三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

若々しい建築家

2011年05月21日 06時51分23秒 | Weblog





きのうは、新住協総会のメインイベントです。
今回の総会では、新住協代表理事である鎌田紀彦先生の恩師である
東京大学名誉教授・内田祥哉先生による講演も行われました。
鎌田先生は、非常に舌鋒鋭い論客として知られていますが、
さすがに恩師を前にしては、ややおとなしく(笑)されておりました。
しかし、恩師が見守る中で
自らが指導して実践的な住宅建築の技術を開発してきた
その軌跡や、多くの全国からの参加者との交流ぶりを披露されて
少しは「恩返しが出来た」というように発言されていました。
こうした鎌田先生の様子を、わたしたち会員は初めて目にして
いろいろな思いを持つことが出来ました。
内田先生はことし86才というご高齢ですが、
お話しは、颯爽とされていて若々しく、
そして独特の語り口、平明で簡潔明快な論旨展開に
いかにも、工学者・建築家としての真実のありようを感じさせられます。
演題は戦後日本の木造がたどった軌跡をまとめられたものであり、
東大工学部を導いてこられた先生の見方が直接に感受されました。
「そうだったのか」という、腑に落ちる、
という言葉がそのままのような、思いをしながら聞いていた次第です。

そして、Macの最新ノートパソコンを操られて
平明に、力強く語られる姿は
年齢をまったく超越した、若々しさを感じました。
建築への、木造への、
愛情のようなものが、そのお話しの中にあふれかえっている、
そういうものが
聞くものに、若々しい情熱として伝わってくるからなのでしょうか?
その後の懇親会でも、親しくお話しさせていただくことが出来て
深く、感激いたしました。ありがとうございました。
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新住協総会2011

2011年05月20日 06時57分38秒 | Weblog





きのうから今年度・新住協の京都での総会が始まりました。
とはいっても、きのうは「前夜祭」のスケジュール。
木屋町通りのお店での食事会であります。
なつかしい、一年ぶりというみなさんも多かったのですが、
実はきのう、初めてあった京都在住の建築家・長坂大さんといろいろお話ししていて
鎌田紀彦先生や、いろいろなひとにご紹介していたら、
あっという間に時間が過ぎてしまって
失礼してしまったみなさんもいました。
まぁ、本日から2日間、本格的な総会・勉強会の日程がぎっしりです。
ことしは、ポストQ1.0住宅の進展・模索ということで、
かなり重要な技術的研究進展があるものと思われます。

2次会では、長坂さんのご紹介で
先斗町のお店の「納涼床」で歓談することが出来ました。
え、こんな時期に、納涼床?というところですが、
きのうは京都、夏もかくやというばかりの暑さでして
11時過ぎまで歓談していましたが、
大変心地よい薫風が酒に火照った肌を冷ましてくれて
楽しい時間を過ごさせていただきました。
ところがせっかくの食事会だったのですが
カメラをホテルに忘れてくる失態。
先斗町の紅灯の巷の美しさも、ただただ、目に焼き付けるばかりです。
京都の人には違うように目に映っているようですが、
わたしたち、エトランゼには、細部に至るまでのデザインが
次々と目に飛び込んでくる街並みです。
建築の専門家ばかりなので、また、それぞれ、着眼点も面白い。
「あそこのあれ、いいね」
っていう会話がひんぴんと耳に入ってきます。
そういった交流も、年に一度の交流会ならでは。
そういうことで、しっかりと取材していきたいと考えています。
で、写真は、お昼に食べた松花堂弁当のような定食です。
これがけっこう、880円という値段以上の満足感。
すこしずつ、多品種という和食の良さが味わえた食事でした。
ほんとうは、晩ご飯が素晴らしかったのですが、
写真は、残念ながらありません(笑)。ではでは。
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アイヌの手作り靴

2011年05月19日 05時20分52秒 | Weblog







きのうの続きであります。
アイヌ社会の生き生きとした展示で
ひときわ面白さが際だっている旭川市博物館の展示より。
アイヌの社会では、
たとえば、結婚に際して男性がその新居の構造材料を切り出してきて
茅葺きなどの作業はコタン全体で一気に仕上げる
ということだったようです。
一方、女性は、結婚式に着る衣装や、
その他、生活に必要な民具の類も自作することが基本。
写真のような見事な造作の靴も自作するのですね。
まぁ、日本社会でも基本的には同様だったのでしょうが、
まだ、分業社会の進展があったと思われるのに対して
アイヌ社会では、より自作の文化が残り続けた。
この靴は、ぶどうの蔓草で加工したものだそうで、
実に自然の素材の特性を活かしたものが考えられている。
シナの木の樹皮を撚り会わせて繊維をを形成して
衣類を造る、というように、実に奥深い生活文化を持っている。

