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”スペースウォーカー”ジェミニVI〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館に一歩足を踏み入れた途端、
その歴史的価値においてはどれも一級の航空機が並んでいて、
大国アメリカのこの世紀における底力に誰もが圧倒されますが、
特に、ソ連とその科学力を持って世界一を争った
航空宇宙開発の足跡であるところの宇宙船などは壮観の一語につきます。

今日はそんな宇宙開発展示の一つについてお話しします。

◆ジェミニ計画

ジェミニ計画(Project Gemini)は、アメリカ合衆国航空宇宙局、
NASAの、二度目の有人宇宙飛行計画です。

1958年から始まったマーキュリー計画と、有人宇宙飛行が目的だった
アポロ計画の間に当たる、1961年から1966年にかけて行われました。

ジェミニ計画の目標は「スペースウォーク」。
ジェミニ4号は、宇宙で活動することに向けた大きな一歩である、
宇宙船外における人類の活動を初めて可能にしました。


宇宙飛行士、エドワード・H・ホワイトは、ジェミニ4号の活動中、
このスミソニアンにあるカプセルの右側にあるハッチをあけて
宇宙空間に21分浮いたとき、初めて宇宙を歩いたアメリカ人となりました。


このとき、窓から出ていった予備の耐熱グローブは回収することができず、
しばらくスペースデブリとなって宇宙を漂っていたとか(回収済み)

ホワイト飛行士

残念なことに、アメリカ人で初めて宇宙を歩いたホワイトは、
この成功からわずか1年半後、アポロ1号訓練中の火災によって
ガス・グリソム、ロジャー・チャフィと共に殉職してしまいました。

アポロ1号の火災事故については、映画「アポロ13号」でも取り上げられ、
「ライト・スタッフ」では、ラストシーンで映るガス・グリソムの映像に
彼が事故で亡くなるという字幕が重ねられています。

話を元に戻します。

ジェミニ計画で最初のジェミニ1号が打ち上げられたのは1964年、
2号は翌年の1965年で、いずれも実験的な無人飛行でした。

ジェミニ初めての有人飛行となったのは3号で、このときは軌道を3周し、
その次の4号が初めて船外活動に成功したというわけです。

この時ジェミニ4号の機長ジェームズ・A・マクディビットとホワイトは
4日間にわたる宇宙飛行を記録し、アメリカ国内の滞在期間を更新しました。

以降ジェミニ宇宙船は1965年から1966年までの間に
2名ずつ10名の宇宙飛行士を宇宙に送り出しました。

その中にはアポロ11号乗員ニール・ームストロング、バズ・オルドリン
アポロ13号船長だったジム・ラヴェル
「マーキュリー・セブン」だったウォルター・シラー
そしてガス・グリソムの名前がありました。

宇宙開発競争の主要部分とも言えるジェミニ計画は、
いわば「基礎」となったマーキュリー計画によるカプセル打ち上げと、
より洗練されたアポロ計画との重要な架け橋だったと位置付けられています。

ジェミニ計画の飛行士は、順次打ち上げられた12号までのカプセルにおいて、
軌道を変更する方法、ランデブーして他の宇宙船とドッキングする方法、
そして宇宙を歩く方法などを学ぶことができました。

ジェミニは実用的な宇宙飛行の先駆けとなったのです。

そして対外的なことを言えば、この計画により、アメリカは
東西冷戦時代にソビエト連邦との間でくり広げられた宇宙開発競争において
決定的に優位に立つこととなったとされています。


◆人類初の宇宙遊泳者 アレクセイ・レオーノフ


先ほど、ホワイトについて「アメリカ人最初の宇宙遊泳者となった」と書きました。
それは、彼が「世界初」ではなかったからです。

世界で初めて宇宙を歩いた男。

それは、アメリカと開発競争を争っていたソビエト連邦の宇宙飛行士、

アレクセイ・レオーノフ
(Alexey Arkhipovich Leonov, 1934- 2019)

でした。

レオーノフは、世界で初めて宇宙に飛んだ男ユーリイ・ガガーリン、
ソユーズ1号で事故死したウラジーミル・コマロフらとともに
選抜されたソ連最初の宇宙飛行士の一人です。

レオーノフが世界で最初に宇宙遊泳を行ったのは1965年3月18日。
ボスホート(Voskhod)2号で打ち上げられ、約10分間、遊泳を行いました。

ジェミニ4号でのホワイトの宇宙遊泳は22分間で、これは、
彼がなかなか帰ってこなかったせいと言われていますが、
アメリカは先を越されてしまった分、せめてソ連より
1分でも長く滞在しようとしたという可能性もあるかもしれません。

