ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

燃料補給艦「モーミー」と「ニィーミッツ」中尉〜メア・アイランド海軍工廠生まれの艦船

2019-06-07 | 軍艦

前回、「メア・アイランドシリーズはこれで最後だ」と言いつつ、
締めをしてしまったのですが、掲載していなかったログが発見されました。

今度こそ、メア・アイランド工廠跡見学の最後、というわけで、
ここで建造された艦船についてお話ししていきます。

とかなんとか言いながら、

USS「インディペンデンス」

が建造されたのはボストンのネイビーヤードなんですけどね。


1814年の就役以来、ロシア、南アメリカへの遠征を始め米西戦争に参加、
その後はヨーロッパにも行ったという彼女ですが、1857年、
ここメア・アイランドに錨を下ろし、1912年に除籍になるまでここにいました。

そんな長い間、彼女はここで何をしていたのでしょうか。

左が現役時代の「インディペンデンス」の帆を張って進む勇姿、
右が晩年の彼女の最終形です。
55年間の長きにわたり、彼女は「ハルク」になっていました。

ハルクとは、水上に浮かぶ機能はあっても洋上航走はできない船です。
老朽船となった「インディペンデンス」からは艤装や内部の装備が撤去され、
ただ水上に浮かぶだけの何かになってしまいました。

もっとも、ハルク化されたのは彼女に限ったことではなく、
帆走の時代には、多数の船体が船として用いられるよりも
ハルクとして長期にわたり従事したものでした。

木造船は、船体構造が老朽化すると悪天候下の洋上航走時には
容易に浸水してしまうようになるので、そうなると、
新兵を収容するための「新兵ハルク」、あるいは脱獄しにくいことから
囚人を収容する「監獄ハルク」、さらに経年劣化してくると、いよいよ
「石炭ハルク」「火薬庫ハルク」となって

「汚れて乱雑で、魅力のない余生」(現地の説明による)

を終えるのが木造船のよくある一生だったようです。

これはかつて「インディペンデンス」のフィギュアヘッドだったもの。
フィギュアヘッドは女性を象ったものが多いですが、これは
ローマ風?装飾を施した白いフィギュアヘッドです。

足元にある銅板には在りし日の彼女の功績が綴られていますが、
彼女が解体された1912年に製作されたものなので、古びて真っ黒です。

これも「インディペンデンス」の参加した戦争を記した石碑。
解体された後、残されたフィギュアヘッドの前に置かれていたようです。

「インディペンデント」が最初の「ガバメント・ヴェッセル」(政府の船)
としてメア・アイランドに引き渡されたことが書かれています。

キール・レイドとは起工の儀式で、1812年に行われました。

「クラッター・ホーン」(Clatter Horn )

「インディペンデンス」で使われていたもので、この取っ手を持って
振り回せば、船中に音が聞こえ「ウェイクアップコール」になるというもの。

晩年の「インディペンデンス」がどのようにハルク化されていたかというと、
これです。

うーん・・・フリゲート艦としてブイブイ言わせていた彼女が・・・。
しかし「新兵艦」や、ましてや「監獄艦」になることがなかったのは
特別扱いされていた方だったのかもしれません。

1904年撮られた「インディペンデンス」の内部は、全く応接室仕様。
新兵用でも囚人用でもなく、これは貴賓室として使われていたんですね。

それとも誰か偉い人が住んでいたんでしょうか。
花瓶には花、地球儀、ピアノの上には練習中の曲の楽譜まで見えます。

別の角度から撮られた同じ部屋。
天井のランプのソケットから卓上ランプの電源を取っていますね。
すでに船としての機能は全くなかったことがよくわかります。

「インディペンデンス」は1915年に地元の業者に売却され、
メタルの部分と、もっとも価値のあるオルロップデッキの木材を
全て取り除かれて廃棄処分となりました。

戦艦「ミズーリ」の模型。

こちらも履歴をざっと調べてもこの戦艦とメア・アイランドの関係はないようだけど?
と思って現地の説明を見たら、

「ミズーリとメア・アイランド工廠には特別に関わりがないが」

ってわざわざ書いてあるではないの。
しかも、

「その時期メア・アイランドが手がけたのは戦艦『カリフォルニア』だった」

日本がその甲板で降伏調印を行なった、という象徴的な艦として、
我々は多くの艦船を生み出し、補修することによってこの結果に
大いに寄与したのであーる、ということが言いたかったようです。

一つ前の写真は有名なので見たことがありますが、これは初めてです。
角度から察するにこれを撮ったのは「ミズーリ」の乗員でしょう。

まさか、抱き合っているのはマッカーサーとニミッツ・・・?((((;゚Д゚)))))))

だとすれば別の意味でとんでもなく貴重な瞬間ですが、帽子が違うので、
ニミッツはサイン中か左で立っている人物だと思われます。

さて、メア・アイランド海軍工廠の「ファーストシップ」、
最初に建造されたのが蒸気船「サギノー」です。

1860年「サギノー」は太平洋艦隊の隷下に入り、南北戦争、
アラスカでのロシアとの紛争に参入したりしていましたが、
1870年、ミッドウェイで港予定地を浚渫する作業をしたあと、
Kure環礁で座礁してしまいます。

救出を求めるため、タルボット中尉と水兵ウィリアム・ハルフォード含む
志願者4名がボートに乗り込み、カウアイ島に向かいます。
なんと31日に渡る航海の末、ようやく岸に近づきましたが、そこで
不運にもボートは転覆し、全員が海に投げ出されてしまいました。

その中でハルフォードはただ一人、岸に泳ぎ着いて助けを求め、
その結果座礁した「サギノー」の乗員は救出されました。

 右側は同じハルフォードの海軍士官姿です。
荒海を泳いで「サギノー」の救出を呼ぶことに成功した彼は、
名誉勲章を受け、1971年、つまり事故の翌年にいきなり准尉に任官、
と、いったい何段跳びかわからないくらい昇進しました。

そして第一次世界大戦が始まった時、海軍はハルフォードのような
経験豊かな軍人を必要としたため、退役していた彼を呼び戻し、
中尉に昇進させるという措置をとりました。

彼は死後、ネイビーヤード墓地に中尉の階級で葬られ、その名は
USS「ハルフォード」DD-480に残されました。

 

1916年、メア・アイランド起工されたUSS「ショー」DD-68
キールレイイングに使われた金槌。

これ、なんだと思います?
わたしも初めて見たのですが、「ショー」の「ハーフ・ハル」、
つまり船殻の半分模型なんですって。

造船する際、シップフィッター(Shipfitter)という部門では、
設計者の図面に基づき全ての船に対してこのようなハーフ・ハルを製造しました。

これは2代目。
USS「ショー」DD373、駆逐艦です。

 

