三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

東京脱出移住者の「資産価値」観

2015年06月20日 05時09分13秒 | Weblog
面白いテーマ性をもった住宅を見学してきました。
ブログではふれられなかったのですが、
今週火曜ー水曜には、北海道の工務店ネットワーク・アース21の
旭川での例会に参加しておりました。
この会の例会では毎回、会員工務店の住宅を見学します。
最近、旭川市近郊の東川町は、移住先としての人気が高まっていますが、
見学した住宅は、そういうケースで
建て主さんは、東京の足立区に保有していた住宅を売却して
この町に移住を決めたという方。
お仕事はIT関係で、ブロードバンドの環境があれば、
どこにいても仕事はできるという仕事だそうです。
選ばれた土地は、東川でも人口密集地ではない山の中で
2つの山を包含した広大な土地を購入されました。
片方の頂のあたりを土木的にも「開発」されています。
近接する道路まで、自分で接道させる私道すら土木工事が必要な場所。
インターネットへのブロードバンド接続は地元のケーブルテレビが提供している。
仕事の関係で必要な「電波環境」的には、好立地だということ。
しかしたぶん、ヒグマの生活圏とも高い確率で重なることが想像できる。
また、冬には、除雪している道路まで、自力での除雪作業も必要になりそう。
っていうような環境を選択されたのです。
そして、そこで「資産価値の減衰しない家」を志向されて
住宅を建築されたと言うことなのです。




見学にうかがった時間にちょうど、強烈な雷雨が襲ってきて
外観写真は、上の1枚しか撮影できませんでした(笑)。
まさか雨が来るとはほとんどの人が予想もしていなかったので
この写真を撮り終わってからは、全員、全力疾走で建物まで駆け上って行った(笑)。
室内は、大きな平屋空間で素材の質感が迫ってくる空間。
山暮らしの静寂観のなかで、薪ストーブの存在感がきわだつかのようです。
高窓から自然採光を取り、塗り壁の質感を通して
この地での日の光のうつろいを、室内からやわらかく感受することができる。




そういった暮らしの価値感を支えているのは、
重厚な断熱という北国住宅の技術力。
窓は全部が木製3重ガラス入りサッシで、断熱は壁で300mmという仕様。
こうした「資産価値の減衰しない」住宅の中で
自然の営み、四季の輪廻と共生するような「生活の価値感」が伝わってきます。
東京から脱出移住される方には、こういう暮らしの素器が
確かさのある「資産価値」というように認識されるのだと感じました。

一方で、北海道にいると、人口は減少していくし、
住み続けていく家の資産価値という側面を考えると、
同時に過疎の問題というものが眼前の壁になってくるととらえるのですが、
このような移住決断者のみなさんは、少し違う認識。
どうやら地震の多発などから、大都会での暮らしに危険を感受して
そこからの脱出を考え、その上で住み暮らす「資産価値」というものについて
北海道人とは違う考え方をされるのですね。
いわゆる「住む」ということ自体についての価値感に於いて、
そんなふたつの「資産価値」への考えが、渦を巻いて想念として駆け巡っていた。
そんなユニークな住宅の見学体験でした。

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北海道ビルダーズ協会発進

2015年06月19日 06時16分52秒 | Weblog
きのうは夕方から、表題の通りのセレモニーに出席。
北海道では、独自の住宅技術・文化の進化が見られていますが、
その基板になっているのは、官学民の強い連携というもの。
さらにその中核は、民の側、地域工務店のグループ力がきわめて強く、固いこと。
北海道開拓使の昔から、暖かく暮らせる日本人の家を
どうやったら合理的な価格で作れるのか、それこそ、
継続的な努力が、いまやDNA化したような形で存在しています。
たぶんこのパワーは、同じ日本人が、この北海道の厳しい気候風土に
さらされ続けてきた中から、いわば同志的な協同力として
自然発生的に形成されてきたものなのではないかと思っています。
そこには、先人たちの苦闘の蓄積があり、
目的の共通性が、いろいろな個別の利害を乗り越えて存在した。
長期優良化住宅など、国が住宅政策の舵を性能向上に向けてきたとき、
いわば日本全体をリードする集団力として、
大いに機能を発揮してきました。
国の住宅施策の展開に当たって、それを先導するように
なんなくその基準をこなせる技術蓄積、情報交流組織力がある。
そういった中心にあるのが、この「北海道ビルダーズ協会」のメンバーたち。
これまで国の先導的な住宅施策、事業を契機に立ち上げられた組織の
今日的な再編結集の形が、こういう組織になったという経緯です。

