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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

"Give me a HUS"マリーン・ワン第1号〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-27 | 航空機

フライング・レザーネックの展示機を紹介してきましたが、
今日はその中の回転翼、ヘリコプターを取り上げます。

ヘリコプターという乗りものが軍事に導入されるようになったのは
第二次世界大戦後で、特にベトナム戦争では
ヘリコプターはその象徴のようになっていました。

年代の古い順に機体を紹介していくことにすると、
やはりこの機体からということになります。


■ シコルスキー HUS-1(UH-34D)シーホース


シーホース(タツノオトシゴ)というよりおにぎりだよなあ、
とわたしはいつもこれを見ると思うのですが、
独特な形をしているのでほぼ間違えようがないのはありがたいところです。



【攻撃ヘリコプターとは】

H-34は、1962年から海兵隊の突撃ヘリとしてベトナム戦争で活躍しました。
ほとんどのヘリと同じく、デビューは「ポストウォー」と言われる朝鮮戦争後です。

「突撃ヘリ」は英語だと「アサルト・ヘリコプター」となります。
「アタックヘリ」ということもありますが、そもそも
「攻撃ヘリコプター」とは何かということを考えてみましょう。

そもそもヘリコプターは、非常に特殊な飛行機械です。
飛行機と同じように、当初ヘリコプターはマルチロール機、
複数の役割を果たすように設計されました。

具体的には外部の荷物を運んだり、負傷者を避難させたり、
銃やミサイル、兵器を搭載したガンシップとして運用されたりといったところです。

しかし、「ガンシップヘリ」は「攻撃ヘリ」とは別物になり、
決してイコールではありません。

攻撃ヘリとは本来、戦闘機として設計されたものを言います。
低空を定速度で飛ぶという飛行特性を生かして、
歩兵、軍用車両、要塞などを主な目標とし、搭載される標準的な武装は、
機関銃、ロケット弾、対戦車ミサイルなどです。

現代の攻撃ヘリには、大まかに言って2つの主要な任務があります。
ひとつは、当たり前のようですが、敵の戦車や車両、地上施設を破壊すること
2つ目は、地上部隊のための近接航空支援を行うことです。

もちろん場合によっては、輸送ヘリの護衛を行うこともあります。

【戦闘ヘリの開発と歴史】

攻撃用ヘリコプターの歴史は、第二次世界大戦の初期、ロシアとアメリカが
低速の固定翼機を使って夜間のステルス攻撃を試みたことに遡ります。

もちろんのこと、この時はまだ回転翼ではないのですが、
攻撃用ヘリの運用を戦略と捉えた場合の歴史とお考えください。

有名なのは、アメリカの使用したパイパーJ-3カブを改造した機体です。



陸軍は有名な練習機L-4グラスホッパーを改造し、
バズーカのロケットランチャーを3〜4本、支柱に外付けし、
ドイツの戦車や大砲を見事にやっつけてしまったことがあります。




ロシア移民の技術者、イーゴリ・シコルスキはヘリコプターを設計し、
シコルスキーR-4を最初のモデルとして発表しました。


シコルスキーR-4は、世界初の量産ヘリコプターであり、
アメリカ空軍に就役した最初のヘリコプターでとなりました。

最初にアメリカ陸軍でヘリを実戦に運用したのは1944年5月のことです。
陸軍航空隊の司令官だったフィリップ・コクラン大佐は、このことを手紙に

「本日、'卵泡立て器(egg-beater)'が実戦任務に就き、
このいまいましいヤツは理性を持つかのように動いた。」


と書いて知らせています。
泡立て器・・・誰が上手いこと言えと。

陸軍はすぐにこのデザインの有用性を認め、戦闘用に改造し始めました。
ただし第二次戦時中に使用されたのはほんのわずかで、
その使用方法は、戦闘地域からの救助や避難にとどまりました。

1944年には戦闘飛行も行いましたが、これは攻撃ヘリと呼ぶものではありません。

ともあれR-4は成功し、第二次世界大戦後の技術開発に多大な影響を与えました。
滑走路を必要とせず、過酷な地形でも活動でき、
固定翼機では危険な場所でも低空でゆっくりと飛行することができ、
どこにでも着陸して、人員をせたり降ろしたりすることができます。

今では当たり前のこととして周知されているこれらヘリの実用性は、
他のどんな固定翼機にも持てない利点となりました。

1950年代がヘリコプターの全盛期となったのも当然のことだったでしょう。

朝鮮戦争やベトナム戦争を舞台にした映画や物語で、
ヘリコプターが出てこないものはないと100%断言できるくらいです。

その他、シコルスキーの設計で最も成功したものの1つがS-55です。
S-55はここにある海軍用のHUS-1シーホースになりました。
このほか、やはり海軍用にHSS-1シーバットというのもありました。
シーバットは赤いアンコウ科の魚です。

そして、陸軍と空軍用はH-19 チカソーとなりました。




■ シコルスキHRS-3(H-19)チカソーChickasaw

実はこのH-19の開発は、政府の支援を受けずに
シコルスキー社が個人的に始めたものでした。

なぜなら、このヘリコプターは当初、いくつかの斬新な設計コンセプトの
「テストベッド」(実験用機体)として設計されたからでした。
1年足らずでモックアップが設計・製作されています。

最初に納入したのはアメリカ空軍で、評価のために5機のYH-19を発注し、
プログラム開始から1年も経たない1949年に初飛行させ、
1950年には海軍に初号機が納入されています。

海兵隊に1号機が納入されたのは翌年の1951年でした。

朝鮮戦争では、全軍がH-19を貨物輸送、兵員輸送、死傷者の避難、
撃墜されたパイロットや航空機の回収などに使用しました。

H-19は、8人または10人の乗員、1,000ポンド以上の貨物、
または6台の担架を運ぶことができました。

また、エンジンを機首に搭載することで、船倉内のスペースを確保し、
メンテナンス時のエンジンへのアクセスを容易にしたのもユニークな点です。

海兵隊のHRS-1は、戦時中の2つの軍事作戦で重要な役割を果たしています。

まず、1951年9月のウィンドミルI作戦
HRS-1が74名の海兵隊員と18,848ポンドの装備を運搬した作戦で、
1953年のヘイリフトII作戦では、同じ部隊が
160万ポンドの貨物を輸送し、2つの連隊に補給を行いました。

ところで「ヘイリフト作戦」で検索しているとこんな映画を見つけました。


知っている俳優がひとりもいないという

ただし、こちらはネバダの旱魃に対処するため、空軍が出動して
上空から干し草を落として住民を救った、という実話をベースにしています。

米軍はなんでも「作戦」にしてしまいますが、
この作戦によって命を救われたのは、人ではなく牧場の牛と馬だった、
(まあ間接的に人命も救えた事になるわけですが)というストーリーです。
使用されているのはフェアチャイルド社のC-82のようです。


ヘリコプターは、負傷者を野戦病院に迅速に運ぶことができたため、
朝鮮戦争では死亡した負傷者の数を史上最少に抑えることができたと言われますが、
ヘリがもっと投入されたベトナム戦争でなぜ効果が取り沙汰されないかというと、
おそらヘリくらいでは『焼け石に水』状態だったってことなんでしょう。


H-19以降、ヘリコプターは現代の戦争には欠かせないものとなっていきます。

海兵隊はヘリコプターを突撃輸送機として使用する先駆者となり、
自ら編み出した垂直突撃包囲戦術を実践しました。

また海兵隊のヘリコプターは、敵陣の背後にある、
アクセスできない場所(たいていは山の上)に兵員を輸送しています。

しかし、朝鮮戦争でヘリコプターを使った攻撃が一貫して行われなかったため、
ヘリコプターは敵からの攻撃を受けるという経験をしないまま終戦を迎えます。

これは、ヘリコプターにとって不幸なことでした。

ヘリコプターは地上からの攻撃に弱い、という致命的な弱点に
誰も気づかずにベトナム戦争に投入されて、すぐにそれを敵に見抜かれ、
甚大な人的被害を被るという最悪の結果を招くことになったのです。

海兵隊は最終的に89機のHRS-3を購入していました。
これは海軍のより強力な、700馬力のライトR-1300-3を搭載していました。

【FLAMのHRSー3】

HRS-3のBuNo.130252は、1953年3月31日に
コネチカットのシコルスキー工場で海兵隊に受け入れられました。

HMR-162の "ゴールデンイーグルス "に譲渡され、
1953年8月19日にUSS 「バターン」(CVL-29)に搭載されて日本に到着し、
その後、改修されるまで日本に駐在していたそうです。

1957年1月4日には、MCASサンタアナのヘリコプター輸送部隊
「フライングタイガース」に送られました。

1958年2月ハードタック核実験作戦を支援するため、
USS「ボクサー」(CVS-21)に搭載されてビキニ環礁に向けて出発。

その後1964年10月には、MCAS岩国の海兵隊航空機整備隊17に所属。
1966年に空軍軍用機保管処分センターに移され、引退しました。

総飛行時間は3,608時間でした。


【ソ連の回転翼機】

ところでポストウォーの時代、それではソ連はどうしていたかというと、
やっぱりこちらも同様に、回転翼機の技術を開発していたのです。

最初に成功した輸送用ヘリコプターはMil Mi-4で、
シコルスキーとほぼ同様の性能を持っていたそうです。


ミル・ミィ4 気のせいかHUSにそっくり

すぐに武装したシコルスキーH-34ミルMi-4が戦闘行為を行います。

その後、次世代のヘリコプターが開発されるにつれ、
各モデルに武装オプションが追加されていきました。
ベトナム戦争におけるベルUH-1ヒューイミルMi-8のように。


本当の意味の攻撃ヘリは、ベトナム戦争の真っ最中に、
アメリカ陸軍の切実なニーズから生まれました。

基本的な設計要件は、輸送用ヘリよりも高速で機動性が高く、
かつ重装甲で火力が強いことです。

その要望に応え、ロッキード社の「AH-56シャイアン」始め、
シコルスキー、カマン、ベルからも続々と試作品が提出されました。

シャイアンは設計が複雑すぎて、予算もスケジュールも大幅にオーバーし、
採用に至ることはありませんでしたが、
代わりに出てきたHSS-1は、海軍の対潜戦用ヘリとして1952年に就役しました。


【H-34シーホース】

話をシコルスキーH-34に戻しましょう。

H-34はアメリカ海軍の対潜水艦戦(ASW)機として設計された
ピストンエンジン搭載のヘリコプターで、対潜哨戒機以外にも
実用機、捜索救難機、VIP輸送機などの役割を担いました。

輸送機としては12〜16人の兵員を、医療救護のためには
8つの担架を運ぶことができ、VIP輸送機としても乗り心地は良かったようです。

その後、UH-1ヒューイCH-46シーナイトなど、
タービンエンジンを搭載した機種に置き換えられていったので、
これがアメリカ海兵隊で運用された最後のピストンエンジン搭載機になりました。

H-34は1953年から1970年までに2,108機が製造されました。
シンプルであるがゆえに信頼性が高く、ベトナム戦争で
海兵隊員たちはこれを名指しで要求したとされます。

いかに彼らに必要とされていたかは、海兵隊独特のスラングとして、
同機がもう使われなくなって久しい現在でも、

"Give me a HUS!" 
"Get me a HUS!" 
"Cut me a HUS! "

というフレーズが、
「助けてくれ!」
という意味で使われていることからも窺い知れるというものです。

H-34は、最初に戦場に投入されたヘリコプター・ガンシップの一つでもあり、
M60C機関銃2挺とロケット弾ポッド2個からなる
TK-1(Temporary Kit-1)でゴリゴリに武装されていましたが、
「スティンガー」という武装したH-34は賛否両論あり、すぐに廃止されました。


【マリーン・ワン第1号機】

1957年9月7日、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、
ロードアイランド州ニューポートの別荘で休暇を過ごしていましたが、
ある出来事が起こり、ホワイトハウスで彼の身柄が早急に必要となりました。

そこで、マリーン・ヘリコプター・スクワッドロン・ワン(HMX-1)
バージル・D・オルソン大佐らは、HUS-1に乗ってナラガンセット湾を渡り、
待機しているエアフォース・ワンまで大統領を飛ばすよう命じられました。

これがアメリカ合衆国大統領がヘリコプターにより輸送された最初の出来事であり、
HMX-1は1962年にVH-3Aシーキングに切り替わるまで、
HUS-1で大統領を輸送し続けました。

ただしこの頃はまだ、大統領のヘリコプター輸送は
アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊の共同運行管理であったため、
この時期の専用ヘリコプターのコールサイン・名称には
「アーミー・ワン」が用いられていました。

現在の「マリーン・ワン」のコールサイン・名称となるのは、
運行管理がアメリカ海兵隊単独となった1976年以降のことになります。


「FLAMのシーホース」

UH-34D(BuNo 150219)は、1962年12月21日、
やはりコネチカットのシコルスキー工場で海兵隊に納入され、
HMM-364の「パープルフォックス」に配属されました。

1963年9月、HMM-364機として沖縄のMCAS普天間基地に配備されています。
1963年12月にはHMM-361の「フライング・タイガース」に移され、
ベトナム沖での戦闘活動のためにUSS「バレーフォージ」(LPH-8)に乗組。

その後USS 「イオージマ」(LPH-2)でベトナムでの戦闘活動を続けました。
1964年12月にはHMM-163「リッジランナー」に移され、
もういちどMCAS普天間に戻されました。

その後、日本のNAS厚木のデポでメンテナンスを受け、
1964年12月、「リッジランナー」とともに普天間基地に戻り、
ベトナムのダナンに派遣され、HMM-162(ゴールデンイーグルス)
HMM-365(ブルーナイツ)、HMM-161(グレイホーク)と一緒に活動しました。

何度もNAS厚木での整備期間を経て、1968年5月、
ベトナムのフーバイが最後の戦闘任務となりました。

帰国してからはサンフランシスコのアラメダ基地の倉庫にいましたが、
1972年2月に退役しました。

当機は6年半の間に12の飛行隊で合計4,124時間飛行し、
その生涯のほとんどが戦闘状態にありました。



続く。



アドバーザリー部隊のアグレッサーF/A-18A ホーネット〜フライング・レザーネック博物館

2021-12-18 | 航空機

フライング・レザーネック航空博物館は、現在アクティブではありませんが、
スタッフは常にすでにここにある航空機を次世代に残すべく、
様々な広報活動や資金集めなどを積極的に行っているようです。

わたしがたまたまHPを見に行った日に、その前日の投稿として、
ポッドキャストによる航空機の説明を行った、という記事があり、
運営する予算が引っ張ってこれずに閉館していく航空博物館の例を
いくつか見てきた経験から、なぜかほっと胸を撫で下ろしました。



展示ヤードを歩いていて初めて気がついた
当博物館の大きな看板。
描かれているのはA-4MスカイホークIIに違いありません。
(尾翼にそう書いてあるのでさすがのわたしも間違えようがないという)

さて、今日取り上げるのは冒頭の赤い星のついた機体です。
赤い星・・・ってことはあちらのもの?と思ってしまいがちですが、
機体を見て機種を見分けられる方は、この飛行機が外でもない
アメリカ産の戦闘機であることがおわかりでしょう。

そう、これは「アグレッサー」機なのです。

■ マクドネル・ダグラス
F/A-18A Hornet – VMFAT-101:

マクドネル・ダグラス社のF/A-18ホーネットは、
双発、超音速、全天候型、空母対応のマルチロールコンバットジェットで、
戦闘機と攻撃機の両方として設計されています。

名称のF/Aは、ファイターとアタックのFとAという意味です。

マクドネル・ダグラス(現ボーイング)とノースロップ
(現ノースロップ・グラマン)によって設計され、
アメリカ海軍および海兵隊で使用されています。

何カ国かの外国の空軍でも使用されており、かつては
アメリカ海軍のブルーエンジェルスでも使用されていました。


F/A-18は、汎用性が高く、戦闘機の護衛、艦隊防空、
敵防空の制圧、航空阻止、近接航空支援、空中偵察を行うことができます。


【F/A-18ホーネットの誕生まで】

アメリカ海軍は、A-4スカイホーク、A-7コルセアII、
F-4ファントムII
の後継機として、プログラムを開始しました。


空軍でテスト中のYF16とYF-17

1973年、米国議会は、海軍にF-14に代わる低コストの航空機の開発を要求し、
その後行われたコンペでGMのYF-16ファルコンが優勝したのですが、
海軍は空母運用における適性を理由に採用を拒否しました。

そして、コンペで選ばれなかったノースロップのYF-17コブラを採用し、
マクドネル・ダグラスとノースロップに
これを叩き台にした新しい航空機の開発を依頼したのでした。

海軍長官はF-18の名称を「ホーネット」とすることを発表します。

F-18の製作にあたっては、両社は部品製造を均等に分担し、
最終的な組み立てはマクドネル・ダグラス社が行うことで合意しました。
具体的にはマクドネル・ダグラス社は主翼、スタビライザー、前部胴体を、
ノースロップ社は中央部と後部胴体、垂直安定板を担当します。

また、海軍用はマクドネル・ダグラス、陸軍用はノースロップと分担されました。



F-18はYF-17から大幅に改良されました。

空母運用のために、機体、足回り、テールフックが強化され、
折り畳み式の主翼とカタパルトアタッチメントが追加され、
ランディングギアが広げらると言った具合に。

また、海軍での運用に必要な航続距離を確保するために、
マクドネル社は背骨を大きくし、両翼に燃料タンクを追加。

主翼とスタビレーターは大型化され、後部胴体は10センチほど拡大され、
また、制御システムは、量産戦闘機では初となる
完全デジタルのフライ・バイ・ワイヤ・システムに変更されました。


1978年10月、初の試作機F-18A


ここまで一緒にやってきたマクドネル・ダグラスとノースロップですが、
そのパートナーシップは、ここにいたっていきなり悪化することになります。

まずノースロップが、F-18L用に開発した技術を、マクドネルが
契約に反してF/A-18の海外販売に使用しているとして訴訟を起こし、
マクドネルも、ノ社がF-20タイガーシャークにF/A-18の技術を使用した、

と反訴して、一時は泥沼状態になりかかったのです。

最終的に、マクドネル・ダグラスを主契約者とし、
ノースロップを主下請けとすることで合意が結ばれ、
F/A-18Aの最初の生産機は1980年4月12日に飛行することができました。

【改良と設計変更】

F/A-18E/Fスーパーホーネットの開発計画は、1990年代になって、老朽化した
A-6イントルーダーA-7コルセアIIの後継機の必要から生まれました。

スーパーホーネットはF/A-18ホーネットの単なるアップグレードではなく、
ホーネットの設計思想を用いた新しい大型機体となりました。

ホーネットとスーパーホーネットは、
F-35CライトニングIIに完全に置き換わるまでの間、
アメリカ海軍の空母艦隊で補完的な役割を果たす予定です。


F/A-18Cホーネット
高い迎え角のため、前縁の延長線上に渦が発生している

【運用履歴】

マクドネル・ダグラス社が1978年に発表したF/A-18Aの初号機は、
カラーは青と白で、左に「Navy」、右に「Marines」と記されていました。

その理由は、海軍がF/A-18運用にあたり、伝統にとらわれない
「プリンシパルサイト・コンセプト」(Principalsite consept)
を提唱したからで、その結果、開発初期には民間人ではなく
海軍と海兵隊のテストパイロットを起用
することになりました。

このことが異例ということすら知らなかったわたしですが、要は
海軍パイロットに「最初の操縦」をさせるのが目的だったのでしょうか。


1985年、新しい機体の初の配備はUSS「コンステレーション」となりました。
当初の報告では、ホーネットの信頼性は非常に高く、
前任のF-4Jから大きく変化したと激賞されました。

【ブルーエンジェルス】



アメリカ海軍のブルーエンジェルス飛行デモンストレーション飛行隊は、
1986年にA-4スカイホークからF/A-18ホーネットに切り替えました。

その後、2020年後半にF/A-18E/Fスーパーホーネットに移行するまで、
F/A-18モデルでパフォーマンスを行っていました。

わたしはアメリカ在住中、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ公園で
ブルーエンジェルスのパフォーマンスを見たことがあるのですが、
今にして思えば、そのときの機体はホーネットであったことになります。


【実戦】

F/A-18が初めて戦闘に参加したのは1986年4月のことです。

USS「コーラルシー」艦載のホーネット部隊が
「プレーリーファイア作戦」(Operation Prairie Fire)でリビアの防空を、
「エルドラドキャニオン作戦」(Operation El Dorado Canyon)
でベンガジを攻撃したときになります。

湾岸戦争では、海軍は106機、海兵隊は84機のF/A-18ホーネットを配備し、
 F/A-18のパイロットはMiG-21の2機撃墜を主張しました。


「砂漠の砂嵐作戦」におけるフォックス大佐
一回のドッグファイトで2機をほぼ同時に撃墜したとの本人談


この戦争では、両エンジンに被弾した一機のホーネットが、
約200km飛行して基地に帰還するという出来事があり
生存能力の高さが証明されました。

しかも、その機体は数日後には修理され、再び任務に戻っています。

F/A-18は4,551回出撃し、3機の損失を含む10機が損害を受けていますが、
はっきりと敵の攻撃で失われたのは1機だけでした。

その1機はイラク空軍の航空機のミサイルによって撃墜されたらしく、
おそらく相手はMiG-25であったとされています。

また、2発の敵ミサイルを回避しようとした際に、
パトリオットミサイルによるフレンドリーファイアで誤って撃墜され、
墜落したところ友軍機と衝突し、2機とも失われたという例もあります。


【今後の運用】

海兵隊では2030年代までF/A-18を運用する予定ですが、
米海軍では、USS「カールビンソン」に搭載されたのを最後の運用として、
2018年3月12日にすでに終了しています。
その後、2019年2月、海軍の現役から退役しました。


■アグレッサー飛行隊

さて、それではここFLAMに展示されたホーネット、
アグレッサー塗装のF/A-18Aについてお話します。

その前に今更ですが、アグレッサー部隊についてお話ししておきます。


アグレッサー機-迷彩のスキームはソ連のマーキングを模している

アグレッサー中隊、またはアドバーザリー中隊は、
アメリカ海軍と海兵隊に存在する部隊で、軍事ウォーゲーム、模擬戦で
敵対勢力として行動するよう訓練された中隊を指します。

正規の部隊の中で「適役」のふりをするのではなく、塗装も完璧に、
尾翼には赤い星までつけてマジで敵になりきった部隊を作るわけです。

アグレッサー飛行隊は、情報によって得た敵の戦術、技術、手順を使用して、
リアルな空戦のシミュレーションを行いますが、
さすがに実際の敵機や装備を使用することは現実的ではないため、
潜在的な敵を模したサロゲート機で気分を出すわけです。

アグレッサー部隊というと、「トップガン」を思い出す方もいるでしょう。

1968年に海軍戦闘機兵器学校、通称「TOPGUN」が、
A-4スカイホークを使ってMiG-17の性能をシミュレートしたのが、
異種機を正式に訓練に使用した最初の例です。

この異種空戦訓練(DACT)が一定の成功を見たので、
空軍も負けじとT-38タロンを装備した初のアグレッサー飛行隊を設立しました。


【ドイツのアグレッサー部隊”ロザリウスのサーカス”】

いきなり話が遡りますが、第二次世界大戦時代は、
鹵獲した敵航空機を使ってこの手の模擬空戦が行われました。

たとえばドイツ軍には、捕獲したP-51やP-47などで構成された
「Zirkus Rosarius 」(ロザリウスのサーカス)と呼ばれる部隊がありました。


なんたる違和感

サンダーボルトもこの有様

これは発案者のテオドア・ロザリウスという人の名を取っており、
鹵獲した米軍機にはルフトバッフェの塗装を施されていました。
この部隊はこの飛行機を各戦闘機基地に持ち回り、
上級パイロットに敵機を操縦させたり、模擬空戦を行ったりしていました。

ロザリウスのサーカス所属機一覧

イギリス王立空軍RAFでも、ドイツ空軍の戦闘機(Bf-109、FW-190)を
アメリカ空軍やRAFの基地に連れて行き、慣熟訓練を行った例があります。

【アメリカのアグレッサー飛行隊】

アメリカのアグレッサー飛行隊は、仮想敵国機を表現するために、
小型で低翼の戦闘機を飛行させることになっています。

アグレッサー機になったのは、ダグラスのA-4(米海軍)、
ノースロップF-5(米海軍、海兵隊、空軍)

