ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オペラ座の宰相

2010-09-13 | 音楽
趣味はなんですか?

と聞かれると「オペラ鑑賞」と答えます。
音楽関係者なら当たり前だろう、って?
そうとも限りません。
オペラ、というジャンルはクラシック好きであっても必ずしも詳しいとは限らず、演奏家ですら楽器によっては観たこともなかったりします。
しかし逆に、目の前にオーケストラの黒服の集団が並んでいるのを見ながら音楽を聴き続けることができなくても、絢爛豪華な舞台と衣装に身を包んだ歌手がお芝居をする、このオペラという総合芸術であれば大好き、という人は多いものなのです。

今なら舞台の袖に同時通訳の字幕が出ますし、たとえストーリーを全然知らずに行っても映画を見るように楽しめてしまう、もっと人口に膾炙してもいいと思われるジャンルです。

しかし、好きでもオペラを気軽に楽しむ、というわけにいかない最大の理由は「お値段」。

若いとき、清水の舞台から飛び降りるつもりで聴きに行った「フィガロの結婚」「タンホイザー」「ローエングリン」いずれも本場の引っ越し公演で、B席にも関わらず確か3万5千円だったような覚えがございます。

最近になって、ようやく年に何度かのオペラを楽しむことができるようになりましたが、
海外歌劇場の引っ越し公演になると、S席は7万円いたします。7千円ではありませんよ。
それはそうでしょう、舞台装置から、美術スタッフ、合唱のメンバーまでみんな飛行機でやってくるのです。

それも、S席といっても範囲が広いので、取るのが遅かったりすると一階席の最後尾だったり。
もっとも、C席、D席あたりになりますと、ほとんどすり鉢の中を覗き込んでいるようなもの。
歌手など豆粒にしか見えません。
最前列で小澤氏のロマンスグレーをちらちら眼下に見ながら聴いたラッキーな公演もあるにはありましたが。

もう少しオペラを気軽に見られるようにという意図で新国立劇場のオペラ公演はシーズン売りをしており、主役の歌手と指揮者のみ海外から招聘、合唱、オケ、美術は国産ですることによってチケット代を大幅に下げています。


あれは忘れもしない東京文化会館での「アイーダ」の日でした。
その日、市場が大荒れして株価が大割れ、投資をしないエリス中尉には対岸の火事でしたが、投資家たちが真っ青になったというその日の夕刻の会場。
隣の中年女性が話しかけてきて雑談していたのですが市場が大変なことになっている、パソコンを前に頭を抱えてしまった、と笑いながらおっしゃいます。

しかし、そういう方がおそらくたくさんいたのであろう当日の会場は相も変わらず満席御礼状態。
まるで霞を食べて生きているような顔でシャンパングラスを手に優雅にロビーを歩き回りさんざめく紳士淑女の群れ。
S席が七万円近くしたその日のアイーダも、S席から埋まってしまいたちどころに満席となった人気演目でした。

ホールを埋め尽くすオペラファンを目の当たりにして、まだまだ日本は大丈夫、という気になってしまったから不思議です。

世界のどこにこんな高額なチケットを争って買い求める音楽ファンがいる国があると思いますか?

名だたるオーケストラや演奏家が口を揃えて言うのは「日本の音楽ファンのレベルの高さ」だそうです。
理解が深い、マナーがいい、高いチケットでも惜しみなく買ってくれる・・・。
主に最後の理由からだとしても、東京で毎日のように世界的な音楽家がコンサートを行う国、それが日本なのです。

文化が大衆に浸透している、その層が厚い、文化のために投資を惜しまない。
それは「経済」という一面からだけでは見えてこない国力の蓄積にも通じると思うのですが、いかがでしょうか。


さて、冒頭の画像でお気づきかと思いますが、エリス中尉、かつてオペラ会場で小泉元総理に遭遇いたしました。
あれはたしか文化会館でのミラノスカラ座「ドン・ジョバンニ」。
ダニエル・バレンボイム指揮の人気オペラとあって、S席ながら二階しか取れなかったのですが、同じ階の最前列、ずっと空席だったところに二幕目から小泉氏がSPを従えてお入りになったのでした。

会場の空気がさっとそちらに向かって流れ、暗い会場の中にもかかわらず異常なオーラを放つシルバーグレーの背広。
すでにオーケストラピットに入っていたオケの団員も人々の様子に気付き会場をきょろきょろしています。
氏がオペラファンだということは知っていましたが、遭遇したのは初めてです。
総裁選に勝利した直後に現れたオペラでは会場から拍手が起こった、と聴いたことがありましたが、そのときはすでに麻生政権、「元」宰相の小泉氏に拍手は起こらず、皆ただ眺めるだけ。

実際は小泉氏が手すり近くの最前列、SPの皆さんはドアに近い最後列にずらりと並んでいました。
彼らも一緒にドンジョバンニを鑑賞している様子が微笑ましかったです。

クリントン(夫)大統領は、現役時代毎朝やたらジョギングをしていましたが、それを東京に来た時もやるもんだから、日本側の警備が大変だったそうです。
毎日付き合わされているSPは平気だったそうですが、その周りをまた警護しないといけなかったわけで・・いい迷惑ですね。

小泉元首相のSPも、何時間もかかるオペラに仕事とはいえ付き合うわけですから、クラシック嫌いでつい寝てしまう、というような人にはいろんな意味で大変な任務でしょうが、案外オペラ面白いじゃん、ということでファンになってしまった方もいるんではないでしょうか。




「どんな男も首相になると何故か顔がぴかっと輝き、自信のオーラに包まれる」と、その昔宰相を近くで見てきた某氏に伺ったことがあります。
残念ながら、民主政権下の宰相に関してはとてもそう思えないのですが、このときの小泉氏を見て「やはり一国の首相まで務めた人間というものは何か不思議な光に包まれているようだ」と改めて実感した次第です。

政界を引退し、SP無しで好きなオペラに来られるようになった小泉氏に今シーズンももしかしたら遭遇するかもしれません。








映画 勝利の礎

2010-09-12 | 海軍
本日画像は、映画「勝利の礎」で飛行訓練をする兵学校70期生です。

このフィルムは戦後占領軍の命により一本を残して焼却処分になり、その一本は日本海軍を研究する資料としてアメリカに渡っていました。
その後返還され、幻の映画として関係者だけがコピーを所蔵していたのですが、今ではDVDで購入することができます。

この映画で要所要所生徒がアップになります。
監督もアップにする生徒をちゃんと選んでいるようで、関行男生徒を始めきりりとした面構えの青年ばかりです。
「海兵七〇期生徒の受難」の日に関生徒のアップを画像にしましたが、砲術の時間下を向いていてそのうち目を教壇に向けるこの生徒が関生徒だというのはあくまでもエリス中尉の「自己判断」です。
「それ関行男違う」というご指摘は受け付けておりますのでよろしく。

ところで画像の生徒さんは、飛行練習中教官の前に報告のため立たされるのですが、あまりにカメラ目線なので、兵学校の注文でヤラセがほとんどないと言われているこの映画における数少ない演出か?と思いきや、当時日本に二台しかなかった三倍ズームレンズを駆使したものだそうです。しかし監督があえてかれのズームを選んだ理由が分かるような気がする実に憂いを含んだ甘い顔立ちのイケメンで、思わず再生を止めてスケッチしてしまいました。

彼はどんな道を選び、戦争をどう生きたのでしょうか。


いわば兵学校の紹介映画であるこれは、昭和17年海軍省の後援によって制作されました。兵学校の生活と、そこに柱となる「五省」など、基本精神の紹介も兼ねています。
勿論のこと、座学で居眠りしていたり、一号が四号を殴っている様子もありませんから、映像は「よそ行き」の顔である感は拭えませんが、それでも芋の子を洗うような風呂場の浴槽や、食事中にもはじけるような笑い顔が見え、非常に貴重な記録となっています。

