三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

秋田・久保田城

2007年11月20日 06時35分11秒 | Weblog

秋田には、秋田城はない、って変なんですけれど、
秋田城っていうのは王朝国家、古代律令制国家が
蝦夷との侵略戦争の拠点として造営したもので、
陸奥の国の「多賀城」と並んで語られるべきものなんですね。
位置も、いわゆる秋田市の中心ではなく、むしろやや北方の土崎港の近く。
こちらは近年研究が進んで、発掘や築地塀、門などの再建がなされています。
今回、見に行ってみたかったのですが、
大量の取材原稿整理の山が襲ってきて、
ホテルで、それに取り組まざるを得ず、断念。
写真は、やむなく散歩で行けた「久保田城」なのです。
といっても、この建造物は隅櫓と呼ばれる建物です。
久保田城というのは、戦国が終結して
関ヶ原で日和見な立場を取っていて、徳川家とも緊張関係だった
常陸の「佐竹家」が、左遷されるかたちで入ってきて築いた城。
なので、徳川家に対してひたすら恭順の姿勢を表現せざるを得ず、
また経済的にも厳しかったため、
本丸建築や、石垣造営をしなかった城なんですね。
家が攻め滅ぼされずに領地を得ただけで
良しとせねばならない政治的立場だったのですね。
常陸から出羽・秋田ですから、温暖な地から寒冷な地域へ、
佐竹氏としては苦難の歴史ということになるのでしょう。
それ以前の領主は安東氏。
ちょうど入れ替わるように、常陸に国替えになっている。
まぁ、そういうような経緯での江戸期のスタートになったわけです。
なので、秋田ではイマイチ、城の話題がピンと来ない。
ただし、現在の秋田市はかれら佐竹氏が街割り設計をやって築いた街。
街の中心を流れる「旭川」は、北海道から持ってきた、ワケではなく(笑)、
低湿地だったのを土地改良するために掘り割って作った川なんですね。

こんなような政治的失敗から、
佐竹氏は外交に力を入れて、江戸や京都の情勢把握に努める藩風を作ってきた。
その結果、明治の動乱では早くから官軍側に付いた。
奥羽越列藩同盟には参画せず、薩長側に付いていたんですね。
明治の初年には維新政府は、東北の首府を秋田にしようかと検討していたのだそうです。

まことに東北各地の地域的違いは
こういう歴史的な経緯が色濃く反映しているのですね。
本日は歴史雑感ということで・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする