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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

NASA実物大風洞実験装置〜マイルストーンシリーズ・スミソニアン航空博物館

2022-03-26 | 航空機

こんな風景を思い浮かべてください。

ここはバージニア州ハンプトンにあるNACAラングレー記念航空研究所。
ここには新しい風洞、NACAのフルスケールのトンネルがあります。

海軍のヴォートO3U-1「コルセアII」実物そのものが風洞に取り付けられ、
エンジンが始動されると、すぐに機体は時速120マイルで「飛行」を始めます。

しかし、それを見ている者の目には、この飛行機は空中の一点に留まり、
ただ、風洞の中の空気が時速120マイルでこの上を吹き抜けていくのです。

これが、NASAの前身である
NACA(National Advisory Committee for Aeronautics)
の新しいFST(Full Scale Tunnel)=風洞です。



飛行機の模型ではなく、飛行機そのものを使って行われた最初のテストでした。
FSTの利点は、高さ9m、幅18mの大空洞に飛行機を丸ごと搭載できることです。

実物大の実験は、小さな風洞で小さな模型を試験しても、どうしても生じる、
いわゆる「スケール効果」の不確実性を排除することができるでしょう。


◆ 風洞とは

風洞、英語で言うところのwind tunnel, WTとは、
人工的に「流れ」を発生させ、発生させた流れの中に縮小模型などの試験体を置き、
局所的な風速や流れの可視化などの実験を行う施設です。

風洞を用いた実験を風洞実験・風洞試験と呼ばれ、
航空機・鉄道車両・自動車など高速で移動する輸送機械や、
高層ビル・橋梁など風の影響を受け易い建築物の設計に用いられます。

歴史を遡ると、1700年第後半にはすでに、空気抵抗を測定するための
回転アームを用いた風洞で飛行機の実験が行われていました。



同じスミソニアン別館のウドヴァー・ヘイジーセンターの方には、
ライト兄弟が用いた風洞装置が展示されています。

ライト兄弟はこの装置で翼の形の研究を行い、その結果
ライト・フライヤー1号の開発に成功しています。



初めて実物大の風洞を開発したのは、ドイツでした。
V1、V2ロケットを開発した陸軍兵器実験場ペーネミュンデの技術者たちは、
実験のために巨大な風洞を製作しました。

中にも入れます

◆ NACAの風洞



風洞試験を経ることなく飛行する飛行機はありません。
この巨大な風洞ファンは、バージニア州ハンプトンにある研究センターの、
NASAの実物大の風洞に取り付けられていた二つのファンのうち一つでした。


二つの大型プロペラがテスト飛行機とこの写真に見える
F-18などのモデルに空気を送り、飛行機を実際に空に飛ばしました。


航空諮問委員会(NACA)のために、1931年に建設された風洞は、
当時のアメリカ軍の重要な軍用機のほとんど全てをテストしています。

風洞は「9メートル×18メートルのトンネル」とも呼ばれ、
最大12メートルの翼幅の航空機を保持できます。

航空宇宙エンジニアは、風洞実験から採られた正確なデータを使用して、
基本的な設計を検証し、また改善を行いました。

実物大の風洞は、これまでに建設された中でも最も価値があり、
そして用途の広い研究用トンネルの一つとなったのです。

実物大の風洞は、実物大の航空機、フリーフライトモデル、
吊り上げ機、そして超音速輸送機など、多くの軍事、
及び民間航空の設計に関するデータを提供することになりました。

バージニア州ノーフォークにあるオールド・ドミニオン大学
1996年から2009年までトンネルを運営し、航空機、トラック、
列車、自動車、そしてレースカーなどのテストをおこなっていました。

ちなみにわたしも初めて聴くオールド・ドミニオン大学と言う名前ですが、
GPAは3.3で、難しさを5段階でいうと3の「普通に難しい」大学だそうです。

この大学の名前は重要であとでもう一度出てきますので覚えておいてください。



ベルXP-59、ノースアメリカンP-51Bマスタング
そしてヴォートF 4U-1Aコルセア

これら第二次世界大戦に活躍した航空機は、
このファンを使った風洞実験を経て生まれました。

NACAの実験を通しての抵抗力低減の取り組みは、速度と射程を向上させ、
連合軍のパイロットに先頭における決定的な有利をもたらしたのです。


マーキュリー・カプセル、月面着陸練習機、そしてスペースシャトル
これらもまた風洞でテストされた航空宇宙設計でした。

写真で風洞にセッティングされているのはマーキュリーカプセルです。

「ライト・スタッフ」に描かれたマーキュリー計画で、アメリカ合衆国は、
史上初の有人軌道飛行あと、マーキュリーカプセルに
アラン・シェパード宇宙飛行士を乗せて弾道飛行による打ち上げを行いました。

マーキュリーカプセルは2機、有人弾道カプセルとして打ち上げられています。


NACAの技術者が現場で製作しているのは、
木製のブレードで、これをさらに加工して使用しました。

木を用いてこれを製作したのは、形を正確に再現するためで、
バランスを取ることができるからでした。
しかも、木の層を接着させて重ねることで、変形を防ぐことができます。

エプロンをして木を削っている人なんて、NASAのイメージゼロですね。


テストの結果収集されたでたは、空力学者やエンジニアが使用するために、
女性からなる「コンピュータ」チームによって処理されました。

コンピュータに「」が付いているのは、コンピュータを使用したのではなく、
彼女らのタイプを使用したデータ処理をしてそう呼んでいるのです。

◆米軍機の高速化に寄与した風洞実験

完成後10年間、ラングレーFSTは世界最大の風洞実験装置でした。
それは航空技術分野でアメリカの世界的な存在感を高める原動力となります。

その後78年間、ラングレーFSTでは、ロッキード・マーチン社のF-22に至るまで、
アメリカ軍に存在したほぼすべての戦闘機がテストされることになります。

特に歴史的に重要だったのは、1938年から45年にかけて行われた
「ドラッグ・クリーンアップ・テスト」
”Drug cleanup tests”
と呼ばれる一連の大きな試験でした。

この試験は、実戦配備された飛行機から外装を1つ1つ取り除き、
パテで粗い部分を滑らかにし、滑らかな基本形に成形してから、風洞に入れ、
各段階で部品ごとに原因となる空気抵抗を特定する、と言うものです。

風洞実験によって、機体の最も抵抗の大きい部分を特定し、
飛行機全体の抵抗が小さくなるように改良していくのが目的でした。

第二次世界大戦中、アメリカの敵となった国の戦闘機は、
米軍機の高速性に悩まされましたが、それらの高速化に貢献したのは、
他ならない、この抗力クリーンアップ試験であったというわけです。

このトンネルで二日間にわたるテストが行われたのは1943年3月6日のことでした。

これはフル・スケール・トンネルで行われた最軍機とされたテストだったため、
この情報が世間に明らかになったのはつい最近になってからのことです。

◆ ラングレー風洞を飛んだ”アクタン・ゼロ”

1942年6月4日。

それはある軍人に言わせると、
「ミッドウェイ海戦の敗北よりも深刻な事件のあった日」
として記憶される日付です。

日本軍の飛行機がアリューシャン列島のダッチハーバーにある
米軍基地を攻撃したときから、この話は始まりました。

このとき、日本の三菱零式艦上戦闘機は地上からの攻撃でオイルラインを切断され、
パイロットは草原と思われる場所に不時着しなければなりませんでした。

しかし、その草原は水と泥に覆われた沼地であったため、
着陸態勢に入った飛行機は仰向けにひっくり返り、パイロットは死亡します。
彼は「龍驤」から発艦した古賀直義一飛曹と言うことがわかっていますが、
今はそのことについては本題ではないので語りません。

墜落した飛行機は1ヵ月後にアメリカ海軍の哨戒機に発見され、
検査の結果、引き揚げ可能であることが判明します。
日本軍の零戦としては初めてアメリカの手に渡った貴重な機体でした。


さりげなく星形をつけてる零戦(´・ω・`)

鹵獲された零戦は、サンディエゴとワシントンのアナスコスティアで
米海軍の試験を受けた後、NACAラングレー記念研究所に運ばれ、
さらに特殊計器の取り付けが行われました。

そして、1943年3月5日(金曜日ということまで記録に残っている)
午後3時頃、風洞のあるラングレーに到着した零戦は、
そのままラングレーのフライトラインに「しれっと」駐機されて夜を迎えます。

その夜、闇にまぎれて零戦はフルスケール・トンネルに密かに搭載され、
2日間、極秘裏にテストが行われました。
テストに参加した風洞の特別クルーは、秘密厳守を誓約させられています。

月曜の夜が明けると、飛行機は何事もなかったかのように、
フライトラインの元の場所に戻っていました。

この秘密実験の存在は、この日から67年後の2008年になって、
フルスケール・トンネルの前所長であるジョー・チェンバース氏が、
この秘密実験に参加したラングレーの退職者たちにインタビューし、
初めて明らかになったのでした。

風洞を飛んだ零戦の写真は現存せず、試験結果もどこにも残されていません。

この時、日本の零戦は、ライト飛行場からラングレー飛行場まで自力で飛び、
滑走路から風洞に運び込まれ、厳重な秘密のベールの下で即席のテストを行い、
67年間もほとんど誰にも知られることがありませんでした。

アクタン・ゼロの解析についてはテストパイロットの意見などが残され、
色々な解釈がされていますが、風洞実験がどのように
アメリカの戦略に生かされたかも、資料が残っていないので
現在のところわかっていないとされているようです。

◆FSTを救った?オールド・ドミニオン大学

戦後のNACAでは、先日もお話しした、X-1に象徴される、
マッハ1に向かう飛行域の高速航空機が中心となりました。

音速を超える飛行機も、離着陸の時には低速に落とさねばなりません。
フルスケールトンネルはそのような低速実験に最適な施設でした。

また、このトンネルではヘリコプター試験も頻繁に行われるようになります。

1958年、NACAはNASAとなり、国家的な宇宙開発計画が本格化しました。
宇宙船もまた、大気圏突入後は低速で着陸しなければなりません。

というわけでラングレートンネルは、マーキュリー宇宙カプセル、
HL-10の低速試験の主力となっていきます。

また、この時期から無人のフリーフライト試験が開始され、
遠隔操作でトンネル内の気流に乗って模型を飛ばす実験が行われました。

このフリーフライト試験は、模型の安定性や制御特性を、
固定された付属品に邪魔されずに試験・観察することができました。


また、1960年代から70年代にかけては、
航空機の超高迎角における空力特性に大きな関心が寄せられた時期で、
再びフルスケール・トンネル内での模型を遠隔飛行実験が行われました。

1985年、米国内務省がラングレーFSTを国定歴史建造物に指定しました。
つまりランドマークというか史跡?となったのです。

しかし、アメリカでは、歴史建造物指定がされたからといって、
この施設が取り壊されないという保証はないみたいなんですね。

懸念した通り、NASAは国から風洞を減らすよう圧力をかけられ始めます。

そこで、当時のラングレー所長ポール・ホロウェイが、
フルスケールトンネルを保存するために考え出した解決法が、
先ほど名前の出た近隣の大学、オールドドミニオンだったのです。

そこでホロウェイ所長は、オールドドミニオン大学の工学部長を説き伏せ、
フルスケール・トンネルの運営を引き継ぐ名乗りをあげ、
ラングレーに提案しろ、と迫りました。いや、勧めました。

この工学部長という人が、この施設を従来とは異なった用途で
空力試験に利用するチャンスだと考えたので話はまとまりました。

1997年、オールドドミニオン大学がFSTの運営を引き継ぎました。
当時、大学が運営する風洞としては世界最大のものとなりました。

オールドドミニオン大学は、1996年から2009年までこのトンネルを運営し、
ライト・エクスペリエンスによる1903年のライトフライヤーの再現や、
NASCARのレーサーなど、従来とは異なるモデルのテストが行われました。

風洞実験されるライト・フライヤーのレプリカ


◆ラングレーFSTの最後

オールドドミニオン大学との契約が切れた後の2009年9月4日、
ボーイングX-48の混合翼を使った最後の試験が行われました。

そして1931年の完成から約80年後の2011年5月18日に解体工事が完了しました。

この歴史的なトンネルで現在にその形をとどめているのは、
国立航空宇宙博物館が譲り受けた2つの駆動ファンのうちの1つだけです。

このファンは、2015年2月、博物館の
「ボーイング・マイルストーンズ・オブ・フライト・ホール」に設置されました。

設置中

梯子のかかっている部分に、「TEST 」と雑に書かれた字が見えますが、


それは現在もスミソニアンで確認することができます。


NASAのエンジニアであり、著述家であるジョセフ・R・チェンバースは
このように述べています。

「フルスケールトンネルは、NACAが世界一流の研究所であるという
メッセージそのものであり、航空機設計者にとって
後世に残る貴重なデータを生み出してきたのです」



続く。






XS-1グラマラス・グレニス 音速を超えた飛行機〜スミソニアン航空博物館

2022-03-24 | 航空機


前回に引き続き、スミソニアン航空博物館の「世界を変えた歴史的航空機」から、

ベル X-1 グラマラス・グレニス
Bell X-1 Glamorous Glennis

をご紹介します。

スミソニアンのエントランスを通ってこの広場に出た時、
真っ先に目についたのは、このオレンジの機体でした。
忘れようにも忘れられないその特徴のある音速機。
かつて映画「ライト・スタッフ」の紹介のために絵に描いたこともあります。



X-1 グラマラス・グレニスの前に立つパイロット、チャック・イェーガー。
彼はこの機体で、人類史上初めて音速を突破した男になりました。

スミソニアン博物館に足を踏み入れ、その機体を実際に目の当たりにしたとき、
わたしのテンションはいきなり急上昇したものです。

まだこの絵を描いた頃は存命だったイェーガー氏ですが、
2020年の12月7日、97歳で死去しています。

スミソニアンの紹介はこのようなものになっています。

「NASA チャールズ・E’チャック’ イェーガーは、
空軍で最も経験豊富なテストパイロットでした。

11回の空中勝利を収めた第二次世界大戦のエースである
ウェストバージニア出身のパイロットは、機械を本質的に理解し、
主観的な飛行特性に対する感覚を、飛行を直視するエンジニアに
パフォーマンスデータとして的確に伝えるという稀な能力を備えていました。」

◆ 音の壁を破った瞬間

1947年10月14日、ベルXS-11号機に乗ったアメリカ空軍の
チャールズ・'チャック'・イェーガー少佐は、
音速より速く飛んだ最初のパイロットとして歴史に名前を刻むことになりました。

後にX-lと命名されることになるXS-1は、
カリフォルニア州ムロックドライレイク近くのモハベ砂漠上空で、
高度43,000フィート、マッハ1.06、時速700マイルに到達したのです。

この飛行により、航空機は音速よりも速く飛ぶように設計できることが証明され、
依然として貴重な遷音飛行データを収集することに成功しました。
「音の壁」という神話は事実上破られることになったのです。

ナショジオの番組ではありませんが、文字通りの「ミス・バスター」です。

XS-1は、1944年にNACA(National Advisory Committee for Aeronautics)
米陸軍航空隊(後の米空軍)が共同で開始したプログラムで、
有人遷音速・超音速研究機として開発された機体です。

1945年3月16日、陸軍航空技術軍団は、ニューヨーク州バッファローにあった
ベル・エアクラフト社とプロジェクトの開発契約を結びました。

プロジェクト名はMX-653
ベル社には、3機の超音速・超音速研究機が発注されます。

プロジェクトの目的、それは音速を突破する機体。

XS-1という名称は、陸軍が命名したもので、
Experimental Sonic-i(音速実験機I)の略称です。

それを受けてベル社は、ロケットエンジンを搭載したXS-1型機3機を製造しました。


スミソニアンに航空機多しといえども、鮮やかなオレンジ一色、
というペインティングなのはこのX-1だけであろうと思われます。
(もしかしたら標的機などであるかもしれませんが)

この理由は、観察者が地上から機体を視認しやすいとして選ばれました。


◆イギリスを利用したアメリカ

同じような実験は、イギリスでも試みられていました。
イギリス航空省はマイルス・エアクラフト社に依頼し、
世界初の音速突破機開発プロジェクトを極秘裏に開始しています。

このプロジェクトの結果、ターボジェットを搭載したマイルズM.52が試作され、
水平飛行で時速1,000マイル(870kn、1,600km)に達し、
1分30秒で11kmの高度に上昇できるよう設計されました。

X-1にクリソツだったM.52、と思ったらX-1らしい(コメント参照)

1944年までにM.52の設計は90%完了し、
マイルズ社は3機の試作機の製造に取り掛かりましたが、
そのとき、アメリカが高速機の研究に関するデータ交換を申し出てきたのです。
同年末、航空省はアメリカと高速機の研究・データ交換の協定を結びました。


マイルズ社とイギリスは何の疑いもなくアメリカとの協力に合意したのですが、
のちにアメリカの腹黒さに驚愕することになります。

マイルズ社は、協定を結ぶなり乗り込んできた、アメリカ側ベルの担当者に
自社でM.52の図面と研究を見学させたのですが、その直後、
アメリカはイギリスとの協定を破棄してしまいました。


マイルズ社の技術者からすれば、こちらのデータを見せただけで、
向こうからは何のデータの供与もないまま終わったということになります。

種明かしをすると、当時、ベル社は、マイルズに全く秘密のままで
独自のロケット動力による超音速機の建設を進めていました。

しかし、ピッチ制御の問題に直面し、それを解決するためには
M.52で既に決定していた可変入射尾翼の搭載が適切かもしれないと考えました。


つまり、ベル社の技術陣は、その仮説が正しいかどうかを、
マイルズとRAEの試験飛行のデータによって確認しようとしたのです。
そのためにアメリカ政府を動かしてイギリスと協定を結ばせ、
データを見せてもらいさえすればもうイギリスは用済みとなるので、
アメリカ政府に協定を破棄させたというわけです。



こういった権謀術数は、イギリスのお家芸のようなイメージがありますが、
さしもの老獪国家もなりふり構わないヤンキーにしてやられたというわけです。


◆「翼のある弾丸」〜研究と調査

アメリカでXS-1が最初に議論されたのは1944年12月のことでした。
初期の仕様は、時速1,300 kmで高度11,000 mを2〜5分で飛行できる
有人の超音速機というものでした。

アメリカ陸軍航空局と全米航空諮問委員会 (NACA) がベル航空機会社に
遷音速領域の条件の飛行データを取得すべく
3機のXS-1(「実験、超音速」、後のX-1)の建造を依頼したのは1945年3月です。

同じ頃、日本がそのアメリカに国内の至る所を
空爆で散々蹂躙されていたことを考えると、
つくづくこの国力差のある相手に戦争を挑んだことそのものが
無謀でしかなかったと考えずにいられません。


さて、設計者は、代替案を検討した結果、ロケット機を製作することになりました。
ターボジェットでは高高度で必要な性能を得ることができないと考えたからです。

X-1の原理をキャッチーな一言で言うとしたら、それは
「翼のある弾丸」
でした。

事実、その形状は超音速飛翔で安定することが知られている
ブローニング50口径(12.7mm)機関銃弾によく似ています。

危険な空気抵抗を克服するために、X-1は非常に薄くて強い翼と、
制御を改善するための微調整可能な水平尾翼を備えていました。

高出力の「弾丸」は超音速で安定していたため、
設計者は期待を50口径の弾丸に似せて成形したのです。

「翼のある弾丸」には、操縦者を座らせる狭い操縦室が
機首の傾斜した部分の枠付き窓の後ろに設置されていました。


狭っ

なにしろ「弾丸」ですから、もちろんパイロットの脱出シートもありません。

ベル社の当時のテストパイロット、チャルマーズ・”スリック”・グッドリンが、
テスト飛行の危険手当てとして15万ドルと、さらに
0.85マッハを超えた分に対して追加を要求した、という噂があり、
本人はそれをのちに否定したにもかかわらず映画「ライトスタッフ」では
逸話として挿入されていますが、まあ、家庭を持つ男なら当然かもしれません。

さらに、この法外な要求のため、軍はベル社とのテスト契約を打ち切り、
テストの権利を買い取って、軍人であるイェーガーに飛行させた、
という話もあるそうですが、これはどちらかというと後付けの理由で、
軍としてはとにかく制服を着た人間に「史上初」の快挙を上げさせたかった、
というのが本当のところではないかと思われています。


さて、開発が始まった時はまだ戦争中だったため、XS-1は
戦闘機として運用される可能性を考慮して、地上からの離陸を想定していましたが、
戦争が終わったので、B-29スーパーフォートレスによる空輸、
という方法が選択がされることになりました。

そして、1947年にはロケット機の圧縮性に問題が生じます。
そこで先ほどお話しした「イギリスとの技術協力(のふりをした一方的な搾取)」
により、可変入射尾翼に改修されることになりました。




X-1の水平尾翼を全移動式(または「全飛行式」)に改造した後、
テストパイロットのチャック・イェーガーが実験的に検証し、
その後の超音速機は、すべて全移動式尾翼か
「無尾翼」のデルタ翼型が選ばれるようになりました。


燃料は水で薄めたエチルアルコールと液体酸素の酸化剤で燃焼させるも方式でした。
4つの燃焼室は個別にオン・オフが可能で、推力を細かく変えることができました。

1号機と2号機のX-1エンジンの燃料と酸素タンクは窒素で加圧され、
飛行時間が約1+1/2分短くなり、着陸重量が910kg増加しましたが、
3号機のエンジンはガス駆動のターボポンプを使い、
エンジンの重量を軽くしつつチャンバーの圧力と推力を増加しました。

◆ XS-1たちのその後



現在、国立航空宇宙博物館が所有するXS-1、1号機(シリアル46-062)は、
イェーガーが妻に敬意を表して「グラマラス・グレニス」と命名したものです。

XS-1、2号機(46-063)はNACAで飛行試験が行われ、
後にX-1「マッハ24」研究機として改良されて、現在、
カリフォルニア州エドワーズのNASA飛行研究センターの屋外に展示されています。

3号機(46-064)は、ターボポンプ駆動の低圧燃料供給システムを採用した機体。
X-1-3「クイニー」の名で親しまれたこの機体は、
1951年の地上での爆発事故でパイロットを負傷させ、喪失しました。


X-1D

その後、X-1A、X-1B、X-1Dの3機が追加で製作されましたが、
このうちX-1AとX-1Dの2機は、推進系の爆発で失われています。


XS-1の2機は高強度アルミ製で、推進剤タンクは鋼鉄製でし。
1号機と2号機は、ロケットエンジンへの燃料供給にターボポンプを使用せず、
燃料供給システムの直接窒素加圧に頼っていました。

先ほども書いたように、XS-1の輪郭は50口径の機関銃の弾丸を模していますが、
その胴体には、2つの推進剤タンク、燃料と客室加圧用の12の窒素球、
パイロット用の加圧コックピット、3つの圧力調整器、
格納式着陸装置、翼のキャリースルー構造、
リアクションモーターズ社の6,000ポンド推力のロケットエンジン、
500ポンド以上の特殊飛行試験用計測器などがぎうぎうに詰め込まれています。


◆音速の「壁」


「X-1は、ボーイングB-29のボムベイから空中で発射された」

スミソニアンのHPにはこんなことが書かれています。

X-1は当初地上離陸用に設計されていましたが、最終的にすべてのX-1機は
ボーイングB-29またはB-50スーパーフォートレス機に懸下して、上空から発進
つまり空中発射されるということになりました。

XS-1にどんなエンジンを乗せるかについては、大変な議論の紛糾を経て、結局
リアクション・モーターズ社が開発中だったXLR11ロケットエンジンに決定します。

そのエンジンの推進剤は、安全性を最優先した結果、
従来使用されていた硝酸とアニリンではなく、
液体酸素とアルコールの組み合わせになったわけですが、
この組み合わせは、膨大な燃料を消費することがわかりました。

つまり安全を優先した結果、燃料を節約する必要があったということ、さらに
ロケット推進機を地上から運用することで性能低下が懸念されたため、
空中での発射という方法に計画は変更された、というのです。

THE RIGHT STUFF Chuck Yeager (Sam Shepard) breaks The Sound Barrier

映画「ライト・スタッフ」の音速突破シーンです。
「牽下された」というイメージだと、まるで糸で吊られている状態から
発射されたように思えますが(わたしだけかな)、映像のように
文字通り爆弾倉から落下されてそこから自力で飛ぶという方法です。

映画では計器のガラスが割れたりして緊張感満点ですが、
チャック・イェーガー自身は、この瞬間に拍子抜けというか、
がっかりした、とのちに語っています。



音速の壁というものが、破った瞬間にそれとわかる形で存在していると思ったのに、
つまりもっと衝撃波のようなものがあると思っていたら、
(本人曰く『パンチで穴が開けたときのような衝撃があると思っていた』)
ぬるーっと突き抜ける感覚しかなかった、つまらんかった、ということですね。

英語では実際にはこう言ったようです。

"Later, I realized that the mission had to end in a Let-down 
because the real barrier wasn't in the sky
but in our knowledge and experience of supersonic flight."

(その後、私は失望のうちに任務を終了させることになった。

なぜなら、本当の”壁”は空に存在するのではなく、
我々の超音速飛行への知識と経験のうちに存在するものだったからだ)

そりゃ普通そうだろう、としたり顔で言う人は、改めて
コロンブスの卵の逸話を思い出してみると良いかと思われます。

それはその瞬間まで、最初にやったものにしかわからないことでした。

X-1が音速を突破するまでは、人々はそもそも
人類には音より速く飛ぶことができるようになるとさえ思っていなかったのです。


歴史を刻む朝、X-1の前に立つイェーガー

しかし、1949年1月5日、チャック・イェーガーが操縦するX-1#1、
グラマラス・グレニスは、ムロック・ドライレイクからの地上離陸に成功しました。

X-1#1の最高速度は、1948年3月26日にイェーガーが飛行中に達成した
40,130フィート(約957mph)でのマッハ1.45です。

その後、1949年8月8日、アメリカ空軍のフランク・K・エベレストJr.大佐
高度71,902フィートに達し、最高高度を達成しました。

その後、1950年半ばまで、委託業者による19回のデモンストレーション飛行と
59回の空軍試験飛行が続けられることになります。

◆スミソニアンのXS-1




1950年8月26日、空軍参謀長ホイト・ヴァンデンバーグ元帥は、
スミソニアン博物館長官ウェットモアにX-1 の1号機を贈呈しました。

そのとき、元帥は、

「X-1は、航空時代の最初の偉大な時代の終わりと、
2番目の時代の始まりを告げるものである。

亜音速の時代は一瞬にして歴史となり、超音速の時代が誕生したのだ。」

と述べています。

これに先立ち、ベル・エアクラフト社のローレンス・D・ベル社長
NACAの科学者ジョン・スタック氏、
空軍テストパイロットのチャック・イェーガー氏は、
音速を初めて超え、超音速飛行の実用化への道を開いた功績により、
1947年にロバート・J・コリアー・トロフィーを受賞しました。

◆ X-1の”レガシー”

X-1実験は超音速飛行の課題を解決しましたが、
誰もが期待する変革を生み出すことができたわけではありません。

音よりも速く飛ぶことは軍事用途を除いて費用が高すぎたため、
民間の超音速の時代はあっという間に終わってしまいました

しかしながら、遷音速及び超音速の実験によって収集されたデータが、
新世代の亜音速民間旅客機を、より安全で効率的なものにし、
後世に生かされることになったのは、今日を生きる全ての人の知るところです。


続く。




アメリカ初のジェット機XP-59A〜スミソニアン航空博物館

2022-03-22 | 航空機

「宇宙からのスパイ」シリーズを終わり、ここからは新シリーズです。

スミソニアン航空宇宙博物館のゲートを入ると、最初に現れるのが
このボーイングがスポンサードした歴史的航空機を展示する巨大なホールです。

「これらは、創意工夫と勇気、戦争と平和、政治と権力、
そして社会と文化の物語を語るものです。
これらのマイルストーンは、私たちの地球を小さくし、

宇宙を大きくしてきました」

こんな言葉で紹介されるホールには、

リンドバーグが大西洋単独横断を行った スピリット・オブ・セントルイス

アメリカ初のジェット機 ベルXP-59Aエアラコメット

チャック・イェーガーが初めて「音の壁」を破った ベルX-1

ジョン・グレンが乗った水星カプセル フレンドシップ7

マリナー、パイオニア、バイキングの惑星探査機、

民間開発で初めて宇宙に到達した スペースシップ・ワン

など、人類の航空・宇宙史にとって記念碑となる機体が展示されています。
当シリーズの新シリーズでは、このマイルストーン、
歴史的航空機を順に取り上げていくことにします。


◆ Bell XP-59A Airacomet
ベル・XP-59A エアラコメット
「アメリカ初のジェット機」



時代順でいくと、「スピリット・オブ・セントルイス」が展示の最古となりますが、
そちらはチャールズ・リンドバーグについて語る時のために置いておいて、
当ブログでは最初に、アメリカ初のジェット機となった、ベル社の
XP-59A エアラコメットをご紹介することにします。


【ジェット開発の遅かったアメリカ】

XP-59Aは、アメリカが開発した初のジェット機です。

以前もスミソニアン博物館の世界のジェット機開発シリーズで取り上げましたが、
ジェットエンジン開発の発祥はイギリスであり、ドイツがそれに追随しました。

具体的に運用に至ったのはイギリスのグロスター流星戦闘機中島の菊花など。
特にドイツはジェット推進機で当時世界のトップに立ち、
メッサーシュミットMe262ジェット戦闘機、
アラドAr234ジェット爆撃機
が実用化されていました。

それに対し、アメリカのジェット推進の分野への参入はかなり遅かったため、
第二次世界大戦中の1942年にはもう初飛行を済ませていたものの、
ご存知の通り戦闘に投入されることはありませんでした。

当時のアメリカがジェット機開発を急がなかったのはなぜだったのでしょうか。

それは、目の前の戦争に勝利することに集中していたアメリカが、
より迅速に、今そこにある戦争に貢献できる従来型の設計を大量生産し、
実戦に投入することを、何より優先していたからでした。

このことは結果的に賢明な判断だったと言われることになります。

なぜなら、アメリカ以外の、大戦中にジェット推進を推し進め、
第二次世界大戦に投入したいずれの国も、その斬新すぎる技術を持て余し気味で、
運用に漕ぎ着けることはできても実戦に際し問題があまりにも多く、
結局ジェット機で戦争に目立った影響を与えることはできなかったからです。


その点アメリカは、戦後にドイツの科学者を引き抜くなど、
後発ならではの手段を使い、改めてじっくりと問題に取り組むことによって、
アメリカ陸軍航空隊(AAF)とアメリカ海軍に貴重な経験を与えると共に、
ジェット機エンジンにより高度な設計への道を開くことを可能としたのでした。

今日ご紹介するのは、そんなアメリカが、のちに後発のデータの積み重ねで
ジェット推進の先進国への道を踏み出す前の、歴史的航空機です。


【初飛行】

ベル社のテストパイロット、ロバート・M・スタンレーが、
アメリカ初のジェット推進航空機であるこのXP-59Aで飛行したのは
1942年10月1日のことでした。


初飛行を行うエアラコメット

ベル社は革新性で定評があり、リスクを最小限に抑えながら
新しいタイプのエンジンを組み込み、従来の機体デザインを踏襲しました。

大きくと厚みのあるミッドウィングは、ハイパフォーマンスより
安定したハンドリングを優先した戦闘機といったデザインでしたが、
この機体は、大変残念なことに、テストプログラムの結果、従来の
ピストンエンジン機よりパワー不足で、低速
であることが証明されました。

そのためXP-59Aは戦闘に投入されることはなく、
高度な練習機としてのみ、陸軍航空隊と海軍にジェット機操縦技術の
貴重な体験を与えるだけにとどまりました。

しかしながら、これはここから何世代にも亘るアメリカ空軍と民間ジェット機への
源流ともいえる、歴史的な存在であることは否定できません。


【ジェットエンジン推進委員会設立】

ここで時間を一度巻き戻します。

1930年代半ばになると、アメリカの技術者たちは、時勢を受けて、
航空機にジェットタービンエンジンを応用させることを真剣に検討し始めました。
戦争が始まると、それらの取り組みは一層加速されました。

