飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

構造的板書の意味

2022年09月08日 16時03分39秒 | 授業論
板書に関する指導を受けるとよく「構造的板書」になるようにしなさいと言われる。
この構造的板書とは何か。
次のように言われる。

「構造的板書」とは ...
作品や文章から読みとった意味や概念、またそれらのつながり・関係を、子どもの発言を生かしながら俯瞰できるようにした板書のこと。
構造的板書では、 授業で読み取った事柄を相互に関係付けながら、板書上でわかりやすく示していきます。

網羅的ではないにしろ、必然的に相当量の板書時間を授業中にさくことになる。
この板書がどのくらい生かされるのだろうか。
実査に授業の中で使われるか。
部分的には使用するが、子どもの発言をカテゴライズすることは板書ではなく、ICTを活用する方が効率的だ。
もしくは、A3サイズくらいの簡易ホワイトボードに書かせた方が短時間で類型化できる。
黒板の内容を子どもたちはノートに写す。
このことにどれくらい意味があるのだろうか。
授業終了後、一人一人の子どもが写した板書内容をどれくらい活用しているだろうか。
もちろん自分の考えをまとめたり、整理したりする作戦基地的にはよく使用するし、効果もある。
しかし、写したノートを活用した場面をほとんど知らない。
そのために、多くの労力を子どもたちは使っているのだ。
どうしても必要だと言うなら、黒板を写真に撮って、保全しておけば授業中は討論や自分の考えを整理することに集中できる。

当たり前のように言われること。
1 板書は構造的にしなさい。
2 1時間の学習の流れが分かるようにしなさい。
3 一度書いた板書は決して消してはいけません。

このような指導は本当に正解なのだろうか。
明確な根拠があるのだろうか。
自分ははなはだ疑問に思う。

全部を否定するつもりはないが、板書の必要性も子どもたちに実態に即した明確な根拠が必要だ。
形式主義は排除されるべきだ。

「先生は一生けんめい板書をしているのだが、その間、子どもは何も考えていない。
 ぼんやりと板書の終わるのを待っているだけである。
 板書が全員にひびいていかないからである。(授業の展開)」齋藤喜博

saitani
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