2代目「ショー」はフィラデルフィア海軍工廠生まれですが、オーバーホール以外に
メア・アイランドは歴史的に意味のある彼女の修復を請け負っています。

「ショー」は、真珠湾攻撃のとき乾ドックに入渠中でした。
日本軍による攻撃で「ショー」は前方機銃座に2発、艦橋左舷に1発の計3発、
爆弾を受け、火災を発生しました。


(爆発する『ショー』。誰が上手いこと言えと)

消火活動が続けられましたが、消火剤を使い果たしたため、
総員退艦の命令が発せられます。
そして前方弾薬庫が爆発しました。

しかし沈没は免れたので、彼女は真珠湾で応急措置を受けた後、
メア・アイランドに運ばれて竜骨を取り替える工事を受けました。

この一言で説明をまとめると、米西戦争によってメア・アイランド造船所の技術は
飛躍的に成長した、ということです。

手漕ぎでなく蒸気を動力としたボートの発明、蒸気エンジンのパワーアップ、
エア・コンプレッサーの導入によって武装も一段と強力になりました。

米西戦争に参加したメア・アイランド生まれの艦船たち。
左上から時計回りに:

防護巡洋艦「オリンピア」C-6

防護巡洋艦「ラレイ」C-8

防護巡洋艦「ボストン」

ガンボート「コンコード」PG-3

防護巡洋艦「ボルチモア」C-3

ガンボート「ペトラル」PG-2

その一隻である「オリンピア」です。

なぜか一緒にあった「ファイアエンジン」。
ファイアエンジンって消火自動車ですよね?

ちなみにこの模型は、「RCワーシップコンバット」用のものです。

「RC model warship combat」ってなんだと思います?

「見る模型ファン」のわたしとしては気になる記事がありました。
RCって多分ですけど、レシオ(比率)のことですよね?

それでいうと1:144の船の模型にBB弾(ベアリング)で武装させ、
池で戦闘を行うという趣味のことです。
去年の7月、阪神基地隊のプールでで潜水艦模型を操作しているグループがいましたが、
これはさらにガチンコで海戦を行い、戦わせてしまうという・・・。

日本潜水艦クラブは、お池で操作することすら「模型を失くすかも」という
心配と戦っておられたようですが、こちらは本当に沈没覚悟です。

What is RC Warship Combat

この説明によると、アメリカ、カナダ、オーストラリアで盛んだそうです。
日本では多分BB弾使用というのがネックになってるんだろうな。

それにしてもこんな池で沈没してしまった船、どうやって回収するの?
と思ったら、半裸で池に入っていって船をサルベージし、すぐさま戦線に復帰させています。

「ブルーバード」A.M.S.121 bluebird

AMSというのは掃海艇です。

同じく掃海艇「コルモラント」 AMS-122
コルモラントとは「鵜」のことです。

アメリカの掃海艇は鳥の名前をつけていたのですね。

彼女は1960年ごろまで、日本近海での掃海を行なったそうです。
日本近海の掃海にアメリカ軍が出動していたことを
わたしは今初めて知ったわけですが、全く日本側に資料がありません。

「ブルーバード級」は世界各国に貸与されましたが、我が国の掃海艇

MSC-651 「やしま」

MSC-652 「はしま」

MSC-653 「つしま」

MSC-654 「としま」

もアメリカから貸与されたものです。

「マウミー」(モーミーかも)は燃料補給船として1914年に起工されました。
オハイオ州のモーミー川から命名されています。

海軍に配備された初めてのディーゼルエンジンの船ですが、
歴史的に注目すべきは、最初のCTO(チーフテクニカルオフィサー)
に任命されたのは、チェスター・W・ニミッツ中尉だったことでしょう。

「モーミー」の艤装中、ニミッツ中尉はドイツにあるディーゼルエンジン工場に
エンジンの研究をするために派遣されています。
ドイツ系だったニミッツは実はドイツ語ができたのでした。

(彼の宿敵マッカーサーが、ニミッツと口にする時、わざわざ『ニイーーミッツ』
と発音して、ドイツ系であることを暗に揶揄していたという話があります)

第一次世界大戦が始まり、アメリカが1917年4月に参戦を表明した時、
ニミッツは「モーミー」の技術士官であり、米海軍駆逐艦の第1艦隊が
大西洋を横断するのに同行した「モーミー」は燃料補給船として機能しました。

彼の監督下で、「モーミー」は初めての補給を実施したということです。

 

 

メア・アイランド工廠シリーズ 本当に終わり

 


メア・アイランド海軍工廠〜ヒストリックパークファウンデーション

2019-06-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

長らく語ってきたメア・アイランド博物館の展示についての話も、
最終回になりましたので、ここでメア・アイランドのドックなど
海軍工廠そのものをご紹介して終わりたいと思います。

昔活気があったここは、海軍工廠が閉鎖してからご覧の通りゴーストタウンです。

工廠跡の建物は、民間の溶接工場やエンジニアリングの会社が買い取り、
使用しているところもあるようですが、ここはどうも空き家のようです。
道路は近辺の会社や工場のワーカーの駐車場になっています。

その他ネバダにあるトゥーロ・ユニバーシティの図書館だけがなぜかここにあるそうです。

ところで、展示品についてもご紹介しそこなったのを全部あげておきます。
Mk44魚雷は、水上艦以外では以前ここでご紹介したことがあるドローン、
対潜ヘリコプターDASHなども搭載していた魚雷です。

タイプライターのようなタイムカードレコーダーのような。
パイプなどの金属に刻印するためだけに存在する機械。
打ち間違えたら訂正できずそのまま刻印されてしまうんですね。

キールレイドの時に使われたハンマーは、このように記念となり、
後世に残される場合もあります。

ここに見える艦船の名前は

駆逐艦「クラクストン」「プレストン」「ハミルトン」

潜水艦「スタージョン」潜水艦「スウォードフィッシュ」

駆逐艦「キルティ」「ボッグス」

などですが、潜水艦はハンマーではなくラジオペンチのようなものです。

かつてここでもお話しした、ユージーン・イーリーが

「空母から人類初めて飛行機を離艦させ、着艦した」

のはここメア・アイランドでした。

ここの説明にはなぜかイーリーを「大尉」と説明をしているのですが、
残念ながら彼は海軍軍人だったことは一度もありません。

その業績の偉大さの割にアメリカ以外では名前が全く知られておらず、
わたしが彼についての記事を書いた時には日本語のウィキもなく、
「Ely」という名前を「イーリー」にするか「エリー」にするか迷ったものですが、
いつの間にか「イーリー」でwiki記事が書かれていました。めでたい。

でもこれ、もしかしたら一番正確なのは「イリー」かもしれないな・・。

勝海舟ら咸臨丸と日本からの訪米施設がここにきた時には
確実にここを見るか、あるいは前を通り過ぎるかしたはずの建物。
写真は1860年ごろ撮られたものですが、その後、
1898年のサンフランシスコ地震で倒壊し喪失しました。

お家ですか?ケーブルカーですか?

