ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

帝国陸軍気球部隊〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-04 | 航空機

ニューヨーク北部グレンヴィルにあるスケネクタディ空港、
その一角にある航空博物館、
「エンパイアステート航空科学博物館」ESAMの展示物を
ご紹介しています。

まず冒頭の写真は、

Curtis Model D Curtis Pusher

通称カーティス・プッシャーと言われる初期の動力飛行機です。
この名前には当ブログ的にめっぽう聞き覚えがあるわけですが、
それもそのはず、

「最初に飛行機で甲板から飛び立ち、最初に甲板に降りた男」

として何度かここで紹介した、

ユージーン・バートン・イーリー(1886-1911)

はこのカーティス・プッシャーに乗っていたからです。
しかし、昔わたしが彼について書いたときには
日本語で彼について言及した資料が一切なく、
彼の名前「Ely」をどう読むのか(エリーかイーリーか)
あちこち調べなくてはいけなかったものですが、
あれから時がたち、いつのまにか日本語のwikiができていました。
いやめでたい。

当ブログでは、彼の海軍でのテスト飛行における栄光と死を

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始

として紹介しました。
しかし、こうやって実物を見ると、こんな布と竹で作った飛行機で
よくも甲板への離着艦などやろうと思ったものだと、
その無謀さにはつくづく感心してしまいます。

イーリーはこんなものを操縦して曲芸飛行もやっていたと言いますから、
怖いもの知らずというか文字通りの飛行馬鹿だったのでしょう。
もちろん、何人もの飛行馬鹿のおかげで、飛行機は
短期間に凄まじい発達を遂げ、今日の姿があるわけですが。

イーリーは民間人でしたが、海軍軍人として初めて空を飛び、
ついでにイーリーと同じく空で死んだ

”スパッズ”・セオドア・ゴードン・エリソン中尉

も、このカーティス・プッシャーに乗っていました。

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始その2

もう一つついでに蘊蓄話を書き加えておきますと、
日本の航空史において最初に国内の航空機事故で亡くなった人も
このカーティス・プッシャーに乗っていました。

武石浩玻(たけいし・こうは)1884-1913

アメリカに渡り、職業を転々としながら放浪を続け、
イェール大学に入学するも中退。
現地で行われた国際飛行大会でフランスの飛行家
ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志しました。

グレン・カーチスが経営する飛行学校で操縦資格を得て
ここでもお話ししたことがある滋野清武近藤元久に次ぐ、
日本の民間人として三番目の飛行家となりました。

1913年(大正2年)現地で購入・改造した飛行機と共に日本に帰国し、
愛機で兵庫県の鳴尾競馬場から京都への都市間連絡飛行に挑み、
久邇宮邦彦王をはじめ数万人が注視する中で深草練兵場への着陸に失敗。

享年28。合掌。

ちなみに同門だった近藤元久はその前年度の1912年、
彼に先駆けてアメリカで航空事故死し、
「最初の航空事故で亡くなった日本人」
の称号を得ることになりました。

1910年の「パイオニア時代」の飛行機のモックアップには
なんと実際に腰掛けてみることができます。
往年の飛行機の操縦席を体験してもらうために、わざわざ
博物館が模型を作ったようですね。

このカラフルでポップな色使い、コロンとした可愛い機体、
遊園地の飛行機型ライドでしょうか。

と思ったら、これには

13 Link Trainer (リンク・トレーナー)

という立派な名前がついていました。
リンクというのは会社の名前で、トレーナー、つまり
これは飛行士養成用のフライトシュミレーターであると。

「ブルーボックス」"Blue box"とか「パイロットトレーナー」"Pilot Trainer"
とも呼ばれていたようで、開発したのはエドウィン・リンクという人。

1929年に技術が発明されてのち、このシミュレータは、
第二次世界大戦中のあらゆる参戦国のほぼ全てが
パイロットの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用しました。

リンクはもともとオルガンとジュークボックスを作っていた人です。
それらに必要なポンプ、バルブ、ふいごに関する知識を利用して、
パイロットの操縦に反応し、装着された計器を正確に読み取るという仕組みの
フライトシミュレータを思いついたというわけです。