映画の、というより兵学校生活を垣間見ての感想を。

まず、みんな実に「男前」です。
勿論、ひとりひとりの顔はいろいろですが、集団となったとき、特に水泳や体操の授業で服を脱いでいると、その均整のとれた鍛え抜かれた肉体の美しさにため息が出ます。
当時の日本人は今ほど背も高くないし、戦後ですら「日本人離れした」が褒め言葉だったというくらいフィジカル的には西洋コンプレックスがあったはずですが、彼らの体は皆しなやかでバランスも良く、全くそんなことを全く感じさせません。
そして、集団になればなるほど、知性や精神の緊張が全体を覆うように、造作など気にならないのです。

兵学校の写真を撮ったカメラマンの眞継不二夫氏が「最も印象付けられた」として、生徒の顔の端正さを挙げています。曰く「これほど揃って整った容貌をもつ生徒が他の学校にあるだろうか。精神的なものの現れた美しさである」


特筆すべきは兵学校の設備です。

当時、一つ一つ焼かせたレンガをイギリスから取り寄せて作ったという校舎には莫大なお金がかかっていました。
授業で使う教材だけでなく、校舎の設備全てが最新鋭でした。
皇族の子弟も学ぶのですから、当然と言えば当然ではあったのでしょうが、入浴のときに映るシャワーからは、ものすごい勢いでお湯が出ています。トイレも勿論水洗でした。

生徒心得には「トイレの水洗の鎖を引っ張りすぎて切らないように」というお達しがあります。勢い余って引きちぎる生徒さんが多かったのでしょうか。

量が少なくて問題となっていた「パンと味噌汁と砂糖」の食事にしても、パンなど食べたこともない日本人もいたことを考えると贅沢なものだったはずです。


それから、服装で気づいたことをいくつか。

このブログ上の画像で「軍帽」というものを何度か描いたとき、鍔の上部、帽子本体部分にプラスティックの細い紐が掛っているのを、飾りだと思っていたのですが、これは艦隊上で顎にかけているのを見て、実用だったのだと知りました。
映画でも艦橋上の士官は必ず顎紐を架けています。

また、江田島名物棒倒しのときに着ている大きく開いたVネック(ラインがお洒落です)の服は、「日本の軍装辞典」によると「棒倒し服」といい、このときだけ着用するものだったようです。
週一回、土曜日だけの恒例行事だったのですが、わざわざこのために制服を作るというのは、兵学校が棒倒しをいかに重く見ていたかということでしょうか。

この棒倒し、いわば「無礼講」なため、日頃殴られている憎き一号に仕返しするチャンス!だったはずですが、実際はローテーションやポジションの関係で下級生徒は一号を殴るどころではなかったそうです。

兵学校ではありませんが、予科練で下で棒を支えていた者が圧死したということもあったそうですから、それは激しいものだったようですね。


日常生活では、朝目が覚めた次の瞬間がばっとはね起きて起床動作をしています。
起床動作は入学当時はどんな早くても5分、遅くて15分かかるようなものですが、すぐに2分半に短縮されるそうです。
眞継氏の写真集の起床動作の写真は、動きが速すぎて人体の動きがぶれて写っています。
なぜここまで限界に挑戦するかのごとく急がせるかというと、全ては「戦闘」を想定しているとのこと。
戦地で朝のんびりしていればあっという間に敵にやられてしまうからだそうです。

起きてしばらくはぼーっとしているのが人間の自然な姿だと思いますが、寝起きの悪い生徒さんはさぞ毎朝、冬などは特に辛かったこととお察しします。


そしていよいよ七〇期の卒業式の日がやってきます。

「裏門(海軍兵学校と書かれた門)から入ってきて正門(船着き場)から海に向かって卒業していく」少尉候補生を見送る草鹿任一校長の目にはなんと隠しきれない涙が浮かんでいるのです。
草鹿校長は、生徒から「じんちゃん」と呼ばれて親しまれていたそうですが、自分が送り出した70期生徒には特に思い入れを持っていたのでしょう。
この年恩賜の短剣を受け最優等で卒業した平柳育郎生徒(賞状が映ります)が、その後ラバウルで駆逐艦文月の砲術長として被弾、戦死したとき、病院に駆けつけて葬儀を見守り、早すぎるその死を惜しむ文を贈っています。

この映画は、拡大する戦線を見越し、足りなくなる士官の早期育成を意図した海軍省が、いわば求人広告の意味で作成したものでした。
海軍兵学校の生徒数は、この映画公開後、倍々のように増えていきます。

72期―625名 
73期―902名 
74期―1024名 
75期―3378名

最後の78期になると、なんと4048名となります。


この中の少なくない人数の青年は、この映画をきっかけとして兵学校生活に憧れ、国家に身を捧げんと海軍を志したのではないでしょうか。




別冊歴史読本 江田島海軍兵学校 写真で綴る江田島教育史 新人物往来社
回想のネイビーブルー 海軍兵学校連合クラス会編 元就出版社 
日本の軍装 中西立太著 大日本絵画 












2001年、9月11日、ボストン

2010-09-11 | アメリカ
その日、ボストンにいました。

日本を発ってボストンに到着し一ヶ月目。
新しい生活の立ち上げに追われる日々が続いていたさなかのことです。

その朝、私はボストンの人気クラシックFM番組を聴くともなく流しっぱなしにしながら家事をしていました。
しばらくして、音楽専門のその番組で暫くの間まったく曲がかかっていないのに気付き、アナウンサーの様子に切迫したものを感じ不審に思ったそのときです。
UPSの配達が来ました。
一か月前船便で送った日本からの小包が届いたのです。

何箱か、もう角が取れて丸くなっている段ボール箱を運んできた黒人のUPS配達人は箱を置くなり
「重いなあ!これ、全部本なの?」
「そうかも・・・。ごめんなさい、重くって」
「ノープロブレム」

そのとき、配達人は一瞬黙ってラジオの放送を聴き真面目な顔になって、
「・・・大変なことになったな」

「・・これ、今気づいたんだけど、What's going on?(どうなってるの)」
尋ねたところ、
「ニューヨークでビルに飛行機が突っ込んだんだよ」
「ああ、そうだったの・・・」

「Sad news. Very very sad」

かれはそれだけ言うと帰っていきました。

当時我が家にはテレビは無く、みんなでニュースを見ているそのときに第二の飛行機がもう一方のビルに突っ込むというような映像を目にしていません。

しかし、2001年9月11日、アメリカに、とりわけテロにあったといわれる旅客機のひとつが出発したローガン空港の近くに住んでいたものとして、あの異様な何ヶ月かの空気を肌で感じる経験をしました。

部屋から見える空はいつもなら見えるはずのローガンに離着陸する機影のひとつもなく、不気味に静まり返っています。
そして、時おり、目の端に見たことのない速度で移動する機影を捕え、驚いて目を凝らすと、それはステルスかファルコンか・・・、空港上空を哨戒する軍用機が異様な角度で方角を変えながら編隊で飛んでいる姿でした。

そのとき、アメリカ中がおそらく息を飲み、静まりかえり、人々が声もたてずに同じ方向を注視していました。
それは、それから遡ること6年前の、あの地震を思い出させました。


エリス中尉は、阪神大震災のそのとき関西にいました。

あの、災害にあった者同士にしかわからない不思議な連帯感を何と言ったらいいのでしょうか。
そのとき、相身互いの痛手を労わりあい、慰め合い、隣人を愛することがごく自然なこととして、まるで大きな庇護の傘の下にいるような・・・。


