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「八雲」と日本海海戦の立役者たち〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-12 | 軍艦

週末、月島のコミュニティセンターで行われた模型展を観てきました。

「元モデラー(しかし現在はROGANのため制作休止中)」

の知人の方がお付き合いしているという模型の会の作品展で、
毎年この時期に定期的に行われていて今年で23回目の開催だそうです。

毎年テーマを変えて作品が集められるのだそうですが、今年は
巡洋艦を中心とした展示ということで楽しみにしてまいりました。

 

いきなり模型ではなく絵をご紹介してすみません。

「日本海海戦 佐藤鉄太郎の決断」

というタイトルの絵画です。
佐藤鉄太郎(1866−1942)は日本海海戦時、第二艦隊、旗艦「出雲」の副長です。

 戦闘中、舵が故障した戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」(国オヤジ座ろう)を見て、
バルチック艦隊が北へ向かうと誤認した旗艦「三笠」は、これの追撃を指示しましたが、
上村彦之丞中将と副官の佐藤中佐は舵の故障と即座に判断、「三笠」の命令を無視して
「我に続け」の信号旗を掲げながらバルチック艦隊に突撃していきました。

この絵はその後の「出雲」を描いたものだと思われますが、状況はよくわかりません。

この決断の結果、巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという
前代未聞の作戦が実施されることになり、敵を挟撃することに成功しています。

というわけでその巡洋艦「出雲」。

先日来お話ししている大正13年の遠洋航海練習艦隊に参加していますね。

こちら装甲巡洋艦「八雲」


「八雲」は、ここに見えている紹介にもありますが、ドイツ生まれで、
シュテッテン・ヴュルカン造船所で誕生した装甲巡洋艦です。

練習艦隊の江田島の出航の写真を掲載した時にも書きましたが、
終戦後進駐軍はこの船体にラム(RAM)が付いていることに興味を持ったそうです。

ラムとは日本語の「衝角」のことで、喫水線下の艦体につけられた
尖ったツノの用途は、「体当たり用武器」です。

軍船同士が接近戦を行う際、敵船の側面に突撃し、船腹を突き破ったり、
舵手がいる船であれば操舵を不可能にするために突き出しています。

フルハル模型だとその尖ったツノの形状がよくわかりますね。

大艦巨砲主義どころか、帆船の時代のような接近戦を想定した武器なので、
装備していた当の帝国海軍もこの機能をあてにはしていなかったでしょう。

ところでたった今気がついたのですが、高橋留美子作「うる星やつら」の
ツノの生えた鬼娘「ラムちゃん」という名前って、もしかして・・・?

手前、「八雲」、向こう側は「浅間」
これに「出雲」を加えた三艦が、大正13年度の遠洋航海練習艦隊です。

「八雲」は日露戦争後練習艦として、ほぼ毎年のように、少尉候補生を乗せた
遠洋航海に活躍し、戦後は復員の輸送にも従事しました。

「浅間」は遠洋艦隊の項でもお話ししましたが、何度もお召艦になっているため、
もしこの年度に高松宮殿下が遠洋航海に参加することになっていれば、
この船をお召しになる予定でした。

航海記念アルバムの艦別名簿の「浅間」の欄には、一番最初に
病気で参加を断念された高松宮殿下の御名前が消されずに残っています。

日露戦争、「出雲」、上村彦之丞といえばこの巡洋艦です。

装甲巡洋艦「リューリック」(中央、黒艦体)

日露戦争時の「敵兵を救助せよ」で有名になったロシアの軍艦で、
「出雲」を旗艦とする第二艦隊、第四艦隊に蔚山沖で撃沈されました。

この形を見ればよくわかりますが、水面からの乾舷(水面から原則までの高さ)
が艦首から艦尾まで高く、これを「平甲板型船体」と言います。

ウォーターラインなのでこのモデルではわかりませんが、
「リューリック」も艦首水面下に衝角をもっていたということです。
この時代の流行りだったのかも。

艦体は分厚い鉄板が使われ、特に防御に重点を置いた作りだったそうですが、
上村中将の「国民に露探と罵られた恨み」を思いっきり晴らされて、
下瀬火薬の餌食となって蔚山沖の藻屑と消えていきました。

