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台湾・烏山東ダム~八田與一の妻

2013-01-22 | 日本のこと

            


烏山頭ダム、学術名八田ダムを設計し建設した台湾統治政府の
土木技師、八田與一は子沢山でした。
なんと妻外代樹のとあいだに二男六女の八人の子供を設けています。
ダムが着工して10年、完成したのは1930年と言いますから、
この写真が撮られた1935年、八田は仕事を完成させその名声は高く、
いまなお美しい妻と健やかに育った子供たちに囲まれ、
おそらくは台北で幸せの絶頂にあったのではないかと思われます。

10年後、この夫婦がいずれも不幸な死を遂げることを誰に想像できたでしょうか。



誰もいないので人相は悪いが気のいいタクシー運転手の王さんが、
携帯電話で八田與一記念館の係員を呼んでくれ、中に入りました。
ここは2001年に完成したそうです。
記念館といっても、四方に写真が張られ、大型テレビで説明ビデオ(日本語)
を見るだけのスペース。

しかし、アウトラインをわかっていない見学者には、非常にわかりやすくできたビデオです。
この写真もその記念館に飾られていました。



見れば見るほど美しい、八田の妻、外代樹さん。
どういうわけか、彼女の学生時代の通知表なども飾られていました。

 

年度が上がるにつれどんどん成績が良くなり、
何と卒業時には乙から一等の特甲に。
外代樹さんに何が起こったのか。
彼女は石川県金沢の開業医で、県議も務めた米村吉太郎の娘。
(小村になっているのは、母方の姓を継いだため)
しかも最初から性質は怜悧、勤勉、明瞭、沈着、端正、温良・・・。
考えられる限りのほめ言葉が彼女の人間性を物語ります。

八田與一にとってこの美しく賢い女性は最高の妻であったと思われます。

前回書いたように、1942年、八田はフィリピンに派遣されて向かう途中、
米潜水艦の魚雷により乗っていた太平丸が撃沈し、かれも死没します。

その遺体は一か月後に漁師の網にかかって、台湾に帰ってきました。



しかし、外代樹はそれを知ってすぐさま後を追ったのではありません。
彼女は戦時中、子供たちを連れて烏山島に疎開しており、
終戦までを悲しみにおそらく耐えながらじっと過ごしました。
その間、息子が学徒動員で戦地に赴いていたのです。

戦争が終わりました。
8月31日、長男が戦地から戻ってきます。

息子の生きてかえってきたのを見届けた翌9月1日、
外代樹夫人は送水口に身を投げました。
黒い着物の正装で、飛び込んだ場所には草がをきちんと揃えてあったといいます。



ここです。

戦時中、任務で「戦死」した夫の死を悲しむことは、
他の幾多の未亡人たちがそうであったように
彼女にも許されることではありませんでした。

しかし、戦争が終わり、息子も無事で帰ってきたというのに、
どうして彼女は死なねばならなかったのでしょうか。
戦地から帰ってきて、母を支えようと思っていたであろう息子は、
この母の死にむしろ呆然としてしまったのではないでしょうか。

愛する夫の後を追ったこの日本女性の鑑ともいえる外代樹夫人の死は、
内外に衝撃を与え、今なおその夫婦愛を称賛する声が溢れています。

しかし・・・・、と言っていいのかどうかわかりませんが、わたしには
この外代樹夫人の死はむしろ「緊張の糸が切れた」、あるいは
「これからどうして生きていっていいかわからなくなった」、つまり、
敗戦の混乱とこれからの生活の不安、
ことに夫と暮らし慣れ親しんだ台湾、
夫が心血を注いで作ったダムのある地から去らねばならないという・・・
そういった混沌とした戦後の事情が彼女の不安定な気持ちを
死の彼岸へと後押しした結果ではないかという気がします。

もし、息子が戦死していて、それを知り死を選んだのなら、理解はできます。
夫もいない、息子も失われた、それなら生きていても仕方がない、
そう思ったとしても、ある意味自然なことです。
しかし、息子は現に生きて戦争から帰ってきたわけですし、
さらに彼女には、夫との間に生まれた7人の子供たちもいたのです。
写真を見る限り、彼女が自殺した昭和20年当時、
末の子供はまだ学齢期だったのではないでしょうか。

「それほど彼女は夫を愛していたのだ」と多くの人は言うでしょう。
そして、その愛の深さに今日多くの人が感動しています。
この、夫婦愛の象徴ともなっている彼女の死に今さら物言うつもりはありませんが、
考えれば考えるほど「彼女はなぜ死なねばならなかったのか」
は、重たい疑問を心に残さずにはいられません。

八田與一がそれを知ったらどう思ったかということも含めて。



相当な樹齢を経ているらしい桜の木。
彼女がこの放水口に佇み、その奔流に身を投げたときも、
この木はここにあったと思われます。
この桜の木の下で68年前にそれは起こりました。

彼女自身の魂のために、心から祈らずにはいられません。
彼女と彼女の夫もまた、あの戦争の犠牲者なのです。




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