これは下の説明にも見えるように士官のクォーター(宿舎)なのですが、
なんか、家ごと木の通路を行ったり来たりできたみたいです。

何のためかも説明がないので詳細はわかりません。
傾斜を降りる形で転がっていったみたいなのですが、それでは
登るときはどうしたのかな?

こんな不安定なところにいて士官さんたちは不安じゃなかったのか?

こちらは1903年の写真。
2隻のフリゲートが当時の動力だった石炭を荷下ろししています。

さて、それでは博物館の裏手に出てみましょう。
博物館のおばちゃんが、裏の出口を教えてくれました。

この日の来館者はわたしたち二人を入れて全部で確か4人でしたが、
最後まで観ていたのはわたしたちだけになり、おばちゃんとしては
早くわたしたちに出ていって欲しかったようです。

出てすぐの岸壁に潜水艦「ヴァレーホ」のセイルがありました。
ここから見ると、まるで着岸しているようです。

この岸壁沿いの道路の名前が「ニミッツアベニュー」というのは前も言いましたね。
ニミッツアベニュー1084は現在何かに使われているらしくゴミ箱が前にあります。

ところで、このモノレールのような鉄の構造物、これは
メア・アイランドの大昔の写真にも同じものが写っているのですが・・、

具体的にどうやって使うものなのでしょうか。
クレーンとは全く違うようですし、不思議なことにこれは
ドライドックの周りにはないのです。

一つのドックの中に駆逐艦が6隻。
1922年、二番ドライドックの航空写真です。

全く同じ形をしているので、6隻同時進行で作っていたのだと思われます。

同じドックの現在の様子をグーグルアースで撮ってみました。
岸壁に隙間なく敷き詰められるようにあった資材が今では跡形もなし。

これは、第2ドックの手前にある第1ドックを横から見たところです。
周りは鉄柵で囲まれて近づけないようになっていました。

クレーンは当時のままに全基残されています。

これは前にもご紹介しましたが、今立っているところから一番遠い、
第3ドックを建設していた1940年の写真。

金網の隙間から撮影した第1ドック。

西海岸で初めて建造されたかなりの大型船にも対応できるドック、
工事は1872年に始まり、1891年に完成しました。

我が日本の横須賀のドックより遅い時期になります。

グーグルマップでは今でも第3ドックにコーストガードの
砕氷艦が停泊していますが、第1、そして第2ドックは閉鎖されているようです。

これらのクレーンが稼働することは今後もう2度とありません。

ドックに添うように、貨物を運んだレールの跡が見られます。

積み重ねられたコンクリに字が刻まれています。

上から、41年5月7日、39年11月17日、41年5月7日、
という意味ではないかと思われますが、なんでしょうか。

歩いて第2ドックまでやってきました。
こうして正面から見ると、ここに駆逐艦が6隻入るとは思えません。

ドックの周りにあった「ショップ」の建物も、そのまま何も変わらず残されています。
取り壊すこともなく、かといって保存のための特別な措置もすることなく、
アラメダのようにいつまでもかつてのまま「放置」するつもりかもしれません。

国土の広大なアメリカならではの鷹揚さとある種のいい加減さは、
時としてこのような歴史的ゴーストタウンを産みます。

窓だったところを全て板で覆ってしまっているビルもありました。

これが今回見学した博物館、正式には

Mare Island Hisoric Park Foudation

です。

博物館は上から見るとコの字の中に別棟を抱えているのがわかるのですが、
この写真の向こう側が「コ」の端、左の建物があとで建てられたらしい部分です。

すっかり人気がなく「兵どもが夢の跡」と化したかつての工廠。
時の移ろいのうたかたに思いを馳せることができる、わたしお薦めの観光です。

フィッシャーマンズワーフなんかより、ずっと心に残る旅になると思いますが、いかが?

今から工事が始まるようですが、立て看板には、

「Future Home Of Histric Core」

と書かれていますね。
ちょっとどういう意味かわからないのですが、将来ここを
歴史を訪ねる中心にしようとか、そういう計画があるのかな。

博物館の建物に沿って歩き、正面の車を停めておいた所に戻ることにしました。

その時になって初めて、「ミュージアム」の看板を見つけました(笑)
こんな所にあったのか。道理でわからなかったはずだ。

あ、レンガが一つ無くなってる。

閉館時間ギリギリまで粘っていた最後の客(わたしたち)が
やっと出て行ってくれたので、露骨にやれやれ、とばかりに
看板をごろごろ引っ張って片付けているボランティアのおばちゃん。

ところでこの看板、どこにあったの?

メア・アイランドを出発し、向かいのヴァレーホに渡りました。
ここにも海軍工廠だった頃の名残がさりげなくあったりします。

ナパ川越しに対岸に見るメア・アイランド海軍工廠跡。
この博物館を通じて、また新たな海軍の歴史について知ることとなりました。


車をお持ちの方は、サンフランシスコ観光のついでにぜひ訪れることをお勧めします。
ただし、オープンしている日時はほんの一瞬なので、事前に調べてからね!

 

メア・アイランド海軍工廠博物館シリーズ 終わり


令和元年 海上自衛隊 阪神基地隊 第67周年開隊記念行事 後半

2019-06-04 | 自衛隊

 6月1日に阪神基地隊で行われた第67回開隊記念行事についてです。

前回、長くなりそうなので一旦切ったところが、この来賓の挨拶だったので、
つい思わせぶりな書き方をしてしまいましたが、そう書いたのにも
少しだけ理由があって、

政府代表 関西代表 特命全権大使 山本条太氏

はて、大使と言いながらなぜ日本人なのか、と奇異に思ったわけです。
何度か阪基の行事で挨拶を聞いていますが、こういう肩書きを聞くのも初めて。

特命全権大使とは外交使節団の長で最上級の階級である。
接受国の元首に対して派遣され、外交交渉、全権代表としての条約の
調印・署名、滞在する自国民の保護などの任務を行う。
国際連合などの国際機関の政府代表部に対しても派遣される。wiki

その最上級の大使が、なぜ日本におられるのか。

調べてみたところ、山本さんの前職「在フィンランド全権大使」
「在ボツワナ全権大使」「在フィリピン以下略」などと並んで、
「関西担当大使」という配置が本当にあるのです。

まさかとは思うけど関西という地域は政府にとって外国なのか。
よく「大阪民国」というけど、公的にも関西は別の国扱いなのか。

とまあ、いろんなことを考えてしまいました。
(どなたかなぜこんな配置が関西だけにあるのかご存知でしたら以下略)