1941年、当時の航空参謀次長だったヘンリー・H・ハップ・アーノルド将軍は、
ジェット機推進を検討する特別グループとして、
陸軍航空隊、海軍航空局、国立標準局、ジョンズ・ホプキンス大学、
マサチューセッツ工科大学、アリス・チャルマーズ、
ウェスティングハウス、ゼネラル・エレクトリック
を選び、その代表による
「ジェット推進に関する特別委員会」が結成されることになります。

1941年4月、ジェット推進の先進国であるイギリスに渡ったアーノルドは、
そこでイギリスのエンジン開発技術者、フランク・ホイットル設計による
W.1Xターボジェットエンジンを搭載した
グロスターE.28/39ジェット推進試験機の見学を行いました。


ホイットル


グロスターE.28/39ジェット推進試験機

帰国したアーノルドは、この技術を持ち帰り、アメリカ政府、陸軍航空隊、
ゼネラル・エレクトリック社の幹部やライト飛行場の技術者と情報を共有。

この結果、アメリカはジェットタービン航空機エンジン
(ホイットルの新型エンジンW.2Bのコピー)15基、および
ジェット機3機の製造を直ちに開始することになりました。

【製造企業の選定】

とはいえ、ホイットルエンジンの性能はあまり高くないとされたため、
新たに双発のジェット機を作ることが決まり、
エンジンの製造には、すでにグロスター機とホイットルエンジンに精通していた
ゼネラル・エレクトリック社が選ばれました。

そして新型戦闘機の製造はベル・エアクラフト社に決定したわけですが、
その剪定の背景にはいくつかの要因があったと言われています。

まず、当時、ベル社が比較的暇だったことです。
日本の某軍用機製造にもそんな経緯で選ばれた製造会社がありましたが、
ベル社もまた他のメーカーほど航空機の開発・生産に追われていませんでした。

そして、これはたまたま偶然としか言いようがありませんが、ベル社の所在地が
エンジンを請け負ったゼネラル・エレクトリック社の工場に近かった
のも、
ベル社が選ばれた理由の一つだったと言われています。

今と違い、物理的に両者の工場が近いということのメリットは多く、
例えば機体とエンジンの開発者間の情報交換もスムーズという理由です。



ベル社の創立者ローレンス”ラリー”・ベルの熱意と、
常識にとらわれない設計を実現させるという評判も選定の理由でした。

機体名はXP−59Aと決まりましたが、この名称は、
もともとベル社が提案したピストンエンジン戦闘機プロジェクトと同じでした。
極秘で取り行うこの仕事の本質を隠すのに好都合だったのです。

エンジンを担当していたゼネラル・エレクトリック社も同じような策略を使い、
アメリカ初のジェット機用エンジンをI-A型と名づけています。

当時、同社は航空エンジンの過給機をA〜Fのモデル名で製造していたため、
I-AのIはその延長、Aはシリーズの最初のバージョンと思わせることができます。

【製造のネックになったのは何か】

1941年9月、ラリー・ベルとチーフエンジニアのハーランド・M・ポイヤー
チームを結成し、アメリカ初のジェット機の設計に取りかかりました。

しかし、それはあくまでも「理論のための理論」に基づくものでした。

ゼネラル・エレクトリック社が最初のエンジンを完成させ、
試験が開始される予定は半年も先であったため、
さしものベルも、その性能特性を推測することしかできなかったのです。

実際、1941年10月にイギリスから出荷されたW.1Xエンジンも、
ゼネラル・エレクトリック社独自のバージョンも、
当初予測された出力レベルを発生させることはできませんでした。

もう一つ大きなネックになったのは、事柄上致し方ないとはいえ、
極度の秘密主義だったと言われています。
早急に結果を出すために強いられた緊急性も、プロジェクトには障害となりました。

例えば、機密保持の観点と、できるだけ早く飛行機を飛ばしたいという焦りから、
アーノルド将軍は当初、風洞実験を行うことすら禁止していたというのです。

流石にそれはいかんでしょということになり、オハイオ州ライト飛行場にある
低速風洞による実験だけは許可せざるを得なくなりました。

【実験〜ダミーのプロペラ】

最初の飛行実験においても、重視されたのは機密保持でした。

ベル社は最初のXP-59Aをオハイオからわざわざカリフォルニアに輸送し、
そこで最初の飛行試験を行ったわけですが、なかなか笑える偽装をしています。

実験機には機首にダミーのプロペラを取り付け、胴体に防水シートをかけて、
新しいピストンエンジン機に見せかけるといった涙ぐましい努力でした。


ダミーのプロペラが・・・泣けるというか笑える

もちろんプロペラをつけたままでは飛ばせないので、飛行直前に整備士が取り外し、
着陸後に再び取り付けるという面倒臭そうなことまでやっていました。

そして、1942年10月1日、ベル社のテストパイロット、ロバート・M・スタンレーがXP-59Aを初めて空へ飛ばす日がやってきたのです。



第一回目の実験で、スタンレーは着陸装置を完全に伸ばしたまま飛行を行い、
7.6m(25フィート)以上の高さを飛行しただけで着地しました。
7メートルって、ほとんど地面這っているとしか思えないんですがそれは。

その日さらに3回の飛行が行われ、最終的に30mの高さに到達しました。
実験がいかに慎重だったかということですね。

翌日、さらに4回の飛行を行い、高度3,048m(10,000フィート)が記録されます。


【しかしレシプロ戦闘機に勝てず】

この際、決して洗練されていると言えないXP-59Aの機体を、
最高速度628km/h(390mph)まで駆動させたのは、
ジェネラル・エレクトリック社のI-A型遠心流ジェットエンジン2基でしたが、
如何せん、この速度は敵や味方のピストンエンジン戦闘機の多くに勝てません。

そのため、YP-59A試験評価機13機が追加生産されることになり、
GE社が生み出したより強力なI-16(J31)ターボジェットエンジン
これらとその後のすべての量産型エアラコメットの動力源となります。

後方から見たP-59のI-16エンジン

13機のYP-59Aは、1943年6月にムロックで飛行試験を行うために到着し、
このうち1機は14,512m(47,600フィート)の非公式高度新記録を樹立しました。

ベルは陸軍航空隊に自信満々で300機のP-59戦闘機の購入を提案しますが、
陸軍が発注を決定したのは、その3分の1の僅か100機のみでした。

確かに高度記録こそ出しましたが、依然としてP-59は
当時のノースアメリカンP-51マスタング、リパブリックP-47サンダーボルト
ロッキードP-38ライトニングといった戦闘機に明らかに劣勢だったからです。

最終的にベル社が完成させたエアラコメットは、
P-59Aが20機、P-59Bが30機の計50機のみに留まりました。

武装は37mmM-4砲1門と44発、50口径機関銃3門と1門あたり200発。
高度10,640mで最高速度658km/h(409mph)の飛行が可能でした。

実戦に使用されるには時期尚早と判断されたP-59Bは、
陸軍航空隊第412戦闘航空群に配属され、
AAFのパイロットに、ジェット機の操縦と性能の特徴を慣れさせるための
貴重な練習機となって、のちへとつながっていくことになるのです。


陸軍は練習機としてしか使用しなかったこの機体を
「未来へ続く戦闘機」として、大々的にリクルートポスターにあしらいました。

Hitch your future to this star
あなたの未来をこの星に繋ぐ

陸軍のリクルート宣伝担当のセンスが光ります。

【ジェット機の優位性】

P-59などの初期のジェット機は、この新しいタイプの
エンジンのパワーと効率を実証することになりました。

これらの進歩により、新時代のジェット旅客機が生まれます。
それ以降、空の旅は地球を小さくし、しかも誰もが利用できる値段に変わりました。

ジェットエンジンを搭載した軍の戦闘機は、必要に応じて超音速で飛行でき、
爆撃機や輸送機は広範囲にわたる距離に巨大なペイロードを運ぶことができます。


【ジェット機を操縦した史上初の女性パイロット】



アン・G・バウムガートナー・カール
(Ann G. Baumgartner Carl、1918- 2008)
は、テストパイロットとしてベルYP-59Aジェット戦闘機に乗り、
アメリカ女性初の米軍ジェット機操縦者となりました。