きのうの発進セレモニーでは
こうした地域工務店のパワーを培ってきた大きな部分、役割を担ってきた
室蘭工大名誉教授の鎌田紀彦先生のインパクトに満ちたスピーチもありました。
先生の、まさに実践的な工学的研究開発努力が、
多くの工務店の建築技術の現場力・共通認識として、
脈々と息づいていることが、いまさらのように再確認できました。
現場的な直感力から共有できるものが、北海道には存在しています。
最近打ち出されてきた「札幌版次世代基準」というものの、
作り手たちの現場とは、やや乖離したと思われる部分に
単刀直入、剛速球のようなきわめて率直なご意見を開陳され、
それは一気に会場が弾けるような「開放力」を持っていました。
逆に言えば、こういった部分が、実践的なスタンスを生んでいるのでしょう。
まぁ、前菜として「Replanの三木さんのデザイン重視は、ちょっと・・・」
という辛口のジャブは、これもいつもと変わらないスタンス(笑)。
あ、誤解なく・・・。先生には次号から、
「Q1.0住宅デザイン論」という新連載企画を執筆いただいています。
ぜひ、ご期待ください。

ということで、まさにパワフルな住宅革新の動きが再着火したような、
そういった熱気が充満した夜でありました。
わたしのこのブログでも、継続的に動きをお伝えしていきたいと思います。

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開拓期から高断熱高気密までの北海道住宅

2015年06月18日 06時11分06秒 | Weblog


さて、先週末釧路に行って
北海道の明治初年における和風商家を取材してから
これまでほとんど歴史的に評価が向けられていなかった
開拓時期から、高断熱高気密住宅勃興期にいたる時期のその間、
具体的には、明治中期から昭和中期ころまでの期間の
北海道の戸建て住宅の流れ、歴史というものに
大きな興味が湧いてきております。
このブログで、ここ数日、そんな住宅取材を書き連ねていて
多くの学究のみなさんからのコメントも寄せられて気付きにつながりました。
これまで、北海道の住宅を考えるときには
高断熱高気密という地域住宅運動が、その核心であり、興味が集中していて、
それ以外の時期の住宅建築がアプリオリに及ぼしていた「影響」に
あまりにも顧慮することが少なかったのではないかと
そんな風な「気付き」が得られたのです。

もちろん、北海道地域でそれこそ地域に暮らすほぼすべてのひとびとが
強い関心を持ち、その進化に大きな期待とワクワク感を持った
「高断熱高気密」住宅の探求努力は、それこそ歴史的にも、また日本レベルでも
非常に大きな民族体験的な出来事であったことは紛れもない。
いまもその巨大なうねりの力はわたしたちの興味関心の中心にある。
そういう時代のなかから現地ルポ的に見えてくるもの、
それが中核的な興味であることは、なんら変わらないと思います。
しかし、その段階に至るまでの北海道地域での木造住宅について
どのような営為が繰り広げられていて
それを担った人たちの主観的な努力目標などが、
その次の高断熱高気密技術探求に対して
どのような影響力を持っていたのかは、もっと考えられて良い。
単純に言って、そうした高断熱住宅の挑戦者である建築者、
工務店組織のひとびと、設計者たちにとって、
その先達、自分たちを育成してくれた世代の人々が
どのような考えで、この地での住宅建築に取り組んできたのかは
やはり次の時代に引き継いでいくためにも、
必須な発掘作業なのではないかと思い至った次第です。

写真は札幌市内の円山公園に隣接したフレンチレストラン建築。
「バタ臭い」こういう表現が、しかし北海道では当たり前の光景だった。
そして次の写真はいまや北海道全域に自生的に見られる
ルピナス、昇り藤ですが、
この花は、明治初期に開拓のための農地への土壌改良のために
欧米から輸入され、移植された植物なのです。
こういった「輸入された考えや文化の価値感」というものが
わたしたち北海道人には、非常に近縁的な存在としてあると思う。
こういった輸入、移植は、開拓期からの北海道にとって必然だった。
そして、そうした時期からの日本人による本格的な北海道開拓、
本州以南地域からの親世代の生活文化を背負った自分たちが
ここで住み続けるための家づくりの方法と文化の解明、
さらには集住の都市の創出という歴史プロセスの中には
こうした輸入された住宅文化に対して、それを「見よう見まね」で
自分たちの木造技術体系に取り入れていきたいと考えた人々の思いも
非常に強くあっただろうと思うのです。
そういった先人たちの思いというものを、発掘していかねばならない。