その際「出雲」が「リューリック」の乗員を救助したことで、
上村中将は一転して「上村将軍」という歌までできるなど、国民から
手のひら高速返しで英雄扱いされることになります。

海戦後、凱旋行進で熱狂的に自分を讃える群衆を見ながら

「少し前にはわしを無能とか露探とか罵った奴もいるじゃろうのう」

と上村中将は内心慨嘆したことでしょう。

一番左から「出雲」「吾妻」「常盤」「磐手」

これが日本海海戦で、

「三笠の命令を無視して突進していった巡洋艦部隊」

つまり上村艦隊、第二艦隊第二戦隊のメンバーです。

模型の展示とはいえ、こういう風に「わかる人にはわかる」
並べ方をしてくれていると、本当に嬉しくなってしまいますね。

旗艦の「出雲」に対して当時最新鋭艦だった「磐手」は、
艦隊で狙われやすい殿(しんがり)艦を務め、そのため被害を受けましたが、
上村中将が命じた「敵兵を救助せよ」の命令を受け、海上に漂う
「リューリック」の生存者の救助に当たっています。

ちなみに「出雲」はドイツ製、「磐手」「常盤」は英国のアームストロング社製、
吾妻」はフランスのロワール社製と、この中に国産艦は一つもありません。

「常盤」はその後昭和2年に謎の大爆発事故を起こし、二度も触雷している上、
終戦直前の8月9日、大湊にいたところをジョン・マケイン・シニア中将率いる
任務隊の攻撃によって擱座しましたが、結局終戦までしぶとく生きぬいています。

殿艦として損害を受けながらも生き残ったタフさは最後の最後まで健在で、
1899年に就役して終戦まで現役だった巡洋艦(途中で敷設艦に転換)は
海軍の歴史の中で「磐手」ただ一隻だったということです。

 

ロシア海軍の左から

「アドミラル・ナヒモフ」「ドミトリー・ドンスコイ」
「ウラジミール・モノマフ」「アルマース」。

「ナヒモフ」は日本の装甲巡洋艦に30発の砲弾を受けて自沈処分、
「ドミトリー・ドンスコイ」「モノマフ」も同じく自沈。

生き残ったのはウラジオストック入港に成功した「アルマース」だけです。

別の方の作品で、これも「アドミラル・ナヒモフ」

「ナヒモフ」巡洋艦ではなく装甲フリゲートとして生まれましたが、
フリゲートといってもよくよく見たら帆走フリゲートではないの。

就役は1888年で、ご覧のようにマストと一本煙突の船だったのですが、
10年後の1898年、近代化改装を施されて生まれ変わりました。
改装後は、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストは
ミリタリー・マスト(見張り台や機関砲を乗せるためのマスト)に交換されました。

見張り所には速射砲を配置し船体中央部にあった操舵艦橋は
前部マストの背後に移動されるなどの大改装でした。

日本側からは覚えにくいので「ごみ取り権助」と一方的に呼ばれていた
「ドミトリー・ドンスコイ」をアップにしてみました。

実はごみ取り権助も巡洋艦ではなく、「装甲艦」という種別になります。

同じく同時期のロシア海軍巡洋艦、左から

防護巡洋艦「ノヴィーク」、二等巡洋艦「イズムルード」「ゼムチューグ」

「イズムルード」も「水漏るど」なんて言われてたようですね。
「ゼムチューグ」は日本海海戦で生き残りましたが、負けたせいなのか、
戦後に下士官兵の反乱が起こってしまったとかなんとか。

これも巡洋艦ではないですが、戦艦「オスリャービア」
日本側には「押すとピシャ」とか言われてました。

日本海海戦の2年前に稼働できるようになったばかりの新鋭艦でしたが、
第2装甲艦隊の旗艦として三列縦隊のうちの左翼先頭にいたため、
海戦が始まるなり、日本側の戦艦と装甲巡洋艦計12隻のうち、
7隻から、

「目標ー!押すとピシャー!テー!」

と一斉に集中砲火を一身に浴びせられ、最初に戦没することになってしまいました。

日本が丁字戦法によって戦隊の先頭艦を集中攻撃したこと、そしてその際
「オスリャービャ」が三本煙突で識別しやすかったことが原因だそうです。


515名近くが戦死し、その中には軍医、従軍司祭、そして
総員退艦を命じながら自らは
艦橋を退くことを拒み艦と運命を共にした
ウラジーミル・ベール艦長なども含まれます。

