三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

足利学校講堂

2010年05月04日 09時10分31秒 | Weblog




関東を歩き始めて、いろいろな歴史に触れる機会を得ます。
東京に8年間ほど住んでいたのですが、
こういう歴史的なことがらって、興味が興らなければ見えない。
っていうか、関東とは言っても東京は全くの別物であって
明治期以降、産業の集中による人口の大膨張は
地方からの人口流入によってもたらされたので
東京という都市は、そもそもが
巨大な地方移住者群によって形成されているとも言える。
神奈川も、基本的には横浜の開港以降、
活発な貿易都市として計画的に作られたような地域なので、
これも別物と考えられ、そうすると、
古代からの歴史的関東というのは、むしろ北部地域の
上野、下野、常陸、といった関東武士団揺籃の地域が中心だったといえる。
毛の国、と言われた地域は、ヤマト王権成立の時期から
関東における最大の中心地域として認識されており、
高崎市が運営している「かみつけの里」博物館では、
火山噴火で埋没した古代地域王権の存在を知ることができます。
畿内地域と関東地域で、それぞれ違いのある歴史的歩みを見せてきたのが
日本歴史の縦糸なのだと知られますね。

そんななかで、F・サビエルの記述でも
板東のアカデミーと記されていて、室町期に最盛期を迎えていたのが
この「足利学校」ですね。
学校という概念を持って教育を行っていた嚆矢の存在だったようです。
人気のカリキュラムは、当時の「実学」とされた
易学・兵学だったということですから、
戦争を日常的に行っていた武家の子弟がここで学んで、
「足利学校で兵学を修めました」と言って、各地の武家勢力に
仕官していったのでしょうか。
それとも、有力武家の子弟が「家業」のために頑張ったのか。

学校という概念が独立していない時代なので、
周囲を環濠で巡らしていて、武家的な防御的施設の外観を有し、
同時に、寺院風の建築様式を備えています。
学生は僧体で生活して、近隣に寄宿し、
自分たちの食べるための菜園も耕していたと言うこと。
そして学費は無料であったということですが、
たとえば隣接する足利家ゆかりの寺院・鑁阿寺~ばんなじ~の屋根瓦には
琉球のシーサーが見受けられたりするところを見ると、
入学金代わりに、なにがしかの貢物が習慣的であっただろうと推測します。

まぁなかなか、奥の深い歴史を感じてくる関東であります。






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