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MiG-15 vs.フライング・レザーネックス(海兵隊航空隊)〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-24 | 航空機

フライング・レザーネック海兵隊航空博物館の戸外展示、
第二次世界大戦期を終わって、今日は戦後から
朝鮮戦争のころの航空機をご紹介します。

■ ミコヤン・グレヴィッチ MiG-15ファゴット(Fagot)

まず冒頭写真のMiGからです。
これまでわたしが訪れた航空博物館のほぼほとんど全部に
このMiGが展示されているのには驚かされます。

その理由は、ソ連がこの機体を大量生産し、それが
アメリカに流れてきて、個人所有することができたからです。
一般人が趣味でMiGに乗ることができたんですね。

ここにあるMiG-15にはファゴット(Fagot)という
NATOによるコードネームが付けられています。
ファゴットというとフランス語のバスーン、楽器のことだと思いますが、
どの辺がファゴットなのかいまいちわかりかねます。

【MiG-15ファゴットの歴史】

MiG-15は、後退翼(Swept-wing)を持ち、超音速を実現した
世界初のジェット戦闘機のひとつです。

先日来、「第二次世界大戦の戦闘機エース」シリーズで、
その頃のソ連の航空技術が英米独に水を空けられており、そのせいで
対ソ連機戦は他国の戦闘機パイロットにとって「貯金箱」と化していたことを
あらためて如実に知ることとなったわけですが、
この屈辱的な事実に「激怒」したのがかのヨシフ・スターリンでした。

スターリンは怒りに任せて開発を推し進めるよう大号令をかけました。
まずはドイツのメッサーシュミット262を鹵獲してそれを徹底的に研究。
Me-262は世界で初めて戦闘機として成功したジェット機です。

その甲斐あって、ソ連は宿敵アメリカより先に
後退翼のジェット機の実用化に成功します。
(スターリンにはとにかくアメリカより先、というのが大事だった模様)
そうして衝撃の世界デビューをしたのが、MiG-15戦闘機でした。

1947年に初飛行したMiG-15は、緊張する超大国間の冷戦下、
高空を飛ぶ敵爆撃機を迎撃するのが主目的でした。

初期の機体にはエンジンが搭載されていませんでしたが、
わたしに言わせると当時労働党のお花畑政権だったイギリスが、
25基のロールスロイス・ニーン・ターボジェットエンジンを提供しました。

Rolls-Royce Nene

【ライバル・F35セイバー】

MiG-15は1950年から3年に亘った朝鮮戦争に投入されました。
朝鮮半島上空ではF9FパンサーF80シューティングスターなど、
連合軍機よりも明らかに勝る性能を発揮しました。

しかし、この状況に甘んじているアメリカではありません。
たちまち対抗してノースアメリカンのF-86セイバーを投入します。

F-86-F-35-NA(1955年)

頑丈に作られたセイバーは、訓練されたパイロットに操作されることで
MiG-15に勝るとも劣らない性能を発揮することができました。

MiGの搭載銃はセイバーより強力で、速度も機敏性も勝っていましたが、
セイバーは安定性と上昇性能においてMiGより優れていました。

さらに、セイバーのパイロットの能力は明らかに中国や北朝鮮よりも上でした。

ソ連は、ここで自国のパイロットがあまりにも戦闘に関与しすぎると、
米ソが正面からぶつかり合うことになり、これがひいては
第三次世界大戦の勃発につながるのではないかと恐れていたといいます。

MiG-15は失速しやすく、マッハ1以上の速度ではコントロールが難しいため、
経験の浅いパイロットには容赦がなかったのですが、
熟練したパイロットはこれを克服し能力を引き出すことができました。

朝鮮戦争でMiG-15に搭乗したのは北朝鮮、中国、ソ連のパイロットでした。
この機体の特徴は、なんと言っても軽量であることでした。
乗り手を選ぶとはいえ操縦性に極めて優れていました。

MiG-15は共産圏諸国では12,000機以上が生産され、
その他の国ではさらに6,000機までがライセンス生産されました。
派生型は44カ国以上で使用され、その多くが現在も使用されています。
どんな航空博物館にもこの機体があるのはそういう理由です。

【MiG-15の機体性能と欠点】



MiG-15の最初の目的は、冷戦下においてB-29のような
アメリカの大型爆撃機を迎撃することでした。

それを確かめるため、ソ連は鹵獲したアメリカのB-29や、
ソ連のB-29のコピー機であるツポレフTu-4との模擬空戦を行っています。

大型爆撃機を確実に破壊するために、MiG-15は23ミリ×2基(80発)、
37ミリ×1基(40発)の自動砲を搭載し、確かに迎撃戦では
絶大な威力を発揮したのですが、発射速度が限られていたため、
空対空戦で小型で機動性の高いジェット戦闘機に命中させるのは困難でした。

