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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「潜水艦搭載型スタインウェイ」〜ロンドン潜水艦隊博物館&図書館

2017-06-27 | アメリカ

 

ニューロンドンのグロトンは昔から潜水艦基地がありますが、
もともと潜水艦を作る工場ができ、そのうち基地ができたというもので、
世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」もここで生まれここから南極に出航し、
遡れば多くの潜水艦が日本と戦うためにここを出発していったのです。

さらには、最初の潜水艦ホランド型はここで生まれたものですし、
最初の潜水艦的な武器であった「ブッシュネルズ・タートル」も、
こコネチカットで最初に実験が行われました。 

というわけで、ここが「潜水艦発祥の地」であり、「潜水艦のふるさと」
であることは間違いがないところでしょう。

そこにある「潜水艦博物館」は、まさにアメリカの潜水艦史を知るための
国内でも随一の資料が 網羅されているといえます。

そんな潜水艦博物館の展示に触れながら何回かお話ししてきましたが、
いよいよそれも最終回となりました。

今までのエントリに積み残した展示も含めてご紹介していきます。

ここにあるからには潜水艦だと思うのですが・・・なんだっけ(笑)

アメリカ最初の潜水艦「ホランド」型の時代のここグロトン。
自分の開発した潜水艦のハッチから上半身を乗り出すホランドの姿も見えます。

その後も潜水艦の開発は続きました。ってことで、技術者たちの写真。

潜水に関わる各種道具。

一番大きいのは「マッカン・ダイビング・チャンバー」と言い、
1930年に、沈没した潜水艦の乗員救出のために作られました。
一度に8人の男性を数百フィートの深さから持ち出すことができます。

1939年には、ニューハンプシャーの海岸に沈没したUSS「スクワラス」(SS-192)
から33人の生存者を救出するために使用されました。

左の縦長のケージは、JFK専用特製エレベーター

1962年、大統領ジョン・F・ケネディは海軍を訪問し、このときに
 UST THOMAS A. EDISON(SSBN-610)に乗り込んだのですが、
JFKはエジソン、じゃなくてアジソン病という持病で脊椎に問題を抱えていましたので、
その乗り降りを少しでも容易にするために、海軍はわざわざ
潜水艦に乗り込むためのこんなエレベーターを作ったのです。

おそらく潜水艦のハッチの上部に備え付け、ラッタルを降りなくても
下まで行けるように工夫したのでしょう。
頂上には索を取り付けるための輪がありますので、おそらく
中空からロープをかけてJFK一人を乗せ、ゆっくり下ろしたに違いありません。

そのために海軍は恐ろしく面倒な会議と製作のための会合を重ね、
何度もなんども予行演習を繰り返したのだと思われます。

こんな迷惑な準備までさせても、ポラリス弾道ミサイルを視察することは
当時のアメリカ大統領にとって大事なことだったということでもあります。 


ついでに言いますと、原潜「トーマス・A・エジソン」もまた
ここニューロンドンのゼネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート社の生まれ。


英語のwikiページに、出どころこそ明らかでないものの、わたし的に
お?!と思う情報があったので蛇足ですが書いておきます。

「建造時、艤装艦長の要請により艦内にスタインウェイのピアノが搭載された。
このピアノは、彼女が廃艦になるまでの22年間(1961から1983)ずっと艦内にあり、
核抑止パトロールを行うアメリカ海軍のの潜水艦に
これまでに搭載された
史上唯一のフルサイズのピアノとなった」



スタインウェイのフルサイズピアノが搭載できるくらい、当時の潜水艦は大きかった?
という話なのですが、残されているピアノの現物を見ると、フルサイズちゃうし。
これはフルサイズではなくアップライトといいますねんで。(なぜ関西弁)


それはともかく、当然JFKも視察に入った時このピアノを見たはずです。 

彼は幼少時、兄のジョセフ共々ピアノのレッスンを受けており、
ボストンの彼の生家にはそのピアノが残されていたという話ですが、
二人とも何かと理由をつけてやめてしまったとか。(男の子にはよくある話ですね)


きっとJFKは艦内のスタインウェイに目を見張り、

「僕もピアノ習ってたんだけど嫌でやめちゃったよ」

などという話を披瀝したのではないでしょうか。 

潜水艦に搭載する魚雷各種。

上の緑色のはMk.37魚雷
1956年から10年間にわたり配備された電動推進式の魚雷です。
圧縮空気で撃ち出すより発射音を大幅に軽減しました。

その下の黒いキャニスターは、Mk49機雷
機雷原に敷設して航過する船を爆破する感応式機雷です。 

上の緑はMk48魚雷
先ほどの37魚雷の後継型で、これは初期の1972年ごろのタイプです。

1988年からは能力向上型のADCAP型が配備されており、
現在もアメリカ海軍の潜水艦の主装備となっているというもの。

下の白はSUBROC、サブマリン・ロケットです。

核弾頭搭載の潜水艦用対潜ミサイルで、冷戦用に開発され、
1992年までには全て退役しました。

発射後は水中でロケット・エンジンに点火、そのまま水中から飛び出して上昇し、
超音速で飛行して目標付近に到達したら弾頭を分離・投下します。
弾頭は核爆雷として機能し、設定深度において爆発するという仕組みです。

上はMk14魚雷
第二次世界大戦中に潜水艦で使用された標準的な魚雷です。

当初不具合が多く、命中しても爆発しないことで有名になった魚雷で、
例えば 油槽船第三図南丸(19200㌧)は、ガトー級潜水艦の「ティノサ」
魚雷12本を発射・命中させて爆発したのが1本だけであったとか、
5本当てて皆不発であったという説もあります。

前線から魚雷不発の報告が相次いだため、ティノサ艦長のダスピットは、
米海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツに直訴して改良を求めたとか。

くだんの第三図南丸は、不発魚雷を船体に突き刺したままトラックに曳航されたのですが、
その姿がまるで髪にかんざしをつけた花魁のようだということで、

「花魁船」

と呼ばれたということです。

おーい、アメリカさん、バカにされてますよ〜〜。

これは何かと言いますと、ここに実物のある世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」
中を見学してその詳細をここでもお話ししましたが、実際に見ることができたのは
この写真でいうとちょうど中央の区画から前の部分だけです。

後ろの部分にはリアクターがあるため、公開しないのだと解釈しました。

「ノーチラス」のマニューバリングルームで機器を触らしてもらっている
リチャード・ニクソン大統領(当時)。
マニューバリングルームは、それこそリアクターとエレクトリックジェネレーター、
エンジン、プロペラの動きをコントロールするところです。

「ノーチラス」の当時のギャレーだということですが、実際の見学では
このような広いギャレーは見なかったように思います。

キッチンにはテレビがあり、今何やら放映されているようです。 

 

さて、第二次世界大戦の頃の資料とは少し離れた部屋に、
冷戦時代からの潜水艦の資料などが主にパネルで展示されていました。

これは原子力潜水艦SSN 「ピッツバーグ」のバナー。
「ピッツバーグ」はやはりグロトン生まれで、まだ就役中です。

それにしてもこのマーク、なんというか。
いかにも艦長か幹部が趣味で描いて、その権限で有無を言わさず決めた、
みたいなアマチュアリズム溢れるデザインです。

・・最近我が自衛隊にもそんな話があったような気がするぞ。


アメリカの軍艦のマークには、こういう内輪の作品みたいなのが実に多く、
下手にプロに頼むより多少下手でも仲間が描いたのがいいよね!
みたいな感じで採用しているパターンなんだろうなと思います。 

昔から潜水艦は自らを「掃除人」と称してきたものなのですが、
誇らしげに潜望鏡に箒を二本刺して母港に帰ってきた例。

「任務(掃除)終了!」

ここにはその時の箒が寄付され(笑)展示されています。

上に立っている乗員がかっこいいのと、アンテナに
「FURUNO」の文字が見えた気がしたのでアップにしておきます。

アメリカでもこんな昔からこれ使われたんですか・・。
兵庫県西宮市が本社だそうで、 そういえばJRに乗ると見えていたような・・。

なんか小さい時から見覚えのあるロゴだと思ってたらこれだったのか。 

さて、第一次世界大戦、第二次世界大戦と冷戦における
潜水艦戦の概念などを表したパネルもありましたが、それは省略。

弾道ミサイルの飛距離を表したこの世界地図がなかなか面白いですね。
「ポラリス」「ポセイドン」、そして「トライデント」と
だんだん可能な飛距離が伸びているのが一目でわかります。

ここに書かれているトライデントはすでに廃止になった「I」であり、
現行のトライデント II の射程はもっと伸びているということにご注意ください。 

ちなみにII の射程距離は推定値 6,000海里(約11,112 km)以上。
って言われてもねえ・・・・。

サンディエゴから撃ったら北朝鮮まで届く感じ? (適当)

これは、弾道ミサイルポラリスの実験を見るJFKの後頭部。

JFK「はえ〜〜」

時に1963年、発射に使われた潜水艦は SSBN-619「アンドリュー・ジャクソン」
( 第7代アメリカ合衆国大統領)でした。
(船乗りにはあまり評判のいい大統領ではありませんでしたが)

この時JFKは軍艦の甲板からこれを見学しています。

この前年、先ほど紹介したエレベーターで「トーマス・A・エジソン」に乗り込み、
ポラリスミサイル搭載の潜水艦を初めて見学したJFKは、
この時初めて実際の発射を見たということになります。 

前にもお話しした「フォーティワン・フォー・フリーダム」の写真ですが、
最初のSSBNは16基のポラリスミサイルを搭載しており、
そのミサイルチューブは右のようになっていました。

このミサイルチューブは「シャーウッドの森」と呼ばれていたそうです。

シャーウッドの森→ロビンフッド→弓の名手→ポラリスは的を外さない

ってことでしょうかわかりません><

 

さて、それでは「41」の一つである USBN−635「サム・レイバーン」
が、ミサイルチューブの蓋でいかにも海軍らしい自己主張をかましてくれているので、
これをご紹介してシリーズを終わりにしたいと思います。

皆様、コネチカットに行かれることがあれば、ぜひこの博物館の見学をオススメします。 

B E A T  A R M Y・・・・・。

あんたらの敵ってソ連だったんじゃなかったのか。


終わり。 



ガトー級潜水艦 〜ニューロンドン潜水艦隊博物館&図書館

2017-06-26 | アメリカ

ニューロンドンの潜水艦博物館の展示についてお話ししています。

ここの潜水艦基地は、1868年に、コネチカット州が海軍にテムズ川沿いのの土地を
基地建設用地として提供したことに始まりました。
4年後の1872年、海軍工廠が設置されましたが、小型船が停泊するくらいで、
ほとんど開店休業状態が続いていました。

産業の衰退を懸念した地元議員の働きかけにより、閉鎖を逃れたグロトンの工廠は、
その後第一次世界大戦の勃発を契機に海軍初の潜水艦基地となります。

1912年には、海軍初のディーゼルエンジン式潜水艦、
 USS E-1 (SS-24)

が就役しましたが、その指揮をとったのが、チェスター・ニミッツ大尉でした。

博物館内に設置されていた映画館ではエンドレスで潜水艦隊の歴史を放映していましたが、
このディーゼル第一号潜水艦の時に出てきたニミッツの
海軍兵学校時代の写真を思わず撮影してしまったわたしである。(〃'∇'〃)ゝ

1916年、潜水艦基地として恒久化されると同時に、
海軍潜水学校も併設されることになります。

右上の写真は、わたしが間違えて車で突っ込んだ潜水艦基地の
ゲートと同じところにあると思われます。

潜水艦は第二次世界大戦の時に大量に建造され、この潜水艦基地の
最盛期というくらいたくさんの潜水艦がここから生まれましたが、
戦争終結とともに潜水艦隊は大幅に縮小され、多くの殊勲艦もお蔵入りとなり、
大戦時の潜水艦隊の大半は、1960年代初めにはスクラップとして売却されました。

潜水艦基地が再び脚光を浴びるのは、原子力潜水艦「ノーチラス」の建造以降。

現在は5隻の攻撃型原潜の母港となっており、重要な潜水艦造船所である
ジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボートが隣接しています。

かつての潜水学校での一コマ。
模型はガトー級潜水艦でしょうか。 

グロトンに駐留する全ての士官と乗組員は、訓練を受けるか、攻撃原潜に乗艦するか、
新造艦の就役準備作業に従事しています。

また、潜水艦学校に所属する乗組員候補生は、最初に8週間の基礎課程で
海中生活の厳しさを(たぶん)嫌っ!!!というほど叩き込まれるのです。

それでは、今日は展示をいくつか紹介していきます。


説明がなかったのですが、初期の潜水艦救助のためのマスクだと思われます。
ディズニーシーの「海底二万マイル」のデコレーションみたいですね。 

サブマリン・メッセンジャーブイです。

当時の潜水艦は緊急時、沈没位置を示すためにリリースできるブイを搭載していました。
通常ケーブルで潜水艦の一端に接続されていたブイには、
生存者との通信に使用できる電話も含まれていました。

歴史始まって以来のサブマリナーたちの姿をとどめた写真の数々。
バスケットボールチームの名前は「サブズ」だった模様。

左の下は賭けでもしているのでしょうか。
先日ご紹介した映画では、水兵たちが禁止されている賭けをしているのを知って
艦長が「今から後ろに行くぞ!」といってやめさせるというシーンがありましたが、
潜水艦生活においてはこういう気晴らしを禁じるというの禁じるというのも
酷なので、お目こぼししていたのかもしれませんね。

さて、中央部分には大変大きなガトー級潜水艦の模型が天井から吊ってあります。
それを中二階の真横から眺められるという仕組み。

これはガトー級1番艦の「ガトー」SS-212で、モデルは50フィート、
15mもある巨大なものです。 

「ガトー」はここグロトンのエレクトリック・ボート社で建造されました。

模型の船殻は窓がくりぬかれていて、中の様子がわかります。
まず、一番前の部分は、前部魚雷発射管。
バラオ級潜水艦の前部発射管室は「パンパニト」「ライオンフィッシュ」と見学しましたが、
ガトー級は次級のバラオと艦体の大きさは95mで全く同じなので、
おそらくこの部分もほぼ同じ作りだと思っていいかと思います。 

ズボン一丁で待機している人がいるのでアップにしてみました。
それにしてもこの模型の精密さ!

前部ですから、ここでくつろいでいるのはおそらく士官たちでしょう。
階下にある黒いボンベは何でしょうか。

 

テーブルで語らう士官、自室で本を読む士官・・・。

士官は暑くても服を脱ぐなという暗黙の決まりでもあったんでしょうか。
このころの潜水艦は士官室だけクーラーを効かせるのも無理だったはずですが。 

ブリッジの真下を「コニングタワー」と言います。
コニングタワーは司令官のバトルステーションであり、艦の各所に
連絡を取り情報が集まってくる中心でもあります。

士官はここから潜望鏡で海上を監視し、ソナー、レーダー、そして
電気関係を操作します。
トルピードデータコンピュータ、TDCもここで扱います。

甲板の上には20mm機関砲が搭載してあります。

このころの潜水艦には潜望鏡が二つ、昼用と夜用に用途を分けて搭載してありました。

展示で説明されていた日中の魚雷攻撃。

夜間は潜望鏡が役に立ちません。
最初に潜水艦が搭載したレーダーは能力に限りがあり、
基本目視で敵を確認しなければなりませんでしたが、後述する「SJ」が
1942年8月に導入されてからは、敵艦の状態が把握できるようになり、
夜間の攻撃も可能になりました。
 

アタックセンター。

海面探索用のレーダー、『SJレーダー』が全ての潜水艦に普及したことと、
日本軍の潜水艦がレーダーを搭載していなかったことは、
太平洋でのアメリカ潜水艦の活動を大変容易なものにしたと言われています。

SJレーダーの距離情報、方向情報は大変正確なもので、海面だけでなく、
低空飛行で近づく航空機の情報も得ることができました。

通信機器として使用することもでき、群狼作戦(ウルフパック)と言う
デーニッツが開発した潜水艦の共同作戦などでは、ポイント・トゥー・ポイントで
2潜水艦間での連絡を取り合うことができたと言われます。

 

うーん・・・なんというか、これは日本は勝てませんわ。
これでよく時々敵潜水艦を攻撃して勝てたものだと逆に不思議なくらいです。

アタックセンターの見取り図。

1、操舵スタンド 2、ブリッジへのハッチ 3、チャートテーブル

4、コントロールルームへのハッチ 5、潜望鏡1 6、潜望鏡2

7、FCパネル 8、レーダーマスト 9、TDC 10、ビルジ

11、排水管 12、海図庫 13、ロッカー

ギャレーとその横の調理室。
唯一身につける半ズボンは一応全員お揃いで支給品である模様。
今気づいたのですが、全員スリッパというかサンダルなんですよね。

アメリカ人のサンダル好きはこんなところにも?現れています。

科員の寝室。
だいたいどんな潜水艦も、居住区に対して三段のベッドを作るのが標準。
(大きな艦では4段というのもあり)
寝ている二人は何も上から掛けていませんが、暑いので基本
全く必要なかったということなんでしょうか。 

