長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくり世界史 第6回『ローマ王国のたそがれ』

2010年09月14日 01時56分42秒 | ざっくり世界史
 どもども、こんばんは~。そうだいです。 
 いや~、終了してしまいました、9月公演。5回の舞台、無事にゴールしました。しかし、休む間もなく来月10月の公演に向けた稽古が始まります! 良かったことも反省点もひっくるめて、また明日からがんばってくゼイ!
 今日はまぁ、いい公演だった!とハッピーな気分でいきたかったんですがね……残念なことに、先月のブログでも好きだ好きだと言っていた、シンガーソングライターの鬼束ちひろさんが暴行を受けていたというニュースを知ってしまいました。やだねぇ! せっかく、いろいろな点で新しいステージに向かっている最中だと思っていたのに。世間の眼なんか気にしないでがんばれ!なんて無責任なことはとてもじゃないけど言えないんですが、まずはゆっくりとお大事にしていただきたいですね。応援してますから!

 さぁ今回はいよいよ、舞台公演中のために組んでいたプログラム「ざっくり世界史」第1部の最終回です! 目標は「ヨーロッパ帝国の伝統をさぐる」というものだったんですが……結果はごらんの通りのありさま、帝国の「て」の字にもたどりつけませんでしたぁ! ドロンジョ様、お許しを~。
 紀元前753年についに誕生したローマ王国。順調にイタリア半島中西部で国土を拡大していくのですが、次第にある問題に直面していくことになります。
 それは、古くからイタリア半島中部に広く生活していた先住民族・エトルリア人とのかねあいという微妙なものでした。微妙だけど、これが難しいんだ!
 先日も申したように、もともとはラテン人が中心になっていたものの、国力の拡大を至上命題にかかげていたローマ王国は、周辺の他国民や外国人も意欲的に自国に吸収してゆくのですが、当時圧倒的な人口の多さで繁栄していたエトルリア人もその例外ではありませんでした。また王国は、要領よくエトルリア人の持っていた水道などに代表される先進建築技術も学びとっていきました。現存はしていませんが、首都ローマを囲んで防衛する、高さ10メートル・幅4メートルの城壁が史上初めて建造されたのもこのころです。当然ながら、吸収するにつれて、王国におけるエトルリア人の比重はどんどん大きくなっていきました。
 そして、建国から150年がたとうとしていた紀元前7世紀末期ごろ、ついにエトルリア人が国王に選ばれるようになったのです。ローマ出身の人間以外が王になるというケースは以前にもあったのですが、今回のエトルリア人国王即位の意味はだいぶ違ったものでした。
「もしかしたら今回ばかりは、ローマ王国がエトルリア人に飲み込まれるんじゃ……?」
 ローマ王国内では、次第にエトルリア人とそれ以外のローマ国民とのあいだでの対立が表面化していきました。わかりやすい戦争という形ではない、ローマ王国とエトルリア人との、乗っ取るか乗っ取られるかの静かな闘いが繰り広げられていったのです。結果として、元老院に大きく根を張ったエトルリア人勢力のために、代々国王はエトルリア人が選ばれるという状況になっていきました。
 そしてエトルリア人問題が持ち上がってからおよそ100年後、ついに大事件が発生してしまうのです。そのころ、中国は国々の分裂した春秋時代で、日本は東日本が縄文時代で西日本が弥生時代といった状態。インドでは、ブッダが人間から仏様になっていました。最近、マンガで仲良くコンビを組んでいるブッダとイエス様なんですが、ブッダの方がイエス様より500年ほど年上だったんですね。ブッダさん大先輩!
 紀元前535年、ローマ王国で第7代ローマ国王にエトルリア人のタルクィニウス=スペルブスが即位します。「スペルブス」とは後につけられたニックネームで、「傲慢」という意味。つまり、タルクィニウス傲慢王と言われるようなキャラクターだったわけなんです、このお人。
 もう最初から飛ばしてます。タルクィニウスは、元老院内の反対派の貴族を皆殺しにして王に即位しました。そして戦争による国土拡大を重視した政治をおこない、しょっちゅう首都ローマをあけてはみずから戦争に出かけるという血の気の多さだったのです。
 そして紀元前509年。この年、タルクィニウス王のドラ息子が、ローマ王国の有力者の娘を手込めにするという事件が発生します。その結果、娘は親族達にタルクィニウス一家への復讐を頼み込んで自殺してしまいました。
 怒った多くのローマ国民は立ち上がり、タルクィニウス王の遠征中に首都ローマの城門を閉ざし、王の一族を討伐して王もそのまま追放するというクーデターを決行します。
 帰るあてを失ったタルクィニウス王は結局、近隣のエトルリア人国家に亡命しますが、ローマには復帰できないまま異国で死亡するという最期をとげます。
 この事件にはエトルリア人問題は一切関係無かったのですが、結果としてエトルリア人の国王が追放された以上、ローマとエトルリア人諸国との関係は険悪になってしまいました。
 さて、自らの手で王を追放したローマ国民は、「国王」を頂点におかない、新しい政治体制をつくる必要に迫られることとなります。これによって、約250年続いたローマ王国(王政ローマ)はあっけなく消滅しました。さぁ、自ら変革を求めて蜂起したローマ国民が選んだ、次なる国の形とは? そして、この時点ではまだイタリア半島中西部しか支配していなかったローマが、いかにして地中海世界、そしてヨーロッパの覇者となる「帝国」に変貌してゆくのか!?
 盛り上がってまいりました! でも、第1部はここまで! 続きはたぶん、来月の舞台公演期間中だね!
 第1部はちょっと地味だったけど、第2部はハデだぞ~。有名人ももりだくさん! アレクなんちゃら大王とか、クレオなんとか女王とか、カエサなんとかとか。
 お楽しみはこれからだ! 待ってろよ、「神聖ローマ帝国」~!! でもまだ紀元前~。
 
コメント
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