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第二次世界大戦の軍用航空機〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-22 | 航空機

サンディエゴのミラマー海兵隊行軍基地の
反対側に併設されているフライング・レザーネック航空博物館、
あっという間に室内展示の紹介を終わりました。
というわけで、むしろこの博物館のメインであるところの
航空機展示をご紹介していきます。

今日は第二次世界大戦時の装備を取り上げますが、
冒頭写真のワイルドキャットは、すでに
海兵隊エース、ジョー・フォスの項でご紹介しています。


ところで、この日撮った写真にこんなのがありました。
これから新しく整備した航空機を置く場所なんだな、と思ったら、



HPにこんな写真を見つけました。
ワイルドキャットが手前にいる・・・?

屋根の下にいるのは風防の形からアベンジャーじゃないかと思うのですが。
そこであらためてHPの所有機を見たところ、
わたしがこの日現地で遭遇した航空機は、FLMの所蔵の一部で、
結構な数のウォーバードが修復中であるか
あるいは倉庫入りしているのではないかというのがわかりました。


■ ダグラスSBD−1ドーントレス

たとえばこの
SBD-1ドーントレスもそうです。

このSBD-1は、1940年海兵隊に装備され、MCASミラマーにある
キャンプ・カーニーのVMSB-142に配備され、その後
イリノイ州の「五大湖海軍」にある空母適格訓練部隊(CQTU)
USS「ウルヴァリン」 Wolverineに着陸する訓練に使われていたものです。

1942年11月23日、この機体は訓練中に墜落し
ミシガン湖の底に沈んで
しまいました。

ちなみにこの訓練基地で
ミシガン湖の藻屑になったドーントレスは全部で38機だった
ということですが、これはそのうちの1機というわけです。

湖の底で52年間魚のすみかになっていましたが、1994年引き揚げられ、
いくつかの博物館を経て、MCASミラマーのFLAMに到着しました。
この時点ではすでに大規模な修復が行われていたようです。

そして、HPを見ると、写真に写っている修復ボランティア、
ボブ・クラムジー氏が、2012年からあらためて修復を手掛けています。

もちろん代替の部品はありませんから、一から手作り。
垂直安定板、後部銃座、ドアも設計図を見て作ったそうです。

クラムジー(こんな人がClumsy=不器用のはずはありません。 Cramsieです)
氏はもともとノースロップ・グラマンの耐空システムエンジニアだとか。

そして、「修復の完成までにあと3年から5年はかかるだろう」
とおっしゃっているようですが、はて。
肝心のFLAMそのものがパンデミックのため休館しており、
再開の目処は立っていない、と書かれたっきりなのです。

ドーントレスの修復は中断されているのではないかとか、
修復のための費用も滞っているのではないかと懸念されます。


■ノースアメリカン PBJ-IJ (B-25 J)
ミッチェル(MITCHELL)

見なかったといえば、この、唯一人名のついた軍用機、
ミッチェルも、わたしが観に行ったときにはヤードにその姿はありませんでした。

このB-25J-30-NCミッチェルは、1945年6月の終戦直前に調達され、
カリフォルニア州サクラメントの陸軍航空訓練学校で使われていました。

ミッチェルというくらいなので元々は陸軍機ですが、
戦後はおそらくミッチェル本人の意思を尊重してか、空軍に配備され、
その後はいろんなオーナーを転々とし、
エアタンカーや気象調査など様々な仕事に従事しました。

引退してから海兵隊が博物館展示のために引き取り、
それからここに貸し出されています。

これも今一体どこにあるのかすらHPには記載されていません。

ピッツバーグを流れる川に墜落し、底に沈んで2度と見つからなかった
B-25の話を思い出してしまった・・・。


■ジェネラル・モーターズ TBM-3E Avenger

復讐者という意味を持つ「アベンジャー」GM製とグラマン製があります
グラマン製はTBFゼネラルモーターズ製はTBMと呼称していました。

アメリカ海軍および海兵隊のために開発された魚雷爆撃機で、
1942年に就役し、直後のミッドウェー海戦でデビューを飾りました。

先に製造したのはグラマン社でしたが、同社は
F6Fヘルキャット戦闘機を生産することが決まったため、
アベンジャーの生産を徐々に縮小してくことになったという事情です。