あの頃、ボストンでも、異邦人であった我々にもはっきり感じられる、非常時ゆえの「不思議な連帯感」―あえて言うなら「愛」が、不気味な街の静けさの中、日を追うにつれて溢れだしてきたのです。

誰が言うともなく、道を行く車に星条旗がつけられ始めました。
家々に、7月4日にしか飾られない旗が翻り始め、道に面した白壁に大きく旗をペイントする人も現れ始めました。

地震災害と違い、今回のものは明らかに(とあえて今はいいます)国家に対する「テロリズム」です。
関西であの日、互いへの労わりあいとして表れた「愛」は、ここでは「愛国心」となったのも、当然の帰結であったでしょう。


町のカフェも前とは変っていました。
ボストンは古い地方都市なので、街の繁華街にあるコーヒーショップもニューヨークやサンフランシスコのようなせわしない雰囲気ではありません。
いつも、そこには地元の老人たちがのんびりおしゃべりとコーヒーを楽しんでいる様子が見られるのですが、9月11日からしばらくは、同じようにカフェに集い、同じように話をしているにもかかわらず、みな一様に手許の新聞を眺め、何故か声をひそめるように小さな声で深刻そうに眉根を寄せて会話を交わしているのでした。


1945年12月8日のボストンは、おそらくこうだったのかもしれない、と当時からほとんど変わらない街並みを持つ古い大学町の人々が「有事」にどう接しているかを見た私は想像してしまったものです。


ほどなくして、入れ替わるように大学を去っていく先輩留学者の家庭からテレビを譲り受け、初めて見た事故のニュース映像は、日本人である私には見るに堪えない映像から始まりました。

アメリカ艦隊に突入する神風特別攻撃隊。


程度の悪いアメリカのテレビ局が制作したものだと思えば仕方がないことなのかもしれませんが、「自爆」という一事を以て、テロリズムと戦闘行為をいっしょくたにすること自体、馬鹿げています。
愛国無罪、という言葉を連想するほどに、あの頃のアメリカは何かに対して突き進み、社会全体が酔ったような愛国の空気に支配されていました。



さて、ここで、一部の方には受け入れがたい話をしようと思います。
事故直後から、本当にあれは外国組織によるテロだったのか?という、主に遺族からの疑問が噴出していたのをご存知でしょうか。

倒れたビルには直前に莫大な保険が掛けられ、いくつかの企業は直前に「ビルを出ていき」、前日不可解な工事がビル内で行われ、その日ビル内の企業のフットオプションが激増していたのを。

飛行機が激突していないビルまで爆弾を仕掛けられたようにその日のうちに倒壊し、ペンタゴンにもショーシャンクスビルにも「飛行機も遺体もなかった」ことを。




あらゆる情報は統制され、事故現場であったことや、事故後の瓦礫の行方すらも秘匿され、科学的に「ありえない現象」について解明をしようとした何人もの学者は更迭。
さらに、その真実について探ろうとしたジャーナリストは、かなりの数が「モーテルで不自然な自殺」をしていることを皆さんはお聞きになったことがありますか?

ここでそれについて詳しく語ることはしませんが、私たちが信じ込まされている「アメリカに対するテロ」などという単純な図式ではとても解明できないさまざまなファクトがそこにはあるのです。


(もし興味があったら、「ルース・チェンジ」というこの事件への疑問を呈した映像を検索してみてください。ニューヨーク在住のアメリカ人によって製作されたものですが、かれは著作権を放棄し、『真実』を広めるため、この映像をダウンロードし広めて欲しいと公言しています)


かつて国益確保と対外脅威への牽制から日本との戦争を望み、真珠湾攻撃を「起こさせた」あるいは「起こるのを待っていた」という過去を持つアメリカにとって、この「WAR(冒頭画像)=侵攻への口実」如何に歓迎すべきことだったか。

そう、「自らその事実をつくりあげたといっても誰も驚かないくらいに」。

その年の終わり、まだ事故の傷生々しい2001年の暮れ。
ブッシュ大統領はこう述べています。
「2001年は私にとって最高の年になった」



これは何を意味するとお思いですか?






映画「炎のランナー」

2010-09-10 | 映画

「好きな映画を3つ挙げよ」と言われたら、迷いなく最初に挙げるのがこの
「炎のランナー」です。

あと二つは、「ショーシャンクの空に」と、最後の一つはその時によって変わりますが、

「リトル・ダンサー」
「メンフィス・ベル」
「アポロ13」
「K-19 ウィンドメーカー」
「シネマ・パラダイス」

のどれかですね。

どうも私は、名画と言うより「男(たち)が何かを成し遂げる」系の映画に弱いようです。
女性が出てくる映画は最後だけですね。

この映画は原題をChariots of fireといいます。
チャリオッツオブファイアとは、聖書に出てくる天駆ける高速の火の車のことで、以前「スピットファイア」の稿でお話に出た、バリー作曲「イエルサレム」の歌詞に出てきます。

主人公、ユダヤ人のハロルド・エイブラハム(ベン・クロス)がパリ・オリンピックでメダリストになるというストーリーに、オックスフォード大学やスコットランドにおける当時の若者たちの姿をからませた、美しい音楽(ヴァンゲリス・パパナサシュー)とともに永遠の名作だと思います。


この映画で私が愛してやまないシーンが二つあります。

一つは友人の青年貴族リンジー卿が広大な屋敷の庭でハードルの練習をするシーン。
執事がハードルのバーの端に一つずつ置かれたグラスにシャンペンをなみなみと注ぎます。

「こぼれたら教えてくれ」

といって純白のガウンをはらりと落とし、金髪をなびかせて駆けるリンジー卿(ナイジェル・ヘイバース)。
実在のリンジー卿も、銀メダルに輝いています。

もうひとつは、今日画像のシーン。

ハロルドがユダヤ人ゆえ、表向きはともかく、何かにつけ陰でしんねりと批判をする学長はじめ大学関係者ですが、ハロルドが個人で雇ったコーチ、ムサビーニ(イアン・ホルムス)がアラブ系イタリア人であると聞き、眉をしかめます。

(余談ですが、この批判的な描き方のため、オックスフォード大学からは、学内でロケーションをする許可を得られなかったそうです)

ハロルドにスプリンターとしてのノウハウを教え込んだコーチ、ムサビーニは、競技場に入ることすら許されず、近くの安ホテルで競技のスタート時間を迎えます。

息をつめてスタジアムを凝視するムサビーニ。

スタートの砲声のあと、湧きおこる歓声ののち目に入ったのは「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」とともに翩翻と揚がるユニオンジャックでした。

「我が息子よ」

そう言ってムサビーニは持っていた帽子を拳ででぶち破ります。


実在のハロルドは、その後、弁護士として成功し、長寿を得て亡くなりますが、その葬儀のシーン(冒頭とラストシーン)で「イエルサレム」が歌われます。


ところで、この映画は、美しい映像とサクセスストーリーの中に、イギリス上流社会の、上流ならばこそ厳に存在する階級意識と差別を、さりげなく訴えています。
ハロルドのライバル、スコットランド人のエリック・リデル(イアン・チャールスン)の宗教問題や、主催国フランスに対する意地などにもそれはわずかに現れます。

この映画のプロデューサーはその名を「ドディ・アルファイド」と言います。
この名前にお聞き覚えは無いでしょうか。
そう、1997年、イギリス皇太子妃ダイアナとともに事故死した男性です。
彼はムサビーニと同じく「アラブ系」イギリス人でした。



