三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

国宝建築 白水阿弥陀堂

2007年11月30日 06時33分50秒 | 歴史探訪

国宝と指定されるような建築って
東北でもあまりないと思われるのですが、
大崎八幡とか、瑞巌寺、中尊寺などが知られています。
そういうなかに興味を持っていたのが、この白水阿弥陀堂。
平泉の「花の御所」と呼ばれる奥州藤原氏の居館は
想像図が示されているくらいで、実際に見ることはできない。
で、この白水阿弥陀堂は藤原清衡の娘が、いわきの地に嫁いで
そこに末法思想からの救済を夢見て造営したとされるものなのです。
それは、すでに現存しない、まさに実家の「花の御所」に似せて建てられたものではないか、
と推定されているものなのですね。

場所は、福島県いわき市内郷白水町。
行ってみると、かなりの山の中に忽然と出現する極楽浄土、という印象。
末法思想を下敷きにした浄土観念が具現化されている。
中世的な庭園、というか池のなかに阿弥陀堂があって、
そこに至るには架け橋を架け、
渡っていく、というような演出になっています。
純粋な建築というよりも、その周囲の庭園との関係も含めた
体験型の建築空間というような意味合いではないかと思います。
周囲は池をぐるっと回るような木立がデザインされていて、
たぶん、一定の回遊時間を行を果たしながら池を回り、
そのあと、橋を渡って阿弥陀堂に参詣したのではないかと想像できます。
こういう宗教体験を目指した建物を理解するのは
中世世界の「末法思想」を理解しないと見えにくいもの。
この時代にはさかんに仏教経典を地中に埋めて「経塚」とするなどという
行為が行われていたそうです。
人間世界は救済の言葉も失うことになるので、
遙かな後世のために、救済の箴言である仏教経典を埋めたのだそうです。
まぁ、そういう時代背景のなかの建築として
数少ない現存形態なので、国宝指定されているのでしょうね。

歴史的には、この娘さんが、藤原家から、
この地の豪族・岩城氏に政略結婚で嫁いできた、ということに興味も覚えます。
平泉を本拠と定めた藤原氏は、白河から外ヶ浜という青森県の辺境まで
自らの国土として「塚」を建て並べたということだそうですが、
その時代に連合的な勢力として、この地の豪族を懐柔したのだと思われます。
この地の豪族にしてみれば、自らの安全を図ったのでしょう。
日本の支配勢力って、
古代の連合的国家から、天皇による中央集権律令体制国家、
さらにその破綻から始まって、守護・地頭の時代、
戦国~江戸期まで、結局は地域ごとに地方王権が存在していたと言えると思います。
結局、それを国造~くにのみやっこ~と呼んだり、
守護と呼んだり、大名と呼んだりはするけれど、
ようするに地方権力というのがけっこう存続してきたのだ、
というようにも見ることができるように思われます。
この点はちょっと、長くなりそうなので、またの機会に。
コメント
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