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終戦直後、北海道住宅の窓辺デザイン

2015年06月17日 05時52分49秒 | Weblog
きのう紹介した釧路の住宅について、北海道の建築史の駒木先生から
貴重な情報が寄せられました。以下、要旨を掲載します。
「この住宅は釧路・小樽そして東京のネットワークで保存されました。
米町の道路拡幅計画で取壊される予定でした。保存のため
釧路の本行寺住職・菅原弌也氏と釧路太子講頭・田中良一氏が市長に直談判。
一方、小樽から私が東京の毛綱毅曠さんへ連絡し、二人で
これまた直談判(ともに釧路出身です)。ついに市長は1989年
「ふるさと創生事業」として保存の予算をつけ、住まわれていた
田村さんの住宅も新築しました。めでたし、めでたし。
さて、創建は1900(明治33)年、棟梁は釧路大工職初代組合長で
釧路太子講の創設者・工藤恒吉です。」
ということでした、情報まで。

さて本日は、この住宅の続篇です。
というのは、写真のようなコーナーを発見して、
わたし自身の遠い記憶が呼び出されるインスピレーションを受けたのです。
わたしは1955年・3歳の時に岩見沢市栗沢町上幌という生地から
札幌市中央区北3条西11丁目という地に一家で移転しました。
この当時のお金で60万円で、北東角地の60坪の敷地に建っていた住宅を購入した。
戦争が終わって10年ほどの時期ですが、
考えてみれば札幌は空襲などの被害は受けていなかったので
不動産事業者・木下藤吉という屋号の企業(?)から購入したそうですが、
建てられていた住宅は、たぶん戦前から建っていたような住宅かも知れません。
寒い木造住宅だった・・・。けれど、一家の生きる拠点であり、
必死に生きていく思いが熱気のようになっていて、楽しい住まいだった。



で、この家についての記憶がうっすらと残っているのです。
写真右手の出窓のような窓の部分が、
釧路で見た家の窓の部分のしつらいとそっくりだったのです。
わが家は、自宅兼用の「食品製造業」を営んでいたので、
建築は毎年のように手が入れられていて、
リフォームに次ぐリフォーム、というのが常態化していた。
じっくりと記憶痕跡に留める間もなく、内外とも変化していったのですが、
そのなかでも不思議と、この窓辺のデザインを憶えている。
出窓風の棚のようになった平面には、板が何十枚も渡されていて、
その板をはずすと、収納としても機能していた記憶がある。
高さは、ちょうど上の写真と同じような高さで、机かベンチ代わりになっていた。
父親が「事務所」的な空間として利用していたような気がする。



ちょうど、釧路で見た住宅のこんな雰囲気。
思わず、この板をはずしてみたくなって、手を付けたけれど、
ここでは板は打ち付けられたようになっていて可動式ではなかった。

いま、住宅に関連する仕事をしていて
こういった内部デザインの痕跡のようなことにも
思いが至るようになって来て、どうにも気がかりになって来た。
こういうデザインとは、戦前から戦後の時期に掛けて
一般的に、というか全国的にも多く建てられていたものか、どうか、
あるいはまた、札幌での一般住宅の流通形態はどうであったのか、
建売が主体だっただろうと思われるのですが、
そうだとすれば、このような内部デザインはどうして選択されていたのか、
いろいろと思索が湧いてきて、拡散してきている次第です。
お読みいただいている方で、なにか、情報をお持ちの方は
ぜひコメントなどをお寄せいただければ幸いです。