50万人以上のアメリカ合衆国のパイロットがこれでで訓練を受け、
オーストラリア、カナダ、ドイツ、イギリス、イスラエル、
そして日本、パキスタン、ソ連へとこの仕組みは伝播しました。

日本ではフライトシミュレータメーカーの東京航空計器(現TKK)
ライセンスを受けて製造を始め、最初の推定製造数は40 - 50機。

戦時中は陸軍、海軍に「地上演習機」として納入しました。
海軍予科練では「ハトポッポ」と可愛らしい名前で呼ばれていたようです。

戦後同社は1970年まで陸海空自衛隊、航空局、航空大学校に納入していました。

ちなみに御本家のリンク・フライトトレーナーはアメリカ機械工学会により
歴史的機械技術遺産(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に選定され、
現在はL-3 コミュニケーションズ社の一部となり、
宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。

L-3って、リーマンブラザーズのことらしいんですが、リーマンが倒産しても
この名前は変えてないようですね。

ここで唐突に現れる南極観測隊シリーズ。
NYANG Ski-doo というスノーモービルの製造会社は
今でもバリバリのスノーモービルメーカーです。

なぜ航空科学博物館にこのようなコーナーがあるかというと、
何かのつてでこのスノーモービルが寄付されたからじゃないでしょうか。

氷を模した壁まで作って本格的です。
この人たちは今から家を作るんじゃないかな。

ここに、「知っていましたか?」としてこんな説明がありました。

●南極のドライバレーでは100年以上雪が降ったことがない

●南極の氷のマントルの大部分は水の下にあるが 
南極の氷と雪の大部分の下には土地がある

●大陸分裂前、緑豊かな植生と先史時代の動物が南極大陸に存在していた

●南極のマウント・エレバスは活火山である

●南極には海の魚を食べるペンギンを除き動物はいない

●氷河は氷が十分に厚ければこれを遡ることができる

●南極の氷は一年に30フィートずつ南アメリカの方向に動いていっている

●南極は隕石を発見するのに最適の場所である

●ペンギンは海の水を真水に変えることのできる臓器を眼の上部に持っている

すべてわたしの知らないことばかりでした。
なぜ航空科学博物館でこの展示を?という気もしますが、
この部分を持って「科学」のパートということにしているのかと。

 

アメリカの南極観測隊が滞在するのはマクマード基地です。

1956年にアメリカ海軍が設営したもので、現在は
アメリカ国立科学財団南極プログラム(USAP)が保有し、
レイセオン・ポーラー・サービス社によって運営されており、
南極点にあるアムンゼン・スコット基地への補給中継点となっています。

レイセオンというのは、もちろんあの武器会社の関連企業です。

さすがはアメリカの施設だけあって、マクマード基地の規模は南極でも最大。
建物は100以上あり、夏季1000人、冬季200人の駐在員を収容します。
海側にあって港を備えているほか、3本の滑走路があります。

中心となるのは鉱山技師たる科学者ですが、彼らをサポートするために
アメリカではあらゆる職種の駐在員が送り込まれています。
調理人はもちろん、床屋や掃除人、運転手も専門職ですし、
新聞記者やジャーナリストなどのメディアも駐在します。

写真のパラシュートは、上空から物資を調達するためのもののようです。

この一室には航空黎明時代、第一次世界大戦時の航空、
そしてアメリア・イアハートを中心とした女性飛行家、
そしてなぜか南極探検コーナーがあるわけですが、
その黎明期時代のジオラマがケースの中にありました。

説明の写真を撮るのを忘れたのですが、これは
気球にガスを注入している作業の様子を表しています。

南北戦争のときに気球隊を創立したタデウス・ロウは
軍事用気球のために携帯用の水素ガス発生器を開発させました。

馬で息せき切って駆けつけている人がいるのですが、
伝令が何か戦況をもたらしにきたのかもしれません。

こちらは陸軍の気球部隊。
そのころの格納庫というのは気球を安置するため、こんな縦長で、
しかも天井から吊り下げていたということを初めて知りました。

ヨーロッパでの気球航空部隊について書いたことがありますが、
日本にも「気球連隊」と言われる陸軍部隊があったそうです。

ほえええこんなかっこ悪いものを・・・。
しかし当時から日本の航空識別マークはこれだったんですな。

日本陸軍でも倉庫は呆れるほど背が高いですね。

日本で最初に軍用気球が飛ばされたのは、1877年(明治10年)、
西南戦争でのことで、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に投入するため
実験を行ったときのことですが、実戦には間に合いませんでした。