ここで見学した「ノーチラス」のマネキンは、ちゃんと首までシーツをかけて寝ていました。

ところで、ここにも黒いボンベのようなものがあります。
これは、バラストタンク(中央)やトリム(前後)です。

トリム・バラストという言葉は潜水艦には欠かせません。
艦首から艦尾まで、潜水艦の艦内に大きなスペースを占めるのが
バラストタンクです。

一般にバラストというのは船舶における重しのことですが、
潜水艦の場合は、このバラストタンクに海水を出し入れすることで
浮上・沈降を調整する(バラストを増やし沈降することもできる)ことができます。

また、潜水艦はメインタンクの前後に2つのトリムタンクを持ち、
それらの間で海水を移動させることでトリム(上下方向の傾き)制御を行います。

戦争が始まった時、アメリカ海軍潜水艦の潜行にかかる時間は平均で
50秒でしたが、終戦の頃には30秒に短縮されていたと言われています。 

メインの吸気バルブは、ブリッジデッキと外郭の間の上部構造物にあり、
吸気並びに排気も行います。

ディーゼルエンジンの運転には基本大量の酸素を必要とするので 
酸素をダクトとファンで艦内に供給しなければなりません。 

 

万が一のために、乗員の呼吸のためには化学的Co2のキャニスターがあり、
その時には缶から空気が供給されました。

艦内の空気は通常の状態で最大17時間しか保ちませんでした。 

右側の区画はマニューバリング・ルームです。

ここでは機関室の士官と機関科の下士官兵が、コントロールルームからの
指令に従って推進に関わる操作を行います。

ここには、ディーゼルからバッテリーまで様々なスイッチが集中しています。 

 

そして後ろまでやってきました。
後部魚雷発射室。
ガトー級の魚雷発射管は全部で10基ありました。
前部に5基、 艦尾に5基です。

実際に中を歩いて見学してわかることと別に、このような俯瞰で、しかも
立体的な模型を見ると、艦内の様子が非常によくわかります。 


さて、次回、潜水艦博物館シリーズ最終回となります。 

 

 


幻の駆逐艦「岩波」と「41フォーフリーダム」〜サブマリンミュージアム グロトン

2017-06-16 | アメリカ

コネチカット州はグロトンにあるサブマリンミュージアム、
前庭にある残りの展示品を全て紹介していくことにしましょう。 

サブマリンミュージアムの正確な名称は、

The United States Navy Submarine Force Library and Museum
(アメリカ合衆国海軍潜水艦隊図書館・博物館)

と言います。
実は展示もさることながら、潜水艦に関する蔵書や資料が閲覧できる
図書館となっており、その隣の潜水艦隊の軍人がしょっちゅうここに
出入りしている様子なのも、このためなのではないかと思われました。

テムズ河畔はご覧のように崖の山が迫っていて、
それゆえ水深が深く、潜水艦母港に選ばれた地形なのだと思いますが、
ミュージアムの敷地に迫った小高い崖の上にはマストが立てられ、
国旗の両側に、潜水艦隊旗と博物館の旗が掲げられています。 

創設は1955年。
元々は、ゼネラル・ダイナミクス社エレクトリックボート部門が、
当社で手がけた潜水艦などの資料を展示しているだけの博物館でした。

このゼネラルダイナミクス社の創業者はジョン・フィリップ・ホランド


この名前、聞いたことあるでしょう?
そう、SS−1となった米海軍最初の潜水艦「ホランド」にその名前を残す人物で、
GD社の最初の社名は

「ホランド魚雷艇会社」(Holland Torpedo Boat Company)

といいました。
1964年に博物館と図書館が海軍の潜水艦隊に寄付され、
そのときにここニューロンドンのグロトンに展示物が移転し、
元から海軍が持っていた展示品と合わせて公開されることになりました。

その後、引退した原潜ノーチラスが譲渡されてここに展示されることになり、
潜水艦博物博物館としては世界でも有数の規模となったのです。 

一度ご紹介しましたが、ミュージアム建物の前には

敵対艦潜水ミサイル UGM-84

が実に躍動感を感じさせる飛翔の様子で展示されています。 

崖を背に、そびえ立つポラリスA-1ミサイル

ポラリスは冷戦期にロッキード社が開発した潜水艦発射弾道ミサイルです。
2段式であり、固体推進薬を使用し、核弾頭を搭載していました。

前にもニューヨークのイントレピッド博物館にあった潜水艦に
搭載していたこのポラリスについてお話ししたことがあります。

ついでに、JFKがこれを最初に搭載した潜水艦を見学したとき
腰の悪い大統領のためにハッチにエレベーターをつけた話もしましたっけ?

ポラリスもポセイドンも過去のミサイルとなり、
現在の潜水艦ミサイルの主流はトライデントで、他には英海軍が運用しています。

ポラリスミサイル発射管のハッチです。
赤い凹と凸の組み合わせが実にアーティスティック。

USS SAM RAYBURN (SSBN-635)

の16の発射管のうちの3番管のハッチです。
原潜「サム・レイバーン」は1989年に除籍になりました。
廃艦の背景には、第二次戦略兵器制限交渉を受けて
原潜を削減すると決まった、という政府の決定があります。 


5インチ艦砲は、見ての通り、第二次大戦中の潜水艦の搭載。

USS FLASHER (SS-249)

はガトー級潜水艦で、この博物館を当初運営していた
ゼネラルダイナミクス社の建造によるものです。

ところでこの「フラッシャー」にはこんな逸話があります。

「フラッシャー」は1945年9月の就役後、対日本戦で大きな戦果をあげました。
あげすぎて、

 第二次世界大戦において10万トンを超える敵艦を撃沈したアメリカ海軍唯一の潜水艦

つまりアメリカ海軍でナンバーワンの潜水艦ということになっているのですが、
この記録には一部捏造操作があるらしい、じゃなくてあるのです。


それはこういうお話。

「フラッシャー」は帝国海軍の駆逐艦「イワナミ」を撃沈したことになっており、
そのため撃沈総量が10万トンを超す大台に乗ることになりました。

んが、そんな名前の駆逐艦はそもそも存在もしていないのはみなさんご存知の通り。
(多分岩波書店を知っているアメリカ人がいたんじゃないかな)

ところが「フラッシャー」、当時の情報システムではバレないと思ったのか、
しれっと駆逐艦「イワナミ」をカウントしたばかりでなく、戦後も
その記録を抹消せず現在に至ります。

いや、抹消しようよ。

もうインターネットで調べれば誰でもその嘘がわかる時代になったのだから、
いい加減に数字を訂正しておいた方が身のためだと思うんですが。

「イワナミ」がカウントされなければもしかしたらランクが下がるとかで
意地でもこのまま行こうと思っているのかもしれませんが、
それでは同時に捏造の証拠も残ってしまうんだけどそれはいいのか。

手前のアンカーは、

USS STURGEON (SSN- 637)

のもの。
変わったシェイプをしていますが、潜水艦の艦体に
ピタリと張り付くような形をしているのだそうです。 

スタージョン(チョウザメの意)もエレクトリックダイナミクス社の建造で、
ここグロトンで生まれ、ニューロンドンを母港としていました。 

冒頭写真にもあげましたが、我が日本の艦船と事故を起こしたことがある

USS GEORGE WASHINGTON (SSBN- 598)

のセイルです。
1981年、東シナ海で浮上したとき、日本の貨物船と衝突して貨物船は15分で沈没。
しかし事故発生から報告まで24時間もかかったことで日本側から非難が起きました。

米原子力潜水艦当て逃げ事件 

しかも、ジョージワシントンも、アメリカのPー3Cも乗員の救助を行わなかったため、
乗組員の救助のために護衛艦「あおくも」が出動することになりました。
この事故では、結局2人が行方不明となっています。

セイルにはこの事件の時に傷ができたというのですが、この角度からはわかりません。

ミュージアムのページにあるこの写真には、少し破損部分が確認できました。
(セイル後方に波打っている部分)

これが日本船と激突した跡か・・・・・・。


セイルにはポラリスミサイルのシルエットが16描かれていますが、
これは撃墜マークのようなものではなく、単に十六発のミサイルを
この潜水艦は搭載しているという意味だと思われます。

「ジョージ・ワシントン」はアメリカ海軍で初めて弾道ミサイルを
搭載した潜水艦であったので、それを誇らしげに表現したのかもしれません。 

こちらはあの!原子力潜水艦「ノーチラス」のプロペラ。

夏に見学した時には最初の原潜「ノーチラス」について
色々とお話してきたので改めていうまでもないですが、彼女は「オペレーション・サンシャイン」
で、南極の氷の下を潜り、北極点に達するという偉業を成し遂げた原潜です。

このプロペラで、通信が途絶え、少しでもミスると艦体をこすって全員おしまい、
というような狭い氷のトンネルのような海底をくぐり抜けていったのです。

 

館内には天井から吊られたトマホーク巡航ミサイルを見ることができます。
ミサイルが潜水艦から最初に水中発射されたのは1982年のこと。

水中を巡行して海面に達したトマホークミサイルは、その翼を広げ、
そのまま空高く飛翔していきます。(なんか詩的な文句だな)

そしてコンピュータと人工衛星のコントロール下、目標に到達し、爆破します。

説明がありませんでしたが、レバーの形状から察するに潜望鏡のスコープ部分でしょう。

これでテムズ川を眺めることもできます。
ちなみに川はこの位置からはずっと右手を流れているのですが、
この部分は入り組んだ川溜まりで、沼のように水が溜まっています。

 

再び外に出てみましょう。

フォーティワン・フォー・フリーダム(自由のための41隻)

と書かれたモニュメントがあります。
アメリカ人は国を護るという言葉を「自由を得る」と言い換えるのが好きです。

で、この41隻とは何かというと、

ジョージ・ワシントン級原子力潜水艦 SSBN598〜602 

イーサン・アレン級原子力潜水艦 SSN608〜618 

ラファイエット級原子力潜水艦 SSBN616〜626 

ジェームス・マディソン級原子力潜水艦 SSBN627〜636 

のことで、現役当時からこれが彼らのキャッチフレーズだったようです。
全部足しても数が合わなかったのですがまあいいや(適当)


ちなみにジョージ・ワシントン級は初の弾道ミサイル原子力潜水艦です。

艦隊弾道ミサイル潜水艦(FBM: Fleet Balistic Missile Submarine)

というのが正式名称で、1959年12月に1番艦が就役して以来、
冷戦期のアメリカに、巨大な核火力と強力な抑止力をもたらしました。

1960年代のマクナマラ国防長官の核抑止政策のもと、

「自由のための41隻(41 for Freedom)」

は冷戦下の水中核戦力におけるアメリカの優位の維持に寄与したといわれています。

潜水艦ミュージアムは、誰でもこのレンガに名前を残すことができます。
博物館の支援システムで、一番小さなレンガがわずか125ドル。 

大きなレンガでも275ドル!
少しだけ心が揺れ動きましたが、だからといって縁もゆかりもないここに名前を残しても、
と思い、
すんでのところでレンガ購入を断念しました。

日系人らしい家族のもの、ノーチラス乗員だったと称する人のもの、
ETCM SS、つまり潜水艦技術者のチーフだった人・・・・。

「4隻のボートを助けた」

と自分の海軍時代の功績を盛り込んでいるものもあります。

ミュージアムのお土産ショップには楽しい潜水艦グッズがたくさんあり、
わたしは潜水艦基地のマグカップと潜水艦模様の入ったカードを買いました。

もし潜水艦乗員の知り合いがいたらお土産に買って帰りたかった
駐車場のノーティスボード。

 
”潜水艦乗員専用駐車場

違反者には魚雷発射いたします”

 

 

 


潜水艦暮らし〜ニューロンドン・サブマリンミュージアム

2017-04-14 | アメリカ

先日、某所でお世話になった幹部にお礼をしたところ、
ご丁寧にも手書きのお礼状が送られて来ました。
この方は潜水艦出身だったので、シャレとして先日ここでもご紹介した
広島土産の潜水艦ケーキを送ったのですが、そのお礼状の一文に
こういう一文が・・・ 

「私もこの◯月まで、こっそり潜水艦に乗っていたこともあり・・」

こっそりか。やっぱり潜水艦というのはこっそり乗るものなのか。

というわけでサブマリナーというのは骨の髄まで忍者精神が染みついているのだなあと
このさりげない?一言に感じ入った次第です。


さて、コネチカット州グロトンのサブマリンミュージアムの展示より、
今日はそんな(ってどんなだ)「潜水艦暮らし」を伝える写真などをご紹介します。

冒頭の写真は第二次世界大戦中、場所は・・・・・・

多分鱶とかサメとかのいないところじゃないかな。

皆の表情も何も見えないので、これが運動を兼ねた
憩いのひと時なのか、いざという時のための水泳訓練なのか、
そもそも潜水艦の名前もいつの写真かもわかりません。

でもまあ、娯楽のない潜水艦暮らしでは訓練だったとしても
若者たちには結構な気晴らしとなったかもしれません。

「潜水艦では食べることが最大の楽しみ」

つい最近見学した現代の自衛隊の潜水艦でも
全く同じことを聞きましたし、軍艦ならずとも、
豪華客船でさえ全く同じ理由で、特に腕利きのシェフが
乗り込んでいるものです。

つまり、場所を問わず人間の最大公約数の楽しみが
食べることだというのは間違いないことなのですが、
潜水艦のように、狭い、きつい、臭い、危険、暗いの5K職場で
ストレスが大きくなればなるほど、食事にかかる情熱は正比例して高くなります。

潜水艦乗り込みの調理員は、きっとそんな自分の双肩にかかる
期待と責任に応えるために使命感に燃えていたんだと思うんですよね。

そんな潜水艦調理員に勲章が与えられるということもありました。

大統領名でブロンズスター勲章を与えられたのは、
ジョージ・ワシントン・ライトル一等コック
 

「USS「ドラム」の6回に亘る敵海域への哨戒活動における
英雄的な任務の遂行に対して。
前部機関銃の装填手として、搭載した水上機を含む68,083トンの敵艦を
仕留めるために司令官(艦長)の補助を行い見事に役目を果たした。

彼の冷静な判断と勇気と敢闘精神は、すべての乗員の模範となり
米海軍の任務の歴史においても高い位置を占める伝統となるだろう」

調理員は戦闘中の配置として、銃弾の装填手を任されることが
多かったようですが、ブロンズスターメダルを受けたライトルが
具体的にどのように敢闘精神を発揮したのかまではわかっていません。

現在、彼の名前は潜水艦関係の書籍にしか残っておらず、
「ドラム」のWikipediaのページにすら言及されていなないようです。

潜航中の艦内における乗員の表情。
(それにしても若いですね)

レンチを落としたり、靴のかかとが鳴ったり、あるいは
誰かがくしゃみをしても、その音は敵のソナーに
探知される危険性があることから、潜水艦勤務を

「サイレント・サービス」「サイレント・ラニング」

と呼んだりしました。
敵の艦船が真上にいて爆雷を投下される危険を伴うとき、

乗員の緊張は極限まで達しました。

「トルピード・ローディング・サイン」(魚雷装填サイン)

シンプルな木の看板が何かのどかな様子ですが、これは
内部発射管の蓋に「生きている」魚雷が入っている時に下げた札です。

これは訓練中「ウォーショット」、実弾を誤って発射することを
防ぐために重要なサインでした。

魚雷発射管の内部が海水で満たされている時には

「デンジャー、チューブ・フラッデッド」

という札が掛けられました。
その状態でチューブの蓋を開けたら、魚雷は逆流してきます。
この札はUSS「ティグロン」SS−419のものです。 

中央のいかにも士官な人が何をしているのかはわからず。
ここで注目していただきたいのは制服です。

士官はとりあえずちゃんとした格好をしていますが、
基本皆さんはTシャツとか袖捲り上げとか、
・・・まあ要するに南洋における潜水艦乗りはラフです。

カットオフしたカーキの「元制服」、サンダル、そして
我慢できないほどきつい仕事で汗にまみれた裸の胸。
これが潜水艦乗りの基本スタイル。

そして、その仕上げとして・・・髭です。
髭も生えまーすぶしょーおーひーげーってことで、
他の配置にはないサブマリナーファッションの出来上がり。

我が日本だとこれが褌となり、さらにマニア向け。


今でも潜水艦の中でインターネットをする人はいないと思いますが、
時間つぶしとしてよく行われたトランプでは、
この写真で右側の人がつけている「赤のゴーグル」
を着用すると、ハートとダイアモンドのカードが見えなくなります。
そこで、潜水艦オリジナルのトランプは赤を使わず、
ハートとダイヤのマークはただ黒線で囲んだものでした。

赤レンズのゴーグルは、潜水艦員が暗闇になっても
視界が失われることのないように使用されました。

 

潜望鏡カメラ。
潜望鏡の映像を撮影するための特別仕様で、海軍のために
イースタンコダック社が製作したものです。

レンズは35ミリ、「マーク1」と表示があります。

 

 

木の枝になんかいろんなものを指してバーベキュー。
アメリカ人にとってバーベキューは特別の儀式ですからね。

ソーセージやハム、所々に怪しげな肉が・・・。

「艦隊暮らしが船を降りた暮らしよりマシなんてことは絶対にない。
だから、彼らは岸に上がればそこが南方の島だろうがなんだろうが、
ワイキキビーチのロイヤルハワイアンホテルであるかのように
キャンプをして楽しんでしまうのである」

