ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海兵70期生徒の受難

2010-09-07 | 海軍



昭和17年、海軍省後援で製作、公開された映画「勝利の礎」には、
当時一号生徒だった海軍兵学校70期の生徒の生活ぶりとその卒業式までが写っています。
「よく撮っておいてくれたなあ」と思わずにはいられない生々しさで、
棒倒しや授業、カッターや水泳など、兵学校の生活がモノクロの映像に再現されます。

この70期にはご存知菅野大尉や、特攻一号で散った関行男大尉がいます。
本日画像はこの映画に大アップが映される座学授業中の関大尉ですが、
本日の内容とはあまり関係ありません。

いや、あるかな(^^ゞ

「海兵67期の花物語」の日にもお話しましたが、
この70期が入校したときの最上級生は「お嬢さんクラス」の67期でした。
紳士的で「殴らず指導する」と協議した(校長からの指導であったという説あり)
67期のもとで、70期は比較的平和な生徒生活を送れるやに思われました。

ところが、そうはいかなかったのです。

問題は68期です。
ご存知土方クラスの68期は、59期から連なる「鉄拳の系譜」の継承者として、
一号として江田島に君臨する日を待ち望んでいました。
何度か書いたと思いますが、68期生徒は「殴らない67期」に不満を抱いていました。

「自分たちだけが殴られて損だ」「殴られたからには殴らなければ収まらん」

まるで姑に苛められた嫁が姑になったとき嫁を苛めるように・・・。

いや、このたとえはかりにも栄えある海軍将校生徒に対して失礼かもしれませんが。
とにかく豊田穣氏も書いているように

「殴られるかどうかは兵学校の生活において大きな問題だった」

のです。

兵学校では「鬼の一号、むっつり二号、おふくろ三号、がき四号」と言われました。

むっつり、というのは、一号ほどの絶対的権限もなく、
三号ほど下級生の面倒を見なくてもよい、勿論四号のようにしごかれるわけでもない
二号の比較的気楽な立場を言いあらわしたものですが、
68期がその「むっつり二号」だったとき事件は起こりました。

一月ごろ、67期の一号が、艦隊練習で一週間だけ江田島を留守にしました。
その一瞬、68期が本性をあらわしたのです。

「お嬢さんの67期生徒のやり方が手ぬるいから貴様ら70期はたるんどる!
しばらくの間我々が修正しなおす!」

と言い放ち、むっつりのはずの二号が四号を殴り始めたのです。


70期生徒の入学は、異例の12月でした。
年のうち、もっとも厳しい季節に兵学校生活を始め、心身ともに消耗していた70期の四号は、
いきなり牙をむいた二号に殴りまくられ、さぞ目を白黒させたと思われます。
一号生徒が帰ってきたときは、胸に飛び込みたいくらいの気持ちではなかったでしょうか。
現に一号の帰校とともに68期はもとの「むっつり」に戻ったそうです。

しかし。

70期の受難はそこで終わらなかったのです。
海軍で最も楽しいのが連合艦隊司令長官と艦長と一号生徒、というくらい、
兵学校生徒は最上級生になるのを楽しみにしていました。
68期は特に殴る大義名分を手にするその瞬間を扼腕して待っていたわけです。
本来ならば、何も知らずに入学してくる犠牲者の71期生徒を気の毒に思いつつも
高みの見物を決め込むはずの70期だったのですが、68期はそんな生易しい連中ではありません。

67期の卒業はその年の夏でした。
しかし、12月まで新入生は入ってきません。
最下級生徒は相変わらず可哀そうな70期です。

もうおわかりでしょう。

殴っていい一号がなかなか入ってこないので、68期は
「お嬢さんの67期生徒のやり方が(以下略)」と言う理由で4ヶ月間、
ここを先途と70期の鍛えなおしをしたのだそうです。(T_T)

本来お嬢さんの末裔であるはずの70期ですが、そのわりには菅野大尉や関大尉はじめ、
「殴る生徒」が多かったのは、この「複雑な育ち方」のせいだとも言われています。

というか・・・68期のせい?