とにかくその大使で一番偉い山本氏の挨拶から推察するに、
氏はかつて2年間、防衛省で防衛政策局次長であったこと、そして
いっときとはいえ「自衛官」であったその経歴から、大変自衛隊に対して
こういってよければ「思い入れ」を持っておられるようでした。

阪基は行事に関西担当全権大使をいつも招待しているらしいのですが、
今までの山本氏の前任はまず来たことがなかったということです。

すきあらば人の集まるところには出て行って顔を売りたい政治家と違い、
官僚は不特定多数に愛想したところでなんの得にもなりませんから、
自衛隊から招待されていても欠席を決め込む人も多いのでしょうけど、
山本氏の場合は、わざわざお休みの日を割いて出席されたということで、
独断的感想ながら、そこにお人柄の一端を見る思いがしました。

関西担当全権大使には今年赴任されたばかりなので、もしかしたら
また別の自衛隊行事でお姿をお見かけすることになるかもしれません。

阪神基地隊のちょっとしたサプライズはこんなところにも仕掛けられていました。
誰でもが無条件で楽しめるようなアミューズメント企画というわけではありませんが、
ある種の人たちには大変興味深い、イタリア領事のスピーチです。

壇上に上がったのは在大阪イタリア領事、ルイージ・ディオダーティ氏。

ただの、開隊おめでとうございますという挨拶かと思ったらとんでもない、
イタリアの軍の歴史から現代の日本とイタリアの軍事交流に至るまで、
ミニ講演会といっていいほどの演説が始まりました。

しかし、英語で行われたスピーチは、絶妙のタイミングでセンテンスごとに
日本語の通訳が入り、わかりやすい上に、その内容の面白さも相まって、
全ての人が熱心に聞き入っていたようでした。

もちろんわたしもその一人です。

ただし、最初の挨拶が終わった時、背の高いイタリア領事、マイクの位置が低くて
喋りにくそうにしていたので、慌てて自衛官が高さを調整しに来ました(笑)

この時の話を録音しておけばよかったと思うのですが、覚えている限りでは、
まず、イタリアも日本も海に囲まれた海洋国家であり、海の護りという点では
非常に共通点を持って発展してきたということ、
1800年代にイタリアに海軍が生まれ、その発展についての概略などです。

ただ、近代戦争のところに差し掛かった途端、
「その話は今日はしないことにする」
とかいう言い方でスルーしてしまいました。

今度はドイツ抜きでとかの話になるのを避けたのだと思います(ゲス顔)

また、近年のイタリアと自衛隊の交流については、士官候補生の交換留学、
P-1が2機、イタリアの基地を訪れたこと、イタリア海軍のジラルデッリ大将
自衛隊の招きにより6度も日本を訪れており、その際、P-1に体験搭乗したり、
「いずも」を見学したりした、という例を挙げて、

「海洋国家として同じ価値観を持つ両国同士」

絆を深めていくべきだ、ということを語りました。

海上自衛隊のHPより、平成30年の横須賀基地訪問での記念写真。

真ん中がイタリア海軍参謀長、ヴァルテル・ジラルデッリ大将ですが、
なんか可愛いじいちゃんだー。(あれ?もしかしてまだ50代?)
というか、村川海幕長始め、全員ニコニコして和気藹々ですね。

ちなみに、今回初めて知ったことですが、イタリア海軍の正式名称は、
(英海軍の正式名称が”ロイヤル・ネイビー”というような)なんと

マリーナ・ミリターレ・イタリアーナ(イタリア軍事海軍)

というものでした。
ぜひ、声に出して言ってみてください。
(ついアンドレア・ボッチェリの声で再現された)

続いて多数おいでの政治家の先生方が壇上で一言ずつご挨拶。
マイクの前は自民党の兵庫1区選出議員盛山正仁氏。
灘高東大官僚と絵に描いたような関西の「できる子」コースです。

その右、少し前に防衛大臣政務官だった石川博崇氏。
公明スマイルがトレードマーク。

ちらも公明党の三浦のぶひろ氏。
東京工大で博士号を取ったあと、防衛大学校で准教授を務めたことから、
自衛隊への思いを語りました。

マイクの後ろは、尖閣諸島中国漁船衝突事件をきっかけに
政治家を志したという自民党の山田賢司議員。

乾杯に先立ち、主賓の方々が壇上で鏡割りをすることになりました。
スーツが汚れないように(と雰囲気を出すため)全員が
法被をきて壇上に上がるのですが、今や阪基専属と言っても過言ではない
ご当地アイドルグループ、コウベリーズの皆さんが法被を着るお手伝いを。

おじさまたちも同じ着せてもらうなら男性より女性の方が嬉しいでしょうし、
見た目もなんというか和やかでよろしい気がします。

そして、セクとかパワとかの「ハラ関係」が何かと提起され、
こういう役目を当女性職員に命じることすら微妙になってきている昨今、
普通の女の子をセールスポイントにしたアマチュア的アイドルならば、
こういうシチュエーションに普通にはまるので、自衛隊としても
使い勝手がいいというかありがたい存在となっているようです。

しかも彼女らの宣伝にもなるので、みんながハッピー、法被だけに(中の人談)
誰が上手いこと言えと。

「せーの」の合図で木槌を振るい鏡割り。

大関、櫻政宗、いずれも灘の銘酒である西宮の酒造会社です。
阪神基地隊の周りにも、実にたくさんの酒造会社があります。

乾杯のご発声を行なった議員さんは名札が法被に隠れて誰かわかりません。

この日の人での様子がわかる全体写真。
会費制にしたことで若干人数が減ったとのことですが、
そのおかげで皆余裕のあるスペースでの飲食を楽しんでいます。

基地隊司令が挨拶でも告知した、潜水艦カレーの一つ「じんりゅう」。
桜をバックに刀を抜く侍のシンボルがかっこいいですね。

乾杯発声とともにカレーの前には長蛇の列ができました。
「じんりゅう」の乗員が、オリジナル法被着用で配ってくれます。

「そうりゅう」からもカレーが出品されているということで
味を比べたかったので、まずご飯を少なめにし、

「少なめでお願いします。あ、でも具は多めに」

と注文をつけてよそってもらいました。
まずは「じんりゅうカレー」を制覇。
甘みが勝ったコクのあるまろやか系カレー、
たくさんよそってもらった具に残念ながら肉は含まれず、
それだけが心残りでしたが、次行きます。