イギリスの権威の象徴である王室の女性に近づいたアルファイド氏も、はたしてこのような上流階級の中の疎外感の中で生きて来ざるを得なかったのでしょうか。

炎のランナー - goo 映画


芋を掘る理由

2010-09-09 | 海軍


お待たせしました。

って、誰も待っていないとは思いますが、海軍さんのイモ掘りについてです。
しかし、このテーマについては膨大な事例があり、
一回の記事では考察しきれないのが現状です。
したがって、今日はとりあえず「第一回」ということで。

このブログに「笹井中尉 イモ掘り」の検索で来た方、見てらっしゃいますか~?
今日は残念ながら笹井中尉の話ではありません。


さて、いまさらとは思いますが、酔っぱらって器物損壊したり、
芸者を投げ飛ばすことを海軍隠語で「芋を掘る」といいます。
このようなニッチな言葉ができること自体、
その行為がいかに正当化されていたかがわかりますね。

・・いや、正当化されていたわけでもないんでしょうが、
現代では考えられないほど、まっとうな人たちが、
半ば嬉々として?これをやっています。

しょっちゅう襖を破られたり、火をつけられたり、
体落としを喰らったりしている海軍御用達のレス(料亭)やエス(芸者)は
「お国のために戦ってくれているんだから、これくらいしかたない」
と、物事を公にしなかったのでしょうか。

そして、必ずと言っていいほど被害を受けたのが「池の鯉」
なぜか池に踏み込んで鯉をとるんですよね。
鯉もえらい迷惑です。
しかし少なくとも、海軍さんがそれで罰を受けたり、
レスから訴えられたなどと言う話は聞いたことがありません。
(聞いたことがないだけで、公にならなかっただけかもしれませんが)

最も、これは海軍基地のある「お膝元」での範囲で、
陸軍のシマだったり軍人など見たことがない、という盛り場では
やはり問題になるため、さしもの海軍さんも遠慮したようです。
ホームグラウンドは暖かく見守るというか、大目に見られていたため、
海軍さんたちは心おきなく?イモ掘りができたもののようです。

さて、器物損壊や酷い場合には傷害にまで及ぶには、
いくらなんでも、その理由やきっかけがあると思います。

今日はこの理由についてです。


エリス中尉が色々海軍関係で集めた本の中には何冊か漫画本も混じっていて、
その中に「零戦激闘伝説 謎101」(学研)というのがあります。

(余談ですが、エリス中尉、マンガは、主にオンラインで買ってPCで読んでいます。
だって、かわぐちかいじの「ジパング」なんて、全40巻くらいですよ・・・。
5冊づつ買って今30巻まで進みました)

さて、この本に、エリス中尉の好きな絵柄の作家さん、
松田大秀氏の「”斜め銃”の男」という短編があるのですが
(タイトルは勿論ご存知小園安名大佐のことです)
この最初の出だしが、レスで別の座敷にいきなり乱入、
その理由が「芸者をひとりじめしやがってけしからんから」奪いにいく、というもの。

んん?この話はどこかで・・・。

海軍予備士官であったH大尉の著書に、このエピソードの元になったと思われる話を発見。

戦闘で消耗が激しい毎日の一時の憩いを求めて、
H大尉のいる飛行隊の皆さんはある日「H」というレスに繰り出しました。
ところがその日に限って帳場の「すぐ行きます」という返事にもかかわらず
エスが姿を見せないのです。
各部屋を偵察してきた隊員の、他の部屋で芸者を占領している奴らがいる、
というけしからん報告を受け、大尉たちは
「それではご挨拶に行こう」とその部屋に押しかけます。

「戦闘○○○飛行隊がご挨拶に参上!」

と芸者を連れ出そうとすると、相手も阻止しようとかかってきて、
殴り合いの乱闘になってしまったそうです。

漫画では芸者と彼女を連れ出した中尉が

「潜水艦乗りなんだって。今日の宴会の人たち。
明日はフィリピンに向けて出港するのよ」

「ドンガメか・・・。フィリピンは無理だな。台湾あたりでボカチンだぜ」

と会話するのですが、これも、この本の

「そのときの相手は、潜水艦の乗組員だったということを聞き、
本当に悪かったとみんなで反省はしたものの、後の祭りになってしまった」


という本の一節からの創作と思われます。


H大尉がこのとき積極的にイモを掘ったのかどうかは書かれていません。
血気盛んな若いときのこととはいえ、戦後教育者として生きてこられた
人格高潔、人品骨柄春風のごとき大尉にそんな時期があったことさえ
想像しにくいことではあるのですが、
実はこの少し前に「イモ掘り初陣」についての大尉の述壊があります。

H大尉がレスだのエスだのをあまりご存じなかったころ、
歓迎会で件の「H」に初めて行くことになりました。

最初こそ「エスとは綺麗なものだ」とのんきに感心していた大尉、
宴たけなわになって同僚が廊下で暴れたり、池に入って鯉を捕まえたり
「正気の沙汰ではない」という状態になってくると、
ひとりだけ「正気」でいるのもおかしなものだという理由で
「酔ったふりをして暴れてみた」のだそうです。
こういう理由で付き合い良くイモ掘った人もいたんですね、きっと。

で、ご感想は?

「エスが本気で止めに来る。これは、いいものだと思った」
「たまにはイモを掘るのも良いものだと思った」

・・・それはよかったです。

ちなみに「ドンガメ乗り」の宴会イモ掘りについては、
次の日、隊に憲兵が来たそうですが、飛行隊長の
「搭乗員の代わりを連れてきたら(犯人を)引き渡してやる」
という一言で治まってしまったそうです。

海軍が、レスを指定したり「遊ぶのはブラック(玄人)」と限定して制限を設けつつも、
比較的おおらかに遊びを推奨していたのは有名ですが、
あり余る若さの爆発と、消耗する精神のバランスを取るひとつの方法としてのイモ掘りを
世間も含め周囲が黙認していたことも、ほぼ間違いないかと思われます。

ただし、地域限定。



<第一回考察終わり>










海兵70期生徒の受難

2010-09-07 | 海軍



昭和17年、海軍省後援で製作、公開された映画「勝利の礎」には、
当時一号生徒だった海軍兵学校70期の生徒の生活ぶりとその卒業式までが写っています。
「よく撮っておいてくれたなあ」と思わずにはいられない生々しさで、
棒倒しや授業、カッターや水泳など、兵学校の生活がモノクロの映像に再現されます。

この70期にはご存知菅野大尉や、特攻一号で散った関行男大尉がいます。
本日画像はこの映画に大アップが映される座学授業中の関大尉ですが、
本日の内容とはあまり関係ありません。

いや、あるかな(^^ゞ

「海兵67期の花物語」の日にもお話しましたが、
この70期が入校したときの最上級生は「お嬢さんクラス」の67期でした。
紳士的で「殴らず指導する」と協議した(校長からの指導であったという説あり)
67期のもとで、70期は比較的平和な生徒生活を送れるやに思われました。

ところが、そうはいかなかったのです。

問題は68期です。
ご存知土方クラスの68期は、59期から連なる「鉄拳の系譜」の継承者として、
一号として江田島に君臨する日を待ち望んでいました。
何度か書いたと思いますが、68期生徒は「殴らない67期」に不満を抱いていました。

「自分たちだけが殴られて損だ」「殴られたからには殴らなければ収まらん」

まるで姑に苛められた嫁が姑になったとき嫁を苛めるように・・・。

いや、このたとえはかりにも栄えある海軍将校生徒に対して失礼かもしれませんが。
とにかく豊田穣氏も書いているように

「殴られるかどうかは兵学校の生活において大きな問題だった」

のです。

兵学校では「鬼の一号、むっつり二号、おふくろ三号、がき四号」と言われました。

むっつり、というのは、一号ほどの絶対的権限もなく、
三号ほど下級生の面倒を見なくてもよい、勿論四号のようにしごかれるわけでもない
二号の比較的気楽な立場を言いあらわしたものですが、
68期がその「むっつり二号」だったとき事件は起こりました。

