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不死身のイボイノシシ(A-10)〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-29 | 航空機

個人的な事情で少し更新が滞ってしまったことをお許しください。
しかも、前回の冒頭写真に本題に出てこないF-101を挙げてしまったのは
全くのミステイクで、F-101についての記述は今日になります。
お節介船屋さんが見事名前をお当てになったのは本当に驚きました。

さて、ニューヨークの通称ESAM、エンパイアステート航空科学博物館の
アグネタ・エアパークに展示してある軍用機をご紹介しています。

入り口からずっと艦載機が続いています。

リパブリック F-84F サンダーストリーク( Thunderstreak)

たしかこれもサンフランシスコの「ホーネット」博物館で
見た覚えがあるのですが、F-84は直線翼のバージョンもあり、
これが「サンダージェット」、偵察型は「サンダーフラッシュ」といいます。

アメリカ海軍はこの研究をなんと1944年から始めていたそうですが、
戦争中なのに(戦争中だから?)次世代のジェットエンジン搭載機の計画を
着々と進めていたなんて、つくづくとてつもない国力ですよね。

 

ともあれ、この「サンダー」シリーズは、アメリカの最初のジェット機で、
空軍に次配備された丈夫で多彩な機能を持つ戦闘機です。

 直線翼の「サンダージェット」のデビューは戦後の1947年でした。
リパブリック社は、1949年に後退翼機の開発に乗り出し、
ノースアメリカンのF-86セイバーに匹敵するような
ハイパフォーマンスの戦闘機を産み出そうとしたのですが、それが
このF-84Fサンダーストリークだったと言うわけです。

1950年の完成を目的とされましたが、デザインそのものをはじめ
エンジン、生産ツールとあちらこちらに問題が続出し、
早々に配備は1955年からと先延ばしされることになりました。

そうこうしているうちに1960年代になって、もうそのころには
次世代の超音速機が次々と現れ、置き換わられることに(涙)

というわけでアメリカでは空軍が200機ほど運用したにとどまりましたが、
決して性能が悪い飛行機ではなかったらしく、製造された
2,711機のサンダースリークは、アメリカ以外、ベルギー、フランス、
デンマーク、ギリシャ、イタリアなど13か国に普及することになりました。

ここにあるサンダーストリークは最初空軍に配備され、
最終的にはオハイオのナショナルガードで引退したものです。

マクドネル F-101B/F  ヴードゥー(Voodoo)

この名前は知りませんでした。
ヴードゥーったら中米とかアメリカ南部で信仰されていた
呪術のあのヴードゥー教ですよね。

同時代の戦闘機としては最も大きな機体をもつF-101は、
小さな翼と排気量の大きなエンジンを搭載し、
一発の銃弾を撃つことがなかったにもかかわらず、
その名前は対ソ戦でアメリカをソ連の爆撃機から防衛し、
冷戦の象徴ともなった戦闘機です。

当初は、1940年代後半に、戦略的な空軍司令部爆撃機用の
単座 護衛戦闘機として考案されました。

このミッションが実現することはありませんでしたが、
F-101の最終生産バージョンである2人乗りの「B2」は、
アメリカ空軍の防空司令部(ADC)で長寿命を享受し、
北米の空域を守る任務を負うことになったのです。

1959年から62年まで、ヴードゥーは最も数多く普及した
戦闘機で、70もの航空隊が編成されたといわれます。

ヴードゥーは速力に優れ、トップスピードはマッハ1.8。
最大速度1,825 km/h になり、4基の空対空ミサイル、
AIR-2ジニー(Genie)ミサイルなどを搭載することができました。

このジニーミサイルは核弾頭付き無誘導空対空ロケット弾で、
北米空域に侵入しようとするソ連の爆撃機を破壊する
背水の陣というか、最後の手段として開発配備されたものです。

しかし、ヴードゥー将、要撃機として大変重用されていながら、
実他の戦闘機と効果的に交戦できるタイプではありませんでした。

後退翼で機体が重く、マニューバリングに優れているわけではなく、
操作そのものもメインテナンスも大変気難しいため
操縦をパイロットの操作性に頼る部分が多く、上手い人でないと
乗りこなせない的な機体で有名になってしまったとか。

そのせいで、普及したのはアメリカとロイヤルカナダ空軍だけでした。

このF-101は1959年にアメリカ空軍に配備され、
ナイアガラフォールズ空港にある、
ニューヨークエアナショナルガード・第107戦闘要撃グループ
最終の奉公先として引退したものだということです。

さて次は、と行手を眺めやると、そこには迷彩の機が。
せっかく真横から全体像をみることができる展示がしてあるので、
近づいていく前にちゃんと撮っておきます。

というか、超馴染みがあるんですがこの機体。

マクドネル-ダグラス F-4 ファントム(Phantom)

なんだー、日本ではつい最近までバリバリ現役だった
ファントムさんではありませんか。

しかし、ここにある説明をみると軽く驚きます。

「F-4ファントムは海軍の空母で運用する要撃機として
1950年台に設計が行われた」

これが70年近く前のことだったという事実もさながら、
元々の目的は艦載機だったというのですから。

ファントムは第二次世界大戦当時からのアメリカの戦闘機の中で
もっともたくさん生産され、改良を重ねられてきた機体で、
海軍のみならず空軍、そして海兵隊でも運用されていました。