また、彼らは狭いクォーターから逃れて、ボートを「母艦」に
繋留し、その横で自由を楽しむこともありました。 

「ライフ」を読みながら娑婆を思う様子の水兵。
このころの米海軍水兵のズボンって、本当にジーンズみたいですね。

上、USS「スコルピオン」のplaque(金属・焼き物・ぞうげなどでできた額、
飾り板で、事件・人物などを記念するための金属または石製などの銘板)。

プラークって、歯垢の他にこんな意味もあったんだ・・・。

右のボトルは「スレッシャー」のコミッショニングボトル、とあります。
進水式の時に艦体に叩きつけて割るボトルですが、
シャンパンが割れた時に破片が散ったり吹きこぼれないように、
胴体の部分を脆弱にしておいて、ここを叩きつけて中を破る、
という専門のボトルケースがあるらしいですね。

ネックには進水する船の名前が書かれ、叩きつけた跡が
凹んで残っています。

さて、ここからは画家によるスケッチをどうぞ。

「テンダー・チェウィンクと一緒の#70と#71」

潜水艦基地のここニューロンドンでの光景で、
チェウィンク(AM-39)、SS70( O-9) 、SS71(O-10)
共に第一次世界大戦時の艦艇です。

皮肉なことに、この絵が描かれてわずか2週間後、SS-70は
浮上できなくなる事故に見舞われ、チェウィンクは
救助のため現場に赴きましたが、助けることはできませんでした。

ということは、この甲板の上に描かれている乗員は全て・・・。

「魚雷調整室」(1941)

ニューロンドンの潜水艦基地にあった魚雷調整室の光景です。

「スルクフ」(1941)

「スルクフ」は自由フランスの「クルーザー潜水艦」で、彼女が
ニューロンドンに寄港した時を描いたものです。

航空機も搭載していた対戦中最大級の潜水艦で、画家も
その珍しさに駆けつけて筆をとったのかと思われます。

この絵でぜひ注目していただきたいのは艦尾艦上に見える大きな二本の銃身。
当時「スルクフ」は連装砲を装備していたんですね。

このころの潜水艦の獲物は基本敵国の商船で、魚雷は大型商船や
敵軍艦に「取っておいて」小型商戦は主に大砲でやっつけていたのです。
加えて当時の潜水艦は海中速度より(最高でも10ノット)海上の方が
倍くらいの速さを出せたので、商船を発見すると浮上して追いかけ、
沈めるのを常としていました。 

ちなみに「スルクフ」はこの翌年の1942年、 カリブ海でアメリカの商船と衝突、
艦長ブレゾン中佐以下130名と共に沈没し、今もそこに眠っています。

「司令塔」(1943)

USS 「マッケレル」SS-204の司令塔から見張りをする乗員。

実験潜水艦として設計された「マッケレル」は、
ニューロンドンで水中音響研究所での支援任務および
艦長候補者学校での訓練任務を担当し、
水上艦艇及び航空機の対潜水艦戦訓練を行っていました。

大戦中にマッケレルは一度だけ敵と接触しています。

1942年4月浮上したままニューロンドンからニューバージニアに向かう途中、
2本の魚雷が向かってくるのを発見したので回避し、
浮上中の敵潜水艦に対し2本の魚雷を発射したということなんですが、
これって・・・帝国海軍かドイツの潜水艦がここまで来ていた?

「潜水艦隊のためにもう一隻スコアを追加」

あまり良くない翻訳ですが、まあそういうことです。
USS「ドラド」 SS-248が、1943年5月に遭遇した「エレクトリックボート」
(ドイツ)をデッキガンで攻撃しているシーン。 

写真以上にその戦闘中の怒号や銃声が生き生きと聞こえて来そうな・・。
 

「まどろみ」(1943)

見張りと戦闘の合間のわずかな時間に眠る乗員たち。
魚雷の上のベッドとハシゴの下で眠る彼らの様子が
従軍画家によって残されました。

「発射管の中に入る人がいるから立ち入り禁止にしているに違いない」

と「ライオンフィッシュ」の展示を見て書いたのですが、
その悪い例がこれですね・・・・って、おい、
よく見たら犬を連れ込んでるではないの。

しかもコッカスパニエルかなんか?
これは野良犬を拾ってきて可愛がっているって感じじゃなさそう。

今日はこのパイプの乗員、犬と発射管で一緒に寝るのでしょうか。

 

続く。




 


第一明方丸の進水旗〜グロトン・サブマリンミュージアム

2017-04-12 | アメリカ

サブマリンミュージアムに展示されている、第二次世界大戦中の
潜水艦が、対日戦の戦果を誇示するためにいつしか揚げるようになった
「バトル・フラッグ」についてお話ししています。 

館内の映画館で放映されていたフィルムより。

これはすごい。
 USS「トリガー」(SS−237)は12回もの哨戒に出て
(その間艦長は三人交代した)
民間船を随分沈めたようです。

結局12回目の哨戒で「トリガー」は海防艦に撃沈され終焉を迎えましたが、 
11個の従軍星章、殊勲部隊章を三度受章しました。

撃沈の戦果は18隻、その総トン数は86,552トン。
これは、第二次世界大戦中のアメリカ潜水艦の公認戦果としては
どちらも第7位に記録されます。

オリジナリティを持たせようとして失敗した例(個人的意見です)。
日本の旗の代わりに額に日の丸をつけた髑髏をあしらってみましたー。

「ガトー」SS-212のバトルフラッグだそうです。

魚雷といい上に乗っている犬?狐?といい、
素人臭さがたまらんわー。

「シーフォックス」( SS-402)はバラオ級で、その名前の意味は
トラザメなんですが、クルーは「海の狐」といいたかったみたいね。
まあこれが狐だったとしたらの話ですが。


あの「クィーンフィッシュ」(SS/AGSS-393)
緑十字船「阿波丸」を撃沈するという
悪名高い国際法違反をやらかしたとき、
さすがのアメリカも慌てて、近くの海域にいた、この「シーフォックス」に
現場への急行と存者の救助を命じたのですが、
「シーフォックス」が到着した時には海面には何も残っていませんでした。

ちなみにこのときの「阿波丸」の乗員2000名余はほぼ全員死亡しました。

「シーフォックス」は朝鮮戦争、ベトナム戦争にも少し参加し、
最終的にはトルコ海軍に譲与されてそこで就役を終えています。

上に写真のあった「撃沈トン数ナンバーワン」、
「フラッシャー」(SSー249)のバトル・・・フラッグじゃないですねこれは。

「フラッシャー」は、成績を上げるために駆逐艦「イワナミ」を撃沈した、
という虚偽の報告をあげるということをやらかしていますが、
右下の部分が「イワナミ」かな(棒) 

以前一項を割いて紹介した、英雄ハワード・ギルモア艦長と
その「グラウラー」のコーナーがここにもありました。
わたしは最近まで知らなかったのですが、もしかしたらアメリカでは
広瀬中佐並みの知名度のある軍人なのかもしれませんね。

潜水艦「グラウラー」とハワード・ギルモア艦長

コーナーのタイトルは

「テイク・ハー・ダウン」(TAKE HER DOWN! )

=「艦を潜航せよ!」 

重傷を負った自分を収容せずに、敵から逃れて艦を潜航させよという言葉です。 

オナーギャラリーにはギルモア中佐の遺品の中にメガネがありましたが、
この写真は眼鏡をかけています。
アメリカ人の船乗りには珍しかったのではないでしょうか。 

映画にでもなったのか?と思ったのですが違うようです。
伝記や戦記に使われた挿絵と思われます。 

なんと「テイク・ハー・ダウン」という曲までありました。
やっぱり「広瀬中佐」みたいですね。
欧米の船乗りの歌らしく、8分の6拍子で書かれています。 

お節介かと思いましたが、コーラス部分から翻訳してみました。

 

TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN!

海の下は潜水艦の我が家

TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN!

至上命令は俊速なる行動 

1, もしその気になれば大海を余さず掃除し尽くす
そしてその箒で我が家に飛んで帰るぜ

2, 頭上の敵がくたばったら拳骨で殴ってやるぜ
奴らをデイビー・ジョーンズのロッカーに送り込んでやろう

そう、

TAKE’ER DOWN, down, down, down, down, down, down,

TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN !

 

デイビージョーンズのロッカーとは、「幽霊船の棺」
=葬ってやる、というニュアンスだろうと思われます。

楽譜の読める方は是非簡単ですのでメロディを追ってみてください。
"Take Her Down"は「テイク・ハー・ダウン」ではなく「テイカーダウン」と発音します。

くだらないのは歌詞だけではないのがお分かりいただけるかと思います(迫真) 

ちなみにその「グラウラー」 (SS-215)のバトルフラッグ。
ガイコツくんがかわE。 

「グラウラー」はギルモア艦長の戦死の時には帰還することができましたが、
その後船団攻撃中に海防艦の攻撃を受け、戦没しました。 

て、この博物館で、わたしと一緒に見ていたTOが思わずその前で
言葉を失ってしまった旗があります。

おそらく米潜水艦に撃沈されたのに違いない・・漁船、
第一明方丸の従業員有志一同による進水祝いの旗。 

どうもアメリカ人はこの旗の意図するところを
判じかねているらしく、何種類もの翻訳を試みています。

1、祝 第一アケガタ丸
  (意味:初日の出の船)
  乗員一同

んー、まあこれが結果的に一番近かったかなという感じ。
ニアピン賞です。

もしかしたら日本人に翻訳させたのかもしれません。

ただし、これは「めいほうまる」と読むのではないかと思われます。 

 

2、無事の航海を祈る
  ボートの名前は「ナンバーワン」
  同じ任務、同じ目標、同じ意志
  団結し共に働くことを希望する

なんか意訳しすぎでわけわからんことになってます。
だいたい同じ任務とか団結とか一体どこから出てきたんだよう。 

 

3、第一アケガタ丸の進水を祝う
  一つの志の元に集う従業員

「有志一同」から勘違いしちゃった感じ?
もしかしたら中国人に翻訳させたんじゃないかな。 


4、「アーリー・モーニング・ドーン 」
  「丸」型第一号艦「アケ イチ ダイ」
   従業員一同より 

悪いけどこれ爆笑させてもらいました。
なーにが「丸」型第一号艦だよー。

あ!

これ、「丸 方 明 一 第」を左から読んだのか! 

方と型の漢字の違いがわかってなかった例?

 

5、進水おめでとうございます
「メイホー丸」か「アケガタ丸」 ダイイチ(ナンバーワン)
「スタッフかクルー、すべての戦闘員」か「すべての戦い」 

「メイホー」と読むかもしれない、と考えたのはこのバージョンだけ。
それはいいのだけど、あくまでもこのフラッグが戦闘艦のものだと
思い込んだため、ものすごく苦しい推測になってしまいました。

多分だけど「有志」にそういう意味があると勘違いしたんだな。

 

というわけで、これだけ時間的な距離が近くなっても、文化というものは
全く理解されないものなんだなあと悲しくなってしまいました。

よっぽど暇だったら、潜水艦博物館のキュレーターに

「どれも間違ってまっせー」

とメールを送ることもやぶさかではないのですが。

 

今回、この第一明方丸が戦時徴用船としてどのように運命を辿ったのか、
調べてみたのですが、ネットからだけではわかりませんでした。 

 

 

 


対日戦の「バトルフラッグ」〜グロトン・サブマリンミュージアム

2017-04-11 | アメリカ

コネチカット州グロトンにある「サブマリンミュージアム」の
展示から、今日は我々日本人にとって特に微妙な感慨を呼び起こす

「対日戦におけるアメリカ海軍潜水艦の戦果」

と、それを誇示するフラッグについてをお送りしようと思います。
冒頭写真の太平洋地図は

 日本の貨物船

 日本のタンカー

 アメリカの潜水艦

の戦没した場所を表しています。
戦艦の形は、レイテ、フィリピン、ミッドウェーなど、大きな海戦のあったところ。

Battle of the Komandorski Islands 

というのはアッツ島沖海戦のことです。
日本近海が赤丸で真っ赤に埋め尽くされています。
これほど多くの日本の貨物船が沈められたということに
改めて凝然としてしまうわけですが、これらの戦没のほぼ全ては
アメリカ海軍の潜水艦の攻撃によるものでした。

アメリカ側の記録によると、潜水艦が沈めた日本の軍艦は214隻、
商船や貨物船は「少なくとも」1,113隻だということです。

「潜水艦隊は、島国の「アキレス腱」である補給線を断つために
徐々に通商破壊を行なった。
1945年の春には、日本のほとんどの船は喪失していた」

ということで、この写真は「コンバットパトロール」、
哨戒をして船団を迎え撃つための作戦を練っているところ。

1943年には、米潜水艦部隊は、ドイツのUボートが行なっていた
「群狼作戦」の真似をして、

「ウルフパック」

なる3隻か4隻からなる部隊を組む作戦を開始しました。
それらのグループには、司令の名前を冠したあだ名がつけられました。

「バートの箒」「ブレアの爆風」「パークの海賊」

などなど。
箒というのは、潜水艦の「(海の)掃除」とかけてよく使われたようです。 

海上を航行するときには、見張りは途切れなく行われます。
右は USS「パーチ」艦上で見張りを行う乗員たち。

「パーチ」はウルフパックを「ピクーダ」「ピート」
構成し(頭文字Pだから?)、最初の哨戒に出ました。

ちなみに左下は日本の商船が沈没していく姿を潜望鏡越しに
撮った写真のようですが、説明ではこの船の名前は「丸」となっています。

そんな名前の船ないっつーの。

しかし、アメリカ人は一般的に「丸」が最後につく民間船を
とりあえず全部「マル」と呼んでいたようですね。

 USS「トロ」の艦上にて。

「小さな船は魚雷が勿体無いのでデッキガンでやっつけた」

だそうですよ。

これは USS「シーウルフ」のクルーがデッキガンのアクション中。

 USS「ジャック」のクルーが甲板で誇らしげに見せている
「バトルフラッグ」。
つまり何隻日本の船を沈めたかをこうやって旗にしたり・・・、 

艦体にペイントしたりするわけですね。
上の「ジャック」民間船25、軍艦1。

「フラッシャー」は民間船14、軍艦2、帆船2(ええ〜?)
漁船2、という内訳です。

ちなみに、この「フラッシャー」が潜水艦としては撃沈したトン数が
第二次世界大戦中を通して最も多かった潜水艦となっています。 

 

帆船だとなぜわかったかというと、このチャートから。
バトルフラッグは哨戒活動を終えて母港に帰還するとき、
凱旋の意味を込めて潜望鏡に立てて戦果を誇示しました。

敵と戦うと同時に、彼らは他の潜水艦とその成果を戦っていたのです。

米潜水艦は信号旗を補修するためのミシンと布を搭載していて、
カリカチュアライズされた自艦の名前の魚が魚雷を抱いたりしている
トレードマークを作成し始めたのだそうですが、そのうち
これらのように戦果を見せるための旗を作り出しました。

 

上のチャートを見ていただくと、「帆船」=ジャンクを沈めたマークがあります。

当時帆船なんていたのか?とつい思ってしまいましたが、
戦時の日本船のリストを見ると、「帆船」「機帆船」も結構たくさんあるので、
おそらく彼らのいうジャンクとはこのことでしょう。

機帆船というのは、機械による動力付きの帆船です。
こんなものまで徴用して南方に送るというくらい日本は切羽詰まっていたのです。

支那事変が始まった頃から、昭和16、7年頃までは、 主として陸軍が
機帆船を徴用して揚子江やその他の水・海域の沿岸輸送を行なっていました。
その頃は勝ち戦だったので、船主と軍の契約に従い一定期間が過ぎれば、
徴用解除となって船も乗組員も無事帰還し、
村では凱旋将軍を迎えるようなお祝いをしてもらえたということですが、
日本が制海権を奪われ守勢一方になると事情は一変します。

例えば突然陸軍の下士官二人が乗船して来て、

「本船を陸軍暁部隊に徴用するために検船する」

と云って簡単に船を見たのち、 全員を船橋に集めて

「何か具合の悪い所があるか」

と形だけ状態を聞き、

「船・乗組員ともに合格、 明日朝8時に船長以下全員暁部隊に出頭せよ」

と一方的に命令して30分で引き上げるという有様。
機帆船の太平洋戦争) 
 

そして制海権も制空権もない、敵潜水艦がうようよしている海に
海防艦に守られて出て行くことになったのでした。 

 

アメリカの潜水艦では新しく若い艦長が赴任すると、彼らは全体的にアグレッシブに、
イケイケになり、もう目につく敵国船はジャンクだろうがなんだろうが
「掃除」(潜水艦が敵を掃討することをよくこう称した)して、
とにかくバトルフラッグを賑やかにすることに血道をあげたものだそうです。