「そうりゅうカレー」は「じんりゅう」の反対側でお店を出しています。

カレーコーナーの上にはしっかり存在を主張する旗が。

カレーの説明の下に「そうりゅう」そのものの解説も。
航空母艦だった2代目「蒼龍」に触れているのがいいですね。

「そうりゅうカレー」は「じんりゅう」より甘みを感じましたが、
それがペースト状にした桃とパイナップル、すりおろした人参という
隠し味にあることがわかりました。

今度カレーを作るときに試してみたい組み合わせです。

「そうりゅう」の隣になんと阪神基地隊のカレーも出品していました。
なんと、三種カレーの食べ比べができるという特別企画です。

これがある意味今回の行事のメインイベントだったってことですね。

わたしが食べ比べたところ、甘さの点だけでいうと、

阪基>じんりゅう>そうりゅう

の順。
味の複雑さ(色々入っている感じ)はその逆。
海自のカレーにしては三つとも甘さが勝っていて、
甘いカレーが好きなわたしには甲乙丙つけ難いカレー対決でした。

カレーを待つ列はいきなり体育館の端まで伸びてしまい、皆は
カレーの列に並びながら途中のテーブルにあるものを取り、
食べながら待つという光景が展開されていました。

これは緑にきゅうりをセレクトしたうどん。

専用機材で黙々と天ぷらを揚げていました。
わたしは三種カレーに挑戦するのがやっとで、うどんも天ぷらもトライできませんでした。

周りを女性に囲まれていた「じんりゅう」艦長。
潜水艦長は一般的に二佐職です。

また、今回ご挨拶させていただいた中に、あの!
横須賀音楽隊からこの度東京音楽隊に転勤された、海自の歌手、
中川真梨子三曹のお父上がいて、しかもわたしの所属する
防衛団体のうちの一つのメンバーだったのがちょっとしたニュースでした。

いつもステージの上の歌手としてしか存じ上げない彼女の父上から、
彼女が元々はフルートをやっていたこと、大阪出身(夕陽丘)であることなど
興味津々で根掘り葉掘り聞いてしまいました。

前回の観艦式で、わたしは彼女の歌を「むらさめ」艦上で聴いたのですが、
伺ってみると、父ちゃんもすぐ近くで聴いていたことが判明。

「あの時は『坂の上の雲』のテーマソングとか歌ってらっしゃいましたね」

「いや・・・わたし全然覚えてなくて」

それから、今回の三宅三曹とのトレードですが、期間限定で
何ヶ月かしたら二人ともまた元に戻るらしいことを聞きました。

これってすごい内部情報だと思いません?

会を〆る乾杯の音頭を取ったのは、阪神基地隊先任伍長、寺越海曹長。
経歴をチェックしたところ、前職は「かしま」先任伍長でした。

というわけで、無事盛会のうちに終了した開隊記念行事。

地域の政治家たち、ご当地アイドル、そして自衛隊を応援する人々。
この小さな、地域会場防衛の要である基地を支えていくための
コミニュティと、支援に心を尽くして恩返ししようとする自衛官たちの姿を
確認した週末となりました。

 

最後になりましたが、今回の行事参加をお取り計らいくださった
関係者の皆様にあらためてお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。

 

 


海上自衛隊 阪神基地隊 開隊67周年記念行事 前半

2019-06-03 | 自衛隊

6月1日は、阪神基地隊が開隊して67周年目を祝う行事が行われました。
ご招待いただきまして、参加してまいりましたのでご報告です。

おっとその前に、週末は記念行事が各地の自衛隊で行われたらしく、
Kさんは北海道は東千歳の第7機甲師団の創隊64周年記念行事に参加され、
毎年夏の総火演も顔負けの演習を見てこられたそうです。

そのポスター、戦車文字で書かれた「令和」を見よ。
「令」に比べて「和」が小さいですが、気にしない気にしない。(by一休)

前日が雨だったのか、埃が立たないように水を撒いたのかはわかりませんが、
空自からF15戦闘機も飛来して観客大興奮の記念行事となったようです。

おお、かっこいい!
戦車のバック駆動も、ぬかるんだ地面の土が跳ね上がり、写真映えします。


Kさんはわざわざ関東から飛行機で行かれたのだと思いますが、
これほどのものが見られたならば行った甲斐が会ったというものでしょう。

わたしは陸自のこういった式に参加したことがないので、
ずらりと並んだ制服が白でも黒でもないこの光景、実に新鮮。

新制服が制定されてずいぶんになる陸自ですが、ご予算の関係で
いまだに全く全隊員への普及が行き届いていないというのがこれを見るとわかります。

この写真は第7師団の偉い人たちが順番に挨拶しているシーンで、
Kさんによると、装備部長が制服の新旧不統一を謝られ、会場は
大爆笑になったという・・・・。

そういえば、今回高松でお会いした某地本部長は、ついに新制服が調達されたらしく、
何か言って欲しそうだったので、

「良かったですね!お似合いですよ」

と申し上げると、

「そうですか。で、新しい制服の写真を撮らなくていいんですか」

それは俺を撮ってその写真を送れ、って意味ですかね。

 

もはや新制服の調達遅れがネタとなり、コミニュケーションツールと化している
感のある陸上自衛隊の現場ですが、その現状はというと、制定後、
入隊した新入隊員は
全員最初から新制服が与えられ、将官級の偉い人ほど
真っ先に変更を済ませたため、
階級的には上と下からじわじわと調達され、
制服の色が変わっていきつつあるというものです。

そしてこの写真を見る限り、北海道の駐屯地の変更はまだまだ、つまり、

駐屯地に配備されている戦車の数と新制服の配備数は反比例する

=戦車がたくさん配備されているところ(日本の両端)ほど制服の到着は遅れている
という法則が成り立っているものと思われます。

北海道や九州の駐屯地勤務の部隊長クラスに制服がいきわたる、
それは一体なん年後のことになるのでしょうか。
とりあえずの目標は平成のうちに、ということだったと思いますが、
それが果たせなかった今となっては、令和が終わるまでにはなんとか、とか?



