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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリカの大学・西海岸編

2017-08-24 | アメリカ

 

 

東海岸で二校、計三学部の見学をしたというご報告をしましたが、
西海岸移動後にも二つの大学のツァーに参加したので今日はそのお話を。

今回も今まで見た&行ったことがない大学です。

まず、ロスアンゼルス郊外にある、リベラルアーツカレッジ。

リベラルアーツとは、人文科学・自然科学・社会科学及び学際分野にわたる
学術の基礎的な教育研究を行う四年制大学のことです。

卒業者はロースクールやメディカルスクールに進学することもあり、
いずれの分野についてもここで基礎を学ぶことができるという仕組み。

リベラルアーツカレッジの多くは、学業に専念できるように
キャンパスを郊外や小都市にに持っているところが多く、また、
全寮制で学生生活は学内で完結するため、大抵は少人数で
ファミリー的な雰囲気であると言われています。

この日見学した大学も、ロス郊外の住宅地に突如現れました。

 

わたしたちはこの前日までサンディエゴにおり、10時のツァーに間に合うように
6時30分にホテルを出発したのですが、フロントの人に

「これからロスアンゼルス?それは大変ですよ

と真顔で忠告されて大いに不安でした。

後から知ったのですが、ロスを中心とした周辺のフリーウェイは
ほぼ毎日、通勤帰宅時に大渋滞となるのだそうです。

案の定5車線も7車線もある道路がギチギチに混む地獄のような渋滞に巻き込まれ、
目的地に着いた時には10時15分。
わたしが車を停めている間に二人は走って集合場所まで行き、
かろうじてツァースタートの前に滑り込むことができました。

「将来何があってもロスには住みたくないね」

グランドピアノが二台向かい合わせにおいてある談話&娯楽室。
ここからツァーは開始しました。

実は恥ずかしながらわたしはこの日までこのカレッジの名前すら知りませんでした。
アメリカ在住の友人も知らなかったので、そんなものかとも思うのですが、
カリフォルニアでは最も歴史のあるリベラルアーツカレッジだそうです。

キャンパスには手入れの行き届いた緑が広がります。
「アメリカで最も美しいカレッジキャンパス」の6位に入賞したこともあるとか。

東海岸以上にカリフォルニアの昼間の日差しは強烈なので、
ツァーが室内に案内されるとホッとします。

このソファや椅子のたくさんあるスペースには、どう見ても学生でない人たちが
明らかに涼むためにきて座り込んでいました。

入り口に門衛がいるわけではないので、アメリカの大学はその気になれば
誰でも入って来ることができるのです。

侵入者が「ペルソナ・ノン・グラータ」かどうかは、どこの大学にも設営されている
「スクールポリス」が判断し対処します。

 

学校がある時にはラボらしいこの部屋では、小学生対象のキャンプが行われていました。

この後、全寮制のこの大学の学生寄宿舎を見学。
TOは「こんなところに3人なんて狭い」と文句を言っていました。
学生のドミトリーなんてどこでも似たようなもんだと思うんですが。

建物は「古きカリフォルニア」というか、南欧風。
東海岸の古い大学とは全く違う方向ですが趣があります。

「ドクターOの庭」というプレートがはめ込まれた石が置かれた一角。

1986年から2012年までここで化学を教えていた大槻哲夫先生を偲んで。
この名前でぐぐると、有機化学の本などが出てきます。

少人数制で一人一人の生徒に手厚い教育を行うという体制であるため、
リベラルアーツカレッジの学費は大変高額なものになります。
そのためアメリカにおける上流階級やアッパーミドル階級の価値観を大きく反映しており、
実際に上流階級やアッパーミドルクラス出身の学生が多いのも現実です。

「いかにも白人の子弟のための学校って感じ」

わたしたちは見学が終わってから感想を言い合いましたが、ただ昨今は
ダイバーシティの観点からマイノリティと言われる層の取り入れにも熱心で、
学生の42%がいわゆる非白人だそうです。

このサイエンスセンターのロビーにはこんなモニュメントが。
吹き抜けの天井から下がっている振り子、実は時計だったりします。

次は図書館。
返却された本を一時的に置くコーナーで日本語の本発見。

「はぶぁないすでい」という、実にイラっとくるタイトルです。

この学校が有名になったのは、オバマ前大統領が在籍したことがあったからでしょう。

 3年が終了した時、このカレッジはコロンビア大学ロースクールに転学するという
プログラムがあるのですが、オバマはそれを利用したようです。

アメリカ人は最初から最後までその大学でしか勉強しなかった、というより
(たとえハーバードのような名門校でも)、オバマのようにこの大学から始めて
最終的にハーバードやカルテックなどの総合大学で自分の専攻を極めるという方が
イケてる、と捉える傾向にあることは、何人かのアメリカ人と話して気づいたことです。

噂によるとバラク・オバマはここの学生時代決して優秀ではなかったそうですが、
学校の方は今や「オバマ大統領の出身校」を売り物?にしている様子。

今調べたら、ベン・アフレックもこの大学出身で、大学時代から映画を作っていたとか。

このガラスケースは、大統領始め当大学出身の有名人コーナーであるようです。

ロス近郊の丘陵地にあるため、キャンパスは緩やかな傾斜に沿って建物があります。
昔の写真を見たら、1900年代初頭でほとんど今と変わっていませんでした。

この建物はダイニングとカフェ。
スタンフォード大学もこのような地中海風の建物が多く見られます。
これはカリフォルニアの古い大学の傾向なのかもしれません。

有名な建築家が1939年に校内の多くの建物を設計しましたが、
このホール始めその全てが現在も使用されています。

最後に説明が行われた教会のようなホール。
入るなりムッとした古い匂いが鼻をつき、明らかにこれは創立当時からあると思われました。

ここでアドミッションの人の説明がありましたが、その最中、中国本土からの参加女子が
袋菓子を取り出し、大きな音をさせて食べていました。

白人の価値観が色濃く残るこの大学では、留学生は全体のわずか3パーセント。
いかにお行儀の悪いアメリカ人であっても、こういうのは嫌がるだろうなと思いました。


さて、続いてはやはりロスアンジェルス近郊にある総合大学。
歴史もあり西海岸の工科系大学の雄ともされる有名大学です。

例によって指定された駐車場は集合場所までとてつもなく遠いところに・・・・。
昔からのキャンパスの道を隔てたところにはこのような超前衛的なビルがあります。

見ているだけでなんか不安になってくる建物です。

こちらが創学当時から存在するキャンパス。
設立は1891年、アメリカの大学ですから決して小さくはありませんが、
そのスペースに学生数は2200人。

集合場所となっているアドミッションオフィスに行く途中に、
日本企業の名前を見つけてびっくり。

この後ツァーで歩いていたら、明らかに日本人であろうと思われるグループが
白人の教授っぽい人と英語で話しながら歩くのとすれ違いました。

こういう建築様式をチューダー調というんでしたっけ。
庭園に囲まれたホテルといった趣ですが、これも学校の一部。

この中で参加者は集合し、この後グループに分かれてツァー開始です。
ギリシャ神殿のような装飾の柱ですが、アメリカでこの手の柱は大抵が木製。

中は冷房が効いていてホッとしましたが、狭いので、全員が集まった時には立錐の余地もありませんでした。

工科大学らしく、元素周期表を利用して大学案内をしています。

V23(バナジウム)

最終試験の週、ワグナーの「ワルキューレの騎行」が毎朝7時、
「耳もつんざけんばかりの音量で」鳴り渡る

卒業生がその後ワグナーが嫌いになること間違いなし。

遠くてわかりませんが、パティオの下には白と青のクロスのかかったテーブルがあり、
今夜ここでディナーが行われるようなかんじでした。

この時間はフライパンで煎られるように暑いですが、夕方からは寒くなります。

校舎は回廊式というか、このような渡り廊下で繋がれています。

柱の上部に彫り込まれたのはフットボールの選手・・・
じゃなくておそらく戦の神ヘルメス。

学生寮の内部も見学しました。
これまで見てきた大学の中で最も寮内部は雑然としており、
変な落書き(ここにとても出せないような)があちらこちらにされていました。

みんな半端なく頭のいい学生のはずですが、もしかしたらこのレベルになると
実質「紙一重」みたいなのが多いんだろうか、とふと思ったり。

この後ツァー参加者が一堂に集められ、例によってアドミッションの説明を聞きました。

本学出身のノーベル賞受賞者は34名、ノーベル賞は35回!
(つまり一人が2回取ってるってことです)

これまでの全ての受賞者の総数がそれ以下の国の人として、軽くビビります。

なぜか構内に本物のキャノンがありました。
普仏戦争で活躍した本物で、現在はランドマークとしてここにあるのですが、
このツァーで面白い話を聞きました。

この大砲、卒業などのイベントで空砲を撃つこともでき「生きている」のですが、
2006年に東部の某有名工科大学の学生が、メンテナンスのフリをして運び出し、
盗んでボストンに持って帰ってしまったことがあったそうです。

普通に窃盗な訳ですが、こちらの有志も負けておらず、わざわざ相手校に乗り込んで取り返し、
大砲のあった場所にミニチュアを置いて帰りました。

両校のライバル意識を表す話として結構微笑ましく語られているようですが、
実は結構当事者には笑い事ではなく、こちらでは、胸に「CALTECH」のロゴ、
背中には
『MIT=CALTECHに入れなかった人の入る大学』
とプリントされたTシャツが堂々と売られているんだとか。

おお、ここにも日本人教授のお姿が!

Toshi Kubotaと学生証にはあります。
調べてみると、1957年に元海軍士官だったゴトウタケイチ
オグロハルオさんと一緒に撮った卒業写真が出てきました。

海兵卒でここを卒業した人がいたんですね。

というわけで、世界の最高レベルである工科大学の見学を終わり、
駐車場に帰ってきました。

実はこの球技場全面の地下は、地下三階の駐車場になっています。

アメリカの大学おそるべし。

って何に感心してるんだか(笑)

 

 

 

 

 

 

 


アメリカの大学・東海岸編

2017-08-22 | アメリカ

今回のアメリカ滞在中、いくつかの大学を見て周りました。

TOの留学先、息子のキャンプ先などでよく知っている学校は除き、
学校のアドミッションが主催するツァーにスケジュールが合ったものに限ります。

アメリカの大学の内部を見る機会など滅多にないので、実は観光気分です。

最初はボストンの中心部に近いとあるユニバーシティ。
勝手に規模が小さいと勘違いしていましたが、とんでもない。

そもそも「ユニバーシティ」というからには、いくつもの学部の集合体で、
国土の広いアメリカではそれだけで一つの街というくらい規模が大きいのが普通です。

案の定この大学も集合場所近くのパーキングはすでに満車。
指示されて停めたタワーからは気の遠くなるような距離がありました。

おまけにボストンはこの季節、昼間は焼け付くような日差しです。
集合場所であるオフィスにたどり着いた時にはホッとしました。

アメリカの大学の規模と設備に改めて驚きます。
下手するとこんなクラスルームがいくつも学内にあったりするのがアメリカ。

ここで学校についての概要のレクチャーが行われるようです。

この日のツァーは、当大学工学部の見学でした。

「エンジニアリングとは何か?」

やたら壮大なテーマですが、結局答えはなんだったのかと尋ねられると困ります(笑)

 

アメリカの大学にはこういう場合に『マイクを握って半世紀!』
みたいな学校案内専門のスタッフがいて、
その喋り方や質問の受け答えなど、まさにプロといった喋りをします。

アメリカ人はこういう場で質問をしないということはほとんどなく、
説明の時間半分が質疑応答になってしまったりします。
 

バイオ工学、化学、コンピュータ、機械工学、環境、産業などの単体のの学問を、
「コンピュータ工学とコンピュータ科学」「機械工学と物理学」などのように
融合させたフレキシブルな専攻があります、らしいです。

内容はフレキシブルな選択というところで適当に理解してください。
右側に転々と足跡がありますが、大学のマスコットのものです。

大抵の大学には、犬やクマ、狼、鳥類、爬虫類、時々虫など、
オリジナルマスコットがいます。
大抵はアイドル化しやすい哺乳類ですが、ナメクジ(サンタクルーズ大学)とか、
「木」(スタンフォード大)なんてのもあります。

木・・・なんかいろいろと盛り上がらなさそう。

当大学の学生数は2万5千人。
3年連続で、全米大学トップ50校以内に選出されており、最も革新的な大学のカテゴリーでも
上位にランクインする東海岸の名門トップ大学(wikiによる)
です。

本日の説明会にhほとんどの学生は親と一緒に参加していました。
夏休みなので、家族旅行かたがた大学を見に来たという家庭
(我々もそうですが)も多そうです。

この後、見学者はグループに分けられ、現役の学生に案内され学内を廻ります。
このパターンはどこの大学に行っても同じでした。

案内役は夏休み帰郷しない学生のアルバイトです。

広大なキャンパスを歩き、改めてアメリカの大学の規模の大きさを思い知ります。
工学部のある研究棟には、浮世絵コレクション(本物)が何枚も壁にかかっていました。

彼らのツァーには必ず学生が生活するゾーンが含まれます。
こちらは学生寮に近いカフェテリアですが、左側の「オー・ボン・パン」
(ボストン近辺で展開しているベーカリーチェーン。日本でいうと神戸屋?)
は、一般道に面しており、誰でも利用することができます。

図書館にもほとんど個人名がついています。
成功した卒業生が自分の出身大学に建物を寄贈して名前を残すのです。

このブロンズ像は「シルマンの猫」というそうです。
ロバート・シルマンは当校で『も』学位を取り、「コグネックス社」の創立者となりました。

シルマン氏はまだ存命ですが、この銅像の詳細(なぜ猫なのかとか)
については実のところはっきりしていないようです。

当たり前ですが、アメリカの大学にはどこも中心となるところに
国旗が掲揚されています。

学舎を寄付するほどの富豪になれずとも、自分が在籍していた証を残すことはできます。
卒業生の名前が刻まれたロータリーの敷石。

また別の日。

わたしたちはまたしても同じ大学のツァーに参加しました。
今回は建築専攻科の見学をするためです。
前回と打って変わって、この日の天気は一日中雨でした。

ただしアドミッションオフィスの近くに車を止めることはできました。

当大学は1916年に開学しました。
ちょうど第一次世界大戦(1914−8)の真っ只中に創立されたということになります。

ということは、このベテランズメモリアルは、それ以降の戦争の犠牲者のものでしょう。
慰霊碑には第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の写真があしらってあります。

さて、今回わたしたちは建築科の説明を聞くために参加したのですが、
建築は工学部ではなく「アーツ・メディア・デザインカレッジ」に含まれます。

デザインのほか、「メディア」はコミュニケーション学科、
メディア・スクリーン研究、
音楽学科、映画、ジャーナリズムなど。

ということで、前回の参加者とは明らかに参加者の雰囲気が違いました。

一口で言うと、女子、しかも明らかにあわよくばキャスターになったる!的な
気合の入った化粧バッチリ系が全体の雰囲気を支配していたといいますか。

卒業後の就職先にはテレビ局もあり、どの局のなんとか言うキャスターは
うちの出身ですよ、みたいな説明もありました。

説明を聞いていた中から、志望学部ごとにツァーが出発していき、
最後に残ったのはメディア専攻とは全く雰囲気の違う、
よく言えば理系、悪く言えば地味系の見学者が建築科見学者でした。

説明をしていたデザインカレッジのディレクターは建築科の主任で、
わたしたちは彼に連れられて、建築専攻の建物に向かいました。

建築の建物はキャンパスが接している線路の高架下を利用しています。
時折大きな音を立てる作業なので、高架下はちょうどいい場所なのでしょう。

高架下なので、細長く延々と続く作業室は全て建築科の領域です。

天井にはむき出しで電気と温水のパイプが張り巡らされ、
長いソケットが天井からブラブラとぶら下がっています。

一応その辺のポスターも写真に撮っておきました。
いわゆる絶叫マシンのデザイン、などと言うカテゴリもあるんですね。

集合住宅のデザイン。
アメリカのように土地のあるところにはいくらでも家が建てられるので、
集合住宅の需要はあまりないと思われがちですが、都市部では決してそうではありません。

昔の公衆電話のように生徒なら誰でも使えるコンピュータがあります。

合格率の低さに反比例して学費は大変お高い大学でしたが、
アメリカの大学は名門になるほどこの傾向が強くなります。

さて、東海岸ではもう一つ大学のキャンパスを見学しました。

ボストン郊外の緑の多い高級住宅街の中に忽然と現れる工学系カレッジ。
2000年以降に生まれた新しい大学ですが、工学系大学関係者や、
企業からはその先端的な教育で大変注目されています。

創業者の肖像。
アドミッションツァーに参加する学生の数は前回の総合大学とは全く違い、
全部で10人くらいで、全員がツァー前に自己紹介しあいました。

学校の規模も一学年が80名と大変少なく、生徒3人に教授が一人、という割合です。

しかしアメリカのカレッジなので、キャンパスは日本規模なら「広大」と言っていいでしょう。
何しろ、グラウンドとスポーツコート、学生宿舎をもつキャンパスが、
それまでただの森であったところに突如現れるのがアメリカなのです。

アドミッションの説明は、当大学の特殊で革新的な教育がいかに注目されているか、
その創立の意義などから始まりました。

古い映画のポスター風の「大学ができます」というお知らせがユニークです。

専攻は電気・コンピュータ工学、機械、工学一般の三種類。
工学一般はバイオエンジニアリング、コンピューティング、デザイン、
材料科学、システムなどに分かれます。

工学教育におけるコミニュケーションやチームワークを重視しているのも特徴です。

工学、といっても、アーツ、ヒューマニティ、社会科学、起業の要素の融合させ、
学生がここで学んだことが社会に即役に立つことを目標としています。

オーケストラも「クラブ活動」の域ではなく、授業の一環として重視されています。

「スポンサー」というのは、この大学に1年あたり5万ドルを供出する企業です。

そのお金は学生のプロジェクトに充てられ、学生はスポンサー企業と連絡を取り合って
企業の求める研究や商品の開発を行うのです。

面白いのはそこで終わるのではなく、それらの市場におけるニーズ、
ビジネスとして成立するかについても分析を行います。

そんな大学ですから、卒業後の進路はよりどりみどり。
109の会社がリクルートに訪れた、とありますが、卒業生はせいぜい80名。

いかにこの新設大学卒業者が企業側からも嘱望されているかがわかります。

そんな大学ですから、学費が高くて当たり前。
というか、高いので有名なんだとか。

しかしこれは額面で、奨学金で半分は賄えるそうです。

説明の後は他の大学のように現役学生が案内するツァー開始です。

合格する学生の学力は大変高く、SATスコアはMITやカルテックレベルとか。
右側の男子生徒はジョージア工科大学にも合格したそうですがこちらを選んだそうです。

女子の方は『家から近かったから』。

学内どこに行ってもこのような、雑然としながら秩序のあるクリエイティブ雰囲気があります。

彼らの説明によると、ビリヤードは彼らに取って非常に意味のあるホビーなんだとか。

ラーメンを食べているプシーン猫のイラストを目敏くを見つけて写真を撮るわたし(笑)

椅子や机はあちらこちらに配置され、ソファーがあったりして実に自由な空間。
どの机の上も何かの途中で席を立ったようにモノが放置され、
潔癖症なら気が狂いそうになるかもしれません。

ここはなんと「ライブラリー」ということになっている部屋。

吹き抜けの空間を臨む腰高の仕切りにはコンピュータデスクがありますが、
そこに向かっている男子生徒は裸足で、右足を左脚の膝にかけ、
一本足の姿勢で立ったまま、ずっとコンピュータに向かっていました。

なんかとにかく凡人じゃないって感じ。

というわけで大変印象的な大学見学は終わりました。

この周辺には東部の名門カレッジが多くあり、当大学は大学間の
相互乗り入れや共同講義を行っているということです。

住んでいた時代からお気に入りだったベーカリーの支店がここに。


西海岸でも大学見学を行いましたので、後半はそのご報告です。

 

 


ロニー、ウィニー、ロージー・ザ・リベッター〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-21 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」内の展示、ミリタリー・ウーメンシリーズ最終回です。

航空、事務、医療、通信、暗号などの仕事で軍に直接関わった女性だけではなく、
戦地に出た男手が足りないのを補うため、軍事産業に携わる民間人女性がいました。

 

日本では世界大戦が始まってから、国家総動員法が制定され、
「国民皆兵」をスローガンに徴用が始まり、勤労動員として
軍需工場などに女性も働きに出ることになります。

余談ですが、朝鮮人徴用について少し触れておきますと、
国民徴用令が出されてもしばらく彼らは適用外とされていました。
しかし戦争が激化し、1944年8月に徴用決定後は終戦まで継続されます。
ちなみに日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月で終了しています。

徴用は宿舎を用意され、正当な報酬が支払われたため朝鮮人の間で人気があり、
三菱鉱業が朝鮮人対象に求人したところ倍率は7倍になったそうです。

戦後、賃金の一部が未払いであったことが問題になりましたが、
それも戦後、両国間の協定によって未払い賃金を含めた経済支援が韓国に行われ、
完全かつ最終的に解決された・・・・・はずなんですが、
今頃になって韓国が徴用を「強制」とし、大企業を訴えたりしてますね。

つまり「協定で解決済み」で終わる話なんですが、とにかく相手は
日本からの謝罪と賠償のネタを失いたくないばかりに、
ゴールポストを動かし続ける国ときていますから、最近も
「徴用工の像」なるものを作って嫌がらせにかかっています。


さて、国家総動員法が布告されたわけではありませんが、アメリカでも
同じように出征した男性の穴を埋めるために、それまでの男の職場に
女性が働き手として進出することになりました。

主婦を対象に働き手を募集することになったある企業のポスターには

「ミキサーは使えますか?それならあなたはドリルを操作することもできます」

という誘い文句が書かれていました。
家事がおろそかになるとそれに文句を言う(戦争に行かない)夫たちに対しても、
当の女性たちにも、彼女たちの労働が兵士たちを支援することになることに
誇りを覚えるようなプロパガンダが政府主導でなされたのです。

「ロージー・ザ・リベッター」はそのアイコンとなりました。

女性の働き手が国策によって男性の職場に進出しだしたのは真珠湾攻撃以降ですが、
彼女らを象徴的に表す「ロージー」の出現は、1942年になってからです。

この「ロージー・ザ・リベッター」と言う歌は、ナットキングコールやドリス・デイのために
作詞したこともあると言うレッド・エバンスとジョン・ロエブによって作曲され、
ビッグバンドなどがカバーして有名になり、流行しました。

歌詞で「ヒストリー」と「ビクトリー」の韻を踏んだり、

「彼女のボーイフレンド、チャーリーは海兵隊にいる
彼女は工場で働き、彼を守ることに誇りを持っている」

などといういかにも官製プロパガンダといった内容とはいえ、
そんな歌詞を流行りのスタイルに乗せた、ノリのいい曲です。

リベッターの『R』で「Rrrrrrrr」と舌を巻くのは個人的にいまいちですが。

最後には

「またキッチンに私たちを戻してね」=「早く戦争を終わらせてね」

とエプロンをした女性が呼びかけています。

 

戦時中の軍需産業勤労女性の象徴となった「ロージー」のモデルと言われる人物は
何人か名前が挙がっており、
サンディエゴのコンベア社(現在はジェネラルダイナミクス社に吸収)で
働いていた、ロージー・ボナヴィータであったとする説、
ケンタッキーのウィロー・ラン航空会社でBー24、Bー29を作っていた
ローズ・モンローだと言う説、

ローズ・モンロー

コルセアでガルウィングのF4U戦闘機のリベットを打っていた
ロザリンド・P・ウォルターであったとする説。

実際のところ、本物のロージーはなく、歌ができてから
「それらしいロージー」を仕掛け人たちが探し歩き、
見栄えのいい(モンローは映画出演も依頼されている)
ロージーを何人かでっち上げ?たというのが本当のところのようです。

日本ではあまり有名ではありませんが、アメリカではこのポスターを
例えば軍事博物館の売店などで見ないことはありません。

わたしもいろんなところでこれを頻繁にみるうちに、いつのまにか
これが「ロージー・ザ・リベッター」であると思い込んでいたのですが、
こちらはウェスティングハウス・エレクトリック社が依頼したポスターで、
よく見ると右襟には同社の身分証明バッジがつけられています。

つまり、これはロージーとは何の関係もなく、WE社が二週間使っただけで
ほとんどのアメリカ人は第二次世界大戦中このポスターを見たこともなかったのです。

ロージー・ザ・リベッターを広めるためにポスターを依頼されたのは、
実はあのノーマン・ロックウェルでした。

しかしこちらは、ロックウェルの著作権がガッチリと生きていたため、
戦後もそれほど有名になることはなかったということです。

”WE CAN DO IT! ”のポスターは長らく埋もれていましたが、1982年に再発見され、
当時はいわゆるウォーマンリブ、フェミニズム運動のシンボルとして使われ、
それ以降全米で有名になりました。

撮影年、場所は不明ながら、当時の”ロージー”たち。
頭につけた防具から、溶接の担当であったらしいことがわかりますね。

女性が、となるとどうしてもこういう、こんな美人がこんなことしてますよ、
というギャップで注目を集めようとする傾向が生まれるのはこれはもう
人の世の常というか、致し方ないことかもしれません。

モノクロ写真でもはっきりと彼女が当時の流行りの口紅
(パールハーバーでヒロインがつけていたような真っ赤)
をつけて溶接作業を行おうとしているのがセクシー。

ここで実際に「その他大勢のロージーの一人」に、当時のことを語ってもらいましょう。

ヘレン・マーフィ・オコネル・マーチェッティさんはこう語ります。

”金属加工の第二シートに配属されたの。
プレスをする仕事だけど、男の仕事をわたしができるか最初は不安だったわ。
でも、数週間経つと完璧に仕事をマスターしたの。

そう、わたしはやったのよ。

最初の日にボスのマクドナルドさんが私たちにやり方を見せてくれて、
そのあと実際に誰かやってみろ、って言ったのね。
エセルが14人いた女性の一番前にわたしを押し出したので、
そのおかげでわたしは、

「最初にここで仕事をした女性」

となったってわけ。
マクドナルドさんは

「あー、君はこのマシーンに興味があるみたいだね?

なんていうのでガックリ来ちゃったけど。
でも結局私たち全員、この仕事をちゃんとマスターできたのよ。

この機械はとにかく騒音がものすごくって、そうね、
最初に働き出した時には巨大なコーヒーミルの中にいるみたいだった。
全ての機械が「ガーッ!」「ガーッ!」「ガーッ!」これが一日中。
そして戦争が続いている間、これがずっと続いたのよ。”

また、エレノア・へガーティ・ウィリアムスさんは、当時の工場勤務の女性が
男性から受けた仕打ちについてこう語っております。

”男たちの私たちに対する扱いはいいとは言えなかったわ。
彼らは私たちを野次ったり、口笛を吹いたり、仕事ができなくて
困っている時にも助けるどころかあざ笑ったりしていたの。

誰一人として私たちが困難な目にあっても助けようとしなかった。
だから頼れるものは自分だけ。
造船所の旋盤の前でも、船の上でも、野外であってもよ。

わたしたちは重たい索をバルクヘッドから引いて来て手で引っ張ったわ。
死ぬほど辛かったけど、でも誰も男の手を借りにいこうとはしなかった。
彼らにそれを知らせることすらしなかったわ。

労働環境は最悪、だってもともと男が働くための施設なんですからね。
労働者にはサボタージュする者もいたし、強姦や窃盗すらあったわ。
だからそこにいる時には全身に神経を張り巡らせ、自分を守るの。
一人では行動せず、いつもパートナーと動かねばならなかった。

それはともかく、わたしがここで働いていてもっとも誇らしかったのは、
何と言っても重巡洋艦「ピッツバーグ」が進水した時だったかしら。
彼女の巨大な船体が水の中に進んでいくのを見ながら

「ああ、あのターレットやバルクヘッドの一部はわたしが作ったのよ!」

って・・・感無量だったわ。
わたしには兄弟が3人いて、一人は海兵隊、一人は海軍、
もう一人は沿岸警備隊にいたの。
彼らの乗る船も、わたしのような女性が精魂込めて作ったものだったのよ。”

さて、ここ「マサチューセッツ」が展示艦となっているフォーリバーには
造船所があったことを前にも「キルロイワズゼア」の落書きについて説明するついでに
お話ししたかと思いますが、この「ロージーさん」は、フォーリバーに関する蘊蓄を

「Ten Fast Facts」

として10項目教えてくれる係。

ざっとご紹介しますと、

1、クィンシーは、ジョン・アダムスが最初に海軍を結成した地です。
 議会は彼の提案を承認し、米国海軍がここに誕生しました。
 アダムスは生涯自分が海軍の父の一人であることを誇りにしていました。

2、米西戦争が起こった後、アメリカは鋼鉄製の船を必要とするようになり、 
 それまでの木製から鋼鉄製に船を造り変えていくために造船所を作りました。
 グラハム・ベルの電話の発明に関わって財を成したトーマス・ワトソンが、
 ここにフォーリバー造船所を造り、歴史に名を残しました。

3、フォーリバー造船所はあらゆるタイプの造船が可能な設計で、
 空母から戦艦、巡洋艦、そして潜水艦を全て作ることができました。
 民間船でもフルーツボートから豪華客船まで、作れないものはないというくらい。

4、海軍の船の艦名はどうやってつけているか?というよくある疑問について。
 戦艦(今は潜水艦)は州名、巡洋艦は都市名、駆逐艦は人名、そして
空母は大統領名か、戦争の時の提督の名前です。

5、「キルロイ・ワズ・ヒア」というのは、第二次世界大戦時に流行った落書きです。
 ジェームズ・キルロイはここクィンシーの検査官で、検査済みの箇所に
「キルロイ」のサインをチョークで入れたことから、海軍軍人を通じて広まりました。

(この写真の説明下部に”キルロイ”の例の顔が見える)

6、ガダルカナルの戦いでヒーローとなったレオナルド・ロイ・ハーモンの名前をつけた
 駆逐艦「ハーモン」はここクィンシーで建造されました。
 これは史上初めてアフリカ系軍人の名前がつけられた軍艦になりました。

 彼は同じ薬剤師の同僚を庇って「サンフランシスコ」艦上で敵の銃弾を受け死亡しました。

7、最初の原子力搭載艦はクィンシー造船所で建造されました。
 原子力ミサイル巡洋艦「ロングビーチ」とミサイル巡洋艦「ヴィンセンス」です。

8、第二次世界大戦の間、史上初めて女性が工廠の仕事をすることになりました。
 彼女ら※「ウィニー・ザ・ウェルダー」たちは偉大な労働者であることを証明し、
 戦時非常態勢において、その造船数は記録的なものになりました。

9、第二次世界大戦中にクィンシーで建造された船には、
日本側が三度も撃沈したと発表するもその度に生き返って姿を現したことから
「ブルー・ゴースト」とあだ名されていた空母「レキシントン」、

そして35回の戦闘において一人の人命をも失わなかった
戦艦「マサチューセッツ」などがありました。

「マサチューセッツ」の16インチ砲は、第二次世界大戦の最初と、一番最後に発砲されました。

巡洋艦「クィンシー」はDーデイの時に最初に砲弾を撃ちました。
彼女は現在もクィンシーセンター駅に残されている鐘を残し、解体されました。

JFKの兄であるジョセフ・P・ケネディJr.の名前をつけた駆逐艦も
ここで建造されました。
彼は爆撃機のパイロットでしたが、任務途中で戦死しました。

10、 USS「セーラム」も第二次世界大戦中にここクィンシーで建造が始められました。
しかし彼女が運用されたのは戦後で、一度の戦闘も行わずに引退しました。

彼女の名前「セーラム」には「平和」という意味があります。

 

 

また当時「ウィニー・ザ・ウェルダー」というロージーの別バージョンもあり、
カリフォルニアのカイザーリッチモンドリバティー造船所の労働者である
ジャネット・ドイルをモデルにしていたといわれています。

このほかにも、

ロニー・ザ・ブレンガン・ガール(Ronnie, the Bren Gun Girl)

と言って、カナダでブレン軽機関銃を組み立てていた女性を
カナダ系軍需労働女性のシンボルにするというムーブメントもありました。

彼女はジョン・イングリスという兵器工場の労働者で、名前は

ヴェロニカ・フォスター

組み立てたばかりのブレン軽機関銃を前に、タバコを一服やっているフォスター。
外は真っ暗。
夜遅くまで仕事して、しかもまだ帰れないらしいことがわかります。

ブレンガンガールのロニー、ウェルダーのウィニー、そしてリベッターのロージー。

国策でもてはやされた勤労女性の象徴の戦後はどのようなものだったのでしょうか。
先ほど体験談を語ってもらったエレノア・ハガーティはこんなことも言っています。


「戦争が終わって女性が解雇された時、複雑な感情だったわ。
男の人が戦争から帰って来て元の職場に戻るのは確かに喜ばしいことだけど、
わたしは途方に暮れてしまった。
『じゃあわたしはこの後ここからどこに行けばいいの?』って・・。


彼女らのアイコンであった「ウィ・キャン・ドゥー・イット」が、80年代に発掘され、
女性の人権を訴える運動のシンボルに担ぎ上げられたのは、何かの因縁でしょうか。

 


ミリタリー・ウーメンシリーズ終わり




ナイチンゲールとドーナツ・ドリー〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-20 | アメリカ

 女性が軍と関わることになった原初的な理由は、看護師の必要性でした。
戦闘によって必ず出る負傷者の手当は女性にもできるからです。

南北戦争の時も、例えば彼女、メアリー・ウォーカーズ博士は医師の資格がありながら、
軍医ではなく、看護婦として従軍することを余儀なくされましたが、それは
看護婦以外の女性の従軍が許されていなかったからです。

南北戦争時、「民間人によるボランティア」という形で活動していた看護隊ですが、
その後1908年になって、アメリカ海軍は初めての看護部隊を編成しました。

それが彼女ら、「聖なる二十人」といわれた看護師たちの部隊です。

説明がなかったので詳細は不明ですが、ヘルメットの形とガスマスクから、
第一次世界大戦時に撮られた写真であることは間違い無いでしょう。

前線にいるわけでは無いのですが、ガスマスクを支給されたので
ちょっとつけてみました的な・・・?

この戦争では看護衛生以外、例えば彼女たちのように
メッセンジャーの役割で従軍していた女性たちがいたようです。

これも艦内の壁をくり抜き、ガラスをはめて展示してあった割には説明がなく、
どこで使用されていた鐘かは不明なのですが、装飾してある木製の台を見ると、
アスクレピオスの杖かな?と思われる紋章が入っているように見えます。

このマークはアメリカ陸軍医療部隊のものです。

蛇足(文字通り!)ですが、医療のシンボルとされるアスクレピオスの杖は、
蛇が一匹だけ杖に絡みついているものを指します。

こちらはアスクレピオスの杖ではなく、蛇が二匹で上に翼がついており、

ヘルメスの杖である「ケリュケイオン」(カドゥケウス)

であるというのが正解です。
ケリュケイオンの杖は、医療ではなく「商売や職業や事業」を表すもので、
これを医療部隊が使うのは「誤った認識によるものである」(wiki)のですが、
ケリュケイオンの効能?の中に

「眠っている人を目覚めさせ、目覚めている人を眠りにいざなう
死にゆく人に用いれば穏やかになり、死せる人に用いれば生き返る

というものもあるので、あながち間違いと言い切れないような気もします。

赤十字の看護師を募集するポスターには、まるで映画の一シーンのように、
傷つく兵士を抱きかかえる美人の看護師が描かれ、

「戦う男たちには看護師が必要だ」

という直裁な誘い文句が書かれています。

ここに展示されているのは、いずれも医療関係の女性軍人の制服ばかり。
左から解説していきますと、

(黄色のシャツドレス)第二次世界大戦時

コットンのシャツドレスはアメリカ赤十字の女性たちが製作したもの。
ドレスにはプリンセスシームとダーツがあしらわれ、
女性らしいラインを強調するデザインになっています。
ポケットは飾りではなく実際に使用することができ、カフス、襟と
看護帽の前を白くしてデザインのポイントと看護着らしさを表現。


(グレイのシャツドレス)第二次世界大戦後

このコットンドレスも、病院のメンバーと赤十字のメンバーが
レクリエーションとして縫ったものと言われています。
このタイプはのちに「グレイ・レディス」と呼ばれていました。

白のカフスとエポーレット、そして看護帽前部が白というもので、
これがナーススタイルの典型とされたスタイルです。
結局このタイプは十五年間くらい使用されていました。


(黒のケープ)第二次世界大戦中

グレイ・レディスの上に着用している黒のライトウールのマント、
これは非常にレアなものだそうです。
マンメイド、つまりカスタムメイドではなく特注となり、
値段もお高かったので、
誰でも持っているというものではなかったのです。

言われてみると、スタンドカラーといい、裏地にグレイという
凝った作りといい、いかにも手がかかっているような感じ。

ケープそのものもスリーパネルのはぎ合わせで、裁断も素人には無理そうです。
赤十字の人が余暇に作ることはできないでしょうから、
おそらくテーラーに注文して手に入れるものだったのでしょう。

それでもどうしても着たい!ってことで作っちゃう
おしゃれな(そしてリッチな)看護師さんもいたんだろうな。


(グレイ・ドレスジャケット)第二次世界大戦中

チャコールグレイの上着はウールで、裏地はダクロン・ポリエステル製。
バックにはダーツが入っています。

ラペルのブルー刺繍がポイントのこのジャケット、左袖には
二つのパッチが縫い付けられ、非常に珍しいものだそうです。
右袖にはこれを寄付した人物が所属したところの、
陸軍第7大隊のマークがついています。