すぐに入手できるT-38タロンなどでしたが、
新型のF-5E/FタイガーII機が導入されるとこれに替わりました。

海軍と海兵隊は、最終的に、初期モデルのF/A-18A(米海軍)と、
特別に作られたF-16N(米海軍用)およびF-16Aモデル(空軍用)
アドバーザリー部隊を形成しました。

アメリカ空軍は現在F-16Cが唯一のアグレッサー専用機です。

【外国機アグレッサー】

第二次世界大戦時のように「鹵獲機」ではありませんが、
外国機がアメリカでアグレッサーとして使用されたことがあります。

イスラエルのKfir戦闘機、ソ連のMiG-17、21、23の実物です。

また陸軍は、Mi-24 Hinds、Mi-8 Hips、Mi-2 Hoplites、An-2 Coltsなど、
11機のソ連・ロシア製航空機を訓練のために運用しています。
ちなみにMiは全部ヘリコプターとなります。


【アグレッサーの性能】

アグレッサーとして使用される航空機は通常、旧式のジェット戦闘機ですが、
1980年代半ば、アメリカ海軍はトップガンのA-4やF-5では、
MiG-29やSu-27のシミュレーションには力不足だと考え、
アグレッサー機コンペを開催しました。

このコンペでノースロップのタイガーシャークに勝ったのが
ゼネラル・ダイナミクス社のF-16Cファルコンでした。

海軍仕様のF-16Nは1987年から海軍戦闘機兵器学校で使用されましたが、
空中戦での連続的な高G負荷のため、わずか数年で主翼に亀裂が発見され、
1994年にはF-16Nは完全に退役しています。


米国のアグレッサー機は、一般的にカラフルな迷彩スキームで塗装されており、
米国のほとんどの運用戦闘機で使用されているグレーとは対照的です。
青(スホーイ戦闘機に使用されているものと同じ)、または
緑と大部分が明るい茶色(中東諸国の戦闘機と同様)で構成されています。


アメリカのアグレッサー部隊はカラフルな集団です。

半世紀近くの歴史を持つこれらの部隊の航空機は、
空戦で直面する可能性のあるものも含めて、様々な迷彩をまとってきました。
海軍のアグレッサー部隊のひとつ、バージニア州のVFC-12「オマーズ」は、
近年、敵の最新の塗装を模倣することで先導的な役割を果たしています。


オマーズの「スプリンター」ホーネットの一つ
VFC-12のジェット機の多くは青と白のフランカー・スキームを採用していた

アグレッサー部隊はスーパーホーネットに移行中という話もありますが、
オマーズはいまだにレガシー機であるF/A-18 A-Cホーネットを使っており、
海軍予備軍のVFC-12飛行隊、VFA-204の「River Rattlers」、
米海軍テストパイロット学校(TPS)、海軍戦闘機兵器学校(トップガン)も
いまだにレガシー派です。

【航空自衛隊のアグレッサー部隊】

空自の戦術戦闘機訓練グループ、正確には飛行教導群は1981年に設立されました。

1981年に設立してすぐは攻撃機として三菱T-2を使用していましたが、
空中分解するなどの重大事故が発生したことから、
1990年からは三菱F-15J/DJ機に置き換えられました。
石川県の小松基地を拠点としています。

空自のアグレッサー部隊も、各基地を周り、2週間滞在して
そこで基地パイロットに「教導」を行うわけです。

F-15の精鋭部隊アグレッサー

独特の派手な塗装は識別塗装といい、一つとして同じものはありません。
しかし当たり前ですが、どんな塗装にも、翼には日の丸が描かれています。

「適役」なので、アグレッサー部隊のパイロットのフライトスーツにも
憎まれ役に相応しく、コブラやドクロ(額に赤い星)が描かれています。

ちなみに、連合国の「仮想的」になりがちなソ連空軍ですが、
当事者である彼らはアグレッサー機をどうしているのかというと、
F-15イーグルのように塗装されたMiG-29などを使っていたようです。


【民間のアグレッサー部隊】

アグレッサーミッションの中には、ドッグファイトなどではなく、
レーダーやミサイル、航空機の目標捕捉・追跡能力をテストするものがあります。

このような任務の一部は、元軍用ジェット機や小型ビジネスジェット機を
アグレッサーの役割で運用する民間企業に委託されており、
使用される機体は、

L39、アルファジェット、ホーカーハンター、サーブドラケン、
BD-5J、IAIクフィール、A-4スカイホーク、MiG-21、リアジェット

などとなります。

会社に所属するパイロットのほぼ全員が、退役軍人か、
予備役や空軍州兵などを兼務している軍人で、戦闘機の操縦経験があります。


【FLAMのF/A-18A ホーネット - VMFAT-101】

海兵隊戦闘機攻撃訓練飛行隊(VMFAT)101のペイントスキームを採用しています。

この部隊は現在、MCASミラマーを拠点としており、その任務は
F/A-18ホーネットの交換用エアクルー(RAC)を訓練することです。

44週間の訓練プログラムで、新人パイロットに様々な戦闘シナリオでの
F/A-18の使い方を教えますが、それは4つのフェーズに分かれています。

フェーズ1 "過渡期Transitionトランジション "
NATOPS(Naval Air Training and Operating Procedures Standardization)

航空機の戦闘システム、ナビゲーション、
夜間飛行、編隊飛行、基本的なレーダーインターセプトなど、
航空機の基本的な手順に焦点を当てています。

フェーズ2 "攻撃 Strike "

基本的な急降下爆撃、低高度戦術、高高度目標攻撃、
統合直接攻撃弾(JDAM)の使用、近接航空支援、暗視ゴーグル飛行など。
つまり、このフェーズでは、地上攻撃ミッションの方法を学びます。

フェーズ3 "空対空 Air to Air "

F/A-18での基本的な戦闘機操縦(BFM)でのドッグファイトの方法を学びます。

フェーズ4 "空母適性 Carrier Qualification "

空母着艦の練習をする、パイロットにとって最も厳しい期間です。
この段階での最終テストを終えたパイロットは、艦隊の飛行隊に配属されます。




このF/A-18Aは、1987年、MCASエルトロの
海兵隊打撃戦闘機群314飛行隊(VMFA-314)に初めて納入されました。
続いて海軍の打撃戦闘機群125(VFA-125)の「ラフレイダー」、
再び海兵隊に戻り、VMFA-531の「グレイ・ゴースト」に所属。

2005年に退役してこの博物館にやってきました。

続く。


垂直離着陸機とAV-8ハリアー〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-16 | 航空機

サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館に、
アメリカ軍塗装をしたこの機体を見つけ、ちょっとわたしは驚きました。

ホーカー-シドレー ハリアー AV-8 Harrier

今日はこのハリアーを中心に、VTOL機についてもお話しします。

■ 垂直離着陸機

何十年もの間、技術者たちはヘリコプターと飛行機の長所を組み合わせて、
ホバリングできる飛行機を作ろうとしてきました。
その結果、さまざまなタイプの垂直離着陸機が生まれ、
その中には成功したものもありました。


【飛行機がホバリングする仕組み】

飛行機とヘリコプターはどちらも素晴らしい性能を持っていますが、
どちらかにしかない能力があります。

ヘリコプターは垂直離着陸(VTOL)と空中でのホバリングができます。
つまり、空港から離れたほとんどの場所で活動できるのです。
飛行機は滑走路を必要とするため、それはできませんが、
ヘリコプターよりも荷物の積載力が高く、速度も比べ物になりません。

この2つのカテゴリーの能力を組み合わせた航空機。
遡れば少なくとも1950年代から、航空宇宙技術者たちは
この乗り物を生み出すためチャレンジしてきていますが、
今日まで、それを実現したものはほんの一握りしかありません。

まずは、飛行機が地面から垂直に離陸し、
空中でホバリングするために何が必要かを見てみましょう。
これまでに4機の飛行機がそれに成功していますが、
それぞれが異なる技術的問題に取り組んでいます。


【飛行機がホバリングする仕組み】

ホバリングを実現する技術は、実はとても複雑です。
飛行の定義では、固定された翼の上に空気が流れることで揚力が得られますが、
ホバリング中の飛行機には前進速度がないため、翼は揚力を得ることができません。

では、どうすれば飛行機をホバリングさせることができるのでしょうか?
設計者やメーカーは、何十年も前からさまざまな技術を試してきました。

その点、ヘリコプターは明らかにそれを解決していました。
ヘリコプターは、固定翼ではなく、回転するローターから揚力を得ることで
垂直離着陸(VTOL)と空中ホバリングを可能にしています。

しかし、ヘリコプターは先ほども書いたように、
多くの荷物を積むことはできませんし、速く飛ぶこともできません。
実際のところ、最新のヘリコプターの最高速度は200ノット程度が限界で、
戦闘機や迎撃機としては決して十分な速度とはいえません。


航空宇宙設計者たちの課題は、最新の戦闘機に匹敵する性能と速度を持ちながら、
垂直方向に離着陸できる実用性を備えた航空機をいかにして作るかでした。



【VTOL vs STOL vs CTOL】

これらの略語は航空機の着陸方法をいいます。
「TOL」というのは「 take-off and landing」離着陸ですから、
頭についている頭文字でその違いを表しています。

C(conventional)TOL - 従来の離着陸方法で、一般的な飛行機として機能する
S(Short)TOL - 短距離離着陸 一般的な飛行機よりもはるかに少ない滑走路で離着陸できる
V(Vertical)TOL - 垂直離着陸


【垂直上昇(バーチカル・リフト)を実現する方法】

飛行機(少なくとも飛行機のようなもの)をホバリングさせるために、
いくつかの方法が試みられてきました。

基本的な考え方は、エンジンの力を使って地面から垂直に離陸し、
安全な高度に達したら、エンジンで前方に推力を、翼で揚力を得る
方法です。
これにより、巡航飛行では飛行機の速度で飛行しながら、
垂直離着陸が可能になることでしょう。


ライアン・エアクラフト社
「テールシッター」(tail-sitter)と呼ばれる実験を行いました。
飛行機が垂直に座ったような位置から(テイルシット)離陸するもので、
パイロットは出発前、ロケットのように空に向いて座っていました。

ライアン社もテールシッターも今はもうありません。


エドワーズ空軍基地で飛行中(離陸直後?)のライアンX13

垂直方向の揚力を得るためのより良い方法は、
エンジンの排気と推力を制御可能な方法で排出することでした。
エンジンがフルパワーで作動し、機体の全重量を上回る推力を発生させれば、
それだけで離陸できるはずです。


この方法の問題点は、作るのにお金がかかることと、
そしてなんと言っても飛ばすのが難しいことです。
しかし、これまでに成功した「ジャンプ・ジェット」もないわけではありません。

現代のジャンプジェット(ハリアーのことをジャンプジェットという)は、
ジェット機に垂直方向のリフティングファンをつけて、
推力を下に向けたもの
というのが基準となっています。

ダクト付きの排気装置と組み合わせることで、
地上から離陸するために必要な揚力を、少し簡略化した形で得ることができます。

エンジン全体が回転し、離着陸時には垂直になるような設計もあります。
通常の飛行を行う際には、エンジンは水平方向に回転します。


■ 垂直離着陸を成し遂げた4つの飛行機

このような技術的な偉業を成し遂げた飛行機の例をいくつか見てみましょう。

【ベル・ボーイングV-22オスプレイ(Bell Boeing V-22 Osprey)】



我々日本人にはすっかりおなじみ、オスプレイ。

最近とんと活動の噂を聞きませんが、オスプレイに親でも殺されたのか、
「あちら側」の人たちはさかんにオスプレイを悪者にしております。

どうしてそんなにオスプレイを嫌うのか。というと、
やっぱりこれはどう考えても日本の敵にとっての脅威なんでしょう。
特に空母運用できるというあたりが、嫌なんでしょうね。

まあ、某党首のように、オスプレイ嫌いすぎて、ヘリコプターなら何でも
オスプレイに見えて困っちゃう〜な人もいるみたいですが。


さて、飛行機を垂直に離陸させる一つの方法は、
エンジン全体を可動式にして、用途に応じて排出の向きを変えることです。
それを可能にしたのがV-22オスプレイのティルトローターです。
オスプレイは飛行機でもないし、ヘリコプターでもありません。

人類が自力で空を飛んで以来、多くの航空機が計画されてきましたが、
オスプレイは世界で初めて運用されたティルトローター機となります。

FAAは、この技術がいつか民間でも使用されることを想定して、
オスプレイのために新たに、
「パワードリフト」(powered lift)
という航空機のカテゴリーを設けました。

わたしは初めて知ったような気がしますが、というのも
今のところオスプレイはオスプレイとしか呼ばれていないからでしょう。

そのうち民間にパワードリフトというジャンルの別の乗り物が現れるのでしょうか。


しかしながら、これが残念ながら反対派の攻撃理由ともなっていたわけですが、
1989年に初飛行したオスプレイは、技術的・設計的な問題が多く、
ようやく運用が開始されたのは2007年のことでした。

ヘリコプターのVTOL性能、そして
強力なターボプロップ機の巡航速度性能を両立させたオスプレイは
現在までに約400機が納入されており、
アメリカ海兵隊、空軍、海軍が運用してきました。

そしていつの間にかさりげなく陸上自衛隊でも運用されています。

陸自V-22(オスプレイ)の教育訓練の状況

アメリカ軍の軍人さんに教育訓練を受けています。
それにしても、不思議なのは陸自なのになぜにこの色・・。

アメリカ海軍は現在、CMV-22Bを空母で運用することを計画しています。
オスプレイの航続距離は約1550km、飛行速度は約300ノットです。
後部ランプ(ドア)は飛行中に開くことができ、懸垂下降や吊り上げが可能です。


現在開発中の最新型ティルトローターはベルBell V-280 ヴァローValorで、
米国陸軍の攻撃ヘリの後継機として設計が進んでいます。

【ヤコブレフYakovlev Yak-38フォージャー Forger】



ソ連がハリアーに対抗するために作ったのがYakovlev Yak-38です。
1971年に初飛行、1976年に就役し、その後は引退してしまいました。

これは、より性能の高いYak-41の前身であり、
タイミングが悪くキャンセルされたものの、より優れた設計と言われています。


231機が製造され、ソビエト海軍のキエフ級航空母艦に搭載されて
1991年まで使用されていました。

YAK-38のデザインはハリアーによく似ていますが、
機体の運用理論は大きく異なっています。

ハリアーはひとつのエンジンに4つの独立した推力偏向ノズルを備えてますが、

(シーハリアーの排気ノズル。
後方 (0°) から真下 (90°) を超えて斜め前方にまで角度変更が可能)

これに対し、Yakでは1つの大きなメインエンジンと、
離着陸専用に垂直に取り付けられた2つの小さなエンジンを使用しています。


【ロッキード・マーチン F 35B 22ライトニングII22】



「ジョイント・ストライク・ファイター Joint Strike Fighter Program」
統合打撃戦投機計画」

は、アメリカ、イギリス、カナダその他同盟国における
戦闘機を置き換えるための最新の開発取得計画です。

その計画の一環として、STOVLのバリエーションが設計されました。
STOVLとは、short takeoff/vertical landing、つまり
短距離離陸(STO)と垂直着陸(VL)を組み合わせた
垂直/短距離離着陸機という意味です。

F-35Bは、ベクターノズルを備えたシングルタービンエンジンと、
離着陸時に揚力を得るためのパワードファンを搭載しています。

F-35BのV/STOLシステムに使われた技術の多くは、
ロッキード・コーポレーションとヤコブレフ社の提携によるものです。
後にキャンセルされたYak-41となる実験機Yak-141に搭載されたシステムが、
F-35Bへの道を切り開いたということができます。

F-35プログラムは、各兵科のニーズに合わせてカスタマイズされた
各種バージョンが用意されていることから、
「ジョイントストライク・ファイター」と呼ばれています。
その中でV/STOL機能を持っているのはF-35Bだけとなります。
以下の通り。

F-35A - 空軍の通常離着陸型戦闘機/迎撃機
F-35B - V/STOLバージョン(海兵隊用)
F-35C - 海軍用の空母艦載型戦闘機



【ボーイング Harrier ハリアー】


BAe Harrier GR9


ハリアーシリーズは、前述の通り通称「ジャンプジェット」と呼ばれる航空機です。

この分野におけるハリアーの存在を過小評価するのは簡単ですが、
もしハリアーがなかったら、後続の航空機は存在しなかったとも考えられます。

航空史上、技術者たちが考え出した大胆で一見無謀な発明の中で、
ハリアーは最も現実にその足跡を残したとも言えるのです。

ハリアーは1969年の初就役以来、現在でもアメリカ海兵隊や、
海外の一部などで限定的に運用されています。
しかし、主要な使用者である英国空軍と英国海軍は、
老朽化したハリアーをすでに退役させています。

1966年、イギリスで誕生したハリアーは、ヘリコプターのように
垂直に着地・離陸できるという特性から、海兵隊に注目されました。

前線近くの仮設飛行場や小型甲板の水陸両用強襲揚陸艦という
海兵隊ならではの運用に最適と考えられたからです。

ハリアーの運用は、海兵隊地上部隊の迅速な近接航空支援を可能にし、
ホーマー・ヒル海兵隊少将は次のようにハリアーを絶賛しました。

「ヘリコプターのように簡単に配備でき、
通常の攻撃機のようなパンチ力を持つ航空機は、
軍事航空に大きな影響を与えるだろう」

海兵隊は102機のAV-8Aハリアーと8機の訓練機(TAV-8A)を発注しました。
機体は基本的に英国空軍のハリアーと同じ、
アビオニクス、飛行制御、武器システムはアメリカ製でした。

【ハリアーの飛行システム】

ハリアーの飛行は他のジェット機とは異なり、繰り返しますが、
「ベクトード・スラスト」Vectored Thrust=推力偏向
という概念を採用しています。



タービンのバイパスエアは翼根にある2対のノズルのうちの1つに送られ、
ジェットの排気は2つ目のノズルから送られます。
ノズルは縦軸に沿って一体的に回転させることができ、
前方飛行のためには真後ろから、ホバリングのためには
真下より少し前まで回転させることができます。

ノズルの位置は、スロットルの近くにある1本のレバーで操作を行います。
エレベーターやラダーが使えないほど速度が遅いホバリングモードでは、
リアクションコントロールシステムが働き、
翼端、機首、尾翼の「パファー」または「パフパイプ」と呼ばれる排気ダクトに
高圧のブリードエアを送ることができるのです。

操縦桿を前に動かすと、尾翼の下にあるパファーが空気を放出して機首が下がり、
後ろに引くと、機首の下にあるパファーが空気を放出して機首が上がります。

同様に、操縦桿を左右に動かすと、翼端のパファーが作動して飛行機がロールし、
ラダーペダルで操作する尾翼のパファーが空気を横に吹き出して
 "ヨー "をコントロールします。

【ハリアーII】


ジェット機の底面図
武器を搭載するための多数の翼下パイロンが見える
胴体下面には2本のフェンスが配置されている
AV-8BハリアーIIの胴体下面


AV-8BハリアーIIは、ホーカー・シドレー・ハリアーの
基本的なレイアウトを踏襲した亜音速の攻撃機です。

ロールスロイス社製ペガサス・ターボファンエンジンを1基搭載しており、
タービンの近くに2つの吸気口と4つの同期式ベクタブルノズルを備えています。

胴体の下側には、マクドネル・ダグラス社が開発した揚力向上装置があり、
地面に近づいたときに反射するエンジンの排気をとらえ、
最大で1,200ポンド(544kg)相当の揚力を得ることができます。


初代ハリアーと比較すると、ハリアーIIの操縦については
パイロットの負担が大幅に軽減されました。
技術革新による安定性の向上で、基本的に操縦しやすくなったのです。

安全面においても、「UPC/Stencel 10Bゼロゼロ射出座席」の搭載により、
パイロットはに静止した航空機から高度ゼロで射出できるようになりました。

最も徹底的に再設計されたのは主翼で、技術者は
新しい一体型の超臨界主翼によって巡航性能を向上させることに成功しました。

積載量が増加し、 主翼はほとんど複合材でできているため、
AV-8Aの小型の主翼よりも150kgも軽くなりました。

ハリアーIIは、炭素繊維複合材を広範囲に採用した最初の戦闘機です。
機体構造の26%が複合材でできており、従来の金属構造に比べて
217kgもの軽量化を実現しています。


英国のハリアーは1982年のフォークランド諸島戦争で戦闘任務に就き、
42機が地上支援、防空、艦船攻撃、偵察に投入されました。

少なくとも20機のアルゼンチン航空機を空対空の損失なしに撃墜しています。

海兵隊の航空機が初めて戦場に出たのは、それから約20年後のことで、
砂漠の嵐作戦では、86機のハリアーが艦上と陸上の両方から戦闘任務に就き、
3,380回、4,038時間の出撃を行い、595万ポンド以上の武器を輸送しました。

また、1999年にNATOがコソボに対して行った持続的な航空作戦
「アライドフォース作戦」でも戦闘任務を遂行し、
現在も「テロとの戦い」の作戦支援のために飛行しています。

【ハリアーII誕生までの経緯】

1960年代後半から1970年代前半にかけて、第1世代のハリアーは
英国空軍と米国海兵隊に就役したものの、
航続距離と積載量がいまいちという評価がありました。

 この問題に対処するため、ホーカー・シドレーとマクドネル・ダグラスは
英米合同で1ハリアーの、より高性能なバージョンの共同開発を開始します。

初期の取り組みでは、ブリストル・シドレーがテストしていた
ペガサスエンジンの改良型、ペガサス15を搭載することになっていましたが、
強力になったただけに、エンジンの直径が2.75インチ(70mm)と、
大きすぎてハリアーに収まらなかったのでした。

おまけに、英国政府は1975年、国防費の減少、コストの上昇、
RAFの60機の必要数の不足を理由にプロジェクトから撤退してしまいます。
いろいろ言っていますが、要するにお金がなかったということです。

イギリスに辞められた後、アメリカはすっかりやる気をなくして、
単独での開発費を負担する気になれず、同年末にプロジェクトを終了しました。



おもしろいのがここからです。

国単位でのプロジェクトが終了したにもかかわらず、英米の2社は
ハリアーの強化に向けて異なる道を決して諦めなかったのでした。
国家予算の段階でストップがかかっても、現場の技術者たちは
英米ともに非常に諦めが悪かったということのようです。

ホーカー・シドレー社は、既存の運用機に後付け可能な新型の大型主翼に注力し、
マクドネル・ダグラス社は、米軍のニーズに応えるために、
その高価であまり野心的ではないプロジェクトを独自に進めていきます。

その結果、マクドネル・ダグラスはAV-16から得た知識を用いて、
AV-8Aハリアーを大幅に設計変更し、AV-8Bを開発させました。

AV-8Bは1981年に初飛行し、1985年には米海兵隊に就役しました。
その後、夜間攻撃機AV-8B(NA)、レーダー搭載型ハリアーIIプラスが誕生。

個人的に大変残念に思うのは、ハリアーIIIなる大型化された機種が
検討段階でポシャって
実現には至らなかったということです。

かたや英国はというと、1990年代にBAEシステムズ社がボーイングと合併し
共同でプログラムをサポートすることになりました。

最終的に2003年に終了した22年間の生産計画で、約340機が生産されました。


【アメリカ海兵隊での運用履歴】

AV-8Bは、1984年にアメリカ海兵隊運用評価テストを受けました。

4人のパイロットと整備・支援担当者が戦闘状態でテストを行い、
指定された航続距離と積載量の範囲内で、航続距離、目標物の捕捉、武器搭載、
敵の行動からの回避・生存などの任務遂行能力が評価されました。

テストでは他の近接支援機と連携して深層および近接航空支援任務を遂行し、
さらに戦場での妨害活動や武装偵察任務を行うことが求められました。

第2フェーズでは、戦闘機の護衛、戦闘空中哨戒、
甲板発射による迎撃任務が課せられ、設計上の欠点が指摘されたものの
のちに修正され、テストは成功したとみなされました。


AV-8Bは1990-91年の湾岸戦争でも活躍しました。
USS「ナッソー」や「タラワ」、そして陸上基地に配備された機体は、
当初は訓練や支援出撃、連合軍との共同訓練などを行っていました。

AV-8Bは「砂漠の嵐」作戦で当初は予備機となっていましたが、
イラク軍の製油所砲撃が起こり、あのOV-10ブロンコの前方航空管制官が
航空支援を要請してきたので、戦闘に投入されることになりました。