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北海道住宅文化の系譜~釧路の和風商家

2015年06月16日 05時38分23秒 | Weblog


北海道の住宅は、開拓の初期から官の主導する部分が強く存在し、
北米からの技術導入という側面が大きかったと思います。
メインの流れは、どちらかと言えばそちらなのですが、
それ以外にも、さまざまな住宅建築の動きはあったことと思います。
しかし現在、純日本風の古建築というのは、あんまり見ることが少ない。
北海道内で、それこそ瓦葺きの古建築というのはきわめてレア。
そういった建物は建てられたとしても厳しい気候条件から、
長期にわたっての存続が、難しかったと言えるでしょう。
それと同時に、札幌というのは明治開拓期から、
国家の威信をかけたパビリオン的な計画都市であって、
そもそもからして官主導型の発展を見せてきた経緯が色濃くあります。

そういう一般的な思い込みが強かったのですが、
この写真の住宅を道東・釧路で見学して、目からウロコでありました。
釧路発祥の地・米町地区に遺されている最古の木造民家・「田村家住宅」
現在は「米町ふるさと館」として公開されています。
端正な町家造り、屋根には瓦が載せられていて
建物左右には防火壁・うだつ壁が立てられている。
内部には、商家としての伝統的日本建築の趣が造作されている。
土間が出迎えてくれて、米屋さんとしての「みせ」空間が広がっている。
そこから通り土間が、建物右側を占有。
左手には、畳敷きの座敷がしつらえられている。
結構な床の間、書院、欄間飾りなど、正調日本家屋の趣が感じられる。
言われなければ、北海道の住宅建築とは思えない造作なのであります。
釧路が代表的な北海道太平洋側の港町は、
明治以降の「開拓」の歴史時間とはまた別の、
江戸時代、それ以前からの漁業を中心にした発展形態があって、
色濃く、明治以前までの民の建築、暮らしようがこうして明瞭に遺されています。
北の漁業基地として栄えた釧路の街は
この地では生産されない主食のコメが、最大の商品だったことでしょう。
安定的なビジネスとして、先行者利益を享受してきたことと思います。
そもそも「米町」という地名自体がそのことを証している。




こういった和風住宅建築では、北海道西海岸地域では
漁家の豪放な「番屋建築」が見られるのですが、
こちらの太平洋岸地域では、むしろこうした商家建築が遺っているのですね。
こういう和の雰囲気のデザインは、どのように仕事されたかという疑問に
展示で、上の写真のような和風住宅大工棟梁の名が明かされていました。
秋田から流れてきた大工棟梁で、釧路に多くの建築を遺したのだそうです。
防火壁・うだつとか、通り土間、漆喰の壁、座敷のしつらいなど、
和風の高級建築デザインを実現する匠として、技量を発揮したのでしょう。
釧路は寒冷とはいえ、冬期の積雪はほとんど見られず、
こうした和風建築もそう劣化が進まずに保存されてきたものでしょうか。
たぶん、寒冷対策だったのでしょうが、本州地区の商家建築とは違って、
すべての居室に天井が張られていて、構造は顕れていません。
ひとくちに北海道とくくって語ってしまうことが多いのですが、
やはりそれぞれの地域で発展の仕方には違いがあるものだと脱帽。
現在、どちらも洋風建築が多く遺っている札幌と函館でも
その作り手、手法には大きな違いが見られるとも言われます。
函館の洋風建築は優美さに力点があるのに対して
札幌のそれは、より実用的な力感・合理精神を感じるのだそう。

こういった文化の氏素性が明らかな古建築、
地域のなりたちを伝える大切な文化的地域資産として、
次世代に伝えていく必要があると思った次第であります。
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屋根塗り替え、高所恐怖症・・・

2015年06月15日 05時31分12秒 | Weblog


住まいのメンテナンスで欠かせないのは屋根の塗装工事であります。
屋根の点検、修繕は17~18年ぶり。建物の基本は防水性能の確保。
板金自体の経年劣化はやむなく発生するので、点検し、
必要な補修を行っていく必要がある。
今回も多少のサビなども発見され、
甘くなっていた板金箇所を締め付け直したりしました。
わが家の場合、2階までコンクリートブロック造で、
3階は2×4木造で、その外皮には屋根板金が連続しています。
その縦に張った板金もチェックしたのですが、
水平面に張った板金とは違って、経年劣化はほとんど見られませんでした。
屋根水平面は堆雪したり、垂直雨水を受けたりするワケですが、
そういった違いがタテとヨコで、顕著のようです。
今回はそういうことで、垂直面は塗装はしませんでした。
足場面積も少なくなるのでコストも抑えることができます。