当時の米ソの宇宙開発競争が、国家の威信と覇権をかけた、
それはそれは熾烈なものだったことを考えると、
これはあながち間違っていないのではとわたしは思います。


アレクセイ・レオーノフについてもう少し書いておきます。

この人はソユーズ11号に乗り込む予定でした。
しかし予定の三人のメンバーのうち一人に結核の陽性反応が出たため、
(これは後から誤診だったとわかる)
全員交代を命令されて彼も任務を降りざるを得なくなりました。

ところが、代わりにソユーズ11号に乗ったのが予備メンバー。
経験と訓練不足もあって、帰還時空気漏れ事故を回避することができず、
カプセルの中で全員が窒息死するという惨事に見舞われました。

殉職した飛行士たちの国葬

乗員交代の命令が降ったとき、レオーノフはこの措置に反発し、
結核の疑いのある者だけを交代させ、自分ともう一人を残すように、と
かなり強く要請したのですが、叶いませんでした。

しかしこのとき彼が予定通り乗り組んでいたら、
おそらく事故は回避されていたと考えられており、その理由は二つあります。

まず、酸素漏れの原因となった自動制御のノズルを、
レオーノフは手動に変えておくべきだと忠告しようとしていました。

つまりこの時点で空気漏れの事故は防げたはずというのが一つ。

それからカプセルの酸素が抜けていく音に気づいた乗員は、
ノズルがどこにあるのかわからず、探すために音声を切っています。

空気漏れの音が座席の下からしていることに気づいた時には手遅れでしたが、
レオーノフであれば、万が一そうなってもすぐに対処できたはずでした。

こうなると、諸悪の根源は、ラボの健康診断での誤診ということになります。
ここさえ間違わなければ、そもそもメンバーが交代もなかったのですから。


さて、このアレクセイ・レオーノフさんですが、
この写真を見てもなんとなくうかがえるように、大変気さくな人柄でした。

絵を描くのが大好きで、ご本人が持っている絵は自分で描いたもの。
宇宙開発の任務に携わっていた時期から、
趣味として宇宙などを題材とした絵画を描いていたそうです。

また数度の来日経験があり、気さくな人柄でテレビ出演や
トークショーなどを何度も行い、日本ではサインも日本語で書いていたとか。

2019年10月に85歳で亡くなりましたが、原因はコロナではありません。


◆コールサインは”ヒューストン”



ジェミニ4号に話を戻します。

これはジェミニ4号内部のホワイト飛行士(右)と
船長マクディヴィット飛行士で、リフトオフを待っているところです。

スミソニアンにはこれが反転した写真が展示されています。
ホワイトの肩の🇺🇸を見れば、こちらが間違っていたことがわかりますね。


さて、この両国の快挙で初めて人類が宇宙船の外に出ました。

それは宇宙飛行士が月面を歩くこと、そして宇宙ステーションの建設、
人工衛星の修理、化学機器の整備など、あらゆる可能性につながりました。

この宇宙遊泳は、人類が宇宙に踏み出すための偉大な一歩だったのです。

うわーみんな頭良さそう。あたりまえか。

ヒューストンコントロールセンターに最初に指名された
NASAの航空ディレクターたち。
彼らはジェミニIVのミッションディレクターとして働きました。

左上から時計回りに:

グリン・ラニー(Glyinn Stephen Lunney)
ジョン・ホッジ(John Dennis Hodge)
クリス・クラフト(Christopher Columbus Kraft Jr.)
ユージーン・クランツ(Eugene Francis "Gene" Kranz )

全ての宇宙飛行の実行のためには、多くを地上支援に頼ります。
ジェミニ4号以降、地上管制システムは、それまでの
フロリダ州ケープカナベラルからテキサス州ヒューストンの
ミッションコントロールセンターに移転しました。

コールサイン「ヒューストン」で知られるこのセンターは、
何十年にもわたる宇宙飛行のミッションを通じて、
冷静で科学的な管理と問題解決の象徴となりました。

ちょっとこの写真の面々を紹介しておきます。

【グリン・ラニー】

ジェミニ計画・アポロ計画のフライトディレクターです。

アポロ11号の月面上昇やアポロ13号の危機などの歴史的な出来事に立ち会い、
アメリカの有人宇宙飛行計画における中心人物と言われています。

「アポロ13」ではジーン・クランツ(エド・ハリス)が目立ちましたが、

「世界は、宇宙飛行士を破滅させる可能性のある大惨事を回避しながら、
宇宙飛行士を安全に月のモジュールに移動させる即興の傑作を組織したのが
グリン・ラニーだったことを記憶するべきである」

と述べる作家もいます。

【ジョン・ホッジ】

イギリスの航空宇宙技術者だったホッジは、カナダに渡って
戦闘機の研究をしていましたが、それが中止されるとNASAに入り、
フライトディレクターとして活躍しました。