今の時代、
こういった手作りの技術というのは
どんどん鈍磨してきていて、
工場製品しかなくなってしまっているのが現状ですが、
しかし、こういった技術の延命ということは
心がけていく必要があると感じます。
まぁでもやっぱり、難しいのだろうなぁ・・・。
で、デジタルに変換した文化に対して、たとえばアナログの
レコードがしぶとく生き残って、希少価値を発揮するような
そういう価値観転換が起こって、ようやく見直される
文化というのは、たぶん、そういうものなのでしょうね。
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アイヌ社会での鍛冶職人

2011年05月18日 04時28分57秒 | Weblog






写真は、先日行ってきた「旭川市博物館」での展示ジオラマ。
アイヌの歴史への洞察の鋭さが表れているものです。
アイヌの住宅遺構を発掘していくと、
さまざまな状況への洞察力が働くようで、
この鍛冶職人は、春から夏の期間、この上川地方にやってきて
鍛冶仕事を行っていることが解明されてくるのだそうです。
鍛冶というのは、鉄製品の補修が主な仕事と考えられ、
アイヌ社会での鉄製品を、どういう人物が請け負っていたのか。
この季節滞在の事実は、和人の出稼ぎであったのかも知れませんね。
和人社会、日本と、北海道島の住民とのあいだの交易史は
まだまだ詳らかにはなっていないのですが、
こういうジオラマの表現力はすばらしい。
よく見てみると、空気をポンプのように熱を加えた鉄に吹き付けている。
熱を高めて、鉄を造作しやすいようにしているのでしょう。
扱っていた鉄製品はどんなものだったのか、
一番特徴的なのは、たぶん、鉄鍋だったのではないかと思います。
檫文時代から、アイヌ時代に移行する変化で
一番大きいのは、台所の革命だったように思います。
それまでの土器による調理で、かまどが必需だったのに対して
アイヌ期では、鉄鍋と自在鉤が普及して
面倒なかまど装置が作られない。
そういう変化が、竪穴から平地式住居に変化させていった。
どうもわたしには、そのように思われてなりません。

ともあれ、アイヌ社会では農耕も活発だったので、
鉄製品は旺盛に使用されていた。
そういう暮らしの利器を、こういった鍛冶職人さんたちが支えていたのでしょう。
いまにも、会話が聞こえてきそうなジオラマでした。
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ねんざ判断の難しさ

2011年05月17日 05時33分26秒 | Weblog






きのうの続編ですが、
日曜日にねんざしたわが坊主、
深夜の病院での受診後、患部の安静のために
形状固定させる簡易ギブスのようなものを付けられまして、
したがって、松葉杖をつかなければならない。
途端に、行動がしにくくなる、という状況でありました。
痛みがどの程度なのかは、本人でなければ分からないし、
骨折かどうか、っていうのは翌朝の腫れ具合、痛みで判断するしかない、
用心のために、レントゲンを撮ってもらって・・・、
というのが、休日だったので時間が掛かった。
まぁ、そういうことで推移しておりましたが、
きのう朝、カミさんに近くの整形外科に連れて行かせて、
見せたところ、簡易ギブスまでの必要はない、
患部は打ち身のあざが浮き上がってきているけれど、
まぁ、冷湿布を丹念に行って、清潔に注意するように、
っていう見立てをしてくれまして、
昼には学校に行かせることが出来ました。
今週中は、歩行に痛みは出るだろうけれど、
まぁ、我慢していれば、通常のように生活していても大丈夫、ということ。

こういう判断って、なかなか難しいですね。
もし骨折だとすると、早い段階での処置が必要だし、
患部は体の中でも、かなり重要な足首という部位。
でも、ねんざという軽度のものであれば、場合によっては
病院に行かなくても、市販の湿布薬でもなんとか直る。
こどもの親としては、こういう状況になると、
やはり安全側で判断したくなるのが常でしょうね。
「見極め」というのが、大変難しいものだと痛感いたしました。
でもまぁ、大事には至らず、
腫れも徐々に引いているようですので、
2~3日すれば、ピンピンしてくれるものと思います。
きのうは、カミさんが付き添って通院、学校との連絡など、
ひとりで片付けてくれたので、わたしは、仕事の処理に専念できました。
やはり人間は、人の間で生きているのですね。
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足首のねんざ

2011年05月16日 06時24分32秒 | Weblog





あ、わたしではありません。
きのう、土日ほとんどバスケットクラブの練習にいっている坊主が、
昼過ぎ、2時頃に帰ってきて
やや足をかばっているような仕草をしながら帰ってきました。
激しい運動をしているわけで、まぁ避けられませんね。
すぐに冷やしていたようで、見た感じはそうハレは大きくない。
学校からは自転車に乗って帰ってきたという。ということなので、
冷湿布をして、様子を見ることにしていました。
で、友人たちと約束していたらしく、
親が止めるのも聞かずに、友人の家に遊びにいってしまう。
心配はしておりましたが、痛みは本人にしか分からないので、
遊びに外出できるくらいではあるのだろうと、
そんなふうに思っておりました。