戦艦や駆逐艦はともかく、機銃しか防御のない機帆船を撃沈することなど
彼らにとって鼻歌交じりの「楽しみ」ですらあったでしょう。

しかし、日本船が潜水艦に体当たりしてくることも多々ありました。
潜水艦は前述の通り、小さな船を狙うときには魚雷を使用せず、
デッキガンを撃ってくるために海上を航走してきたからです。

まさに「窮鼠猫を噛む」。
そんな時、賢明な艦長なら深追いせずあっさりと諦めることもあったようです。


さて、これらの旗の表示は正式なものではなく、狭いコミュニュティで
お互いにわかる信号に過ぎなかったので、同じ「軍艦撃破」でも
何種類ものフラッグがあるということになるわけです。

それにしても、「捕虜を捕まえた」という旗まであって、それが
「8」というのはどういう意味なんでしょうね。 

USS「シーライオンII」(SS-315)のバトルフラッグ。
 「II」は正式にはつかないのですが、初代艦長エリ・トーマス・ライヒ少佐
が過去にシーライオン (SS-195) に乗り組んでいたことから、
しばしばシーライオン II と呼ばれていました。

右上のシーライオンIIの獲物になった戦艦6隻の中には「金剛」がいます。
このときに「シーライオン」にはCBSの従軍記者が乗り込んでいて、
その瞬間が録音されています。

米潜「シーライオン」による戦艦金剛撃沈時の音声

バックスバニーをイメキャラにする潜水艦もありました。
「アポゴン」のバトルフラッグは半分の日本国旗が撃破を表しました

叙勲されたサブマリナーの紹介コーナー、「オナーギャラリー」の上には
米潜水艦撃沈トン数3位だった「バーブ」の戦果が記されています。

「ラッキー・フラッキー」とあだ名された艦長、フラッキーの艦ですね。
魚のマークの上にあるひときわ大きい軍艦旗のマークは
空母「雲鷹」に違いありません。

日の丸の中央に矢が刺さっているのは陸地に対する攻撃で、
「SHARI」は北海道の斜里町、「SHIKUKA」は日本統治時代のサハリンポロナイスク、
当時の地名は敷香敷香町(しすか)町の間違い(笑)。

ウィキには記載されていませんが、ドイツ海軍の軍艦も沈めたようですね。 

 

 USS「ポーギー」SS-266のロゴは、哨戒中に行われた
「乗組員ロゴコンテスト」で優勝したホリス・ラーソンの作品です。

この優勝ロゴ(上)は、「ポーギー」の艦長ラルフ・メトカーフによって
ウォルト・ディズニー・スタジオに持ち込まれ、ディズニーのキャラクターが
ラーソンの作品に加えられて完成(下)しました。 

写真が鮮明でないので、こちらが乗員の作品。

こちらがディズニーが完成させた最終ロゴ。

フライング・タイガーのロゴもディズニーのイラストレーターの作品でしたが、
おそらくウォルト・ディズニー・スタジオは、これらの仕事を
バックスバニーやポパイの制作会社と共に率先して引き受けていたものとみられます。

 

続く。

 

 


 

米海軍基地で昼食を〜在日米海軍基地見学記

2017-03-11 | アメリカ

在日米海軍基地見学記、続きです。

滑走路で航空機を見学し終わり、「エア・ターミナル」と名付けられた棟を
司令官の敬礼に送られて後にしたわたしたちは、車で基地内を移動しました。

明かり取りの三角屋根がついたこの建物が、基地のレストランです。

広い基地なのでレストランはいくつかあるのだと思われますが、
ここは隣にゴルフコースがあるので、クラブハウスのように使われているようです。

大きな岩には字だけでなく基地のマークまで彫り込まれております。 

最近できたように真新しい感じのするスチール製のベンチにもマーク。
富士山に鳥居、そして航空隊を表す翼が盛り込まれたデザインです。

この基地は、かつて帝国海軍が、主に帝都防衛の拠点として1938年に着工、
1942年に完成したものです。

完成が戦時中であったとはいえ、石灯籠があり松の木を築山に植えた
池を作る余裕はあったのに違いありません。 
しかし、この松の剪定方法は、いわゆる普通の日本庭園にある松とは
シェイプが微妙に違うという気がしないでもありません。

そういえば、カリフォルニアの富豪の造った庭の木が、
こんな感じに刈り込まれていたような記憶があります。

 

戦時中、ここは東京に最も近い海軍の航空拠点となっていました。
厚木海軍航空隊、大東亜戦争後期には防空隊である302空が開隊し、
このブログで一度取り上げたこともある森岡寛大尉がF6Fとの戦いを行い、
終戦時には有名な小園少佐の「厚木事件」が起こったところでもあります。 

まるでゴルフコース付きのホテルのショップみたい。

わたしは全くゴルフには不案内なので通り過ぎただけでしたが、
お店に入り、基地のオリジナルデザインのティーやゴルフボールを
たくさん買い込んでいた同行の方もおられました。

支払いはドルでなければカード、日本円はお釣りが出せない(ので使うな)
ということでした。 

レストランの入り口には今月のメニューが掲示されています。

フランクとは牛のわき腹から切り取った切り身のこと。

その下のソールズベリーステーキとは、我々日本人が「ハンバーグ」と呼ぶ
ひき肉を寄せて焼くあの料理とほとんど同じようなものです。
発祥がはっきりしていて、ソールズベリー博士という医師が、
炭水化物をカットするダイエットのために考案したとかなんとか。

「adobo」も「caldereta」もタガログ語で、アドボはマリネした肉を焼いたもの、
 カルデレータはルソン島の料理で、フィリピン風のビーフシチューといったところ。

アメリカにはフィリピン人の労働者がヒスパニックほどではありませんが多く、
ここのキッチンにもフィリピンからの労働者が多く働いているのでしょう。
そういえば山口の海兵隊基地のレストランのウェイトレスもフィリピーナでした。

英語が喋れる彼らにとって、在日米軍基地は魅力的な職場なのでしょう。 

食堂の一番奥には会席用の別室があり、わたしたちはそこに通されました。
白地に赤いランナー、青いナプキンで星条旗カラーの食卓が用意されています。

ここでランチをいただくんですね。 

いくつかみたことのある自衛隊基地とは装飾の点で段違いにお金がかかっていて
かつ飾っているものも一味違っているといいますか。

この大きな額にはアイヌの民族衣装(年代物)がプレスされて入っています。
「アットゥシ」 と説明がありますが、これはアイヌ語で

オヒョウニレ(att)の木の皮(rusi)

という意味だそうです。
北海道のアイヌが作っていた樹の皮でできた衣です。

ちなみにアイヌは部族によってはサケなどの魚皮をなめしたものも
衣服にして着ていたそうです。

窓の外はまさにゴルフコース。
ここが軍基地であることが信じられない眺めです。

グーグルアースの基地をこうやって見てみると、飛行場に沿って
住宅地と基地を隔てるようにゴルフコースが作られています。

結構広大なコースで、昔は森林であったところを切り開いて
全てゴルフ場にしてしまったらしいことがわかるのですが、在日米海軍としても、
異国で暮らす在留軍人の気晴らしのために必要な施設だと考えてのことだったのかも。 

在日米軍内にはレストラン、バー、ショッピングセンターはもちろんのこと、
映画館、ボウリング場などの遊技場を備えているのが普通です。
その気になれば基地を一歩も出なくてもすむのです。 

テーブルセッティングはされているものの、食事はみなさんと同じようにバッフェ式で
自分の好きなものを好きなだけとることになっていました。

前述のメニュー表によると、この日のメインはレモンチキンステーキと例の
ソールズベリーステーキとなっていましたが、あくまでもそれは「メイン」で、
肉と言ってもビーフ、チキン、ポークと選択肢があります。 

 

ランチバッフェは大人が8ドル95セント、子供が4ドル25セント。
食べ放題でスープ、サラダ、デザートも種類がふんだんにあるランチが
1000円くらいで毎日食べられるのだからなかなかリーズナブルです。 

個室の外側もインテリアは普通のレストランと全く変わりません
いくつか見たことがある自衛隊の隊員食堂とは随分趣が違います。

敷地内はどの施設も利用可らしく、海自の自衛官がご飯を食べに来ていました。 

アメリカの街角にある、コインを入れるとドアが開けられる仕組みの
ニュースペーパースタンドの中にはスターズアンドストライプスが。

どちらもここでは無料となっています。

昼ごはんを食べたら移動です。
次の予定は、海上自衛隊の資料室を見学させてもらうことになっています。

歩いて行く途中に黄緑色の消防車が停まっていました。
アメリカでは消防車は絶対に赤でなくてはいけないというわけではないようです。
大抵は赤ですが、都市によって赤以外の色を採用する消防署もあり、
特に空港では夜間でも目立つ蛍光ライムグリーンの車体を使うこともあります。 

ここには普通に赤い消防車とライムグリーンがどちらもあります。

米軍施設内には当然のように結構な規模の消防署があります。
下総の海自航空隊基地には海自組織の一つである消防部門がありました。

ここに勤務する消防士たちの身分は海軍の軍属ということになるのでしょうか。
それとも自衛隊のように海軍軍人?

 

海上自衛隊のビルディングも「エアターミナル」でした。

この入り口で案内をしてくれる自衛官が出迎えてくれました。
全般的な案内は米軍との連絡係をしているという士官で、
内部についての歴史を含めた説明をしてくれたのが年配の自衛官です。

同友会というのは自衛隊協力会の一つだったと記憶します。
その会長が作ったという戦艦「三笠」のフルハルモデル。

自衛隊資料館はこのターミナル内にあり、大変充実したものでした。
あの「ポセイドンの涙」、そして「永遠の0」 のポスターがあります。

ポスターがあるということは、自衛隊が撮影協力をしたのでしょうか。

ちなみに、テレビ版の「永遠の0」撮影には、水交会を通じて
実際に零戦に乗っていた搭乗員が取材協力を行なったそうです。

ターミナルの二階はガラス窓を通して滑走路がよく見えました。

面白かったのは、米軍側にいた時には、

「ここから自衛隊機は撮らないでください。米軍機なら構いません」

だったのに、自衛隊側に来ると、

「ここから米軍機を撮らないでください。自衛隊機なら構いません」

と言われたことです。
誰かがそれを指摘すると、

「そこは大人の事情で・・・」

ということでした。
どっちもダメってことなのか、どっちもいいってことなのか・・・

大人って、難しい(笑)

 

続く。

 

 


スーパーキングエア(LR-2)に搭乗〜在日米海軍基地見学記

2017-03-10 | アメリカ

在日米海軍基地見学記の続きです。

本日の防衛団体による見学は、コースでいうと松竹梅の松コースで、
航空機見学だけではなく実際に機体の中を見せてもらえ、
基地内のレストランでお食事を楽しんでいただけます、というものでした。

どの飛行機に乗せてもらえるのかな?
まさか・・・ホークアイ。、E2-C(早期警戒機)ではないとは思いますが。

ところでご覧のように、このプロペラの羽は8枚あります。
プロペラは2枚より4枚、4枚より6枚と数が増えるほど
その速度に安定性が出てくるのは素人でもわかりますが、
8枚になればこれはもう最強というべきパフォーマンスだそうです。

これをニュープロペラと称し、羽が増えるほど速くなるだけでなく
燃費が向上し、騒音も減るので利点だらけなのですが、
自衛隊のE-2Cは4枚羽のままです。

実は羽を製造しているハミルトン社での4枚羽の製造は終了していて、
アメリカでは民間機ですら6枚羽を調達しているという関係上、
米海軍は空母艦載機であるホークアイに8枚羽を導入しているのです。

自衛隊は導入機数が少ないのでまだ4枚羽のままですが、
何れにしても羽そのものが生産中止になっているので、そのうち
8枚羽のホークアイが日本にも登場すると思われます。 

 

その辺に売るほどいるこれに乗せてもらいたいものですが。

ところで、この列線に並んでいる飛行機を指して、わたしはとりあえず

「これは・・・スーパーホーネットでしょうか」

と案内の方に聞いてみたところ、言下にそうだとおっしゃったのですが、
「NF」のテールコードをつけたこの「スーパーホーネット」の機体を仔細に見ると、

VAQ-141

と書かれているのです。 
つまりこれは第141電子攻撃飛行隊 の『シャドウホークス Shadowhawks』
使用機であるEA-18G「グラウラー」

「スーパーホーネット」ではないということに写真を見て気づいたのでした。

グラウラーはここの読者にもそういう名前の人がいますが、
電子戦機「プラウラー」(うろうろする人)EA-6B の後継として
複座型の「スーパーホーネット」をベースに開発されたものです。

見かけは全くホーネットと同じなので解説の方も間違えてしまったのでしょう。

電子戦機は非常に高度な電子情報技術の集積が必要なため、
先進国の軍隊しか所有することはできません。

米日英露中伊仏独以外ではイスラエルと台湾。
電子戦機を所有しているのは現在世界でこれら10カ国だけです。 

ビーチクラフトのスーパーキングエアと並んでいた陸軍所有の
セスナC-35サイテーションがタキシングを始めました。

先ほど男女二人の陸軍軍人が乗り込んでいくのを目撃しましたが、
彼らはどちらもパイロットで、これから離陸するようです。 

わたしたちはハンガーに案内されました。

給油用の移動式タンク。

格納庫の中は一機を残して全て稼働中。
残っているのはこれから見せてもらうスーパーキングエアです。 

中身を公開してくれるスーパーキングエア。
ビーチクラフト社の名作で、その高品質と信頼度はもはやこのジャンルの
「デファクトスタンダード」(結果として事実上標準化した基準)
とも言われており、日本でも陸自がLR-2として人員輸送用に使っています。

実はわたくし、昨年、航空機整備会社としてはトップ企業であるJ社で
工場見学をしたのですが、自衛隊機などの整備などを手がける同社工場は
当然のことながら写真の類は一切禁止、写真を出さずとも下手な記事を書いて
ご迷惑をかけない自信が全くなかったので、ここではご報告を断念しました。

今にして思えば、そのJ社工場の整備中の機体の一つに陸自のこれ、
LR−2がありまして、案内してくださった社員の方が

「このビーチクラフトの飛行機は本当に優秀なんですよ」

とおっしゃっていました。

この機体のパイロットがエンジン部分を開けて公開してくれました。

「え、まさか写真撮ってもいいんですか?」

「どうぞどうぞ」

おおー、アメリカ海軍太っ腹ー。
まあ、人員輸送機のエンジンくらい見せてもなんてことないでしょうし、
そもそもこの機体を採用している国は世界でも50カ国以上に上り、
先進国どころか後進国でも軍用機としてほとんどが持っている状態です。 

それではお言葉に甘えまして。

エンジンはプラット・アンド・ホイットニー・カナダ社製で、

最大速度:584 km/h=M0.48(高高度)
巡航速度:558 km/h=M0.46(高度24,000 ft)
実用上昇限度:10,670 m以上
航続距離:3,672 km

となっております。


 いよいよ中を見せてもらうことになりました。
パイロットが一番先に乗り込んで、会長が真っ先に。
わたしはその場にいたので三番目に乗り込みました。

「中は狭いので一人ずつ乗り込んでください」

下で案内しているのは航空隊司令だったりします。
米軍さんって気さくー。 

パイロットが席についているところを先に乗った人が撮っています。
機内は立って歩くことはできませんが、座席に座ってしまえば
セダンの車なんかよりずっと快適に過ごせそうな広さです。

ちなみに定員は16名。
サッカーチーム(レギュラーのみ)なら余裕で運べます。

機体後方もちゃんと写しておきました。
荷物格納室などないので、後方に押し込んでネットをかけるだけ。
16人分の荷物くらいなら余裕で運べそうです。 

パイロットが操縦席に座っていいよ、と言い出しました。
おそらく最初からそういう風に上から言われていたのでしょう。

見ていると、彼はシートの間の計器の部分に
後ろから板をはねあげて足場を作ってくれるようです。

彼の腕には袖のところにまで刺青が入っているのにご注目。

アメリカ人は男女を問わずファッション感覚で刺青を入れます。
テレビでは「インク・マスター」という彫り師を追った
シリーズドキュメンタリー番組があるくらいです。

しかし、彼のこの袖からチラッと見える刺青は、どう見ても
日本の「和彫」ではないかという気が・・。

わたしが前に乗り込むと、案内してくれていた女性の広報官が
お撮りしましょうと言ってくれたので素直に?カメラを渡しました。

席に乗りうつる時、いつもの癖で?

「 Hello! Nice to meet you! 」

というと、

「Nice to meet you too!  What your name?」

と返って来て、ああ、アメリカ人だなあと思いながら
自分の名前を言うと同時に相手にも訪ね(これをしないと失礼)たところ、
返って来た答えは 

「トリスティン」

おお、それで君のイゾルデはもう見つかったのかね、
と思わず聞きそうになりましたが、多分彼は今までの人生で
50回くらいは同じことを聞かれて来たに違いないと思い直し、

「いい名前ですね」

と言うに留めました。
それにしてもトリスティンくん、ものすごく若くないか? 