一月ごろ、67期の一号が、艦隊練習で一週間だけ江田島を留守にしました。
その一瞬、68期が本性をあらわしたのです。

「お嬢さんの67期生徒のやり方が手ぬるいから貴様ら70期はたるんどる!
しばらくの間我々が修正しなおす!」

と言い放ち、むっつりのはずの二号が四号を殴り始めたのです。


70期生徒の入学は、異例の12月でした。
年のうち、もっとも厳しい季節に兵学校生活を始め、心身ともに消耗していた70期の四号は、
いきなり牙をむいた二号に殴りまくられ、さぞ目を白黒させたと思われます。
一号生徒が帰ってきたときは、胸に飛び込みたいくらいの気持ちではなかったでしょうか。
現に一号の帰校とともに68期はもとの「むっつり」に戻ったそうです。

しかし。

70期の受難はそこで終わらなかったのです。
海軍で最も楽しいのが連合艦隊司令長官と艦長と一号生徒、というくらい、
兵学校生徒は最上級生になるのを楽しみにしていました。
68期は特に殴る大義名分を手にするその瞬間を扼腕して待っていたわけです。
本来ならば、何も知らずに入学してくる犠牲者の71期生徒を気の毒に思いつつも
高みの見物を決め込むはずの70期だったのですが、68期はそんな生易しい連中ではありません。

67期の卒業はその年の夏でした。
しかし、12月まで新入生は入ってきません。
最下級生徒は相変わらず可哀そうな70期です。

もうおわかりでしょう。

殴っていい一号がなかなか入ってこないので、68期は
「お嬢さんの67期生徒のやり方が(以下略)」と言う理由で4ヶ月間、
ここを先途と70期の鍛えなおしをしたのだそうです。(T_T)

本来お嬢さんの末裔であるはずの70期ですが、そのわりには菅野大尉や関大尉はじめ、
「殴る生徒」が多かったのは、この「複雑な育ち方」のせいだとも言われています。

というか・・・68期のせい?

関大尉にいたっては、70期とは入学時期の関係で江田島では合いまみえなかった
「幻の四号」である73期生徒を、なんと戦地で会った際「殴って鍛えなおし」ています。

勿論、決して殴らなかった鴛渕孝大尉のような生徒もこの68期だったわけですし、
殴らないとされた67期の中にも「適当に殴っていた」生徒もいたそうですが。


江田島の「鉄拳制裁」は、日露戦争ころから持ち込まれたものと言われています。
その後、何人かの校長がこれを禁止するのですが、その校長が代わるとすぐに
「必要やむを得ざるもの」として復活したそうです。

校長自身が「如何に殴られたか」にも関係していたのかも知れません。







参考:「最後の撃墜王 菅野直の生涯」碇義朗著 光人社
「 江田島教育」豊田穣著 新人物往来社
   「海軍兵学校よもやま物語」生出寿著 徳間書店
   「戦記クラシックス 江田島海軍教育」 太平洋戦争研究会編 新人物往来社 




タイタニック設計図を手に入れる

2010-09-06 | つれづれなるままに


かねてから知人に「タイタニックの設計図を額装して差し上げますよ」
とありがたいお言葉をいただいていたのですが、週末、それがやってきました。

1923年、氷山と衝突して沈没したタイタニック。
映画化のずっと以前、子供の頃からエリス中尉のタイタニックに対する興味はつきませんでした。

設計主任であったトーマス・アンドルーズが暖炉にかかった絵(入港する船の絵)を沈む直前に眺めていた、というエピソードや、脱出を拒み夫と船に残った名士夫人、タキシードに着替え、上等の酒を飲みながら悠揚として死出の旅についた一等船客、そこでおこったさまざまな人間のドラマを読みふけったものです。


そのタイタニックの設計図。
当時の設計図はキャンバス地を目止めした上に書かれた数千枚の物ですが
長期間の保存で劣化しており、公開、複写はほぼ不可能だと言われています。

しかし、そのうちの一枚のコピーを所蔵している日本人がいたわけです。

この設計図はよく言われる「設計図」ではなく、rigging plan、つまり艤装設計図と言われるものです。
つまり、何枚かある設計図のうち、マストや帆を支えるロープやチェーン類一式についてのみ設計図に描きこんだもの。

いずれにしても、設計図そのものが門外不出(映画のときオリジナルの青焼きがされたそうですが)となっている現在、貴重なものであることには間違いありません。

おまけに、これを下さった方は青、白、黒の三色で一枚ずつ刷ってくれました。

考慮の末、黒を選択。
白はオリジナルっぽいですが、黒の方がアーティステックでインテリアには映えます。

大きさは、80×200。
これを巨大な木材で額装したものを壁に吊るものですから、当然プロに依頼しました。

驚いたことに、平行に補強木材を取りつけるのに、このような兵器を繰り出してきまして、壁に平行、垂直線を投射するんですね。
こんな現場初めて見たので驚いてしまいました。

作業中。額には保護フィルムが貼られています。
額の木材は、家の建材に近いものを下さった方のおられる西日本某地方まで脚を運び、現物を見て決定しました。
その甲斐あってまるで誂えたように建材と色が一致しました。

作業終了。

船首部分です。光ってしまい見えにくいですが。

さて、ここで海軍ファン、とりわけ戦艦ファンの方を羨ましがらせてしまおうかな。
実はですね。
いただくお約束をしたのはタイタニックだけではないんですよ。

戦艦大和の設計図も、今後いただける予定なんです。

蛇の道は蛇、というと人聞きが悪いですが、これを下さった方は、タイタニックとは全く別ルートの「戦艦オタク」(名前は特に秘匿、とのこと。その道では有名な方なのかも)から、大和のコピーも手に入れ、所蔵しているのでした。
タイタニックを見に行って大和があるのに気付き、こちらが欲しい!とひそかに思っていたのですが、こちらの方が何やら秘匿性の度合いが重くて、なかなか言い出せなかったのです。

その後、大和についてはさりげなく?
「大和はダメなのかなあ」
「コピーだけで、額装は要らないんだけどなあ」
「写真だけでもいいんだけど」
「何なら写メールでも」
としつこくしつこくTOに伝言を頼んでいたのですが、TOがおそるおそる頼んでみると
このタイタニックより1メートルも大きい大和設計図を、額装の上いただけることになってしまいました!!!