で、帰ってきたのが7時半くらいで、
食事を食べさせて、様子を聞いたら、
どうもイマイチの様子。
「あした、病院に行きたい」ということで、
まぁ、そのままにすれば良かったのかも知れませんが、
「休日当番医に行ってみようか」
と聞いたら、すぐに行く、という答え。
たまたまカミさんが出掛けていたので、健康保険証がないことに気付く。
なんやかやで、準備して出掛けられたのは9時過ぎ。
休日当番医の病院もわが家からクルマで20分かかって到着。
ところが、お医者さんはひとりで、急患なども入っていて、
なかなか看ていただけない。
ようやくレントゲンを撮って、見たてていただけたのは
日付が変わる頃になってしまっておりました。
幸い、骨折ではなく、ねんざということでひと安心ですが、
患部を固定して、松葉杖を使わなければならない。
学校は4階が教室ということで、むむむ、というところ。
人間、体が調子悪くなると、普通の生活が難しくなる。

まぁ、こういう判断って難しいですね。
骨折していないかどうかは、翌日にならなければ判明しないので、
できれば当日中に手当はしておきたい。
けれど、病院が休みの日には、行くべきかどうかも、迷うところ。
まぁ、今朝の患部の冷却の様子を見て、どうすべきか、
きょうからの方針を決めていきたいと思います。
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中田翔選手がんばれ!

2011年05月15日 05時54分29秒 | Weblog






わが北海道日本ハムファイターズは、
昨日の試合にも快勝して、25試合経過のいまのところ、
安定した戦い方が出来てきております。
そういうなかで、期待感が日に日に高まってきているのが、
現在まで、7番→6番を打っている左翼手・中田翔選手であります。
プロ入り4年目のことしは、
開幕からずっとスタメン出場しており、
当初は試合の最後の方ではほかの控え選手と交代していましたが、
いまは、ほぼ試合の最後まで出場しております。
梨田監督からの信頼も確実なものにしつつある、
っていうのが、現況といっていいでしょう。
開幕当初にまったく打てずに、スランプに籠もっておりましたが、
徐々に状態を上げてきて、最近は絶好調といってもいい。
昨日の試合でも、2安打を放ち、とくに最後の打席での
中堅左を深々と破る当たりは、強打者らしい、速く、力強い弾道。
右の強打者という、プロ野球ファンが長い間、出現に焦がれていた
夢のようなスター候補が力を発揮しつつあります。
わがチームの左の異次元的スター候補、糸井選手との
3-4番コンビというのが、わたしの夢想であります。

4年前に中田翔選手がドラフトで
わがチームに引き当てられてから、育成の長いプロセスが始まった。
やはり、こういうスラッガーが本格化するには
時間が掛かるんでしょうね。
まことに、男の子の本格派って、育つのに時間と手間も掛かるんでしょう(笑)。
しかし、中田翔選手は、そういう時間の掛かり方を
それでも待ち続けていたい、という気分にさせてくれる。
まぁ、やんちゃ坊主的な部分を感じるところがあって、
どことなく憎めなさそうな、そういう雰囲気がある。
こういうタイプに肝要なのは、慢心とかの精神面でしょうから、
本格化してからの、これからが、本当の意味での戦いなのかも知れません。
いい嫁さんに当たる必要もあるような気がします。
いい素材を持ちながらも、
精神的な脆さ、あやうさによって、伸びが止まってしまう危険性も感じる。
ダルビッシュという、格好の先輩選手をよく見て学んで欲しい。
あ、でも、女性の方のことは、あんまり参考にはならないのかも(笑)。
ともあれ、久しぶりにみんなをワクワクさせてくれるような
プロ野球の大切な資産が育ちつつあるのを実感しています。
がんばれ、中田翔選手!
がんばれ、北海道日本ハムファイターズ!
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福島県飯舘村への思い