 翌日、米海兵隊のAV-8Bはクウェート南部のイラク軍陣地を攻撃。
戦争中、武力偵察を行い、連合軍と協力して目標を破壊しました。


「砂漠の盾」「砂漠の嵐」作戦において、86機のAV-8Bは
任務遂行率90%以上という実績を上げています。 

そのうち5機のAV-8Bが敵の地対空ミサイルによって失われ、
2人の米軍パイロットが死亡しました。
AV-8Bの消耗率は1,000回出撃するごとに1.5機でした。

後にノーマン・シュワルツコフ陸軍大将は、
F-117ナイトホーク、AH-64アパッチとともに、
この戦争で重要な役割を果たした7つの兵器のひとつにAV-8Bを挙げています。

戦後の1992年8月27日から2003年まで、米海兵隊のAV-8Bなどが
「サザンウォッチ作戦」を支援してイラクの空をパトロールしました。


1999年、AV-8Bは「アライドフォース」(同盟国軍)作戦における
NATOのユーゴスラビア空爆に参加。
12機のハリアーが戦闘に投入され、コソボで戦闘航空支援任務を遂行しました。

米海兵隊のAV-8Bは2001年からアフガニスタンで行われた
「不朽の自由作戦」に参加、4機のAV-8Bが攻撃任務を行いました。
また夜間戦闘機6機のナイトアタックAV-8Bが
主に夜間に攻撃などの任務とともに偵察任務を遂行しています。


イラク戦争開戦から1ヶ月後、
水陸両用強襲揚陸艦USS「バターン」上にホバリングする米海兵隊のAV-8B

2003年のイラク戦争では、主に米海兵隊の地上部隊を支援するために参加。
初動時には60機のAV-8BがUSS「ボノムリシャール」や「バターン」など
艦船に配備され、戦争中はそこから1,000回以上の出撃が行われました。

このとき、「ボノム・リシャール」からの1回の出撃で、ハリアーは
共和国軍の戦車大隊に大きなダメージを与えています。



ハリアーは高い評価を得ていたものの、なにしろ
1機あたりの滞空時間が15~20分程度と限られていたため、
米海兵隊内では6時間の滞空が可能で、重装備の近接航空支援能力を持つ
AC-130ガンシップの調達を求める声が上がっていました。


AV-8Bは、2012年に就航が予定されていたロッキード・マーチン社の
F-35ライトニングIIのF-35Bバージョンに置き換えられることになっていますが、
米海兵隊は2025年までハリアーを運用する予定です。


【FLAMのハリアーII】

1974年に就役し、海兵隊攻撃隊(VMA)513に所属したのち、
VMA-231装備として水陸両用攻撃艦「ナッソー」(LHA4)に配備されました。
その後、VMA513と水陸両用強襲揚陸艦「ガダルカナル」(LPH7)に。
水陸両用強襲揚陸艦タラワ(LHA 1)にも乗り組みました。

多くの一般市民がジェット機のホバリングを初めて目にしたのは、
1994年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガー
アクション・コメディの代表作である映画「トゥルー・ライズ」でした。
映画でアーノルドがAV-8Bハリアーを操縦してテロリストから娘を救出する姿が
描かれていたのを覚えておられる方もいるかもしれません。

ハリアーは何十年もの間、現役の戦闘機の中で
最も機動性の高い航空機の一つであり続けました。


続く。


「最後のガンファイター」F8Uクルセイダー〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-14 | 航空機

ヴォートF8Uクルセイダー(1962年にF-8と改称)は、
ヴォート社がアメリカ海軍および海兵隊のために製造した
単発の超音速空母艦載用ジェット機です。

先日、偵察バージョンのフォトクルセイダーについて取り上げました。
順序としてはこちらが先のはずですが、写真が先に出てきた関係で後になりました。



ヴォートF7Uカットラスの後継機、F-8は主にベトナム戦争で活躍しました。
銃を主武器とした最後のアメリカの戦闘機であり、
"The Last of the Gunfighters "とも呼ばれています。

ヴォートF8Uクルセイダーは、海軍および海兵隊で初めての超音速機であり、
水平飛行で時速1000マイルを超えることができる初めての戦闘機でした。

サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライング・レザーネックには、
基本的に海兵隊が運用していた航空機が展示されています。


■ リング-テムコ-ヴォート・エアロスペース
ヴォートF8U-2NE(F-8E、J)クルセイダー
Vought Crusader

製造会社のLing-Temco-Voughtは、かつてアメリカに存在した
巨大複合企業体(コングロマリット)の名称です。

1947年テキサス州で個人が起こした電気工事業、
リン・エレクトリック・カンパニーが販売戦略を成功させて巨大化し、
ミサイル製造で知られるテムコ・エアクラフトと合併し、
続いて敵対的買収によりチャンス・ヴォート航空宇宙を買収してできました。

手掛けた航空機は以下の通り。

LTV A-7 コルセアCorsair II
ヴォートVought YA-7F
LTV XC-142
LTV L450F
Vought Model 1600

LTVとはリン・テムコ・ヴォートから取られた社名です。
1999年に破産しましたが、この破産については
「アメリカ史上最も長く最も複雑な破産のひとつ」
と言われているそうです。

何があった。

【最後のガンファイター】

ヴォートF8Uクルセイダー(1962年にF-8と改称)は、
ヴォート社がアメリカ海軍および海兵隊のために製造した
単発・超音速の空母艦載用制空ジェット機です。

前にも書きましたが、あまり現場のパイロットに評判が芳しくなく、
「ガッツレス」(根性なしという意味)と呼ばれたこともある
同じヴォートF7Uカットラスの後継機として登場しました。

カットラスと違い、滅法出来がいいので、クルセイダーは文字通り
チャンス・ヴォート社の「十字軍」となった、などという
誰もそんなことは言っていない的洒落をつぶやいた記憶があります。

登場時期からして、F-8の主戦場は主にベトナムとなりました。

「最後のガンファイター」The Last of the Gunfighter
と言うネーミングの由来はというと、
クルセイダーは搭載銃を主要武器とした最後のアメリカの戦闘機であり、
それ以降は戦闘機はマルチロール機となっていくからです。

それではマルチロール機とはなんぞや、というと、英語では

MRCA(Multirole Combat Aircraft)

空対空戦闘、空爆、偵察、電子戦、防空など、
戦闘中にさまざまな役割を果たすことを目的とした戦闘機のことです。

「マルチロール」という言葉は、本来、

「ひとつの基本的な機体を複数の異なる役割に適応させ、
共通の機体を複数のタスクに使用することを目的として設計された航空機」


に与えられた名称で、目的はコスト削減にあります。

攻撃任務として、航空阻止、敵の防空阻止(SEAD)、近接航空支援(CAS)を
全てこなすことができ、さらに空中偵察、前方航空管制、
電子戦などの能力を持たせることによって莫大な節約ができます。

歴史的にはたまたま複数の役割をこなす機体はいくつかありましたが、
マルチロール機の定義に当てはまる一番古い機体はF-4ファントムであり、
この言葉が最初に使われたのは1968年の
「マルチロール戦闘機計画」からで、このプロジェクトは最終的に
F-15の派生型にまで発展しました。

「ラスト・ガンファイター」といいながら、クルセイダーの運用開始は1967年で、
マルチロールプロジェクトが緒についたのとほぼ同時期です。

航空機の発展が一筋ではなく多層的な流れの中にあったからといえましょう。


ちなみにジョニー・キャッシュの曲に「ラスト・ガンファイター・バラード」
という曲がありますが、こちらは西部の荒くれ者的な、
老いた元「デスペラード」を歌ったものだと思われます。

"The Last Gunfighter Ballad".. Johnny Cash and Cheyenne Bodie

つい全部見てしまった・・

クルセイダーは全部で1261機が製造されました。
F8Uクルセーダーは、海兵隊の戦闘機部隊で
ノースアメリカンFJフューリーに代わって使用された機体となります。


いかにも終戦直後っぽいデザインのFJフューリー

F8Uクルセイダーの特徴は、なんと言っても2ポジションの可変入射翼です。

これは、離着陸時に翼を胴体から7°回転させる仕組みで、
そうすることで離着艦の際の機首上げ角を抑えると言う効果があります。

当時主翼を油圧で上下に動かすことで迎角を調整できる唯一のシステムでした。

このシステムによって運用時の低速での安定性が大幅に向上します。
迎え角が大きくなると何がよくなるかというと、
前方視界を損なうことなく揚力を高めることができるのです。

これはチャンスボート社の前作F7Uカットラスの致命的な欠点だった、
視界不良を克服することから生まれた技術でした。



アメリカ海軍の最後の「新生産」クルセイダーは、
1961年6月末に初飛行したF8U 2NEでした。
それはまさにここフライング・レザーネックにある機体そのものです。



この機種は、ズーニーZUNIロケット弾


AGM-12ブルパップ空対地ミサイル

爆弾などを搭載するために、取り外し可能な2つの翼下パイロンを追加し、
攻撃機としての役割を強化しました。


このアップグレードには、全天候型運用のために改良された、
捜索および火器管制レーダーも含まれています。
F8U-2NEは全部で286機が製造された。

17の米海兵隊飛行隊がクルセーダーを使用し、
そのうち4つの飛行隊がベトナムで戦闘に参加しました。

装備した航空隊は、

USS「オリスカニー」(CVA-34)のVMF(AW)-212
「カウボーイズ」Cowboys

Active

VMF(AW)-232「デス・ラトラーズ」 Death Rattlers

Active
rattlerはガラガラなるもの(赤ちゃんのガラガラでもある)

VMF(AW)-235「デス・エンジェルス」 Death Angels

1943-1996

VMF(AW)-312 「チェッカーボーズ」 Checkerboards


などはダナンの陸上基地から任務を遂行しました。

クルセイダーは、1957年12月にVMF-122で海兵隊に初飛行しました。VMF(AW)-235は、1968年クルセイダーからF-4ファントムIIに移行しました。

クルセイダーはアメリカ海軍、海兵隊、フランス海軍でも使用され、
アメリカで最初に戦地に赴いた航空機の一つとなりました。


クルセイダーのベトナムにおける初空戦は1965年4月、
米海軍とベトナム人民空軍の間で行われました。

戦時中に失われたクルセイダーは約166機(なぜ『約』なのか謎)。
そのうち76機は事故によるものだったので、半数以上が戦没となります。

喪失機の中でも地対空ミサイルによる戦闘喪失は
MiGとのドッグファイトによる損失よりも多かったということですので、
戦闘能力は高かったと判断できると言って差し支えないでしょう。

搭載エンジンはプラット・アンド・ホイットニー社製のJ57-P-20A


全軸9段LP7段HPコンプレッサー、8本のフレームチューブキャニュラー燃焼器、
全軸1段HP2段LPタービンを備えたアフターバーナー式
(ジェットエンジンの排気に対してもう一度燃料を吹きつけて燃焼させ、
高推力を得るしくみ)ターボジェットエンジンです。

クルセイダーは、航続距離2.558km。
胴体下部に20mmのコルトMk12キャノンを4門搭載可能で、
胴体側面のY字型パイロンにはAIM-9サイドワインダー
ズーニーロケットを搭載するためのハードポイントが2つ、
翼下のパイロンにはLAU-10ロケットポッドを2基搭載できました。

ちなみに例のサイトによると、ベトナム戦争期間における
アメリカ軍のベスト戦闘機10の中に当然ですが入っています。
ちなみにその順位は、

1.スカイホーク Douglas A-4 Skyhawk 
2. コルセアLTV A-7 Corsair II 
3. ファントム2McDonnell Douglas F-4 Phantom II
4.サンダーチーフ Republic F-105 Thunderchief
5. クルセイダーVought F-8 Crusader
6. タイガー2Northrop F-5 Tiger II
7. Mikoyan-Gurevich MiG-15
8. Mikoyan-Gurevich MiG-17
9. Mikoyan-Gurevich MiG-19
10. Mikoyan-Gurevich MiG-21

評価の高い順番だとすれば、クルセイダーはちょうど中程となります。
まあ、前にも検証した通り、これはこのサイト主の個人の感想というものですが、
スカイホークがあの時代のナンバーワンという考え方にはわたしも賛成です。


【FLAMのクルセイダー】

海兵隊予備軍は1976年までクルセイダーを使用しました。
F-8E BuNo.150920は、1964年7月16日にアメリカ海軍に受け入れられ、
VF-201「ザ・ハンターズ」に納入されました。


1970-1999

1965年4月、USS「オリスカニー」 Oriskany (CVA-34)に搭載されて
ベトナムに向けて出航し、1965年12月にNASミラマーに帰還しました。

1966年5月には、VF-162と共に再び「オリスカニー」に搭載され、
ベトナムに派遣されました。

しかし、1966年8月2日、大規模な修理のために
日本の厚木基地に陸揚げされたことで、その活動は中断されます。

修理は1966年10月末に完了し、

厚木の戦闘作戦支援活動(COSA)に移され
新しい任務に就くことになりました。

1967年1月3日には、USS「タイコンデロガ」(CV-14)
「サタンの子猫」Satan's Kittensに代替機として送られ、
再びベトナム沖に出撃して北ベトナムとの戦闘任務に就きました。


1943-1978
(自衛隊の猫好き艦長が無理やり変更した某護衛艦のマークを思い出します)

1967年5月29日、「タイコンデロガ」が日本からサンディエゴに戻ってくると、
当機920は降ろされて、NARF(Naval Air Rework Facility)のある
ノースアイランドに移されます。

1967年10月には、ダラスのヴォート社の工場に戻され、
「J」バージョンにアップグレードされました。
改良の内容は、スラットとフラップのデフレクションを大きくして
翼の揚力を大幅に増加させることと、境界層制御システムの追加でした。

また、外部燃料タンク用の "ウェット "パイロン、
J57-P-20Aエンジン、AN/APQ-124レーダーも搭載されています。
このとき、合計136機の航空機がこの規格に基づいて改造されました。

1973年、VF-211の「ファイティング・チェックメイツ」とともにミラマーに帰還。
1975年、同隊がF-14Aトムキャットに移行したため、VF-191に戻されます。
同年、VF-191と共にUSS「オリスカニー」の最後のWESTPAC巡航に参加。

その1週間後、VF-191がF-4JファントムIIに移行したため、
デービス・モンサン基地の倉庫、通称骨董品置き場に飛ばされ
ゲートガードとして最後のご奉公をして引退しました。

この機体の塗装はVMF(AW)-321のチェッカーボーズの仕様が再現されています。


続く。



前方航空管制機  QV-10ブロンコ〜フライング・レザーネック航空博物館 (おまけあり)

2021-12-12 | 航空機

サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館には
ほとんどが有名でどこかで見たことのある航空機ばかりですが、
たまーに、ここにしかないようなレアな機体が展示されています。
そのひとつがこれ。

■ ノースアメリカン・ロックウェル
OV-10ブロンコ Bronco

そもそもノースアメリカン・ロックウェルという会社名を聞くのも初めてです><
前半はあのノースアメリカンで間違いありませんが、
後半のロックウェルというと、おそらく
ロックウェル・インターナショナルのことではないかと思われます。

OV-10ブロンコは、ここにあってそのフワフワした
パステル調のペイントである意味異質な外貌が目立っています。

運用は1969年から1995年の間で、デビュー時期を考えると
ベトナム戦争のために設計されたことは明らかです。
現地の説明には「ミッション」として、
「Light Armed Reconnaissance」(軽武装偵察)
とあります。

OV-10ブロンコは、対反乱戦に特化して設計されており、
ベトナムでの戦闘条件に最適の飛行機とされていました。

空軍と海兵隊は、武力偵察、ヘリコプターの護衛、近接航空支援、
前方航空管制、死傷者の救出、落下傘降下
などの任務に運用しました。

双発のプロペラ機で小型なので、位置づけは
ヘリコプターとジェット機の間のギャップを埋めるいいとこ取りの存在?

つまりどちらの役割も果たす、多機能性を備えた機体でした。

着陸が簡易なので、ヘリコプターのように遠隔地で複数の任務をこなす一方、
多種多様な武器や装備を搭載でき、活動場所を選ばない設計。

着陸が簡単な理由は、ジェット機とは異なり、
「ジョインテッドな」着陸装置を備えているためだと書いてあるのですが、
おそらくこれは固定式「引き込み式ではない」という意味でしょう。

格納式の膠着装置は、格納するための機構に重量がかかるうえ、
メインテナンスの作業も必要になってきます。

ときとして故障や出し忘れなどの操作ミスで事故となる可能性もあるため、
空気抵抗にある程度目を瞑るならば、固定式のギアの方が
軽量で頑丈で、荒れた土地や軟弱な土地でも
短時間で離着陸(STOL)することができるというメリットがあります。

その点ブロンコはスキッドを出しっぱなしのヘリに近いわけですが、
ヘリコプターよりも速く、ジェット機よりも小回りが効くと言う利点があります。


引き込み脚がないというだけでもメンテナンスは簡単になりますが、
特にブロンコの場合、メンテナンスそのものが驚くほど簡単です。

たとえば燃料など、なんなら自動車用でも機能するといいますし、
修理も普通のハンドツールでできてしまうというくらい単純なのだとか。

航空戦術に前方航空管制というものがあります。

Forward Air Control(FAC)は、戦線付近で行われる航空管制のことで、
近接航空支援や航空阻止など、戦術爆撃作戦の一環として用いられます。

【前方航空管制機としてのOV-10ブロンコ】

目的は攻撃機を適切に統制することで誤爆を防ぎ、
最前線で活動する味方地上部隊の安全を確保することです。

前線航空管制官が航空機に搭乗して活動するのですが、
ブロンコは、ベトナム戦争時代、前方航空管制機(FAC)用に設計された
最初の航空機であり、その開発の重要な一歩となりました。

ただし、一般的なFAC任務は、ほぼ非武装で敵の上空を低空飛行するため、
常に撃墜の危険性にさらされる任務であり、現実にベトナム戦争では
FAC任務による多数の犠牲者が出ており、多くの機体が失われました。


それでは具体的な前方航空管制機の任務について説明しておきます。

FACは地上攻撃機のために攻撃目標を見つけてマーキングし、
周辺の友軍と間違えず確実に攻撃するよう地上攻撃機を誘導します。
そのため前方航空管制官は、敵陣の上を低空でゆっくりと飛行します。

先ほど言ったように、この時が地上から攻撃され、
実際も犠牲を生むことになった、最大の危険な時間でした。


ブロンコ以前にFACと呼ばれる任務を行なったのは
セスナL-19バードドッグという民間機ベースの機体でしたが、
民間機であったため、武装も防御もありませんでした。

O-1バードドッグ

どう見てもセスナですが、ちゃんと陸軍マークが入っています。

こちらは一応全金属製にして安全性と防御に気を遣っています。
「バードドッグ」は「鳥撃ち猟の猟犬」の意味です。

戦後生まれて朝鮮戦争に投入され、FACと偵察に使われましたが、
エンジン出力が弱く武装が搭載できなかったうえ、
防弾装備が一切ないというご無体な仕様
だったため、
空軍178機、海兵隊7機、陸軍その他で284機、計469機もが喪失しました。

こういう機体ですから、おそらく失われた人命も多かったのではないでしょうか。

我が日本国でも陸自が使っていたこともあります。
こちらは連絡機程度の使用だったのと、
わずか22機ライセンス製産しただけだったので、
目立った事故は起こさず、喪失数の記録も残されていません。


ブロンコは、武器のハードポイント(牽引設備)を備えているだけでなく、
セルフシール式の燃料タンク、高視認性のキャノピーも備えていました。

多くのバリエーションを持ち、ドイツ、タイ、ベネズエラ、インドネシアなど、
輸出用としていくつかのバリエーションが生産されました。
これらの仕様はOV-10Aと同じです。

次にアメリカで作られたのが、ここに展示してあるOV-10Dでした。

OV-10Dは、チャフ対策と赤外線抑制機能を搭載し、
OV-10Aの敵対者や対空砲火に脆弱という弱点を改善することができました。

さらに、エンジンの大型化、機首の延長、暗視装置、
プロペラの大型化、カメラの搭載などが行われます。

ここにあるブロンコは、ペイントのせいかずいぶんのどかな雰囲気です。

軽とはいえ、武装ヘリとしては「これ大丈夫か」感がうっすら漂うのですが、
この下のサイトに見えるまだ現役らしい機体は、なぜか鉄十字をつけていたり、
現役のUSAF仕様だったりで、ずいぶん猛々しい面持ちです。



ところで偶然見つけたこのサイト、どういう人がやっているのか
なかなか面白いのでつい見入ってしまいました。
全くの寄り道ですが、先を急がないブログなので、ちょっと紹介しておきます。

記事の中では独自の視点で航空機を評価しています。


1.メッサーシュミット Messerschmitt Bf 109
2.フォッケウルフ Focke-Wulf Fw 190
3. ドルニエDornier Do 17
4. メッサーシュミットMesserschmitt Me 410
5. Messerschmitt Bf 110
6.ハインケル Heinkel He 162
7. Messerschmitt Me 262
8. Messerschmitt Me 163

まあ、これは順当というやつでしょう。
一番面白かったのが、


7. モラーヌ・ソルニエMorane-Saulnier M.S.406 フランス
6. ハインケルHeinkel He162 ドイツ
5.ラググ・トゥリー Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3 ソ連
4.メッサーシュミットコメット Messerschmitt Me 163 Komet ドイツ
3. メッサーシュミットMesserschmitt Me 210 ドイツ
2. ブリュースターBrewster F2A Buffalo アメリカ
1.ブラックバーン Blackburn Roc イギリス

やっぱりコメットと樽(ブリュースター)が入賞したか・・・。(納得感)

ちなみに、輝かしいワーストワンに選ばれたブラックバーンですが、
爆撃機や攻撃機を援護する艦隊防衛戦闘機として設計されたため、

4連装機銃塔をパイロットの後ろに設置し、
前部の銃を一切撤去した。

つい最近書いたばかりですが、前方が攻撃できないこの戦闘機、
このサイトでもそれが原因でワースト扱いされております。

おまけに速度が遅く、また機銃は
飛行機が直線的に飛行していないと正しく発射されない
という、前代未聞かつ不便なものになってしまったことが
史上最悪の戦闘機と呼ばれることになった原因、と厳しく断罪しています。

どんな素人でもこれくらいのことに気づきそうなものですが、
どうしてこんなものを導入してしまったのか、ロイヤルエアフォース。

というわけで、この機体、戦闘に参加することなく、第一線から退き、
曳航機や練習機に改造されたのですが、
セカンドラインとはいえ、戦闘群に配属された機体が、

1機撃墜を主張🎉

しており、さらにダンケルク脱出の際に
ノルウェー沖を飛行した機体もあったそうです。

よっぽど運のいいパイロットだったのか、というか
撃墜されたドイツ機はよっぽど運が悪かったんでしょう。


あと、わたしたち的に興味がある記事としては、

第二次世界大戦の優秀な日本の戦闘機

1.「 隼 」Nakajima Ki-43 Hayabusa
2.「九七式」 Nakajima Ki-27
3.「雷電」 Mitsubishi J2M
4. 「月光」 Nakajima J1N1 Gekko
5. 「秋水」 Mitsubishi J8M1
6. 「零戦」 Mitsubishi A6M “Zero”
7. 「疾風」Nakajima Ki-84
8. 「飛燕」Kawasaki Ki-61

はて、「秋水」って完成してましたっけね。
いったいどういう基準で「優秀」枠に選ばれたのか。

ちょっと説明文を見てみましょう。

「三菱J8M1は、日本海軍航空局と日本陸軍航空局の
共同プロジェクトとして開発された。
エンジンはヴァルターHWK509Aに若干の改良を加えたものを搭載していた。
三菱J8M1のもう一つの特徴は、その軽量な機体である。
400kgしかなく、驚くべきステルス性を発揮して任務を遂行することができた。

この未来的なグライダーの主柱は合板で作られており、
これがJ8M1という驚異的な機体の総重量の大幅な削減に貢献している。
垂直尾翼も同様の理由で木で作られている。
コックピットには防弾ガラスが採用された。
これは、J8M1をさらに軽量化するための工夫である。


また、燃料や弾薬の搭載量も少なくて済むように設計された。
J8M1は1944年から1945年の間に7機しか製造されず、
プロジェクトは正式に終了した。

しかし、J8M1にはMXY-9、MXY-8、Ku-13、Ki-13など、
少なくとも60種類の練習機が存在したのである。
これらの練習機は、前田、横須賀、横井などで開発された。
日本海軍航空隊は、この極めて獰猛な迎撃機を主に使用した

え・・・・?(思考停止状態)
そ、そうだったんですか?(特に最後の一文な)