【クリス・クラフト】

クリストファー・コロンブスというファースト&ミドルネームがすごい(笑)
彼はこの名前もあって、宇宙開発時代は大変な時代の寵児だったようです。

ところで、この4人のうち、いわゆるトップ工学系大学を出ているのは
バージニア工科大学を卒業したこのクラフトだけです。
アメリカって特に科学系は学歴ではなく実力主義だなあと思います。

それと、白人系であれば、他国籍でも軍事産業参加OKなんだなあと。


1957年、いわゆる「スプートニク・ショック」の後、アメリカは
始まったばかりの宇宙開発計画を加速させますが、
「人間を軌道に乗せる」問題の研究に誘われた彼は、有人宇宙計画、
マーキュリー計画の最初の35名のエンジニアの一人となりました。

「アメリカの有人宇宙飛行計画の始まりからスペースシャトル時代まで、
その推進力であり、功績が伝説となった人物」

と言われています。

【ジーン・クランツ】

映画「アポロ13号」でエド・ハリスが演じたジーンとはこの人です。

Gene Kranz: other famous quotes

うーんかっこよすぎでないかい。

実物もよし。
例のあのベスト(奥さんお手製)が似合ってます。


奥さんはミッションのたびにベストを手作りしていたため、
何種類もあったらしく、赤や黒のバージョンもあります。

クローズカット&フラットトップのヘアスタイルと共に、
妻のマルタがフライトディレクターの任務のために作った、これらの
さまざまなスタイルと素材の「ミッション」ベストはあまりにも有名で、
彼は今でもアメリカの有人宇宙開発の歴史のレジェンドです。

「タフで有能」の権化だった彼の語録は「クランツ・ディクタム」として、
映画やドキュメンタリー映画、書籍や定期刊行物の題材になりました。

2010年の宇宙財団の調査では、クランツは
「最も人気のある宇宙ヒーロー」の第2位にランクインしています。

空軍のテストパイロット出身で、マクドネル社を経てNASA入局。
ジェミニ4号の時にはまだマクドネルに所属していました。

アポロ13号打ち上げの時にフライトディレクターだった彼は、
彼らを地球に帰すNASA一丸となったミッションの指揮を執りました。
映画では、

「Failure Is Not An Option」
(失敗は選択肢にない=許されない)

というクランツのセリフが有名になりましたが、これは彼の発言ではなく、
管制クルーの一人がインタビューでなんとなく言った言葉を
脚本家がドラマチックに取り上げてクランツに言わせたと言われています。

ただ、クランツは、のちにこの言葉を自伝のタイトルにしています。


ジェミニ4号のミッション・コントローラーと話をする
NASAのディレクター、デーク・スレイトンDake Slayton(左)。

第二次世界大戦中はB-25ミッチェルの操縦士だったスレイトンは
戦後は空軍で戦闘機のテストパイロットをしていたところ、マーキュリー計画で
7名の宇宙飛行士の一人に選ばれますが、心臓に疾患があったため、
療養している間、ディレクターとしてNASAの宇宙開発事業に携わりました。




最後にちょっといい写真を。

スレイトンと、先ほどのアレクセイ・レオーノフのツーショットです。

後のシリーズで実物の展示写真と共にお話しする予定ですが、
スレイトンは1973年2月、ドッキングモジュール・パイロットとして
アポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
に参加することになりました。

アメリカ人クルーはロシア語を学び、ソ連に渡ったのち、
ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターで
2年間の訓練プログラムを開始することになりました。

彼はスカイラブ計画中も管理職の役割を担っていましたが、
来るべきフライトに備えて1974年2月にディレクターを辞任しました。

そして、1975年7月15日、アメリカからアポロ宇宙船、
ソ連からソユーズ宇宙船が打ち上げられます。

7月17日に2機の宇宙船は軌道上でランデブーし、アメリカ人宇宙飛行士は
宇宙飛行士のアレクセイ・レオーノフ、ヴァレリ・クバソフ
クルー・トランスファー(乗員交換)を行いました。

この時スレイトンは51歳。
当時宇宙飛行を行った宇宙飛行士としては最高齢でした。


アポロ1号、そしてソユーズ11号と、宇宙飛行士が犠牲となった
宇宙開発戦争における悲惨な事故のうち二つを紹介しましたが、
それでもなお、人類にとって、当時、宇宙は
命をかけてチャレンジする価値のある未知の領域でした。

アメリカで最初に宇宙を歩き、その後アポロ1号の事故で殉職した
エド・ホワイトは、宇宙飛行からカプセルに戻る時、
ミッションコントローラーだったクリストファー・クラフトに、
このように通信しています。

”I'm coming back in…
And it’s the saddest moment of my life.”
(帰還する・・これは僕の人生で最も悲しい瞬間だ)

よっぽど宇宙が楽しかったんですね。

続く。