彼女は女性空軍サービスパイロット計画の一員として、
ライト飛行基地の戦闘機のテストセクションのオペレーション補佐官を務めました。

アメリア・イアハートを小学生のとき実際に見たのがきっかけで
飛行士を志した彼女は、医学部予科を卒業後、
イースタン航空広報部に勤務しながら、飛行学校に通い技術を学びました。

その後、女性空軍サービスのパイロットとして
砲兵訓練基地のレーダー追跡標的機を操縦する任務につき、
ダグラスA-24、カーチスA-25、ロッキードB-34、セスナUC-78、
スティンソンL-5などを操縦しました。

その後オハイオ州デイトンのライト飛行場に異動した彼女は、
戦闘機試験課の作戦補佐官兼テストパイロットとして
飛行することが許されるようになりました。

ここで彼女が操縦したのは、B-17、B-24、B-29、
イギリスのデ・ハビランド・モスキート、
ドイツのユンカースJu 88などです。

そして、戦闘機試験部門に復帰後の1944年10月14日、
アメリカ初のジェット機であるベルYP-59Aを操縦し、
アメリカ女性初のジェット機操縦者となったので下。

ライト飛行場での戦闘機飛行テストパイロットとしての任務は、
WASP計画が解散された1944年12月に終了しています。

ちなみに、彼女の結婚相手は、
ツインマスタングP-82を設計した技術将校ウィリアム・カール少佐で、
出会いは飛行試験だったという・・・つまり職場結婚でした。

このカール少佐というエンジニアは、後に水中翼船を設計・製造しています。

【スミソニアン博物館のXP-59A 】


アメリカ初のXP-59A(AAFシリアルナンバー42-108784)は、
国立航空宇宙博物館に保存されているこの機体そのものです。

実は、歴史的初飛行の直後、陸軍は飛行試験データを記録するための
オブザーバーを同乗させることの必要性を認識するに至りました。

そこで、パイロットの前方にある銃座をオブザーバー用に改造し、
上部の外殻に20インチの穴を開け、この狭く開いた空間に
座席と小さなウィンドスクリーン、計器盤を取り付けたのです。



オブザーバー用シート設置の改装後、飛行テストは1942年10月30日に再開され、
AAFの残りの試用機は全てこの構成で飛行しています。


1944年2月、それはまだ戦争中のことでしたが、
エアラコメット・プロジェクトを担当していたアメリカ空軍の技術者が、
アメリカ初のジェット機を博物館展示用に保存することを思いつきました。

8月、陸軍はベル社に、最終的な処分が決まるまで機体をムロックに、
オリジナルのエンジンをオハイオ州のライト・フィールドに保管する計画を通知。

この時点で機体の飛行時間はわずか59時間55分というほぼ新品状態でした。

1945年4月18日、機体はスミソニアンに引き渡され、保存されていましたが、
1976年、国立航空宇宙博物館の開館前に、機体はオリジナルの形状に復元され、
オブザーバー用のオープンコックピットは取り外されることになりました。

そしてその歴史にふさわしく、初代エアラコメットは現在、
「マイルストーン・オブ・フライト」のギャラリーに展示されているのです。


エアラコメットをた操縦した女性パイロット、アン・カールに、
晩年のオーヴィル・ライトが語った言葉です。

「ジェットエンジンには実に心を鷲掴みにされましたよ。
何とシンプルな推進手段なんだろうか、とね」



続く。



「OからUまで」軍事偵察機の近代史〜スミソニアン航空博物館

2022-03-01 | 航空機


スミソニアン航空博物館の軍事航空偵察の世界、
題して「スカイ・スパイ」の展示から、今日は偵察を行う航空機についてです。

偵察機については、スミソニアンが誇る(たぶん)模型製作部が
航空模型を製作し、それを展示して説明が添えられています。

■ ノースアメリカンNorth American0−47


0-47は、第一次世界大戦で使用された3人乗りの観測機で、
空中観察や写真撮影のために広い視野を確保できるように設計されています。

軍団・師団用の観測機として設計されたのですが、実際、
第二次世界大戦中はほとんど練習機や標的曳航機となっていました。

模型からもなんとなくお分かりのとおり、O-47は、
当時の標準的な単発軽爆撃機をかなりずんぐりした形にしたものです。

密閉されたコックピットに3名の乗員が搭乗し、
胴体の基部には観測者が見やすいようにガラス張りの部分が設けられていました。

産卵直前のグッピー的ななにか

試作機は、850馬力のライト・サイクロン・エンジンを搭載。

この試作機は、後に登場する連絡機よりもはるかに高速だったのですが、
後に登場する通称「パドル・ジャンパー=水たまり飛び」よりも、
多くの支援と優れた飛行場が必要だった、と説明されています。
要するに手間がかかり性能がイマイチだったということになります。

Puddle Jumperは、航空会社のハブ空港である大空港から
適度な距離にある小空港を結ぶフライトによく使われる小型飛行機のことで、
座席数は6~20席程度、大体1時間以内のフライトしかしないので、
乗り心地も、荷物を入れるところも、ほぼないに等しいという感じです。

わたしも乗ったことがある、ラスベガスとグランドキャニオンを往復して
観光客を輸送する飛行機が、まさにその「パドルジャンパー」でした。

そのパドルジャンパーより性能が劣ると言われるO-47。

なぜこんな機体を3人乗りに?と疑問が湧きますが、
観測機に必要な人員数について多くの議論がなされた結果、こうなったのだとか。



O-47は第一次世界大戦以降の観測機の中では最も多く調達され、
合計238機が製造されました。

1940年ごろになると、観測連絡機に求められる条件は超低速で飛行し、
小さな平地で離着陸できることでしたが、O-47にその能力はなく、
機動性が向上した現代戦にはその大きな機体はもはや時代遅れでした。

後発のO-49でさえ大型で複雑であることが判明し、
彼女らの代わりに民間の軽飛行機をベースにした、
はるかに小型の航空機が観測の役割を果たすことになります。

(テーラークラフトL-2、アーロンカL-3、パイパーL-4。
これらはいずれも
『グラスホッパー』と呼ばれていた)


というわけで、時代遅れとなった巨体のO-47は、
第二次世界大戦中、訓練機や標的曳航機として使用されました。

O-47は第二次世界大戦中、訓練機や標的曳航機として使用され、
1939年の開戦時には、ナショナルガードの航空機のほぼ半数を占めていました。

書き忘れましたが、O-47のOは偵察(observation)のOです。

ちなみに、飛んでいる写真の機体の上部に丸い輪っかが乗っていますが、
これ、サンフランシスコのメア・アイランド海軍工廠博物館にあった
方向探知機(Direction  finder)ですよね。

これです


アメリア・イヤハートの写真に写っていましたが、これ、
本人が失踪したときの飛行機に積んでいたらしいんですね。

使い方が難しく、本人も知識がなくて使うことができなかったのが
失踪のファクターとなったという記述を見つけ、ショックを受けたことがあります。

アメリアー、遊んでる場合じゃないだろ?って。

このアンテナはベンディックス社のラジオ方向探知機のものでした。


■ロッキードF-5ライトニング
 Lockheed F-5 Lightning



「ペロハチ」といわれたP-38の偵察バージョン、F-5です。

ここでもスミソニアンの展示の写真を挙げたことがあるP-38ライトニングは、
独自のツインブームデザインと三輪着陸装置を備えた大型双発戦闘機です。

写真偵察バージョンは、武装を取り除いた機首にカメラを据え、
左右と下方向の写真が撮影できるようになっていました。

ライトニングはスミソニアンによると総合的な能力は零戦より下でしたが、
零戦に勝る部分であった高速・高高度性能
敵地上空での非武装写真偵察任務に理想的だったとされます。



なんと、この偵察ペロハチ乗りを、あのウィリアム・ホールデンが演じた
30分の教育映画が、陸軍広報部によって製作されていました。

P-38 Reconnaissance Pilot starring William Holden (1944)