同じサイトで秋水の兄弟分であるコメットがワースト7に入っているのに?
だいたい、秋水があるのになんで紫電改がないのとか、
素人にもちょっとこのセレクトは不思議だったりしますよね。

まあいいや。

とにかくこのサイト、そういう意味でも(どういう意味だ)おすすめです。
飛行機好きの方、怖いもの見たさじゃなくて時間潰しにぜひどうぞ。


【FLAMのOV-10ブロンコ】

フライング・レザーネックのOV-10(BuNo.155494)は、
1969年1月16日に海兵隊に受け入れられ、18機のうちの1機として、
海軍の軽攻撃飛行隊(VAL-4)に貸与されました。

この飛行隊は、河川の巡視船を支援するための監視および攻撃活動を行うとともに、シールズや米陸海軍と南ベトナムの統合作戦のための航空支援を行い、
HA(L)-3ヒューイの活動を補完することを目的として設立されました。

1972年4月、VAL-4は解散し、帰国しています。
1972年9月、当機は海兵隊に戻され、ペンドルトンのVMO-2に配属され、
その後アトランタの海兵隊予備軍に送られます。

1990年8月、VMO-2は「砂漠の盾」作戦を支援するため、
6台のOV-10をサウジアラビアに向けて10,000マイルの旅に送りました。
このことは航空界のニュースとして報じられました。

1991年1月から始まった「砂漠の嵐」作戦では、
合計286の戦闘任務、900飛行時間をこなしました。
任務は紛争期間中、24時間体制で行われ、主に米軍と連合軍の大砲、
多数の攻撃機、海軍の砲撃をコントロールすることに集中し、
USS「ウィスコンシン」が朝鮮戦争以来初めて戦闘射撃を行うことになり、
その際の「スポッティング」も行いました。

この飛行隊は、94回以上もイラクの地対空ミサイル砲手に狙われ、
高射砲の大規模な集中を避けようとしながらも、
これらの厳しい重要な任務を遂行しました。


1991年5月、494号機はVMO-2とVMO-1の他のOV-10と共に
USS「ジュノー」Juneau (LPD 10)に搭載されて、サンディエゴに帰港。

1993年5月20日、VMO-2は解隊され、その4日後には所属機は
MCAS エルトロのFlying Leatherneck Aviation Museumに送られました。


続く。




ジョン・グレン少佐の弾丸機 F8U-1Pフォトクルセイダー〜フライングレザーネック航空博物館

2021-12-10 | 航空機

フライング・レザーネック航空博物館の展示から、
朝鮮戦争以降、ベトナム戦争前の、いわゆる冷戦期に生まれた
航空機をご紹介します。

■  ヴォート F8U-1P (RF-8Z, G)クルセイダー  Crusader

ヴォート・クルセイダーについては、最初にアラメダ旧海軍基地の
USS「ホーネット」の甲板で見て以来、あちらこちらでお目にかかり、
その度ごとにお話ししてきています。

ここにあるクルセイダーは写真偵察隊の偵察機となります。

【 F8U-1Pクルセイダーの機体史】

F8U-1Pは、F8U-1戦闘機の非武装写真偵察バージョンです。
F8U-1PはF8U-1と異なり、前部胴体の下半分を四角くして、
3つの3次元地形カメラと、2つの垂直カメラを設置できるようにしてあります。



カメラ関係を搭載する関係で、内部の大砲、ロケットパック、
火器管制レーダーはすべて取り外されています。
ただし、防御のために、水平尾翼を縮小して速度を向上させています。

エンジンはF8U-1と同じ、プラットアンドホイットニーのJ57-P-4Aを搭載。
F8U-1Pの初号機は1956年12月17日に飛行しました。

【ジョン・グレン少佐の『弾丸プロジェクト』】


ジョン・ハーシェル・グレン少佐

1957年7月、カリフォルニアからニューヨークまで、
西海岸線から東海岸線までの速度記録を破る試みが計画されました。

海兵隊のジョン・H・グレン少佐(当時)が操縦するF8U-1Pが、
カメラを使ってルート上の地形を撮影しながらアメリカを横断するというもので、
この飛行は「プロジェクト・ブレット」と名付けられ、
AJ-2サベージの空中給油機が支援することになっていました。

わたしはエド・ハリス似のこの海兵隊パイロット、
後の宇宙飛行士、上院議員のライトなファンですので、
このときのプロジェクトについてもここでその経緯を書いておきます。


1950年代半ばから1960年代初めにかけて、航空・宇宙分野での
重要な成果は、大きなニュースとして扱われる傾向にありました。

1957年7月16日、ジョン・グレン上院議員(当時は海兵隊少佐)が
大陸横断航空速度の新記録を樹立し、国民的英雄となった時もそうでした。

この日、グレン少佐はF8U-1Pクルセイダー(BuNo.144608)で、
カリフォルニア州からニューヨーク州までノンストップで飛行し、
725.55mphの記録を達成しました。
飛行時間は3時間23分8.4秒で、それまでの記録保持者
(F-100Fスーパーセイバー)に15分の差をつけました。

1957年には、合計4人のパイロットが大陸横断航空速度記録を更新しており、
ジョン・グレン少佐もその一人となったのです。

しかし、グレン少佐の記録達成は、決して宣伝のためのものではありません。
「プロジェクト・ブレット・フライト」(弾丸飛行計画)は、
「プラット・アンド・ホイットニー社のJ-57エンジンが、
戦闘出力、つまりアフターバーナーをフルに使っても
ダメージを受けないことを証明すること」が
目的でした。

飛行後、すぐさまプラット・アンド・ホイットニー社のエンジニアは
J-57を分解し、その検査結果に基づいて、
このエンジンは長時間の戦闘状態でも機能すると判断し、
その結果、J-57の出力制限はこの日から解除され、
実験はみごとな成果を得ることができたのでした。

宣伝や名声のためでなかったとはいえ、1957年7月16日、
グレン少佐は航空史にその名を刻むとともに、
米国の何千人もの若者にインスピレーションを与える存在となりました。

プロジェクト・ブレットにより、結果的にグレン少佐は
アメリカ最高のテストパイロットの一人としての名声を得たのです。
グレン少佐は5度目の殊勲十字章を授与され、その後まもなく、
NASAの第一期宇宙飛行士に選ばれたのは周知の通り。

つまり、この時の成功が、彼を宇宙飛行士にし、ひいては
上院議員としての地位を約束したということになります。

【失われたジョン・グレンのクルセイダー】

ジョン・グレンという人は航空史の中でも特別な存在で、
彼のような記録更新・樹立の機会に恵まれたパイロットは稀です。

しかし、そんなパイロットは、歴史に名を残すきっかけとなった航空機に
誰しも「特別な思い」を抱いていることは間違いないでしょう。

グレン少佐もおそらく。

ジョン・グレンが海兵隊飛行士として1957年の記録達成時に搭乗したあとの、
クルセイダーの歴史はこのようなものです。

グレン少佐の乗ったF8U-1Pクルセイダーは現役で使用するため
RF-8Gとして再指定されました。
そして、グレン少佐が建てた偉業を表す、小さな真鍮製の記念プレートが
機体の左舷に取り付けられたのです。

それから数年間、グレン(おそらく宇宙飛行士)のもとには、
この機体に乗った飛行士たちからのメモが届けられていました。
メモに書かれていたのは、おそらく、
「あなたが歴史的な飛行をしたクルセイダーに乗れて光栄です」
とか、そんな感じだったのでしょうか。

その後、ベトナム戦争が始まると、グレンはあのクルセイダーが
ベトナム上空で撃墜されたとか、また、インド洋での空母着艦の際に
損傷して横倒しになったなどという「噂」を耳にするようになりました。

ジョン・グレン少佐のクルセイダーに最後に搭乗したトム・スコット中佐は、
この歴史的な航空機の終焉について次のように語っています。

スコット中佐は、1972年、中尉として写真偵察隊に配備された頃、
空軍基地の航空機ボーンヤードからグレンのクルセイダーを入手し、
すぐに整備させて、現役復帰させ、
ここミラマー基地でこの機体を初飛行させたあと、
USS「オリスカニー」(CVA-34)に搭載させました。

USS「オリスカニー」がトンキン湾に到着し、作戦開始となったある日のこと。

スコット中尉は着艦を試みましたが、悪天候と荒れた海のために、
フライトデッキのアレスティングワイヤーに引っかけることができません。

飛行甲板が一定の周期で上下する中、スコットは2度目の着艦を試みました。
しかし、艦尾の上を通過したとき、艦のうねりが予想外に逆転し、
スコット機は飛行甲板の丸みを帯びた腹部に最初にぶつかり、
それから右メインランディングギアが引きちぎられました。

機体は跳ね上がって機首から落下し、再び空中に舞い上がると、
スコットは片手で操縦桿を握り、機体をコントロールしようとしました。

飛行タワーからの
「イジェクト!イジェクト!イジェクト!」
という声がヘルメットの中で鳴り響く中、
スコットはイジェクトハンドルを渾身の力で引きましたが、
最初はハンドルの抵抗に耐えられず、もう一度、力を込めてイジェクトを試み、
スコットはついにコックピットからの脱出に成功しました。

パラシュートが開き、スコット中尉の脳裏には
「運が良ければ甲板に着地できるかもしれない」
という考えが掠めましたが、同時に常識も働きました。

甲板に着地できなければ、他の甲板設備や飛行甲板上の
他のジェット機に衝突する可能性があることに。

スコット中尉はパラシュートを空母から遠ざけながら、
トンキン湾への着水に備えて浮力装置を膨らませました。
その後彼はコッチ(Koch)の金具から両手を離したため、
水中で顔を下にしてパラシュートに引っ張られた状態になってしまいました。

艦体に巻き込まれていくパラシュートから
必死でもがいて体を外すことができたスコットが上空を見ると、
艦の救助ヘリコプターが自分の救出にやってきていました。

ヘリはホバリングしてスコットの近くに救助隊員を降ろしました。
若くて泳ぎが得意そうな救難員はすぐにスコットのところにたどり着きましたが、
驚いたことに彼は浮き輪を持ってくるのを忘れていました。

後で聞いたら、彼が海上救助を行ったのはこの日が初めてで、
経験の浅さからすぐに疲労し、スコットにしがみついて浮いていました。
不幸なことですが、パイロット用のカポックでは
大人二人を水面に浮かせることはできません。

スコット中尉と救助者が、誰が誰を救助するか海上で話し合っている間、
ヘリコプターの乗員は乗員で、自分たちの問題に対面していました。

救難ヘリのパイロットと、ドアの前にいる
ホイスト・オペレーターとの間のインカムが機能しておらず、
パイロットは、操縦している機体をどうするのか、そもそも
要救助者がヘリに乗っているのかどうかさえわからない状態だったのです。

しかし、苦労の末に意思疎通してなんとか救助用ハーネスを降ろし、
スコットと救助員の上を何度か通り過ぎているうちに、
二人ともハーネスを掴んでヘリに吊り上げられたのでした。


スコットは、この歴史的な機体を失ったことを残念に思いましたが、
しかし、一方で機体と一緒に死なずに済んだことに感謝していました。

事故調査の結果、脱出時にイジェクションハンドルが引けなかったのは、
通常20ポンドの力で調整されているべきハンドルが、
「オリスカニー」の搭載したクルセイダーに限り、
100ポンドに誤って設定していたのではないかということがわかったのです。

ジョン・グレン少佐の記録を打ち立てたクルセイダーは失われましたが、
このインシデントが明らかになったことは
F-8に乗った他の飛行士にとっては幸運であり、
潜在的に何人かの命が救われたということもできるかもしれません。


【偵察型クルセイダーの活躍】

RF-8Aがその真価を発揮するのは、
1962年10月のキューバ・ミサイル危機の時でした。

フロリダを拠点とするVFP-62のRF-8Aは、
キューバ島に準備されていたソ連のミサイル基地の上空を繰り返し飛行し、
相手に対し、その存在を証明するとともに、
クルーの運用状況を監視することになっていました、

「ブルームーン」と名付けられたこの飛行作戦はは、10月23日に開始されました。
NASキーウェストから1日2回のフライトが行われ、
キューバ上空で低空高速ダッシュを行い、帰ってきます。

帰ってくるとすぐNASジャクソンビルに戻り、フィルムの現像を行います。
その後、セシル・フィールドに戻ってメンテナンスを行い、
キーウェストに戻って次のミッションに臨む、この繰り返しです。

VFP-62は、ブルームーンの厳しい飛行スケジュールをこなすための
十分なRF-8Aを持っていなかったため、
VMCJ-2を4機増強することを要求しました。

第2海兵隊航空団の司令官は、海軍に4機のRF-8Aを用意しましたが、
護衛に海兵隊員のパイロットをつけるようにと進言しています。

4機のVMCJ-2 RF-8Aは、キーウェストのVFP-62に合流する数日前に、
整備チームによって、画像の動きを補正する最新の
シカゴ・エアリアル製前方照射型パノラマカメラを新たに搭載しました。

キューバ・ミサイル危機で最も記憶に残る瞬間は、
10月25日に国連大使が、稼働中のミサイルサイト付近の低レベルの写真を
ソビエトや世界に向けてテレビで公開した時でしょう。

海兵隊パイロットのE.J.ラブ、ジョン・ハドソン、
ディック・コンウェイ、フレッド・キャロランの4人は、
海軍パイロットと同様に、その任務に対して殊勲十字章を授与されました。

【FLAMのクルセイダー】



F8U-1P BuNo.144617は、チャンス・ヴォート社が製造した
12機目のフォト・クルセイダーです。
1957年12月17日にテキサス州ダラスの工場で米海軍に受け入れられ、
ミラマー基地でVFP-61として引き渡されました。

1958年8月、VFP-61 DET Aと共にUSS「ミッドウェイ」  (CV-41)に搭載され、
クルセイダー最初の空母派遣に参加しました。
帰国後、工場に戻され、3ヶ月間のデポレベルのメンテナンスが行われました。

1959年10月、海兵隊に譲渡され、MCAS エル・トロのVMCJ-3となりました。
約1,100時間の飛行時間を経て、1965年11月、ダラスのヴォート社の工場に戻され、
「G」モデルに改造されました。
改造部分はエンジンで、その他、後期クルセイダーズの腹面フィンを装備し、
ナビゲーションや電子機器も改良されています。
さらに、ドロップタンク用の翼下ハードポイントや、
胴体の偵察ベイに取り付けられた4台のカメラを装備していました。

1966年4から4年半、海軍航空開発センターの
テストプロジェクト用追撃機として活躍し、
「ホークアイズ」での3年半の任期中には、
USS「ジョン・F・ケネディ」(CV-67)に配備されました。

1973年から、先ほどのグレン機と同じく、空軍で保管されていましたが、
やはり同じように、5年半後、倉庫から引き出され、
改修を行った後、USS「コンステレーション」 Constellation (CV-64)
USS「コーラル・シー」 Coral Sea (CV-43)に搭載され、
忙しい2年間を過ごしました。

その後、ワシントン基地の倉庫に戻されていましたが、1986年1月10日、
オハイオ州コロンバスの研究・試験・開発・評価プログラムによって
保管場所から引き出され、カリフォルニア州エドワーズ基地で行われた
X-31強化戦闘機操縦プログラムの飛行段階で追撃機(アグレッサー)
として使用するために、貸し出されました。

このプログラムは1992年に終了しました。
ここにあるのが、最後のフォトクルセイダーとなります。

続く。





T-34B メンター「師と仰ぐ訓練機」〜フライングレザーネック航空博物館

2021-11-30 | 航空機

サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館の航空展示、
朝鮮戦争でMiG−15と戦った、あるいは戦うために作られた戦闘機と、
そのMiG−15をご紹介してきました。

時代の流れに則するとなると、次はポスト朝鮮戦争と
冷戦時代ベトナム戦争までの期間になります。

■ ビーチクラフトT-34B メンターMentor



暑い夏のサンディエゴ、カンカン照りの展示場。
しかも平日にこんなところを見て歩く酔狂な人間はわたしだけだろうと思ったら、
ひとりの男性がヤードを歩いているのに遭遇しました。

こんなところに一人で来て、それもちゃんと一つ一つ説明を読みながら
くまなく飛行機を見て歩いている人ってなんなんだろう。
単なる趣味なのか、元関係者か、それとも・・・。

ときっと向こうもわたしを見てそう思っていたに違いありません。


あとは、わたしとその男性ほど長時間ではなく、
一瞬写真を撮るためのようでしたが、
ごらんのようなヒスパニック系の家族がいました。

遠目には赤ん坊はもちろんのこと、この年かさの方の男の子が
飛行機を見て喜んでいるようには見えなかったのですが、
まあ、親というのは、子供の興味を惹きそうなものならなんでも、
とりあえず見せておいてやらねば気が済まない生き物ですのでね。

そんな彼らがバックに撮っているのはその名もメンター
アメリカのドラマを見ていると、「師匠」「指導者」、あるいは
お手本にしている人という意味でメンターという言葉がよく出てきます。

このメンターは練習機で、パイロットにとっての
「良き指導者」という意味がこめられています。


T-34は、ビーチ・エアクラフトウォルター・ビーチが考案しました。
練習機として国防予算の対象となっていなかった時代、
ビーチクラフトは「ボナンザ」という民間タイプをすでに運行していました。

当時、米軍は陸海空全軍でノースアメリカンT-6/SNJテキサン
練習機にしていましたが、安くて使いやすかったテキサンに代わる
経済的な代替機として候補のひとつに上がったのが
ビーチクラフト・モデル45だったのです。

【軍用練習機として】

ボナンザを参考にしたとはいえ、軍用バージョンは民間用と大きく違います。
ループ、ダイブ、ストールといった軍の訓練に必要なストレスに耐えるよう、
本機は特別に構造設計され、そのための空力特性が考慮されました。

テキサンの代替として候補になった後二つの機種は、

テムコ・エアクラフト テムコ・プリーブ(Temco)Plebe

ノースアメリカン/ライアン・エアロノーティカル/タスコ
ライアン・ナヴィオン(Ryan Navion)


USS「レイテ」上のナヴィオン 1950年)

ナヴィオンは制式採用にはなりませんでしたが、
それなりに軍に納入する実績を挙げました。

ちなみに、戦争が終わったとき、ナヴィオンの会社は
戦地に行ったパイロットが帰国して、平和な飛行を楽しむために
小型飛行機を買ってくれるからうちの製品も売れるに違いない、
ととらぬ狸の皮算用をしていた節がありますが、
戦後の民間航空ブームは、メーカーが想定していたほどには起こりませんでした。



とはいえナヴィオンは1948年の初飛行に始まり、現在もアクティブです。
2020年になっても生産が続いており、素材や性能をアップデートしながら
新しい機種を生産し続けているのです。

そしてそれは誰にでも簡単に操縦できることで民間に広く流通しているのだとか。

しかし、もう一つの候補機、テムコのプリーブはメンターに負けた時点で
民間での販売も軌道に乗ることはありませんでした。

ここでふと思ったのですが、「プリーブ」の意味って、
兵学校の1年生(最下級生)じゃないですか。
パイロットが最初に乗る練習機だから、と、この名前になったのでしょうね。

しかし正直、練習機を「ひよっこ」ではなく「良き指導者」に見立てた
「メンター」の方が、ネーミングとしてはナイスセンスという気がします。

純粋に機能や使いやすさが選考の決め手になったのだとは思いますが、
もしどちらか迷ったら、名前がキャッチーなこともも選ぶ要素になってきますよね。
(ここ伏線ね)

ちなみにNavionという名前もおそらくナヴィゲーターから来ていて、
「導く者」というイメージだと思われます。
これもどちらかといえば指導者目線です。

【海軍のメンター】

資料によると、ナヴィオンはそれなりに軍に導入されましたが、
テキサンの後継として正式に訓練機に制定されたのはメンターでした。

ところで、当時アメリカ合衆国国防総省には(今はどうだか知りませんが)、
別の軍(今回は陸海空全軍)同士で同じ航空機を使用する場合、
研究開発費の分担を義務付ける規則がありました。

同じ機体なんだから、開発は予算を分け合って仲良くやってね、というわけです。

しかしながら、
スカンクワークスの生みの親、ケリー・ジョンソンいうところの、

「忌まわしく、自分たちが何を望んでいるのかすらわからず、
技術者が心臓を壊す前に、彼らを壁に追いつめる」ところの海軍

は、メンターは欲しいが、研究開発費はもっと欲しいと思っていました。
もっとというのは、つまり「独り占めしたい」ということでよろしいか。

(ジョンソン曰く)自分たちが何を望んでいるか分からなくても、
とりあえず欲しいものははっきりしていたようですね。

そこで海軍が取った解決策の1つは、航空機に十分な変更を加えることでした。
こうすると、海軍の開発した新型機として「分類」されます。

そこで海軍、

キャスター付きのノーズホイール
ノーズホイール操舵の代わりにデファレンシャルブレーキ採用
調整可能なラダーペダル(パイロットの身長差に対応)
垂直方向にしか調整できないシート
主翼の上反角(翼の基準面と水平面のなす角)を1度増やした
昇降力を高めるためのスプリングシステム

ラダー基部の小さなフィレットを削除
バッテリーシステムを変更
(そのためバッテリーコンパートメントのドアが膨らんでいる)

など、思いつく限りのありとあらゆる変更を加え、おそらくは
新型機として予算を獲得するのに成功したのだと思われます。

しかしまあ、海軍の気持ちはわからんでもありません。
そもそも海軍は空軍とは同じ飛行機でも運用の仕方が全く違います。

空軍はできあがったものをそのまま運用できますが、
当時の海軍は(いまでもか)そういうわけにはいかないので、
海軍仕様に変更を加えなくてはならないのに、
他軍と予算を分担、ではそりゃ面白くないでしょう。

その結果、ビーチエアクラフトは、空軍用にT-34A
少し遅れて海軍用にT-34Bを配給しました。

陸軍はというと、海軍が使用したターボ式T-34Cのお古を
少数、訓練機として受領しています。

陸軍は練習機にはあまり拘ってなかったようです。

【海軍仕様T-34Cの運用】

T-34Bは、1954年に423機が生産され、1958年に完成しました。

全国の司令部飛行隊にも配属され、海兵隊や海軍の元パイロットの
年次飛行(熟練した技術を維持するための訓練)にも使用されました。

T-34Bは、1970年代半ばまでは海軍航空訓練司令部の初期初等練習機として、
1990年代初頭までは海軍徴兵司令部の航空機として運用されていましたが、
最後の1機が退役したあとは、海軍航空基地や海兵隊航空基地の
フライトクラブの備品として、米海軍の管理下で運用されているようです。


1975年以降、海軍の学生飛行士のための新しい主要な飛行訓練機として
タービンエンジンを搭載したT-34Cターボメンターが導入されて、
従来のノース・アメリカンT-28トロージャンに置き換えられていきました。

1980年代半ばには、フロリダ州ペンサコーラで
海軍飛行士の基礎訓練機としても使用されるようになりました。


その後T-34Cは、米海軍、米海兵隊、米沿岸警備隊の学生海軍飛行士や、
米海軍の支援の下で訓練を行う様々なNATO/同盟/連合軍
学生パイロットの主要な訓練機として普及しました。

この同盟軍の中には、我が日本国自衛隊も含まれていることは
おそらく皆さんもよくご存じですね。

陸自のメンターT-34

畑とビニールハウスの田園光景に恐ろしいくらい全く違和感なく馴染んでいます。

空自のメンター

入間基地かな?