そして弾道の点でいうと、23ミリと37ミリでは軌跡が大きく異なります。
朝鮮戦争でMiG-15と対戦した国連軍のパイロットは、23ミリの砲弾が
自分の上を通過し、37ミリが下を通過するという体験をしています。

砲はシンプルなパックに収められ、整備や再装填のためには
機首下部からウインチで取り出せるようになっており、
あらかじめ用意されたパックを素早く交換することができました。

超音速で急降下するのに十分なパワーを持っていたのですが
"オールフライング "テール(尾翼)がないため、
マッハ1に近づくと操縦性(パイロットの関与できる)は大きく損なわれた、
とここの説明にはあります。

「All Flying Tale」とは、水平尾翼全体を動かす事によって
エレベーターとしての機能を持つ舵のことです。
スタビレーター(安定の意)ともいいますが、

これはスタビレーターじゃないのかしら

まあとにかくそういうことだったので、パイロットは、
操舵が効かなくなるマッハ0.92を超えずに操縦していました。
ってことは音速突破してなかったってことですわね。

もう一つ厄介なことは、MiG-15は失速するとスピンする傾向があり、
いったんそうなるとパイロットはリカバーできなくなる傾向がありました。

後のMiG(19以降)からはオールフライングテールが装備されていますが、

とりあえず改良を施したのMiG-15bis(セカンド)は、
RD-45/Neneの改良型であるクリモフVK-1エンジンを搭載し、
細かい改良やアップグレードを加えて1950年初頭に早くも就役しました。

目に見える違いとしては、エアインテーク・セパレーターに
ヘッドライトが設置されていたことと、
大型の一枚板の長方形のスピードブレーキが採用されていたことです。


ところで、ここに展示されているのも実はMiG-15bisです。
よくよく見ると、これにもスピードブレーキが付いていました。



本機は朝鮮戦争の戦闘で損傷したのち中国で修理され、
J-1と改称されて中国空軍が運用していたようですが、
1988年に北京の中国航空博物館から譲り受け、
1992年までロスアンジェルスのチノ空港に保管されていました。

■ 海兵隊パイロットvs. MiG-15

当海兵隊航空博物館には、やはり海兵隊パイロットと
MiG−15の対戦についての記述がありますので紹介しておきます。

【ジョン・ボルト大尉 Capt. John Flanklin Bolt】
”2WAR ACE"(二つの戦争のエース)


ジョン・ボルト海兵隊中佐(1921– 2004)は、
第二次世界大戦と朝鮮戦争、二つの戦争でエースの地位を獲得した
唯一の米海兵隊員であり、唯一の海兵隊のジェット戦闘機のエースです。



貧しい家庭に生まれ、経済的理由でフロリダ大学を中退した後、
米海軍に加わり、海兵隊のパイロットとして訓練を受けました。

彼は第二次世界大戦の太平洋戦線において、F4Uコルセアに乗り、
A6M零戦に対して6回の勝利を収めました。

コルセアを装備したVMF-214「ブラックシープ」では、彼は
海兵隊エース、パピー・ボイントン少佐の指揮の下飛行しています。

その後ボイントンが撃墜され日本軍の捕虜になってから、
飛行隊の指揮を彼に代わって務めています。


1943年、太平洋戦線にて

朝鮮戦争が始まると、空軍(USAF)との交換プログラムを通じて戦闘に参加し、
いわゆる「MiGの小径(alley)」と言われた北朝鮮国境で
F-86セイバーで中国軍のMiG-15と対戦、ここでも6勝を挙げました。

写真のF-86セイバージェットの側面に
「ダーリン・ドッティ」という言葉がペイントされていますが、
ドッティは彼が第二次世界大戦中結婚した愛妻、ドロシーの愛称です。

戦後、彼は中断していた法律の勉強を継続し、
40歳になってから息子と同じフロリダ大学に通い、博士号を取得、
残りの人生を弁護士として地域に貢献することで全うしました。

彼は、二つの戦争でエースとなった空軍以外の唯一のパイロットで、
同じタイトルを持つ7名のパイロットの最後の生き残りとして
2004年、83歳の生涯を閉じました。

【ジョン・H・グレン大佐 John Herschel Glenn Jr.】
”MiG MAD MARINE"