1904年(明治37年)、日露戦争の際には戦況偵察の目的で
旅順攻囲戦に投入され、戦況偵察に役立ったので、その後陸軍は
気球隊を創設したという流れです。

1937年(昭和12年)には南京攻略戦に参加。
その後タイ、仏印、シンガポール作戦にも使われましたが、
航空機にその存在意義を奪われていたところ、終戦間際に
アメリカ本土を攻撃するための風船爆弾の計画が持ちあがり、
気球聯隊を母体とした『ふ』号作戦気球部隊が編制されたのでした。

いわゆる風船爆弾です。

 

人員は3000名に増員され、3個大隊で編制された気球部隊は、
茨城、千葉、福島から1944年11月から半年の間に
約9300個の風船爆弾を太平洋に向けて放っています。

そのうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され、
アメリカの記録では285発とされています。

戦果といっていいのか、ピクニックに来ていて、木にひっかかった
風船爆弾の不発弾に寄せばいいのに触れたため、爆死した
オレゴン州の民間人6人だけが、風船爆弾による被害者となりました。

ただし、日本軍の方も実質的な戦果を期待したものではなく、
目的は心理的な撹乱効果を起こし、パニックを起こすためであった、
というのが本当のところです。

アメリカ軍は日本側の意図を読み、パニックの伝播を恐れて
徹底した報道管制を布き、
被害を隠蔽したため、
この「戦果」が日本に伝わることもありませんでした。

風船爆弾のせいで起こった山火事や停電なども実際にはあったらしいのですが、
あまりにも厳重に秘匿されたため、日本はもちろんアメリカ人の間にも
その存在すら知られていなかったということです。

第一次世界大戦時、陸軍の気球隊の目的は偵察でした。
航空隊司令部の隷下にあったとはいえ、気球のサービスは
編成された企業によって運営されていたということです。

ここに登場する人々は全員が陸軍の軍人に見えるのですが、
ということは彼らは軍属のような立場だったのでしょうか。

それにしてもこの手前に立っている人が斜めなのが気になります(笑)

 

続く。

 

 


ニューポール17と第一次世界大戦〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-03 | 航空機

ニューヨークの超郊外、グレンヴィルというのは風光明媚な田舎です。
わたしたちはここに行ったとき、小さなモールに隣接した
それは立派な建物の一階にある良さそうなレストランに行ったのですが、
その建物は医療機関付きの高級老人ホームでした。

建物の一階には高級品を扱うちょっとしたブティックや販売店があり、
なんと驚くことに画廊が入っていたりするのです。

はたしてこのレストランに入ってみると、周りは老人と
彼らに会いにきたらしい家族ばかりでした。

「面会に来た家族と食事をするためのレストランなんだね」

わたしたちが客層を見てヒソヒソ話をしていたのですが、そのうち
隣のテーブルに座った中年男性が、その母親らしい女性に対し、
実にぶっきらぼうな態度、子供を叱るような口調なのに気がつきました。

男性はアメリカ人らしくショートパンツというラフな格好をしていましたが、
眼鏡をかけてみるからに高学歴な雰囲気を漂わせており、こんな高級施設に
親を預けるくらいですので多分富裕層でもあるのでしょう。

しかし、歳をとって不明瞭なことを喋る母親に対する苛立ちを隠そうともせず、
ぞんざいな態度で接しているのが外国人の我々にもわかりました。

わたしはまず、アメリカ人にも人前でこんな態度を見せる人がいるのに驚き、
自分の学歴や今日の地位、経済力なども、その目の前の母親が
一生懸命彼を育ててきたからこそ形成されたはずなのに、
そのことに対しては何の感謝もないかのように思える彼の態度に
他人事ながらうっすらと不快にすらなったものです。

こんな至れり尽くせりの施設に預け、自分一人だけでとはいえ、
週末に面会に来ているからには、彼なりに母親を愛しているのでしょうけど。

 