日本では最初に1保安庁(現防衛省)が初等練習機を50機導入し、
富士重工業(旧中島飛行機)がライセンス生産を行いました。
陸上自衛隊用に連絡機を、海上自衛隊向けにKM-2が製造されています。

KM-2

Kは「改造=KAIZOU」のKMは「メンター」のM
自衛隊での愛称は「こまどり」だった模様。

絶対冗談で「こまどりじゃなくてひなどり」
とか言われてたんだろうなあ。


この他にも、メリーランド州の海軍航空試験センターや、
バージニア州オセアナ、カリフォルニア州ルモア、そして
ここカリフォルニア州ミラマーのFRS、
ネバダ州ファロンのNSAWC(海軍攻撃航空戦センター)で、
F/A-18艦隊代替飛行隊やストライク・ファイター兵器・戦術学校の
空中偵察機として使用されているT-34Cがあります。

デビューして16年後、T-34Bは、より強力でコスト効率の高い
プラット・アンド・ホイットニー社製ターボプロップエンジン(PT6A-25)
を搭載したT-34Cに置き換えられました。


【FLAMのメンター】

展示されている機体は、22機目のT-34Bです。
1955年8月10日に海軍に受け入れられ、
おもに海軍飛行士の訓練機として名、前通りのメンターな生涯を送りました。

1976年以降はいくつかの基地の飛行クラブで余生を送り、生涯を終えています。

この「飛行クラブ」の実態がいまいち分からないのですが、
例えば海軍の飛行クラブの説明は、

「海軍フライングクラブは、現役の船員やその他の認定された利用者に、
操縦、ナビゲーション、航空機のメカニック、その他、
関連する航空科学を含む航空技術のスキルアップの機会を提供しています。
現在、5つのネイビー・フライング・クラブが米国内の各基地に設置されています」

ということです。
退役後の再就職のために資格を取る施設とかそういうのかしら。

 
【メンターの後継機】

1990年代初頭、アメリカ空軍とアメリカ海軍は
統合基本航空機訓練システム計画(JPATS計画)
を発表しました。
これは何かというと、訓練機を統一して合理化計画を図ったということです。

わたしは、わずか40年で、海軍と空軍が予算を取り合っていがみ合っていた
(文句言ったのは海軍だけだったという噂もありますが)恩讐を超え、
訓練機を統一する英断に至ったことに感動しました。

仲良きことは美しき哉。

そもそも練習機を統合することで、コストを削減でき、
部品や整備、操縦の互換性を高め、コストを大幅に削減でき、
航空機製造メーカーにとっても無駄がなく、いいことづくめです。

この結果、

レイセオン・ビーチ PC-9 Mk.II T-6 テキサンII

が採用され、現在運用されています。

AT-6C Texan II
メキシコ空軍もテキサンIIを運用中

この名前、往年を知る元パイロットには胸キュンに違いありません。
たかが訓練機、されど訓練機。
訓練機のネーミングって、大事なんです。
パイロットの最初の「指導者」になる飛行機ですからね。

ただ、このテキサンII、タンデム(縦列)複座配置で
教官のフォローが難しく、性能も高すぎて初心者には難しいので、
米軍、初等練習機としては、より小型のT-53Aなどと併用しているそうです。

ここでさっきの伏線を回収しますが、この訓練機選定の際、
もう少し初等訓練機にふさわしい、扱いやすいのがあったのに、軍の偉い人たちは
「テキサン」というだけでついつい選んでしまった
ってことはなかったのでしょうか。

だとしたら、やっぱり名前って販売戦略上においても大事ってことですね。


続く。



パンサーとクーガー MiG-15との戦いを経て〜フライングレザーネック航空博物館

2021-11-28 | 航空機

フライングレザーネック航空博物館の航空機展示より、
今日は、朝鮮戦争でMiG−15と戦ったパンサーと、
そのパンサーの教訓を生かして設計されたのに、
結局あまり脚光があたることのなかった、
「不遇戦闘機」クーガー(の写真偵察バージョン)をご紹介します。

■グラマン F9F-2 パンサーPanther


パンサーは、海軍初の空母艦載用ジェット戦闘機として成功した機体の一つです。

バンシーは朝鮮戦争で重要な役割を果たしましたが、
それでも実績においてパンサーには及びませんでした。

海軍と海兵隊で最も広く使用されたジェット戦闘機で、
朝鮮戦争では78,000回以上の出撃を行いました。

グラマンという会社は傾向として新技術に慎重な姿勢であったため、
航空機メーカーの中でいちばん最後にジェット機製作に突入しましたが、
後発なりの調査が生きたというところかもしれません。

F9Fのエンジンには、イギリスのロールス・ロイス社製の
遠心流動式ターボジェットエンジン「ニーン」が採用されました。
これは奇しくも同時代の敵、MiG−15(クリモフVK-1ターボジェット搭載)
が積んでいる動力と同じものでした。

このため両機の胴体後部の形状は大変似ているといいますが、


ご参考までに。
ニューヨークのエンパイアステート航空博物館に行った時撮った
MiG−15の後ろ姿です。
この角度からだと、そんなに似てるかな?って感じですが。


しかし、グラマン社は、新しいエンジンを導入すると、
機体の開発プロセスが複雑になるのでこれを嫌がりましたし、さらに
米国議会は、生産機用に外国製エンジンを輸入してはならないと定めていたため、
海軍はプラット・アンド・ホイットニー社に、
米国内でニーンエンジンを生産するライセンスを取得させました。


1950年12月7日に朝鮮半島に到着したVMF-311は、
海兵隊のジェット戦闘機の中で最初に戦闘に使用された陸上機であり、
地上の海兵隊や兵士のために近接航空支援を行いました。

1952年6月下旬には、スイホー・ダムの攻撃に参加しました。
(『ダムバスターズ』ですねわかります)


この時代の伝説的なパイロットには、前回ご紹介した
後の宇宙飛行士ジョン・グレン上院議員のほかに、
野球選手のテッド・ウィリアムズなどがいます。

【テッド・ウィリアムズ】


海軍予備軍に入隊したテッド・ウィリアムズは、1944年
海軍飛行士としてアメリカ海兵隊の少尉に任命され、
民間人パイロット養成コースを受けたあと、
予備軍に籍を置いたままボストン・レッドソックスでプレーしていましたが、
朝鮮戦争が始まると召集されました。

ウィリアムズにはパイロットとしての才能があったようで、
訓練では大卒の士官候補生が1時間かかる複雑な問題を15分でマスターし、
空中射撃では標的を文字通りズタズタにするほどの腕前だったといいます。

戦闘機パイロットの能力を競い合うテストでは、
反射神経、協調性、視覚反応時間、すべての歴代記録を更新し、
その操縦技術は、さながら芸術のごとし。

同期のパイロット曰く、

「飛行機と6つのキイ(機関銃)を交響楽団のように演奏することができた」

ちょっとよく意味が分からないのですが、おそらく彼は
交響楽団の指揮者のように、と言いたかったのではないかと思われます。

WW2でF4Uコルセアに乗っていた彼は、朝鮮戦争が始まると
海兵隊大尉として現役に呼び戻されました。

戦場に出なくてすむように、野球選手として従軍野球チームのメンバーに入り、
(広報の意味があるので猶予された)そこで快適に戦争をやり過ごす、
という道もあったのですが、彼は再び自分の意思で航空任務に就きました。

といっても、決して喜び勇んで出征したわけではなく、
むしろ招集されたことに怒りを表明していたという話もあります。

ウィリアムズは1952年からF9Fパンサージェット戦闘機の資格を取り、
海兵隊航空機グループ33(MAG-33)のVMF-311に配属されました。

1953年、ジョン・グレンのウィングマンとして飛行していたウィリアムズは、
機体に対空砲火を受け、胴体着陸をして辛くも生還し、
負傷をしたのでそれをきっかけに退役して球界に復帰しました。


ジョン・娘、アニー・グレン

ちなみにジョン・グレンはウィングマンとしてのウィリアムズを
自分が知っている中で最高のパイロットの一人だった、と評しましたが、
グレンの妻のアニーは彼を、
これまでに会った中で最も不敬な男
と言ったそうです。

何をやったウィリアムズ。


2002年ボストン・レッドソックスのホームグラウンド、
フェンウェイ球場で行なわれた
「テッド・ウィリアムズ・トリビュートデー」の写真。
球場には彼のパイロット時代のコクピットの写真が飾られています。

朝鮮戦争で兵役に行っていなければ、野球選手としての記録を
もっとのばすこともできたと思われますし、先ほども書いたように
招集されたことにも怒りすら表明していた、
というウィリアムズですが、そこは彼の、

「かくすれば斯くなるものと知りながら やむに止まれぬヤンキー魂」

のなせるわざだったのかもしれません。しらんけど。

他にパンサージェットに乗った野球選手としては、
ヤンキースの二塁手だったジェリー・コールマンがいます。

ジェリー・コールマン ブロンズ像(ぺトコパーク ロスアンジェルス)

【FLAMのパンサー】

1949年、VMF-115は海兵隊で初めてグラマンF9F-2パンサージェット機を装備し、1952年2月には韓国の浦項に派遣され、戦闘活動を行いました。

9,250回の出撃で合計15,350時間の飛行時間を記録し、19機の航空機を喪失。
1日に6人のパイロットが機体とともに失われ、
合計14人のパイロットが戦死したこともあります。



VMF-115「シルバーイーグル」飛行隊の編隊飛行

展示されているF9F-2パンサーは、1950年アメリカ海軍に納入後、
空母「ボクサー」USS Boxer, CV/CVA/CVS-21の艦載機部隊に配属され、
朝鮮半島の空で活躍しました。

この機体は、フライング・レザーネック航空博物館の設立にも貢献した、
西海兵隊航空隊司令官のウィリアム・ブルーマー准将
大尉時代搭乗したVMF-311の機体塗装が施されています。


■ グラマン F9F-8P ( RF-9J) クーガ Cougar



【パンサーの派生型】

グラマンF9F/F-8クーガーは、アメリカ海軍と海兵隊のために開発された
空母艦上専用の戦闘機です。

MiG-15がまだ世に出る前から、アメリカは
ソ連が後退翼機を開発したという情報を耳にしていました。
しかし、前にも書きましたが、海軍は後退翼の導入に消極的でした。

この理由はいくつかありますが、まず海軍の主眼だったのが
迎撃機による高速・高高度爆撃機からの戦闘群の防衛と、
あらゆる天候下での中距離空母艦載機の護衛だったからで、
1、空対空戦闘には関心を持っていなかったこと、
2、空母という狭い場所での発着艦を行うためには、
どうしても制御の点で直線翼の方が理にかなっていたからです。


しかし、直翼を持つF9Fパンサーは、いざ実戦に投入されると、
MiG-15や空軍のF-86など、後退翼を持つ戦闘機に比べると
性能的にイマイチということが顕になりました。

F9FパンサーがMiG-15を撃墜したことももちろんありましたが、
基本的に旋回翼を備えたMiG-15の高速機動性には及ばなかったというわけです。

そこで海軍としては、代々頑丈で扱いやすいことで定評があった
ワイルドキャットに始まるグラマンの猫戦闘機である
パンサーに後退翼さえつければなんとかなるはず、と考えたのでした。

グラマンは海軍の要求に応えるために、

1、フラップを大きくする
2、自動の高揚力装置(スラット)をつける
3、主翼の上面にブレーキ(スポイラー)をつける


ことで推力とそのコントロールを可能にしました。

急降下において音速を破ることもこれで可能になったのです。
ちなみに、パンサーとクーガーの設計図を並べて比較しておきます。






つまりクーガーはMiG-15との戦いの経験を経て生まれたのです。

戦争というものが良くも悪くも、科学技術の”実験場”であり発展のきっかけである、
ということをよく表している例ですね。

「クーガー」という異なる正式名称がつけられたものの、
海軍はこれを「パンサーのアップデート版」つまり同じ機種とみなしていました。




【運用】

関係各位の努力の結果、クーガーは、パンサーよりも高い機動性を備え、
操縦しやすい戦闘機として評価されました。

しかし残念なことに、クーガーは朝鮮戦争で使用されるには遅すぎました。

結局MiG-15と交戦する「実験」はなされないまま戦争が終わり、
クルセーダーやスカイホークのようなより速くて新しい戦闘機が出てくると、
一線を知らぬまま自動的に陳腐化の運命を辿ったのです。


というわけで、クーガーはベトナム戦争ではほぼ出番なし。
唯一戦闘に参加したクーガーは、TF-9J練習機で、
空爆の高速前方航空管制と空挺指揮を行なった1機に止まります。

先代のフォトパンサーを受け継ぐ形で
写真偵察機に改造されたクーガーもいましたが、4年ほど運用したのち
1958年から超音速のF8U-1Pフォトクルセイダーに置き換えられ、
最後のF9F-8Pは1961年初めに退役しました。

【飛行特性】

F9FクーガーとノースアメリカンFJ-3フューリーの両方に搭乗した
パイロット、コーキー・メイヤー(Corky Meyer)は、後者に比べて
クーガーは急降下速度限界が高く(マッハ1.2対マッハ1)、
操縦限界も7.5g(対6g)と高く、耐久性も高いと述べています。

もっともフューリーもエンジントラブルが多く、
そう評判のいい機体というわけではなかったのですが、
クーガーはそれより配備期間も短く短命でした。

直接の原因としては、F9Fクーガーはなまじ多用途でなんでもできたため、
専門の戦闘機に比べて選択を避けられがちだったことがあります。
器用貧乏とでもいうのか、なんでもできることがアダになったんですね。

つまり、クーガーは戦闘機として致命的な欠点があったというよりも、
ただひたすらタイミングの問題で、A4D-1スカイホークなどの
新型ジェット機に取って代られる過渡期に全盛期を迎えてしまったのです。

戦闘機にもデビューのタイミングが悪く、日の目を見ない不運があるとすれば、
それはまさにクーガーそのものの運命でした。


というわけで、実際の配備についても書いておくと、最初のF9F-6は、
1952年末に艦隊飛行隊VF-32に配属されました。
実際に配備された最初のF9Fクーガー飛行隊はVF-24で、
1953年8月にUSS「ヨークタウン」に配属されたものの、
朝鮮半島での空戦に参加するには遅すぎたというわけです。


F9F-8は1958年から59年にかけて第一線から退き、
F11FタイガーやF8Uクルセイダーにその座を明け渡した後は
1960年代半ばまで海軍予備軍が使用していました。

【大陸横断速度記録】

しかし、クーガーの能力を示すこんな記録もあります。
アメリカ海軍は1954年、F9Fクーガーで大陸横断記録を樹立しているのです。

艦隊戦闘機隊の3人のパイロットが23,924kmの飛行を4時間以内に終え、
F・ブレイディ中佐が3時間45分30秒の最速タイムを記録しました。

この距離を4時間以内で飛行したのは航空史上初めてのことです。
3機のF9F-6はカンザス州上空で、
ノースアメリカンAJサベージから空中給油を行いました。


【ブルーエンジェルス】

アメリカ海軍の飛行デモンストレーションチームであるブルーエンジェルズは、
1953年、使用機をF9F-5パンサーからクーガーに入れ替えていますが、
これは4年しか続きませんでした。(理由はわかりません)

海軍はその後クーガーを決して航空ショーに使用することなく、
艦載機としてのみ使用することになりました。

ブルーエンジェルスは結局グラマンF11F-1タイガーを選択し、
2人乗りのF9F-8Tが1機、報道関係者やVIP用になっていたということです。


【アルゼンチン海軍】

F9Fクーガーを使用した唯一の外国空軍は、アルゼンチン海軍航空隊で、
1971年まで現役で運用していたようです。
その結果クーガーはアルゼンチンで初めて音速を破ったジェット機になりました。

1機は今もアルゼンチンの海軍航空博物館に展示されていますが、
もう1機はアメリカの個人に売却され、
その後、事故で失われてしまったということです。


【FLAMのクーガー】

FLAMに展示されているF9F-8Pクーガー(案内にはパンサーと書かれている)は、
1950年代に生産された110機の写真偵察機のうちの1機でです。

砲や関連機器を廃止し、写真機器や自動操縦装置を搭載るなど、
3つのカメラステーション用のスペースを確保するため、
一般的なクーガーより機首が長くなっています。

ほとんどの標準的な海軍の写真偵察機は、
最大7台のカメラを設置した三つのベイを持っていました。

自動カメラ制御システム、画像モーション補正システム
自動速度と高度情報用の移動グリッドを備えた
ビューファインダースキャナも内蔵されています。

これらのシステムを使用すると、昼夜を問わずフォトクーガーは
偵察やマッピングを行うことができました。

低高度、中高度、高高度つまり全ての高度における写真偵察が可です。

1960年に寿命を迎え、偵察機は当館でも展示されている
クルセイダーF8U-1P(RF-8)に置き換えられました。

当機は、1956に海兵隊に納入されたそうですが、
我々日本人にはちょっと興味深いことに、その後
海兵隊複合偵察飛行隊3(VMCJ-3)に配備されたため、
その耐用年数が切れるまでMARS岩国で過ごしていたそうです。

1959年、飛行時間1,196時間が経過した後、
NASアラメダの海軍兵器局に保管され、翌年退役しました。

続く。




朝鮮戦争の戦闘機バンシーとスカイナイト〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-26 | 航空機

さて、前回朝鮮戦争時に彗星のように現れた
ソ連の戦闘機、MiG-15についてお話しするとともに、
そのMiGと対戦した海兵隊航空隊のエースをご紹介しました。

紹介した3人のエースはともに第二次世界大戦のベテランで、
(一人はエースではないけれどプロペラ機でMiGを撃墜する、
という大金星を挙げたパイロットだったわけですが)、
前者2名はいずれもF35セイバーで撃墜記録を立てました。

今日ご紹介するのは、「前セイバー」というべき、
「いうてはなんだがMiGに苦戦した戦闘機」のご紹介です。

■マクドネル F2H2 バンシー Banshee

以前、「バンシー」を単に妖精の意味であるとだけ書いたことがありますが、
妖精と言ってもその辺をふわふわしている可愛いものではなく、
どちらかというと「もののけ」というか「妖怪」だったことがわかりました。

バンシー(Banshee)はアイルランドおよびスコットランドに伝わる
伝説上の生き物で、その叫び声が聞こえた家では
近いうちに死者が出るとされています。
その叫びは凄まじく、目はこれから死ぬ者のために泣くので
燃えるような赤色をしているとか・・・。



第二次世界大戦中、イギリス国民は、ロンドン空襲を知らせるサイレンを
「バンシーの叫び」と呼んでいました。

ここにあるバンシーの機体は真っ黒に塗装されていますが、
「敵の死を知らせるために叫ぶ」魔女のイメージそのものです。

【バンシーの歴史】

マクドネルF2Hバンシーは、1948年から1961年まで
アメリカ海軍と海兵隊で使用された単座の空母型ジェット戦闘機です。
朝鮮戦争ではアメリカ軍の主要な戦闘機の一つでした。

高高度で高性能を発揮したため、当初はアメリカ空軍が
長距離爆撃機隊の護衛機として運用していました。

しかし、戦争が進むにつれ、海軍と海兵隊の戦闘機の任務は、
近接航空支援や北朝鮮軍の補給線の破壊など、
主に地上攻撃が中心となっていきます。

バンシーはFHファントムの発展型ですが、
ファントムが生産される前から計画されていました。


FH-1

こうしてみると、派生型であることがよくわかりますね。

マクドネル社の技術者たちは当初、ファントムを改良して
多くの部品を共有するという予定をしていたのですが、
武装も燃料タンクもより大きなものである必要があるのに気づきます。
そこでバンシーはファントムより機体を大型にしました。

ところで、バンシーがMiG−15に劣っていた点はなんだったしょうか。

バンシーのような朝鮮戦争当時の海軍のジェット機は、
後のジェット機とは対照的に主翼がまっすぐでした。



ジェット機をより高速に飛ばすためには、翼を広げればいいのですが、
そうすると空母への着艦が困難になってしまいます。

海軍は当初翼端を折る形のジェット機の使用に抵抗を持っていたため、
機体を大型にしたのに翼を大きくすることができないバンシーは
どうしてもMiG-15などの先進的な戦闘機に対して不利だったというわけです。

【偵察機としての活躍】

しかし、バンシーは決して”役立たず”だったわけではありません。

戦争が始まってすぐ英米空軍が航空優勢となったこともあって、
海軍の戦闘機がいるところまで滅多にMiGは来なかったからです。

ガチンコでMiGと交戦すればおそらく勝てなかったと思われますが、
前線にはすでにF35セイバーが投入されて戦闘空中哨戒を担っていたので、
バンシーはその高速性能を生かして偵察機として活躍しました。
特に高空を飛ぶと地上から視認されにくい形をしていたこともあります。

1949年から1952年にかけて、海兵隊では2つの飛行隊がF2H-2を飛行させ、
J-1バンシーは最高の写真偵察機という称号を得ました。

バンシーの偵察隊は「抵抗線」から中国国境の鴨緑江まで飛び、
撮影した写真の総数は、極東空軍のどの偵察部隊よりも多かったと言われます。


バンシーは通常はF-86戦闘機に護衛されて飛んでいましたが、
Mig-15と交戦することがなかったわけではありません。

しかし、朝鮮戦争期間の撃墜及び戦闘喪失記録はなく、
わずかに対空砲で3機が撃墜されただけとされます。

VMJ-1の有名な下士官パイロットの一人、MSGT. エド・チェスナット
こんなことを言っていたそうです。

「もちろんさ、F2HはMigに勝つことができるよ。
リベットがいくつか飛んでいくのを気にせず急降下しさえすればね!」

これは・・・(勝てるとは言ってない)


朝鮮戦争後、第二次世界大戦のエースであるあのマリオン・カール中佐
VMJ-1のバンシー隊の司令官に就任しました。
そして、中国上空での写真撮影任務において功績を挙げ、
飛行隊と自らの名声を高めました。


偉くなってからのマリオン・カール(最終少将)

【バンシー時代の終焉】

バンシーの後継はF9Fパンサーと同じくF9Fクーガーであるとされています。
時期的にはどっこいどっこいですが。

第二次世界大戦時にF-4Uコルセアを使用したVMF-114とVMF-533は
1953年にF2H-4バンシーでジェット時代に突入しました。

両飛行隊はMCASチェリーポイント海兵隊基地を拠点とし、
1957年にF9Fクーガーに移行するまでいくつかの空母に搭載されました。

しかし、VMF-214は1953年にF9Fパンサーを
新しいF2H-4バンシーと交換しています。

その後の15ヶ月間、部隊通称「ブラックシープ黒い羊」は、
計器飛行、爆撃、ロケット弾、機銃掃射、空対空砲術、空母着陸訓練、
空母の資格取得、高・低空での特殊武器投下など、
海兵隊航空のあらゆる側面をカバーし、
海兵隊で初めて特殊武器投下の資格を取得した飛行隊となりました。

そして1957年2月、「黒い羊」FJ-4フューリーに移行しました。

ところでこの
「特殊武器スペシャルウェポンのデリバリーとドロップ」の資格
これはなんなのでしょうか。
バンシーは小さすぎる気がするのですが・・やっぱり核ですか?