(グレイ・ベルト付きコート)第二次世界大戦時

エポーレットには緑のパイピングが施されています。
シングル打ち合わせのコートはこれも裏地がダクロン製。
ウィングチップのカラー、ショルダーパッド入り、
背中はハイキックプリーツのベント。
エポーレットとマッチするように、カフスにも緑があしらわれています。 

アメリカ赤十字社は1881年、南北戦争に従軍し、

「戦場の天使」「アメリカのナイチンゲール」

と言われたクララ・バートンによって設立されました。

戦時、赤十字はアメリカ軍のために様々なサービスを行うわけですが、
最も重要と思われるのは、家族と戦地を結ぶ緊急連絡をとりもつことです。
また退役軍人の団体などと緊密に協力し、彼らにきめ細やかなサービスを提供しています。

ただし、戦争捕虜は国際機関である国際赤十字委員会の所掌となっています。

赤十字の活動の中に、前線の後方で女性がコーヒーとペストリーを兵士に配る、
(彼女らはボランティアで志願)というものがありましたが、彼女らは

「Doughnut Dollies」(ドーナツ・ドリー)

という愛称で兵士たちに親しまれていました。

こちら、赤十字社の創立者、クララ・バートン女史でございます。

南北戦争が起こった時、志願して従軍した彼女は、負傷者の手当だけでなく、
物資の配給や、患者の精神的ケアも行い、いくつもの前線を体験しました。

彼女はこの戦争で前線の病院の責任者に軍から任命されています。

 

4分くらいから彼女が登場し、妙にロマンティックなストリングスのBGMの中、
天使と言われた彼女の活動が描かれます。(おヒマな方用)

 

南北戦争後、彼女は多くの家族や親戚から戦争省あてに
兵士の行方を問い合わせる手紙が来ていることを知り、
無名兵士の墓などに埋葬されてしまって行方が分からなくなっている兵士の
身元調査を行う活動の許可を、リンカーン大統領直々に願い出ました。

その後起こった普仏戦争にも従軍した彼女は、帰国してから
アメリカに赤十字を設立する運動を開始し、その8年後の1881年、
設立が成った赤十字会長に自らが就任しました。

時にバートン、60歳。

普通なら男性でも仕事を引退してそろそろ楽隠居という年齢です。
しかもそれから23年もの間、実際に被災地に赴くなど精力的に活動を行い、

会長の座に君臨し続けたのでした。

しかしさすがに83歳になったとき、

「公私混同を非難され」

引退を余儀なくされた、となっています。
自分で作った組織という意識が老いの頑迷さも手伝って、
専横な振る舞いに繋がってしまったということかもしれませんが、
まあ・・・83歳ですからね。

それまで無事にやってこられたってのが逆に不思議なくらいです。

 

こちらのアーミー・フィールズコートは、女性用外套です。
バスローブのような打ち合わせの、裏地のついたコートですが、
目を引くのは全面に縫い付けられた無数のパッチ。

負傷などで入院していた兵士たちが全快して退院するとき、自分がここにいた記念と
お礼を兼ねて、置いていった
自分の所属部隊のパッチを縫い付けたものです。

このコートはマーガレット・クリスト大尉(写真)の所有で、
彼女はイギリスの第155陸軍病院に勤務していました。

公式に陸軍に看護部隊ができたのは1901年のことになります。
第二次世界大戦時、2万人以上の女性が看護師として海外に赴き、
後方にあった1000もの病院の勤務に就いていました。

多くの戦場で、彼女たちは最前線にごく近いフィールドテントにも詰め、
そこで傷ついた男性の治療に当たることもありました。

これは「モア・ナース・ニーデッド」(もっと看護師が必要です)
と書かれた陸軍看護師募集のポスターですが、
こちらを見ながら渋く語っているらしいイケメンの

「The Touch Of The Woman Hand...」

という言葉にグッとくる女性を狙ってのことでしょうか。
そもそもこの男性が医者なのか患者なのかもわからないわけですが。

白い肩パッドの入ったテーラードスーツ、タイトスカート。
海軍のナースの制服のなんと凛々しく美しいこと。

南北戦争時代、「レッドローバー」という病院船があり、
それに看護師が乗っていたという記録はありますが、

冒頭写真の「聖なる二十人」の誕生する1908年まで、
海軍には正規の看護部隊はありませんでした。

彼女らが先鞭をつけることで、第一次世界大戦の頃には看護師の数は拡大し、
海外、フィリピン、サモア、グアムなどの海軍病院や訓練学校に配属されていきました。


そうと聞いても驚きませんが、彼女らにとってもっとも困難だった仕事の一つは、

海軍病院の部隊で教官となったとき、女性から命令されることに反発する
男性の訓練生の指導であったということです。


第一次世界大戦時、海軍の看護師部隊は、基本的にイギリス、フランス、
アイルランド、スコットランドなどに派遣され、前線近くの
陸軍基地に、一時的に陸軍のために仕事を行うこともありました。

1918年から1919年の間に12万人の水兵や海兵隊員が犠牲になったといわれる
スペイン風邪のパンデミックのときには、彼女らの中に数名の殉職者を出しています。

真珠湾攻撃の時、海軍の看護師たちは、海軍病院で何百人もの負傷兵の治療にあたりました。

そういえば、映画「パールハーバー」のヒロインは海軍のナースでしたね。
トリアージをするのに、自分の真っ赤な口紅をバッグから出して、
負傷兵のひたいに「緊急」「後回し」「死ぬ」など印をしてましたっけ。(悪意あり)

そして、

「あんたの破れた血管を手でつかんで血を止めてやったのは誰?」

とかいって入院していた兵隊を脅迫し、自分の恋人の居所を聞き出すとかね。

・・・・・ろくなもんじゃねえこの看護師(笑)


さて、そのような戦後の映画が作り上げた架空の人物のことはどうでもよろしい。
最後に、看護師の職に準じたある若い女性をご紹介しましょう。

 

フランシス・スレンジャー Frances Slanger(1913-1944)

彼女はヨーロッパ戦線で最初に亡くなったアメリカの看護師でした。

彼女はポーランド生まれのユダヤ人として生まれましたが、
迫害を逃れ、家族とともにマサチューセッツ州ボストンに移住していました。

その後ボストン市立病院の看護学校に通い、1943年には陸軍看護師団に入隊。
ヨーロッパに派遣され、D-Day侵攻後、ノルマンディーフランスで医療活動にあたりました。

そして任務の済んだある夜、宿舎となったテントでこんな文を含む一通の手紙を書きました。

「銃の背後にいる人、タンクを運転する人、飛行機を操縦する人、
船を動かす人、橋を建てる人 ・・・・・。
アメリカ軍の制服を着ているすべてのGIに、私たちは最高の賞賛と敬意を払います」

これを書き終わって一時間後、彼女はドイツ軍の狙撃兵に撃たれ、戦死。
わずか33年の生涯でした。

その後、彼女の名前は、陸軍の病院船” Lt Frances Y. Slanger "に遺されました。

 

 

続く。

 

 


Vメール〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-17 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」艦内における展示「女性と軍」シリーズ、
独立戦争から近代までの戦争と女性、そして20世紀になって現れた
飛行機という兵器と関わるなど、軍隊におけるパイオニアとなった女性。
昨日は暗号解読や発明など、頭脳で軍とか変わった女性についてお話ししました。

展示場にあったビデオ映像では、軍と関わった経歴を持つおばあちゃまが、
かつての自分の思い出を語っておりました。
時間がなかったので彼女が何をしていたかはわかりませんでしたが、
彼女の後ろにある写真を見ると、実際に軍籍があったようです。

今日もそんな女性を紹介していきましょう。

まずは政治家の立場から軍隊に関与した女性。

エディス・ヌース・ロジャース。(1981-1960)

なかなか可愛らしいおばあちゃまですが、女性として初めて
マサチューセッツ州議会議員になった女性で、晩年は議会の最長老議員でした。

真珠湾攻撃以降、軍に女性の補助的マンパワーが必要となったことを見通し、
正式な軍人としての女性登用を法制化する原動力になった政治家です。

 

ルーズベルト大統領の承認によってWAACと呼ばれる女性補助部隊が発足したのは
1942年の5月のことです。

この補助部隊は、あくまでも後方勤務に限られた活動をすることが厳重に規定され、
死の危険のある任務や任地に女性は配属せざるべし、ということになっていました。

なお、同年7月にはWAVES(ちなVはボランティア-志願-のV)、海軍の女性部隊、
沿岸警備隊の SPARS、海兵隊の女性予備部隊も44年には議会承認されました。

WAACはその後「補助」を意味するAがなくなった「WAC」となります。

例えば前々回話した沿岸警備隊の「ヨーマネッツ」や海兵隊の女性事務は、
男性の同ランクと同じ給料をもらい、退役後の扱いも同等でした。

しかし部隊に所属した看護師たちは軍服こそ着ていましたが、給料の点でも
退役後も、あくまで補助的な扱いしか受けていませんでした。  

WACはこの点でも完全に男性と対等の給与体系を取っていました。


また、彼女は、男女を問わず退役後の軍人の再就職やローンの面倒を見る

G.I.BILL

という名前の法律を作るのに大きな働きかけをしています。


軍が募集した女性の人材は、看護や事務、そして新たに必要となった
航空業務関連の仕事に就いたわけですが、そのための特別な訓練をするキャンプは、
マサチューセッツのスミス大学、マウントホリヨーク大学などの女子大に設けられました。

おそらく、東部の「セブンシスターズ」と呼ばれる、憧れの名門女子大で
訓練が受けられる、
ということで人が集まるという効果も見据えてのことでしょう。

さらに、軍に何らかの関わりを持った女性政治家というと、この人。

「今どこかで誰かがわたしのために死んでいることを忘れてはいけない」

戦争の陰にある個人の生死と彼の残された家族について、
常に深い関心を寄せていたエレノア・ルーズベルトさんの図。

彼女はリベラル思想を死ぬまで貫き、

「戦争が最高の解決策なんてとんでもない。
この前の戦争で勝った者はだれもいないしこの次の戦争でも誰も勝たない」

という言葉も残していますが、左翼・共産思想は徹底的に批判しました。

その彼女の夫は「戦争しない」ということで大統領になったのに、
日本軍の真珠湾攻撃が起こり、否応無く開戦を決めてしまいましたが。

一旦そうなってからは、彼女は戦争遂行を決定した大統領の妻として、

「わたしは今死んでいく人たちのために何ができるのか?」

をモットーに、精力的に兵士たちの訪問を行なったということです。 

さて、前回、アフリカ系女性だけの「郵便大隊」があったという話をしましたが、
今日は戦時中の軍隊と郵便について少しお話しします。

このポスターは、

「心を込めて書いた手紙が戦地にいる彼の元に届くことで
あなたは彼と一緒に居られるのです

つまり

「戦地の恋人に手紙を書きませうキャンペーン

このポスターの下部には

「Vメールは確実で個人情報も守られます」

書かれていて、これが戦時中に戦地に届けるための手紙システム、

ビクトリーメール=Vメール

の宣伝であったことがわかります。

Vメールとは、第二次世界大戦中、アメリカが海外に駐留する兵士に
対応するための
主要かつ安全な方法として使用された、いわば
「ハイブリッドメールプロセス」でした。

軍事郵便システムを通じて、元の手紙を転送するコストを削減するために、
V-mailとして投函された手紙は検閲され、フィルムにコピーされ、
目的地に到着すると、紙に印刷されだものが宛先人に配達されるという仕組みです。

なぜこんなことをしなければならなかったかというと、本来の手紙によって
占められる
何千トンもの貨物搭載スペースを、少しでも節約するためでした。

例えば1,600字の普通紙の重さは23kgですが、フィルムの1,600字はわずか140g。
今では電子メールによって解決している問題ですが、当時は切実だったのです。

 

Vメールはマイクロフィルムでサムネイルサイズの画像として撮影され、
運ばれる前に、メールセンサーを通過させます。

目的地に到着すると、ネガは印刷され、元の原稿サイズの60%となる
10.7cm×13.2cmのシートが作成され、受取人に渡されました。

Vメールに使われた封筒。
もともとマイクロフィルムの画像で手紙を撮影して送るシステムは、イギリス発祥で、
イーストマンコダック社が開発し、軍用ハトに運ばせたりしていたものです。

 

ところで上のポスターには「あなたの個人情報は保全される」と書いてありますが、
マイクロフィルムで撮影する段階で検閲され、第三者の目に触れることになるわけで、
その時点で個人情報は漏れる可能性が出てきますね。

Vメールを運営する軍としても、この問題については色々と対策をしており、
Vメールで送る情報をスパイから守るために、

●インビジブル・インク(目に見えず何らかの手法でしか再現されないインク)

●マイクロドッツ(機器を通して長い文章をピリオド一つ分にまで圧縮)

●マイクロプリンティング(小さな文字を専門のプリンタで打つ)

などという手法を用いたということですが、それにしても
見えないインクで書かれたVメールって、どうやって再現したんだろう・・。

こちら、1944年のクリスマスのためにデザインされたVメールカード。
C.B.Iとは「CHINA-BURMA-INDIA」THEATERの略。

Theater には戦場という意味もあり、これは中国、ビルマ、インド戦線のことです。

第二次世界大戦時代、戦地に届くメールは何よりも兵士たちの心の支えとなり、
生きて帰ることの希望の糧となり、そして士気にも大きく影響するものだったので、
郵便物に関わることを専門にした部隊が、女性を中心に編成されました。

写真はフランスのどこかの病院で1944年に撮られたもので、
メアリー・ファーレイ中尉が看護部隊の女性兵士に手紙を配っているところ。

 


 

従軍記者も本来は男の仕事ですが、女性の従軍記者もいました。

マーサ・ゲルホーン Martha Ellis_Gellhorn(1908−1998)

記者として一流であったという彼女ですが、ヘミングウェイの三番目の妻として有名です。

「私が愛したヘミングウェイ」(原題は”ヘミングウェイとゲルホーン)というタイトルで
ニコール・キッドマンがゲルホーンを演じた
テレビドラマがあったようですね。

Hemingway & Gellhorn: Tease

 

このドラマのwikipediaを見ると、そのストーリーは・・・

 

1940年、(ヘミングウェイは)ゲルホーンと再婚する。
しかし、時は第2次世界大戦下。
戦時特派員のキャリアを重視して海外に向かいがちなゲルホーンから
ヘミングウェイの心は次第に離れていき、2人はついに正面から衝突するように・・。

というものらしいです。

つまりゲルホーン女史は結婚生活を第一にするよりも、
従軍記者としての仕事を優先していたので、男の心は離れてしまったと・・・。
まあよくある話ですが、女史にとって不運だったのは、その男が
文学史に名を残す大文豪であったことかもしれません。

彼女の仕事を見ると、第一次世界大戦、第二次世界大戦共に従軍記者をつとめ、
フィンランド、香港、ビルマ、シンガポール、イングランド、
そしてノルマンディー上陸作戦も病院のトイレに隠れていたとはいえ、
現地から報道を行ってきた剛の者です。

当然ですが、自分の仕事にプライドを持っていた彼女としては、後々まで自分が

ヘミングウェイの付属品のように扱われることがよっぽど頭にきていたようで、

"I do not see myself as a footnote in someone else's life."
(私の人生は、誰かの人生の”脚注”ではありません!)

 という至極ごもっともな怒りのお言葉を残しておられるのでした。

合掌。

 

続く。

 


アメリカで、食べる。

2017-08-16 | アメリカ

今日は今回アメリカで食べたいろんなものの写真を淡々と貼っていきます。
その前にコミックショップで見たネタ画像を。

トランプのトランプ。それだけです。

海軍の「私を踏みつけるな」のガズデンフラッグがあったので見ていたら、
その周りにはトランプをバカにする系のステッカーが・・・。

鼻の下にバーコードはまたしてもヒトラーになぞらえてるんですかね。

「WTF?」というのは「What The Fxxk」のことで、なんだこれ?みたいな。

さて、ボストンではあまり外食をしなかったのですが、
いつも滞在中に一度は行くことにしている

「リーガル・シーフード」

に今回も一度だけ行ってきました。
アメリカでクラムチャウダーの有名なのはボストンとサンフランシスコ。
奇しくもわたしのアメリカでの滞在地ですが、特に夏はあまり食べたいと思わないので、
ここのオススメのロブスターも実は食べたことがありません。

どーん!と大皿に守られてくる見た目にこだわらないシーフード。
この日はシュリンプを頼みましたが、いつも半分しか食べられません。

残ったものは紙パックに入れてもたせてくれるので、持ち帰り、
次の日再加工して美味しくいただきました。

もしかしたらお店で食べるより次の日の方が美味しかったかもしれません。

ボストンで見学に行った大学のキャンパスで。
ベンチでランチを食べてる学生さん?を見てキアヌを思い出すわたし。

そしてあっという間に異動の時期になり、ボストンからサンフランシスコまでユナイテッドで異動。
とてもファーストクラスの食事には見えませんが、そもそもエコノミーは食事なし。
食器がプラスチックでないだけましというものです。

パン用に一つ付いていたバルサミコ酢入りオリーブオイルの小瓶は大変便利で、
持って帰ってホテルで使いました。

確か魚を選んだ記憶が・・・。
しかし、味は仕方がないとしても(仕方なくないけど)、せめて
盛り付けくらいもう少し人間らしく、と思うのはわたしだけでしょうか。

ちなみに、色の変わった緑の野菜ですが、一口食べた途端、
ジャリっと砂を噛むような、というか実際に砂の味わいだったので、
その後を食べるのは断念しました。

そしてデザート・・・・・何も言いますまい。

サンフランシスコの中心、ユニオンスクエアには一度だけ行きました。
息子がここにある靴のアウトレット「DSW」で買い物がしたいと言ったため。

ユニオンスクエアの周辺はここ数年間ずっと道路工事中です。

買い物が終わり、ニーマン・マーカスでお茶を飲むことにしました。

レストランはいつ作ったのかと不思議になるくらい風格のある吹き抜けがありますが、
これは実は1906年の地震で生き残った「シティオブパリス」で、
ニーマンマーカスがこれを買い、元の部分をできるだけ残して、
周りの外壁は最新式のガラス張りにするという画期的な方法で改装したのでした。

お金のある企業が歴史的な建築を保存するために出資をする、
これがアメリカでは普通に行われるので羨ましくなります。

シリコンバレーでのお気に入りの店、メイフィールド・カフェにも行きました。
隣はまるでパリにあるようなベーカリーが隣に併設されています。
中は朝食にしてはお値段が高いので、サンドウィッチを買い、
外のテーブルで食べる人もたくさん。

まるでパリのカフェのよう。カフェオレはどんぶりに入って出てきます。

目の高さに鏡が貼ってあるのも店内を明るく広く感じさせます。
スタンフォード大の近くにあるせいか、ここで朝ごはんを食べているのは
いかにも学者っぽい知的な雰囲気の人ばかり。