こちらは思った通りそのまま聞いて見たら答えはなんと

二十歳。

なんでも彼は17歳から入隊してパイロット一筋なんだそうです。
アメリカという国は、日本みたいに誰でも当たり前のように大学に行き、
大学を出るときに自分が何をするか決める人が多い社会ではなく、
自分の進路をかなり若い時から決める人たちも結構な数いて、
その結果トリスティン君のような若いプロフェッショナルが生まれます。

自衛隊だと、航空学生出身者の場合、概ね22~23歳(一曹~曹長)
で実戦部隊に配備されるということですから、やはり米軍とは少し違います。

空母の操舵室にいる乗員の平均年齢も10代だと聞いて驚いたことがありますが、
これもリクルートの形態の違いによるものかもしれません。  

グラウラーのパイロットらしき二人がお昼ご飯のために
飛行機から降りて来ました。 

この機体はエプロンを牽引されていたものですが、
操縦席に人が乗っていたので撮ってみました。

機体に「マコーリッフェ」という字が見えますが、日本ではここには
機付長といって整備責任者の名前がくるものです。
しかし、パイロットの名前を書くことになっているらしいです。

そもそもこれがパイロットなのか整備員なのかがわからないので、
彼がマコーリッフェさんかどうかもわかりませんが。

滑走路と航空機見学はこれにて終了です。
最後にエプロンと滑走路を写真に撮りました。

ちょうどタッチアンドゴーを繰り返していたE-2Cが着地しています。

 

滑走路の向こうには格納庫がありますが、この格納庫、名前が

WARLORDS

と書かれています。 
これは「否定的な意を持った軍事的指導者、指導者、将軍」の意味で、
特に中央政府が弱い場合に、誰に対しても説明責任がなく、
一つの地域で内政権力を行使する軍事上の最高指導者であり、
軽蔑的な意味で使われることが多い言葉なのですが、
格納庫がこの複数形であるという意味が日本人のわたしにはどうもわかりません。

どなたか解読できる方おられますか? 

 

というわけで、司令官に敬礼で送られて航空部門の見学終了。
この写真を見てここが「エアターミナル」であることに初めて気づきました。

さて、この後はお待ちかね、レストランに移動して昼食をいただきます。

 

続く。

 


主力戦闘機「F/A-18」の稼働率?〜在日米海軍基地見学記

2017-03-08 | アメリカ

さて、在日米海軍基地の見学ツァー、ブリーフィングが終わりました。
いよいよ、滑走路に出て飛行エリアを見学です。

ところで、基地見学にあたってはわたしたちはくどいくらいに

「写真を撮ってはいけないところは前もって言ってくれ」

と米軍側に念を押してありました。
ところが、蓋を開けてみれば航空機の写真も滑走路もOK、
航空機のコクピットもOKならわざわざ蓋を開けてエンジンを見せてくれ、
それを撮るのもOKといった具合で全く拍子抜けしてしまいました。

まあ、ロナルドレーガンにどれくらい航空機が勤務しているかなんて 
隠していることでもないし、基地公開の時には航空機の写真も許されるし。
意外だったのは自衛隊機の駐機している部分を撮らないように、
といわれたことだったでしょうか。
同行した防衛省関係者によると

「自衛隊の方がそういうことに関しては色々と厳しいです」 

ということでした。

そういえば今日までの間に、ホーネットに関してはこんなニュースもありました。


厚木のFA18、6割飛べず? 在日米軍、東京新聞の「憶測」記事に遺憾表明

東京新聞は2月17日付朝刊で
「厚木の米軍機FA18 6割飛べず? 部品なし修理不能 米専門紙惨状掲載」
と題する記事を掲載した。
これに対し、在日米海軍司令部(神奈川県横須賀市)は23日、
「記事には多くの憶測が含まれており、日本国民の皆様の誤解を招き、
誤った情報を与える恐れがある」として見解を発表。

艦載機が厚木航空基地に配備されている第5空母航空団は
「常に日本を防衛する即応態勢にある」と説明し、
「米海軍に事実やコメントを求めることなく
東京新聞がこのような憶測を掲載されたことは残念」
と遺憾を表明した。

同司令部の広報部長も日本報道検証機構の取材に応じ、
厚木に配備されたFA18戦闘攻撃機のうち約30機が稼働できないという憶測は
「誤りです」(false)と明言した。

記事の後半では、この問題が在日米軍に与える影響について
「62%が稼働不能という数字を神奈川県の横須賀基地を事実上の母港とする
原子力空母『ロナルド・レーガン』の艦載機が配備された厚木基地にあてはめると、
FA18は約五十機のうち約三十機が稼働できないということになる。
圧倒的な航空攻撃力を誇る空母機能の半減を意味し、
日本防衛に資するはずの米軍の戦力に疑問符がつく。
飛行時間の不足は事故に直結するおそれもある」
と記していた。

記事には、米海軍や専門家に取材した形跡はなかった。
ただ、市民団体が昨年11月から今年1月までFA18の飛行状況を調べた結果から
「稼働する機体が少ないことを裏付ける結果になっている」
と自らの推測の妥当性を印象づけていた。

 

おいおい、つまり東京新聞は市民団体に基地周辺で監視させて、飛行が少ないとか言ってるわけかい。
この季節、アメリカ人はクリスマス休暇というものがあってだな(略) 

 

在日米軍はこの憶測で書かれた悪意の記事に反論し、

「第5空母航空団が完全に任務遂行可能であり続け、空母ロナルド・レーガンの艦上から展開し、
地域に安全と安定を提供し、常に日本を防衛する即応態勢にある」

と強調したということです。

というわけで、我々はちゃんとホーネットが滑走路に並んで、
即応体制にあるということを確認してまいりましたので、ここで写真をあげることも
おそらく向こうの望むことであろうと思い、取り上げることにしました。

もし米軍からのクレームが来たらこの日のエントリは取り下げますので、
突然消えたらそうだったんだなとご理解ください。

(と、いつも見切り発車するわたしであった) 

 

 

 

滑走路始め航空機を見学するために、車で別棟に移動すると、
そこには海上迷彩服の偉い人(飛行隊の司令)が説明とエスコートのために待っていました。 

移動中に通り過ぎたコーナーには空港にあるような金属探知ゲートが。
横には手荷物をチェックする台があり、全く空港の待合室と同じです。

直接アメリカと航空機が行き来しているってことですか?
それともハワイ経由かな?

パスポートのチェックはどこで誰がするんだろうとか、
それは日本側の入国管理なんだろうとか、考え出したら疑問だらけです。

障子をあしらった日本情緒あふれる部屋に通されました。
ここから一歩外に出ればそこはエプロンです。

例えばアメリカ本国や日本の要人が基地に来て見学する時には、
この待合室で待機して基地司令の説明を受けるそうです。

開設以来ここで撮られた白黒写真が飾ってありました。
調理人二人が持っているのはわかりにくいですが

「基地開設一周年」

と書かれ、基地のマークをあしらったケーキです。
ということは1946年に撮られたものということでしょうか。

それにしても、こんなに立てても下に落ちないケーキって一体。 

 

'DISTINGUISHED' という言葉を使うからには、
待合室といっても特別な、そう、「貴賓室」という位置付けです。

「ほー、ということはわたしたち特別扱いってことですか」

と同行の誰かがいうと、打てば響くように米軍の偉い人、

「もちろんです。我々はみなさんを特別に歓迎しておりますから」

「お・も・て・な・し」の心は在日米軍にもすっかり浸透しております。

国旗以外はなんだか全くわかりませんでした。
アメリカ海軍と基地のフラッグかと思われます。 

外に出るとそこにはホーネットの列線が!

尾翼にはテールコードの「NF」が書かれています。
テールコードとは 2つのアルファベットからなり、機が所属する基地と、
部隊マークからなる所属部隊を表す形で構成されています。

「NF」で第5空母航空団を意味します。
なぜNFなのか、 NFが何を意味するのかはわかりませんでした。 
これもアメリカの国認識番号『N』と関係あるのかな? 

空軍のエドワーズ基地は「ED 」とかわかりやすいんですけどね。

このブログでもお話ししたことがありますが、わたしは
岩国の海兵隊基地でレガシー
ホーネットを見せてもらったことがあります。
あのとき案内してくれたドライバーのブラッド(仮名)はもう帰国したかな。

日米通じてわたしが今までお近づきになった唯一の戦闘機パイロットが
このブラッドだったわけですが、彼はとにかく知的でクールで爽やかで、
人当たりも良く社交的でジェントルマン、おまけにイケメンという
ありえないくらいの高スペック・ガイでした。

おかげで以降戦闘機パイロットはみんなこのレベルの人なんだろうと
無条件で思うようになってしまったというくらいです。

ここのドライバーたちも、イケメンかどうかはともかく、技量的には
本国でも高い技術を持った生え抜きばかりだと聞いています。

まだ午前中だったので、飛行訓練が行われているようでした。
こちらのCH-130は何度もタッチアンドゴーを繰返していました。

 

向こうにビーチクラフトのスーパーキングエア
こちらはセスナC-35サイテーション

サイテーションには星のマークが付いていますが、
ちょうど陸軍軍人の男女が歩いていくのを見てもおわかりのように 
当基地で唯一の陸軍が運用する航空機です。

下で見たのはこれだけで、わたしたちは別の入り口から建物に入りました。
立ち止まる雰囲気ではなかったのでこれがなんなのかわからず。

建物の中にはなぜか螺旋階段がありまして、そこを登っていくと
滑走路が一望できる展望フロアがありました。

エプロンに立った時特有の航空燃料の匂いもしてきます。
待合室でわたしたちは一人一組ずつ大型の耳栓を渡され、
建物の外に出る前にこれを装着しました。

そういえば昨年末、当基地の騒音被害を訴え、飛行差し止め並びに
損害賠償を求めた第4次訴訟の上告判決で住民側が逆転敗訴し、
のみならず

「同小法廷は騒音被害による将来分の損害賠償も容認した
2審判決を破棄し、将来分の請求を退けた。」(産経) 

ということです。
米軍艦載機は岩国に移駐するという話もありますが、
それもこの判決に影響しているのでしょうか。 

上から眺めていると牽引車に引っ張られているライノくんが。
こんなお宝シーンが見られるのも基地見学ならではです。

翼が片方だけ立ててありますね。

こちら機体の上で整備中。

 

海上迷彩を着用しているこのメカニックは日本人です。
(もしかしたらアジア系アメリカ人かもしれませんが)

騒音をカバーするためのヘッドホンとゴーグルをつけています。

移動するホーネットには前後左右に一人ずつ人が付いて歩いています。
なんで左だけ翼が立っているのか気にかかる・・。

 

もしかしたらこれ燃料補給中ですかね。

この日はまさかここまで撮らせてもらえるとは思っていなかったので
デジカメだけしか持ってきませんでした。
こちらのシーホークも演習中。

牽引されていたホーネットが定位置についてパイロットが見えました。

機体整備中。
一応のことを考えて、内部にブラーをかけておきました。

他の航空機と比べてグラウンドセーフティピンのついた赤いフラッグ、
「REMOVE BEFORE FLIGHT」 が大きくて長いような気がします。

このフラッグ類は、ドラッグシュート(着陸時のブレーキになるパラシュート)が
開かないようにするためとか、ピトー管や、AOAトランスミッターなどの突起系、
射出座席、爆弾やミサイルなどに付けられています。

これらはプリフライトチェック(飛行点検)の時に整備員が外し、
引き抜いたピンは操縦席の搭乗員に見せるため高く掲げられます。
一旦操縦席に乗ってしまったら外が見えないので、
確実に外したことをこうやって確認するのです。 

翼の上の二人の整備員もお仕事中。
なにやらボトルの類がたくさん置いてありますね。

さて、同行の防衛省の方は、当然ですが基地事情だけでなく
武器航空機に大変詳しい方で、いろいろと説明をしてくださっていましたが、
それに対し合いの手を打つようにいちいち返答を返していたら、

「もう立派なオタクですね」

とひとこと言い放たれ、わたしは狼狽しました。

いかーんっ!

実は昨年の音楽まつりのとき隣に座った男女のうち女性の方が、いわゆる

「自衛隊オタクひけらかし系」

だったのです。
この女性、開場前に並んでいるうちから大きな声で防衛費がどうしたこうした、
と演説を打つがごとき勢いでアピールする人だったのですが、席についても
その勢い一向に衰えず、そのオタク知識(武装系ではなく自衛隊トリビア系)
を相変わらず大きな声でしゃべりまくり。

それはあたかも、若い美人を連れて歩いている不釣り合いなおっさんとか、
ブランド品をこれ見よがしに持つ女性と同類でした。
(その心は、本人が得意なわりに誰も羨ましがったり感心していない)

のみならず、これははっきりいってかなりみっともないというか、
周辺の人に不快感を与える振る舞いだと認識し、

人のふり見て我がふり直せという賢人の言葉をかみしめたばかりなのです。

こんなブログであれこれ書いているわりに、わたしは現実社会では
なにも知らないというふりをしてきました。(実際知らないのも事実だし)
んが、こんな宝の山みたいなシーンに遭遇して、つい舞い上がり、
興奮して必要以上に反応してしまったのでした。

「立派なオタク」

この一言ですっかり我に返ったわたしはその後極力おとなしく、
質問だけをしておりましたとさ。



続く。 

 


日本に民主主義をもたらしたのは誰か〜米海軍基地見学記

2017-03-07 | アメリカ

在日米海軍基地の見学記、ブリーフィングが続いています。

                                                                         

さて、地域との交流を通じて日米の友好を促進し、
両国民の相互理解を深めるのも在日米軍の大事な任務です。

いざ日本が災害に見舞われたときを想定して、在日米軍は
いつも自衛隊を始め近隣都市自治体、消防、医療、警察と連携を取り、
航空事故などを想定した訓練や会議を密に行っています。

例えば大災害が起こったとき。
米軍が艦艇で運んできた物資は、オスプレイなどの大型輸送ヘリで
海軍基地に送られてきます。

ここから横田ベース、座間キャンプ、木更津にある陸自基地、そして
成田・羽田空港まで輸送してそこから空輸することもできます。

陸自の木更津飛行場がここに書かれているのは、 同飛行場は現在も
日米安保条約に基づく米軍提供施設であるからです。

wikiからの要約によると、

1968年基地返還が検討されたが、米軍が

「不可欠の任務のため当施設を継続的に使用する権利を有する」

ことになり、現在まで全面返還していない。
1975年に米海軍の部隊が横須賀海軍施設に移転したのちは、
米軍の使用実態はほとんど無いものの、

現在も日米地域協定では米軍管理・自衛隊共同使用施設・
区域という位置づけとなっている。

そして、この説明でも米海軍は木更津飛行場を

「Kisarazu ALF(Auxiliary Landing Fieldの略)」

と呼称していることがわかります。
朝日新聞が2014年に

「米軍機が2014年度ここに1113回着陸していたことがわかった。
訓練などが目的とみられる。」

という実に非難がましい記事を書いているようですが、
米軍にすれば別に返還していないのだし、訓練や
輸送の中継地とするのに問題ないと双方でしているようですね。 

2014年に着陸したからといって、今更ケチをつけている朝日新聞界隈ですが、
実際にはトモダチ作戦のとき、アメリカ軍はここを経由地として活用し、
参加部隊11によるこの基地からの飛行回数は377回に上りました。

災害発生とほとんど同時に基地内の公共施設には、寄付のための
大きなダンボールが置かれ、瞬く間にそれは物資で埋まっていったといいます。

その後地元自治体、企業から基地に寄付された物資は、トモダチ作戦によって
被災地に運ばれていったというのはみなさまご存知の通り。 

基地ぐるみでの地元との交流も積極的に行われています。

写真上は、小学校の英語の授業に迷彩服で先生を務める基地の軍人さん。
この他、基地を開放しての春祭りや盆踊りも行われていますし、
地元の盆踊りには自衛隊と合同で参加しているのだとか。

うちのTOが、どこかのお祭りで異様にキビキビした団体が来たと思ったら
地方の自衛隊からの参加だった、と話していたことがありますが、
さぞ日米合同の「Operation Bon-odori」は目立ったことでしょう。

女性陣もお揃いの浴衣をきて、楽しそうです。 

春祭りでお茶のお点前を披露する軍人の奥さん(か軍人本人)。
お着物は自前かしら。 

当基地は海上自衛隊との共同運用でもあるので、何かと連携があります。
一緒に餅つきをするのは恒例行事みたいですね。 

今にして思えばGHQ司令官としてダグラス・マッカーサーが
降り立ったのは、ここだったのです。

この銅像はパンフにも書いてあるように、

「日本に民主主義をもたらしたマッカーサーを讃えるため」

地元市民が贈ったというのです。
・・・・ここで、口の悪いわたしが何かをいうのを
読者に期待されている気もするのですが、今は控えます。

ただ、この銅像寄贈が、毎日元帥の元にファンレターが届き、
「マッカーサー神社」を建てるとかいった声があがったという占領中の
「マッカーサーフィーバー」 に日本人が浮かされていた頃ではなく、
1995年の出来事だった、というのに思わずわたしは

「うーん・・・・・」

と首をひねってしまいました。
マッカーサーが日本に民主主義をもたらしたと本気で信じている人というのは、
とりもなおさず占領政策によるWGPの洗脳を受けた人と同義であるとしか
わたしには思えないのですが、そんな人たちが現在の米軍基地に
友好的であるというのも、なんだか矛盾するような気がしただけです。 