さて、海上自衛隊阪神基地隊の開隊記念行事の話です。
海自が民間人にその装備をアピールする際、最も効果的なのは体験航海です。

がしかし、戦車が縦横無尽に走り回ってもどこからも文句が出ない北海道の原野と違い、
公海に船を出すには色々と手続きやらなんやら大変なことが多すぎるので、
開隊行事といっても、
特に阪神基地隊では所属の掃海艇を公開するのが精一杯

この日、岸壁で一般公開されていたのは掃海艇「なおしま」でした。

しかし、何度か行事に参加させていただいたところによると、この
規模の小さな基地隊は、その点、せっかく来てくれる自衛隊支援者のために
「来て良かった」と思ってもらえるような工夫を凝らしているようです。

それについてはまたおいおいお話しします。

なんども見学させていただいているので、今日は岸壁から
機雷掃討具PAP−104を撮影するに留めました。

PAP-104 は、現行の国産掃海具S-10が導入される前、「すがしま」型に
装備されたフランス製の掃海具です。

今掃海艇の主流となっている掃海具S-10はS(掃海のS)シリーズの10番目の型です。
S-1から始まって、今まで10タイプが研究開発されてきました。

もちろんその全部が制式となったわけではなく、10のうち採用されたのは
2、4、8、10の4タイプだけで、そのうち長期利用に至ったのは
2、8、10の三つだけとなります。

こちらの「つのしま」は近づこうとしたら乗員が寄ってきて

「今日は公開しておりません」

先週高松で行われた掃海隊殉職者追悼式に伴う広報行事では
高松港で体験航海を行ったばかりなので、今日はお休みです。

「なおしま」上では乗員が見学者に手振りを加え熱く解説中。

乗艇記念の浮き輪から顔を出して写真を撮っている人もいました。
この、妙に力の入ったポーズをしている男性は行事出席の政治家、
横は令夫人と思われます。

HPの「活動記録」に載せるための写真かな。

阪神基地隊の行事は、建物の二階にある体育館で行われますが、
(一階には50mプールがある)、入り口が狭い階段なので、
開場してしばらくはそこで待たされることになります。

そこで掃海艇の岸壁を一周してきて、今度こそ入場することにしました。

駐車場で発見した大きな海上自衛隊マークをフロントグリルにつけた車。
というか、こんな海自マーク、どこで売ってるの?

会場に通じる階段を上ったところから眺める基地岸壁。
いつもは左側に縦列に係留してある掃海艇ですが、今日は
公開しない「つのしま」を奥に泊めるという変則形です。

こうして見ると阪神基地隊のサイズが小さいのがよくわかりますね。

記念行事の冠を見てもお分かりのように、今年で阪基は開隊して67年。
最初は1952年8月1日、創設されたばかりの保安庁警備隊隷下の

海上保安庁第五管区海上保安本部「航路啓開部」

として発足しています。
つまり機雷掃海のための掃海隊、「大阪航路啓開隊」が創隊してから
一年後の1953年9月16日、

「海上自衛隊大阪基地隊」

が開隊し、今年はそれから67年目ということになります。

 

この9月16日とは行事が今回行われた6月1日とは全くカスリもしないのですが、
これは自衛隊の各種記念行事にありがちな決まりで、本来の創隊日が
9月の台風シーズンなどに当たっている場合、出動に備えることを優先させ、
記念行事を台風の起こりにくい季節にずらした結果なのです。

ちなみに航路啓開のために海保の基地として置かれたあと、
ここが今の名称「阪神基地隊」として再編されたのは1968年の3月30日でした。

ここをベースとしていた掃海隊は、創隊以来、神戸港の浚渫の際、
発見される機雷を掃討することを主な使命としてきましたし、
また、阪神大震災の折には、自らが被災しながらも、現地の海自基地として
被災地での救援、復興、支援業務に携わりました。


会場前の廊下には祝電が張り出してあります。
上の、

「陸上自衛隊関西補給処長

かねて宇治駐屯地司令 陸将補」

というのはわかりますが、下の

「自衛隊阪神病院長 兼ねて川西駐屯地司令」

とは?

小さな基地駐屯地の場合兼任というのは珍しいことではないのかもしれませんが、
病院長兼駐屯地司令って・・・?

検索してみたところ、川西駐屯地というのは伊丹の千僧駐屯地の近くで、
自衛隊地区病院である阪神病院が敷地のほとんどを占め、
ついでに自動車教習所があるようなところだそうです。

それで病院長が駐屯地司令を務めることになっているんですね。
防衛医大を出て駐屯地司令を務めるという例は他にもあるのでしょうか。

ところで、この阪神病院のHPにおける院長の顔写真が実に斬新です。

自衛隊阪神病院 院長挨拶

政治家からの各種電報の中で目を引いた指差しポーズ。

体育館入り口で基地隊司令夫妻や先任伍長、関西水交会会長に挨拶しながら
入場したあとは、どこのテーブルに行ってもいいのですが、
壇上の様子を写真に撮るため、右前方向でスタンバイすることにしました。

関西のレセプションならではの光景で、テーブルの料理には
ことごとく覆いが掛けられております。
これらは、来賓の挨拶が終わり、乾杯の用意ができる頃に、
素早く取り去られておりました

本日の記念行事は、この3月に全国的に決まったルールで、会費を
(3000円)徴収することになり、基地司令の挨拶でも、
わざわざそのことを申し訳なく思う、というような説明がありました。

会費といえば、後になって、

「この日の参加者がいつもより少なかったのは、他の記念行事
(空自幹部候補生学校)とバッティングしたことと会費制にしたせい」

という話を中の人から聞きました。

飲み食いが目的などと思っていないわたしとしては、会費制なら、
つまりぶっちゃけタダで飲み食いできないんならやめときますわ、
という考えの人が世の中に少なからずいるらしいことに驚きました。

いつも豪華で美味しいことで有名な海上自衛隊の料理、これを食べるのは
税金を払っている国民の当然の権利、と思っているわけではないにしても、
それら全てが自衛隊の持ち出しで当たり前、となぜ思えるのか、って話です。

まあただ、そのおかげでこの日の会場内の混み具合は、多すぎも少なすぎもせず、
適正だった上、「そういう人たち」が来なかったせいで料理も行き渡ったようで、
結果としてはよかったんじゃないかという気がします。

さて、開式の時間となり、まずは阪神基地隊司令、深谷克郎一佐が壇上に。
いきなり英語でスピーチを始められましたが、それはスピーチの内容にもあったように、
本日出席の領事など、外国からの招待客への気遣いをされたのでしょう。

阪神基地隊にさらなる支援協力をお願いしたい、という定型句以外には
きょうの料理は隊員たちが早朝から心を込めて作ったものであること、そして
今回特に「そうりゅう」「じんりゅう」がカレーを特別提供していることなど、
料理についての説明をまじえながら挨拶を終えられました。

これといった派手めのイベントは行わない基地だけに、料理やその他演出に
特に工夫を凝らしておもてなししている、という表明だとわたしは解釈しました。

確かに料理も舟盛りがドーンと並ぶ他の基地隊とは違い、海自にしては地味でしたが、
ただし、(これは全くお世辞抜きで)美味しかったです。

特に、ほとんど期待せずに口に入れたサンドウィッチが、
こういうところにありがちなパッサパサだよ!(aa略)というものでなく、
まるで作りたてのようなふんわりしっとりで感心しました。

ギリギリまでかかっていたラップの効果という説もありますが。       

続いては関西水交会長。

ご挨拶の中で、今月末に大阪で行われるG20について触れられましたが、
二日間だけとはいえ、世界中から要人が集まる外交行事なので、
阪神基地隊としてもおそらく一連の警備の一環を担うのでしょう。