話がいきなり脱線しました。
ESAMの説明に戻りましょう。

イアハートのロッキードの向かいには、

Nieuport (ニューポール)17C.1 

があります。

ニューポール(Nieuport)はフランスの航空機会社で、
第一次世界大戦や戦間期の戦闘機を製造したことで知られています。


1902年にニューポール・デュプレ(Nieuport-Duplex)として
ニューポール兄弟により創設され、自動車用電装品の製造を始め、
その後航空機の分野にも乗り出しました。

ちなみにこのニューポール兄弟は、どちらも飛行機事故で亡くなっています。

のちに設計者となったギュスターヴ・ドラージュは「10」を製作し、
第一次世界大戦が始まると、これをフランス陸軍などに売り込みました。

その後、イギリス海軍航空隊が購入し、その有用性が証明されると、
フランス海軍やロシア帝国軍も納入を始めます。

詳しいスペックと歴史などが書かれたノートも置いてあります。
ニューポール社によって開発製作された、いわゆる一葉半タイプの複葉機で、
従来の11タイプよりもエンジンが強力で翼も大きくなっていました。

すごくリアルな搭乗員のマネキン。
翼の上に置いた地図を見て、作戦を確認しているようです。

1916年に配備が始まり、これまでフランス軍が配備していた
11型に置き換えられました。
イギリス戦闘機よりも優れていたため、イギリスの陸軍航空隊、
海軍航空隊からも発注を受けたということです。

この年、フランス航空部隊の戦闘機隊がすべて、
一斉にこの一種類の飛行機を使用していました。

また、敵側のドイツ軍も、鹵獲したニューポール17の機体を
国内の航空機製造会社(ジーメンス)にコピーさせたこともあります。
ただし、これは西部戦線に投入されることはありませんでした。

ところが、これだけヨーロッパ中に普及したニューポール17、
大変残念なことに、機体に設計上の問題がありました。

傑出した運動性と優れた上昇率を誇ったものの、一方
その「セスキプラン」と称する特徴的な一葉半の主翼の下翼は
単桁構造のため大変脆弱で、このためその機体はしばしば

飛行中に分解する

ことががあったというのです。

この壁に描かれた飛行機がどんな事情で落ちたかわかりませんが、
いずれにしてもこの頃の飛行機の安全性は大変低く、
搭乗員はほとんどが初陣で戦死するか、長生きしたとしても
せいぜい何週間かのうちに事故で亡くなったと言われています。

負傷したパイロットを女性の看護師が手当てしています。

第一次世界大戦の時には日本国内で志望者が募られ、その結果
実際に看護「婦」を派遣されたという記録が残っているそうです。
どんな活動をしたかが全く伝えられていないのは残念ですね。

 

また、壁画の手前の犬と一緒にいるライオンの絵をご覧ください。

映画「フライボーイズ」でも描かれていたように、
アメリカ陸軍航空隊から参戦したフランス系アメリカ人の、

ラオール・ラフベリー少佐(1885−1918)

が、ラファイエット航空隊でライオンをペットにしていたのは有名な話です。
ちなみにペットの名前は「ウィスキー」と「ソーダ」だったとか。

ペットを飼うと映画的にはフラグである、という法則の通り?
ラフベリー少佐は17機を撃墜したエースでしたが、1918年、
飛来したドイツ機をニューポール28で迎撃した際被弾し、
燃える機体から飛び降りて戦死しています。

翼にイギリス空軍の国籍マーク、ラウンデルが見えます。

国籍マークは国旗の色を使うところが多いですが、
イギリスは仲の悪い(笑)フランスと国旗の色が同じなので、
同じデザインで赤と青を入れ替えて使っています。

ちなみにドイツ軍は鉄十字を国籍マークとして使っています。
ナチスドイツ時代にもこのマークは普通に使われていたのですが、
どこかの国は、日本の旭日旗には文句をつけるのに、
こちらには一向に何も言わないのは不公平だと思います。

 

さて、ライト兄弟が初の動力飛行を成功させたのが1903年。
2時間以上の滞空飛行に成功したのが1908年。
同年、アメリカ陸軍が飛行機の導入を決め、1911年には
イタリアとオスマン帝国間の戦争で史上初めて
航空機が偵察=戦争に投入されました。