復元された設計図(こちらも今やぼろぼろでコピーは不可能だそう)の一次コピーを持っておられる方に許可を得てあらたにコピーしてくださるとのこと。
今日許可がもらえたと連絡をいただきました。

なんでも、「戦艦など部屋に飾りたがるようには見えなかった」ということで、提案すら思いつかなかったそうです。

今日は、大和をどこに架けるか、という件についても話し合いをしたのですが、スペース的には廊下と、このタイタニックをかけたリビングルームのどちらに大和をかけるかについて議論が紛糾。

3メートルの大和を廊下にかけると全体像が見にくいから、リビングに架けたい、と私。
ところがTOは「まあでも、戦艦だし~(TOは全く海軍に興味なし)、それに沈んでしまってるし」

どっちも沈んでるってば。

結局、大和は重量も半端でないので、廊下の壁をくりぬいてニッチを作り、壁に埋め込んでしまう、ということになりました。
二日がかりの大工事ですが、大和のためなら致し方ありません。

「そんなに欲しいんだ・・・大和」

見知らぬヒトを見るようなTOの目が突き刺さって痛い。


戦艦大和が来たら、写真アップしますね。



帝国海軍の武士道

2010-09-05 | 海軍人物伝

八月二五日の日経新聞朝刊に、このような記事がありました。

旧陸軍将校による『ユダヤ人 命のビザ』

外交官杉浦地畝が亡命するユダヤ人のためにビザを書いたその二年前。
旧満州国と旧ソ連領国境で立ち往生した大量のユダヤ人の受け入れを、当時赴任中だった
旧陸軍少将樋口季一郎が指揮した、というものです。
このときの受け入れルートはその後もユダヤ人難民の命綱となり、救われた総数は数千人に及んだ
と言われています。

外交官と違い、軍人であったため、樋口氏の功績は全く秘匿されたまま今日まで来たわけですが、
なによりもそれは本人が生涯その事実を黙して語らなかったためでした。
サイレント・ネイビーという言葉がありますが、武士道の体現者たる日本の軍人には
陸海問わず「功を語らず」という精神を重んじる人が多くいました。



戦争は人間のもっとも醜いものを露わにしますが、人間の最も美しい部分を浮き彫りにすることがあります。
そして、海の上にも海軍の武士道精神がいかんなく発揮された事件がありました。


昭和17年、英国極東艦隊はジャワ沖にて日本帝国海軍と激突。
帝国海軍の勝利により、連合国艦隊は壊滅しました。
このとき駆逐艦エンカウンター、旗艦重巡エクゼターは沈没、両艦艦長以下500名は海に投げ出され、
漂流していました。

体力と気力の限界に来ていた集団の前に日本の駆逐艦が近接したのは、
沈没から一日が経った3月2日のことです。
エンカウンターの砲術士官であったサムエル・フォールが機銃掃射を受けることを覚悟し、
両手で頭を庇ったとき、彼の目に入ったのは駆逐艦のマストに上がる「救難活動中」の国際信号旗でした。
まさか、と目を疑う思いのフォールは、続いて帝国海軍の水兵が全速力で縄梯子を下ろし、
救命ボートの準備をしているのを認めます。
帝国海軍駆逐艦「雷」が、艦長工藤俊作中佐の命令でスクリューを全力逆回転させ停止し、
さらに敵兵を艦に助け上げるために必死の救助活動を行っていたのでした。



当時、戦闘海域での救助活動がいかに困難で危険を伴うものだったか。

艦を停止することによって敵戦闘機、潜水艦の格好の標的となるのはもちろんですが、
艦の人員が増え、、重病人の看病で戦闘活動が制限され、かつ敵兵の反乱の可能性も起こり得るわけで、
味方の救助ですら軽傷者のみ、というのが戦時の海では常識だったほどなのです。
実際、救助活動中に攻撃を受け沈没した事例も少なくなかったといいます。

さらに言えば、米国海軍の多くは、救助中の艦はもちろん、病院船まで攻撃、
脱出し漂流する看護婦にまで機銃掃射を加えています。


 しかし、基本的に帝国海軍は違う立場をとっていました。
雌雄を決した後は敵残存艦船による救助活動はいっさい妨害せず、極力敵将兵を救助し、
かつまた、敬意を以て遇しました。

雷に収容されたフォールはさらに甲板の上で信じられないものを見ます。
それは、自力で船に上がれない者のため、水兵が海に次々と飛び込み、ロープを巻いて引きあげ、
さらには重油にまみれた彼らの体を洗浄し、衣服や食べ物を与えて慰労する敵兵でした。

日没直前、前甲板に集められた英国海軍士官の前に工藤艦長が現れました。
彼は端正に海軍式敬礼を行い、さらに次のようにスピーチします。

" You have fought bravely.
Now you are the honored guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy."


(諸氏は勇敢に闘った。今や諸氏は我が帝国海軍の名誉あるゲストである。
英国海軍に敬意を表する)

このことを、工藤中佐は終戦後も、家族にさえも黙していました。
中佐は昭和54年、78歳で世を去ります。
砲術士官フォールがサー・サミュエル・フォールとして66年後、日本を訪れ
「あのときの駆逐艦雷の艦長に逢いたい」と申し出なければ、
この事実は誰にも知られることはなかったでしょう。


それにしても、この話を語るとき、いかにもあの非道な戦争の中で、この工藤艦長だけが特別であった
というような言い回しをする論調が今のメディアにあるのには不満を感じます。

日本のシンドラー杉原千畝、さらに冒頭新聞記事における樋口少将。
彼らは決して「非道で無情だった日本の軍や政府の中での反乱分子」ではなく、
我が日本の武士道精神を受け継いだ継承者ではなかったでしょうか。

実際、ユダヤ人の救済に対し抗議を申し入れたナチス・ドイツに対し
「特定の民族の迫害は八紘一宇の国是に反する」と彼らの送還を拒否したのは
他でもない日本政府です。


工藤艦長は海兵時代、鈴木貫太郎に教えを受けています。
鈴木校長は
「四海同胞」
(四方の海にある国々はみな兄弟と思う世に何故波風が騒ぎ立てるのだろうという
明治天皇の御製からの言葉)の精神を引用し、敵を尊重する精神を工藤らに教え込みました。

そのときかれが工藤らに特に強調した、
水師営の会見における敗将ステッセル以下ロシア軍への帯刀の許可を引くまでもなく、
鈴木自身が武士道における「惻隠の情」の体現者であったことは、鈴木が首相時代死去した
ルーズベルトに対してその死を悼む談話を発表し、トーマス・マンを始めとする世界に
感銘を与えたことにも現れています。



我らがサイレント・ネイビーが彼らの墓まで持って行った武士道精神の賜物は、
たまたま拾いあげられ人の目にふれた工藤中佐の話だけにはあらず、そしてそれは、
あまたの美しい貝のように、今はひっそりと海底に眠っているものと私は信じます。






「海の武士道」 恵隆之介著 産経出版 
「敵兵を救助せよ」恵隆之介著
「ありがとう武士道」サム・フォール著 麗澤大学出版会
「世界に愛された日本」激論ムックより「命がけの武士道」
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昭和16年夏の敗戦

2010-09-04 | 日本のこと

テレビを見ないエリス中尉の方が、NHKでしか国会中継を見たことがない人より国会でどんな質疑が交わされているか知っている、と言ったら意外に思われるでしょうか。
インターネットではその日のうちに国会の模様を(テレビ放映されていなかったものでも)全編見ることができます。
夜のニュース番組のように恣意的な編集ができないからでしょうか、NHKはときどき「重要でないと局が判断した」という言い訳の下に中継をしなかったりします。

すでに、この対応で「ネットの情報が一次ソース、テレビは二次ソース」ということを決定付けてしまい、ネットを「当てにならない」ということにしたいテレビ的には全く木を見て森を見ない愚かな行為だったと思うのですがね、
NHKさん?


