訪問しなさい」と言い渡されました。代表団は市内各高校代表の男女6名ずつの12名で構成されていましたが、誰も韓国に行ったことはありません。しかし、下関には在日韓国人が比較的多く住んでいたのでキムチを食べる、感情表現が激しいなど若干の予備知識は皆持っていました。
その年の夏休み、私達は戦前の関釜連絡船で使われていた「韓水丸」という船に乗り期待と不安を抱いて釜山に向けて下関港を出港しました。
釜山に着いて、生まれて始めて韓国の高校生に会いました。
“Hello, my name is Kim Jae Young. Welcome to Busan.”
“안녕하십니까. I am Takeshi Sugiyama. Nice to meet you.”
本当はもっと韓国語で話したかったのですが、その時はこのひとことしか言えませんでした。
6泊7日の日程で、昼間は龍頭山公園、太宗台、海運台、東莱温泉などの釜山の名所旧跡や新羅100年の古都慶州などを巡り、朝と夕は家族の方と一緒に過ごしました。家族との食事で驚いたことは、その家のお父さんが着席し箸をとるまで誰もご飯を食べなかったということです。
金君のお父さんは、“어서먹어라.” と待っている家族に、「召し上がりなさい。」と私には優しく言ってくれました。それから、皆箸をとり食べ始めます。
金君のご両親は日本語が堪能でした。自分の両親よりも丁寧で流暢な日本語を聴きながら、私は日本がかつて35年間韓国を植民地統治していた歴史があることを実感しました。
数々の忘れられない思い出を残してついに別れの朝が来ました。ギターの得意な金君は歌で私達を見送ってくれました。その歌のタイトルは、하숙생(下宿生)、当時韓国でヒットしていた歌謡曲です。こんな歌です。
“인생은 나그네길 어디서 왔다가 어디로 가는가♪” 
「人生は旅路と同じだよ、だれもその道がどこから始まってどこへ行きつくのか分からないんだよ」という内容です。私の人生もこの歌詞のとおりになりました。
ホームステイから8年後の1974年、私は外務省に入省しました。そして、2013年に定年退職するまでの39年間外交官として5つの「国」で勤務しましたが、そのうち(北朝鮮を含むので)朝鮮半島に16年もの長い間住むことになったのです。その間2002年に韓国の仲間に誘われて始めた趣味のマラソンは、“하면 된다”(成せば成る)という韓国のことわざを胸に刻みながら今でも続けています。
退職した今、恩返しの旅路を歩んでいます。でも、この道がどこへ行きつくのかわかりません。
今日皆さんとお会いできたのも長い旅路の忘れられない思い出の一つであることは間違いありません。

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