翌年1912年にはイギリス軍が航空機に機銃を積むことを考え出し、
翌年にはメキシコ革命軍が世界初の航空爆撃を行いました。

第一次世界大戦は、国と国との間の戦争で初めて
航空機による戦闘が行われることになったのですが、これは、

なんと人が動力飛行で空を飛び出してからわずか13年後なのです。

現在の13年は、テクノロジーの発達に十分すぎる時間ですが、
この頃はまだまだ人命の犠牲の上に技術の発達を負う側面が強く、
そのため、有名な飛行家の多くが栄光と引き換えに命を落としました。

そんな危険を承知で、人類が登場したばかりの航空機を
戦争に投入し始めたのが、ちょうどこの頃だったのです。

この頃のパイロットの平均寿命は17日と言う説もあれば、
イギリス空軍では配属後2週間で死亡は間違いなしと言われ、
経験の浅いパイロットのそれは11日とされていました。

 

ここに掲示していあるニューポールはイギリス空軍仕様であることから、
ニューポール17の翼の上に設置してあるのはルイス機銃だと思われます。

複葉機の銃はこのように翼の上に設置されて、操縦席から
操作することができるような仕様になっていました。

この架台は「フォスター銃架(マウンティング)」と呼ばれるもので、
イギリス陸軍航空隊のフォスター軍曹が1616年に考案しました。
写真に見られるケーブルは銃の発射を操作するものです。

しかし当時のパイロットというのは、空中で戦闘を行うために、
この超不安定でいつ空中分解してもおかしくない未開の機体を
制御した上で、手動で銃の狙いをつけて撃ち、それを当てた上、
自分は相手の攻撃を避けて初めて生き残っていられたんですね。

そりゃ平均寿命が11日でも無理ないですわ。
だいたい、ほとんどが実戦では初陣で戦死したそうですから。

 

そしてこの謎の槍(笑)

現場で見た時も帰ってきてからもこの正体がわからなかったのですが、
この先代ニューポール11を見て気がつきました。

翼の支柱に槍が・・・。
これは、

ル・プリエールロケット(Le Prieur crocket)

という空対空焼夷ロケット弾で、飛行船や気球を攻撃する武器です。

金属製の弾頭には黒色火薬200gが充填されており、
空気抵抗軽減のために先端部には三角錐のコーンが被せられていました。

パイロットが掴んで投げるのかと思ったのですが、もちろんそうではなく、
コクピットで点火スイッチを入れると発射される仕組みです。

弾道は不安定で有効射程は短く、命中させるのは難しかったそうですが、
一旦命中すれば、機関銃よりも気球や飛行船には効果的なダメージでした。

どんなことにも「名人」というのが現れてくるものですが、
このル・プリエールロケット攻撃が異様に得意な搭乗員がいました。

Willy Coppens

ご本人の回想です。

「想像していただきたいのですが
わたしは電気式のボタンを押して点火を行いバルーンを探して撃った」

みたいなことを言っているのが聞き取れます。

このバルーン攻撃が得意だった人はウイリー・コッペン(Willy Coppens)で、
32基の観測気球を撃墜しています。
動画には彼が撃墜したらしいバルーンが燃え落ちるのが映っています。

この技術に長けていた彼は「バルーン・エース」と呼ばれていました。

ニューポール17登場の頃にはこの攻撃は盛んではなくなっていましたが、
それでも稀にル・プリエールを搭載したタイプも存在したそうです。

「フライボーイズ」にもアメリカから操縦士として第一次世界大戦に
参加した青年たちの群像が描かれていましたが、このヘルメットと
ゴーグルの持ち主であった

ジョージ・オーガスタス・ヴォーン・ジュニア
(George Augusutus Vaughn Jr.)1897−1989

は、その一人であり、戦闘機のエースであり、
平均寿命2週間と言われた当時の空中戦を生き抜いて、
92歳で天寿を全うしたというスーパーヒーローでした。

検索するとebayでサイン入りの写真が出回っていたり(笑)

前回ご紹介したイアハートのライバル、ルース・ニコルズも、
名門ウェルズリーを出て医大を卒業していましたが、彼もまた
プリンストン大学を卒業して飛行士になったという経歴です。

第一次世界大戦時のアメリカのエースの経歴を見ると、

プリンストン(ランシング・ホールデンJr.、チャールズ・ビドル)