その後、ゼネラルモーターズ社のイースタン・エアクラフト部門が
生産を引き継いだので、二社バージョンがあるというわけです。

ここに展示されているのは、後期のGM製TBMとなります。


プロペラには「ハミルトン・スタンダード」のマーク入り。

ハミルトン・スタンダードは(現在はCollins Aerospace の一部)、
世界最大の航空機プロペラメーカーでした。

「ジョー・フォスコーナー」でお話しした、フォスがパイロットに憧れる
そのきっかけとなったリンドバーグの大西洋横断機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に、同社のプロペラが使用されています。

1930年代初頭には可変ピッチプロペラ、
1950年代に開発されたジェットエンジンの燃料制御。
1968年には航空機の客室圧力を制御するための自動電子システム、
ジェットエンジンのフルオーソリティデジタル電子制御(FADEC )、
その技術は1969年のアポロ11号月面着陸に遺憾なく発揮されました。

現在は世界のほとんどの航空機メーカーに、
航空宇宙コンポーネントとシステムを提供し続けています。 



1944年半ばから始まったTBM-3は、パワープラントがパワーアップし、
ドロップタンクやロケット弾用の翼のハードポイントが設けられました。



アベンジャーは海兵隊の多くの飛行隊によって、
陸上はもちろんその多くが空母で運用されました。

海兵隊飛行隊で最初に戦闘に参加したアベンジャー部隊はVMSB-131で、
TBF-1を搭載してヘンダーソンフィールドに到着し、
日本軍に対して最後の大攻勢をかけるのに間に合いました。

マリーン・アベンジャーズは、1942年11月中旬のガダルカナルの海戦で
初めて大きな成果を上げることになります。
この時点でVMSB-131は、「エンタープライズ」を空母とする
VT-10(雷撃隊)とVT-8として活動していました。

11月13日、3つの飛行隊は日本の戦艦「比叡」への一連の攻撃に参加し、
発射された26本の魚雷のうち10本を命中させました。


比叡

このとき、第10雷撃隊のTBFアベンジャー雷撃機9機(隊長アル・コフィン大尉)は、左舷、右舷、艦尾に魚雷を計3本命させ戦艦を沈めたと主張しています。

また、翌日、VT-10とVMSB-131の航空機は、
重巡洋艦「衣笠」を沈めています。


衣笠

右舷に魚雷3本、左舷に魚雷1本が命中し、傾斜した衣笠に
SBD2機が急降下爆撃を行い、爆発炎上させます。
その後空母「エンタープライズ」のSBD16機が
とどめを刺した形になり、沈没しました。



しかし、通常海兵隊のアベンジャーが魚雷攻撃を行う例は少なく、
ほとんどが海兵隊を支援するための爆弾やロケット弾、
あるいは対潜哨戒のための爆雷ややロケット弾を使用しました。

VMSB-131がガダルカナルでデビューしてから1年後、
アベンジャー隊はブーゲンビルでの戦闘に参加し、
日本の強力な基地を無力化する働きをしました。

1944年7月、海兵隊アベンジャー部隊はマリアナ諸島での戦闘に参加し、
グアムとテニアンの航空支援、ついで194ペリリュー島への侵攻に参加。

1945年3月からはテニアンから出撃し硫黄島キャンペーンを行いました。

沖縄戦に参加したのは
USS「ブロック・アイランド」、USS「ギルバート・アイランド」、
USS「ヴェッラ・ガルフ」、USS 「ケープ・グロセスター」

4隻の空母搭載のアベンジャー部隊です。


海兵隊は朝鮮戦争でもアベンジャーを運用していました。

ここに展示してあるTBM-3E(BuNo.53726)は、
戦後の1946年6、NASサンディエゴで予備機となっていましたが、
最終的に海軍航空予備訓練部隊(NARTU)に配属されました。
1962年4月に除隊するまでいろんなところをぐるぐる回っていたようですが、
その後は民間が買い取ってエアタンカーになっていました。