さて、先般行われた選挙後の8月12日、衆議院予算委員会での石破茂氏の質疑です。
氏が冒頭にこの猪瀬直樹氏の1983年、昭和53年に書いたノンフィクションを紹介しました。

「昭和16年の敗戦」

27年前の作品ですが版を重ね読み継がれ、この夏あらたに再発行された名作です。
石破氏はその本の内容の説明から質疑を始めました。
(国会中継の動画ページからの注文で某ネット書店では一時この本が品薄になり発注ができなかったそうです)


昭和16年、開戦の年、当時平均年齢30歳の武官(陸海大出の大尉あるいは少佐)高等文官、企業、教諭、ジャーナリストの中から選抜された選りすぐりの精鋭を集め「総力戦研究所」が発足しました。

彼らは総理大臣、外務大臣、陸海軍大臣と役を振られ、模擬内閣を結成。
持てる知力を尽くし「日米もし戦わば」をシミュレーションします。

「青国政府内閣」総理大臣はある日研究所教官にこう宣言します。
「開戦はできません。そういう結論です」

そして、それでは演習質疑はできない、と教官に言われ、「開戦したという想定で」シミュレーションを続けた青国政府は、あらゆる討議を繰り返します。

「『ソ連参戦』を座して待つか、もはや石油備蓄も底をついた。佐々木は両手をあげた。思わずギブアップのポーズをとり教官にたしなめられた」

佐々木直は「日銀総裁」。戦後「日本国政府」で実際に日銀総裁を務めることになります。

「『アイ・アム・ソーリー(残念だ)』と佐々木がいうと『俺こそアイ・アム・ソーリ(総理)だ』と窪田は苦笑い。わずか四十日あまり。彼らはタイムトンネルの中を駆けめぐり、焦土の風景の中に立ちつくしていた」


近衛文麿、東条英機の前で発表されたその「敗戦」は、ソ連参戦、原子爆弾投下を除き実際の開戦から日本が辿った敗戦への道と全く同じであったそうです。


さて、石破氏が何故この本の内容を国会で紹介したか。
続いて氏は総理にこのように質問をしました。

「文民統制とは何か。それが有効に成立するためにはどのような条件が必要か」

管総理の答弁です。

「まー、あたしのぉ、考える文民統制いい、基本的にはー、国民が・・・・(十秒沈黙)軍事についても最終的に判断する、とー、しかしー、現実の社会にで言えばあ、軍事組織にー、属さない政治家ーーーが、民主的な手続きの中で判断する、それが、文民統制だと思います」

二十秒で言えることをくだくだ(管々?)と(笑)

石破「有効に成立するためにはどのような条件が必要ですかっ」(-_-メ)
管「何かー、口頭試問を受けている気がしますが・・・、私なりの考えでいえばあ、民主主義が成立をしやはりいろいろな発言の自由が保持されているー、手続きとしては一般的に言う議会制度とか―そういうモノがきちんと機能しているーそういうことだと思います」

石破先生の正解です。

文民統制
一、軍隊が強大な組織であるゆえにたとえばクーデターなどの暴走を防ぐ
一、軍事を利用した国益、安全の確保

そして機能する条件とは
一、最高責任者である総理が国防、安保についての正確な知識を持つ
一、専門家である軍つまり自衛隊制服組の現状認識と考えに耳を傾ける



つまり、冒頭説明した「昭和16年夏の敗戦」の話がここでフィードバックされるわけです。
石破氏はあえてその話に触れず話を進めたので、鳥頭の総理がフィードバックしたかどうかは疑問ではありますが。

総力研究所の模擬内閣の彼らが事態を曇りない目で見抜き、データだけを虚心坦懐に突き詰めた結果予測したものが全くその後の歴史をそのまま再現したものであったという事実は、いかにタテ割り行政にとらわれない情報の汲み取りが大切か、ということにつながるという論旨だったわけですが、総理の答弁は

「そういう機会はできるだけ早い段階で設けたいと思います」


今まで設けなかったから大変なことになってるって言われてるんだろうが。



「緒戦、奇襲攻撃で勝利するが、国力の差から劣勢となり敗戦に至る」


こう予言した「青国政府」の「海軍大臣」であった海軍少佐の志村正は12月8日、実際の開戦に際し「警視総監」に向かってこう言ったそうです。

「真珠湾奇襲の大戦果の報道で国民は有頂天になっているが、国民も為政者もわれわれ軍人の大部分も余りにもアメリカの実力を知らなすぎるよ。褌担ぎが横綱に挑戦するようなものだ。全く無茶な戦争を始めたものだ」

しかし、そう言ったその口で同じ日、別の研修生にこうも言うのです。


「敵艦に体当たりして死ねたら本望だなあ」

模擬政府における強硬な開戦反対論者だったかれは、戦時中は憲兵隊から要注意人物としてマークされ、復員後は立身出世と無縁の市井の人として生きたとのことです。












小園安名大佐~若葉の頃訂正

2010-09-03 | 海軍人物伝
やってしまいました。

若葉の頃の題で、漢口攻撃における小園安名を、若葉マークだと書いた記事ですが、これは全くの事実誤認でした。

1938年の漢口での中華民国軍との空戦のとき、小園安名は少佐。
そして、1902年生まれの小園少佐はこのときすでに36歳。

小園少佐をこのとき「隊長」と呼んだ相生高秀氏は海兵56期、小園少佐は51期ですから、大村航空隊、「赤城」佐伯航空隊と分隊士、分隊長を歴任してきた少佐もこのときすでに「現役で飛行機にはほとんど乗っていない」時期でもあったわけです。

ゆえに、当時新型の九六戦に乗り慣れていない。
相生大尉(当時)が、「やめてくださいよ」と笑った、というのは、そういう隊長であるにもかかわらずはりきって実戦に出ようとしていたのでかなわんなあ、と・・・まあ、そういうことです。

年表も確かめず書いてしまったので、相生大尉との年齢差が合わないな、と思ってはいましたが、ご指摘があり、ここに訂正とお詫びをさせていただきます。

若葉の頃の初々しい小園中尉ではなく、もうすでに「あの」小園安名だったわけで、そう思って読むと、それはそれで微笑ましい?エピソードではあります。
ではなぜ画像を相変わらず若葉の頃の小園中尉にしているのかって?

この画像が好きなんです、単に。


小園安名は鹿児島生まれ。
「ぼっけもん」の本場に、まさにキング・オブ・ぼっけもんとして生まれました。

怖ろしく頭がよく、しかし、勉強はほとんどしない、という直感型の天才タイプだったようです。
海軍兵学校には四年で合格。
「背が低いから潜水艦か飛行機乗りになれ」
と海兵二号生徒のとき教官から言われたそうですが、その後ワシントン軍縮会議で日本の主力艦隊の保有量が米英両国の六割に抑えられたため、海軍の兵力低下を補うために航空兵食を充実させる、という世論が沸騰したこともあり、航空へと進みます。

勉強より偉人伝を読みあさり、そこから猛然と「国体維持」を至上とする思想問題に早くから頭を突っ込んでいたという小園は、教え子が五・一五事件に連座していたことから上層部に睨まれ、大尉から少佐への昇進を六年間もストップされています。

そして、思想問題とともに傾倒し、彼が早くから訴えていたのが「戦艦無用論」でした。

訓練の最中、視察に来た山本大将と大西滝治郎の後を追いかけてまわり、
「閣下、戦艦大和の建造は即時中止すべきであります。これだけの建造費を戦闘機に回せば、優に一千機が作れます」

高官が来るたびこれを繰り返すので、ついに彼らは小園が近づくと体のいいことを行ってその場を逃げ出すようになりました。
しかし、その気骨と気概は山本五十六の目には特別なものとして映っていたようです。

教官としてはどうしてもうまく操縦できない生徒がいると、一人乗りの機の後ろに無理やり乗り込み指導をするなど、熱心というより非常に「熱い」教官だったようです。
そして「若葉の頃」、副長時代の山本大将が「気を引き締めるため下士官以下全員坊主」を命じると、士官である小園少尉は真っ先に坊主頭になって、山本副長が「士官の貴様に坊主になれと言った覚えはない」というと
「長髪は操縦の邪魔になりもす。坊主頭の方が勇ましく、カッコよかです」
と言った、と伝えられています。

ちなみにかれは36歳で結婚をしますが、夫人は「まるで女優」と言われた絶世の美女でした。

台南空飛行長、斜め銃の発明、そして厚木飛行隊事件、一人の軍人でこれほどのセンセーショナルな話題をもつ人間もあるまいと思われるほどその存在は特異です。


山本長官が、自らは見ることがなかった小園少佐のその後を、このような言葉で予言しています。

「今の海軍はあの男には小さすぎる。あれだけの男を使いきれなくなって、みすみす反逆児へ追いやってしまわなければよいが」―


小園安名は昭和35年に故郷の鹿児島で農業をしながら静かにその生涯を終えました。
死後に家族や関係者の働きかけにより「反乱」という言葉については名誉回復がなされているそうです。



参考:厚木航空隊事件 阿久根星斗 高城書房出版
  海軍厚木航空基地 岡本喬 同成社
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搭乗員お洒落事情~こだわりのマフラー

2010-09-01 | 海軍


     

アメリカンヒーローはマントをなびかせる。

戦後日本のヒーローはマフラーをなびかせる。



いま思いついたこの事実、我ながら核心を突いていると思うのですが、どうですか?