コロンビア(ゴーマン・ラーナー、チャールズ・グレイ)

イエール(ウィリアム・バダム、ウィリアム・タウ二世、
     ルイ・ベネットJr.、デイビッド・インガルス)

コーネル(ローレンス・キャラハン、ジョン・ドナルドソン)

ハーバード(デヴィッド・パトナム、ポール・イアカッチ)

など、(特にイエール大学卒業者多し)そうそうたる学歴の
いわゆるエリート層が競って航空隊に身を投じた様子が窺えます。

イギリス空軍第84中隊空軍に派遣された彼は、ここで
7機撃墜(空戦勝利)を記録しました。

1918年になると彼はアメリカ陸軍の航空部隊に参加し、
ソッピースキャメルを愛機として、さらに6勝を挙げています。

ヴォーンは、戦争で生き残ったアメリカで2番目のエースでした。
記録は4機ドイツ機撃墜、7機共同撃墜、気球撃墜1基、撃破1機。

第一次世界大戦時のアメリカ陸軍航空隊の軍服など。

ふと天井を見ると、なんだかお茶目な人が自転車を漕ぐように
空を飛んでいました。

ディピショフ (DePischoff)

1922年にフランスに搭乗した「空飛ぶ自転車」です。
1975年、地元の高校生が制作したレプリカなんだとか。

エンジンを積んでおり、翼幅は5m足らず。
飛べたのか?というとそうでもなかったような・・。

まあ、お遊びで作られた程度だったんではないでしょうか。

1923年には世界で初めて空中給油が行われました。
918 DH-4Bが同型機に対して行ったものです。

その世界初の瞬間がなぜか模型にされていました。

 

続く。

 


エンパイア・ステート航空科学博物館(ニューヨーク州スケネクタディ)見学

2020-03-01 | 航空機

やっとUSS「スレーター」のご紹介をおわったので、次に
同じニューヨーク郊外にあった航空博物館、

「エンパイアステート航空科学博物館」
Empire State Aerosciences  Museum

で見学したものについてシリーズでお話ししていくことにします。

ネットで軍事博物館を検索していて探し当てたのは、
ニューヨーク州といっても州都オルバニーをさらに
ハドソン川に沿って五大湖に向かって遡上していった、
グレンヴィルという街にある空港利用型の博物館でした。

1984年、ニューヨーク州の教育省によって企画された非営利の博物館で、
グレンヴィルに昔から存在した

スケネクタディ郡空港(Schenectady County Airport)

の一角にある土地にあります。
この「スケネクタディ」という地名ですが、最初に見たとき、

「なんて読むの?『すけ・ねくたでぃ』でいいのかな」

「変な名前」

などと言い合ったものです。
アメリカの変な地名あるあるとして、この名称もネイティブアメリカン、
つまりこの場合はモホーク族の言語です。

「松の木々の向こう側」

と言う意味なんだとか。

もともとモホーク族の土地だったところに、オランダ人が入植し、
その後原住民たちは、フランス軍と、フランス軍に協力した
他部族のネイティブアメリカンによって、
多くが殺害されたそうです。

高速道路を降りて長閑な風景を見ながらしばらく行くと、
エンパイアステート・エアロサイエンスミュージアム
通称ESAMが見えてきます。

なぜに名称が「エンパイアステート」なのかですが、博物館が
存在するのがグレンヴィル、空港はスケネクタディということで
どちらの地名も使うことができず、かといって
「ニューヨーク」という冠を被せるのはちょっと規模の割に畏れ多い、
ということでこのイメージ的な名称になったと想像します。

実際に訪問してみて、規模といい展示といい、
博物館として立派なものだと思われましたが、営業は毎日でなく
金土の10−16時、日曜は正午ー4時までのみ。

非営利ではないので、従業員の確保が難しいのかもしれません。

ちなみに画像の国旗が半旗になっていますが、これは
この年にジョン・マケイン議員が亡くなったからです。

ところでこのメインハンガーですが、現在はESAMの所有で、
かつてジェネラル・エレクトリック社がスケネクタディ空港から
貸与されていた土地に建てたものです。

素材の中心はコンクリート。
右側の写真は1946年に行われたエアショーの様子で、左下には
ウィルソン大統領、GGのお偉いさんと共に、あの
ドーリトル爆撃の指揮をとったジミー・ドーリトル准将が写っています。