その後は農薬の空中散布機を経て、1988年に海兵隊博物館に買い取られ、
1999年には現在のMCAS ミラマーに落ち着いたのです。

展示機は1945年7月に
護衛空母USS 「ケープ・グロセスター」Cape Gloucester (CVE-109)
に搭載され、沖縄戦に参加したVMBT-132のカラーで塗装されています。


■ノースアメリカン SNJ-5 テキサン Texan

昔の戦争映画には必ずと言っていいほど、
この不細工なコクピットの零戦が登場したものです。

日の丸をつけた敵さん、じゃなくてテキサンを見るたびに、
「いうほど似てるか・・・?」
と思わず心の中で突っ込んでしまうわけですが、
似ているにていない以前に、たくさん製造され、
しかも練習機で機体が操縦しやすかったというのも
零戦を演じさせられた理由だったかもしれません。

あ、それから値段が滅法安く、手に入れやすかったそうです。

1935年4月1日に就航したT-6テキサン(T-6 Texan)は、
単発の高等練習機で、各国のパイロットの訓練に使用されました。
そのため、「パイロットメーカー」という名前で呼ばれることもあります。

国や機種によって様々な呼称がありますが、アメリカ以外では
「ハーバード」という呼称が最も一般的です。
USAACとUSAAFのモデルは「SNJ」の名称で呼ばれており、
アメリカ海軍のパイロットはこの名称でこの飛行機を多用しています。

その代表的なものがSNJ-4、SNJ-5、SNJ-6です。

アメリカは1950年代末までに現役から引退させましたが、
それはどこへいったかというと、我が日本だったりします。
自衛隊では空自に167機、海自に48機と1955年から供与され、
T-6という名前で呼んでいました。

すでに時代はジェット機へと移行しつつあったのに、
テキサンなんかもらってどうするん?という気もしますが、お付き合いというか、
大人の事情があったのかもしれませんしなかったかもしれません。

そのせいなのかそのせいでないのか、さすが物持ちのいい日本国自衛隊も、
数年で練習機をT-1と交代させるということになっています。

そもそも、
T-33とT-34の間にどうして中間練習機としていきなりT-6が挟まるのか?
と考えた人もいたかもしれませんしいなかったかもしれません。


航空装備ではありませんが、こんなものもありました。
説明が全くないのですが、だいたい第二次世界大戦ごろのものだと
勝手に思い込んで載せておきます。


対空マウントをしたブローニング的な?



FLAMスタッフ渾身の手作り人形搭載。



こちらはデュアルです。


対空砲士の顔、アップにしちゃう。
まつ毛とか眉毛は一本ずつ懇切丁寧に描き込まれており、
手間暇だけは膨大にかかっているのはよくわかった。



サンディエゴの夏は日差しが強く、外の展示を見て歩くのは
なかなか大変で、こういう装備になるといきなり省エネモードになり、
できるだけ最小限のシャッターで済まそうとするわたしですが、
いくらなんでも砲身くらいちゃんと撮っておけばよかったと思いました。

その後いろいろあって、もう2度とここで展示を見られられなくなった今、
一層その思いは強くなりますが、もう仕方ありません。(投げやり)


続く。





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4 Comments

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T-6 (Unknown)
2021-11-22 12:52:54
日本では、敗戦後、新しい航空機の開発が禁止されていて、1954年くらいから解禁になるという噂があり、解禁の暁には、のちのジェット練習機T-1を開発する心づもりでいて、その間をしのぐためにT-6が供与されたようです。T-1就役後の用途廃止は当初から織り込み済みだったようです。