朝ごはんには大きすぎるくらいボリュームのあるオムレツ。
もちろん家族3人でシェアします。

「ブラックティー」を頼むと、四角い小さな鉄瓶にお湯を入れて持ってきてくれます。

スタンフォード・ショッピングモールの一角にある中華料理にも一度は足を運びます。
P.F.Chan's は一応全国チェーンのレストランですが、お手軽で、
個人経営のチャイニーズにありがちな匂いや暗さがないのがありがたいところ。

揚げ豆腐のあんかけ、焼きそば、春巻きなど。

アメリカにある日本食レストランは、ジャパニーズと言いながら
得てしてコリアンかチャイニーズ経営の”インチキジャパニーズ”です。

今回ボストンで「アオイ」という名前に騙されて入ってしまった店は、
入るなり嘘くさい日本風壁画と変な匂いにまずドン引き。
ひと組だけいる先客が店主と中国語で大声で喋り、まるで人んちに来たようで、
きわめつけは箸が金属で、メニューにキムチがあったことでしたが、
ここは紛れもなく日本人の経営で、店主が板前をしている”本物”。

いつでも現地の日系人中心に客で賑わっています。

「ヒグマ」、という店名は、おそらくオーナーが北海道出身だから。

インチキジャパニーズの店内にある胡散臭い飾りと違って、
ここのは日本人ならこれはありだなあと思われるノリのものばかり。
壁には干支のカレンダーと熊の毛皮(状のもの)。

北海道の熊は鮭を咥えているのが普通ですが、ここの熊さんはなでなでしています。
お店の人もこちらが日本人だとわかると、普通に日本語で接してくれました。

TOとMKはラーメンが大好きで、たまに無性に食べたくなるようです。
わたしは寿司の盛り合わせを食べ、二人はラーメンの違う種類を頼みました。
日本国内の普通に美味しいラーメン屋と全く変わりない味だったそうです。

もう一つ西海岸で評価している日本食の店は・・・やよい軒。

そう、日本で普通に見るあのやよい軒です。

シリコンバレーの中でも、もっともおしゃれで活気があり、
住民の経済レベルが高い地域のアーケードにあります。

親子丼が16ドル、とろろ鍋定食23ドル、納豆、味噌汁が2ドルと、
こうして書き出すと結構な高級路線ですが、12%のチップを払う必要はありません。
オーダーは全てテーブルに置かれたiPadで行い、「調理済み」
「キッチンをでました」「配膳済み」など刻一刻と状況を知ることができる
 ITシステムを採用し、人件費を安くあげているからです。

つまりチップも必要ない、とお店の方でこれを断っているのですが、

「どうしても払いたい方はそのお金を寄付させていただきます」

とのことです。

白米はアメリカで食べるどこの店のものよりも美味しく、味噌汁も本物。
今の所全米でもっとも美味しい日本食、日本の日常食が食べられるのは
もしかしたらこのパロアルトの「やよい軒」ではないかと思っています。

さて、最後の一週間、事情があってわたしたちはロスアンジェルスに飛びました。

そこで息子とわたしが欲しかった「ROLI」のキーボードを売っている楽器屋に。
カード会社に調べてもらったら、西海岸ではここしか現物がなかったのです。


後から、ここが「サンセット・ブルーバード」であることがわかりました。
ビリー・ワイルダー監督、グロリア・スワンソン、ウィリアム・ホールデン主演の
映画「サンセット大通り」がここ
であったことに気がつき、少し感激しました。

楽器屋の向かいにあったレストランで、レタス包みなどを夕食に。

これはオニオンスープ(パイ包み)。
全く期待していませんでした
が、なかなかでした。

ロスにも暴走族がおります。
サンセットブルーバードで大音響を出して走り、ウィリーをする珍走団。

ロスアンジェルス近郊で見かけたドライブ大好き犬。
窓から顔を出して風を感じるのが好きらしく(笑)耳がバタバタとあおられていました。

ロングビーチを通りがかった時ピンと来て入ってみたピッツェリア。

これが大当たりでした。
お昼が終わって店内が空いていたのもグッド。

お店はザガットサーベイでアワードを取っています。

面白いのは、隣に同じオーナーのオーセンティックなレストランがあったこと。
マイケルさんは、レストランをいくつも持っているシェフなのに、この時も
ピザ屋の厨房でピザを焼いていました。

おそらくこの人の原点はピザを焼くことにあるので、二店舗のオーナーになり、
夜は高級レストランのキッチンでおされーな料理を作る今も、
昼間はピザを焼くということをやめていないのだと思われます。

たっぷりの野菜にオリーブオイルをかけ、オーブンで焼いたシンプルな料理。

そしてメインの「カルボナーラ」というピザですが、絶品でした。
残さずに耳を全部食べたいと思うピザは、ありそうでなかなかありません。

マイケルズの横にあった(おそらく)インチキジャパニーズ。
その名も「キホン」・・・・・・基本?

さて、その後サンディエゴに移動。

ある夜、街を探検していて「Under Belly」(お腹の下)というお店を見つけました。
とても流行っていて、若い人たちがバーのように集っているのが外からわかります。

なんとここ、ラーメンを主体としたジャパニーズレストランでした。
地元の知人に聞くと、経営はアメリカ人だそうです。
しかし、インチキジャパニーズのように「日本らしさ」を演出することなく、
あくまでもアメリカのイケてるなバーの外見に、メニューだけが和風というコンセプト。

窓際のカウンターに腰をかけましたが、座って気がついたのは、
完璧に水平になる窓ガラスを倒してカウンターテーブルにしていたことです。
店の外から中を向いて座る椅子も並べられていました。

夜は涼しくてクーラーのいらないサンディエゴだからこそできることです。

ホールフーズでもみた「スパ系」水。キュウリが浮いてます。

アメリカで枝豆を頼むと、なぜか塩なしで出てきます。

オーダーは完璧に前払い制で、その時にトッピングも選びます。
チキンとベーコン(チャーシューのつもり)そしてプルドビーフ入りのボリュームタップリ。
アメリカ人向けではありますが、麺とスープがまともすぎるくらいまともで、
これなら日本国内であってもかなりの人気店となると思われました。

みなさま、サンディエゴをご訪問の際にはぜひ。

サンディエゴで泊まったホテルに帰ってきました。
みなさん、この電飾が何かご存知ですね?そう、「ミッドウェイ」です。

サンディエゴに泊まることが決まったので、わたしは独断で
ミッドウェイに歩いていけるマリオットに部屋を取りました。

まだできて年数が浅く、大変モダンで快適なホテル。
テラスが5階にあり、ここからミッドウェイの艦飾をみながら夜景が楽しめます。

フロントの売店でアイスクリームを買ってきて、夜景を見ながらみんなで食べました。

食べ物に関してアメリカは西高東低であることを再認識した今回の滞米です。

 

 

 


”マダムX”〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-14 | アメリカ

昨日に続き、「マサチューセッツ」内の展示
「ミリタリー・ウーメン」から、抜粋してお送りしています。

「ハローガールズ」というのをご存知でしょうか。

通信業務、電話交換などの仕事は軍の計画と調整に不可欠です。

第一次世界大戦では、陸軍は電話線を前線に沿って建設しましたが、
オペレーターは不足していました。
同盟国同士で通信を行うためにはプロフェッショナルな交換手が必要で、
軍隊は国内の民間交換手を登用することにしました。

彼女らは経験豊富であることはもちろん、フランスの回線に接続するために
英語とフランス語の両方を話す必要がありました。

彼女ら「ハローガール」たちは、アメリカ軍に特殊能力で参与した最初の女性となります。
その勇敢さと卓越性は、軍隊における女性の境界を広げ、
その後、戦地への参加を増やす道を開いたと言えましょう。

当時軍人を志望した女性の前職で圧倒的に多かったのが秘書だったそうですが、
彼女は何と海洋学者でした。

写真だけ見ると、カウンターに座っている店主のおばちゃんみたいですが、

メアリー・シアーズ Mary Sears (1905-1997)

はネイビー・リザーブのコマンダーであります。

1943年にWAVESに中尉として入隊した彼女は、海軍水路局に海洋研究ユニットを作り、
そこで海軍に戦略的優位性を与えるために潮、波の高さ、
および海洋指標などのデータを集め、分析することによって
海軍の戦略・作戦立案に多大な貢献をしました。

最初は「ユニット」だった彼女の部隊は、じきに「ディビジョン」となり、
彼女は最終的に400人もの部下を統率する司令官までになります。

戦後も海洋学の研究によって多くの論文を著わし、
各界から名誉賞を与えられた彼女は、現在海軍の

海洋調査船USNS Mary Sears

にその名前を遺しています。


さて、真珠湾に先んじること6ヶ月前、「なぜか」戦争情報局は政府、
そして軍のどちらにも情報局を設置して、諜報、破壊工作、
プロパガンダやその関連を取り扱う

戦略諜報局( OSS)

を統合しました。
その設立者となったのが、「アメリカ情報機関の父」「 CIAの父」と呼ばれる
弁護士出身のウィリアム・ドノバンという人物です。

OSSには時節柄多くの女性が勤務することになり、郵便物整理やファイリング、
電話応対だけでなく、暗号解読や記録などの任務を行いました。

  

また、アメリカはまたスパイに女性を登用しています。

 ヴァージニア・ホール・ギヨ Vaginia Hall Gillot(1906-1982)

 はドイツ側から

 「連合国スパイの中で最も恐ろしい人物」

という評価を得ていました。

彼女は当初イギリス、のちにアメリカの戦略諜報局の特殊作戦部に加わり、
身分を偽って高速魚雷艇でブルターニュからフランスに潜入、
ゲシュタポの捜査から逃れ、フランス中央部の抵抗組織と接触し、
連合軍の補給物資と部隊の降下地点の指定を行い、セーフハウスを築き、
ノルマンディーで上陸した連合軍と現地部隊の連絡を取り持ったほか、
ドイツ軍に抵抗する3つの大隊へのゲリラ戦術訓練を支援し、
9月に連合軍が彼女の部隊と合流するまで重要な報告を続け、そして・・・

勲章をもらいました。
彼女に勲章をつけているのは、 CIAの父、ウィリアム・ドノバンです。

若い時に狩猟で間違って自分の足を撃ってしまい、切断して
義足だった彼女のことが、ドイツ側の手配書には

 「足を引きずる女」

 と書かれていたということです。

 パトリシア・フォウラー Patricia Fowler

USS「ダンカン」に乗組の海軍軍人であった彼女の新婚の夫は、
彼女が妊娠中の1942年の10月、「サボ沖海戦」で戦死してしまいました。

息子を出産してから軍に職を求めた彼女は、新しく設置されたOSSに採用され、
なぜかいきなり諜報員の訓練を受けることになりました。

おそらくですが、その怜悧さ、特に記憶力と語学力を買われたのでしょう。

トレーニング終了後、彼女はスペインに派遣され、
解読された暗号翻訳とそれをタイプする任務を行いました。

情報活動を行うにあたり、彼女はボヘミアンのようなライフスタイルで、
フラメンコなどを始めることを()組織に奨励されていたということです。

 

米国海軍暗号解読Bombeを操作するWAVE

第二次世界大戦中、海軍の女性部隊 WAVESが600人、
ドイツのエニグマ暗号を解読するために働いていたことをご存知でしょうか。

彼女らは1943年から米海軍暗号解読機「ボム」の建設とその操作を支援しました。
プロジェクトは秘密のベールに包まれ、多くが携わっていながら
2トン半のマシンの正確な機能を誰も知りませんでした。
そして任務に関わるWAVESは、割り当てられた部屋に入る時、
海兵隊の警備員に必ず身分証明書を提示することが求められ、
自分が関わった仕事について徹底した守秘義務を求められました。

大勢のWAVESが携わったプロジェクトによって、
大戦中にエニグマは解読されたわけですが、
その成果は徹底的に秘密にされ、
終戦までドイツ軍はエニグマを使い続けました。

 

アグネス・メイヤー・ドリスコール Agnes Meyer Driscoll(1889-1971) 

は「ナチュラル・ジーニアス」な(天賦の才能を持った)

「クリプタナリスト」(Cryptanalyst 暗号解読者)

でした。
人呼んで、「ミス・アギー」または「マダムX」。


統計学と音楽を大学で勉強した彼女は、また語学に非常な才を発揮し、
英語の他に独仏語、ラテン語、および日本語まで流暢に話したといいます。

第一次世界大戦が始まってから海軍に入隊し、書記事務をしていた彼女は
その仕事をこなすうちにその図抜けた優秀さを認められることになりました。

そしてコードと信号の部門の事務に割り当てられ、暗号解読に携わったのです。


そこでまず彼女は暗号の作成、デコード(解読)を行う器械の開発に、
その後米海軍の標準装備となる
CM(コミニュケーション・マシン)という暗号器械を
共同で発明しています。

また日本軍のM-1暗号機(米軍にオレンジマシンとも呼ばれていた)を破り、
帝国海軍の暗号を解読するための暗号解読機を開発したのも彼女でした。

また、1926年に日本の外務省が採用していたの手動コード、通称レッド暗号
「 Red Book Code」を三年かかって解読しています。

 

「暗号解読者の一覧」

 というウィキのページを見ると、彼女については

「エニグマや日本軍の暗号を沢山解読した」

 となっています。
ミッドウェイ海戦における日本の大敗の理由を、単純に

「日本側の暗号が解読されていたから」

と評価するなら、米海軍勝利の立役者は「マダムX」だったということもできます。

アメリカの女性暗号解読者には他にも、

エリザベス・スミス・フリードマン夫人(1892−1980)、

ジェヌビエーヴ・ヤング・ヒット(1885-1963)

などがいます。

フリードマン夫人は夫も同業でしたが、常に単独で解読を行いました。
ジェヌビエーブ・ヒットはアメリカ初の女性暗号学者で、陸軍のために
暗号解読の解説書を書き、コーディングとデコードに携わった先駆です。

彼女は生涯を通じて誰にも師事せず、その知識を独学で得ていました。

さて、本項冒頭の「映画女優」が誰なのか知りたいという方、お待たせしました。

みなさんが今日普通に使用しているBluetoothやGPS、そしてWi-Fi、
これらの理論の基礎となる技術を開発したのが
この付けまつげバッサバサの美女だと言ったら驚かれるでしょうか。

へディー・ラマー Hedy Lamarr(1914-2000)

女優のような、ではなく彼女は本当に女優です。
1930年母国オーストリアでデビュー後、1933年の『春の調べ』で全裸シーンを披露し、
それで有名になった彼女は、その後アメリカに移住、1930年代から1950年代までの間は
ハリウッドスターとして活動し、シャルル・ボワイエ、スペンサー・トレイシー、
クラーク・ゲーブル、ジェームズ・ステュアートなど錚々たる面々と共演しています。 

で、なぜこの人を取り上げるかと言いますと、彼女は女優でありながら
発明家、科学者というもう一つの顔を持っていたのです。

 

時は第二次世界大戦真っ最中。

彼女は海軍の魚雷無線誘導システムが頻繁に枢軸国側の通信妨害を受け、
目標を攻撃することに失敗していることを知り、日頃お世話になっているアメリカのために
妨害の影響を受けないような無線誘導システムを開発しようと思い立ちました。

彼女と共同研究者のジョージ・アンタイルは、魚雷に送る電波の周波数を頻繁に変えれば
妨害されにくいと考え、周波数ホッピングシステムの基礎設計案を作成します。

ちなみにアンタイルも、科学者でありながら音楽家でした。


彼らはこの基礎理論で特許も取るのですが、実装が困難であったことに加え、
肝心のアメリカ海軍が
軍隊の外(しかも外国人女性)の発明を受け入れることをせず、
案は長い間棚上げにされていたということです。

改良された彼女の理論が軍艦に採用されたのは、キューバ危機になってからのことでした。

 

これだけの天才で美貌も兼ね備えた、側から見ると天から二物を与えられた
誰でも羨むような女性であるのに、彼女の晩年は決して幸せではなかったようです。

生涯に六人もの夫を取り替え、死んだ時には天涯孤独の独身。
全ての夫との生活は長くて7年、短くて1年と短期間で終わっているだけでなく、
二回万引きで(しかも万引きしたのは目薬と下剤)逮捕されています。

また、若い時の美人が陥りがちな加齢による醜形への異常な恐怖から
整形手術ジャンキーになってしまい、なんども手術を受けたそうですが、
その結果は決してよくなかったという話も残されていますし、
亡くなった時には薬物中毒であったという息子の証言もあります。

 

85歳で心不全のため亡くなった彼女は、遺言によって、
故郷のウィーンの森に散骨され、
そこで永遠の眠りについています。

彼女のなした発明は、現代における

「周波数ホッピングスペクトラム拡散技術」

の前身の一つです。
その原理はこんにち全てのワイヤレス技術の基礎となって、
後世の我々の日常に大きな恩恵をもたらしています。

 

 

続く。 



”トレイルブレザー”たち〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-13 | アメリカ

フォールリバーで展示艦となっている戦艦「マサチューセッツ」には
広いスペースを利用してたくさんの戦時に関する展示があり、
セカンドデッキの艦首側のスペースには、これからお話しする

「アメリカ軍に参加した女性の歴史コーナー」

がありました。
冒頭ポスターの写真では、

「あなたは心に星条旗を持った女性ですか?」

という決め文句でワック、つまり陸軍への入隊を勧誘しています。
陸軍では何千もの職種があなたを必要としている、とありますね。

 


海軍ではもう少しプラクティカルに、

「 WAVEがもらえるお給料って?」

という感じで、入隊から下士官になるまでの給与体系をズバリ
このような表にしてリクルートに繋げようとしております。

この表はシーマン・リクルートと呼ばれる二等水兵のあと、Seaman Apprentice (SA)
(一等水兵)からPetty Officers(下士官)までが記されています。

ちなみにシーマン・ファーストクラス(上等水兵?)を例にとると、

基本給 66ドル

食事手当 54ドル

住居手当 37.50ドル

合計月額 157.50ドル

となっており、月額は現在の円で換算すると約25万円の高給取りです。
しかも軍では階級に即して給与が決まっていて、性差はなかったので、
単に就職先として考えても大変人気のある職場だったかもしれません。

下士官は169.50ドル(29万円)から217ドル(35万円)と
幅がありますが、これは三等兵曹から先任伍長までを表しますから
開きがあって当然です。

このように書くことこそ、女性が昇進していずれは先任伍長になることも
制度として可能であった、ということに他なりません。

1930年代初頭から旧陸軍省は女性搭乗員を軍に採用することを検討していましたが、
陸軍の方ではこの案を「全く実現不可能なもの」、なぜなら

「女性は感情的すぎて非常事態にも冷静になれず飛行機の操縦には向いていない」

とにべもなく却下したことから、第二次世界大戦が始まり、輸送路線が海外に拡大して
国内輸送を行う搭乗員の数が足りなくなるまで、女性の登用はありませんでした。

その後二つの女性搭乗員部隊が結成されることになり、千人以上の女性が
軍人パイロットとしてその活躍の場を空に求めていきます。

ジェラルディン・プラット・メイ大佐(1895−1997)