当時の最新武器だったヘリコプター、シコルスキーR-5の姿もあります。

1943年にGE社レーダーと武器統制システムを研究する実験室を
ここで操業していました。
1945年には航空実験部隊がGE社の一環として創設されたため、
それにともないこのハンガーが建造されたのでした。

戦後1946年から1964年までは、

GEスケネクタディ・フライトテストセンター

として、30タイプの基本形から60タイプの派生系に上る
飛行機が40種類のプロジェクトによってここから生まれました。

テストされた機器は、ジェットエンジンからミサイル誘導システムまで、
テスト結果は世界中および世界中の他の現場にもたらされました。

ほとんどのプロジェクトは軍事用で、その目的は
ソ連との冷戦に投入されるためのものでした。

さて、それでは中に入ってみることにしましょう。
チケットは大人8ドル。
非営利型の博物館でも、維持費のために入場料は取ります。

入ると最初のバリアフリー型エントランスは、このように
まるで滑走路のような雰囲気を醸し出しています。

スケネクタディ空港初期、複葉機時代の資料、
そして気球などが最初の部屋に見えてきました。

フロアには第一次世界大戦時の戦闘機、天井にもたくさん展示機が。

最初の部屋でまず目に着いたのは、女流飛行家
アメリア・イアハートのマネキンと彼女の愛機ロッキードでした。

彼女が最後に挑戦した「世界一周」の航路が地図で示されています。

女性飛行家として数々の快挙を成し遂げたイアハートは、
1937年5月21日、赤道上世界一周飛行に飛立ちました。

ご存知の通り、それが彼女にとって最後の飛行となるのです。

わたしが昔見学したことのあるオークランドの飛行場から
(ここも航空博物館を持っていた)東回りに、マイアミから
南アメリカに飛び、アフリカ大陸、そしてインド洋沿岸を周り、
で囲んだ27番、ニューギニアに到着したのが6月30日。

2日後、彼らは「28」のハウランド島を目指して出発しましたが、
数時間後の無線通信を最後に連絡を断ち、永遠に姿を消しました。

彼らの乗っていた機体は残骸も見つからず、いまだに彼女の死は
航空史上の大いなる謎の一つとなっています。

1994年、ダイアン・キートン主演で

「最終飛行(ザ・ファイナル・フライト)」

というテレビドラマになっていました。
で、どうしてこのポスターがここにあるかといいますと・・、

ここにあるロッキード・エレクトラのモックアップは
上記の「ザ・ファイナル・フライト」の撮影に使われたものです。

カリフォルニア州からここスケネクタディまで空輸されてきたのだとか。
左の電話を耳に当てると解説が聞けたようです(が聞いてません)。

モックアップは前の部分だけ。

ナビゲーターのフレッド・ヌーナンが座っていた席。
テーブルの上には地図や製図器など、足元にはカバン。
「Western Electric」(ウェスタン・エレクトリック)の木箱は
通信機器が入っているという設定でしょう。

メリカにかつて存在した電機機器開発・製造企業で、
1881年から1995年まで、AT&Tの製造部門でした。

現在はノキアが事業を後継しています。

壁に女性3人の飛行士の写真がありますが、一番左がイアハート、
そして真ん中は、彼女の同時代のライバルだったルース・ニコルズです。

ニューヨークの名家に生まれ、ウェルズリー大学を卒業後は
メディカルスクール(医学部)も出ているのに、空への夢捨て難く、
水上機の免許を取得した世界最初の女性となった人です。

お嬢様だったため、あだ名は「空飛ぶデビュタント」

2度にわたる航空事故でその度重傷を負いながらも飛び続け、
57歳の死の2年前、TF-102Aデルタダガーに同乗し、
時速1600km、高度15,545mという新記録を樹立しています。

翌年、つまり死の前年になりますが、彼女はNASAのマーキュリー計画の
宇宙飛行士テスト、遠心分離、無重力試験を受け、パスはしませんでしたが
女性の宇宙飛行士への適合性については期待を裏切らない結果を出しました。