ベール艦長


 

「香取」と「鹿島」
「鹿島立ち」という言葉の由来について練習艦隊の項でお話ししましたが、
「鹿島」「香取」共に、最初から練習艦として設計されました。

それまで練習艦として遠洋航海に使われていた「出雲」が
石炭艦であったことと、老朽化してきたことから後継のため建造したもので、
艦名には、士官候補生の「旅立ち」の艦であることから
「鹿島立ち」という言葉に由来するこの名前を採用したのです。

Wikipediaには「艦名は鹿島神宮に由来する」とあるのですが、
神宮はむしろ後付けで、

「人生の門出、出発」

を意味する古語から引用したと考えた方がいいかもしれません。

 

最後に。
練習艦だった「八雲」は戦後、復員船として改装を加えられました。


戦後復員輸送船となった時代の「八雲」の模型までありました。

武器も何も積んでいない丸裸の元巡洋艦がこうやって模型で表現されているんですね。

「艦橋天蓋は固定化。艦橋後部に構造物」

「後部艦橋はエンクローズドされてる。
訓練用操舵室が残されている」

「スタンウォークは撤去」

全盛期?と復員時の「八雲」の模型を並べてみました。
どこがどう変わっているのか一目瞭然なのも模型ならではです。


続く。

 

 

 



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5 Comments

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タンブルホーム (Unknown)
2018-02-12 20:08:45
ラムと目的は違いますが、喫水線下が喫水線上より長くなる船型をタンブルホームというのだそうです。米海軍最新鋭のズムワルト級ミサイル駆逐艦(DDG-1000)はまさにそういう格好をしています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E7%B4%9A%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AB%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6

元々、タンブルホーム船型の目的は構造物を軽量化し、復元性能を高める(転覆しにくくする)ためだそうですが、ズムワルト級はステルス性能の追及(上に行く程船体が小さくなるため、海上の敵艦から照射されたレーダー波は発信源に戻って行かず、上空に反射される)のためです。

ステルス性は大事ですが、ノッペリしてしまって、軍艦らしさも「捨てるす」な気がします(汗)
Unknown (うろうろする人)
2018-02-12 20:17:00
ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2c/Azuma_AllanGreen1.jpg 御存じの画像とは思いますが、1930年代の「吾妻」だそうです。風向きからなのか軍艦旗のはためく方向が、艦の進行方向に対してちょっと残念ではあるのですが、この数年後にはこの海軍が壊滅的な状態を迎えるとは想像が難しい程に穏やな情景で、全体も鮮明に良く撮れていますよね。個人的には煙突の設置間隔が艦首より見て2本目と3本目とで微妙に違う所に何故か(^^)惹かれる艦影です。
絵と模型 (お節介船屋)
2018-02-13 11:01:28
この時代の彩色は判然としませんので絵を描かれる方、モデラーの方は苦労されるものと思います。
モデラーの方は良く分かっておられると思いますが昭和に入っても、各海軍工廠で灰色も微妙に違い、工廠別の色が模型用に発売されたりしています。
楽しんでおられるとも思いますが、私も昔は買って直ぐに製作した事もありますが、このところ歳でもあり億劫になりました。

なのに人が描かれた絵等にクレームを付けてはいけないのですがお節介に指摘したくて済みません。次回の参考になればとの思いです。

で早速ですが「出雲」の日本海海戦時ですが、マスト中段のファイング・トップと呼ばれる小口径の砲座が省略されていますが撤去されるのは日露戦争後です。(上の見張所ではなく、マストの下部に取り付けられていました)
魚雷防御用網展張用支柱ですが艦首から3番目、4番目も副砲が邪魔で、斜めに格納出来ず水平に格納されています。
誤りではないのですが、ロシア側から撃たれている状態で主砲が艦首尾方向に固定されていますが、通常は戦闘態勢で弾込め後、相手方向に向いているのではないでしょうか?鉄砲屋でないのでこの時代の弾薬装填の位置が自在ではなくある一定方向であろうとは思いますが、よくわからずの指摘です。