「偵察パイロット」というこの短編映画の内容は、

太平洋での任務を終えて帰る飛行機の中でタバコを吸う主人公
恋人・家族との再会
回想〜入隊の誓い、航空訓練(複葉機、レシプロエンジン機)
Fー5に配置されがっかりする主人公
偵察機パイロットとしての特殊訓練
出撃後任務を重ねる
零戦編隊との遭遇 交戦して勝利15:40〜
主人公の偵察によって日本軍基地(ラバウル?)への爆撃成功


しかし偵察隊がその成功を直接評価されることはありません。

爆撃機のパイロットが戦功章を受賞するのを後ろの列で見ている主人公ですが、
その成功が自分の偵察にあることを密かに誇りに思い、
今故郷で自分の肩に頭を乗せている恋人に、戦地でのことを

「悪くなかったよ」

とだけ微笑みながら告げるのでした。(完)
まあなんだな、偵察パイロットを志望する人員を増やしたかった、つまり
それだけ皆が応募したがらない職種だったってことなんでしょう。


■ McDonnell RF-101 ブードゥーVoodoo


RF-101 Voodooは超音速の偵察機で、非武装で飛行し、
最大6台のカメラを搭載することができました。

キューバにおけるソ連のミサイル開発の低空偵察や、
北ベトナムでの写真撮影などの任務に活躍しました。


有名なキューバのミサイルサイトの写真。
U-2全盛の時代、ブードゥーによって撮影されました。


ちなみにわたくし、エンパイアステート航空博物館で、
偵察でない方のブードゥーにお目にかかっております。
翼の付け根の三角のインテイクが目印(と覚えておこう)


ナイアガラの帰りに見つけたエリー湖沿いの軍事博物館にもいました。

1959年には8機が台湾に譲渡された関係で、台湾空軍は
中国大陸の偵察を行うためにこれを運用しています。

■ Lockheed SR-71


当ブログでは模型も含め何度も紹介しているSR-71、通称ブラックバード。
ブラックバードはあくまでも愛称であり正式名ではありません。

高高度を飛び、偵察を行っていた偵察機です。


とても・・・・薄いです・・。


着陸の時はドローグを使うとは・・・。


せっかくなので、わたし撮影のSR-71写真を。
機体の85%がチタンでできていると、こんな色になるんですねー。
塗料に鉄粉を含むフェライト系ステンレスを使っています。



薄いのは偵察飛行でレーダーに捕らえられないように。
伝説の偵察機SR-71はその現役期間、完璧にノーマークでした。



前にも書きましたが、SRの名付け親?はカーチス・ルメイです。
この機体以前、偵察機は

reconnaissance/strike (偵察爆撃)=RS

だったのですが、それを退け、

strategic reconnaissance(戦略偵察)

にしたといわれています。
偵察機は偵察の任務に特化されるようになったので、
爆撃のSは必要がなくなったということなのか。


一人で着ることはできず、着用には必ず介助を必要する
SR-71のフライトスーツ。
ちなみにこの飛行機、シートベルトすらも自分で付けることはできません。

しかも、着脱の際、急減圧が起こると、体外の空気の減圧により気泡が生じ、
血液の流れが阻害される潜水病と同じ「空気塞栓」が起こる可能性があるので、
搭乗前に充分な時間を掛けて100%の純酸素を呼吸し、
血液中の窒素を追い出してからスーツを着用する必要がありました。

■ Lockheed U-2


SR-71の非公式名「ブラックバード」のように、U-2にも
「ドラゴン・レディ」という愛称が付けられています。

先日、U-2撃墜事件の偵察パイロット、フランシス・パワーズについて
お話ししてみたわけですが、自分の撮ったスミソニアンの写真の中に、
U-2を撃墜したミサイルがあったので、ちょっと驚きました。

忘れていたのか?わたし。


SA-2 ガイドラインミサイル Dvina (ドヴィナー)

SA−2はNATOのコードネームで、SAは”surface-to-air”のことです。

ところで、当ブログではSR-71を設計した
スカンク・ワークスクラレンス・ケリー・ジョンソンについて、
何度か取り上げているのですが、このU-2を設計したのもジョンソンです。

もう一つついでに、P-38ライトニングもこの人の設計です。

当時「第二の真珠湾攻撃」をソ連から食らわないように、
そして、より高高度からの偵察を目的に、U-Sは1950年代半ばに
ロッキード社を介してジョンソンに設計が依頼されました。

ジョンソンは、プロジェクトを予定よりも早く完成させることで知られていました。

最初に設計したCL−282という機体は武装しておらず、
専用のカートから離陸して胴体着陸する(どんなんだ)という、
まあいわば、ジェットエンジンを積んだグライダーみたいなものでしたが、
ルメイ将軍はこれを見るや、

「車輪も銃もない飛行機に私は興味がない!」

といって、プレゼンテーション会場を出て行ってしまったとか・・。

しかし、結局このプロトタイプは採用されました。

(採用を決める委員会のメンバーに帆船好きがいたり、
インスタント写真を発明したエドウィン・ランドがいたせい、という話もある)

つまり軍ではなくCIAが運用するならいいんでない?
というところに落ち着き、アイゼンハワーもこれを了承しました。

最終的には軍が飛ばすことになるんですけどね。

名前のU-2の「U」は、なぜか偵察と関係のなさそうな
多用途とか有用の「utility」から取られています。

U-2に搭載する大型カメラは高度18,000mから76cmの解像度を持っていました。

カメラの光学関係を開発していたジェームズ・ベイカーが、ジョンソンに
610cmの焦点距離を持つレンズのために、
機体にあと15cmのスペースを確保してほしい、と頼んだところ、彼は

「その15センチのためにわたしはおばあちゃんを売るよ!」

と答え、ベイカーは代わりに133cm×33cmフォーマットの
460cm F/13.85レンズを最終設計に使用ししたという逸話が残されています。


スミソニアンに展示されているU-2のカメラ


前にも一度上げていますが、もう一度。
U-2の積んでいた偵察のためのお道具一覧です。

U-2撃墜事件でソ連のジェット機はともかく、
対空ミサイルにはその性能を発揮できないことが明らかになったあとも、
1962年のキューバにおけるソ連のミサイル増強の偵察、中国の核実験の検証、
ベトナムや中東での偵察、民間の災害調査や環境監視など、
重要な役割を果たしてきました。

航空宇宙博物館の機体は、空軍の特別プロジェクトのために
迷彩色に塗装されたU-2Cです。

U-2の生産は1989年に終了しましたが、今現在も現役で運用中です。

続く。


偵察機のパイロットたち〜スミソニアン航空博物館

2022-02-27 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館の展示のコーナーから、
航空軍事偵察・写真の歴史を取り上げてきました。

今日は少し視点を変えて、やはり現地で紹介されていた
航空偵察機のフライヤー(パイロットではない)たちについてです。

戦闘機のパイロットや爆撃機のチームとは違い、
直接敵を攻撃することがないだけに、軍事航空の世界では
ほとんど取り上げられることのない彼らですが、
さすがはスミソニアン、そんな角度からもちゃんと光を当てています。


偵察パイロットやその他の飛行要員は、多くの場合、非武装で単独で行動し、
多くの戦闘やキャンペーンを陰で支える縁の下の力持ち、
そしてアメリカ人の好きな言い方で言うところの「知られざるヒーロー」でした。

彼らが収集する相手の位置、動き、兵力、そしてその意図に関する貴重な情報は、
我が方が十分な情報に基づいて意思決定を行うのに必要な知識、
条約遵守の保証、そして来るべき危険に対する警告そのものとなります。

彼ら「フライヤー」が歴史的にも注目されず、認識されなかったかというと、
その理由は全て、彼らの仕事が機密事項であるからに他なりません。

ここに数人のアメリカ人が紹介されています。

彼らは敵地の空に勇敢に立ち向かい、
決定的な一枚の写真を集めようとした無名のヒーローたちです。

■ カール・ポリフカ中佐(Karl L.Polifka 1910-1951)


