以前にも一度、駆け足で見てきた日光東照宮。
やはり建築に関連するものとしては興味があり、出張の帰路、立ち寄ってみました。
若いころには、日光東照宮というと、
あまりにも俗物的な表現に反感に近いような感覚を持っていました。
徳川の政権を覆した薩長政権が自らの正統性を高めるために
日光東照宮のような世界を否定し、
脱亜入欧的な文化政策を当然のように展開する中で、
俗物的、というような評価を世間に広めたことが
わたしのようなものにも、予断として刷り込まれていたのかも知れません。
進行している権力争奪としての歴史というのは、
たぶん、前政権を否定することが一般的なので、
このような先入観念が一般的に刷り込まれるのは、当たり前でしょうね。
ただし、戦後の昭和30年代、40年代に青春期を過ごしたわたしのようなものでも
そういう雰囲気に飲み込まれていたというのは、
そのプロパガンダがいかに強烈だったのか、
ということを表しているのでしょうか。
しかし、写真や文献などで紹介される日光東照宮のウリには
やはり、そういうプロパガンダが、さもありなんと思える雰囲気はある。
というようなことで、初めて日光を訪れたのも5年前くらいでしょうか。
今回は、純粋に古い建築に接する気持ちで
訪れてみた次第です。
まぁ、やはり写真のような
「過剰な装飾性」というのが、圧倒的に迫ってきます。
これでもか、という色彩、飾り物の絢爛豪華さ、が見るものに訴えかけてくる。
同時代の、というか、徳川権力へのゴマすりとも思える
仙台伊達家の遺講でも共通している、色彩とゴテゴテしさの世界。
写真はいくつかある山門の様子ですが、
これでもかこれでもかと、飾り物が目を奪う色彩で展開する。
で、一方、この立地は江戸からだと将軍の移動に
3泊4日の往路が予定されていたという山深い場所です。
宇都宮からでも相当な距離がある。
緑と自然豊かな山間に、忽然と出現するきらびやかな浄土世界、
というのが建築空間としての意図なのでしょうね。
領域の広大さから言えば、また宗教施設従事者の数の多さからいえば、
これは都市建設といってもいい規模。
こういう場所であれば、
わびさびの世界を展開しても、ニーズには合わない。
庶民の活気ある現世的なアクティブな装飾性が似合うとも言える。
極彩色の曼荼羅のような世界が、庶民にはわかりやすいでしょう。
鎌倉期の武家政権は、禅宗世界を自らの精神性として主張したと言えますが、
それに対して、江戸の武家政権は現世利益的な
大衆的な文化を採用したと言えるのでしょうか。
下克上の、熾烈な社会的な身分の対流作用が活発に展開した結果としての
平和国家社会としての江戸社会を表現したのか。
まぁ、いろいろな見方は出来る空間だと思います。
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