展示されているバンシーは、1951年にアメリカ海軍に納入されました。
1954年2月には、第1空母グループとともに
USS「ミッドウェイ」(CVA-41)に搭載されて
世界一周クルーズに出撃ししています。

1959年には、エンジンの研究開発のため、カンザスシティの
ウェスチングハウス・アビエーション・ガスタービン部門に貸与されました。



1961年に1,704時間の飛行時間で引退したこの機体は、
VMF-122の「キャンディ・ストライパーズ」のマーキングが施されています。


■ ダグラスエアクラフト F3D スカイナイト Skyknight


真っ黒な艶消しの機体、赤で書かれた機体番号。

さきほど、だいたい同世代の朝鮮戦争参加機、バンシーを取り上げましたが、
「奇声をあげるとその家の誰かが死ぬ」という、
一体なんのために生きているかわからない妖怪バンシーの
「目が赤い」という特徴を表しているのは、
バンシーよりこちらではないかと思いました。

ただし、黒い機体はスカイナイトの標準仕様ではありません。


これが標準仕様スカイナイト。

ダグラス・スカイナイトの風貌は決してグラマラスとは言えず、
どちらかというとありきたりのデザインで、性能も平凡でした。

この飛行中の写真を見ても、あまり魅力のあるシェイプとは言い難いですね。

しかし、このスカイナイトの設計者の名前を聞けば、
この平凡さにも、なんらかの意味があるのではないか、と
おそらく誰しも思うに違いありません。

その名はエド・ハイネマン

今更いうまでもなく同時代の航空設計のトップであり、
第二次世界大戦中のダグラス・ドーントレスや、A-4スカイホークを生み、
1953年にはF4Dスカイレイでコリアートロフィーを受賞した鬼才です。

ハイネマンがスカイナイトの設計思想に込めたのは、
「スポーツカーではなくセダン」。

そしてそれは当時の海軍が必要していたものであり、
ハイネマンはまさに彼らが望んでいたものを形にし提供したのでした。



驚くべきことに、スカイナイトは20年もの間、
より速く、より軽快な同時代の戦闘機を簡単に凌駕し続けました。

スカイナイトはアメリカ海軍・海兵隊初の全天候型ジェット戦闘機です。
海軍は1945年にはジェットエンジンを搭載した
空母ベースの夜間戦闘機の研究を開始していました。

1946年には企画となり、そして1948年には試作機が飛び、
1950年には運用が開始されて20年間主力であり続けました。

「Willy the Whale (鯨のウィリー)」

これがスカイナイトのニックネームです。
鯨のウィリーとは、ディズニーのキャラクターで、
ミッキーマウスなどが登場するテレビ番組に
オペラ歌手という設定で出てくる脇役なんだそうです。


ディズニーなので一応目隠ししておいた

これですが・・・パイロットなら膝を打って納得するような
類似点がきっとあるのに違いありません。

【朝鮮戦争でのF3D スカイナイト】

1950年に朝鮮戦争が始まるとさっそく投入されたスカイナイトは、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊VMF(N)-513のパイロットや、
レーダーオペレーターなどの有能な乗り手によって、その価値を証明しました。

複座式のF3Dは、朝鮮戦争に参加した全天候型ジェット戦闘機としては
海軍の他の単座式戦闘機より多い空中戦勝利数を記録しています。

最初の空対空勝利は1952年11月2日の夜。
ウィリアム・T・ストラットンJr.少佐とレーダーオペレーターの
ハンス・C・ホグリンド曹長が操縦するF3D-2が、
Yakovlev社のYak-15と思われる機体を撃墜し、
ジェット機による初の夜間レーダー迎撃に成功しています。

最初にMiG-15に勝利したのはその6日後の11月8日、
O.R.デイビス大尉D.F. フェスラー軍曹のスカイナイトです。


デイビス大尉

当初12機投入されたスカイナイトは1953年には倍に増え、
夜間爆撃任務のB-29スーパーフォートレスの護衛が可能になりました。

B-29の護衛任務で交戦した敵機を相手に
スカイナイトは順調に勝利数を伸ばしていきます。

MiG-15のような後退翼も、高い亜音速性能も持ちませんでしたが、
強力な火器管制システムがあったため、夜間の戦闘は
地上のレーダーに誘導を頼るしかなかったほとんどのMiGより有利でした。

【ポスト朝鮮戦争】

朝鮮戦争が終わると、ダグラス・エアクラフト社は
海軍や海兵隊と協力して、多くのスカイナイトを多機能に改造していきます。

スカイナイトは機体三箇所に独立したレーダーを備えていました。
機首に設置されたサーチレーダー追跡レーダー
そして後部胴体に設置された尾翼警告レーダーです。

スカイナイトの胴体が「鯨のウィリー」呼ばわりされるほど広くて
深かった(つまりデブっぽい)のは、初期に搭載された
真空管レーダーが大きかったからであり、複座の乗員の座席位置も
エンジンの位置(胴体下部の外側)もそれで決まったようなものです。

索敵レーダーは1950年代初頭としては驚くほど効果的で、
爆撃機サイズの目標を20マイル(32キロ)先から、
戦闘機サイズなら15マイル(24キロ)先の存在を捉えることができました。

追跡レーダーは3600kmの距離でロックオンし、
スカイナイトを発射位置まで誘導することができます。
尾翼警告レーダーは、約6キロ後ろに迫った攻撃機を検知することができ、
乗組員に十分な反応時間を与えることができました。

スカイナイトの脱出システムは非常にユニークなものでした。
ハイネマンはパワー不足の機体を軽量化するため、
射出座席を廃止して座席の後ろから滑り出すシステムを作りました。

朝鮮戦争でのスカイナイトの戦績は8勝0敗であり、
護衛した空軍のB-29は1機も失われませんでした。

喪失機は2機ですが、原因はいずれも不明とされます。

【ベトナム戦争】

スカイナイトは朝鮮戦争で活躍した戦闘機の中で唯一、
ベトナム戦争でも飛行しました。

広い機内に電子機器を搭載するための十分なスペースが確保されていたため、
改造された6機のEF-10Bが電子戦に投入されたのです。

電子戦機(EW)スカイナイトSA-2地対空ミサイル(SAM)
追跡・誘導システムを妨害するための貴重な電子対策(ECM)武器でした。

電子戦でスカイナイトが歴史に名を刻んだ瞬間があります。

1965年4月29日、EF-10Bは米空軍の攻撃任務を支援するために
海兵隊初の空中レーダー妨害任務を遂行し、成功しました。


ベトナムでは多くの米軍機がソ連の高高度ミサイルSA-2によって失われており、
これらのレーダーシステムへの電子攻撃は
「フォグバウンド」(濃霧で立ち往生すること)ミッションと言われていました。

EF-10Bスカイナイトが最初に喪失したのもこのミサイルの攻撃です。

その後4機のEF-10Bが事故などで失われたのをきっかけに、
次第にその任務は、EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」
徐々に引き継がれていき、
米海兵隊は1970年5月に最後のEF-10Bを退役させました。


【ベトナム後】

しかし、海軍は引き続きF-10スカイナイトを
APQ-72レーダーを開発するためのテストベッドとして使用していました。

F-4ファントムの機首を追加したり、スカイホークの機首をくっつけたり、
レドームを改造したりしていたようです。


【FLAMのF3D-2スカイナイト】

ダグラス・エアクラフトのエル・セグンド工場で製造された
36機目のF3D-2で、1952年3月に海軍に引き渡され、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊542(VMF(N)-542)に2年間所属し、
パイロットやレーダーオペレーターの訓練に使用されていました。

その後米海軍の航空機乗組員の夜間訓練隊、北米防空司令部(NORAD)、
海軍戦闘情報センター士官学校の訓練機などを転々と。

カリフォルニア州チャイナレイクの研究開発試験評価ユニットでは
A-4Eの機首がボルトで取り付けられていたそうです。

その後レイセオン社とアメリカ陸軍に貸与されて
パトリオットミサイルのテストのサポート機が最後の職場となりました。



ところでスカイナイトの傍には、爆弾を利用した
このような構造物がひっそりとたたずんでいました。

この役割は「展示に登らないように」という注意札の置き場所。
それだけのためにわざわざ砲弾をぶつ切りに・・・。


続く。


MiG-15 vs.フライング・レザーネックス(海兵隊航空隊)〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-24 | 航空機

フライング・レザーネック海兵隊航空博物館の戸外展示、
第二次世界大戦期を終わって、今日は戦後から
朝鮮戦争のころの航空機をご紹介します。

■ ミコヤン・グレヴィッチ MiG-15ファゴット(Fagot)

まず冒頭写真のMiGからです。
これまでわたしが訪れた航空博物館のほぼほとんど全部に
このMiGが展示されているのには驚かされます。

その理由は、ソ連がこの機体を大量生産し、それが
アメリカに流れてきて、個人所有することができたからです。
一般人が趣味でMiGに乗ることができたんですね。

ここにあるMiG-15にはファゴット(Fagot)という
NATOによるコードネームが付けられています。
ファゴットというとフランス語のバスーン、楽器のことだと思いますが、
どの辺がファゴットなのかいまいちわかりかねます。

【MiG-15ファゴットの歴史】

MiG-15は、後退翼(Swept-wing)を持ち、超音速を実現した
世界初のジェット戦闘機のひとつです。

先日来、「第二次世界大戦の戦闘機エース」シリーズで、
その頃のソ連の航空技術が英米独に水を空けられており、そのせいで
対ソ連機戦は他国の戦闘機パイロットにとって「貯金箱」と化していたことを
あらためて如実に知ることとなったわけですが、
この屈辱的な事実に「激怒」したのがかのヨシフ・スターリンでした。

スターリンは怒りに任せて開発を推し進めるよう大号令をかけました。
まずはドイツのメッサーシュミット262を鹵獲してそれを徹底的に研究。
Me-262は世界で初めて戦闘機として成功したジェット機です。

その甲斐あって、ソ連は宿敵アメリカより先に
後退翼のジェット機の実用化に成功します。
(スターリンにはとにかくアメリカより先、というのが大事だった模様)
そうして衝撃の世界デビューをしたのが、MiG-15戦闘機でした。

1947年に初飛行したMiG-15は、緊張する超大国間の冷戦下、
高空を飛ぶ敵爆撃機を迎撃するのが主目的でした。

初期の機体にはエンジンが搭載されていませんでしたが、
わたしに言わせると当時労働党のお花畑政権だったイギリスが、
25基のロールスロイス・ニーン・ターボジェットエンジンを提供しました。

Rolls-Royce Nene

【ライバル・F35セイバー】

MiG-15は1950年から3年に亘った朝鮮戦争に投入されました。
朝鮮半島上空ではF9FパンサーF80シューティングスターなど、
連合軍機よりも明らかに勝る性能を発揮しました。

しかし、この状況に甘んじているアメリカではありません。
たちまち対抗してノースアメリカンのF-86セイバーを投入します。

F-86-F-35-NA(1955年)

頑丈に作られたセイバーは、訓練されたパイロットに操作されることで
MiG-15に勝るとも劣らない性能を発揮することができました。

MiGの搭載銃はセイバーより強力で、速度も機敏性も勝っていましたが、
セイバーは安定性と上昇性能においてMiGより優れていました。

さらに、セイバーのパイロットの能力は明らかに中国や北朝鮮よりも上でした。

ソ連は、ここで自国のパイロットがあまりにも戦闘に関与しすぎると、
米ソが正面からぶつかり合うことになり、これがひいては
第三次世界大戦の勃発につながるのではないかと恐れていたといいます。

MiG-15は失速しやすく、マッハ1以上の速度ではコントロールが難しいため、
経験の浅いパイロットには容赦がなかったのですが、
熟練したパイロットはこれを克服し能力を引き出すことができました。

朝鮮戦争でMiG-15に搭乗したのは北朝鮮、中国、ソ連のパイロットでした。
この機体の特徴は、なんと言っても軽量であることでした。
乗り手を選ぶとはいえ操縦性に極めて優れていました。

MiG-15は共産圏諸国では12,000機以上が生産され、
その他の国ではさらに6,000機までがライセンス生産されました。
派生型は44カ国以上で使用され、その多くが現在も使用されています。
どんな航空博物館にもこの機体があるのはそういう理由です。

【MiG-15の機体性能と欠点】



MiG-15の最初の目的は、冷戦下においてB-29のような
アメリカの大型爆撃機を迎撃することでした。

それを確かめるため、ソ連は鹵獲したアメリカのB-29や、
ソ連のB-29のコピー機であるツポレフTu-4との模擬空戦を行っています。

大型爆撃機を確実に破壊するために、MiG-15は23ミリ×2基(80発)、
37ミリ×1基(40発)の自動砲を搭載し、確かに迎撃戦では
絶大な威力を発揮したのですが、発射速度が限られていたため、
空対空戦で小型で機動性の高いジェット戦闘機に命中させるのは困難でした。

そして弾道の点でいうと、23ミリと37ミリでは軌跡が大きく異なります。
朝鮮戦争でMiG-15と対戦した国連軍のパイロットは、23ミリの砲弾が
自分の上を通過し、37ミリが下を通過するという体験をしています。

砲はシンプルなパックに収められ、整備や再装填のためには
機首下部からウインチで取り出せるようになっており、
あらかじめ用意されたパックを素早く交換することができました。

超音速で急降下するのに十分なパワーを持っていたのですが
"オールフライング "テール(尾翼)がないため、
マッハ1に近づくと操縦性(パイロットの関与できる)は大きく損なわれた、
とここの説明にはあります。

「All Flying Tale」とは、水平尾翼全体を動かす事によって
エレベーターとしての機能を持つ舵のことです。
スタビレーター(安定の意)ともいいますが、

これはスタビレーターじゃないのかしら

まあとにかくそういうことだったので、パイロットは、
操舵が効かなくなるマッハ0.92を超えずに操縦していました。
ってことは音速突破してなかったってことですわね。

もう一つ厄介なことは、MiG-15は失速するとスピンする傾向があり、
いったんそうなるとパイロットはリカバーできなくなる傾向がありました。

後のMiG(19以降)からはオールフライングテールが装備されていますが、

とりあえず改良を施したのMiG-15bis(セカンド)は、
RD-45/Neneの改良型であるクリモフVK-1エンジンを搭載し、
細かい改良やアップグレードを加えて1950年初頭に早くも就役しました。

目に見える違いとしては、エアインテーク・セパレーターに
ヘッドライトが設置されていたことと、
大型の一枚板の長方形のスピードブレーキが採用されていたことです。


ところで、ここに展示されているのも実はMiG-15bisです。
よくよく見ると、これにもスピードブレーキが付いていました。



本機は朝鮮戦争の戦闘で損傷したのち中国で修理され、
J-1と改称されて中国空軍が運用していたようですが、
1988年に北京の中国航空博物館から譲り受け、
1992年までロスアンジェルスのチノ空港に保管されていました。

■ 海兵隊パイロットvs. MiG-15

当海兵隊航空博物館には、やはり海兵隊パイロットと
MiG−15の対戦についての記述がありますので紹介しておきます。

【ジョン・ボルト大尉 Capt. John Flanklin Bolt】
”2WAR ACE"(二つの戦争のエース)


ジョン・ボルト海兵隊中佐(1921– 2004)は、
第二次世界大戦と朝鮮戦争、二つの戦争でエースの地位を獲得した
唯一の米海兵隊員であり、唯一の海兵隊のジェット戦闘機のエースです。



貧しい家庭に生まれ、経済的理由でフロリダ大学を中退した後、
米海軍に加わり、海兵隊のパイロットとして訓練を受けました。

彼は第二次世界大戦の太平洋戦線において、F4Uコルセアに乗り、
A6M零戦に対して6回の勝利を収めました。

コルセアを装備したVMF-214「ブラックシープ」では、彼は
海兵隊エース、パピー・ボイントン少佐の指揮の下飛行しています。

その後ボイントンが撃墜され日本軍の捕虜になってから、
飛行隊の指揮を彼に代わって務めています。


1943年、太平洋戦線にて

朝鮮戦争が始まると、空軍(USAF)との交換プログラムを通じて戦闘に参加し、
いわゆる「MiGの小径(alley)」と言われた北朝鮮国境で
F-86セイバーで中国軍のMiG-15と対戦、ここでも6勝を挙げました。

写真のF-86セイバージェットの側面に
「ダーリン・ドッティ」という言葉がペイントされていますが、
ドッティは彼が第二次世界大戦中結婚した愛妻、ドロシーの愛称です。

戦後、彼は中断していた法律の勉強を継続し、
40歳になってから息子と同じフロリダ大学に通い、博士号を取得、
残りの人生を弁護士として地域に貢献することで全うしました。

彼は、二つの戦争でエースとなった空軍以外の唯一のパイロットで、
同じタイトルを持つ7名のパイロットの最後の生き残りとして
2004年、83歳の生涯を閉じました。

【ジョン・H・グレン大佐 John Herschel Glenn Jr.】
”MiG MAD MARINE"


この写真を見て、「ライトスタッフ」でジョン・グレンを演じた
エド・ハリスって、なんて適役だったんだろうとため息をつきました。

「マーキュリーセブン」の一人、77歳でディスカバリー号に乗った男、
と宇宙飛行士としての人生があまりに有名ですが、
実はジョン・グレン、海軍を経て海兵隊航空隊に入り、
ボルトと同じくマーシャル諸島ではF4Uコルセア
日本軍に対して対地攻撃などを行なっておりました。

朝鮮戦争でボルトはセイバーの前にバンシーに乗っていたそうですが、
グレンが最初に乗っていたのはパンサーです。

これもボルトと同じく、空軍との人材交流プログラムで
F35セイバー戦闘機に乗って朝鮮戦争に参加し、
ここで彼は3機のMiG-15を撃墜しています。



このときについた彼の渾名は「MiG MAD MARINE」
日本語での言い換えは難しいですが、
「ミグ退治専門マリーン」「ミグバスターマリーン」みたいな?

彼はジェット機でエースになることを目指していましたが、
戦争が1953年7月25日、突如終了し、それは叶いませんでした。


【ジェス・フォルマー大尉 Jesse Gregory Folmar】
"プロペラ機でジェット機を撃墜した男”


ジェシー・グレゴリー・フォルマー(1920-2004)
は、太平洋での戦闘においても、朝鮮戦争でも、
空母USS Sicily (CVE-118)艦載部隊として)
F4Uコルセアの航空部隊に所属していました。

彼はプロペラ機パイロットとして初めて、
ジェット機MiG-15を撃墜した功績でシルバースターを授与されています。

1952年9月10日、この日USS「シシリー」でのブリーフィングでは、
この地域に出没するMiGについて話し合われましたが、
そもそもコルセアがMiG-15に勝てるとはだれも思っていないので、
MiGが攻撃してきたら正面から向きを変えて、
とにかく撃ちまくる、ということになりました。

その日、フォルマーと僚機のダニエルズ大尉は、8機のMiG-15に遭遇しました。
攻撃してきたMiGに対し、彼は計画通り隊長機に向かい、
正面からコルセアに搭載された4門の20ミリ砲を撃ちまくったところ、
なんとそれは命中して機体を破壊せしめたのです。


想像図

しかし、彼が勝利を味わったのも束の間でした。
彼のコルセアはMiGに撃墜され、彼はパラシュートで脱出して、
水上機に拾われ、命を助けられたのでした。

想像図その2

このときの撃墜の功績により、彼は殊勲飛行十字章を授与されました。


 続く。




第二次世界大戦の軍用航空機〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-22 | 航空機

サンディエゴのミラマー海兵隊行軍基地の
反対側に併設されているフライング・レザーネック航空博物館、
あっという間に室内展示の紹介を終わりました。
というわけで、むしろこの博物館のメインであるところの
航空機展示をご紹介していきます。

今日は第二次世界大戦時の装備を取り上げますが、
冒頭写真のワイルドキャットは、すでに
海兵隊エース、ジョー・フォスの項でご紹介しています。


ところで、この日撮った写真にこんなのがありました。
これから新しく整備した航空機を置く場所なんだな、と思ったら、



HPにこんな写真を見つけました。
ワイルドキャットが手前にいる・・・?

屋根の下にいるのは風防の形からアベンジャーじゃないかと思うのですが。
そこであらためてHPの所有機を見たところ、
わたしがこの日現地で遭遇した航空機は、FLMの所蔵の一部で、
結構な数のウォーバードが修復中であるか
あるいは倉庫入りしているのではないかというのがわかりました。


■ ダグラスSBD−1ドーントレス

たとえばこの
SBD-1ドーントレスもそうです。

このSBD-1は、1940年海兵隊に装備され、MCASミラマーにある
キャンプ・カーニーのVMSB-142に配備され、その後
イリノイ州の「五大湖海軍」にある空母適格訓練部隊(CQTU)
USS「ウルヴァリン」 Wolverineに着陸する訓練に使われていたものです。

1942年11月23日、この機体は訓練中に墜落し
ミシガン湖の底に沈んで
しまいました。

ちなみにこの訓練基地で
ミシガン湖の藻屑になったドーントレスは全部で38機だった
ということですが、これはそのうちの1機というわけです。

湖の底で52年間魚のすみかになっていましたが、1994年引き揚げられ、
いくつかの博物館を経て、MCASミラマーのFLAMに到着しました。
この時点ではすでに大規模な修復が行われていたようです。

そして、HPを見ると、写真に写っている修復ボランティア、
ボブ・クラムジー氏が、2012年からあらためて修復を手掛けています。

もちろん代替の部品はありませんから、一から手作り。
垂直安定板、後部銃座、ドアも設計図を見て作ったそうです。

クラムジー(こんな人がClumsy=不器用のはずはありません。 Cramsieです)
氏はもともとノースロップ・グラマンの耐空システムエンジニアだとか。

そして、「修復の完成までにあと3年から5年はかかるだろう」
とおっしゃっているようですが、はて。
肝心のFLAMそのものがパンデミックのため休館しており、
再開の目処は立っていない、と書かれたっきりなのです。

ドーントレスの修復は中断されているのではないかとか、
修復のための費用も滞っているのではないかと懸念されます。


■ノースアメリカン PBJ-IJ (B-25 J)
ミッチェル(MITCHELL)

見なかったといえば、この、唯一人名のついた軍用機、
ミッチェルも、わたしが観に行ったときにはヤードにその姿はありませんでした。

このB-25J-30-NCミッチェルは、1945年6月の終戦直前に調達され、
カリフォルニア州サクラメントの陸軍航空訓練学校で使われていました。

ミッチェルというくらいなので元々は陸軍機ですが、
戦後はおそらくミッチェル本人の意思を尊重してか、空軍に配備され、
その後はいろんなオーナーを転々とし、
エアタンカーや気象調査など様々な仕事に従事しました。

引退してから海兵隊が博物館展示のために引き取り、
それからここに貸し出されています。

これも今一体どこにあるのかすらHPには記載されていません。

ピッツバーグを流れる川に墜落し、底に沈んで2度と見つからなかった
B-25の話を思い出してしまった・・・。


■ジェネラル・モーターズ TBM-3E Avenger

復讐者という意味を持つ「アベンジャー」GM製とグラマン製があります
グラマン製はTBFゼネラルモーターズ製はTBMと呼称していました。

アメリカ海軍および海兵隊のために開発された魚雷爆撃機で、
1942年に就役し、直後のミッドウェー海戦でデビューを飾りました。

先に製造したのはグラマン社でしたが、同社は
F6Fヘルキャット戦闘機を生産することが決まったため、
アベンジャーの生産を徐々に縮小してくことになったという事情です。

その後、ゼネラルモーターズ社のイースタン・エアクラフト部門が
生産を引き継いだので、二社バージョンがあるというわけです。

ここに展示されているのは、後期のGM製TBMとなります。


プロペラには「ハミルトン・スタンダード」のマーク入り。

ハミルトン・スタンダードは(現在はCollins Aerospace の一部)、
世界最大の航空機プロペラメーカーでした。

「ジョー・フォスコーナー」でお話しした、フォスがパイロットに憧れる
そのきっかけとなったリンドバーグの大西洋横断機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に、同社のプロペラが使用されています。

1930年代初頭には可変ピッチプロペラ、
1950年代に開発されたジェットエンジンの燃料制御。
1968年には航空機の客室圧力を制御するための自動電子システム、
ジェットエンジンのフルオーソリティデジタル電子制御(FADEC )、
その技術は1969年のアポロ11号月面着陸に遺憾なく発揮されました。

現在は世界のほとんどの航空機メーカーに、
航空宇宙コンポーネントとシステムを提供し続けています。 



1944年半ばから始まったTBM-3は、パワープラントがパワーアップし、
ドロップタンクやロケット弾用の翼のハードポイントが設けられました。



アベンジャーは海兵隊の多くの飛行隊によって、
陸上はもちろんその多くが空母で運用されました。

海兵隊飛行隊で最初に戦闘に参加したアベンジャー部隊はVMSB-131で、
TBF-1を搭載してヘンダーソンフィールドに到着し、
日本軍に対して最後の大攻勢をかけるのに間に合いました。

マリーン・アベンジャーズは、1942年11月中旬のガダルカナルの海戦で
初めて大きな成果を上げることになります。
この時点でVMSB-131は、「エンタープライズ」を空母とする
VT-10(雷撃隊)とVT-8として活動していました。

11月13日、3つの飛行隊は日本の戦艦「比叡」への一連の攻撃に参加し、
発射された26本の魚雷のうち10本を命中させました。


比叡

このとき、第10雷撃隊のTBFアベンジャー雷撃機9機(隊長アル・コフィン大尉)は、左舷、右舷、艦尾に魚雷を計3本命させ戦艦を沈めたと主張しています。

また、翌日、VT-10とVMSB-131の航空機は、
重巡洋艦「衣笠」を沈めています。


衣笠

右舷に魚雷3本、左舷に魚雷1本が命中し、傾斜した衣笠に
SBD2機が急降下爆撃を行い、爆発炎上させます。
その後空母「エンタープライズ」のSBD16機が
とどめを刺した形になり、沈没しました。



しかし、通常海兵隊のアベンジャーが魚雷攻撃を行う例は少なく、
ほとんどが海兵隊を支援するための爆弾やロケット弾、
あるいは対潜哨戒のための爆雷ややロケット弾を使用しました。

VMSB-131がガダルカナルでデビューしてから1年後、
アベンジャー隊はブーゲンビルでの戦闘に参加し、
日本の強力な基地を無力化する働きをしました。

1944年7月、海兵隊アベンジャー部隊はマリアナ諸島での戦闘に参加し、
グアムとテニアンの航空支援、ついで194ペリリュー島への侵攻に参加。

1945年3月からはテニアンから出撃し硫黄島キャンペーンを行いました。

沖縄戦に参加したのは
USS「ブロック・アイランド」、USS「ギルバート・アイランド」、
USS「ヴェッラ・ガルフ」、USS 「ケープ・グロセスター」

4隻の空母搭載のアベンジャー部隊です。


海兵隊は朝鮮戦争でもアベンジャーを運用していました。

ここに展示してあるTBM-3E(BuNo.53726)は、
戦後の1946年6、NASサンディエゴで予備機となっていましたが、
最終的に海軍航空予備訓練部隊(NARTU)に配属されました。
1962年4月に除隊するまでいろんなところをぐるぐる回っていたようですが、
その後は民間が買い取ってエアタンカーになっていました。

その後は農薬の空中散布機を経て、1988年に海兵隊博物館に買い取られ、
1999年には現在のMCAS ミラマーに落ち着いたのです。

展示機は1945年7月に
護衛空母USS 「ケープ・グロセスター」Cape Gloucester (CVE-109)
に搭載され、沖縄戦に参加したVMBT-132のカラーで塗装されています。


■ノースアメリカン SNJ-5 テキサン Texan

昔の戦争映画には必ずと言っていいほど、
この不細工なコクピットの零戦が登場したものです。

日の丸をつけた敵さん、じゃなくてテキサンを見るたびに、
「いうほど似てるか・・・?」
と思わず心の中で突っ込んでしまうわけですが、
似ているにていない以前に、たくさん製造され、
しかも練習機で機体が操縦しやすかったというのも
零戦を演じさせられた理由だったかもしれません。

あ、それから値段が滅法安く、手に入れやすかったそうです。

1935年4月1日に就航したT-6テキサン(T-6 Texan)は、
単発の高等練習機で、各国のパイロットの訓練に使用されました。
そのため、「パイロットメーカー」という名前で呼ばれることもあります。

国や機種によって様々な呼称がありますが、アメリカ以外では
「ハーバード」という呼称が最も一般的です。
USAACとUSAAFのモデルは「SNJ」の名称で呼ばれており、
アメリカ海軍のパイロットはこの名称でこの飛行機を多用しています。

その代表的なものがSNJ-4、SNJ-5、SNJ-6です。

アメリカは1950年代末までに現役から引退させましたが、
それはどこへいったかというと、我が日本だったりします。
自衛隊では空自に167機、海自に48機と1955年から供与され、
T-6という名前で呼んでいました。

すでに時代はジェット機へと移行しつつあったのに、
テキサンなんかもらってどうするん?という気もしますが、お付き合いというか、
大人の事情があったのかもしれませんしなかったかもしれません。

そのせいなのかそのせいでないのか、さすが物持ちのいい日本国自衛隊も、
数年で練習機をT-1と交代させるということになっています。

そもそも、
T-33とT-34の間にどうして中間練習機としていきなりT-6が挟まるのか?
と考えた人もいたかもしれませんしいなかったかもしれません。


航空装備ではありませんが、こんなものもありました。
説明が全くないのですが、だいたい第二次世界大戦ごろのものだと
勝手に思い込んで載せておきます。


対空マウントをしたブローニング的な?