この写真を見て、「ライトスタッフ」でジョン・グレンを演じた
エド・ハリスって、なんて適役だったんだろうとため息をつきました。

「マーキュリーセブン」の一人、77歳でディスカバリー号に乗った男、
と宇宙飛行士としての人生があまりに有名ですが、
実はジョン・グレン、海軍を経て海兵隊航空隊に入り、
ボルトと同じくマーシャル諸島ではF4Uコルセア
日本軍に対して対地攻撃などを行なっておりました。

朝鮮戦争でボルトはセイバーの前にバンシーに乗っていたそうですが、
グレンが最初に乗っていたのはパンサーです。

これもボルトと同じく、空軍との人材交流プログラムで
F35セイバー戦闘機に乗って朝鮮戦争に参加し、
ここで彼は3機のMiG-15を撃墜しています。



このときについた彼の渾名は「MiG MAD MARINE」
日本語での言い換えは難しいですが、
「ミグ退治専門マリーン」「ミグバスターマリーン」みたいな?

彼はジェット機でエースになることを目指していましたが、
戦争が1953年7月25日、突如終了し、それは叶いませんでした。


【ジェス・フォルマー大尉 Jesse Gregory Folmar】
"プロペラ機でジェット機を撃墜した男”


ジェシー・グレゴリー・フォルマー(1920-2004)
は、太平洋での戦闘においても、朝鮮戦争でも、
空母USS Sicily (CVE-118)艦載部隊として)
F4Uコルセアの航空部隊に所属していました。

彼はプロペラ機パイロットとして初めて、
ジェット機MiG-15を撃墜した功績でシルバースターを授与されています。

1952年9月10日、この日USS「シシリー」でのブリーフィングでは、
この地域に出没するMiGについて話し合われましたが、
そもそもコルセアがMiG-15に勝てるとはだれも思っていないので、
MiGが攻撃してきたら正面から向きを変えて、
とにかく撃ちまくる、ということになりました。

その日、フォルマーと僚機のダニエルズ大尉は、8機のMiG-15に遭遇しました。
攻撃してきたMiGに対し、彼は計画通り隊長機に向かい、
正面からコルセアに搭載された4門の20ミリ砲を撃ちまくったところ、
なんとそれは命中して機体を破壊せしめたのです。


想像図

しかし、彼が勝利を味わったのも束の間でした。
彼のコルセアはMiGに撃墜され、彼はパラシュートで脱出して、
水上機に拾われ、命を助けられたのでした。

想像図その2

このときの撃墜の功績により、彼は殊勲飛行十字章を授与されました。


 続く。





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3 Comments

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コレ (お節介船屋)
2021-11-24 09:01:29
ミグ15のエアーブレーキはプラモで示したのもがありましたので添付します。
https://www.1999.co.jp/10245431
機体後部両側にあります。

エリス中尉が示されたコレは脚の車輪覆いです。
脚に全体の車輪覆いを付けますと着陸時擦って破損するので下側半分くらいを機体側に付けて、脚収納時に車輪部分を覆います。
またその下の写真でも脚が収納された時、脚の基部をカバーする収納覆いです。
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じっとこらえる (Unknown)
2021-11-24 11:10:56
>1952年9月10日、この日USS「シシリー」でのブリーフィングでは、この地域に出没するMiGについて話し合われましたが、そもそもコルセアがMiG-15に勝てるとはだれも思っていないので、MiGが攻撃してきたら正面から向きを変えて、とにかく撃ちまくる、ということになりました。

ジェット機に向かって、鈍足のプロペラ機が正面攻撃を掛けるというのは、間違っているように思えますが、当時、MiGもF-86もミサイルがなく機銃かロケット弾しかなかったので、真正面から撃ち合って、弾を食らえば、自分の速度に弾の速度が加味されたダメージを被るので、ビビらずに真っすぐ飛んで、たくさん当てたもの勝ちになりますが、食われるリスクも相当に高いです。

地上から地対空ミサイルを撃たれた場合や、敵戦闘機から空対空ミサイルを撃たれた場合も、ミサイルがまだまだ遠い間は逃げても、ミサイルは追随して来るので、ギリギリまでこらえて、急旋回か急降下で逃げるのが定石になっています。三分間待つのだぞ(笑)
返信する
これですね。 (うろうろする人)
2021-11-24 19:42:12
スタビレーターの件、見付けてきましたよ。ミグ15の水平尾翼は、下記のページの解説にある通りの様な動きが出来る構造では未だ無かったという事ですね。(というか、多分段々とそれらの事が判って来たので改良されていったのでしょうけど)http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?%A5%B9%A5%BF%A5%D3%A5%EC%A1%BC%A5%BF%A1%BC    
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