これを贈った人々の立ち位置が是非知りたいものです。

 

 

当基地の司令官、ジョン・ブッシー大佐の下は、この時
基地を案内してくださった広報の方。

肩書きは

「ホスト・ネイション・リレーションズ・オフィサー」 

受け入れ国連絡官という感じでしょうか。

というあたりでブリーフィングは終了しました。
会議室を出たところの床には基地のマーク。 

やっぱり鳥居。
なんかアメリカ人って鳥居好きだよね。
ちなみにNAFとはNaval Air Facilityのことです。

トモダチ作戦に参加した当基地への被災者からの感謝をあらわす千羽鶴。

わたしは日頃、被災地に千羽鶴を送ることは一種のテロ行為であるとみなすものですが、
このお礼に贈られた千羽鶴は本当に良いものだと思いました。

グラデーションの鶴の美しさもさることながら、添えられたメッセージの
いくつかは、米軍軍人に見てもらうために英語で書かれています。

「Thank you very much! We are helped.」

「Thank you for your warm support.」

「How do you do? Thank you for your support.」

簡単な英語ですが、一生懸命お礼を言おうとした心が伝わってきます。 
米軍の方もわざわざこれを飾るためのガラスケースを特注したんですね。

千羽鶴の飾ってあった一階のコーナーに、
福利厚生コーナー?みたいなのがあり、このあたりに
たくさんのパンフレットが積んであったので、
カウンターの人に断ってめぼしいのをもらって帰りました。 

 

「遅くなる前に」

みたいな水兵さんのパンフレットは、 NFAAS、

「Navy Family Accountability and Assessment」 

海軍家族責任&評価システム?
たとえば日本にいる時に地震などの災害が起こったとき、
赴任している家族の安全確認や連絡 、避難指示などを行う組織です。

特に日本に赴任することに不安を持つ家族のニーズに応えたものです。

こちらは「Sexual Assault Prevention 」
性的犯罪防止のパンフレットです。

「性犯罪は防げる!」として、「何ができるか」は
性犯罪を誘発する行為として、

「不適切な接触」「挑発的な態度」「境界をわきまえない」

「不適切な親密さ」「特定の人物と二人きりになる」

「お酒を強要する」「暴力的な態度」

などを注意していおります。
また、そういう場面を目撃した時のガイドラインや、
性的犯罪の被害者になってしまった時のサポートをする
連絡先が最後に細かくジャンル分けされて記されています。 

赴任地にペットを同伴することも、サポート体制がしっかりとあります。
輸送の仕方や、予防注射の受け方などが書かれたパンフレット。 

スターズアンドストライプスもあったのでもらってきました。 

ニュージーランドの地震で被害を受けたカイコウラに、
海軍がまずP3-Cを飛ばして被害状況を確認し、
USS「サンプソン」が救助活動のため向かったというような話です。

2015年12月13日、横田基地で「オペレーション・クリスマス・ドロップ」
(というプレゼント投下作戦?)に参加していた22歳のハワイ出身兵士が
機内で「ハートフェイリア」、つまり心不全で亡くなったという記事。

亡くなる前に「変な臭いがする」と言っていたという証言があるものの、
事故ではないので不思議だねー、という記事。 

こちら三沢エアベースのメアリー・ザンダー大尉。
迷彩服を着ているものの、医療隊の心理療法士です。
彼女の任務に対する取り組みを紹介するとともに、
三沢ベースのメンタルヘルスの診療時間などが書かれています。 

スターズアンドストライプスの日本版。
つまり在日米軍の軍人さん達のためのS&S紙です。

「ロストイン新宿」というのは新宿のホテルが舞台だったあの映画
「ロストイントランスレーション」のもじりだと思われます。

このほかにも「日本のお漬物研究」なんていう記事もありました。 

敷地内で見かけた築年数の古そうな建物は、思った通り昔
武道場だったのを教会にしているのだそうです。

「アメリカ人って建物を絶対に壊して建て替えないんですよ。
外を補修し、中の壁を塗り替えて使い続けます」

ええよく知ってますとも。

「幾つかの建物はシロアリにやられてしまって、さすがの彼らも
壊すことにしたみたいですけど」

それにしても、聖母マリアの立像を立てるコーナーを併設した
元武道館、教会と言われればそういう雰囲気に見えてきますね。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「日本勤務はエリート搭乗員の証」〜在日米軍基地見学記

2017-03-05 | アメリカ

地球防衛協会(仮名)で米軍基地内の見学をしました。

お話をいただいたとき、わたしは勝手に「沖縄の」だと思い込んで、
あの”どじん”と図星を指された連中のどじんぶりを実際に見られるのかと
思わず血湧き肉躍ったものですが、よく考えたら、
そんなややこしいところに今どき日本人の見学を入れるわけないですよね。

見学者のふりをして中で暴れる輩がでてくるかもしれないし。

というわけで、沖縄ではなく、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがる
米軍と自衛隊が共同運用している航空基地に行ってまいりました。

訪問団は10人ほどの集団。
まず、藤沢駅(だったかな)の前で待ち合わせです。
乗り換えた町田の駅の大きなのにはびっくりしましたが、そこから
数駅行った藤沢はご覧の通りの駅舎で、駅前ものんびりした佇まい。

ここに迎えの車がやってくるのでそれで基地まで行きます。

最寄りの駅というからすぐだと思ったら、結構遠いのに驚きました。

参加を決めたとき、パスポート通りの氏名住所の提出が要求され、
当日はパスポートを持ってくるようにとくどいほど念を押されていたのですが、
ゲートではそれらは一切チェックされることはありませんでした。

あとで現地の広報の方に

「チェックなかったですね。いつもこんなものですか」 

と尋ねると、いつもそうではなく、チェックをすることももちろんあって、
パスポートを忘れた団体の一人だけが入れず、
外で待っていなければいけなかったこともあった、とおっしゃっていました。

団体の身元がしっかりしているため、信用されたのかもしれません。

ゲートをくぐるととたんに見えてきたスプリットベーン付きの飛行機。
米軍ではすでに退役したF-4、ファントムIIです。

車から降りることがなかったのでこの角度からしか撮れませんでしたが、
尾翼の色から、第5空母航空団の第27攻撃隊所属ではなかったかと思われます。

アメリカではホーネットと置き換えられていったので海軍では86年、
海兵隊でも92年、空軍では96年に全て退役した機体ですが、
これらをライセンス生産したこともあって自衛隊では未だに現役です。

F-35が運用になるまでですから、あと少しは日本の空を飛ぶのを
見ることができるというわけです。

アメリカの軍人さんが日本に来てF-4が元気に(アップデートしてますが)
飛んでいるのを見たら、結構嬉しかったりするんだろうな。

基地敷地内にはいたるところに航空機が展示してあります。

別に柵で仕切っている様子もありませんし、のどかなものです、
夜にはライトアップするみたいですね。

こちらもF-4。
緑の機体は、第195戦闘攻撃飛行隊のマーク。
機体には

"CHIPPY HO!"

と書いてあります。
編隊のコールサインみたいですね。

チッピーは多分自分たちのことで、「チッピースパロウ」(雀)の
愛称、「ホー」は呼びかけ。
おそらく「雀ちゃんたち、いくぜい!」みたいなノリかと思われます。

内部見学はそれほど頻繁に行われるわけではないそうです。
防衛省の見学にも事前の登録と当日の身分証明が必要ですが、
それでも中国人観光客が「見せろ」といって押しかけてきている現場を
わたしは目撃していますし、ここでも内部を公開することは非常に慎重です。

しかし、内部見学には一定のパターンがあるようでした。
まず、見学者は司令塔のある建物に案内され、そこで
基地についてのブリーフィングを受けることが決まっています。

ブリーフィングの行われた会議室がずらりと並ぶフロアには、
日米国旗、アメリカ海軍旗と各部隊の旗が整然とならべてありました。

全部調べたわけではありませんが、ここには海上自衛隊旗はなかったと思います。

マホガニー調の壁にフカフカの絨毯。
自衛隊の施設にはちょっとありえないくらい豪華な内調の
会議室に、我々は案内されて目を見張りました。

「はえ〜」

冒頭に貼った木彫の基地章を中心に、幾つかの写真が飾ってあります。
ホーネットに手を振る女子たち。
もしかしたら、外地から帰ってきたパイロットを迎える家族でしょうか。

 

一部しか写っていませんが、このローターでわかるオスプレイ。
反対派の標的となって久しいオスプレイですが、地元住民には
ホーネットほどの騒音は感じられないと言われています。(当然)

厚木基地で騒音を理由に反対運動してた連中が気付かぬうちに
背後でオスプレイが離着陸していたとか、オスプレイに気付かず、
後から来たチヌークやブラックホークに向かって叫んでいたとかいう
ほっこりする話もあるようですね。

重厚なテーブルに革張りの椅子。
座ってみたらとんでもない座り心地良さでした。

正面に大小3つ(!)設置されたモニターには

「ようこそ米軍基地へ」

我々もしかしてすごく歓迎されてるー? 

テーブルに謎の切れ目発見。
テーブルの下を覗いてみたら(覗くか?) 照明器具が収納してありました。 

各自の前には基地のパンフレットと友好バッジ?が。
男性の参加者の中にはその場でジャケットの襟に付けている人もいました。 

そして、ブリーフィング開始。
レクチャーしてくれるのは当基地勤務の広報担当の女性です。
彼女は民間人で基地には外から車で通勤してきているそうです。

最初はアメリカ軍の指揮系統図から。

在日米軍司令官の下に空港施設司令であるブッシー大佐が、
この基地の最高司令官となります。

基地全体の使用状況が一目でわかる色分け地図。
米軍単独使用の部分は案外少ないという印象です。

緑の共同部分はほとんどが滑走路。
海上自衛隊の単独使用部分はないみたいですね。

第51海洋攻撃ヘリコプター飛行隊のマークは、
ポセイドンの銛を持ったサムライです。 

関東ではここが唯一の米海軍基地なので、
ここが第5空母航空団などの任務を支援する根拠地となります。
西太平洋地域での兵站支援の一端を担っているのです。

米海軍第7艦隊所属の空母艦載機の修理、補修、偵察基地として
ここに航空基地が開設したのは1950年(昭和25年)のことです。 

第5空母航空団は、空母「ロナルド・レーガン」に艦載される
航空団のことで、地上基地をここに置いています。

4つの戦闘攻撃飛行隊、電子攻撃飛行隊、早期警戒飛行隊、
ヘリコプター部隊、後方支援飛行隊で構成されます。

画面に「ミスひとつが大惨事を招く」とありますが、そのため
空母の離着艦を行う第5空母航空団に所属するパイロットは
本国で厳しく選抜された特に技量の高い者ばかりだそうです。

この航空基地が住宅街の真ん中にあることも、彼らが
パイロットの技量を厳選する理由だそうで、米軍搭乗員の間では
第5艦隊勤務は「スーパーエリートの証」といわれているとか。

米軍と硫黄島の関わりについても説明がありました。
エリート航空隊に選ばれたパイロットといえど、このように

日本に来てからも着艦訓練を弛まず行っているのですが、
海上自衛隊はその訓練支援をしているという話です。

かつてこの島で血で血を争う戦いを行った両国海軍が・・。

右の写真を見ると、島の面積に比して滑走路が大きな部分を占めていますが、
これだけ大きければ、この地域で戦死した人たちのご遺骨など
滑走路建造時に考慮されることはなかったろうなと思われます。

「滑走路の下にまだご遺骨が」

という問題について聞いたとき、まさかこんな大きいとは思っていませんでした。
これを見る限り、コンクリートの下のご遺骨はかなりの数なのでは・・。



さて、あとで、この見学をお膳立てしてくださった防衛省の方から
かつて仕事で行ったという「硫黄島の想ひで」を伺う機会があったので、

「砂や小石でさえも持ち帰らないようにと言われるそうですね」

と水を向けてみると(笑)

「いや、それがですね。わたし恐ろしいものを持ち帰ってしまいまして」

「え・・・・っ」

「硫黄島から帰ってからアカアリが一匹見つかったんです」

「(なんだアリか)でも一匹でよかったですね」

「それが、退治したつもりだったのに、しばらくして魔法瓶の蓋を取ったら」

「蓋を取ったら?」

「口の周りに び っ し り とアカアリの集団が」

「いやああああ〜〜〜〜」

検閲を逃れたアリが暖かいところを求めて魔法瓶の口にたどり着き、
なんとそこで繁殖していたというお話。 

もしかしたらこちらの方がずっと怖いかもしれない。

ちなみにこの方によると、硫黄島には現在ヤギが生息しているそうです。

「ヤギなんてもともといたはずはないし、
海兵隊が持ち込んだとしか思えないんですよねー」

そうなのか海兵隊。


在日米軍見学記、続きます。

 


ショアラインパークのペリカン天国

2017-01-26 | アメリカ

西海岸はシリコンバレーに滞在している時、
スタンフォード・ディッシュとともにわたしが散歩コースにしているのが

マウンテンビューのショアラインパークです。

バードサンクチュアリという自然保護区に隣接している公園で、
広大な敷地には池とボートハウスがあり、さらにゴルフ場もあります。
ゴルフ場と公園は特に仕切られていないので、最初の年間違って
コースに入ってしまったということがありました。

わたしのお目当ては主にペリカンの生態を写真に撮ること。
まるで滑走路に滑り込むように川に着水するここのペリカンの姿を
少しでも綺麗に撮りたいと、先代のマウント式望遠レンズを
わざわざこのために持ってきたりしました。(結果は失敗)

その後望遠を純正のものに変え、いざ今年こそ、と来てみた去年の夏、
なんとペリカン滑走路は水不足でペリカンの頻繁な飛来は捉えられず。

今年も水不足は深刻で、なにしろ水がないため水辺の鳥であるサギが
山の中のスタンフォードディッシュに餌を求めてやってくるくらいですから
ここがその後どうなっているのか、恐々という気持ちで行ってみました。



ショアラインパークの近くにはグーグル本社があります。
この辺り一帯にグーグルの建物が散らばっているため、社員はこの
「グーグルカラー」の自転車であたりをうろうろしています。

この日ショアラインパークにグーグル社員が遊びに来ていたようでした。
もしかしたらポケモンGOをしに来ていたのかもしれません。



ここにもジリスが生息しています。
ここはディッシュトレイルと違い、木々が豊富なのであまり猛禽類が来ず、
蛇以外の天敵はいないのではないかと思われます。 



なんかこんなお菓子がありそうな・・・。
赤い丸が写っていますがなんだったのかわかりません。



太って立派なリスが口をもぐもぐさせているのでアップにしてみたら・・・、



口の端に何か咥えていました。



巣穴の周りで和んでいるリス家族。



「うわっ・・・・わたしの年収、低すぎ?」



喧嘩上等なリスは片耳に戦闘負傷あり。



巣穴の周りが一番落ち着くのか、顔だけ出してじっとしているリスを
ここではよく見かけます。
育った環境によって、同じリスでも全く行動や性質すら違って見えます。



全般的にショアラインのリスはディッシュトレイルよりおっとりしているというか。
彼らはディッシュトレイルのリスより人間を怖がります。



かなり遠く(50mくらい)を望遠で狙ってみました。
手持ちでしたが、わたしの腕でこれだけ撮れれば大したものだと思います。
(彼らが置物のようにじっとしていたので撮れたのですが)
Nikon1の望遠、優秀なんじゃないでしょうか。



池のほとりにある美味しいクロワッサンのあるカフェで朝食をとることがあります。
食べていると、パンくずのおこぼれを狙う鳥に取り囲まれます。

これはオスが黒いBrewer’s blackbird、照りムクドリもどきのメス。




バターたっぷりのクロワッサンのかけらなど、鳥は食べないほうがいいと思うのですが。

鳥「くれ」

ここには「エサやり禁止」の張り紙があります。



羽を広げると、その時だけ赤い模様が大きく見える鳥。
Red-winged Blackbird、ハゴロモガラスです。




鶯のような色をした鳥。
Orange crowen warbler、サメズアカアメリカムシクイという
あまり情緒的でない名前が付いています。 

 

グースは普通にいます。



飛ぶ時は傘型の編隊飛行をするグースですが、水上滑走の時には単縦陣。



カモメの幼鳥だと思う。

 

池の端の浅いところを餌場にしているサギは相変わらずです。
ここなら水不足で魚がいなくなることはないでしょう。
ここには大サギと小サギが3〜4羽生息しています。



こんな広いのに「縄張り」があるらしく、他のサギが来たら追っ払います。
大サギと小サギはバッティングしなければ共存できるようです。



鳴きながら威張って歩いていた大サギ。



おお、美しい。
まるで日本画にあるようなポーズを決めてくれた大サギ。
長い首はねじって収納?するんですね。



去年も見た川鵜がいました。
水の上に顔を出しているのは一瞬で、一旦潜ると水中をすごい速さで泳ぎ、
次には全く違うところに顔を出すので、写真が撮りにくい鳥です。



「鵜の目鷹の目」といいますが、それくらい鵜はハンターとして優秀。
鷹が上空から地上の小さな獲物を見逃さないように、鵜は水中で
驚くべき視力と素早い潜水を行って狩りを行います。