彼女はアメリカ軍で初めて大佐となり、司令官となった女性です。
カリフォルニア大学バークレイ校を卒業して1942年に結成された
女性の輸送補助部隊に入隊した彼女は、陸軍で初めての女性士官となり、
六千名の女性士官、下士官兵からなる空輸部隊の司令官になりました。

そして、アメリカ全土と海外の任地での女性兵士の状況について
視察を行い、その向上のために提言を行うなどしました。

戦争において必要とされた女性部隊が、戦後も廃止されず、そのまま残されたのにも、
彼女がその時に司令官であったことが大きく関与しています。

WAFS (Women's Auxiliary Ferrying Squadron)女性空輸補助部隊と
クィーン・ビーと書かれた機体、とくればこれは、

WAFS女性部隊の司令官となったナンシー・ラブを思い出してください。
(以前のエントリのために描いたイラストを引っ張り出してきました)

陸軍上層部の「万が一敵の捕虜になるようなことがあっては大変」という考えから
彼女らの任務遂行範囲は北米大陸を出ることはありませんでしたが、
もともと陸軍航空士官を夫にもち、自分の会社を持って操縦を行なっていた彼女は、
WAFSのコマンダーとして

ノースアメリカン P51マスタング 戦闘機

ダグラス Cー54 スカイマスター輸送機

ノースアメリカン Bー25 ミッチェル中型爆撃機

の空輸のための操縦資格を取った最初の女性でした。

ナンシー・ラブ〜クィーン・ビー

もしハップ・アーノルドという偉い人に止められなければ、
彼女はBー17フライングフォートレスを操縦して大西洋を渡った
史上初めての女性となっていたはずです。

このほかにも陸軍航空にはのちに「レディ・マッハ・バスター」とあだ名された
「女版チャック・イェーガー」が、女性パイロットの訓練学校の司令をつとめ、
彼女ら民間パイロットを戦時に招集する道筋をつけました。

WAFSとこのWFTD( Woman's Flying Training Detachment)は統合され、
WASP(Woman's Airforce Service Pilots)となりました。

 

 

さて、陸空海とくれば(正確には陸軍航空ですがそこはひとつ)海兵隊です。

ロレイン・ターンブル一等整備兵は、千人もいる海兵隊の一人にすぎませんが、
特筆すべきは彼女が女性であったということで、さらには
特に選抜されて本土以外での任務にあたったという優秀なメカニックでした。

彼女はハワイのエバにあった海兵隊航空基地に配属になり、
航空整備士として男性と全く同等の仕事をこなしました。

 

そして「第4の軍」である沿岸警備隊です。

”スペア(余り物)にならないで・・・SPARになりましょう”

まあダジャレの域ですが、SPARとは

Semper Paratus

=Always Ready

「センパー・パラタス」という歌を以前ご紹介しましたが、
そのラテン語の頭文字と「オールウェイズ・レディ」の計四文字で「SPAR」。

SUPAR、沿岸警備隊に入りましょうとお誘いしている女性は、
アメリカを擬人化したアンクル・サムとまるで花嫁の父のように腕を組んでいます。

しかしもしこの「スペア」が「結婚できない人」という意味だとしたら、
アンクルサムとともに彼女が歩いていくのは未来の花婿のもと・・・、
つまりこの場合はお相手は「沿岸警備隊」ということになりますね。

「売れ残りになるくらいなら沿岸警備隊にこない?」

という意味がかくされている、に1ドル50セント。

コーストガードの素敵なネイビーカラーのコートが展示されていました。
やはり女性を集めるには制服がお洒落できてみたいと思われなくてはね。

さて、最初に沿岸警備隊の女性用制服を着ることになったのは、
双子の姉妹でした。

ジェヌビエーブとルシール・ベイカー姉妹は海兵隊の予備部隊から1918年に転籍し、
書記下士官を意味する「ヨーマン」の女性複数形である

「ヨーマネッツ(Yeomanettes)」

の愛称で知られる存在でした。
まあ、それだけ女性が軍籍にあるのが珍しかったということでもあります。

1939年、個人所有のボートなどを使って沿岸のパトロールを行う
民間人で構成された沿岸警備予備隊が編成されました。

それには女性も含まれていましたが、彼女らは自分たちでヨットや船を所有する
典型的な富裕層であったことは興味深い事実です。

第二次世界大戦が始まり、大々的にマンパワーを戦争に導入されることになった時、
沿岸警備隊は「SPARS」という名称の女性部隊を編成しました。

彼女らの多くが海軍の WAVESからの転籍で、初代司令には

ドロシー・コンスタンス・ストラットン大尉

が任命され、 SPARSの名称も彼女が考案したということです。

フロリダのパームビーチにあったホテルを改装して作られた
通称「ザ・ピンクパレス」という施設で彼女らは訓練を行い、
1944年にはアフリカ系アメリカ人女性が初めてこの部隊に加わりました。

その後、ニューロンドンにコースとガードアカデミー(わたしが見学したあれ)
ができた時、ここに入ってきた女性たちは、

史上初めて軍学校に入校した女性

というタイトルを得ることになりました。

ほとんどのSPARSはオフィス勤務でしたが、1944年にはアラスカやハワイに派遣され、
そこで募集窓口や勧誘、店舗などの経営などに携わり、
少数ですが、パラシュート整備や航空管制、無線通信任務やメカニックなどもいました。

厳選されたごく少人数は、東海岸のLORAN ステーションと言って、
ボストンのチャタム灯台の監視業務に当たることもありました。

男性も第二次世界大戦時にはアフリカ系からなる航空隊、そして陸軍部隊があり、
いずれも優秀であったことで有名でしたが、このころは要するに、
人種隔離政策というか、黒人は黒人部隊、日系人は日系人部隊、と
人種ごとに部隊を分けていたということになります。

つまり人種差別や偏見というものがベースにあったことは否めませんが、
それでもアフリカ系女性は率先して陸軍に志願しました。

アリゾナ州の陸軍駐屯地フォート・フアチュカには第二次世界大戦中
アフリカ系女性だけの軍用郵便物の配布業務を行う部隊がありました。

「シックス・トリプル・エイト」と呼ばれた黒人女性だけの部隊、
6888郵便大隊を観閲する

チャリティー・アダムス・アーレイ中佐(1918−2002)

1942年にWAACに入隊後、黒人女性として初めて士官に昇進しました。
彼女らの郵便大隊もまた後方支援業務として、前線での任務を行いました。

先ほども書いたように、当時のアメリカ陸軍では民族ごとの分離部隊があり、
アダムス中佐も南部に生まれ差別されてきたアフリカ系として、この

「セグレゲーション」(Segregation)

に苦しめられてきた者として、軍での民族分離には反発し、
それを言明することを彼女は決して恐れませんでした。

それは彼女の一生をかけた民族闘争でもあったのです。

 

例えば、黒人女性だけの新しい訓練部隊を編成する計画ができた時、
その司令官に打診された彼女はこの昇進を断っています。

赤十字が分離部隊用のレクリエーション施設を寄付すると申し出てきたのに対しても、
彼女は「白人用を一緒に使うから全く必要ない」とこれを拒否し、
またある時は、上層部から白人の中尉を監督のために司令にすることを告げられ、

「わたしの屍を越えて行ってください(Over my dead body, sir.)」

と言い放ったこともあるそうです。

前線においても、戦地から帰ってきた白人男性と彼女の部隊の女性兵士たちが
交流し、民族的な対立や緊張が起こらないような雰囲気を作るのも、
戦地の住民との融和を図るのも、彼女が積極的に取り組んだテーマでした。

 

彼女は戦後、ペンタゴンのオファーを受けて勤務し、さらにそれから
大学で心理学の学位を取って、余生を教育に捧げました。

 

ラブやコクラン、メイらの軍における最初の女性とともに、
アフリカ系女性の軍における地位獲得にその一生をかけたアダムス中佐も、
また、偉大なる「トレイルブレザー」(Trailblazer・先駆者)であったのです。

 


南北戦争の”男装の軍医”〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-12 | アメリカ

フォールリバーで展示艦となっている戦艦「マサチューセッツ」には
広いスペースを利用してたくさんの戦時に関する展示があり、
セカンドデッキの艦首側のスペースには、これからお話しする

「アメリカ軍に参加した女性の歴史コーナー」

がありました。

すでに女性の最高位が陸海軍に生まれているアメリカですが、近代になって軍が組織され、
第二次世界大戦に至るまで、
女性はどのように関わってきたのでしょうか。

今日は、独立戦争、米英海戦、南北戦争時代に軍とか変わった女性についてお話しします。

当コーナーでは、ぐーんと遡って、1775年、つまり独立戦争時から
軍と関わりのある女性について、歴史を紐解いてまいります。

例のボストンティーパーティーは愛国心からイギリス製品をボイコットした
女性のムーブメントも大きなうねりとなり繋がっていった、
ということについて一度書いたことがあります。

この女性はアビゲイル・アダムス。
言わずと知れた第二第アメリカ大統領となったジョン・アダムスの奥さんで、
第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズの母でもあります。

「リメンバー・ザ・レディス」

という言葉は、アメリカでは有名で、ミュージカルにもなっているそうですが、
1776年に革命を成し遂げたアメリカ議会に対し、彼女が送った

「女性たちのことを忘れないでください。
そして彼女たちに対して寛大かつ好意的であってください。
夫の手中にかようにも絶大な権力を与えないでください。

全ての男たちが、暴君となりうることを忘れないでください。
もし女性たちに特別の注意が払われないのならば、
私たちは謀反を煽動することを決心するとともに、

私たちの声が反映されていない、
いかなる法律に私たちが縛られることもないでしょう」

という、女性の権利を求める最古の文章とされています。

しかし、ウーマンリブの元祖はあまり軍と関係ない気がしますね。
そう、ミリタリーウーマンというのはこういう人でないと。

彼女の名前は、メアリー・ルードヴィッヒ・ヘイズ、別名モリー・ピッチャー
1778年、独立戦争の「モンマスの戦い」で夫の砲兵部隊に付き添っていた彼女は、
兵士たちに水を供給する任務を買って出て、このあだ名を奉られました。

炎天下の中の長時間の戦闘においても彼女は任務を離れることなく、
彼女の夫が戦闘で倒れた後、スカートの間に砲弾が落ちても
怯まずに戦闘に参加し、その功績をたたえて、今でも陸軍砲兵隊部隊には
彼女の名を冠した名誉協会が存在するのだそうです。

彼女の名はデボラ・サンプソン。(1760-1827)

アメリカで最初に軍人として戦闘に参加したことで知られる女性です。
ただし、女性として採用されたのではなく、体の大きな彼女は
自分を男性だと偽って砲兵隊に入隊しました。

このころ、入隊に際して身体検査なんてのをやらなかったんですね。

マサチューセッツ第4連隊に配属になり、1782年ターリータウンの戦いでの
初めての銃撃戦で、彼女は2発のマスケット銃の弾丸を受け負傷します。

1発目は腿に命中して弾が体内に食い込み、2発目で額を抉られるというもので、
治療を受けるも、腿の弾は取り出せず、再び戦場に戻ることはできませんでした。

最後まで女性であることを悟られないまま17ヶ月従軍し、除隊。
彼女は故郷に戻り結婚し、退役軍人年金を受給して幸せに暮らしましたとさ。

ちなみにUSS「サンプソン」の名前にはなっていませんので念のため。

「事実かフィクションかはわからないながら」

と但し書きのある「お針子物語」の図。
ベッツィー・ロスというお針子は、初めて星条旗を製作したという女性。
軍服の修繕やテントの修理など、裁縫で銃後の守りをしてきた彼女は、
次々と?夫を戦争で失いながらもたくましく腕一本で生き抜いた女性です。

彼女がワシントン提督のために国旗を作ったというストーリーは、
その孫が彼女の死後に手紙にそう書いてあったということで主張を始め、
国民もそれを受け入れたものの、真偽には証拠が乏しいとされます。

当ブログでもかなりの時間をかけてお話しした帆船、
USS「コンスティチューション」にも女性の影が?ありました。

「コンスティチューション」の就役は1797年、1812年の英国海軍との戦闘で
いかに弾を受けようとビクともしなかった彼女には

「オールドアイアンサイズ」(鉄の横っ腹野郎?)

というあだ名が奉られました。
その「コンスティチューション」に、なんと男装の女性が乗っていたというのです。
彼女の本名は「ミス・ルーシー・ブリューワー」
彼女は16歳で恋人の子供を妊娠しましたが、相手に結婚を拒否され、
その赤ん坊もメイドの仕事を探すうちに死んでしまいます。
止むを得ず三年間売春婦として生き延びた末、「ジョージ・ベイカー」と名乗って
「コンスティチューション」に乗り込む・・・・というお話

そう、これは「フィメール・マリーン」という当時の小説なのですが、
問題は、ブリューワーなる女性が実在し、この小説は

「自伝的小説」

である、とされていることです。

うーん、本当にそんな人がいたのか?
帆船の中の、しかも兵員の生活でそれがバレないわけがないと思うけど・・。

さて、ここまでがアメリカの「国家創成期」です。

この後、南北戦争、米西戦争と、片時も休まず戦争するアメリカですが、
戦争における負傷者の手当に、女性が活躍の場を広げることになっていきます。

彼女はクララ・バートン。(1821– 1912)
アメリカ赤十字社の設立者で、看護師のパイオニアです。

当時、クララは看護学校に通っていなかったため、自分自身が学んだ看護の仕方を
戦場での経験をもとに教えたということです。

彼女の名前を冠した学校や病院などの施設は全米に点在しています。

アメリカでは1901年に「ナース・コーア」、看護部隊が軍組織になりました。
しかし多くの女性が従事するのは第一次世界大戦が始まってからでした。
陸海軍の従軍看護婦たちはその働きに対して多くが顕彰され、
少なくとも三名が最高栄誉に値する十字賞を、また二十名を越す女性たちが
French Croix De Guerre、フランス十字勲章を与えられています。

 

ところでこの目がとても怖いおばあちゃまですが、

スーザン・ブロウネル・アンソニー(1820-1906)

特に女性の権利獲得を提唱する公民権運動の指導者です。
これもはっきりいってミリタリーとはあまり関係がないような気もしますが、
権利を獲得することが、つまり従属する立場から同等に、最終的には
「ミリタリー・ウーメン」の誕生への道筋をつけたということでしょうか。

彼女が男権論者をやっつけるの図。

強い(確信)

あの禁酒法もこのおばさまが先頭に立って進めた結果生まれたという説もあり、
映画に出てくる「あの手のおばさま運動家」の雰囲気満点です。

彼女らは

「聖なる二十人」(Sacred Twenty)

という、海軍直属の看護師部隊です。
看護師として正式に海軍のもとで任務を行なった最初の女性たちで、
22歳から44歳までの看護師資格保有者を中心に、海軍医療部隊のトップが選出。

ちなみに米国市民であることはもちろん、結婚することも許されませんでした

様々なスキルを訓練によって習得した彼女らは、世界中の病院でその後
実務のほか医療指導を行い、海軍看護の基礎となったことから、
このような敬称を奉られることになったのです。

さて、このイケメン医師は、南北戦争に従事し軍医として活躍しました。
活動中、スパイとして敵にとらわれ、捕虜生活をしたこともあります。

前線で外科医として勇敢に任務を行なったことに対して、
アンドリュー・ジョンソン大統領名で彼女に対し

・・彼女に対し、

名誉勲章も授与されました。

彼女の名はメアリー・エドワーズ・ウォーカー博士。
( 1832年11月26日 - 1919年2月21日)

冒頭の写真は彼女の中年時代です。

アメリカでも当時珍しい学位を持った女医(シラキューズ医大卒)でしたが、
北軍に民間人として従軍を志望し、
女性の軍医が認められていなかった当時のアメリカ軍で、
看護婦という資格で採用され、実質は医者として活動していました。

そして、のちに女性として初めての陸軍軍医として採用されます。

勇敢なその任務に対して叙勲された彼女ですが、戦後は、
男装姿によって逮捕されるなどと言った経験から、女性の権利、
女性の衣装改革などといったテーマで言論活動を行いました。


さらには戦後、合衆国議会の

「直接戦闘に関わったわけではない者は、名誉勲章受賞に値しない」

という決定によって勲章を返還するように求められましたが、
これを断固拒否し、死ぬまで勲章を身に付け続けたそうです。

 

彼女の名誉回復がなされたのは死後58年経った1977年。
当時のジミー・カーター政権によって勲章受賞が復権されました。

また、第二次世界大戦中にも、彼女の名前はリバティ船、

SS「メアリー・ウォーカー」

に残されています。

ちなみに、彼女は南北戦争時には、男装をしていたわけではなく、
戦争に参加する女性のためのオリジナル軍装などを自分でデザインして、
それを世間に流布するように求めたようですが、叶わなかったので、
その後の生涯で人前ではシルクハットにズボンという姿で通しました。

(タイトルは少し事実とは異なりますので念のため)

さて、ウォーカー博士は南北戦争でスパイ活動をしていたとも言われます。

きっとその手段に際しては、女装をうまく利用したのではないか、
ということがなんとなく想像されるわけですが、この写真の女性は同じ時代、
女優という仮面の下で北軍のためにスパイ活動を行なっていた女性です。

ポーリーヌ・クッシュマン。(1833 –1893)

フランス系の移民の娘として1833年に生まれた彼女は、
ケンタッキーのルイビルで舞台女優として活動していました。

のちに北部での舞台の後、連合国大統領のジェファーソン・デイビスのために
「乾杯を行なった」ことをきっかけにスパイの道に入ります。

敵の幹部に女優として近づき、得た情報は靴に隠すなどして諜報活動を行い、
二度逮捕されて一度は死刑を宣告されたこともありますが、
罹っていた病気が悪化しているという演技で死刑を延期させることに成功し、
そうしているうちに連合軍が侵攻してきて命永らえました。

女優としてのスキルが自分の命を救ったというところです。

いくつかの資料によると、彼女は男装姿で北軍に復帰したということです。
まあ、どう見てもこちらは男性には見えませんが、
彼女の女優としてのコスプレ精神がそれを強く望んだに違いありません(笑)

(しかし、この女優さん、軍服が似合わねー)

このころの女性と軍隊の関係は、看護という分野でなければ、
このような非合法的活動によるものにすぎませんでしたが、
だからこそ男装の女医といい、スパイ女優といい、のちに女性が権利を得て
軍に参加するようになる時代にはあり得ないような、
小説じみたロマンを感じさせる逸話が生まれてきたのかもしれません。

 

続く。

 

 


アメリカのオーガニックスーパー ホールフーズ

2017-08-10 | アメリカ

 

アメリカ国内でホテルを決めるとき、いくつかのチェックポイントがあります。
車で動くのが当たり前なので、交通の便はあまり問題ではありませんが、
たとえ短期間でもキッチン付きのスイートと言われるタイプを選ぶこと、
そしてそこで料理をするために食材を買うスーパーマーケットが近くにあること。

しかしスーパーならなんでもいいわけではなく、オーガニック系のものとなると、
トレーダージョーズ、サンフランシスコのリアルフード、そしてホールフーズに限られます。

 