阪神基地隊のWikipedia記事にもこのようにあります。

「大阪湾や播磨灘などの警備、監視を行っている。」


さて、ここからがリボンを胸につけた来賓の挨拶ですが、最初に
わたしがかつて今まで聞いたことのない肩書きの方が壇上に上がりました。

(よりによってどういう期待の持たせ方だ)

続く

 




直会〜海上自衛隊 掃海隊殉職者追悼式@ 高松 金刀比羅宮

2019-06-02 | 自衛隊

前々回、冒頭に掃海隊殉職者79名の名前が刻まれた、
金刀比羅神宮の慰霊碑裏側にある金色の銘板の写真をアップしましたが、
それをつぶさに見た方がおられましたら、その中の一人に、
苗字しかない殉職者がいるということに気がつかれたかもしれません。

「後藤」としか記されていない隊員、あるいは保安員。

いつ殉職したのかはわかりませんが、碑石にその名前を刻む段階で
彼はその身元がはっきりせず、しかもそれからずっと、
判明しないまま今日まで来てしまったということになります。

もしどこかの段階でフルネームが判明していたら、必ず後からでも
プレートの空白は埋められていたでしょうから、これはつまり
当時の公的な資料に正確な姓名が記されていなかったばかりか、
他の掃海隊あるいは海上保安庁の関係者の誰も彼の名前を知らず、
さらにはそれを質すべき、そして追悼式に招待されるべき遺族の
居場所もわからないないままであったということなのでしょう。

戦後の混乱期であったとはいえ、そんなことがあっていいものでしょうか。
後藤さんの家族も、自分の息子や兄弟が亡くなったことを
ずっと知らないままだったということではないのでしょうか。

もし、万が一ですが、すでにそのフルネームが判明しているのにも関わらず
碑石の銘だけが手違いでそのままなのでしたら、一刻も早く、後藤さんの
正しい姓名を刻んで差し上げてほしい、と心から思います。

 

さて、令和になって初めての掃海隊殉職者追悼式が終了し、
わたしはバスに乗らず階段を降りて、直会の会場である
紅梅亭まで話しながら歩いて行ったのですが、とにかくこの日は
猛烈に暑く、後から大変後悔した、というところから続きです。

今まで参道途中にある資生堂パーラー「神椿」から登って行ったところ、
それから慰霊式場となる慰霊碑のある広場からバスの乗り場までは
よく知っていますが、慰霊碑から階段を降りて行ったことはありません。

この「虎屋」というのは、江戸年間に建てられた建物をそのまま使っている
讃岐うどんの本店で、江戸時代は金毘羅参拝者のための旅籠でした。

こちらは明治年間創業の旅館「敷島館」
ホテルとしてリニューアルし令和元年8月にオープンするそうです。
(オープニングスタッフ募集のお知らせを見て判明した)

外から見れば旅籠だけど、中は近代的な最新設備、とかでしょうか。

寛永元年から創業の「金陵の郷」というお酒の醸造元です。
注連縄の下に丸いくす玉のようなものが下がっていますが、
これを「杉玉」といい、
お酒ができると緑の杉玉を看板のように店先に吊るして、
それが茶色に変色していくことで「お酒が熟成した」という宣伝の役目を果たします。

この杉玉は十分に茶色いので金陵の郷はすでに熟成ずみ、というわけです。

ここもうどん屋さん。
「中野うどん学校 てんてこ舞」という名前がシュールです。

これ絶対、陸軍中野学校を意識してるよね。
「陸軍中野学校 テンテコ舞い」とか、昔のドリフのネタにありそう。

こちらも建物は年代物で、参道にある建物で一番古く、
1850年、江戸時代に経ち築150年というビンテージ。
調べていませんが、ここも昔は旅館だったのではないでしょうか。

さて、昼食会会場には早く着いたのですが、前記の理由でガーメントを車に取りに行き、
着替えをして会場に駆けつけたら、たった今挨拶が始まったばかりでした。

会費を払った時に席次表をいただいていたのですが、会場入り口で、

「カードお持ちですか」

「あー。いただきましたね確か」(汗)

バッグの中に手を突っ込んでごそごそやっていたら、いつもの、
わたしの守護天使といっても過言ではないウェーブさんが
素早くわたしの名前を席次表から見つけ出してくれました。

戸を開けると、杉本海将がお話の真っ最中<(_ _)>

「掃海隊殉職者追悼式は69回目を迎えますが、
令和になって(わたしにとって)第一回目となります」

という(ような)冒頭のご挨拶に耳を傾けながら席に着きました。

会食に先立ち、遺族の代表である岡崎氏がご挨拶されました。
その内容です。

「徳山防備隊の掃海隊員として機雷掃海作業にあたっていた叔父は、
昭和20年10月11日、大分県沖での任務遂行中、暴風雨の中遭難、
消息不明のまま、空っぽの白木の箱での帰宅となってしまいました。

なぜ暴風雨の危険な海に作業に出たのか。
当時の新聞には叔父の遭難二日前、10月9日、室戸丸が触雷沈没し
死者行方不明二百五十名の記事が、前日の10日には
台風接近の予報の記事が載りました。

11日の作業、そして遭難。

この室戸丸の事故が無理な掃海作業を進めたのでしょうか。

もちろん戦争のない世界が理想なのですが、
機雷、地雷、放射能兵器など、戦争後もあとあとまで
人々を苦しめる兵器がなくなりますように。
新たな追悼式などが行われないような世界になりますように。

私ごとではありますが、中学生くらいから
この追悼式に出席させていただきました
わが息子は、
自分でも海上自衛官を目指すことになり、

護衛艦「ひえい」「かしま」「まきなみ」などで勤務させていただき、
現在は自衛艦隊司令部でお世話になっております。

また皆様のお世話になることもあろうかと思いますが
よろしくお願いいたします。」

昨年、わたしは体験航海で「まきなみ」に乗艦しましたが、偶然にも
その時、中谷氏のご子息はそこで勤務しておられたと知りました。

わたしが到着した時、御膳の煮物の火はとっくに消えていました(´・ω・`)
手前にあるのは梅酒のようですが、梅ジュースです。
食事会ではお酒の類いは出ていなかったように記憶します。


そのご、食事会に出席されている遺族の方々の紹介が行われました。
殉職隊員の殉職日、乗っていた船、殉職者との関係を記します。

昭和20年10月11日「真島丸」 岡崎真文隊員

昭和20年11月16日 海防艦「大東」(三名)