捕獲する際には時に1分以上、水深10m近くまで潜水することもあり、
1羽で1日500gの魚を食べるといいますから、起きている間はほぼ全部の時間
こうやって過ごしているみたいですね。

ところで、この写真で、鵜の羽がびっしょり濡れた感じがするでしょ?
ウ類の翼羽は油分が少なくあまり水をはじかないらしいです。

だから、狩りが終わったら、長時間同じ姿勢で濡れた翼を広げ、
小刻みに震わせ翼を乾かしているのだそうです。



池の周りを通り過ぎると、水辺の鳥の群生地が現れます。
ここはいつ来ても独特の「水辺くさい」臭があるのですが、
今年は特にそれがひどくなっているような気がしました。

 

それもそのはず、目に見えてわかるくらい、去年より水かさが減ってしまっています。



この一帯が全部干上がってしまっており、鳥たちは水のある部分に
全部の種類が移動してしまって、そのため一部が混雑しているのでした。



干上がっていない部分もおそらくは随分水深が浅くなったのでしょう。
それを計測する杭のうえにはアジサシが一羽。



それではペリカンの生息地はどうなっているのか・・。
うーん、確かに水の量は最初の年と比べると激減です。



しかしとりあえずはペリカンは生息できるくらいにはなっていました。
この写真は夕方来て撮ったもの。(5時くらい)
もうこの時間には就寝モードで、羽繕いに専念しています。



こちらは朝。
最初の年には1分おきに戻ってくるペリカンの着水が見られたのですが、
数も減ったせいか、それとも時間が遅く食事がもう終わっていたのか、
飛来してくるペリカンはずっと立っていても全くいませんでした。



ペリカンも水浴びをした後は岸で羽を乾かすようです。



ペリカンが飛んでこないので仕方なくカモメを撮っていたら・・・、



やっと一羽、飛んできました。



シャッタースピードは1/2000です。
画面の色が朝なのに黄色っぽいのは、ホワイトバランスをうっかりして
日陰モードにしたままで撮っていたからですorz



飛んでいるときのペリカンは邪魔なもの(くちばしの袋とか首とか)
をすっきりと収納して実に優雅な姿です。


 

よく見ると羽の先を一枚一枚エルロンのように動かしてコントロールしています。



さて、こちらペリカン生息地にいた小サギくん。
ここで水中の小さな生物を食べるようです。



何か見つけて走っている状態。
やっぱりそういうとき脚はいちいち水上に出すんですね。



夕方来たときに見たおそらく同一サギ。



ところで、飛来するペリカンは夕方にきても1羽もいなかったわけですが、
そのかわり、彼らの豪快な水浴びの姿はふんだんに撮れました。

ペリカンの水浴びは、その大きな翼をなんども水に打ちつけるように振り下ろし、
主に翼を洗うことが主目的のように見えます。



ペリカンの群生地に近づくと、この独特な水音が遠くから聞こえてきます。
それくらいこの水浴びの音は独特で豪快なのです。



バタバタが終わって一仕事終えた風のペリカンさん。



その後はくちばしや首を使って丹念に羽をつくろいます。
くちばしでガジガジ噛むようにすることも。



水浴び正面から。
向こうではカモメも水浴び中。





ペリカンが翼を広げるとこんなに大きくなるのかと驚きます。



水を蹴って飛び立った瞬間。



シャッタースピードを上げて撮ると水浴びがこんな風に。



岸に上がると、羽を広げながら歩いて落ち着く場所を探します。



羽に赤いタグをつけているペリカンを遠目に発見しました。
やはり生態を研究するチームがあるようですね。



狭い地域に何種類もの鳥類が生息していますが、彼らも
なんとなくその中で住み分けをしているようです。

水不足の原因が何かわかりませんが、状況が一向に改善していないのは
異邦人であるわたしもこころが痛みました。
日本に帰ってきていきなり空港で大雨を見たとき、

「この雨をカリフォルニアに分けてあげたい・・」

と不条理なことを考えたものです。


 

さすがのアメリカ人も天候をどうにかすることはできないようですが、
とにかく来年はなんとか状況がましになっているのを祈るばかりです。

バーズサンクチュアリの鳥たちのためにも。


 


朝鮮戦争慰霊碑〜旧プレシディオ軍用地 サンフランシスコ

2017-01-20 | アメリカ

サンフランシスコに夫の知人を案内したときのことをもう少し。
どこに客を案内するかということは、車を運転するわたしに
完全に任されていたので、わたしはゴールデンゲートブリッジのあとは
半島の北西角に当たる太平洋に面した海岸に車を向けました。



何度かこのブログでもこの海岸の写真をご紹介していますが。
なんどもこれもいうように、いつ来てもここはこんな風です。

この写真を撮ったのは8月の中旬ですが、この一帯には雲が垂れ込め、
海流の関係で常に強い風が海から吹き上がってくるおかげで、
霧が立ち込めることはありませんが震え上がるほど寒いのです。
わたしはここに来るときには必ずこちらで買った冬物を着ます。
寒さに鈍感なアメリカ人も、ここでだけはあの「スターターパック」な人は
ほとんど姿を見ることもありません。 







これも前にご紹介したことがありますが、ここには昔、

サットロ・バスズ

という温水プール施設がありました。
これはかつての海水プールの遺構です。
サットロというのはオーナーであったアドルフ・サットロの名前です。
1896年に建てられ、1966年に不審火で焼失するまでここにありました。



上の写真に見えている部分にあったプールの内部。
右手窓の外に海が見えているのがお分かりでしょうか。



部分拡大。
ノーダイビングの看板の横で落ちるふりをして飛び込む若者。



当時の水着を復刻してマネキンに着せていました。


冬はもちろん夏でも海水浴などとんでもない気候のサンフランシスコで、
年中プールに入れるとあって市民の人気を集めましたが、何しろ
維持費が大変すぎて、経営はいつも赤字だったといいます。

1966年に廃業してすぐ、なぜか不審火が起きて建物は失われました。
サットロはサンフランシスコを離れ、保険金を主張したそうです。

お荷物だった店などがある火突然不審火によって焼けてしまう。
なんかこういう話、世の中にはよくありますよね(棒)



遺構には自由に立ち入ることができます。
3組ともハネムーン?



わざわざこんなものを落書きしに来る人がいます。



この遺構に隣接したところに、レストラン棟ががあります。
これからいく「クリフハウス」がここにあります。
カフェはいつ来ても混んでいますが、レストランの方はお値段が高く、
(一皿20ドル台)そのためいつも席がなかったことはありません。

この斜面に人がいるので写真を撮ってみました。



みんなで寝転んで楽しんでますね。

このあたりに分布する植物もご覧のように独特です。
まるでコケのような柔らかい草がみっしりと生えて、
まるで絨毯のようになっているのです。



かつてのクリフハウス部分。
プールなどの入り口でもあり、ここから皆入場しました。



年中吹く強風を利用して、この建物は風力発電を取り入れています。
そういえば、この周りにはかつて稼働していた風車が2基あります。



あまり満席になることはないとはいえ、一応予約して一番乗りしました。



ここのパンは絶品です。
「ラタトウィユ」(レミーのおいしいレストラン)ではありませんが、
パンをちぎるときにパリパリと香ばしい「音」がします。



家族が取った鴨のロースト。
少しもらいましたが大変滋味溢れる肉でした。



わたしはホタテと海老がクスクスのサラダに乗ったもの。



ところで一番乗りだったので窓際の席に案内され、
そこからはこんな風に外が見えるのですが・・、



なんと、カップルがこの極寒の海で青春ごっこを始めました。



男の子が何かを言って逃げ、女が追いかけて転び、全身びしょ濡れ(お約束)
サンディエゴならともかく、ここでこんなことをやっていたら、
まず間違いなく呆れた目で皆に見られることは間違いありません。

この後、日本の、12月くらいの寒さの中、濡れた服で
二人がどうやって過ごしたのか少しだけ気になるところですが、
いずれにせよ若いって無謀と同義なのね。



砲台が張り巡らされ、サンフランシスコ湾入り口には機雷が撒かれていた、
という前回のエントリで貼ったYouTubeを見た方ならお分かりのように、
ゴールデンゲートブリッジを中心としたこの一帯は、1994年まで
軍による運用が行われていた「軍用地」でした。

対日戦のため日系二世兵士を集めて情報部隊を作り、
教育していたのもここでしたし、複葉機の時代には滑走路もありました。
クリッシーフィールドの皆がキャンプを行う芝生の一隅には防空壕があり、
それらは皆現在歴史建造物として保存されています。

1776年に最初にここを軍用地として使い出したのはスペイン軍でした。
1821年、メキシコがスペインから独立し、ここはメキシコの一部になります。
プレシディオもそうですが、サンフランシスコにヒスパニック系の名前の
通りや街が多いのはそういうことからです。

米墨戦争でアメリカがここの所有を宣言してからのち、
ゴールドラッシュによってアメリカ人がつめかけ、
アルカトラズに要塞を築いたりして、街は発展していきます。

わたしがここでいまだに口座を持っているウェルズファーゴという銀行は
1800年代にできていますし、チョコレートのギラデリ、衣料会社の
リーヴァイ・ストラウスも同じ頃に創業しています。

観光地として世界中の人々を惹きつけるこの一帯には、ユーカリとアメリカンパインが
森林を形成し、ここに来るとわたしは車の窓をあけて独特の芳香を吸い込みます。

そんな森の一角に、戦没兵士が眠るサンフランシスコ国立墓地があります。
わたしは去年初めてこの中に入り、写真を撮ったのですが、
なぜか入り口の写真を残して全てが消えていました。

もちろん単なる事故か、どうせわたしのことだから何か気付かないうちに
データが消えるようなことをやったのだとは思いますが、
それを何かの啓示ととらえることもまた吝かではなく、この中で
写真を撮ることをわたしはそれ以来きっぱり諦めることにしました。

そのかわり、と言ってはなんですが、去年来た時に建設予定となっていた
朝鮮戦争のメモリアルコーナーが完成していたので、立ち寄ってみました。




Pusan Perimeter(June-September 1950)
とあります。
釜山の石ででもあるのでしょうか。



ここで現地にあったこの戦線の移動の様子をみてみましょう。


●一番左 1945年、日本が降伏し、北半分をソ連が、南半分を
アメリカが占領していたときの様子です。

元シールズの奥田という人が最近熱唱したという「イムジン河」という歌には

「誰が祖国を二つに分けてしまったの」

という歌詞がありますが、誰も何も、アメリカとソ連なんですよね。
ところでついでにこのひと、参院選の時投票用紙に◯をつけた
とかツィートしていたそうですが、
(指摘されてツィート削除)なんかもう隠す気なさそうですね。

何って、ほら、選挙に行ったことがないってことを。


●左から2番目 北朝鮮が1950年6月25日に北緯38度線で砲撃をいきなり始め、
奇襲してきたときです。
ソウルは占領され、韓国軍は敗退して釜山に追い詰められました。

ちなみに、奇襲の2日後の6月27日、李承晩は南朝鮮労働党の党員を
共産主義者として処刑を命じ、裁判なしで20〜120万人の民間人が
虐殺されるという「保導連盟事件」が起こっています。


●真ん中 そこで、我らが?マッカーサーがバターン号で日本から駆けつけ、
東京を起点にそこから毎日専用機で戦場に通い、アメリカ軍を指揮。
9月15日から10月24日で戦線を大きく押し戻しました。

ちなみにこのとき最初に韓国軍の参謀総長になったのは(すぐ解任されましたが)
陸軍士官学校49期卒で砲兵科少佐であったチェ・ビンドク(蔡 秉徳)でした。



Inchon Landing(1950 September 15)

マッカーサーが9月15日に行った仁川上陸作戦、「クロマイト作戦」の日が
ここに記されています。
それまで苦戦していた国連軍ですが、この作戦以降、 米英軍と
韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。



仁川で、上陸作戦でレッドビーチの防波堤を越えていく海兵隊員たち。
このときにバルドロメオ・ロペスという海兵隊員は、壕に投げられた
手榴弾を自分の体の下に引き入れて戦友を爆発から守ったという話があります。

●右から2番目 
11月25日になんと中国人民軍が参戦してきます。
人海戦術の前に国連軍もアメリカ軍も疲弊を強め、
戦線はまたも大きく南下することになりました。 



1950年8月に撮られた戦場での一コマ。



1952年、ハートブレーク・リッジというところの塹壕で
40フィート向こうにいる敵と対峙している第27砲兵師団。




上の写真で傷ついた兵士に手を貸している左の人物と、
上の写真で自分のジープを祭壇にミサを行っている従軍牧師は
同一人物で、エミール・ケイパーン大尉といいます。

彼はこのあと戦線で捕虜となりましたが、収容所で従軍牧師としての務めを果たし、
それだけでなく皆に食べ物を分け与えて勇気付けました。
1951年に結核を罹患し収容所で亡くなっています。

朝鮮戦争には4人の従軍牧師が参加していますが、その全員が
捕虜になり、朝鮮半島で没しました。




雪の中休息を取るハンナム貯水池の海兵隊員たち。
1950年12月撮影。



M-26戦車(パーシング)の前に立つ子供。1951年6月撮影。



ハンナムの戦士の墓にたたずむオリバー・P・スミス海兵隊少将



北と南の国境、DMZ(非武装地帯)で向かい合う両軍の兵士。



このメモリアルゾーンに出資したパトロンの名前が刻まれています。
サンフランシスコ市、韓国政府を始め個人名も。



国立墓地を見学していた連れと入り口で合流しました。



さて、というところでサンフランシスコ案内は終わり。
これは知人と別れた後、買いものしたオークストリートのジャズカフェ外壁。
サッチモと右はニーナ・シモン。



ロスアルトスに帰ってきました。
これなんだと思います?



答え;自転車スタンド。



おまけです。
2015年の夏、スタンフォードで節約したつもりで安いホテルに泊まったら、
2日目に火事になった、という話をしたかと思いますが、今年、
近くを通った時にどうなっているか見てみました。



全く直してません(笑)
窓の隙間から真っ黒焦げの部屋の中がそのまま見えていました。
ホテルは営業しているみたいでしたが。

多分保険金も受け取ったんでしょうにねえ・・。(呆)

終わり。 


サンフランシスコの対日防衛要塞 砲台跡

2017-01-17 | アメリカ

シリコンバレーに滞在中、TOの知人が当地に来ることになり、
サンフランシスコは初めてだという彼を案内していわゆる
お上りさんコースをドライブしたときの話です。

やはり最初はゴールデンゲートブリッジであろう、と
いつも車を停めるクリッシーフィールドの海岸沿いから、
ブリッジを渡った観光用の展望台に行ってみました。

週末なので予想はしていましたが、パーキングに車が溢れていたので
無駄な待ち時間を費やすことをすっぱりやめて、
わたしはそのままブリッジを渡り、対岸からブリッジを眺めるという
「地元民コース」を選択しました。



「ライムポイント」とあるのが橋のたもとです。

ブリッジを渡ったところ全体を「ゴールデンゲート保養所」というのですが、
そのサンフランシスコの対岸に当たるところには見た目通り馬てい形をした
「ホースシュー・ベイ」というのがあり、そこには観光客はまず来ません。

ここはフォートベイカーという地名で、本日お話するつもりの
サンフランシスコ防衛のための要地でもあった一角。
現在はヨットハーバーとベイエリアの歴史博物館、そして
沿岸警備隊の基地が置かれています。



当てずっぽうで車を走らせ、数台しか車が停まっていない空き地に
車を停め降り立ったとき、わたしたちは思わず感嘆の声をあげました。



「すごい」

「こんな風にブリッジが見えるところに初めて来た」

「おまけにここまったく観光客がいない・・・」




ブリッジの写真は数多くありますが、こちらから見た角度の方が美しい。
わたしたちは冷たい風の吹きすさぶ岸壁から行き交う船を見ていました。

ふと後ろを見ると、全く整備されていない小高い丘があり、
そこが展望台のようになっているのに気づいて登って行きますと・・・・、



全く整地されていない(つまり柵とか舗装した道がない)
踏み分け道のような階段でずっと上に登っていくことができました。




わたしたちの停めた車が下に見えています。
ここからはさらにヨットハーバーも一望できます。



さらに左に首をめぐらせば、アルカトラズ島が。
向こうにベイブリッジが見えているアルカトラズなんて初めてです。

普通には見られない建物の後ろ側と巨大な給水塔が認められます。



ブリッジの下に、ここに来なければ絶対に見ることのできない建築物発見。
フォート時代の監視所かもしれません。
廃屋になっているのかと思ったら、敷地になんとソーラーパネルが見えます。
岸壁に衝突しないように夜間照らすライトの電源をソーラーで取っているようです。




ブリッジの下は日本なら「銀座」と呼ばれるであろうくらい交通の激しいところです。
船好きであればここで1日でも行き交う船を見て過ごせるでしょう。(寒くなければ)

このとき、わたしのセンサーにひっかかった一隻のボート、いやカッター。
なんと沿岸警備隊の巡視船ではないですか。

この直前、ニューロンドンでコーストガードアカデミーの見学を
したばかりなので、このご縁に少し驚いてしまいました。



ここホースシューベイにコーストガードの基地があることは
後で地図を見て知ったことですが、このときにも
コーストガード専用のポンツーンがあるのをわたしは
目ざとく見つけて注目していたのです。



実はこの前、写真に写っている崖沿いの道路に車を止めていたとき、
コーストガードの隊員がみんなでだーっと走ってきて、
いかにも緊急事態!な騒然とした空気のままカッターに乗り込み、
わずか1分以内に出動してしていく様子を目の当たりにしたのです。


そのときわたしは自分のカメラを息子に貸していたため、
iPadで撮ったのがこれ。


ブリッジの上から人が飛び込んだときの捜索などに対応するためにも
ここにコーストガードの基地があり、非常時に出動しているのです。
しかしこのときになんのために出動したのかはわからずじまいでした。

こちらの写真は、その後帰ってきたカッターから隊員が降りているところです。
大事に至らなかったようですね。 




日本ならこんなところにはあっという間に柵ができてしまうところです。
ここに登ってくるのも勝手なら、落ちるのも自己責任。
こういう部分に関してはこれが世界のスタンダードであり、
日本というのは本当に甘やかされた優しい社会だと思います。

この花を供えられている人は、ここから飛び込んだのか、滑落したのか。
あるいはここから望むブリッジから飛び降りたのでしょうか。

ちなみに「世界で2番目に自殺者の多い建造物」(1位は南京)
であるGGブリッジでは2014年現在でわかっているだけで1,653名が
ここから飛び降りて自ら命を絶っています。



さてところで、ここから帰ってきた日、わたしはこの場所を
確かめるためにグーグルアースを見て気づきました。



これ・・・・砲台跡ですよね?