グルメ・フード、自然食品、オーガニック・フード、ベジタリアン・フード、
輸入食品、各種ワイン、ユニークな冷凍食品も品揃えし、
いわゆる「グルメ・スーパーマーケット」と呼ばれる
比較的高級志向の食料品小売店に分類される。

ホールフーズについて日本語のwikiでは大変簡単に書かれていますが、
わたしたちにとって、このスーパーマーケットの商品が占める食の割合は大変多く、
食材の出どころが明らかになっていて、オーガニックかそうでないかを
正直に店頭で示して売ってくれるホールフーズは、不可欠なのです。

もう一つ、ホールフーズに頼る大きな理由は、どこの店舗であっても
ホットフード、コールドフードなどを好きなだけパックやお皿にとって、
持って帰れるのはもちろん、イートインコーナーで食べることができること。
簡単に食事を済ませたい時に、こんな便利な方式はありません。

 

デリは中のキッチンで作ったもので、その内容はお店によって千差万別。
西海岸はヒスパニック系や中国系が多いせいか、豆料理やタコスの中身、
スパニッシュライス、チャーハン、焼きそばが並ぶ店もあります。

サラダは好きなだけとったらゴマやおかき(!)のトッピングをかけて、
各種ドレッシングやオイルで調味することもでき、どちらも
お皿をそのままレジに持っていくと、レジの下にスケールが内蔵してあるので
それで重さを計ってお値段を出してくれます。

ちなみに、アメリカにしてはこのフードケース、安い値段ではありません。

高級スーパーなので当然ですが、貧民層には高くて手が出ないのもありますし、
そもそもそういう地域にはホールフーズは出店をしないのです。

テキサス州で個人が始めた小さなオーガニックスーパーが発祥である同マーケットは、
西海岸での第1号店をシリコンバレーの超高級住宅地、パロアルトに出しました。

それ以降の店も、いわゆる裕福な層が住む地域にのみ展開しており、
ホールフーズがあることがその地域のグレードを表すと言っていいくらいです。


しかし都市部の店舗はどうしてもいろんな人が紛れ込んでくることになり、
わたしはこれまでサンフランシスコ市内に2店舗あるホールフーズのデリで、
一度は明らかにホームレスがフードケースの周りをうろついて、
人目のないのを見計らって手づかみで口に放り込んでいるのを、
もう一度はレジを通さずにテーブルで堂々と食べ物を食べていた男に、
ピストルを持った警備員が詰め寄っているのを目撃しました。

日本では考えられないほど底辺のモラルが低い国ですので、
こういうことを避けたければ都市部に展開しないのが無難なのはわかっていても、
営業的には痛し痒しなのかもしれません。

さて、今日は今回の滞米中訪れたホールフーズでみた食べ物をご紹介します。

アメリカのスーパーはどこも巨大なので、「普通」のスーパー「セーフウェイ」でも
「ウォルマート」でもエスニックフード、特に健康食の豆腐を扱っていますが、
やはり「オーガニック度」が高くなるほど、豆腐の占める場所は大きくなります。

我が家は朝ごはんに豆腐を食べることが多いので、アメリカでも買いますが、
アメリカの豆腐はどういうわけか「ファーム」(硬い)スーパーファーム(超硬い)
が主流で、日本の絹ごしのようなソフトなものはありません。

左の豆腐はこの写真を見ただけで岩のように堅そうなのがわかりますね(笑)

この「 NASOYA」という会社が出している文字通り「SILKEN」が
一番絹に近いですが、それでも我々の感覚では硬い感じがします。

絹ごし豆腐には、「これでスムージーもできますよ」と言いたいのか、
とても豆腐のパッケージには思えない写真が・・・・。

豆腐とくれば味噌。
わたしは使いきれないこともあり、アメリカの滞在では味噌を買ったことはありません。
この「ミソマスター」のおじさん印の味噌は、住んでいた時に買ったことがあるような。

感心なのは、白味噌、赤味噌、メローホワイト味噌(黄色いの?)
と各種取り揃えていることです。
上の段のサウスリバー社製品には「ひよこ豆味噌」もありますが、
果たしてひよこ豆を使ったものを味噌というべきなのかどうか・・・。

味噌はいずれも10ドルから12ドルと結構高額です。

ちなみに、「ミソマスター」の会社は「グレート・イースタン・サン」。
なかなか日本に敬意を払っているようでよろしい、と思いきや

何世紀もの間、日本の職人は天然発酵を使って大豆や穀物をさまざまな味の味噌に変えました。
(略)日本の味噌メーカーは玄米を使って味噌を作ったことがないので、
「伝統的」という言葉は使われていませんが、

日本人が玄米味噌を作ったことがないって・・・味噌で顔を洗って出直してこい!

これは、マウンテンビューのいつもいく巨大なホールフーズで見つけた新しい飲み物。
ここは、オレンジジュース絞り器を設置していて、スイッチをひねりボトルを下に置くと
いくつものオレンジがガーーーー!っと粉砕されて超フレッシュなジュースが買えます。
つくづくカリフォルニアって果物がやすいなあと思わずにはいられないわけですが、
この新商品、ただの水(おそらく)に果物やミント、キュウリを入れて売っています。

ほんのり味がついた水を楽しむってことなんだと思いますが、しかし売るかねえ。
ちなみに商品名は「スパウォーター」。

これは今回ボストンで初めて見つけた「代替米」的なもの。
ブロッコリーやカリフラワーを米粒の大きさに粉砕したもので、
これを炊いてご飯の代わりにしましょうという考え。

まあ確かに

「ご飯に似たのがブロッコリー」

という歌もあるくらいで。
今調べたら、ブロッコリーをご飯がわりに、というのは日本でも広まっている模様。

こちらは代替パスタ。
ボストンのニーマンマーカスのレストランに行ったら、ズッキーニで
パスタを仕上げたお料理があり、結構美味しかったのですが、
ここでは、右側のオレンジのが「スィートポテト」、
左の黄色いのが「サマースクァッシュ」となっています。

サマーなんちゃらは日本では「ペポかぼちゃ」というそうですが(可愛い)
かぼちゃというより黄色いズッキーニみたいな感じのものです。

そういえば日本でもそうめんカボチャってのがあったわねえ。
あれはカットしなくてもそうめん状になっておりますが。

レジの近くにも、いろんな商品があります。
バーベキューに必要なチャコールは、必ずレジの近く。
アメリカの家庭ではバックヤードがあればバーベキュー、なくてもベランダでバーベキュー、
家になければ公園でバーベキューと、もう親の仇のようにバーベキューを行うので、
チャコールは普通のスーパーでも買うことができます。

で、バーベキューを焼くのは「男の仕事」。
なぜかアメリカの父親は芝刈りとバーベキューをしないなんてありえない!らしく、
バーベキューでは一人がグリルに張り付いてせっせと肉を焼く係をします。

我々は自分の食べたいものを自分で焼けばいいじゃないかと思うのですが、
彼らは基本的に食べる人は調理をしない、というのが常識らしいですね。


この写真は、レジ横の雑誌コーナーが気になったので撮りました。
今回わたしはホールフーズの雑誌コーナーで、

「BATTLE OF THE ATLANTIC」

という写真ムックを見つけて買ったように、侮れないものがあります。

注目していただきたいのは下段のヤギさんが笑っている(よね)写真の

「モダーン・ファーマー」

という専門雑誌。
日本でもこんな雑誌があるのかどうか知りませんが、今月号の特集は

「あなたのヤギを手に入れる!」

ヤギなんて美味しくもないミルクをとる以外農家になんのメリットがあるんだろう、
と思い、つい中をパラパラ見たところ、

「ヤギはミルクも取れるし可愛いから飼う価値があるよ」

みたいなことが大特集で熱く語られていました。

可愛いかどうかとミルクが美味しいかどうかを別にして、
別に特集を組んでもらわなくってもそんなことは知っとる。 

とは思わない人が買うんだろうな。

ワインなどのお酒も普通に売っています。
これはジンのコーナーですが、「ワイルダージン」のラベル、
佇むスナフキンとくまさんのシルエットが目を引きました。

もっと目を引いたのがこれ。
「FUGU 」というお酒のボトルに描かれたのは紛れもなくフグ。

なぜウォッカが「フグ」なのか、しかもウォッカの「ハバネロ」とは何か、
確かめようにも飲むこともままならないわたしには永遠の謎です。

このようにアメリカには、わかってるのかわかってないのか、

「なぜそこにその名前を」

と首をひねってしまう日本語の商品名が存在するのですが、
パロアルトの「ウマミ・バーガー」のように納得できるものもたまにあります。

日本には存在しない「ライスクラッカー」。
なんのことはない、ポン菓子を固めてセンベイ状にしたもので、
アメリカ人はライスクラッカーというとこれだと思っております。

甘みはなく、日本のせんべいのように化学調味料も使っていないので、
これはこれとして、おやつに時々食べていました。

おやつといえばケーキ。

オーガニックを標榜するホールフーズといえども、日本人が決して受け入れない
「ブルーのケーキ」を作ってしまうのがアメリカです。

これは独立記念日当日のボストンのホールフーズで撮ったもので、
必ずジュライ・フォースのパーティ用に、赤白青の三色を使ったケーキ、
これがショーウィンドウに並ぶわけです。

言っておきますが、ここのケーキ群は、アメリカのその他のグロサリー、
ペストリーショップに並ぶものに比べれば、かなりマシな方です。

CAKE BOSS

このテレビ番組の画像を見れば、アメリカ人の考えるところのケーキ、
というものがどんなものかわかるかもしれません。

アイデア賞・・・・・なのか?

海を表すブルーのクリームでデコレーションし、砂を表すケーキクラムの上で
スコップと戯れるかにさんの図。

というかどうしてケーキでこれを表現しなければならないのか。
なぜフラミンゴを描くのか。

アメリカ人はこれを見て美味しそう!このケーキ食べたい!と思うのか。

いろんなことを考えさせられます。

シリコンバレーで一番「勢いのある」ホールフーズといえば、クパチーノ店でしょう。
何しろここには、アップル本社があり、名だたるIT企業が軒を連ねています。

そのクパチーノ店で、去年初めて見かけたこのモチアイス。
へー、と感心して実は一つだけ食べて見たのですが・・・。

(−_−)まずい

冷やせばモチは硬くなるんだよ!
そもそもそのモチが分厚すぎるんだよ!

と散々笑い者にしたのでしたが、なんと今年になってアメリカに行くと、
ボストン、サンフランシスコ、シリコンバレー、サンディエゴのすべてのWFで
このモチアイスのケースが設置され、大々的に売られているではありませんか。

クパチーノで実験的においてみて、どうやら好評だったらしく、
ネイションワイドで売ることに決めたみたいなのです。

えー、あれ、まずかったよ?
と言いながらも各店舗のケースの状況をうかがったところ、これが結構売れてる。
必ず何人かが前に立ち止まり、いくつかを袋に入れて買っているのです。

アメリカ人がアイスクリームになると節操をなくすのは知っていたけど、
モチアイスをこれほどあっさり受け入れているとは・・・・・。

さて、最後にサンディエゴのホールフーズで夜見かけた海軍迷彩を。
一人暮らしのお嬢さん(ただし海軍軍人)が帰宅途中に立ち寄って買い物をしていました。 

 

 

 


リスの喧嘩とワイルドターキー〜スタンフォード・ディッシュトレイル

2017-07-21 | アメリカ

当ブログと長年お付き合いいただいている方であれば、スタンフォードにある
ディッシュトレイルのリスについてご存知かもしれません。

というくらい、ここ何年か、わたしはシリコンバレーに来るたびに、
ここを訪れ、リスの写真を撮りまくってきたものです。
今年は西海岸での滞在もいつもほど長くないのですが、一度だけ、
朝7時という今まで来たことがなかった時間にカメラ持参で行ってきました。

そう、もちろんリスの写真を撮るためです。

トレイル(TRAIL)というのはもともと「引きずる」という意味があるそうですが、
アメリカでは州立公園や山間部、海岸沿い、小川沿いに、
市民が散歩したりバイクで走ることのできる小道のことをさします。

シリコンバレーはイメージよりずっと自然に恵まれていて、例えばグーグルでも
キャンパスと呼ばれる会社の敷地にヤギを飼うことのできるスペースがあったり、
すぐ近くが州立公園だったりしますし、フェイスブックも周りにトレイルがある
丘の中にポツンと建っていたりします。

スタンフォードディッシュトレイルは、高低差の大きな丘の一帯に
一周すると歩いて1時間少しの距離のトレイルを設けて解放しています。

最初にここにきた時には、いきなり足元にリスがいたのでびっくりしました。
もちろん大喜びで写真を撮りまくっていたのですが、地元民にとっては
リスなど珍しくもなんともない、雀とか野良猫みたいなものなので、
さぞかし物好きに見えていた(る?)ことでしょう。

ここにいるリスは、日本で見るシマリスとは大きさも模様も全然違う、
カリフォルニアジリス(地面に生息するリス)という種類です。

このリスでだいたい体長15センチといったところでしょうか。
シマではなく白い斑点があるのが日本人には大変珍しく見えます。

エントランスを入っていくと、まず心臓破りの坂?を登っていくのですが、
そのあと道は二手に分かれます。
右は降り、そして左はさらにきつい登り。

わたしは心臓破りの後の選択として、どうしても右に行ってしまうのですが、
ものすごいスピードで左を駆け上る人もいます。

この二人の男女は右側選択組でしたが、とにかく飛ばしていました。
カップルでマラソンにでも出るつもりかもしれません。

今回初めて早朝に来てみたのですが、期待していたよりリスがいませんでした。
しかも、カメラを向けると一瞬固まったのち、脱兎の勢いで逃げてしまうので、
望遠レンズの出番です。

花の種らしい綿毛を食べていたリス。
綿菓子みたいな感覚かもしれません。

道沿いの木に何か違和感を覚えてよく見ると、スズメバチの巣でした。

いつもは息子をサマーキャンプに送り届けてから、つまり9時ごろから歩いていましたが、
この時間はその頃と全く違い、空気がひんやりして寒いくらいです。
それが太陽が昇ると同時に猛烈な暑さとなり、昼間はとても外を歩けるような状態ではありません。

湿度が低いシリコンバレーでは、朝と夜の温度差が激しく、夜は寒くてコートが要るくらいになります。

朝早くならリスもたくさん出て来ているだろうと思ったのに、そうでもありません。
やっぱり夜行性で暗い時に活発なんでしょうか。

夜行性といえば、ここにはマウンテンライオンやコヨーテもいます。
わたしはお目にかかったことがありませんが、トレイル内に二つも
この看板があるということは、遭遇する人も結構いるのでしょう。

ただ、わたしは今回、道端にそのいずれかののものだろうと思われる
糞をいくつか発見しました。
そのいずれもがリスの毛がふんだんに混じっていたことから、
彼らの主食はどうやらリスらしいことを知ったのでした。

 

歩き出してしばらくいくと、リスの巣穴がたくさんあるゾーンに来ます。
ここでリスを見ることを期待していたのですが、今年はついに
二度目となるリスの喧嘩を撮ることができました。

いきなりX字型にがっぷり組んでおります。

残念だったのは喧嘩の場所までかなり距離があって、ピントが合わなかったこと。
レンズを調整する時間もないまま喧嘩が継続してしまいました。

彼らは巣穴の近くで餌を食べていた中くらいのリス同士ですが、
今まで遭遇した喧嘩に共通するのは、喧嘩するのは同じ大きさのリス同士です。

決して大きなリスが子リスと戦っているという構図にはならないようです。

そして、必ずどちらかが圧倒的に強く、強い方がそうでない方を押さえつけます。

しかし、弱い方もやられっぱなしではありません。
背中に乗って反撃を試みますが・・・

「ていっ!」「やられたっ!」

ということで、この表情です。
わたしはこの写真を見て鳥獣戯画を思い出しました。

倒れたリスが体制を立て直す前に飛びかかろうとするリス。

飛びかかられた方は逃げ出しました。
しかし、なんで喧嘩なんてするんだろうなあ・・・。

ここで終わらず、強い方が追いかけて行ってだめ押しの乱闘があったのですが、
その時彼らはわたしのカメラに気がつきました。

「・・・・・・」「・・・・・・」

外敵がこちらを狙っているのに、俺たちはなぜ今まで喧嘩なんかしていたんだ。

・・・・とか?

まあ、人間でもミサイルが隣国から飛んで来ているのに、マスコミと結託して
自分の国の政権を転覆させることしか考えていない人たちもいますので、
リスのことを愚かだと決して笑えません。

どうしてリスが少ないのかといいますと、このとき空には
トンビなどリスの天敵が獲物を探して旋回中だったからです。

朝早い時間は鳥のご飯タイムというわけです。

こちらの鳥さんは、地面におりて、盛んに足を踏みならしていました。
何をしているのだろうと思ったのですが、もしかしたら足で音をさせて、
出て来た虫を食べようとしていたのではないかと思われます。

 

もしそうだったら賢い鳥だなあ。

半分くらい歩いたところで、トレイルの名前になっている「ディッシュ」が出て来ます。
大型のアンテナがここには二つあるのでディッシュトレイル、というわけです。

スタンフォードディッシュという名前ですが、大学とは関係ないと思われます。

その時、遠くにワイルドターキーの一団を見つけ、
わたしの胸が高鳴りました。

朝早いとこういう大型の鳥類も見ることができるようです。

ところでさきほどの写真をみていただければわかりますが、

「ワイルドターキーに遭遇したら」

という注意書きがあり、

●近づかないこと
●大型のワイルドターキーは大きな音を出せば逃げる

(ちなみにこの看板の’deterred'のスペルが'detered'となってます)
●向きを変えて反対の方に逃げること

とあります。

ということは、結構どう猛な鳥とされているみたいですね。

わたしが前回別の公園で遭遇した一団も、今回も、こちらが何もしなければ
襲う様子もなく、むしろゆっくりとではありますが逃げていく様子です。

唯一、このターキーだけがこちらをガン見して、何か怪しい動きをすれば
その時はこの俺が黙っちゃいないぜ的な空気を濃厚に醸し出しておりました。

わたしが写真を撮っていると、歩いていた他の人たちも立ち止まり、
何人かはスマホで写真を撮っていました。

今時は下手に小さなデジカメならスマホの方が画像が良かったりします。

慌てず騒がず。
ゆっくりとターキーの一団は、悠々と見える様子で歩いていきます。

ところで、日本でワイルドターキーと調べると自動的に「七面鳥」となるのですが、
七面鳥とワイルドターキーは全くシェイプが違いますよね。

四羽のターキーの後ろ姿。

そういえば、今年の夏のアメリカではやたらビートルズが取り上げられてまして、
なぜか写真集なんかがたくさん発売されているみたいです。

トレイルには高低差があるので、もっとも高いところまで登ってくると、
スタンフォード大学のフーバータワーが
こんな風に下の方に見えます。

ニコン1(いつのまにか代替わりして今のはV3)の望遠レンズを今回駆使しましたが、
思いっきり寄せて撮ったリスの瞳に自分が写っているので感動しました。

空にはまだ鳥が旋回していたので、いつもは柵の上にたくさんいるリスも、
今日はこの子たった一匹だけでした。

こういう時にいつもどおりに見つかりやすい場所にいるリスって、
危険を認識していないのか、
それとも自殺願望でもあるのか・・・・。

つい最近、「イルカは自殺する」(水の底に潜ったまま呼吸をせずに自発的に死ぬらしい)
という話を聞いて心からショックを受けたばかりなので、ついこんなことを考えました。

ちなみにイルカの場合、自殺の原因はストレスや絶望感などで、飼育されている場合、
飼育員など自分が親しかった人間に事前に別れを告げてから死ぬそうです。

なんて悲しい話なのー! 