FLAMスタッフ渾身の手作り人形搭載。



こちらはデュアルです。


対空砲士の顔、アップにしちゃう。
まつ毛とか眉毛は一本ずつ懇切丁寧に描き込まれており、
手間暇だけは膨大にかかっているのはよくわかった。



サンディエゴの夏は日差しが強く、外の展示を見て歩くのは
なかなか大変で、こういう装備になるといきなり省エネモードになり、
できるだけ最小限のシャッターで済まそうとするわたしですが、
いくらなんでも砲身くらいちゃんと撮っておけばよかったと思いました。

その後いろいろあって、もう2度とここで展示を見られられなくなった今、
一層その思いは強くなりますが、もう仕方ありません。(投げやり)


続く。




WASP(女子航空隊)とハップ・アーノルド将軍〜スミソニアン航空博物館

2021-10-26 | 航空機

WASP、Women Airforces ServicePilots 
については、当ブログで女性飛行士の紹介と言う形の紹介を
何度となく行ってきました。

今日はスミソニアン博物館によるWASPの資料を紹介します。

■ WASPの誕生

「第二次世界大戦のエース」に続く写真パネルで紹介されていた
WASPコーナーの説明によると。

「1941年、ジャクリーン・コクランが、輸送コマンド航空隊の司令官に
コンサルタントという形で任命され、軍航空飛行場において
輸送パイロットに女性を採用するという案の検討が始まりました」

このブログでは何度となくご紹介しているので、
コクランという女性が右下の大きな写真の人物であることは
皆さんも覚えておられるかもしれません。

しかし、これも記憶しておられるかもしれませんが、当時、
女性からなる補助航空隊の成立は世間の声とかが障害となって、
アメリカ合衆国の「オーソリティ(権威)」から拒否されてしまいます。

そこでコクランが話を持ち込んだのはイギリスでした。

コクランはまずそちら側に女子航空隊を創設しますが、
もちろんその際も表に立ったのは彼女ではなく、
あのハップ・アーノルド将軍でした。

アーノルド将軍については、「陸軍航空の父」という位置づけで
ここでも紹介していますが、女子航空隊創設を実現させた人物です。

さしずめ女子航空隊のアーノルド将軍が父、
コクランが母といったところでしょうか。


まずイギリスで女性パイロットによる補助航空隊を稼働させ、続いて
1942年9月にはアメリカに女性パイロットプログラムが組織されます。

プログラムは2部構成になっていて、ひとつは飛行経験者による輸送部隊、
そしてもう一つは未経験者の養成プログラムでした。

当ブログでは「クイーン・ビー」としてとして既にご紹介済み、

ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」

がアメリカにおける輸送&教育隊の初代司令に任命されます。

Women's Auxiliary Ferrying Squadron、略称WAES
女性補助輸送中隊が正式な名称でした。

そして、イギリスの輸送隊を組織していたジャクリーン・コクラン
アメリカに帰ってきて訓練航空隊の創設に関わることが決まりました。

1949年8月5日、二つのプログロムが統合されて

Women Airforces Service Pilots (WASP)

が誕生します。

1944年に廃止されるまで、WASP全体的の総空中航行距離は6千万マイル。
プログラムに受け入れられた1074名の女性のうち、900人は
「実践」に出ることなく終わり、プログラム中に30名が殉職しました。

WASP alumni association, Order of the Fifinella, logo

「Order of Fifinella」(フィフィネラ団)

WASPは、プログラムが廃止される1カ月前の1944年11月に、
マックスウェル飛行場で「フィフィネラ団」を制定しました。

この組織の目的は、WASP解散後の再就職に関する情報の共有、
WASP出身者同士のコミュニケーションを維持すること、
そして航空業界の法律や潜在的な雇用者に影響を与えるための
統一された組織を形成することでした。

1944年12月20日には300人、そして1945年には会員は700人を超え、
WASPの全階級から代表者を集めた諮問委員会が設立されました。

時が経つにつれ、組織は会員数を増やしてゆきます。
具体的な活動は年2回のニュースレターの作成、
各地での同窓会のコーディネート、
すべての会員の消息を明らかにする名簿の管理などです。

最後の同窓会が行われたのは意外と遅く、2008年のことで、
開催場所はテキサス州アーヴィング。
そして翌年の2009年には正式に解散を行いました。

他のいくつかの航空隊のシンボルと同じく、
このデザインもディズニーによるもので、しかもスタッフではなく、
ウォルト・ディズニー本人の作画を使用する許可を得ています。

ちなみに「フィフィネラ」とは、航空隊の女性たちの面倒を見るために
航空機の翼の上に乗ってくれる小さな良いグレムリンのことだそうです。

■ ”ハップ”・アーノルド将軍

ところで、女子航空隊に最初は反対していたくせに、
結局のところ設立に鶴の一声でゴーサインを出したため、
「父」と言わざるを得なくなったハップ・アーノルド将軍の制服が、
まさにここWASPコーナーのおまけのように展示してあります。

アーノルド将軍の着用したこのタイプの軍服は、全ての将校に共通のもので、
一般にピンクグリーン」(Pinks and greens)と呼ばれていました。


ピンクアンドグリーンを着た陸軍幹部。
(左はおそらくジミー・ドーリトル?)

ピンクアンドグリーンは第二次世界大戦中の
アメリカ陸軍の将校用の冬服を指す愛称のようなものです。
ピンクという言葉が謎ですが、これはグリーンの上着に合わせる
ズボンがかすかにピンク色を帯びていたことからきています。

「陸軍が認めたものとしては最も派手で目立つ制服」

という評価のせいか、着用は勤務時間外か、非公式な夜の社交行事のみ、
と限定され、1958年には廃止されています。


アーノルドは1944年12月に元帥に昇進し、
特別記章を両肩に付ける身分になります。
第一次、第二次大戦にまたがる、長く際立ったキャリアの間に、
彼はそれこそ数多くの勲章とメダルを授与されましたが、
本人は陸軍勲章、殊勲飛行十字章、
そしてエアメダルのリボンだけをつけていました。

リボンの上にはコマンドパイロットのウィングマークがあります。

アーノルド将軍のファイブスターフラッグ実物が展示されています。彼はアメリカ陸軍と空軍、二つの軍で五つ星ランクを取った唯一の人物です。

1949年、特別にアーノルド将軍のために製作されたブルーフラッグは、
初の空軍大将旗として、
陸軍のレッドフラッグ将軍旗と対照的に用いられました。

大統領令としてファイブスターランクを与えると記された賞状実物。


1949年5月7日の議会命令により、アーノルドは空軍将軍に任命されました。
授賞式で、時の大統領トルーマンから任命書を受け取っています。

ここにはハップ・アーノルド、本名ヘンリー・ハーレイ・アーノルド将軍の
バイオグラフィーも展示されているので一応翻訳しておきます。

ペンシルバニア州生まれ、1907年ウェストポイント卒業
1911年、オハイオ州デイトンにあったライト兄弟の航空学校で飛行を学ぶ(ライト兄弟のどちらかに教わったわけではない)

1931年以降「ハップ」(HAP)とあだ名で呼ばれるようになる

1912年、マッケイトロフィー(航空レース)で優勝
1934年、アラスカへの初探検飛行を成功させる

1938年、陸軍航空隊の隊長に就任

1941年、陸軍航空隊司令官に就任、陸軍大将に昇任
連合参謀本部の一員となる

第二次世界大戦中、240万人以上の組織の長として
航空隊の訓練、装備を統括する立場に

1944年12月にが元帥位に上り詰める

1946年、陸軍航空隊指揮官を退役

彼は空中給油、無人飛行機、ボーイングB-29スーパーフォートレスなどの
高度な航空技術開発の先駆者であり、退役後も

航空科学と米空軍の技術開発の間の連携を指導しました。

そのリーダーシップ、そして個人的な経歴の積み重ねの成果は、
彼に「現代空軍の父」という名前を与えました。

女子航空隊WASPの創設も、そんな彼に取っての
偉大な業績の一つだったのです。

現在においてもハップ・アーノルド将軍は、
アメリカ空軍史上唯一の五つ星ランクの軍人です。

■ WASPのトレーニング

飛行場のエプロンを行進するのはWASPの訓練生たち。
航空パンツの上に半袖あるいは長袖の白いシャツ、
帽子はギャリソンキャップらしいデザインですね。

場所はテキサス州のアベンジャーフィールドで、これは
女子航空隊訓練課程の卒業式における整列の写真です。




同じくテキサス州スウィートウォーター(地名)のアベンジャー飛行場、
WASPの訓練生が航空エンジンについての実習を受けている様子です。

教員らしい右側の男性は航空隊の軍曹と言ったところでしょうか。

髪を伸ばしている人ばかりですが、考えてみると、
大多数のアメリカ人女性、とくに頻繁に美容院に行かない学生などは
ロングヘアにしていることが多いので、彼女らもそれと同じかもしれません。

写真で行われている実習は、基幹部品の組み立てのようです。

高気圧チャンバーでの耐圧テストを受けているWASPたち。
この設備はテキサス州ランドルフ基地にありました。

その他のテストにおいても、女性の輸送パイロットは物理的に
男性のパイロットよりも喪失率が低いことが証明されています。

しかも、女性の男性より少量の筋肉構造は、より重い航空機を飛ばす能力とは
何の関係もないということがこのとき明らかになりました。

颯爽と飛行服で歩くWASPたち。
四人並んでこんな風に歩いているポーズは
おそらく宣伝用に撮られた写真ならではでしょう。

WASPプログラムの最大の目的は、
男性パイロットを戦闘任務に集中させることにありました。
したがって彼女らの任務は輸送、標的の曳航、
管理飛行、ユーティリティ飛行などに限られました。

この4人のWASPはB-17を輸送する任務を行うパイロットたちで、
オハイオの飛行基地に、後ろに見える機体を運んできたところです。

■ アメリカ史上初めて「戦死」したWASPパイロット

Cornelia Fort

コーネリア・クラーク・フォート(1919年2月5日~1943年3月21日)は、
アメリカ人飛行士として2つの出来事に参加したことで有名になりました。

1つ目は、1941年12月7日、真珠湾攻撃の際に日本軍の航空隊と遭遇した
最初のアメリカ人パイロットとなったことです。

真珠湾で民間人パイロットの教官として働いていた1941年12月7日、
フォートは真珠湾近くの上空で、単葉機の教官席で離着陸を教えていました。

当時、港の近くを飛んでいたのは、
彼らのほか数機の民間機だけだったといいます。
フォートは軍用機が自分に向かって飛んでくるのを見て、咄嗟に
学生から操縦桿を奪って対向機の上に引き上げました。

その翼に旭日旗が描かれていると思った次の瞬間、彼女は
真珠湾から黒煙が上がり、爆撃機が飛んでくるのを見たのです。

すぐに、真珠湾口近くの民間空港に飛行機を着陸させたところ、
彼女の飛行機を追ってきた零戦は滑走路を空襲し、
彼女と生徒は逃げ惑いました。
このとき空港の管理者は亡くなり、
当時上空にいた2機の民間機も戻ってきませんでした。

そのことが彼女に軍隊に奉仕する志望理由を与えたのでしょう。

1942年本土に戻った彼女は、その年の暮れ、ナンシー・ラブに誘われて、
新たに設立された女性補助フェリー隊(WASPの前身)に参加して
アメリカ国内の基地に軍用機を輸送する仕事に従事しました。

そして、彼女が遭遇した二つ目の航空史に残る出来事とは、
彼女自身がアメリカ史上初めて
現役で死亡した女性パイロットとなったことです。

1943年3月21日、ロングビーチからダラスへ向かう編隊飛行中、
彼女のBT-13の左翼が一緒に飛んでいた男性飛行士の
ランディングギアに衝突したのです。 

このとき、男性飛行士はフォートの飛行機に近づきすぎ、
また近づいては離れるという不安定な飛行をしていたといいます。

そして両機は衝突し、フォート機の主翼の先端と前縁が破損。
男性飛行士は機を立て直すことができましたが、フォートは衝撃で
機体を急降下させ、そのままテキサス州の渓谷に墜落し死亡しました。

事故当時、彼女はWASPの中でも最も熟練したパイロットの一人でした。
彼女の墓の墓石には、

「Killed in the Service of Her Country」
(祖国のための任務中に殉職した)

と刻まれています。

続く。

 

 


制服ファッションショー(サービスユニフォーム編)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-10-15 | 航空機

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
搭乗員の飛行服ファッションショーと銘打ってお届けしましたが、
今日は軍服(サービス・ユニフォーム)を紹介します。

まずは枢軸国から。

Flag of Kingdom of Italyイタリア王国

イタリア空軍のことをレジア・エアロノーティカというのを
わたしはルフトバッフェと同じくらい気に入っているので、
ここでも文字数は多いですがそう呼ぶことにします。

軍服ファッションショーのトップを飾るのは
やはりファッション大国イタリア、レジア・エアロノーティカの、
元帥閣下が着用されたサービスコートでございます。

スレート・ブルーの繊細な色合いがさすがイタリーのオフィサー用コートは、
アルベルト・ブリガンティ元帥の私物であったということです。

Maj. Gen.Alberto Briganti

シングル・ブレストでヒップ・レングス。
ボックス・プリーツ付きの上部ボタン・フラップ・ポケットが2つ、
下部ボタン・フラップ・ポケットが2つ。
金ボタンにはイタリアの王冠を冠した鷲のエンボス加工が施されています。

両袖口に金線の航空総隊章。

両肩に金線の航空上級士官章、両襟に金色の五芒星とイタリアの王冠の襟章。
左胸のポケット上には14個のメダルリボンが付いています。

これらは戦功十字章や永年勤続勲章のほか、第一次世界大戦の勲章、
1911年にイタリア・トルコ・リビア戦争、そして第二次世界大戦に参加した、
などという功績に対して授与された軍人としての記念です。


Cap, Service, Regia Aeronautica

是非アップで見ていただきたいのが士官用の正帽。
正面の帽章に凝った刺繍が施されているのは各国共通ですが、
他の軍帽なら黒一色が普通のいわゆる「腰」部分にも前面に刺繍があります。

写真のブリガンティ元帥は冬用の濃色の帽子を着用していますが、
夏用も冬用もカバーは使っていないので、レジア・エアロノーティカ、
夏冬で二つの帽子を取り替えて使っていたようです。

フレンスブルク政府 ナチスドイツ帝国

ルフトバッフェ 将校用サービスコート

Coat, Service, Officer, Luftwaffe

シングルブレスト、前身頃に4つの銀ボタン、
胸上部にボックスプリーツのポケット、
ジャケット下部に2つのボタン付きフラップポケット付き。

黄色の襟章は彼が飛行要員であることを示しています。
そしてハウプトマン(大尉)の階級を示す黄色の階級章

右肩にグルッペアジュタント(副官)を表す銀色の飾緒
右胸にある銀のワシはルフトバッフェ、ドイツ空軍の国家記章

そして右側胸ポケットに輝いているのが金色のドイツ十字章です。

海自では1佐以上の正帽の鍔につく刺繍を「カレー」と称するようですが、
なんと第三帝国でもこの手の俗称は存在していて、
この十字章をはじめとする金色のものは
「目玉焼き」(ドイツ語だからシュピーゲルアイ)
と呼ばれていたとかいなかったとか。

左胸の一番上にあるのが戦闘機パイロットを表すバッジ
左上ポケットの上部には戦闘記章リボン、左ポケットに第一級鉄十字章
左ポケットの下にある丸い月桂冠に鷲のアビエイターバッジとなります。

その他装備からわかるのは、彼が20回以上の飛行任務を行なっていること、
4年間の従軍記章を獲得していると言うことです。

乗馬用語でロングブーツとともに着用するズボンをブリーチと言います。

ちなみにこのブリーチ、膝から下はないので、ブーツを脱ぐと
ものすごくかっこ悪いシルエットになってしまいます。

ブーツなしではナチスドイツの制服は完成しない!ということですね。

両脇と、なぜかファスナーのあるところに小さなポケットがあります。
何を入れるためのポケットなんだろう。
家の鍵とかかな。

Dagger, Ceremonial, Officer, Luftwaffe

左の腰に将校用の短剣、M 1937が佩用されています。
銀メッキの儀式用短剣で、グリップは黄色のイミテーションの象牙、
柄頭(ポメル)には鉤十字があしらわれ、
刀の鍔にはドイツ空軍のワシが翼を広げた姿、
銀の結び目が付けられ、鞘はスチール製、ストラップはベルベット製です。

ドイツ空軍将校の正帽はブルーのウールが主材で、
シルバーのパイピング付きとなっております。

バイザーとチンストラップは皮、ピークには銀色のドイツ空軍の鷲、
帽章にあたる部分にはシルバーワイヤーの
黒、赤、白の花形帽章「コカルド」が付いています。

帽子の裏地には金色のプリントでメーカーのマークが入っています。

🇯🇵 大日本帝國

日本陸軍航空隊 士官候補生(軍曹位)パイロット軍服

「第二次世界大戦のエース」コーナーで海軍エースしか言及がなかったので、
公平を期すためなのか、軍服も飛行服も陸軍のものです。

いや・・・陸軍でもいいんですけどね。
どうせなら海軍第二種夏服、せめて第一種冬服にしていただきたかった、
と考えずにいられないのは私だけではないと信じたい。

展示されている陸軍航空隊(JAAF)使用、
オリーブ・ドラブ・ウールのサービス・コートは、
上部にボックス・プリーツとボタン・フラップ付きの2つのポケット、
下部にボタン・フラップ付きの2つのパッチ・ポケット、
フロントの5つの竹製ボタンには金色のペイントが施され、
ボタンには桜の花の彫刻が施されています。

この情報で「ボタンが竹製の金色ペイントだった」と知って驚きました。
金属不足だからといってボタンまで・・・・・。

ちなみに陸軍のズボンもブーツを履くことを想定してデザインされているので
ブリーチ式(乗馬ズボン式)で丈が膝までしかありません。

従って、短靴を着用するときにはゲートルを巻くことが必須でした。

Coat, Service, Enlistedman, Japanese Army Air Force

こういうマークにもいかにもお金をかけていない感じが・・・。

日本人ぽい顔のマネキンを特注してくれたのはありがたいですが、
陸軍の士官候補生なら丸坊主にしていたはずなのでこの髪型はバツです。

ガラスの説明にはこのようにあります。

戦争の最後の2年間、多くの日本軍の士官候補生たちは、
完全に訓練が完了しないうちに
戦闘部隊に割り当てられ実践を行いました。
これは日本軍の戦闘員の著しい損失によるものです。

・・・はい。


🇬🇧 大英帝国

ロイヤル・エア・フォース 軍曹搭乗員サービスユニフォーム

Coat, Service, Royal Air Force

英国空軍のブルーグレーのウール製サービスブラウス。

ウエスト丈の短いタイプで、前身頃は隠しボタンとなっています。
上部にボックスプリーツとフラップ付きの2つのパッチポケット、
身頃と一体型のウエストベルトはバックルで留めるタイプ。

左胸ポケット上部に王冠を被り、
中央にRAFとF刺繍のある翼のパイロット徽章、
左胸ポケット上部に
Distinguished Flying Crossリボン(紫と白の斜めストライプ)、


両腕に軍曹の階級章、右上と左袖に刺繍のRAFイーグル徽章。

Coat, Service, Royal Air Force

階級章の上の両腕に水色の刺繍のRAFイーグル徽章が付いています。

青のサービスユニフォームは案外他で見たことがありませんよね。

このユニフォームのブルーは1918年にRAFが創立した直後から
航空隊のシンボルカラーのようになっていました。

というわけで、フィールドキャップ(いわゆるギャリソンタイプ)、
サービスブラウス、ズボンは全てブルーです。

靴とネクタイは黒で、中のワイシャツの襟は取り外し可能。

ここの展示されている装いは、標準的な兵隊のもので、
袖のシェブロン(階級章)は軍曹のランクであることを示しています。

ところでちょっと余談ですが、
アメリカにシェブロン石油というのがあります。
このマークが、これ。

Chevron Logo.svg

軍服の袖にあって階級を表す山形の線のことを
「シェブロン」(Chevrons)というわけですが、この会社のマークは
まさにそれを表しています。

ちなみに最初は「パシフィック・コースト・オイル会社」という名前で
マークだけがシェブロンでした。

1969年、同社は社名をマークである「シェブロン」に変えます。
「シェブロン」そのものの意味は「山形のマーク」です。

彼の両肩には、このような向かい合わせの対になった
「アルバトロス 」の刺繍があります。
「アルバトロス付きの搭乗員」は、バトル・オブ・ブリテンなど
第二次世界大戦の期間を通してRAFで重要な役割を果たしました。

🇺🇸 アメリカ合衆国

アメリカ陸軍航空隊志願任務者ユニフォーム

大戦中搭乗した「アイク・ジャケット」は機能的でスタイル良く見えるため、
あらゆる階級の軍人の方々に大変ご好評をいただいております。

右袖口近くの三角形のマークは「コミニュケーションスペシャリスト」の印。
左袖口近くの3本の横金線は、かれが合計で
18ヶ月の海外勤務をこなしたということを表します。

胸元に日の丸が見えていますが、これは
反対側にある零戦のマークが映り込んでいるだけですので念のため。

ヨーロッパ戦線で陸軍航空隊の無線通信士として搭乗していた
M.モーガン・ローリンズ軍曹が着用していた制服です。

WASP(女性空軍サービスパイロット) ユニフォーム

それでは最後に、女性軍人(空軍パイロット)の制服をご紹介しましょう。

シングルブレストで仕上げられたウールのドレスチュニックは、
サンティアゴ・ダークブルーといわれる紺色です。

Tunic, Dress, Women Airforce Service Pilots (WASP), Haydu

フロントは金属製の3つの黒ボタン、左胸のWASPパイロット・バッジは、
中央にダイヤモンドの付いた翼がかたどられております。

四つのフラップ・ポケット、ウェスト部分のダーツは
女性の体型を美しく見せる効果があります。

両襟タブに光沢のある真鍮製の「W.A.S.P.」と空軍の翼付きプロペラの記章、
左腕の肩に陸軍空軍の刺繍入り記章
(青地に白の五芒星と赤のセンター・ドット、金の翼)が付いています。

