仏像の制作っていう「産業」は
いくつかの「家元」みたいなところが伝統的に独占してきた。
運慶とか、快慶とかというような名前は
奈良期の名人として名前が知られているけれど、
「慶」という文字がそういった職種を伝承させる「通り名」になっていたのでしょうか?
仏像制作と、その費用について記録があるのは
平泉の藤原氏の2代目が、仏像制作を依頼した雲慶(奈良期の運慶とは別人)
に対して、驚くべき支払を行っているもの。
黄金や、タカの羽根などの珍しいものを送っている。
造られた仏像があまりにも見事だったので、
ときの天皇だか、上皇だかが、嫉妬して畿内から外に出してはいけないと
命じたというお話しがあるそうだけれど
この「雲慶」という人物の人脈ネットワークを動員しての
「料金交渉」だったのではないかと推測されますね(笑)。
そんな歴史のひとこまを考えながら、写真のような
東京博物館所蔵の仏教美術品を見ていると、
仏教と、こういう美術の占めていた社会的な位置について、
いろいろな想念・妄想が沸き起こってきます。
権力との距離の取り方、その利用の仕方ということや、
そういう「交渉技術の知恵の伝承」なども見えてくるような気がします。
やがて利休というような存在も出現するのですが、
芸術というものと、その生き残り方について、
面白みを感じている昨今であります。