というわけで、今年のスタンフォードのリスについてのご報告を終わります。

 

 

 

 

 

 


ボストン雑感〜淡々と写真を貼るシリーズ

2017-07-15 | アメリカ

 

というわけでいつのまにかボストンでの滞在期間も終わり、今は西海岸におります。
息抜きに(ここのところ翻訳が必要なエントリ制作が続いて疲れました)
ボストンで撮った写真を淡々とあげていきます。

今年のジュライフォース、独立記念日は火曜日だったため、その前の金曜日から世間は
日本でいう大型連休の様相を呈していました。

わたしがボストンに来るといつも朝歩く州立公園に行ってみると、
ゲートが開く前になんと車の列ができています。
朝一番で公園に乗り込み、バーベキューや水遊びで一日過ごそうとする人たちです。

ところでこれが今回ボストンで借りていた車。
なぜか何回もトラブルで車を取り替えに行く羽目になった年もありましたが、
今年は日本車、しかも日産のローグという上物を手に入れたため、
何事も起らず無事に返すことができました。

しかし、車を選ぶとき、二台ローグがあったので、なんとなく
ニューヨークナンバーを借りたのがこの公園で裏目に出ました。

ゲートでは車一台につきいくら、で料金を徴収するのですが、
マサチューセッツ州ナンバーであれば8ドル、それでも安くありませんが、
州外車はなんと15ドルも徴収されることがわかったのです。

「あー、もう一つのローグ、マサチューセッツナンバーだったのに」

さすがにこれは考えになかった。

一年ぶりに歩くおなじみの公園。
いくつかボストンで公園を探して歩いてみましたが、ここが一番しっくりします。
車を駐めて一周歩いてきたら50分くらい、という距離もちょうどいい。

今回は珍しく滞在中に雨がよく降りました。
夏場は夜の間に降って、朝には止むということが多く、結局一度も傘をささずに
ボストンを去ることが多いのですが、今年は昼間ずっと降っている日もあり、
まるで日本の梅雨のような感じでした。

ありがたいのは雨の前後でも日本ほど蒸し暑くないことです。

雨が降った後だったので、風はひんやり冷たく、ウォーキングには最高でした。

平日は誰もいないキャンプエリアにたくさんの人が見えます。
朝早くからハンモックを張ったり、チャコールでバーベキューの用意をしたり。

「しかしこんな早くから来て一日どうやって過ごすんだろうね」

この日公園に朝からいたのは、全部と言っていいくらい皆ヒスパニック系でした。
朝っぱらから大音量でスペイン語の音楽をガンガンやっている人もいましたが、
周りが全員同じ民族なので、おそらく喧嘩にはならなかったでしょう。

なぜこうなのかというと、それはこの日がジュライフォース前の週末だったからです。

大型連休の間、中産階級以上のアメリカ人はどこか遠く、と言っても国内の、
例えばフロリダとかハワイなどのリゾート地、この辺ならケープコッドに行ったりしますが、
労働階級であるヒスパニック系はおそらく7月4日には飲食店かホテルか・・・、
とにかく人が遊んでいるときに働かなくてはいけないわけです。

アメリカの民族ビジネスは、アラブ系=ガソリンスタンド、インド系=土地、不動産、宝石
韓国系=クリーニング店とマッサージパーラー()、中国系=郵便局、免許センター、
そして南米系はハウスキーピング、ウェイトレス、そしてガーデナーというのが相場です。

彼らは前の週末かあるいはジュライフォースが終わってから代休をとり、
8ドル出せば1日過ごせる公園で休暇を楽しんだりするのでしょう。


それにしても、写真に写っている家族、朝からなにやら一生懸命食べていますが、
オバアチャンから子供まで満遍なく太っています。

メキシコって実はさりげに世界一デブが多い国だったりするんですよね。

こちら、ごく日常的なルーチンワークのように散歩をしている人(と犬)。

この州立公園は、池とせき止めたダムの下の低地とで成り立っています。
水辺があったり鬱蒼とした山林があったり、狭い範囲に変化のある景色がみられるのも
わたしがここを好きな原因です。

足元を注意して歩いていると、時々ツチガエルに遭遇します。
アップにしましたが、このカエルくんの大きさは小指の爪よりも小さいです。

おなじみのガチョウの群れ。

鳥さんお食事中。毛虫を捕まえましたね。
ものすごく食べるのに苦労していましたが、もしかして毛虫の毛のせい?

食べたらなんかやばいことが起こりそうな気満々のきのこ的なもの。

わたしたちが写真を撮ったりしながらぷらぷら歩いて行くのに対し、
運動する気満々のMKは親を置いてズンズン先を歩いております。

これは珍しい。
ここで初めてツバメを見つけました。
どこで生まれたのか、飛び始めてまだまもない子ツバメのようで、
少し飛んでは先に降り、こちらが近づいて行くと慌ててまた飛ぶといった具合。

羽を広げると、背中の部分が綺麗なブルーであるのに初めて気づきました。
ツバメって真っ黒じゃないんですね。

怖いのか、こちらを盛んに気にしながらぷるぷるしています。

まだ初心者マークのツバメくんたち、外敵に襲われないうちに飛べるようになるんだよ。

さて、ボストンでいつも買い物をするブティックが前回も言いましたように皆閉店したので、
今年はプレミアムアウトレットに足を向けてみることにしました。

ボストンとプロビデンスの間に、WRENTHAMと書いてレンサム(日本語ではレンタム)
という町がありますが、そこに大きなアウトレットモールがあるのです。

去年に続き、日常着にお役立ちのブランドをここでまとめ買いしました。

住んでいた地域でもっともハイグレードなモールには、一流ブランドも入っています。
今年一番ウケたヴィトンのディスプレイ。

「これはきもい」

そう言いながらみていると、いきなり閉じていた目が

Ф Ф カッ!

と開いてびっくりしました。

このモールにはニーマンマーカスというアメリカではもっとも
高級志向と言われているデパートもあります。

ニーマンマーカスの中には結構ちゃんとしたものを食べさせるレストランがあって、
今年も行ってみました。

ちなみにこのパーティションの向こうにはディオールとかセリーヌとか、
とにかくハイエンドなお洋服売り場となっております。

1日に一着売れるのかというくらい、いつ見ても人がいません。
まさか三越みたいに外商お得意様が家を回るシステムでもないだろうし・・。

ホールフーズでも、ズッキーニをヌードル状にカットしたものを「ズードル」と称し
パスタの代用として売っていますが、ここではズードルパスタが食べられます。

今回ホールフーズで一度だけ、パックの寿司を買ってみました。
マグロとアボカドをドーナツ状にしたご飯の上に乗っけて、
余ったところにふりかけをかけたその名も

「ドーナツ・スシ」

でございます。

味は・・・ご飯にマグロとアボカドをのせた味がしました。

MKのサマーキャンプが行われていた学校の近くにある、
滞在中は何度か通ったアイスクリーム屋さんに、今回一度だけ行ってみました。

懐かしい通学路でつい写真を撮ってしまうわたし。
この画面の右側にある教会の墓地には、南北戦争の犠牲者のお墓があります。

というわけでまたやって来た「ウルマンズ・アイスクリーム」。
今年は横に「ケトルズコーン」というテントが出ていましたが、これが何かわからず。

お店の屋根の上にある風向計が、風見鶏ならぬ『風見コーン』なのに初めて気づきました。

フローズンヨーグルトのブラックベリーというのを頼んでみました。

これが一番小さな「キディサイズ」。
日本で買う六個パックのハーゲンダッツ三個ぶんくらいでしょうか。
この上が「ワンスクープ」で、ほとんどのアメリカ人は「ツースクープ」を食べます。

車の中から食べながらアイスを買うアメリカ人を観察していると、
痩せた人はキディサイズかワンスクープ、太った人は子供でも
ツースクープにかぶりついていることがわかりました。

サイロのある道具入れ。
向こうには顔を出して写真を撮るパネルもあります。

アイスクリームを食べながら牛を近くで見ることもできます。でっていう。

さて、モールに戻ります。
西海岸ではもう珍しくも無くなったテスラのショールーム。
去年どこかの駐車場で颯爽とやってきたテスラがガルウィングのドアを開けたら、
周りの人が「おおお〜」みたいな感じで目を丸くしていたものですが、
こちらでもモールにショールームもできて、じわじわ数は増えて来ているようです。

ちなみに息子は「大きくなったら俺テスラに乗る」そうです。

同じモールにこういうお店もあります。

ニューベリーコミックスというこのお店は、基本コミック、漫画を売っているのですが、
本は売り物のごく一部で、あとはキャラクターグッズがほとんどです。

最近の主流は、ポケモン以外では日本のリラックマ、ぐでたまなど。
くまモンなどのご当地キャラ以外は全てアメリカでも有名です。

ハンドスピナーと言って指に乗せてクルクル回す(だけの)もの。
これに「ニンジャ」という名前をつけて売っていました。
これこそ「で?」っていうオモチャですが、日本でも今は売っているそうですね。

このコミックショップでつい買ってしまった、猫キャラクター「プシーン」
シッポ&猫耳つきパーカー。

日本っぽいキャラクターですが、作者はアイリッシュ系の白人女性です。
小さいときに日本にいたことがあるとか。

モデルは息子。
じ、自分で着るために買ったんじゃありませんからね?

 

 

 


”アメリカ人はなぜコーヒーを好むのか”〜ボストン・ティーパーティ博物館

2017-07-12 | アメリカ

ボストンティーパーティ博物館についてのお話、最終回です。

わたしたちのパーティが乗り込み、三つの茶箱をボストン湾に投げ入れた
エレノア号という船は、実際にティーパーティに参加し、茶箱を投げ入れた
実際の船を資料に基づいて再現したレプリカです。

ただしゼロから造り上げたのではなく、1936年に造られた船(左下)を
改造して現在の形にし、ここに展示してあるのだそうです。

「歴史の浅い国」といわれるアメリカの、その誕生に関わる出来事ですから、
それだけに史実を語り継ごうとする意志は他国より強くなるのかもしれません。

船を降りれば終わりかと思ったらとんでもない。
さすがに28ドルもの見学料を取るだけあって、この後、
まず桟橋で先ほどのルーシーさんの説明がまたひとしきり行われます。

桟橋には当時の商船が積んでいた貨物一式が再現されていました。

レモンがやたら目立ちますが、例えば1772年には、35万個の注文に対し、
200万個以上のレモンがボストンに荷揚げされたという話があります。

イギリスは植民地に対し、自分とこでできた余剰品を売りつけてたんですね。

茶法では、関税なしでアメリカに茶を売ることを認める法律だったため、
アメリカの業者が扱うより安い茶が国内に入ってきて、そのため
国内の業者がやっていけなくなったというわけです。

ティーパーティ当日、60人から90人といわれる名もない男たちは、
顔を消し炭で塗ってインディアンのふりをし、迅速に、そして静かに
斧で各船のハッチを壊して船内に入り込み、340ものお茶の箱を海に投下しました。

重さにすると46トン、被害総額は現在の価格で140万ドル(一億五千万円)。
まあこれだけ放り込めば、海水も紅茶の色になったかもしれませんね。

この様子を、1000人もの見物人は、ただ黙って、静かに眺めていたそうで、
事件の現場となったグリフィン湾には、ただ斧が木を打ち破る音だけが響いていました。

全てを終えた後、「愛国者」たちは肩に斧を担ぎ、街を行進しました。
自宅からそれを見ていたイギリス軍のモンタギュー提督は、彼らの列が通り過ぎる時、

「おお、諸君は結構なことをしてくれた!
そのインディアンの衣装でさぞ面白かったことだろう。
しかし、覚えておくがよい。
諸君はいずれバイオリン弾きに金を払うことになるぞ

"pay the fiddler"というイディオムは、自分でしたことは自分に返ってくる、
とか、天に唾を吐く、という意味で使われます。

それを聞いていたジョン・アダムスは

「我々にとって全てのうち最高の瞬間だった

つまり効いてる効いてる、と日記に書いているそうです。

冒頭写真の船首飾り、フィギュアヘッドは船の名前と同じ「エレノア」です。
そのエレノアが誰だったかについてはおそらくみなさんもあまり興味がないと思いますが、
船を表す代名詞が女性形であるわけは、昔船の名前に船主なり偉い人の
関係者の女性の名が使われたからであったことがわかります。

博物館の後ろ側にはボストンのフィナンシャルディストリクトを控えます。

何か面白い絵があったのでアップにしてみました。
イギリス側のプロパガンダで、タイトルは

「ボストニアンが”税男”にやったこと

ロイヤリストだった税関員ジョン・マルコム(アメリカ人)がパトリオットである
靴屋を殴ったとかで、愛国者たちが彼を「リバティツリー」の前に引き摺り出し、
服を脱がせてタールを塗り、鳥の羽をまぶして(靴屋との諍いに理由があるらしい)
税関の手数料を放棄するように迫りました。

彼が拒否すると、リバティツリーに吊るすぞと脅しをかけ、
さらには耳を落とすといわれて泣く泣くいうことを聞いたとか。

この絵では沸騰したお茶をマルコムの口に無理やり注ぎ入れていますが、
これはイギリス側の制作だったからで、イギリス側から見ると文字通り

「アメリカに煮え湯を飲まされた」

みたいな表現のつもりだったのでしょう。

この事件は英米双方で報道されましたが、たがいが相手を
非難しまくったであろうことは想像にかたくありません。

ちなみにマルコムはその後イギリスに移民したということです。
まあそうなるでしょうな。

1774年、ノースカロライナ州イーデントンの女性41人が茶会事件に呼応して
お茶をボイコットする声明を出しました。

これを「イーデントン・ティーパーティ」と言ったとかいわなかったとか。

ちなみに、2009年、アメリカの保守派が「ティーパーティ運動」と称する
ポピュリスト運動を打ち出しましたが、なぜティーかというと、

Taxed Enough Already(もう税金はたくさんだ)

だからだそうです。誰うま。

船を降りた後、皆はしばらくそのへんをウロウロして見学などを行います。

トーマス・ハッチンソン(上)とサミュエル・アダムス。

ハッチンソンは直轄植民地で著名なロイヤリストの政治家でした。

イギリス政府が植民地に押し付けた税法には反対していたのですが、
ジョンやサミュエル・アダムズからはイギリスの税を推進する者として
敵認定され、さらにはイギリスからも独立運動のきっかけを作ったとされ・・。

マサチューセッツに対する愛をイギリスに対する無批判の忠誠に捧げたことで
板ばさみとなり、結果どちらからも憎まれてしまった悲劇のロイヤリスト。

晩年は不運にもイギリスに追放されてしまったそうです。

当時の貨物は人力で滑車を使って積み込んだわけですが、
ここには改良前と改良後、二つの滑車が再現されています。

左の滑車では持ち上がらない茶箱が、右のでは軽々と。
なんかこういうの物理の授業でやりましたよねー。

中国茶でも高価なスーチョンなどの茶は小さな箱に入れられましたが、
安い茶は大きな箱で運送したため、それらは平均150キロくらいの重さになりました。

滑車でも使わないととても船の上には上げられません。

グリフィンズワーフはティーパーティの現場となった港。

建物の反対側になんと別の船がありビックリしました。
こちらのパーティから少し遅れて今は茶箱を放り込んでいるようです。

埠頭にあった行き先札には

「レキシントン」「ケンブリッジ」「セーラム」「コンコルド」

など、ボストンではおなじみの地域が書かれています。

向こう側の船の扇動人は若い男性。
手にしたカップで合間に何か飲みながら仕事をしております。

スターバックスのマグを使ったりせず、昔のビアジョッキのようなマグに
間違いなくコーヒーを入れて飲んでいると見られます。

建物の外側にはわかっているティーパーティの参加者の名前が刻まれています。
「ティーパーティ参加者」=「パトリオット」(愛国者)という認識なんですね。

 

この後はさらに建物の中に入り、映画などを見せてもらえます。

「コンコルドブリッジ 1775年の19人」

と題した絵は、撮影禁止の展示場を出たところに飾ってありました。
ご存知のように、独立戦争の先駆けとなった、イギリス軍とアメリカの民兵の間の戦いです。

オールドノースブリッジの戦い。

結論から言うと、この戦いはアメリカ側の勝利であったのですが、
ここでは数的にも戦術的にも劣っていたイギリス軍は不利になり逃げたと言うことです。

館内で見せられた映画、これはアメリカ人ではないわたしも胸に来るものがありました。
このころの戦争ですから、白兵戦ですが、戦いに身を投じる覚悟で
レキシントンに立つアメリカ人たちの悲壮感がドラマチックに表現されていたからです。

前にも一度お話ししたことがありますが、アーリントンに住んでいた時、
隣町のレキシントンで、独立記念日には地元の人たちによる

「レキシントンの戦い・再現ショー」

が行われているのを見ました。
こんな衣装をどうやって調達してどこに収納しているのかとわたしは目を見張ったものです(笑)

この絵には左に太鼓奏者がいますが、基本当時の戦闘は音楽付きで行われました。
そして、その戦いを100人ほどの見物人が見守っていたといいますから悠長なものです。

戦いの前に、指導者は民兵たちに向かって「ハザー!」と呼びかけ、
彼らの士気を煽りました。

と言うわけですっかりティーパーティ事件とその後の独立戦争につながる
動きに詳しくなった(つもりになれる)見学が終了。

出たところは即カウンターでお茶とお菓子が食べられるようになっていました。

おみやげ屋さんでは、茶箱を再現した木箱に詰められた紅茶を売っています。

茶会事件の後、沿岸に流れ着いた茶箱を拾ってそれを保持していた人がいて、
現物を室内展示では見ることができましたが、こんな綺麗な色だったとは。

ここには帆走フリゲート「コンスティチューション」の修理の時に出る廃材で作った
万年筆などの記念品を購入することもできます。

わたしも去年ボールペンを買って帰りましたが、この599.99ドルって高くない?