しかし、その翌年、彼女は極度の鬱に苦しみ、バルビツール酸の過剰摂取で
亡くなり、法律上彼女は自殺をしたことになっています。

ロッキードL-10エレクトラ全金属レシプロ双発機。

「エレクトラ」とはプレアデス星団にある星の名前から取られています。
イアハートが乗ったのはそのうちの10Eで、15機製造されたうちの1機でした。

ロッキード社に保存されていたらしい航空機の
所有証明書(エアクラフト・レジストレーション)。

これによるとシリアルナンバーは1055、
エンジンモデルはWasp S3 H1
取得日は1936年の7月24日。

最後の「最終機位」についての文章を訳しておきます。

「ナビゲーターのフレッド・ヌーナンを同行し、37年7月2日、
アメリア・イアハートは、ニューギニアのラエを、ハウランド島に向け
午前10時に2550マイルの航路を出発した。
携行したのは1100ガロンの燃料、75ガロンのオイル。
消費燃費は1時間に約53ガロン。
ハウランド島までの到着予定時間は20時間16分であった。

操縦者は「残り燃料30分」という通信を最後に消息を絶った。
航路を見失い、海に墜落したものと考えられている。」

 

彼女は消息を経ったあと、日本軍に捕らえられて処刑されたらしい、
というまことしやかな噂はいろんなところから出てきていましたが、
ひどかったのは、最近、ヒストリーチャンネルが、入手した一枚の写真の
どこかの埠頭に写っている男女をイアハートとヌーナンだと決めつけ、
なぜかそれを日本軍が彼らを拉致した証拠とした事件です。

連行された彼らを遠くから撮ったもの、という結論ありきの推理でした。

これが全くのデマであることは、一人の日本人が国立図書館で
観光案内として掲載されていた全く同じ写真を見つけ、
その本の発行がイアハート事件より10年も前だったことで証明されました。

この方には同じ日本人として心からお礼を申し上げたいですね。

捏造といえば、イアハートのいとことかいう人物も、

「日本軍に捕らえられ、ヌーナンは斬首されてアメリアは獄死した」

と何の根拠もないのに言っていたそうですが、それにしてもその時期、
日本軍が民間飛行人をこっそり処刑する理由がどこにあるんだか。

 

手回し式ジェネレーター(発電機)

プロペラモーターと赤灯用だそうです。
ここにあるクランクを回せば、後ろの小さなプロペラが回り、
右側のライトが点灯するのでしょう。

当ブログでも紹介したことがある映画。
ヒラリー・スワンクがアメリア・イアハートを、
干される前のリチャード・ギアがイアハートの夫を演じました。

映画「アメリア 永遠の翼」ラストフライト

人気絶頂で彼女をコマーシャルに使った企業の製品は
「アメリア・イアハート効果」と言われるほど売り上げが上がりました。

最後に、 ニュース映像を混えた彼女の「ラストフライト」について
映像を上げておきましょう。

Amelia Earhart's Final Flight

おや、この人物は、あの

チャールズ・リンドバーグ(1902−1974)

ではありませんか。

「リンドバーグがやった!パリまで33時間で、1000マイル、
雪とみぞれの中、フランス人は飛行場で彼に歓声を送る」

というニューヨークタイムズの新聞記事ヘッドラインがあります。

なぜ彼らに言及しているかというと、これらの飛行家たちが
一度はここスケネクタディ空港に着陸したことがあったからです。

まず、1929年に、アメリア・イアハートは、「史上初の女性の乗客」として
リチャード・バード機長の操縦する飛行機でここに降り立ち、
歴史的快挙を成し遂げたのち、ラジオ放送を行いました。

また、リンドバーグはこの2年前の1927年、82都市をめぐる
ツァーの一環としてここに着陸を行っています。

「ラッキー・リンディ」を一眼見ようと、そのときスケネクタディには
2万5千を超えるファンが詰めかけたのでした。

 

ところで、当航空博物館では、日曜日の朝食を用意して、
楽しく皆で食事をした後に元パイロットや航空機についての識者、
歴史家、航空ジャーナリストと言った人々の話を聞き、

そのあとはヘリコプターに乗ったり、館内ツァーをしたりする
名物イベントが長きにわたって開催されているそうです。

楽しみにしている地域の常連もたくさんいそうですね。

 

続く。