その上でペンキ塗装を掛けるわけです。
北海道では瓦屋根というのは、ほぼまったくなくて、
屋根工事と言えば板金仕上げで、
その耐久性向上を考えると、まずは塗装をこまめにすること。
で、この工事くらい素人でもできる工事はないのです。
なんといっても、多少ヘタでも目立つことが少ない。
職人さんに頼む場合でも、自ら手下になって作業の一端を担わせてもらえる。
ということで、わたしも考えてはいたのですが、
・・・やっぱりダメでありました。
2枚目の写真のように、いまもわが家の周囲には足場が組まれているのですが、
これを上がっていって3階部分に来ると
すっかり元気が失われていくのであります(笑)。
まぁ「高所恐怖症」とまでは言えず、それなりには慣れるのですが、
早く下りたくてたまらなくなってくる・・・。
地面にぺたっとしていられる安心感に、限りなく癒される。
ということでキッパリと、作業を遠巻きにして応援する係になっていました。



で、塗装終了後の屋根一部の様子であります。
気分的に、なのか、けっこう塗り厚みが感じられる光沢感。
欧米では、自分でDIYで屋根のペンキ塗りをするのが一般的で
塗り厚みを自慢したりされるそうですが、気持ちは十分にわかりますね。
ということで、今回のメンテナンス・リフォーム工事も一段落。
必要箇所をしっかり点検して、必要な対応を施して
より長持ちするように、建物のことを大切にチェックすることは、
そのまま愛着感が深まることだと言うことを実感しました。
また十数年後、こうしたメンテナンスを行う必要があると思いますが、
工務店さんと現状の建物の状況をしっかり話し合って
適切な計画性をもって、大事に見守っていきたいと思います。
次世代へ、あるいは次の保有者に向かって
いま管理している者の責任を少しは果たせたかなと、思っています。

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明治初年、洋風建築と日本伝統技術

2015年06月14日 05時25分42秒 | Weblog


先週の土曜日、北海道南部・上ノ国の中世遺跡を見学に行った折、
ついでに見学して来た江差の「旧檜山爾志郡役所」であります。
旧知の設計者・小室雅伸さんが以前に修復に当たっての設計を担当された。
HPでの紹介を見ると以下の通り。

「旧檜山爾志郡役所」は、北海道庁の出先機関である郡役所と警察署の業務を
執り行なう建物として、明治20年(1887)に建てられました。
 その後、檜山支庁と江差警察署の合同庁舎、江差警察署の単独庁舎、
江差町役場の分庁舎などに使用され、明治・大正・昭和・平成の
江差を見続けてきました。
またその間には、建物にさまざまな手が加えられてきました。
 1992年(平成4年)には、道内でただひとつ現存する郡役所として、
道指定有形文化財の指定を受け、江差町では、
1996年(平成8年)から1997年(平成9年)にかけて、
創建当時の姿に復すべく保存修理を行いました。
 現在は、明治時代の貴重な建物をご覧いただくとともに、
江差町郷土資料館としても活用をしています。

ということであります。
明治初年の北海道は、「洋風建築」の実験場のような雰囲気だったのでしょう。
文明開化の気風が全国に満ちあふれる中、その最先端地域として
北海道開拓という国家意志の元、そのパビリオンとして、
各地に洋風建築がさかんに建てられたのです。
そう考えると、現代の北海道の住宅技術やあらたな「文化」は、
そうした先人たちの苦闘から紡ぎ出された「宝物」であるのかも知れません。
わたしたち北海道人は、この大いなる「遺産」を伝えていく使命がある。

なんですが、とにかく興味を持ち、興奮させられたのが、
冒頭写真の「壁紙」であります。
現場調査にこられた小室さんたちが、残っていた壁紙を見て
その精緻なデザイン、技法に深く胸を打たれ、
その製造元の後裔企業である、京都本社の「川島織物」さんと連絡を取り合って
明治初年当時の壁紙を再現させたものだそうです。
というか、明治の初めに洋風建築を建てようとして、
その重要部材の壁紙が、さっそく京都にある日本の伝統技術工房で
作ることができたと言うことの方が、日本建築文化の輝かしさを教えてくれる。
なぜ、可能だったのかは明らかで、
伝統的な「襖工芸」技術としての和紙生産、そのデザイン技術が
工房集団として、京都には積層していたということです。
欧米の様式に似合うデザインで、しかし、日本的なアレンジも施して
こうした工芸芸術品のような壁紙を生産できた。
その明治の時代が持つ、ニッポンの輝かしさに脱帽する思い。
ものづくりへの強いこだわりをそこに見ることができる。
次の時代にも、誇りを持って伝えていく必要がありますね。