「Mr.インクレディブル」ではマントにこだわって失敗する過去のスーパーヒーローの話が出てきます。
マントを翻すのがアメリカンヒーローの象徴。
 日本のスーパーヒーローは月光仮面を除いて皆長いマフラーをなびかせて登場します。
ムキムキマッチョなアメリカンヒーローならいざ知らず、日本のヒーローにマントは滑稽な気がします。
そのかわり、日本のヒーローものの悪役はなぜかマント着用が多いですね。




マフラーが戦後の日本人にとってなぜ「かっこいいもの」の象徴だったのか。
いきなり無謀な仮定をしますが、それは
戦闘機搭乗員のマフラーに憧れた戦中の記憶が受け継がれていたのではないでしょうか?

「おばあちゃんが『飛行機乗りの白いマフラーがかっこよくてねえ』と言ってた」
という話を聞いたことがあります。
当時のおぜうさん方の憧れの的だった白マフラーの搭乗員。

中西立太著「日本の軍装」(大日本絵画)によると、陸軍搭乗員もちゃんと白マフラーをしています。
しかし、余計なお世話ながら、陸軍の飛行服の襟はフラットに近いシャツカラーで、
わが愛してやまない海軍のオープンカラーに比べるとマフラーが全く目立ちません。
海軍のつなぎも元々の仕立てはシングルカラーなのですが、こちらはダブル打ち合わせになっており、
ほとんどの搭乗員は上までボタンやファスナーを止めず、襟を大きく開けてマフラーを出しています。
(上画像全員の着方・・・といっても二人同一人物ですが)

身びいきではなくやっぱりファッション的なセンスは海軍に軍配が上がる気がします。


いつの時代も
「かっこよくありたい、それであわよくばモテたい」
という若い男子の欲望はあまり変わらない、と「海軍さんはMM」の項で書きましたが、
皆さん、やはりマフラーに萌える当時の女子の気持ちに答えて、そのアイテムには
非常に強いこだわりをお持ちだったようです。

搭乗員が巻くマフラー。

飛行時、見張りのためにしょっちゅう動かす首を固い飛行服から守る、高高度での防寒、風除け、
あるいは海に着水した時に脚に結び付けフカ除けにする(フカは身体の大きい生物を襲わない)、
また、負傷の際には包帯の代わりとして血止めにも使える、という実用目的がありました。

坂井三郎中尉がガダルカナル上空で負傷してしまったとき、三角巾を風圧で全部飛ばしてしまい、
マフラーで血止めをして帰ってきたのは有名な話です。
従軍画家で、ラバウルに来て三日目、傷ついた坂井飛曹長の帰還を目撃した林唯一氏は
その著書「爆下に描く」で

「飛行機が着陸してきたとき風になびくマフラーが血に染まっていてまるで軍艦旗のようだった」

と語っています。

マフラーの材質はシルク(羽二重)、色は白、というのが基本です。
使わなくなったパラシュートをリサイクルすることもあったようです。

この搭乗員服に白のマフラー、というスタイル、どこから始まったのかは知りませんが、
ファッション的に見ても完璧なスタイルだと思います。
全体的にダークな飛行服の襟元に白というハイライトを持ってくることによってそこに目が集まり、
バランスがよく見えます。
現代のファッションでも、「コーディネートに困ったら顔の周りには白を持ってくること」
というセオリーがあるくらいです。
白がレフ板の役目をするので、顔色が明るく見えるんですね。

ところがこの「憧れの」白マフラー、誰でもしていいというわけではなく、飛行機の練習過程では
「お前らにはまだ早いわっ」
と言われてしまったもののようです。

島川正明飛曹長の「サムライ零戦隊」(光人社NF文庫)には

「白いマフラーの格好いい先輩を見るにつけ、自分もやりたいのだが、
先輩たちに生意気だと言ってどやされでもしようものなら大変と、
飛行服に隠れる程度にしてちらつかせ、一人前気取りで訓練に励んだ」


という記述がありますし、土方敏夫大尉も
「教習が終わって白いマフラーができるようになった」と書いておられます。

なぜ「ジャク」が白いマフラーをしたら「生意気」だったのか、よくわかりません。
格好なんて気にしてる場合か、って言うことでしょうか。
ジャクの間はマフラーなしだったのか、それとも他の色ならよかったのか・・・。

(追記:その後ある部隊の写真で「訓練中の隊員はマフラーなし」とことわられているものを発見しました。
色モノなんてとんでもない、ジャクはマフラーそのものが禁止だったようです)



実は寒さよけ、という目的だけなら官給の毛糸のものがあったのですが、
こちらをして写真に写っている人はめったにいません。
確かに私が見ても
「あったかいかもしれないけど(*´・ω)(ω・`*)ネー 」
というものなので、スタイリストの多い搭乗員には人気がなかったようです。
だって、俺たち飛行機乗りなんだぜ!こんなかっこ悪い毛糸のマフラーなんてできるかよ!
ってところでしょうか。(たぶん)

そのうち、戦争も後半になってくると、部隊によっては色とりどりのマフラーが流行り出します。
「赤、青、紫、緑、黄、紺など、あらゆる色があった」
ということで、マフラーの「お洒落」にこだわっていた搭乗員たちの様子がうかがえます。
部隊によってユニフォームのように色を決めているところもあったとか。

たとえば菅野直大尉の新撰組ではおそろいの紫のマフラーをしていました。
理由はというと、「紫電改」の紫。
 三四三空が九州の賀屋基地に進出になり、松山を離れることになったとき、
それまでの松山市で隊員の行きつけとなっていた料理屋「喜楽」の若女将今井琴子さんが
餞別として贈ったものです。
隊員の考えた好きな文句と、手分けして作業をした女学生の名前が刺繍されていたそうです。

現在、松山の「紫電改展示館」には、杉田庄一上飛曹の列機として飛んだ
笠井智一上飛曹のマフラーが展示されています。

「新撰組

ニッコリ笑へば 必ず墜とす

笠井智一」

これは、杉田上飛曹の「座右の銘」で、部隊の合言葉だったそうです。



そして、鴛渕孝大尉はあくまで白いマフラーにこだわり続けたそうです。
何かその人柄をあらわしているように思えます。


ところで、笹井少尉の有名な飛行学生時の写真、この飛行服の襟元にしているマフラーは
何色だったのでしょうか。
飛行服よりダークなこの色、おそらく黒か深緑、クリムゾン(暗い赤)のどれかだと思われますが。




参考:最後の撃墜王 碇義朗 光人社NF文庫
   爆下に描く 林唯一 中公文庫
   海軍予備学生零戦空戦記 土方敏夫 光人社