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ユンカース・ユモ004BとホイットルW.1X〜スミソニアン航空博物館

2022-04-27 | 航空機

スミソニアン博物館の「マイルストーン」機体シリーズには
この二つのエンジンも歴史的な意味から展示されています。

Junkers Jumo(ユンカース・ユモ)004B
Whittle(ホイットル)W.1X

ジェットエンジンの開発の歴史について、当ブログでは
同じスミソニアンのジェット推進シリーズをご紹介してきたのですが、
そのときこの展示を覚えていれば取り上げたものを、
今になって気づいたので、また改めて焦点を当てることにしました。

ピストンエンジンからジェットエンジンへの転換は、
航空史におけるまごうかたなきマイルストーンでした。

この発明以降、従来より遠くへ、速く、
かつ低コストでの移動が可能となったのです。

ユンカース・ユモはドイツ、ホイットルはイギリスのエンジンです。
この頃アメリカは技術的に後進国で、ジェットエンジンについては
蚊帳の外技術だったのですが、なぜか21世紀の今日では、
そのどちらもがアメリカの国立博物館に展示されているのが歴史の妙ですね。



この二つのエンジンを開発した二人の技術者は
ドクトル・フォン・オハインとサー・フランク・ホイットル
この二人は全く別々の場所にありながら、それぞれが独自に
ジェットエンジンという発明を通して新しい時代を切り拓きました。

■ ホイットル W.1Xエンジン

Whittle W.1Engine

世界最初の遠心流たーボジェットエンジンの一つです。
イギリスの軍人でありエンジニアであったフランク・ホイットル卿は、
1932年にこの設計の特許を取得し、
1936年にはPower Jets Ltd.を設立しました。

当ブログでは以前、フォン・オハインとサー・ホイットルについて、
(そのときはWhittleをウィットルと表記していますが、今回はこちらで)
特にホイットルの不遇ぶりと晩年の二人の出会に至るまでを
”フォン・オハインとウィットル 二人のジェット機開発者”という項で
これでもかと書き連ねたことがあるので、今日はその時に書かなかったことを
何とか探し出して書いてみたいと思います。

【パワージェッツWUの”将来性”】

ホィットルが最初に開発したのは、1930年代の終わる頃でした。
パワージェッツWU(WUはホイットル・ユニットの意味)と名付けられた
この実験用ジェットエンジンについてはイギリス政府は無関心でした。


ホイットル中尉(当時)

これは、前段でも書いた、遠心式ターボジェットについての
ウィットル論文に対する軍需省の評価が低く、
ほぼほぼ無視されていたということが祟ったと思われます。

しかし、ウィットルが画期的なアイデアであるところの
ジェットエンジンに関する論文をどういうわけか気前良く公開していたため、
各国の目端の効く技術者たちが、このアイデアを後追いし始めていることに、
お役所はようやく気づいたというところかもしれません。
(全く想像で言っているだけですので悪しからず)

ともあれ、突如興味を示した航空省が、科学研究部長のパイ博士(Pye)ら
視察団を送り、パワージェッツWUのデモンストレーションが行われました。

この実験結果については、ある資料は失敗だったといい、
ある資料は非常に成功したとされていて、実際どうだっかは不明なのですが、
WUは飛行に用いるには非力で重かったというのは事実でしょう。

開発中に圧縮機の弱さや燃焼の不安定などのアクシデントもあって、
ホイットルらは苦労したというのも事実だと思いますが、
航空省はこのターボジェットに可能性を感じたのだと思います。

これまでにイギリスが装備してきたレシプロエンジンと併用して
軍備においてそれどころか競合する存在になることを見抜いた研究部は、
実験そのものではなく将来性を買い、エンジンを購入すること、
そしてホイットルのパワージェッツ社の運転資金として
そのエンジンを貸し出す、という形で資金提供をすることを申し出ました。


そして、英国航空省は、1939年にこのエンジンを発展させたものを
グロスターE.28/39テスト機で評価することを決めたのです。

W.1の開発が進むと同時に、グロスターは地上試験用に
プロトタイプのW.1Xを搭載しました。
このときエンジンは開発者の名前をとって
「ホイットルスーパーチャージャー式W1」
と命名されていたそうです。



【W.1ジェットエンジン空を飛ぶ】

1937年にベンチテストされたホイットルWUとは異なり、
W.1は航空機への搭載を容易にするために左右対称に設計されました。

W.1の新基軸的なところは、

ヒドゥミニウムRR.59合金製(高強度、高耐食性、高耐熱性)の両面遠心圧縮機
逆流式ラボック(Lubbock)社製燃焼室(燃料が燃焼する空間)
「もみの木の根」形状で固定された72枚のブレードによる