そんな貴重な追体験をさせていただき、
お腹が減って(笑)、これもまだ若い伝統食・にしんそばを
江差の旧家を利用したお店で食べさせていただいてきました(笑)。
シンプルでしかも美味。さわやかさがカラダのなかを吹き渡っていきました。







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お化粧直しの楽しさ~木製ドア・窓・壁

2015年06月13日 04時14分23秒 | Weblog


わが家のメンテナンス・リフォーム、きのうは完了検査、チェック。
今回の工事で、やはり木製窓やドアの良さを再認識しました。
築24年目、大きな増改築工事からでも17~8年ということで、
ちょっとやんちゃな計画の結果として、木部の一部腐食があったりしたのですが、
それらの劣化を補修した上で、再度、塗装しました。
その塗装でも、24年前に選択したオリンピックステインという塗料は
製造中止になってしまっていて、ごらんのような「オスモ」に変更。



塗った色は、ご覧のような「ベンガラ色」であります。
この色は、スウェーデン発祥だというように聞いたことがあります。
北欧に旅すると、こういう色を良く目にする。
鉱山資源の発掘にともなって副次的にこの色の顔料が生成され
非常に耐候性が高まることから、彼の地で愛されていた色。
寒冷地で「暖かい家」というイメージを醸し出していた・・・。
ただし、オリンピックステイン時代にはこの色の製品があったのですが、
今回のオスモにはなかったので、現場で色を調合して
以前の色に似せてくれました。
やや光沢感が出てきたのですが、でもまぁいい色に仕上げてくれた。




塗装は、木製で仕上げた部分の壁にも。
こっちも以前と同じ色はなくて、調合してくれた色です。
塗装する、というごく単純なことですが、
仕上がってくると、本当にうれしく楽しいメンテナンスです。
以前一度、玄関ドアの塗装を自分でもしてみたこともあります。
今回は自分ではしなかったのですが、欧米では
こんなに楽しいことを人に頼むのはもったいないと、セルフ施工が多い。
亜麻仁油という自然由来の油で顔料を混ぜ合わせた塗料が
やや剥げてきていた上に塗り重ねられていくわけです。
室内の塗装には一部、黄色も使われていて
この壁に黄色を、とも思ったのですが、やはり塗り重ねなので
基本は沈んだ色合いに変化させていくことの方が自然。
でも暗めの下地に明るい色が重ねられていくのも、悪くはないですよね。
若さも感じられると同時に深みや渋さも出てくるかも。
こういう塗装、よく女性のお化粧直しに例えられる。
窓やドアといった「目鼻立ち」の部分に紅を塗ったワケで、
そういう例えが、そのままに感じられ、
まさに「愛着」という積み重ねを実感することができます。
外部に木製を使うというのは、メンテナンスに気も使わなければならないけれど、
しかしそうした苦労や手間をはるかに超えた喜びが感じられる。
逆に言うと、そういう手間がそのまま、愛着の深さにつながる。
生物素材である木は、そんなふうに「対話」することができるのでしょうね。
いまは家を離れているこどもたちに写真をLINEで送ったら
「すぐ見に行きたい」といった反応があった(笑)。
なんとなく「しめしめ」とニンマリさせられたことを告白致します。
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クルマに学ぶ、住宅の中古マーケット

2015年06月12日 05時24分07秒 | Weblog
先日触れた、民主党ネクストキャビネットの「国交大臣」
荒井さとし議員の国会質問から、ポイントピックアップであります。
本日は、中古自動車と中古住宅マーケットの対比です。
上の表は、国交省の発表する日本の「住宅流通」の実態。
新築住宅が住宅取得の中心で、中古流通の割合は17%程度という現状。
それに対して、クルマの方を見てみると