高射機関砲ですが、エリコン20ミリのように見えます。一番大きなもの(四連装?)には「Captured」と書かれています。ドイツ軍は使っていましたが、それをわざわざ、海兵隊が展開する太平洋戦域まで持って行くかな?と思うので、間違っているかもしれません。ゼロ戦の20ミリ(エリコン製品のライセンス国産)にも似ているので、占領した際に鹵獲したものに架台を付けて、高射機関砲にしたのかもしれません。
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コルセアF4U-5N (お節介船屋)
2021-11-22 14:16:28
TBM-3Eとの写真ですがコルセアF4U-5Nではないでしょうか?
逆ガル翼であり、右翼にレーダーポットが装備されており、夜間戦闘用のー5Nではと思います。
TBMは逆ガル翼ではないと思います。
返信する
戦艦「比叡」 (お節介船屋)
2021-11-22 15:03:18
昭和17年11月13日第3次ソロモン海戦での米巡洋艦との近距離砲撃戦で上甲板から艦橋まで多くの砲弾を浴び、また重巡の20㎝砲弾が艦尾右舷から貫通し、舵機室水線付近に2.5mの破孔が生じました。海水が舵機室、舵柄室に侵入、直接、人力操舵も不能となりました。
機関部には損傷なく、霧島に曳航させようと努力しましたが午前中だけで70機の攻撃を受け、魚雷1本命中、海水排水作業が実施できませんでした。
阿部司令官は再三乗員収容して処分命令を発しましたが西田正雄艦長及び乗員は拒否、なんとか救おうとしましたが、正午過ぎ雷撃機8ないし10機が攻撃、1番砲塔右舷に魚雷1本が命中、バルジが破れ、艦内に海水流入、吃水が深くなり、右舷後部の魚雷破孔から浸水、海水の流入が止められなくなりました。その後も阿部司令官と西田艦長のやり取りがあり、総員退去、自沈となりました。戦死188名。
敵重巡、軽巡の砲弾命中は多数でしたが航空機からの魚雷命中は2本のみでした。

機関が動く艦を沈没させたとして西田艦長は18年3月30日予備役編入、即日召集の人事は厳し過ぎました。阿部司令官の数度の処分命令があるのに。
参照光人社「死闘ガタルカナル」「写真日本の軍艦第2巻」
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重巡「衣笠」 (お節介船屋)
2021-11-22 16:18:06
第38師団第229連隊搭載の11隻輸送船団直援の増援部隊第2水雷戦隊を支援する支援隊の第7戦隊と外南洋部隊主隊で飛行場制圧の艇身攻撃隊とともに出撃予定であったが艇身攻撃隊が敵艦隊と交戦、ガ島砲撃が出来なくなったので増援部隊は反転、外南洋部隊と支援隊は第8艦隊三川中将が指揮し、重巡摩耶と鈴谷でガ島砲撃を通知、支援隊鈴谷、摩耶、天竜、夕雲、巻雲、風雲、朝潮が射撃予定海面へ、主隊の鳥海、衣笠、五十鈴がルッセツ島付近で警戒、11月13日2330から14日0001射撃、航空機40機程度破壊、0550主体と支援隊合同、ショートランドに帰投することとなりましたが、エンタープライズ艦載機十数機が2度0630~0900攻撃、衣笠が艦橋前部に第1弾命中、艦長澤正雄大佐以下多くが戦死、重傷、その後の攻撃により沈没しました。中枢士官の第1弾での戦死でその後が残念な事となりました。
昭和17年11月14日戦没。

参照文献では魚雷ではなく爆撃でとなっています。魚雷等の命中が記されていません。またガ島部隊ではなくエンタープライズ艦載機と明記しています。

鳥海、五十鈴、摩耶も損傷。

ガ島砲撃が有効と思い、輸送船団が出撃しましたがガ島の航空機に加え、エンタープライズ搭載機に襲われ大被害を受けました。

参照光人社「写真日本の軍艦第6巻」「死闘ガタルカナル」KKベストセラーズ中川務、阿部安雄監修「写真太平洋戦争の日本の軍艦」
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