水冷式軸流タービン部
ファース・ビッカース・レックス78(ステンレス)を使ったタービンブレード

などが採用されていたことです。
水冷式は後に空冷式に変更されています。

W.1型では、その後コンプレッサーの関係で2Gに制限されることになります。
ジェットパイプの最高温度は597℃になりました。


あら飛んじゃった

しかし、新しい設計の開発が超長引いてしまったため、
この際飛行不能と判断された部品と試験品などを使って、
テストユニット「アーリー(初期)エンジン」を作ることになりました。

これを組み立てたのが、ワンオフ(一回しか使わないつもり)の「W.1X」

1941年4月に行われたタキシング試験で、公式には飛行不可能なエンジンが
グロスターE.28/39の動力源として短い「ホップ」を行い、
1ヵ月後に正式なW.1エンジンとなって飛行試験にこぎつけたのです。

誰かは知りませんが、飛行機の前で写真を撮っている人たち
(多分メガネの人がサー・ウィットル)はさぞ嬉しかったことでしょう。

この後、飛行可能なエンジンを取り付けられたE.28/39が
史上最初の公式飛行を行ったのは1ヶ月後でした。

1942年2月、E.28はW.1Aエンジンで飛行試験を行い、
このとき高度4,600mで時速430マイル(690km)にまで到達しています。



さて、ここで登場するのが、あわよくばこの新技術を
ノーリスクで手に入れたい、と虎視眈々と狙っていたアメリカ
でした。

1941年に英国を訪問したヘンリー・ハップ・アーノルド将軍(でたー)は、
アメリカで飛行させるためにW.1Xの機体現物と、
より強力なW.2B量産型エンジンの図面、ついでに
パワージェッツ社の技術チーム一抱えを、
アメリカにまるっと空輸するよう手配しました。

さすがは技術はないが、やる気と金だけはたんまりあるアメリカ。(当時)
スケールが違う。

そうやって空輸されたW.1は、まずゼネラル・エレクトリックI-A、
次いでゼネラル・エレクトリックI-16の原型となり、
W. 2Bはというと、1943年には推力750kgfを発生するまで開発されました。

(イギリスから連れてこられた技術陣がその後どうなったかは不明)

GE社の改良型であるIA型は、1942年10月2日に、ここでも紹介した
米国初のジェット機であるベルXP-59Aエアラコメットに搭載されています。


その後W.1Xは耐用年数を終えると英国に返還されましたが、
1949年11月8日、パワージェット社からスミソニアン博物館に寄贈され、
再び大西洋を渡ってアメリカにやってきてここにあるというわけです。


タイプ ターボジェット 
推力:5,516 N(1,240 lb)/17,750 rpm、
3,781 N(850 lb)/16,500 rpm(初飛行のため減衰) 圧縮機。
圧縮機:単段、ダブルエントリー、遠心式 燃焼器:10個の逆流室 
タービン:単段、ダブルエントリー、遠心式 単段軸流式 
重量:254kg(560ポンド)


■ ユンカース・ユモ004Bエンジン

Junkers Jumo 004B Engine

スミソニアンの説明はいきなりこんな言葉から始まります。

「フォン・オハインのエンジンの最初の成功にもかかわらず、ドイツ当局は
ユンカースから、より有望なターボジェットを開発することを支持しました」


ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハインが発明した
ジェット推進システムに最初に興味を示したのは、
これも前述の通り、ハインケル社でした。


エルンスト・ハインケル(左)とオハイン(当時23歳にしては老けてない?)

オハインはハインケルでターボジェットを搭載した初の航空機、
He 178V1を開発したのですが、残念なことに(ラッキーだったという説も)
ハインケル社がナチスとドイツ空軍に冷遇されており、
初のジェットエンジン搭載についても全く日の目を見ませんでした。

ハインケルHe178 V1

冷遇されていたハインケルとオハインでしたが、英国科学省のように、
やはりこの技術の可能性を見出した人物が現れたのです。


左から:シュエルプ、ホイットル、オハイン、
1978年オハイオ・デイトンの国立空軍博物館にて

この一番左の人物、
ドイツの技術者ヘルムート・シェルプ(Helmut Schelp)、
そして、

ハンス・マウヒ(Hans Mauch)
の二人は、ドイツの航空エンジンメーカー各社に声をかけて
独自の開発プログラムを開始するように促しましたが、
どの会社も新技術に懐疑的だったため、なかなか軌道に乗りませんでした。

1939年、シェルプとマウヒが各社を訪れ、進捗状況を確認したところ、
ユンカース・モトーレン・ヴェルケ(Jumo)部門の責任者が言うには、

「コンセプトが有用であっても、それを手がける者がいない」

そこでシェルプは、ユンカース社のターボ/スーパーチャージャーの
開発担当、アンセルム・フランツ博士に白羽の矢をたて、
開発チームを立ち上げさせました。


アンセルム・フランツ博士(Dr. Anselm Franz)