ティーパーティ博物館なので、お茶のセットも売られています。

さすがに本物のティーセットはいらん、と言うアメリカ人向けに、ミニチュアセット。
小さい時のわたしなら、目を輝かせてねだっていたと思われます。

ところで皆さん、最後にこの「エレノア」船長室の写真をもう一度見てください。
船長の横には手紙を書きながら飲んでいる紅茶があります。
イギリス人が紅茶付きなのはもう伝説のようになっている鉄板の事実です。

ところがアメリカ人は紅茶というものをまず飲みません。

アメリカ人はいかなる場合もコーヒーファースト。
逆に紅茶愛好家には肩身がせまいくらい、スーパーマーケットでも紅茶売り場は小さく、
バルク(量り売り)の紅茶をレジに持って行ったら、

「これ何?」

と聞かれるくらいのお土地柄。
最近でこそグローバリズム(笑)とかの影響で、西海岸では紅茶の店も出現してますが、
マニア向けといった感じで、スターバックスほど人が入るということはまずありません。


アメリカに住んで以来、あらゆるシーンでそのことを実感していたのですが、
今回改めてティーパーティ事件のことを考えてみたとき、
あたかも神の啓示のように(大袈裟だな)その理由がストンと腑に落ちたのです。

アメリカ人の紅茶に対する拒否感(そこまで行かずとも冷淡さ、興味のなさ)
の原因は、
遡れば植民地支配していたイギリスへの怒りが

「(イギリスの)紅茶なんか飲んだるかーい!今すぐ持って帰りやがれい!」

という愛国→独立運動とシンクロしたことにあるのではないか。

 

そういう仮説のもとに改めてティーパーティについて記された英語のwikiを読むと、

「ジョン・アダムスと他の多くのアメリカ人は、茶会事件以降
紅茶を飲む行為そのものが、非愛国者のそれだと考えました。
革命の最中からそれ以降、アメリカでは紅茶を飲む人が減少し、
その結果としてコーヒーが好ましいホットドリンクとされました

とあります。

わたしは、この茶会事件が、アメリカ人をアメリカ人たらしめているコーヒー志向を
形成した、という史実にこの人生で初めて気づき、猛烈に感動したのでした(嘘)

 

 

 

 

 

 


「今宵ボストン港をティーポットに」〜ティーパーティ博物館

2017-07-10 | アメリカ

今回の滞在は極端に短いだけでなく、毎日用事が入っていて、
いつものように、なんとなく行きたくなったところにふらりと行ってみる、
というようなことができないので、いつものところに滞在して
長年慣れ親しんだお店に立ち寄ったり、懐かしい道を通ってみたり、
そんなことをするだけで終わってしまいそうです。

それはいいのですが、毎年必ず一回はチェックしていた店が、
のぞいてみたら軒並み店じまいをしていたのはなかなかショックでした。

つまりこれは、アメリカでもオンラインが流通の形を変えてしまって、
皆わざわざ実店舗に行って買い物
をしなくなってきたからだろうと思います。

買い物のついでにちょっとした世間話をするのを楽しみにしていた、
ウェルズリーのイタリア人のおじさんがやっていた小さなブティックも、
おじさんが引退してしまった(もしかしたら亡くなったかも)のか去年閉店、
東部中心に展開していた別のお気に入りの店も、この6月でやめてしまったとか。
ホームページにはネットを媒介とした流通形態が主流となってやっていけなくなった、
と閉店の理由が書かれていました。

一つの時代(つまりアナログの?)が終わった、という感があります。

 

さて、ある日の午前中、わたし一人で行動する時間ができたので、
思い切って?ボストンティーパーティ博物館に行ってみました。

住んでいた時からもうなんだかんだ13年以上はボストンに縁がありますが、
USS「コンスティチューション」もそうだったように、案外住んでいると
わざわざこんなお上りさんガイドブックに載っているようなところには行きません。

しかしまあ、今回佐久間さんにもお勧めいただいたことですし、
4時間で言って帰ってこれる見学としてはちょうど良かったのです。

ナビの充電が全く無くなっていて(携帯電話式なのに放置していた)
目的地を入れないまま適当に高速を降り、勘だけで車を走らせたら、
どんぴしゃりで博物館前に到着しました。

いわゆるサウスボストンという地域でウォーターフロントです。

二階建てのトロリーバスが走っています。

続いて来たのは真っ黒な「棺桶風」、「ゴースト&墓石ツァー」。

ボストンは全米でも有数の「出る街」なんだそうで、
その「出る」場所をツァーで回ってしまおうという企画。
歴史が長く古いものがたくさん残っている街ならではのイメージですね。

本当のお墓に行ってそこで怖い話を聞き、「出る」と折り紙つきのホテルを訪ね、
夜8時半にホテルで解散というものだそうですが、さすがに朝っぱらにはやらないらしく、
このバスには誰も乗っていませんでした。

気のせいか、運転手の姿もありません((((;゚Д゚))))

HP HOODというのはボストンの乳業会社です。
川沿いにミルク瓶の形のミルクスタンドがあります。

川沿いはデッキを張り出した市民の憩いの場所になっています。

ここはボストン・チルドレンズミュージアム。
子供が楽しく科学で遊べる体験型のミュージアムで、
住んでいた時に息子を連れて何度か遊びに来たものです。

川沿いに繋留してある帆船と国旗をかたどった垂れ幕が見えてきました。
後ろには近代的な高層ビルが林立するフィナンシャルディストリクト。

跳ね橋らしい橋を渡っていくと、な・なんともののけ姫のコダマさんが!
この裏側にももう一体描かれていましたが、これはプロの犯行・・・?

ミュージアムの前にはボストンの歴史的遺跡が紹介されていました。
「バンカーヒル」は軍艦の名前にもなっているのでご存知でしょうか。

これらの遺跡は「フリーダム・トレイル」という道路に描かれている
赤いレンガの線の入った歩道を歩いていくと、ボストンコモンからバンカーヒル記念塔まで
16ヶ所全てを巡ることができるようになっています。

この次ボストンに来る時には歩いてみようかな。

ティーパーティのバックグラウンドを知るために、独立に繋がった出来事が
パネルに展示してあったりします。

1763年宣言とはフレンチ・インディアン戦争/七年戦争の終結に伴い、
領地を獲得したイギリスが1763年10月7日、国王ジョージ3世の名で発したもので、
宣言の目的は、

●イギリスの領土を組織化

●アパラチア山脈の西側での入植や土地の購入を禁止

●イギリス王室が先住民族から購入した土地を独占的に取引する権利

それでアメリカの入植人はイギリスに対し怒りを募らせていったわけです。

博物館には独立戦争時代のコスチュームをつけた女性がウェイトレスをしている
おしゃれなティールームがあるのですが、夜のパーティも行われているようです。

「HUZZAH!」

という感嘆詞は「ハザー!」と発音するのですが、当時の流行りの掛け声で、
「いえー!」とか「ヒッピヒップフレー!」みたいな感じでしょうか。

シェイクスピアの戯曲にも出て来るということなので、古い言い方には違いありません。

この時にはわかりませんでしたが、この後のツァーで、わたしは散々
周りのアメリカ人と一緒に「ハザー!」を言わされることになります。

アメリカでこういう人を見たらそれはジョンかサミュエルか、
何れにしてもアダムスという名前である可能性が高いです。

そういえばボストン(ハーバード)出身の音楽家ジョン・アダムスという人がいますが、
彼らの子孫なのかもしれません。
911のためのレクイエムや、原爆投下後の悩めるオッペンハイマーが主人公、
「ドクター・アトミック」というオペラも書いています。


というわけで、これはサミュエル・アダムス

アメリカではビールの名前にもなっており、「独立の父」であり、
ボストン・ティーパーティの先導者でもあります。

おお、サミュエルの向こうを「昔の人」が歩いていく・・。

うわ〜・・・それらしい・・・。

アメリカ人がこういう格好をしていると、当たり前のようですが、
あまりに皆ナチュラルに似合うので、感心してしまいます。

ああ、本当に昔はこんな人たちがいたんだな、っていうか。

Tシャツに半パン、タンクトップにむき出しの腕や脚の現代の格好より、
この時代の姿のアメリカ人の方がはるかに美しく見える(特に女性)
と思うのはわたしだけでしょうか。

・・・あ、もしかしたら日本人も着物を着た人を見た
外国人に、同じようなことを思われているのかな。

「洋服なんかより着物の方が(特に女性)美しいのに」

って。

アメリカ独立宣言案を提出している有名なシーン。
この絵で脚を組んで座っている人の右側がアダムスだそうです。

アメリカの建築構造物はマジで独立戦争時代のものが
残っていたりするので、この街灯もそうかもしれません。

その時、頭上から女性の叫ぶ声がしました。
あっという間に終わり、見えるところに出ると引き上げるところでしたが、
どうやら我々観客は当時の「ティーパーティ参加者」として扱われるようです。

今から会議を行うので中に入れ、というようなことを言っていたような気がします。

チケットを見せてゲートを通ると、教会の椅子が左右に並べられた部屋に全員が通されました。
見学者は何人か単位のグループに分けられているようです。

入場するときに、鳥の羽を配られました。
独立のシンボルなのかなんなのかわかりませんが、これを
基本的には帽子につけてツァーに参加するように言われます。

ちなみにこの羽、返さずに持って帰ることができました。

先ほどバルコニーで叫んでいた女性が皆に何か配っています。

カードを渡しながら何か説明している模様。

今日は1773年12月16日

この何週間か、恐慌がボストンを吹き荒れた。
今日こそ幾千もの市民が集結し声をあげて暴掠と専制に抵抗する日だ。
目覚めた市民としてあなたはこの会議がもたらす深い結末に気付くだろう。
あなたはあなたの自由を守るために何かをなすつもりがあるか?

で、わたしは「ナサニエル・ブラッドリー」という大工となりました。

偶然ですが、ボストンに住んでいた頃、わたしはよくパスワードに
『NATHANIEL』を使っていました。

どうやら参加者には全員に、ティーパーティに参加し、船から紅茶を放り込んだ、
実際にわかっている「パトリオット」の名前が書かれたカードが渡されるらしいです。

つまり、一つのグループの最大人数は、ティーパーティ参加者の数ってことですね。

まず、ルーシーなんとかと名乗るこの女性が、自分の身の上と
彼女らが置かれた苦しい現状を皆に訴えます。

「子供ば5人いてもうすぐ6人目が生まれるのに、生活が苦しくて・・」

「それもこれもイギリスからの輸入品が関税なしで入ってくるからだ!
イギリスからの輸入品はボイコットするべきだ!」

「ハザー!」

これ以外にも「Hssss」みたいなのとか「ブー」とか、前もって
「仕込み」をされているので、皆張り切って叫び声をあげます。

そこになんとサミュエル・アダムスご本人が登場。
いかにも本物の若いときという感じの人を採用しております。

当時、東インド会社が関税なしででアメリカに茶を輸出することを認める、
「茶法」というのがありましたが、アダムスはそれに反対しており、
イギリスからやって着た紅茶を関税を払わず送り返そうという決議がなされました。

決議は満場一致で「送り返す」に決定。

「ハザー!」

そこに知らせを持って駆け込んでくる先ほどの女性。

「なに?イギリス海軍が紅茶の貨物船の警戒に着いただと?」

集会ではいつしか

「今夜ボストン港をティーポットに!」

という声が昂まってきました。(という設定)

そして、我々は、ボストン港をティーポットにするために、船に乗り込むことになりました。
ただし、このあと船に乗り込んでみたら、肝心のアダムスはいませんでした。

アダムス、煽動するだけして、次のパーティに演説しに行ってしまったようです(笑)

 

 

続く。

 




ボストン到着

2017-07-01 | アメリカ

 

今年もアメリカの東海岸に来ております。
本来より大幅に時期を遅らせての渡米となりましたが、
この準備のために雑用を片付けて、到着してからようやく一息つくことができました。

これもまた毎年の恒例ですが、今年は例年と違い息子がボランティアで
カンボジアに行っていた時期に削られて、出発が遅くなりました。

6月にしては爽やかな日光を楽しむ日があったため、そう苦ではありませんでしたが、
気温25度の湿度の低いボストンにやってくると、いかに日本が蒸し暑かったか
トランクを開けた途端衣類から立ち上る湿気から思い知るのです。

空港ラウンジに行きますと、食事の置いてある階はほぼ満席状態で、
立ち入りが制限されておりました。

よっぽどラウンジ使用対象客が多いらしく、頻繁に

「少しでも多くの方にご利用いただけるよう、お食事がお済みの方は
下の階にご移動をお願いいたします」

と呼びかけるという騒ぎになっておりました。
受け取る権利のある特典は何が何でも利用しないと気が済まない、
というのは、決して安くないクラスチケット代を払った者が
陥りがちな心理ではありますが、これはいかがなものか。

いえ、もちろん客ではなく、 JALさんの対応姿勢に疑義を呈しているのです。
クラブやマイレージなどで、資格を安売りしすぎではないの?と。

 

わたしたちは空港ターミナルの寿司屋で「日本最後の寿司」をつまむことを
恒例としているのでラウンジで何も食べられなくても問題はありません。

こちら、ターミナルビルの伊東屋でステーショナリーを買いまくり、
その戦果に満足げな我が家の男性チームです。(どちらも文具フェチ)

飛行機が駐機しているのを見ても、以前とは違うところに目がいってしまう。
この、地面から出ているシルバーのホースで給油してるんですよね。

さて、搭乗口に移動する時間がきました。

ボストン行きなので、周辺には帰国らしいアメリカ人の姿がたくさんあります。
息子が洗面所に行くと、二人のアメリカ人男性が個室の前で

「おい、あそこ空いたぞ」

「いや、あれジャパニーズスタイルなんだよー」

「あー、俺もあれダメだわー」

「あんなん絶対無理だわー」

と相談していたそうです。
昨今は洋式になれた日本人ですら使用できなくなっている?という和式、
アメリカ人にはハードル高すぎでもはや無理ゲーの模様。

近くの免税店に時間つぶしに立ち寄って見たら、こんなものがいました。
胸につけたモニターを操作して指令を出すものです。

誰も相手にしてくれないので、店の隅っこで佇んでいたので、
ちょっと相手になることにしました。

「成田」「ロボット」で検索すると。

ホスピ

とか

美人人体型受付ロボット 'KOKORO'

とかがヒットするわけですが、こいつはそういうレベルではなく、
ペッパー君という挙動不審のロボットであることがわかりました。

とにかく見てくる。
体は動かさず、ガン見してくる。

この成田のペッパー君には

ペッパー君に勝たないとはいれない雰囲気のシャネル

という実例が報告されており、どうやらクレームが出たので
従業員用の出入り口の近く(当然店の奥)に放置されているようです。

人の目をガン見するプログラムが搭載されているらしく、このような報告例も。

今日から席の隣にペッパーさんがきたんだけど
電源入れとくとこっちガン見してきたりするからうぜーと思ってたら
同僚が壁に提督貼ってくれたら提督がロックオンされてた

 

 

せっかくなのでご本人のテーマソングを歌っていただきました。
当然ですが振り付け付きです。

「僕はロボット 人間機械」

「僕には僕の良さはある」

「変身はできなけれど メールの返信 超早い」

「・・・・・・・行こうか」

「うん」

気は咎めたのですが、とても最後まで付き合う気力がなく、
熱演している彼を放置して店を出てきてしまいました。

英語での対応があったのかどうか、確かめられなくて残念でした。

最近ANAでの渡航が続きましたが、今回は直行便のJALにしました。
去年もトランジットがうまくいかなくて、乗り継ぎに遅れたことを
ここでご報告したかと思いますが、イライラしながらイミグレに並ぶ気持ちや、
その後カウンターで交渉する手間、ついでに予約をアレンジしたカード会社に
クラス差額の払い戻しのために報告する煩わしさを考えた場合、
こちらの方がはるかに精神衛生上麗しいと判断したからです。

 

出発時刻は定刻通りでしたが、この後離陸が混雑して、
結局大幅に時間が遅れました。

 

久しぶりに乗ったら、少し前とは違うタイプでした。
新型機だったのかもしれません。

機内映画で「ローガン」「ララランド」「美女と野獣」を観ましたが、
モニターのコマンドが使いにくて困り果てました。

TOも

「あれ、使いにくくなかった?」

とあとでぼやいていたので相当だと思います。

さて、前回も食事があんまり・・・と思ったわけですが、
今回はせめて食べると舌がビリビリ麻痺する(あれ何だったの)ことさえ
なければ許してあげようと思いつつ、洋食をチョイスしてみました。

洋食なのにアミューズが胡麻豆腐。
まあ胡麻豆腐好きなのでこれには文句はありません。

キヌアの上にイカをあしらった前菜。
イカは柔らかく、結果としてこのお皿が一番いけました。

JALは機内でメゾンカイザーのパンを出すのを売りにしているのですが、
いかにメゾンカイザーでも電子レンジで温めたらもう終わりだと思う。

そして問題のメインディッシュ。
タチウオに夏野菜をあしらったものですが、わたしには辛すぎでした。

デザートはメレンゲを乗せたひたすら甘い物体。
アメリカ人向けのお味でした。

というわけで、12時間のフライトを終え、ローガン空港に到着。
直行便だと機内で睡眠を取ることができるので楽です。

今回は夕方到着の便にしたので、自宅に車が迎えに来るのが昼過ぎでした。
部屋の片付けや用意を余裕を持ってできる上、着いてから夜になるので
時差ぼけが解消しやすいという、いいことづくめ。


ハーツに車を取りに行くと、予約の段階では「カムリか同等クラス」としていたのに、
いろんな車が置かれた一角に連れて行かれ、

「あなたはこの一帯からどれでも好きな車をチョイスできます」

といわれました。
ヘビーユーザーならではの特典だったのかもしれません。

カムリ、シェビー、ヒュンダイのソナタ、起亜もありましたが、
そのなかでもっともお借り得と判断した日産ローグ(ニューヨークナンバー)
を選び、入り口で GPSを貸してもらって走り出しました。

手前のスマホみたいなのが(ってかスマホか?)新型GPS。

シガーライターソケットに電源を指して使用します。
この時でだいたい午後8時ですが、まだ明るいのがボストン。

フェンウェイ球場は試合中らしくライトがついています。

ずっと工事中だったニューバランス本社のビル。
どう観てもこれはシューズをイメージしたシェイプ。

今調べて驚いたのですが、ニューバランスって、何と起業が1906年なんだそうですよ。
日本だと日露戦争が終わったよく年で、イギリス移民が始めた
インソールの専門メーカーが基本になっているのだとか。

新しい本社ビルの隣には、バスケットボール用らしい体育館までできていました。

というわけで、いつものホテルに到着。
息子は例年キャンプに参加していたので、久しぶりの宿泊です。

20年近く毎年来ているので、この同じ部屋にも何度か泊まりましたが、
大幅にリニューアルされて、しかもコネクトルーム付きに変わっていました。

ベッドルーム二つ、洗面所二つです。

早速近くのホールフーズで買い物をして、明日からの滞在に備えます。
キッチン付きでホールフーズがあると、大変安く、健康的な食事ができます。

リニューアル後初めて泊まったので暖炉が部屋についているのに驚きました。
早速火をつけて嬉ししげに写真を撮るわたし。

夏だからこんなの使わないだろうと思ったら、今朝は曇っていて風が強く、
実は今、暖炉をつけてパソコンに向かっています。


日本では考えられない夏ですが、この気候が何よりの贅沢です。