玉城福市隊員 長女夫妻 娘

宮地真二隊員 弟夫妻

中原善治隊員 甥夫妻

昭和21年2月18日「有幸丸」軍原時夫隊員 

昭和25年10月17日「MS14号」中谷坂太郎海上保安官 

 

「大東」の触雷沈没によって殉職した隊員の数は最も多い総員二十六名でした。


中谷坂太郎隊員が乗っていたMS14は朝鮮戦争の機雷掃海任務のため、
元山で触雷沈没しました。
この朝鮮戦争における掃海活動は、非公式ながらも、日本にとっての
戦後初めての「血と汗を流した国際貢献」だったということもできます。

朝鮮戦争で日本特別掃海隊が掃討したのは、北朝鮮の敷設した機雷でした。
元山に敷設されたその機雷によって、アメリカ軍の掃海艇1隻、
駆逐艦、韓国軍の掃海艇など4隻が立て続けに触雷大破し、
それによって機雷の脅威が大きくクローズアップされることになりましたが、
開戦後、カナダ、ニュージーランド、イギリス、オーストラリア、
オランダなどの国連加盟諸国から巡洋艦、駆逐艦が派遣されても

掃海艦艇派出の申し出はどこからもありませんでした。

つまり、その時掃海のできる艦艇はアメリカ海軍の掃海艇21隻、
そして日本で確認掃海に当たっていた12隻だけしかいなかったのです。

そんな状況で、当時高い練度を持つ掃海部隊がたった一つありました。

それが、瀬戸内海や東京湾口などですでに本格的な掃海作業に従事していた
海上保安庁の掃海隊だったのです。


マ元帥が決定した元山上陸に先立ち、米極東海軍参謀副長だった
アーレイ・バーク少将は、海保長官を呼び、現状を訴えて
日本掃海隊の協力を仰ぎました。

その際、バーク少将は、

「元山上陸作戦を成功させるためには多くの掃海部隊が必要であり、
国連軍が困難に遭遇している今、日本掃海隊の力を借りるしかない」

ということを述べたと言われます。

これに対し、吉田首相は、当時アメリカと日本との間に
掃海作業の契約まではなかったばかりか、そもそも
非軍事組織である海上保安庁を戦争下の掃海に派出することになるため、
気乗りしないというかむしろ否定的でしたが、ポツダム宣言を受諾したばかりで
まだ進駐軍の占領下にあった当時の日本で、特にマッカーサー元帥の命には
絶対的な服従が無言のうちに要求されていたわけですから仕方ありません。

結局、吉田首相は海保の掃海艇を朝鮮半島に送ることを決定したのです。

日本としては、講和条約の締結前で、国際的に微妙な立場にあったため、
掃海艇派出は秘密裏に行うことが暗黙のうちに決められました。


前述の中谷隊員が殉職した当時、日本政府では戦死者や戦傷者に対する
補償についての規則を全く定めていなかったため、事故が起きてから
日本側とアーレイ・バーク少将が相談し、
殉職者には「とりあえず」
GHQからの弔問と
補償金が出されるように取り計らわれました。

中谷保安官の葬儀は海上保安庁葬で行われましたが、家族はそれに出席しておらず、

「『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は絶対口外しないように』
と言われ、瀬戸内海の掃海中に死んだことにしようと皆で申し合わせた」

と「苦心の掃海」には、兄の藤市氏の談として記されています。

会食が終わり、今軍事評論家としてもすっかり有名になられた
元呉地方総監伊藤俊幸氏と遺族の方々とが、和気藹々と記念写真撮影。

スマホを向けているのは呉地方総監部の先任伍長です。

終了後、飛行機の時間まで少し間があったので、「神椿」に車を走らせました。
この注意書きの字体は、山門にあった「不届き者」の告知と同じ筆跡ですね。

この「えがおみらいばし」は、くねくねした山道を通ってたどり着く駐車場と、
レストラン「神椿」を結ぶためだけに作られた陸橋です。

よくまあレストランのためだけにこれだけの大掛かりな工事をしたものだと思います。

「神椿」から眺める琴平の鬱蒼と茂った山の緑。
ご覧のように絶景のインスタ映えポイントです。

二階はカフェ、一回はちゃんとしたコースのレストランで、毎年、
呉地方総監部では、立て付けに先立ってここで会食を行うのが慣いとなっています。

冷たい梅ソーダで一息入れてから、空港に向かうことにしました。
「神椿」から下界に降りるまでの道は車もすれ違えないくらいの山道です。

途中にひっそりとお地蔵様の祠が現れます。

さらに進むと、二股に分かれる道の突き当たりに銅像が。
いつも通り過ぎるだけで何だろうと思っていたのですが、今回調べてみると
やっぱり坂本龍馬の像でした。

今回直会でお世話になった「紅梅亭」のHPによると、

当時の琴平は金毘羅と言われ御朱印地であり、隣接する村は天領でした。
当時の高松藩は無類の輩について取り締まる許可を幕府に願い出ましたが
許されなかったこともあり、当時の金毘羅は志士達の潜伏にも好都合で
あったと言われています。幕末には金毘羅へ、吉田松陰、森田節斎、高杉
晋作、桂小五郎など多くの志士たちが訪れたそうです。

また琴平に集中する金毘羅五街道の一つ伊予土佐街道を通って、
「坂本龍馬」も丸亀の道場へ通ったといわれています。

ということで、ここに龍馬の像があるようです。

羽田に向かう機上で見た、三浦半島越しに雲から頭を出す富士山。


戦後日本の啓海任務に身を投じ、道半ばでその人生を終えた
七十九柱の殉職者について、思いを致し、感謝を捧げ、冥福を祈る日が
また今年もめぐり来て、過ぎて行きました。

この日がくると、彼らがその命を贖って私たちに残してくれた安寧の日本を、
どうやったら
後世に送り伝えることができるのか、彼らに恥ずかしくない
日本の国柄のために、ちっぽけなわたし個人にできることはないだろうか、
などといったことを、いつの間にか考えているのに気づきます。

せめて、そういう人たちがいた、ということを今に生きる少しでも多くの
日本人に知って欲しいと思い、ここでもお話ししている訳ですが、
広く物事を伝えることのできるテレビメディアは、それをしないどころか、
たまに取り上げたと思ったら、「国家権力の犠牲になった殉職者」という面のみ強調し、
下手すれば護憲の補強材料として利用しようとするので全く信用なりま
せん。

今回もNHKのカメラが追悼式の様子を撮影していましたが、
わたしの隣の防衛団体の方は、わたしがそれをいうと、

「ちゃんと報道してくれればいいんですけどねえ」

と、全くあてにしていないといった口調で呟きました。

もし、この時の取材をもとにした番組を後日NHKでご覧になったら、
どんな内容だったかを当ブログ宛に教えていただければ幸いに存じます。

 


終わり