2011年05月14日 08時18分10秒 | Weblog






環境省の「エコハウス」事業については
いろいろな思いがありました。
そういうなかでも特に、福島県飯館村の「までいな家」については
私自身も見に行って、その、まことに「自然循環」的な設計の考え方に
共感の思いを強く抱いた次第です。
Replan東北版で取材記事として掲載したこともあります。
村の考え方が筋が通っていて、
東北でも屈指の寒冷な風土気候を踏まえて、
「高断熱高気密」建築を基本とした、しっかりとした「住宅政策」を
実践している、その姿に、地方自治体のひとつの可能性を見た気がしていました。
どんなに理不尽な中央政府機構であろうと、
それと柔軟に対峙して、自分たちの思いを実現しようとするその姿勢に
深く、敬意を持っていた次第です。
今回の大震災でも、この写真の「までいな家」には、
多くの福島県沿岸部の市町村からの避難者が来て、
その人体からの発生熱だけで、暖房の必要がなく、
また、写真中央の風力利用の「揚水ポンプ」や、
薪利用のボイラーや、調理装置などで、
命を繋ぎ続けていたと言います。
その後のやむを得ない事情での再避難時には、多くの避難者の方が
「ここから離れたくない」と言っていたと聞いています。

そうした村を襲った原発事故の局地的影響。
いま、飯舘村は全村丸ごとの避難を余儀なくされています・・・。
こうした事態の中でも、
報道などで見る限り、村は冷静にしたたかに対応をしているように思います。
菅野 典雄村長は、菅直人首相などとも対談して、
きわめて理性的に、村の復興に向けて、
慎重に手順と布石を打っていると思ってみています。
原発事故に当たっても、感情的にならず、
そういう条件の中で、どのように村を建て直していくべきか、
しっかりと見据えて、取り組んでいくものと期待しています。
今回の震災で、中央政府のさまざまな問題点も出てきていますが、
一方で、県知事さんや、各地域自治体の首長さんたちのなかには、
なかなかに肝の据わった対応を見せているケースが見られます。
間接選挙の結果の国家権力首長とは違って、
直接に住民のみなさんからの信任を得ているひとたちは、
やや覚悟において、違いが感じられる。
結局、自分という人間として直接、主権者に相対している、という
そういった気概が、自ずと備わっていると見るべきなのでしょうか。
危機に当たって、日本人のそういう真実の姿を、
いま、しっかり見ていかなければならないと思っています。
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高所恐怖症

2011年05月13日 06時12分25秒 | Weblog






写真は東京スカイツリーであります。
見る度に思うのですが、あの作業用のクレーン、
あれに乗って、作業している人がいるんですよね。建築関係の人に聞いたら、
あのクレーンで、下から工事用の荷物をつり上げて
その日、その日の作業分の資材を上に挙げて
それを使って、毎日毎日、建築作業を行う。
ということは、あの大地震の日でも作業をしていたんですよね・・・。

って思っていたら、
やはり、そういうコメントも出ているそうで、
まぁ、生きた心地がしなかったんだとか(笑)。
そりゃぁそうでしょうね。
高層ビルにあのときいた人たち、
みんな1mも揺れていた、というのですから、
このクレーンに乗って作業していた人って、
いったい、どれくらいの振幅で揺れたんでしょうか?
どう考えても、冷や汗、100年分くらいは
一気に出てしまったのではないでしょうか?
まさに想像を絶する世界の光景が展開したに相違ない。
しかし、逆に言えば、ああいう揺れでも
作業用の接合でも、きちんと持っていた、というのも
素人から考えると、すごいなぁと思います。

わたし、年の割には、髪の毛も黒々としているわけですが、
たぶん、こういう経験をしたら、
瞬間で、白髪になりそう。
だめ、絶対無理、って思うだけでも高所恐怖症が襲ってきます(笑)。
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仏像制作、日本の芸術

2011年05月12日 06時39分31秒 | Weblog







仏像の制作っていう「産業」は
いくつかの「家元」みたいなところが伝統的に独占してきた。
運慶とか、快慶とかというような名前は
奈良期の名人として名前が知られているけれど、
「慶」という文字がそういった職種を伝承させる「通り名」になっていたのでしょうか?
仏像制作と、その費用について記録があるのは
平泉の藤原氏の2代目が、仏像制作を依頼した雲慶(奈良期の運慶とは別人)
に対して、驚くべき支払を行っているもの。
黄金や、タカの羽根などの珍しいものを送っている。
造られた仏像があまりにも見事だったので、
ときの天皇だか、上皇だかが、嫉妬して畿内から外に出してはいけないと
命じたというお話しがあるそうだけれど
この「雲慶」という人物の人脈ネットワークを動員しての
「料金交渉」だったのではないかと推測されますね(笑)。
そんな歴史のひとこまを考えながら、写真のような
東京博物館所蔵の仏教美術品を見ていると、
仏教と、こういう美術の占めていた社会的な位置について、
いろいろな想念・妄想が沸き起こってきます。
権力との距離の取り方、その利用の仕方ということや、
そういう「交渉技術の知恵の伝承」なども見えてくるような気がします。
やがて利休というような存在も出現するのですが、
芸術というものと、その生き残り方について、
面白みを感じている昨今であります。
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