関大尉にいたっては、70期とは入学時期の関係で江田島では合いまみえなかった
「幻の四号」である73期生徒を、なんと戦地で会った際「殴って鍛えなおし」ています。

勿論、決して殴らなかった鴛渕孝大尉のような生徒もこの68期だったわけですし、
殴らないとされた67期の中にも「適当に殴っていた」生徒もいたそうですが。


江田島の「鉄拳制裁」は、日露戦争ころから持ち込まれたものと言われています。
その後、何人かの校長がこれを禁止するのですが、その校長が代わるとすぐに
「必要やむを得ざるもの」として復活したそうです。

校長自身が「如何に殴られたか」にも関係していたのかも知れません。







参考:「最後の撃墜王 菅野直の生涯」碇義朗著 光人社
「 江田島教育」豊田穣著 新人物往来社
   「海軍兵学校よもやま物語」生出寿著 徳間書店
   「戦記クラシックス 江田島海軍教育」 太平洋戦争研究会編 新人物往来社 




最新の画像もっと見る

4 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
感謝します (松田宏雄)
2013-04-14 20:20:40
このブログのおかげで、亡き伯父が映るDVDがあることを知りました。一番最後に敬礼しているところがアップで映る人物は、松田雄吉大尉(昭和20年4月1日未明、九州西南海沖上空にて戦死、3月に満23歳になったばかり)です。その弟の私の父(5年前に死亡)が生きているうちにみつかればよかったと残念です。
返信する
松田雄吉大尉 (エリス中尉)
2013-04-14 21:15:33
コメントありがとうございます。
今、「勝利の礎」を観て、伯父様の松田大尉を確認しました。
異例ともいえる長時間(40秒間)、アップで撮影されていますね。
凛々しい眉に力みなぎるまなざし、おそらく製作者が映画の終焉を飾るにふさわしいとみなし、
松田生徒を抜擢したのであろうと思わされます。

この映画は、「メイキング・オブ・勝利の礎」という縁取りにも書きましたが、
長らく「最後の一本」がアメリカに没収されていたのです。
そのフィルムが返還されたときに、兵学校70期卒の関係者(遺族も含む)を集めて
上映会が行われ、生き残った者たちはかつての「クラス」の若々しい面影を
フィルムに見出し涙にむせんだという話でした。
さらにDVDとして発売になったのが2006年のことです。
ですから、もしすぐに情報を手に入れていたら、
お父様はこれを見ることができたということなのですが・・。
わたしも、非常に残念に思います。
返信する
海兵生徒の容姿について (有村昌親)
2015-06-03 15:14:36
はじめまして、私の祖母の実弟の方は海軍兵学校70期の城ノ下盛二少佐(戦死後の階級です。
エリス中尉は、海軍兵学校の生徒の採用要素として「容姿」を挙げてますが、我がご先祖の城ノ下盛二少佐は地味な顔で決してイケメンではありませんでした。
あまり今の価値観で容姿を重視すると、豊田穣さんや我がご先祖の様に、「イケメンで無かった海軍士官」の方々の存在を無視される様で遺憾です。
又、豊田穣さんの『江田島教育』や『蒼空の器』等の他のノンフィクション作品にも記述がある様に、生徒の採用の体力審査は鉄棒に10秒ぶら下がってれば良いなど、比較的緩かったせいか、豊田穣さんの同期にも喘息持ちの生徒もいたようです。
勿論、海軍兵学校に入校してからの体力養成は猛烈果敢だったのも事実ですが。
返信する
お言葉ですが (エリス中尉)
2015-06-03 18:45:14
初めまして。
また懐かしい昔のエントリにコメントくださいましてありがとう存じます。

このエントリを製作してから5年経った最近のことですが、兵学校67期のことについて書いた時、
やはり海軍士官には容姿も問われたため、と書いています。

しかし、この67期の遠洋航海についてまとめた写真で大量の生徒さんたちのお顔を拝見して、
皆が世間的に見る「イケメン」でないことは重々承知していますし、最近ではわたしが会員の資格を得た海軍76期の生徒さんを見ても若い時は普通ないし地味な顔だったんだなあと思しき方が大半です。

つまり、世間一般の割合(普通とそれ以下がほとんどでイケメン少々)と全く同じということですね。

あくまでも採用基準は「身長152センチ以上」で「異形と呼ばれるレベルでない者」←ここ注意
という真っ当なものであったことは当然です。

しかし、たとえ採用基準として公にはなっていなくても
「異形」が採用の際ネックになる職業というのは今も昔もあり、
昔は「海軍士官」も(おそらく陸士も)そうであったということにすぎません。

もちろん「地味」くらいではねていたら採用する生徒がいなくなってしまいます(笑)

健康状態に関しては「受験の時期に検査をパスした者」という基準ですので、
当然その後の健康悪化は起こり得たでしょう。

特に遺憾に思われることはないかと思われるのですが・・。

返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。