2014年で新車が556万台に対して、中古車は375万台。
クルマの総購入機会に対する中古の割合は、40%以上になっている。
荒井議員の質問では、この対比で「マーケットの創出」に関して触れている。
かつて、自動車産業に於いて
「中古自動車というのは、なかなか売れない」
「中古自動車が売れたら、新車が売れなくなる」
とメーカーの対応が非常にネガティブだった結果、中古市場が伸びなかった。
それがある時期から、一気に伸び出した、とされていました。
で、その中古自動車の流通促進のために、どんな手を打ったのか
そういった質問展開をしていました。
クルマと住宅がまったく同じような展開になるのかどうか、
そのあたりは不明とは思いますが、
やはり流通活性化の要件整備として、大いに参考になると言えるでしょう。
この要件整備の経験値を持っているのは経産省。
その基本方針・方策の答弁では、
●中古車の仕入における正確、適正な査定・値付け
●販売に於いて、いかにそのことが情報提供されるか
との2つのポイントが挙げられていた。
で、その具体的な施策としては以下のようなこと。
・「走行メーター」を不正に操作して巻き戻す問題が起こったときに
走行メーター管理システムの普及がまず取り組まれた。
・中古車価格、機能を公正に評価する「自動車査定士制度」の創設。
・買い取り専業店の適正化。
こういった施策が逐次、市場に導入されていったとのことです。
こうした答弁を踏まえて荒井議員から、
「優良で良心的な事業者が残るようなシステム、やはり
査定のシステムの整備、徹底という施策がいちばん効果的だった」
というように補足されていました。

やはり、この「査定」制度をしっかり作るのが、キモだと思います。
住宅に於いても、この中古の査定にあたって、
どのような公正なモノサシを作りだし、機能させるかがポイント。
こういうふうに「国会審議」が利用され政策に目に見えて反映するのは
たいへんいいことだと思います。
与党も野党もなく、というか、むしろ大事なのは、
質問を展開する野党の側の方で
かれらがしっかりした「産業育成」的な視点を持っていれば、
国の富や「産業活力」創造にかなり寄与できるのではないかと
そんなふうに思えた次第です。ふむふむ・・・。

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無意識が投影する人間の環境づくり

2015年06月11日 05時11分28秒 | Weblog
写真は会社事務所のエントランス部分であります。
当社の敷地は、札幌市西区の琴似栄町通という4車線道路に面して
間口が12mくらいなのですが、その道路から建物はセットバックして
ご覧のような「小路」を通ってアクセスします。
仕事でクルマを使うので、その駐車スペース9台分を確保しながら、
右側に寄せて、こんな通路を工夫した次第。
みんながどんな風に受け止めているのかはわかりませんが、
ごく何気ないこういうワンシーンが、わたしの好みであります。

はじめて自分の家を建てたとき、
って、住宅は1軒だけですが(笑)、竣工の時に
お祝いでみんなが来てくれ、あいさつしなければならなくなって
そのときに初めて、どうして自分がブロックの家を建てたか、
突然、邂逅感を味わった経験があります。
というのは、親が田舎から札幌に出てきて食品製造業をはじめて
最初に改造して建てた工場建物が、ブロック造だったことを
そのときになって、突然に思い起こしたのです。
「あ、そっか、俺ってこういうことに知らず知らず、影響されていたんだ」
と、そういう気分を味わったのです。
で、その後、事務所も新築することになって、
結果として、こんな雰囲気のエントランスを作っている。
これって、物心ついたときから13年ほど、ずっと
札幌市中央区の大きな森、植物園を
西側から正対して見続けてきた幼児期視覚体験が
なにか、刷り込まれているように思われてならないのです。
現在の札幌市中央区北3条西11丁目なのですが、
開拓期の札幌の自然の様子をそのままに保存している
この大きな森には、なにか、訴えかけてくるようなものがあった。
時折、捕獲されていたエゾオオカミなどが月夜、鳴き声を上げている
なかなかにワイルドな風情があり、その背景としての森のシルエットを
子守歌のような気分で受け取っていたように思います。

そんな「刷り込まれたもの」が、無意識のうちに感覚の下地になって、
人間が「作り出すモノ」に微妙に投影されていくのではないか。
いま、自宅をメンテナンスしたり、事務所の環境保守管理を
し続けていて、そんな思いを反芻しております。


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