Tunic, Dress, Women Airforce Service Pilots (WASP), Haydu

陸軍航空隊の徽章は左袖の上肩部分に付けられています。

帽子は小粋なベレー帽で、中央に
アメリカの鷲をあしらったバッジがあしらわれています。
おそらく当時のWACはこれを斜めにかぶって着こなしたのでしょう。
やはり女性軍人のためには
これ着てみたい!と思わせるデザインが必須ってことですね。

 

 

続く。

 


飛行服ファッションショー(各国編)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-10-13 | 航空機

仲良く並んで紹介されていたアメリカ陸軍とルフトバッフェの飛行服を
前回紹介しましたので、続いて各国のパイロットの装備と参ります。

Flag of Kingdom of Italy イタリア王国

イタリア王立空軍 Regia Aeronautica Italiana
飛行服(合服)

単なる印象かもしれませんが、さすが国土が長靴の形だけあって
イタリア軍の飛行装備はブーツとか手袋の革製品の色が洒落てます。

しかし、ここでの説明によると、第二次世界大戦中、
イタリア空軍の搭乗員装備は、他国の空軍に比べると
標準化されてはいなかったようです。

飛行服はツーピースになっており、裏地のウールは取り外しが可能で、
気温が低いときの任務には重ねて着用することができました。

ヘルメットはドイツのジーメンス社のデザインに似ています。
イヤフォンとスロートマイクが内蔵されているというのも全く同じです。

スーツは他国と同様電気加熱式ですが、ミトンは絶縁されているので
スーツとは切り離して単体で使うことができます。

救命胴衣はイタリア空軍が頻繁に飛行しなければいけなかった
海上での任務には必須の装備でした。

この展示は足元にパラシュートのバックパックが置かれていませんが、
本体は標準的なタイプの降下スーツを装着しています。

上の写真で目を引く胴回りの金属の梯子のようなベルトは
パラシュートのハーネスを連結するためのものです。


🇯🇵 大日本帝国

日本陸軍航空隊搭乗員飛行服(冬用)

先日ご紹介したこのコーナーの「エース編」において、
どういうわけか全く日本陸軍のエースがないことになっていて、
それはもしかしたら陸軍エースの主な活躍が
中国大陸で英米とは馴染みがなかったから?
と解釈していたわけですが、ここ飛行服と制服のコーナーにおいては、
展示されているのは陸軍のだけで、逆に海軍がないことになっております。

これは深い考えがあってのことではなく、単に展示スペースの関係で
各国1〜2体ずつしかマネキンを置くことができなかったせいでしょう。

ヘルメットは毛皮で裏打ちされており、
イヤフォンの有無にかかわらず使用できます。

酸素マスクは第二次世界大戦中に日本で使用された品種の一つ、
としか書かれておらず、型番などについては
どうやらスミソニアンもわからなかった模様。

酸素マスクの素材は写真ではよくわかりませんが、
マスク部分はゴムのようです。

スミソニアンによると、日本の飛行服は大変作り込まれていて、
それはほとんどの部分を手作業で行っているから、ということです。

いくらなんでもさすがにミシンは使っていたと思うので、
何をもってスミソニアンが「手作業」というのかわかりませんが、
まあ、日本人の手先の器用さを称賛してくれている、
と無理やり考えることにします。

使い回しをしていたのか、飛行服には名札がなく、ただスーツの内側に
パイロットが自分で名前を書く欄があるということでした。

救命胴衣は他国とちがってフライトスーツと一体型に見えます。
救命胴衣には「カポックが詰められている」とあります。

カポックはカポックノキの果皮の内側に生じる軟毛で、
詰め物に使うものを指します。

自衛隊では(アメリカでも)救命胴衣のことをカポックと呼んでいます。
これは第二次世界大戦ごろまで救命胴衣に
カポックが内容物として使われていたからなのです。

わたしなど、カポックというと観葉植物をまず思い浮かべますが。

そしてパラシュートのハーネスですが、
これが世界的にみるとなかなか「独創的」なのだとか。

英語で言うと「クイックリリース・ハーネス・デバイス」で、
要は簡易着脱式なのですが、残念ながら
どう独創的なのかまではわかりませんでした。

Personnel Parachute

足元に置かれた落下傘のバックパック(スミソニアンHPより)。
製造年月日は昭和18年8月18日、製造所は

藤倉航空工業株式会社

です。
同社は現在も藤倉航装株式会社として陸自の空挺隊装備を供給しているほか、
救命装備などの供給を行なっています。

型式は

「同乗者用落下傘九二式」

となっています。

 ソビエト連邦

ソビエト連邦人民空軍 搭乗員飛行服(冬用)

お分かりのように、写真大失敗しましたので、
スミソニアンのHPの写真で説明します<(_ _)>

ソビエトのパイロットは、極寒の天候下での作戦のために
飛行スーツは断熱であることが必須条件でした。

なぜならば、当時のソ連の飛行機は無線がないだけでなく、
コクピットがオープンだったからです。((((;゚Д゚)))))))寒

1941年配備されたこのワンピースのカバーオールは、
そんな厳しい条件下での任務をこなすパイロットのために作られたのです。

Shirt, Ground Crew, Enlisted man, Soviet Air Force

もちろん裏地は毛皮ですが・・・・剥き出しのコクピットに座るのだから、
全身皮のつなぎでもやりすぎと言うことはないと思います。

こんな見るからにペラッペラのスーツ、
いくらロシア人でも耐えられたんでしょうか。

まさか飛行機に乗る前にウォッカは飲まないだろうし・・・。

Helmet, Flying, Winter, Soviet Air Force

さすがにヘルメットは革製で毛皮の裏張りが施されています。

全身写真に次いで頭部のアップも撮影失敗です。
どうしてソ連軍だけこんないい加減にシャッターを押したのかわたし。

疲れてたのかしら。

イタリア軍ならいざ知らず、オープンコクピットで「風を感じる」には
ロシアの気候はあまりに過酷です。

しかしなんでこんなクソ寒いところで風防を装備しなかったかと言うのも、
その件のイタリア軍がサエッタMC.200の風防を
開放式にしたのと同じ理由だそうですね。

「ヘタリア伝説」などで、その理由がパイロットの「風を感じられないから」
という要望だった、とされていますが、
これは若干説明不足で、正式には

「風を感じないと速度の感覚が掴めないから」

というパイロットの切実な要求によるものだったのです。
(決して情緒的な欲求ではありません)

当時のガラスは品質が悪く、コクピットを覆ってしまうと視界が悪くなるし、
計器の精度も不確かとなれば、
パイロットは経験則に従って状況を判断するのが一番「安全」だった、
というのが本当のところなんですね。

そして、視界のよいアクリルガラスが作れなかったソ連も同じ理由で、
MiG-3やLaGG-3をオープンにするしかなかったということなのです。

というわけで、イタリアではどうしていたのか知りませんが、
ロシアの剥き出しコクピットでは
せめてこんなフルフェイスのマスクで顔を覆って寒さを凌ぎました。

ところで、こんなジェイソンみたいなマスクをつけながら
酸素マスクをどうやって併用できたのか。
皆さんもそんなことに気づかれたかと思いますが、ご安心ください。

ソ連空軍は基本的に酸素供給装置を必要としていませんでした。

というのも、ソ連空軍の主任務というのは主に地上部隊の支援であり、
高高度での空中戦になることなどほぼなかったのです。

低空飛行だけなら酸素マスク要りません、とこういうわけです。

🇬🇧大英帝国

イギリス王立空軍RAF 夏用搭乗員飛行服

ロイヤルエアフォースの航空搭乗員は、取り外し可能なフリースの襟を持つ
「シドコット(Sidcot)パターン」といわれる飛行服を着ていました。

「シドコット」は、シドニー・コットンという人名の短縮形です。

フレデリック・シドニー・コットンOBE(1894~1969)は、
発明家、写真家、航空・写真界のパイオニア。

日本では無名ですが、初期のカラーフィルムプロセスの開発・普及に貢献し、
第二次世界大戦前から戦時中にかけての写真偵察の発展に
大きく寄与した人物です。


シドニー・コットン

1917年、英国海軍航空局のシドニー・コットン飛行中尉は、
オープン・コックピットの航空機での飛行における過酷な環境や低温から
パイロットを守るための飛行服を開発しました。

これがシドコットタイプと呼ばれる飛行スーツで、その高機能ゆえ、
パイロットから非常に珍重される品となりました。

たとえばドイツ軍が英国人パイロットを捕虜にした際、
最初に「没収」したアイテムがこのシドコットスーツで、
たちまちドイツでもコピーが生産されるようになりました。

リヒトホーフェン男爵も撃墜されたときシドコットを着用していたそうです。

シドコットは1950年代までRAFなどの空軍で
改良を加えながら継続的に使用され、
今日の飛行服の「元祖」かつ「原型」となっています。

言うてはなんですが、やはり米英パイロットの装備は
ソ連のものとは随分出来が違う、という感を受けますね。

展示されているのヘルメットは「タイプC」で、イヤフォン内蔵。
酸素マスクは「タイプH」、こちらはマイク内蔵です。
(おそらく咽頭マイクでしょう)

Mask, Oxygen, Type H, Royal Air Force

マイク付きH型酸素マスクは緑色のゴム製で、黒色のゴムホース付き。
マイク用の接続線とオンオフスイッチまで装備しされています。

ゴーグルはMarkVIIIといいますから、
もうかなり改良が重ねられているということになります。

長手袋(ガントレットgauntlet)はウールの裏打ちがされており、
ライフベストは圧縮空気とカポックのフローティング機能搭載。

RAFはマーケット・ガーデン作戦で空挺部隊を出していますし、
パラシュートについては何か説明があるかと思ったのですが、
今回、どこを探してもこれらの説明はありませんでした。

 

続く。

 


零式艦上戦闘機の盛衰「衝撃のデビューから陳腐化まで」〜スミソニアン航空博物館

2021-08-23 | 航空機

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」、同展示室の
「5機の最も有名な戦闘機」の最後の機体を紹介することになったのですが、
その前に、展示室にあったこの絵をご覧ください。

■ 映画「トラ!トラ!トラ!」のコンセプトアート

これを見た途端真珠湾攻撃に赴く帝国海軍の艦隊であると気づくのは、
日本人でなければおそらく第二次世界大戦の日米戦に詳しい人だけだと思います。

1941年12月7日が満月だったのかどうかはわかりませんが、
作者の解釈により煌々と雲間から漏れる月の光を白く跳ね返す波をけって
戦艦、航空母艦、そして特殊潜航艇を搭載した潜水艦が並んで航行しています。

夜間にもかかわらず零戦21型が3機飛んでおり、絵画の写実性の割には
現実味のない瞬間だなと気づく人は、さらにマニアに近い知識の持ち主かもしれません。

現地にはタイトルも説明もなかったのですが、調べたところ、この現実味のなさは
この絵が、1970年公開の20世紀フォックス映画「トラ!トラ!トラ!」の
「コンセプトペインティング」として描かれたものであるからということがわかりました。

作者はロバート・セオドア・マッコール(Robert Theodore McCall、1919- 2010)。
特にスペースアートの作品で知られたアメリカのアーティストです。

マッコールは1960年代に『ライフ』誌のイラストレーターとして活躍していました。
スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』の
宣伝用アートワークを引き受けた後、依頼されたのがやリチャード・フライシャー監督作品
『トラ!トラ!トラ!』に関する一連の絵画だったのです。

この絵のタイトルは、(おそらくですが)

Pearl Harber on Sunday

といいます。

一番向こうの空母は旗艦「赤城」であるとして、戦艦は「比叡」か「霧島」か。
もしかしたらこれは戦艦ではない、といわれるかもしれませんので断定は避けておきます。




細部まで詳細に描き込まれていて、たとえば潜水艦上では
特殊潜航艇を搭載した伊号潜水艦の「I 70」というマークまで見えます。

伊号第70潜水艦は確かにハワイ作戦に参加しています。
そして、作戦終了後である12月10日、ハワイ西方約320kmの地点にいた
「エンタープライズ」の艦載機SBDに発見され、撃沈され、
これが太平洋戦争における最初の日本海軍の喪失艦艇とされます。

ただし日本側の記録では伊70の喪失状況は不明とされていて、
さらにVS-6が爆撃したのは伊25だったということになっているそうです。

同じ部屋に展示してあったこの絵ももちろんマッコールの同シリーズ作品です。
本人のホームページで、なぜかこの画像が反転しているのですが、
手前の航空機の搭乗員の鉢巻きと機体に描かれた文字で
日本人には一眼で反転であることがわかってしまいます。

さすが画家、アメリカ人にしては漢字が上手いので感心しますが、
悲しいことに後一つのところで苗字が読めません。

〇〇義雄という兵曹長が真珠湾攻撃に参加していたのかどうか、
機動部隊の名簿に一応全部目を通しましたが、該当人物はなし。

それと、海軍は搭乗員の場合兵曹長より「飛曹長」と言っていたんじゃないのかな。

どなたか真珠湾攻撃に参加した艦爆乗りの義雄という名前の飛曹長に
心当たりのある方は教えていただけますと幸いです。

マッコール氏の他の「トラ!トラ!トラ!」シリーズをご覧になりたい方は
こちらをどうぞ。

Tora! Tora! Tora!

■ 零戦は世界最強の戦闘機だったのか

さて、というところで、当展示室の最後の戦闘機、

Mitsubishi A6M5 Reisen (Zero Fighter)
Model 52 ZEKE

を紹介することにしましょう。
零式艦上戦闘機というのが正式な日本の名称なので、「レイセン」となっていますが、
当時の海軍でも普通に「ゼロ戦」という名称は使用されていたといいますね。

そして「ZEKE」ジークは連合国軍によるコードネームとなります。

ところで、日本語のネットをブラウズしていると、定期的に
零戦についての話題が目に飛び込んできます。

つい最近も、わたしは、

「零戦が最強の戦闘機だったかどうか」

についてのスレッドに行き当たったのですが、そこで、
零戦が最強だったのはデビュー直後だけだった、という
当然と言えば当然の成り行きをことさら強調し、この稀代の名機を
貶めたい人すらいるらしいことを知りました。

どんな最新兵器も技術の進歩によって陳腐化は避けられないのですから、
そんな人には、天下のスミソニアン航空博物館が零戦に与えた
客観的なこの評価を、是非よく味わって欲しいと思います。

第二次世界大戦における日本の航空戦力の象徴として、
三菱A6M零戦(レイセン)を超える航空機はない。

それでは続いてスミソニアンの解説を紹介していきます。

零戦の設計は三菱だが、製造は中島との共同だった。
1939年3月から1945年8月までの間に、2社で1万機以上の零戦を製造した。

1937年、日本海軍が三菱と中島に、三菱A5M空母戦闘機(CLAUDE)に代わる
新しい航空機の提案をするよう指示したことから、設計作業が始まった。

落下式増槽を備えて飛行する九六艦戦 V-105号機 (赤城所属、1938年ないし1939年)

三菱A5M空母戦闘機(CLAUDE)とはつまり九六式艦上戦闘機のことです。
96式=「ク・ロク」=クロードなのか?と今ふと思いましたがどうでしょうか。

1940年7月には中国で戦闘訓練が開始された。
秋までに零戦パイロットは100機近くの中国機を撃墜したが、
友軍の攻撃による零戦の損失はわずか2機であった。

友軍というのはアメリカ側から言っていますので、つまりアメリカ軍のことです。
中国大陸ではまさにデビュー直後の零戦が無敵だったと書かれています。

日本の海軍搭乗員は、戦闘準備の整った328機のA6M2レイセンを飛行させ、
真珠湾やフィリピンでアメリカ軍と戦いました。

レイセンは、1942年5月の珊瑚海に続き、
6月のミッドウェイで
アメリカの機動部隊に阻止されるまで、
戦争最初の6ヶ月間、
連合国の全ての戦闘機を凌駕していました。

零戦が無敵だったのは、中国大陸に続く6ヶ月間、合計1年半ほどだったことになります。

ミッドウェイで日本の空母4隻が失われたことで、致命的な傾向が浮き彫りになった。
日本軍は、経験豊富なパイロットや航空機を交換するよりも早く失うことになる。
しかし、連合国コードネーム「ジーク」は、さらに2年近くも不吉な脅威であり続けた。

わたしはナショナリストでもなんでもありませんが、こういう
敵側からの冷静な礼賛を見ると、思わず心の中で

「ジーク・ハイル!」(洒落かよ)

という言葉を思い浮かべてしまう性根を決して否定しません。

■ 零戦の欠陥と連合国軍の反撃

スミソニアンの零戦は、このように空翔ける姿を再現し、
機体の底部も、正面も、俯瞰位置からも見られるように展示されています。
自慢の復元機の一つで、展示法にも細心の注意が払われているのがわかります。


人気です

それでは、スミソニアンは零戦の優位性をどこに見出しているのでしょうか。

零戦の強力な性能の鍵は重量である。

1937年5月、日本の海軍参謀本部は「空母から飛べる戦闘機」という暫定仕様を発表した。
三菱の設計者である堀越二郎をはじめとするチームは、
この厳しい要求を満たすため、特に機体の軽量化に注力した。

堀越は、日本で開発された新しい軽量アルミニウム合金を使用し、
装甲板やセルフシール式燃料タンクを省くことにしたのだ。

これらの保護装置は何百キログラムもあり、海軍から要求された
性能を満たそうと思えば、割愛を余儀なくされたのである。


機体の軽量化と搭乗員の安全を秤にかけて前者を取った、
というのは有名な話なので誰もが知っているでしょう。
そしてこのことも。

しかし、これらの部品の欠如は、結局、零戦の破滅につながった。

つまりこういう経緯です。

軽量化によって、零戦はアメリカの戦闘機に比べて上昇速度も速く、
接近戦(ドッグファイト)では相手を圧倒することができました。

しかし、戦闘経験を積み、訓練を重ねるうちに、アメリカ軍の戦術は変わり始めます。

敗北にも却って闘志をかき立てられ、死に物狂いで、しかし、
集合知を積み重ね、冷静に克服していこうとするガッツが、

あの国の国民に備わったひとつの強みであることに論を分かちますまい。

 

まず、戦術が慎重に吟味されました。
アメリカ軍パイロットは、旋回したりループしたりするドッグファイトを避け、
高さや速度で優位に立ち、急襲できる時しか零戦と交戦しなくなります。

このタイプの攻撃は、銃を撃ちながら一直線に航過するものです。
そして優れたスピードでゼロ戦から離れ、安全な場所までズームアップするか、
離れた場所で旋回して反航し、再び攻撃するというものでした。

このアイデアと他の戦術を組み合わせることによって、当初零戦には
全く歯が立たないと思われていたグラマンF4Fワイルドキャットには、
日本の戦闘機を破壊することができる手強い相手に変わったのでした。

■ 立ち塞がる強敵

連合国は、1942年にゼロ戦よりも優れた航空機を配備し始めました。
ロッキード社のチーフデザイナー、ケリー・ジョンソンは、
最終的に日本の航空機を最も多く破壊することになるあの、

ロッキードP-38ライトニング

を世に生み出します。

ゼロ戦 vs P-38ライトニング IL2 A6M2 21 vs P38F1LO(ace)

P-38(ペロハチ)パイロットは、その優れたスピードと上昇性能で
1942年末に最初のゼロ戦を撃墜しました。

そして1943年8月には

F6F-3ヘルキャット

が戦闘に投入されます。
その推進力となったプラット&ホイットニーR-2800エンジンは、
パイロットが戦術的状況を気にすることなく零戦と交戦、
または回避するのに十分な速度と上昇力を可能にしました。

グラマン F6F ヘルキャットの操縦マニュアル


次々と強力なエンジンを搭載した機体を生み出すアメリカに対し、
日本の航空業界でも先進的な戦闘機の開発が続けられていたのですが、
完成までの複雑なプロセスには多くの問題があり、戦闘機の実用化はなかなか軌道に乗らず、
そのため、零戦は終戦まで生産され続けることになります。

そのため零戦とその派生機の生産数は11,291機と、日本の軍用機の中で最多となりました。

 

■ スミソニアン展示の零戦の来歴

国立航空宇宙博物館に展示されているA6M5零式艦上戦闘機52型は、
1944年4月にサイパン島で捕獲された日本軍機12機のうちの1機です。

サイパンで鹵獲されたばかりの当博物館の零戦の姿。
日の丸を掲示板にするなー!

 

そして海軍がまだ戦争の終わっていない7月に評価のために米国に送られてきました。

当館の最も古い記録によると、1944年にオハイオ州のライトフィールド基地で、
翌年にはフロリダ州のエグリンフィールドで評価されたことが記されているそうです。

残された記録は次の通り。

1944年9月1日、ワシントンD.C.の対岸アナコスティア海軍航空基地にて、
1944年10月20日までに3:10の飛行時間(連合軍)を記録

1945年1月3日から2月9日までフロリダ州エグリン飛行場で評価

1945年4月18日から1946年2月13日まで、オハイオ州デイトンのライト・フィールド。
1945年7月13日時点で、この零戦は連合国側で93時間15分飛行している

1946年3月4日までにインディアナ州フリーマン飛行場へ、
1946年6月14日にフリーマン飛行場を出発

現地の説明板に掲載されているコクピット写真。

ここでの解説は次の通りです。

Mitsubishi A6M5 Zeroは第二次世界大戦における主要な日本海軍戦闘機でした。
真珠湾攻撃から終戦近くの神風特攻隊まで使用されたA6Mには、連合国から
コードネーム「ジーク」が付けられましたが、一般には「ゼロ」と呼ばれていました。

機体の機動性は連合軍パイロットを驚かせました。
彼らが自国の航空機の速度と火力を利用した戦術を考案するまで、
ゼロは戦闘において非常に成功したことが証明されています。

戦争が進むにつれ、連合国はその巨大な産業力により、優れた航空機を生産することができました。

その名声が高かったため、連合軍搭乗員は全ての日本の戦闘機をゼロと呼びましたが、
ゼロという名前は三菱A6Mにのみ正しく適用されます。

このマーキングは、サイパンに展開していた海軍第261航空隊のものです。

たいていのことはすでに知っていましたが、敵のパイロットが、
隼であろうが紫電改であろうが「ゼロ」と呼んでいたというのは初めて知りました。

それって、特別攻撃を何彼構わず「カミカゼ」よばわりするのと同じノリかな?

大戦初期、高い機動力を持つゼロは連合軍に「不快な驚き」を与えました。
これは日本の技術力が当時の世界に十分かつ真剣に受け止められていなかったからです。

つまり、侮っていた東洋人にこれだけ優れた科学と生産力を持てるなど、
当時の白人世界には及びもつかなかったことから来るショックですな。

 

零戦そのものが真に(つまり絶対的に)優れた航空機かどうかの評価はともかく、
この事実でもって、世界に精神的な「殴り込み」をかけたということ一つとっても、
この戦闘機の存在価値は、ある意味我々日本人と当時の白人国家以外にとって偉大だった、
と褒め称えるに値するのではないかとわたしは思ってみたりします。

確かに負ける戦争ならしないほうがマシだった、というのも一つの冷徹な真実ですが、
もしあのとき日本が戦争を起こさなければ、世界の序列も価値観も依然として変わらず、
いまだに支配構造も大国主義も同じままであった可能性だって・・あるよね?

とおそるおそる言ってみる(笑)

真珠湾にあるアメリカ海軍の施設が1941年12月7日、日本海軍の軍用機に攻撃されました。

奇襲攻撃は中島B5N(ケイト)魚雷爆撃機、愛知D3a(ヴァル)艦爆、
そして三菱ゼロ戦闘機によって行われました。

日曜日の2時間の朝の襲撃で、日本の機動部隊航空隊の二波が
2,300名のアメリカ人を殺し、オアフ島の航空機の半分以上を破壊し、
7隻の戦艦を沈没または激しく損傷させました。

攻撃そのものは壊滅的な打撃を与えましたが、修理工場と燃料貯蔵エリアは
ほとんど手付かずであり、3隻の空母は無事でした。


この壊滅的打撃によって、支配階級の大国を怒らせてしまった東洋の小国、
日本が、
その後どうなったかは歴史の示す通りです。(投げやり)


続く。