「八雲」の模型ですが缶室用のキセル型通風筒が頭の部分が省略されていますが、やはり特徴ですので追加された方が良いのではと思います。
模型については時代によって改造等があり、難しいとは思います。
「八雲」の特別輸送艦時代は初めて見ました。なかなか貴重な復元で、下に置いてある説明の写真も見た事がありませんでした。
「出雲」「常盤」「吾妻」「磐手」の模型の後部左舷に搭載されているのが前回コメントさせて頂いた17メートル艦載水雷艇です。後部キャビンのオープンキャンパスまで表してあります。

なおこの時代の名称ですが7,000トン以上を一等巡洋艦、3,500~7,000トンを二等巡洋艦、3,500トン未満を三等巡洋艦と呼称していましたが「出雲」「磐手」等大型艦は舷側装甲を持つ装甲巡洋艦だけでしたので一等巡洋艦は即「装甲巡洋艦」だそうです。
「浅間」と「常盤」は同型艦、「出雲」と「磐手」が同型艦です。いずれもイギリス、アームストロング社、「八雲」が記載のとおりドイツ、「吾妻」がフランスです。後「春日」「日進」がイタリア。
参照KKベストセラーズ刊中川、阿部編著「幕末・明治の海軍」

Unknownさん
タンブルホーム船型とは帆船の時代、船体下部がデップリしていて上部が索具取り扱いに適するため絞ってあり、帆走中の傾き、重心降下にも適しており、汽船の時代にもありましたが廃れました。
ズムワルト級は波浪貫通艦首とも艦首造波低減船型とも言われています。ホエ-ルバック船型、タンブルホーム船型との名称も使用されています。防衛省の資料を添付します。資料のとおり海自も一時検討されましたが艦の大きさ、飛沫や波浪の大きさで比較されたのか、このところ聞かなくなりましたが、どうなっているのか分かりません。
http://www.mod.go.jp/atla/research/dts2012/R4-3p.pdf#search=%27%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E8%88%B9%E5%9E%8B%27
ファイテング・トップ (お節介船屋)
2018-02-13 14:02:15
誤り訂正
ファイテング・トップです。一字抜けました。
「八雲」は日露戦争後も昭和に入っても前檣のみ一部残していました。
ただ砲座ではなく見張り台として使用していたようです。
みなさま (エリス中尉)
2018-02-16 18:41:59
unknownさん
ズムウォルト級、見ました。なんかすごいですね。
すごい未来形で、もしかしたらこれからの軍艦はこうなっていくのかと思うと、
なんだかちょっと残念な気がします。
機能的ならいいだろうってもんでもないと思うんですが・・・。
おっしゃる通り、このシェイプは軍艦らしさを捨て(て)るす(笑)

うろうろする人さん
お久しぶりでございます。
「吾妻」の写真、初めて見ました。おっしゃる通り不思議と「明るい」写真です。
強い横風が吹いていて、艦尾の旭日旗が真横を向いて、煙突の煙も横にたなびいています。
上甲板にたくさん乗っている人々は一般人のようですが、なんの時のかご存知ですか?
昔も体験航海みたいなことを行なっていたんでしょうか。
あと、スターンウォークの周りが独特、というかちょっと近未来?だなと思いました。
煙突の「トン・ト・トン」ときている配置はそのおかげで艦影で「吾妻」だと
認識するための格好の目印になっていたようですね。

お節介船屋さん
模型については見るだけで作る方のことはほとんど何も知らないのですが、
カラーは「セット」になっているのを買ったりするらしいですね。

「出雲」の絵といえば、この模型展を教えてくれた方のお話によると、
実際に上村艦隊の航跡図(戦譜)を確認してもそのような事実は記されていないそうです。
横須賀第二術科学校の資料だそうですが、そこの資料課長という方は
「そういう話を聞きますが、それを確認する資料はない」とおっしゃっていたそうです。
で、その方は、佐藤鉄太郎はなかなか自己顕示欲の強い軍人だったので、
先任参謀として手柄話にしたのではないかということを疑っておられるそうです。
勝った戦なので後から国民が好む「スイカに塩ストーリー」
(三笠の命令に背いて決断したら結果としてそれが勝利につながった、という意味で、
逆説をまぶすことによってその勝利をより讃えるという手法)として、
皆が支持した結果語り継がれてきた「ちょっとした誇張」の類だったのでしょうか。

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