なんと、写真を撮っていたところをさらに登っていくと
そこにはこんなフォートレスの遺跡があったのです。

そう、先ほども言いましたが、ここはサンフランシスコ沿岸防衛のために
かつては全てが軍用地であった一帯です。
有名なブリッジ下のフォートレス(またお話しします)のように、
ここにもフォート・ベイカーという基地がありました。
現在博物館になっている建物の多くは当時の兵舎だったりします。



このあと、ブリッジに乗ってサンフランシスコに帰ろうとしたのですが、
ブリッジの入り口わきの道に、せっかくの機会なので入ってみました。



完全に観光道路となった山の上の2車線道路は、深い霧の中
どんどんと高度を上げていき、ついにはブリッジが下に見えてきました。



車を停めて降り、写真を撮ったところからは、一車線一方通行の
細い急な坂道がどこかにつながっており、車が降りていきます。



ここにあった案内板を見てびっくり。
この辺りは、要塞だったころの砲台の遺跡がいまでもごろごろあるのです。
この地図の丸いのが二つの砲台跡。
火薬庫や弾薬庫、コンプレッサーなどが示されています。



砲が2門据えてあった砲台。

「バッテリー」という名の砲台は「バッテリー・メンデル」、
『バッテリー・ウォラース」「バッテリー・スペンサー」、
「バッテリー・タウンズリー」、「バッテリー・カービー」などと
名前が付いていて、この一帯をまるでハリネズミのように防御します。



現地の看板には当時の写真もありました。
「最後の要塞砲台跡」と説明があったので、それを訳しておきます。

史上最も巨大で最も強力であったアメリカ陸軍の16インチ砲。
2,100パウンドの砲弾を26マイル外洋まで撃つことができました。
1942年に着工が始まり、1943年には完成したこれらの砲台。
第2次世界大戦は、この湾岸を日本軍の攻撃から防衛するために
この一帯を軍用地に変えました。

第2次世界大戦勃発までサンフランシスコ湾は西海岸でも
最も需要な防衛拠点と認識されてはいましたが、真珠湾攻撃における
日本軍の航空攻撃が、それまでの防衛の概念を永遠に変えたのです。

あとにご紹介するビデオの中でも言っていますが、真珠湾のあと、
日本軍が次にどこを狙ってくるかということは彼らに想像もつかず、
可能性としてはサンフランシスコが最も濃いとされていたことがわかります。



未だに残る「リング」。
これは砲台にある砲身を操作するためのワイヤが繋がれていました。



砲台に続くトンネルの入り口。
これらの現地にある写真を見てふと気付いたのですが、
最新の「ターミネーター」って、この辺でてきたよね?



この説明のあった部分は「バッテリーナンバー129」という場所でした。
フォートそのものは米西戦争の30年も前の1861年には完成していました。



1943年、マリーン・ヘッドランドに運搬される砲身。

129番の砲台が活動をやめたあとは、砲身などはトンネルの中に置かれ、
1948年に裁断してスクラップになるまで放置されていたそうです。



なぜここに砲台が集中しているかというと、サンフランシスコに攻めてこようと思ったら、
この狭い海峡とブリッジの下をくぐらないといけないからです。

これは、別のところ(朝鮮戦争のメモリアルゾーン)で見つけた写真ですが、
朝鮮戦争のとき、(1953年)、  「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」
(輸送艦)がブリッジの下を航行していくところです。

搭載しているのは戦争捕虜で、これから朝鮮に送還するところだったとか。

World of Warships - San-Francisco Artillery Corps


英語ですが、当時の映像とCGによって分かりやすく
サンフランシスコの防衛について説明してくれています。

これによると、砲台勤務の兵は砲台のコンクリートに付けられた
簡易ベッドで寝ていたようですね。
タバコも吸えず大変過酷な任務だったようです。


10年以上前から数え切れないくらいなんども来ていながら、
こんな軍事遺産があったことをわたしは今まで知りませんでした。


怪我をしたアシカなどを保護して治療し、また海に返してやる

海洋哺乳類センター

もあって、見学できるそうですし、来年はカメラを持って
1日ここで過ごしてみることにしましょう。
 

 


「エ・プルリブス・ウヌム」〜パールハーバー体験ショー

2016-12-07 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」についてようやくお話しし終わったばかりですが、
他の展示艦のお話に進む前に、真珠湾攻撃の日にちなんで、
バトルシップ・コーブで見た「体験ショー」について書きます。 

その前に、まずは積み残した写真を一枚。
「マサチューセッツ」艦内の「敵国コーナー」の「ナチス・ドイツ」。

ナチスドイツの海軍少尉の制服だけをこの間ご紹介しましたが、
コーナー全体の写真が出てきました。

ナンバーが打ってありますが、その説明を撮り忘れたので
なんの補足もできないのが辛いところですが、
左下のは全てドイツ海軍の下士官の袖章で、
どれも錨のマークで、例えば雷があしらってあるのが通信、
羽ペンが庶務、舵輪がメカニックなどとなっています。

亀の甲文字で「マリーン」と書かれた帽子の水兵は
楽しそうにもやい結びをやっております。

袖のデザインにひねりがあって大変よろしいですね。

こちらはなんのコーナーか忘れましたが、水兵の制服は米海軍のもの。
一等兵曹、Petty Officer First Class(PO1)のものです。

右下のお札は、日本統治時代にグアムで流通していたお金。
発行はもちろん日本政府となっています。

左は、なんと日本海軍の魚雷が搭載していたジャイロスコープです。
魚雷のジャイロスコープホイールは、圧縮された空気によって回転し、
回転するホイールが進行方向をホールドします。

ジャイロの回転方向が逆向きに固定されており、
魚雷のコースが左右にずれている場合は、
圧縮空気モーターが作動して魚雷の垂直舵を回し、
まっすぐなコースで走行させます。

・・・・という説明がありますが、そんなことより、
この魚雷のジャイロがレイテ湾で
どうのような状況で
アメリカ軍の手に渡ったかを知りたいものです。

ところでわたしは、ここバトルシップ・コーブに入った途端、

「パールハーバー・エクスペリエンス」

のお知らせを目ざとく見つけて注目しておりました。 

これはチケット売り場のようなところにも貼ってあったので、
もしかしたら予約が必要なショーなのか、と思ったのですが、そうでもないようです。
どこでどんな風に行われるのか全く説明がなかったし、
わたしはとにかく「マサチューセッツ」の中を駆け回るのに忙しかったので、
それどころではなく、もし万が一、タイミングが合えば
見ることもやぶさかではない、程度に思っていました。

ニューヨークの「イントレピッド」艦内でやっていた
「カミカゼ体験ショー」というので大体この手の「体験ショー」が
どんなものかわかったような気になっていたせいもあります。 

2回目に訪れ、駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」に乗艦し、
さあこれから見て回ろうとしたとき、そのショーが始まるという
アナウンスがあったので、しばし足を止めることにしました。

その辺にいた人たちがなんとなく集まってきています。 

「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」の舷側からショーが始まるのを
待っている間、下に展示してあった飛行機を撮ってみました。

アメリカでこの「トロージャン」を見るのは何度目かです。
しかし練習機として赤と白に塗り分けられたものは初めて見ました。 

T-28は1940年後半から、T-6/SNJと置き換えられていったもので、
基本練習機でしたが、戦闘バージョンが作られたこともあり、
ベトナム戦争の時にはアメリカ空軍が運用していました。 

このT-28は、フロリダのペンサコーラ基地で、空母への着艦が
可能な機体として長年運用されてきましたが、1975年、
に空母「レキシントン」に「ハードランディング」してダメージを受け、
それがきっかけで退役したそうです。

ハードランディングとは、「軟着陸」の反対で「硬着陸」のこと。
早いはなし、甲板に「叩きつけられてどこか破損した」ってことですね。 

「レキシントン」(CV-16)といえば、映画「トラ・トラ・トラ!」で
空母「赤城」を演じたことがありましたっけ。
「ミッドウェイ」その他多数の映画に出演してきましたが、あの抱腹絶倒映画
「パールハーバー」でも「赤城」を演じたという経歴があります。


というわけで、めでたく超間接的にタイトルの「パールハーバー」とつながりました。

ところで、バトルシップコーブに入場して最初におおっと思ったのが、これ。
なぜか昔のアメリカ軍用車が停まっています。 

こんな感じで、なぜここに車が?と不思議だったのですが、
これはいわゆる一つの演出だったことが後から分かりました。

さて、いよいよ「パールハーバー体験ショー」の始まりです。
ハンガーのようなトタン屋根の展示棟(こちらにもPTボートの展示が)
の前に、大きなスクリーンがあることが始まって初めて気づきました。

DECEMBER 1941

と映画のような出だしですが、会場には緊張感ゼロ(笑) 

んー、なんか第2次世界大戦のヨーロッパ戦線だったと思う。
アメリカは真珠湾以前から中立国としながらも

「レンドリース法」

という武器貸与法を作って、イギリス、ソビエト連邦(ソ連)、中国
(蒋介石国民党政府)、フランスやその他の連合国に対し、
膨大な量の軍需物資を供給していたわけですね。

もちろん、義勇軍と名乗って中国大陸にも参入していました。

ハワイに駐留しているアメリカ軍は、日本軍の攻撃があることなど
夢にも知らずにフラダンスを見ていましたとさ。 

そこに襲い来る日本軍の機動部隊。
アメリカ側航空機もこれを迎え討たんと飛び立ちます。

ちなみにせっかくなので、大石第一航空艦隊参謀が書き遺した
その時の感激ぶりを戦史叢書から抜粋して書いておきます。


0327頃 奇襲成功電来る 東京及び連合艦隊全部の喜び想像に余りあり

0530ー0830頃まで収容 本日ウネリ大なるため発進、収容諸作業困難を極む

僅に一時間半にて米戦闘部隊に布哇空軍を事実上殲滅せり
武人の本懐之に過ぎず
之にて戦争の前途に無限の光明生ぜり 
四二年の生涯 唯今日のためにあり 

藤田第8戦隊参謀の日誌も紹介しておきましょう。
ちょっとわかりにくいので、現代文に翻訳しておきます。

間も無く攻撃隊総司令官の電報「奇襲成功せり」
敵は警戒していなかったということだ。やったぜ!
ついにアメリカ側は攻撃に気づくことがなかったんだ

「見たか、アメリカ!」

30余年の積年の恨みが刃となって今お前らの胸を刺しているのだ
まず匕首で敵の心臓を衝く雷撃は始まった
続いてきた報は

「我的主力艦を雷撃す、効果絶大」 

この頃から我奇襲に続き、敵の緊急通信を頻々と傍受する。
敵は狼狽を極めているらしく、平文電報を乱発している。
愉快、てか、平文でなんて馬鹿みてーじゃね?

曰く「日本軍のオアフ空襲により日本との戦闘行為開始さる」
曰く「真珠湾状の空襲は演習にあらず」

wwwwwww(原文・笑止々々) 

曰く「オアフ空襲さる SOS SOS」

曰く「出航容易なる艦より出動せよ」

曰く「港外に機雷を敷設した 戦艦は止まれ」

狼狽の様子が手に取るようにわかる

曰く「ウェストバージニア付近の重油大火災、
メリーランド、テネシーを脅威する 防火艇送れ」

惨状を目の当たりに見るようだ 

我が攻撃隊指揮官から「雷撃終了頃敵防御砲火あり」と
あっという間に防御砲火を出してくるとは敵ながらあっぱれ

次いで、雲の上はるか、水平攻撃で弾を降り注ぎ、
飛燕のように頭上から急降下爆撃と銃撃によって敵飛行場に
縦横無尽の攻撃を開始した

フォード、ヒッカム、ホイラー、カネオヘ、敵機のあるところ
余すこと無く獅子奮迅の猛襲だ 

次いで第二次発信部隊の攻撃は続く

この隊は手を変えて、艦爆隊には艦船攻撃、艦攻隊、戦闘機隊は対地攻撃、
この頃から敵の防御砲火は悉く熾烈なりとの報があった 

戦い終わって誇らしげな我が機の攻撃報告、周章狼狽のうちに
懸命に手配を命じている敵の平文電報が入り混じって
艦橋のテレトークは連続してくる快報で耳も裂けそうだ

艦橋に立つ司令官以下は緊張と愉快の連続に顔面が軒昂としていた

こちら側の記述ばかりになりましたが、肝心の「真珠湾体験」は、
藤田参謀が平文で聞き取った「これは演習ではない」などといった通信や、
警報音、爆音などが流れ、そうするうちに、しょぼい水しぶきが! 
多分薄々お気づきかと思いますが、これは日本軍の爆撃を意味しています。 

当時の軍用車がこのときのためにそこにあったことがわかりました。

子供たち「はえー」

攻撃が終わった後、アメリカ側にはこれだけの犠牲が・・・というシーン。
ちなみに、藤田参謀の日誌から日本側の犠牲について言及している部分です。

しかしこの大戦果の影には尊い犠牲もなかったわけではない
約30機の飛行機はこの大壮挙の犠牲として敵地上空に散華した
惜しんであまりあるが、栄光ある壮挙に加わって名誉の戦死を遂げたのだ
武人の本懐之に過ぎず、勇士たちに莞爾として冥するものである 

ふと気づくと、岸壁にこのとき使われた93式酸素魚雷が(嘘) 

「体験」とやらがあまりにもしょぼいので思わず目眩したわたしは、
この手のアメリカのアナウンスがあれこれとうざいことを言い出す前に
場所を移動することにしました。 

まあ、最後までいても知っていること以上のことはなにもなかったと思います。

さて、パールハーバーと言えば、「マサチューセッツ」の艦内には
「パールハーバールーム」というのがあって、若干の資料がありました。 

 真珠湾攻撃時のパールハーバーの艦艇の位置とか。
手前には「カッシン」「ペンシルバニア」、
画面右上にはあの「ウェストバージニア」「アリゾナ」の姿があります。 

パールハーバーの生存者協会なんてのがあるみたいですね。
今でも集まっては「リメンバー・パールハーバー」とかやってるんだろうか。 


USS「パールハーバー」 LSD-52

はまだ1998年に就役したばかりのドック型揚陸艦です。
冒頭写真のいかにもアメリカらしい怨みを忘れず、
さらに「フリーダムノットフリー」(自由は無償ではない)
というアメリカ人の好きそうなロゴをこれでもかとあしらったマーク、
わたしはてっきり戦時中に制作されたものだと思っていましたよ。

E PLURIBS UNUM(エ・プルリブス・ウヌム)

というのはラテン語で「多数から一つへ」という意味を持ち、つまり
「ユナイテッド」であるアメリカ合衆国を意味します。
この言葉はアメリカ合衆国の国章にも書かれています。

 

1941年以来、「パールハーバー」と名付けられたフネが一隻もなかった、
というのもなんだか不思議なのですが、それを20世紀も終わる頃、
わざわざ恨み骨髄忘れんぞみたいなマークをくっつけて作るかねえ・・・。

察するに、パールハーバーの生存者協会が、新しくできる揚陸艦に
このマークを否応なく押し付け、いや贈呈したみたいですね。



このマークに書かれた赤い飛行機は日本機、そして、
2403って・・・もしかして

真珠湾攻撃の犠牲者の数? 

現代に生きるアメリカ海軍の軍人さんたちにとっては、正直なところ
微妙なマークではないのかとわたしは考えるのですが・・。

だいたいほら、この揚陸艦、何があっても日本には持っていけないし、
同盟国海軍たる海上自衛隊と一緒に行動しにくくなるじゃない?