プロジェクト名はRLMの109-004

この109-は、第二次世界大戦中のドイツのエンジンプロジェクトに共通で、
有人飛行機用ロケットエンジン設計の識別にも使われています。

フランツは、保守的でありながら革新的な設計を選択しました。

「軸流」と言って、エンジン内に連続的でまっすぐを空気の流すという
新しいタイプのコンプレッサー(軸流コンプレッサー)を利用する点で、
フォン・オハインと異なるアプローチを採用したのです。

この軸流圧縮機は、効率にして約78%という優れた性能を持つだけでなく、
高速の航空機にとって重要な、より小さな断面でできていました。

開発においては、実に戦略的というのか実質的というのか保守的というのか、
生産の迅速化と簡素化のために、理論上のポテンシャルを追求せず、
それどころか大きく下回るエンジンの生産を目指しています。

そのため、より効率的な1個の環状燃焼器ではなく、
6個の「フレーム缶」を使ったシンプルな燃焼エリアを選択しました。

タービンの開発においても、開発用エンジンではなく、
すぐに生産に移れるエンジンの試作に取り掛かったのも同じ理由からです。

フランツの堅実すぎるアプローチはRLMから疑問視されていたそうですが、
004は生産と使用を開始する運びとなりました。

【テスト飛行】


Me262戦闘機のナセルに搭載されたJumo 004エンジンの正面図


1940年10月、ディーゼル燃料式004A試作1号機の初試験が行われました。
RLMとの契約では最低推力が600kgfに設定されていたのですが、
最高推力は430kgfに留まりました。

その後航空省のコンサルタントの協力を仰ぎ、問題解決して
8月には5.9 kN、12月には9.8 kNで10時間耐久飛行に成功しました。


1942年7月18日、試作機のメッサーシュミットMe262
004エンジンを搭載して初飛行し、
その後RLMは80基の生産を請け負う運びになります。

Me262試作機の動力源として最初に作られた004A型エンジンは、
材料の制約がなかったので、ニッケル、コバルト、モリブデンなど、
希少な原材料を使っていたのですが、よく考えたらこれでは
大量生産することができません。

そこでフランツは、燃焼室を含むすべての高温金属部品を、
アルミニウムのコーティング軟鋼に変更。
タービンブレードはクロマジュール合金(クロム、マンガン、鉄70%)、
という風に仕様を変えて構造を簡略化しました。

こだわりすぎると良くないってことですね。

【欠陥調査と本格的な生産】

その後、1943年に004B型はタービンブレードの故障を起こしますが、
ユンカースチームはこの原因を特定することができませんでした。

材料の欠陥、粒径、表面の粗さといった点もチェックしまくった結果、
ブレードの固有振動数が故障の原因であることを突き止めたのです。
ブレードの周波数を上げることによって、
エンジンの運転回転数を下げて解決しました。

なんだかんだで大変だったため、
ようやく本格的な生産が開始できたのは、1944年初頭のことです。

そしてこのジェットエンジン設計における工学的な細部の課題は、
結論としてMe262の戦線への投入を遅らせる原因になりました。

それではMe 262が早く投入できていたら戦況は変わったのか?

と言われると歴史にイフはないとはいえ、
これくらいでは勝敗が覆ることは決してなかっただろうとしか言えませんが。


アンセルム・フランツ博士は、多くのドイツ技術者の例に漏れず、
戦後アメリカに渡ってアメリカ空軍のために研究を行い、
その結果ライカミングT53ターボシャフトエンジン
ハネウェルAGT-1500タービンを開発しています。

T-53はベル社のUH-1ヘリコプターに、
AGT-1500はM1エイブラムス戦車に搭載されました。


ちなみに、1932年の段階で、ハンス・フォン・オハインはこう言っています。

”The airplane rattled because it had piston engines...
It was not as romantic as I thought it would be...
I thought flying should be elegant.”

ピストンエンジンのせいで飛行機はガラガラとウザい・・
これって僕基準ではロマンチックじゃないんだ・・
飛行ってのはエレガントじゃなくちゃ)

日本のあの飛行機設計者もそうだったようですが、
技術者というのは時としてスタイリストでロマンティストですね。

しかしこれが彼がジェットエンジンを作るモチベーションとなりました。
そして奇しくも同じ時期に、ジェットエンジンの着想を得ていた
サー・フランク・ホイットルは1929年、こう言っているそうです。

”Why not increase the compressor compression ratio
and substitute a turbine for the piston engine?”

(コンプレッサーの圧縮比を上げて、ピストンエンジンの代わりに
タービンを使ってはどうかな?)

二人が戦後アメリカで出会ってソウルメイトになったという話は
以前ここでもしていますが、同時期の技術者として
二人には元々前世からの因縁めいたものがあったのかと思わされます。



最後に、スミソニアン博物館におけるものすごい写真を。

左から

「ボーイング727の父」ジョン・スタイナー、
ハンス・フォン・オハイン、
アンセルム・フランツ、
チャールズ’チャック’イェーガー准将、
サー・フランク・ホイットル


わかる人にしかわからない、絢爛豪華なメンバーです。



続く。