F-4が最初に海軍のサービスを始めたのは1961年で、
翌年には空軍も導入を行いました。
そして生産が終了したのは1979年。

この間5,000機が生まれ、アメリカのみならず、
10か国もの外国の軍隊で採用されました。

エンジンはジェネラルエレクトリック社製の
J-79ターボジェット

このおかげでF-4は当時最もパワフルで、かつ
重量の大きな戦闘機として、

AIMー7スパローミサイル

AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル

を各4基搭載することができ、地上攻撃任務には
1万5千ポンドの爆弾を運ぶこともできました。

ほとんどのF-4は内部に銃は装備されていませんでした。
近接でのドッグファイトの際不利になるからです。

F-4は、その運用経歴中、ベトナム戦争と密接に関連しており、
「Jack-of -All Trades」戦闘機として、制空権奪取、
地上攻撃、敵防空網制圧、および偵察任務を遂行しました。

この「ジャック・オブ・オール・トレード」というのは、おそらく
「なんでもやる奴」という言い方の俗語なんだと思います。

アメリカでは1996年になって、F-15 イーグルF-16
ファイティングファルコンに置き換えられる形で引退が始まりました。

空軍では何機かが空軍で無人機仕様にされています。

我が日本では最終的に引退は2019年となったわけですが、
当博物館の説明には

「ドイツ空軍はこの偉大なる戦闘機の最後のユーザー国の一つ」

つまりまだ使っていると書いてあります。
同盟国なんだから、うちらの名前も書いて欲しかった。

こちらにあるF-4は、”D"タイプで、最初に空軍に配備されたものです。
ベトナム戦争時はニューメキシコの空軍基地に展開しており、
1972年からは、スティーブン・ケイン大尉の愛機となりますが、
このケイン大尉は、退役してからESAMのボランティアとなって、
展示の際のF-4の修復作業に多大なる協力を惜しまなかったということです。

これは今まで行ったことのあるアメリカの博物館の
どこでも見おぼえのない機体です。

フェアチャイルド・リパブリック A-10 サンダーボルトII

機体種別番号がAということは攻撃機だと思うのですが、
それにしても明らかにグラマンとかマクドネルと違う、
異様な機体のラインをしております。

この形状から、人をしてウォートホッグ(イボいのしし)とか
簡単にホッグ(ブタ)とか呼ばせていたというんですが、
それも納得の独特なずんぐり感がありますね。

というわけでこのイボイノシシさんは、ベトナム戦争の後、
近航空支援 close air support role (火力支援目的の作戦)に
必要とされて生まれたということになっております。

この任務は、友軍にごく近接して地上の標的を攻撃することを含み、
ジェット戦闘機によって行われてほんの少し成功を見ました。

戦闘機には速度という強みはあるものの、戦場での耐久力の欠如、
地対空攻撃に対する脆弱性、および重弾薬の負荷に耐えないことは
弱みと言ってもいいでしょう。

したがって、1976年、A-10は米国で運用サービスを開始しました。
空軍が近接航空支援任務のために特別に開発された唯一の飛行機です。

見かけの通りA-10は高速でも流線型でもありませんが、
非常に機動性があり、任務を確実に遂行する能力はもはや伝説的です。

1990年になると、スピードもないA-10は、そろそろ引退?
みたいな雰囲気になっていたのですが、そこに湾岸戦争が起こります。

A−10はさいごにブリリアントすぎる活躍で一花咲かせるのですが、
そこで新しい「やりがい」を得たイボイノシシさんたちは、
空軍の歴史においても最も価値のある遺産を遺すことになりました。

生産された800機のうち350機現役および予備部隊で
未来に向けてサービスを継続を決定されたのです。

近くによってみましょう。
この機体の特徴はノーズに咥えたように突き刺さっている
30mmGAU-8 ガトリング砲です。

とにかく頑丈でタフな機体を持ち、湾岸戦争においては
参加機のうち半数にあたる約70機が被弾しながら、被撃墜は6機。
喪失率は10%という驚異の生還率を誇りました。

「384箇所の破孔を生じながら生還、
数日後には修理を完了し任務に復帰」

とか、

「イラク戦争でSAMによって右エンジンカウルを
吹き飛ばされながら生還」

など、それどこの舩坂弘、みたいな不死身伝説をもっているのです。

湾岸戦争におけるアメリカ空軍のパイロットの死者は約120人でしたが、
その多くはF-16搭乗者であり、A-10パイロットはわずか1名でした。

しかもその死因は食中毒だった

という(とほほ)

湾岸戦争ではこのいかにも凶悪そうな30mmガトリング砲で
イラク軍Mi-17ヘリコプターの撃墜も記録しているのですが、
これはたまたまそういう機会があったというだけらしく、
基本的にAー10には近接戦闘は求められていませんでした。

 

 

続きます。