「キル・イン・アクション」任務中戦死という言葉が没年に加えられていたのは、
ミリタリー・ウィキのページであり、普通のウィキには名前すらありません。

しかし、アメリカで最も有名な偵察パイロットと言われています。

その名前からおそらく東欧系アメリカ人と思われる彼は、
第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の中佐でした。

陸軍航空隊のカール・L・ポリフカ中佐は、第二次世界大戦中の1943年、
イタリアの山岳地帯上空での空中偵察任務中に、F-4偵察機のパイロットとして
敵軍と空中戦を行い、これに対し殊勲十字章を授与された人物です。

朝鮮戦争の頃になると、すでに彼の年齢は三十代半ばになっており、
危険な偵察任務に就くには歳を取りすぎていると思われていましたが、
彼は出撃名簿を「ジョーンズ中尉」と偽名を記して飛んでいました。

責任感が強いというのか、いつまでも飛んでいたいという人だったのでしょう。

ある日武装したF-51機で目視偵察のために低空まで降下した際、
敵の激しい地上砲火に遭遇し、機体に大きな損傷を受けました。

損傷した機体で味方陣地へ帰投を試みるも、それ以上の操縦は不可能と判断し、
ポリフカ大佐は機体からパラシュートで降下しようと試みたのですが、
パラシュートが尾翼に引っかかり、脱出に失敗して死亡しました。

■ エリオット・ルーズベルト
(Elliott Roosevelt 1910-1990)



偵察で有名だったゴダード准将の天敵を失脚させるためにどうしたこうした、
という話をした時、このルーズベルトの息子が登場したわけですが、
5回の結婚歴やらその「黒さ」にちょっと驚いてしまいました。

そして、大統領の息子だからといって多目に見られていただけで、
どうせろくなもんじゃないだろうぐらいのことを思っていたのですが、
偵察の世界では、それなりに名前を残しているということがわかりました。

謹んでここにお詫び申し上げます。

写真は、1942年、北アフリカでドワイト・アイゼンハワーに偵察報告をする
エリオット・ルーズベルト(もちろん左)。

この年、ルーズベルトは第12空軍の写真部隊の司令官となっています。
その間、カメラマン、オブザーバー、ナビゲーター、ラジオオペレーターなど、
任務を帯びて、多くの偵察飛行に自発的に同行していたということです。


仕事してまっせ

北アフリカの写真偵察隊の指揮官として、エースパイロットの一人、
フランク・L・ダン中佐(左)と地図を確認するルーズベルト大佐。

なにしろ現大統領のご子息なんで、危険な偵察任務の類は、
周りも忖度したかもしれませんし、本人が望むなら、
後方でお飾りの任務をしてやり過ごすこともできたかもしれませんが、
彼はノブレスオブリージュという概念を理解していたようです。

1943年には地中海の広い範囲で連合軍の偵察活動の指揮をとった彼は、
1945年には准将となり、殊勲飛行十字章をはじめ多くの勲章を受けています。


■ウィリアム・B・エッカー海軍少佐
William Ecker (1924 –2009)


彼がなぜ偵察飛行家として有名かというと、それは
1962年のキューバ・ミサイル危機で活躍したということからです。

1962年10月23日、写真偵察隊62(VFP-62)の司令官であった
ウィリアム・エッカー中佐(当時)は、キューバ・ミサイル危機の最中に、
キューバ上空で初の低空偵察飛行を行い、
ソ連のミサイル基地を初めてクローズアップして撮影することに成功しました。

この任務では、RF-8クルセイダーを使用していました。


偵察士官って頭良さそうに見えませんか

キューバ危機終了後、エッカーはその功績により殊勲飛行十字章を受章。
彼が指揮したVFP-62部隊は海軍部隊表彰を受けることになりました。
1962年11月26日の式典でジョン・F・ケネディ大統領から直接表彰を受けました。

余談ですが、軍退役後、エッカー大佐は
スミソニアン国立航空宇宙博物館の施設で案内係を務め、
一般向けのツアーを行っていたということです。

やっぱり自分の展示の前では力が入ってしまったりしたんでしょうか。

2000年、ケビン・コスナーがプロデュースした映画『サーティーン・デイズ』で、
JFKの甥であるクリストファー・ローフォードがエッカー大佐を演じています。

キューバ危機についてはもう一度別の項でお話しします。

■ルドルフ・アンダーソンJr.少佐
Rudolf Anderson, Jr




ルドルフ・アンダーソンJr.はアメリカ空軍の少佐でありパイロットであり、
アメリカ軍および空軍の2番目に高い勲章である空軍十字章の最初の受賞者です。

アンダーソンは、キューバ・ミサイル危機において、
乗っていたU-2偵察機がキューバ上空で撃墜され、
敵の攻撃によって死亡した唯一の米国人パイロットとなりました。

彼は朝鮮戦争にもパイロットとして参戦しており、
その頃は日本の小牧基地から偵察任務に出撃していたということです。

戦後アメリカでロッキードU-2の資格を取得、キューバ危機において
U-2Fドラゴン・レディで6回目となるキューバ上空でのミッションに出発。 

二歩、キューバのバネス上空で発射された2発のソ連の
S-75ドビナ(NATO呼称SA-2ガイドライン)地対空ミサイルのうち、
1発に撃墜されたとされています。

爆発した近接弾頭の破片が彼の圧力服に穴を開け、高高度で減圧されたのが
直接の死亡の原因だったと結論づけられました。



事故直後の機体。
アンダーソン少佐の遺体は危機終了後の11月4日にキューバから返還され、
2日後、グリーンビルのウッドロー記念公園に埋葬されました。


メモリアルではなく、これそのものがお墓のようですね。
アンダーソンの乗っていた機体は現在もそのまま遺されています。


エンジン


エアインテイク

フロントランディングギア

1964年、ケネディ大統領の命令により、アンダーソンは空軍十字章のほか、
空軍特別功労章、パープルハート、チェイニー賞を授与されました。

キューバ危機の際に実際にキューバ上空を飛行したU-2パイロットは
全部で11名いましたが、アンダーソン少佐はその中で唯一の戦死者となります。


■ ジェームズ・R・ブリッケル中佐の写真


1967年ベトナム戦争中に撮られたタイ・ニュエン製鉄所



これを撮影したのはベトナム戦争のトップ偵察パイロットの一人、
ジェームズ・R・ブリッケル中佐
Lt. Col. James R. Brickel

この写真は、飛行中に85mm砲弾を受け、左エンジンとエルロンが損傷した
ブリッケル中佐の乗っていた偵察機(どうなっているのかわからない)。

ご本人、コーヒーを手に渋い笑いを浮かべて余裕です。


【DICING(ダイシング)】



ノルマンディー海岸のダイシングショット

「ダイシング」とは?
偵察目標を斜め方向から接近して撮影するための低空飛行のことです。
この写真はその代シングショットで撮られたノルマンディ海岸です。

この言葉は、"dicing with death "に由来します。
ダイシングはご想像の通り「ダイス」サイコロのことで、
この低空飛行にいかに命の危険があるかを表しています。


最後は、女性戦場カメラマンについてです。

■ 戦場写真家 マーガレット・バーク-ホワイト



冒頭写真は、何を隠そうHMS「ザ・クィーン・エリザベス」です。
ハドソン川でタグボートが巨大な船の入港作業を行っている様子ですが、
このブログをご覧の方の多くは、この後船がどうタグボートによって
方向を変えていくか想像がつくことでしょう。



撮影は女性写真家であり戦場カメラマンの草分け、
マーガレット・バーク-ホワイト(Margaret Bourke-White 1904 –1971)で、
1952年発行のライフマガジンのフォトエッセイ、
「アメリカを見る新しい方法」のために撮られました。

マーガレット・バーク-ホワイトは常に世界をその目を通して見る時
常にユニークな角度を模索していた写真家でした。

飛行機やヘリコプターのドアからぶら下がって、
空中から見た地上をフレームに収めるという極端なことさえしています。



どうやって撮ったんだろう、と首を傾げる写真が
一枚ならずあるので、ぜひお時間のある方はご覧になってみてください。

バーク=ホワイトは、コロンビア大学では爬虫類学を学んだそうですが、
興味を持っていた写真を仕事に選びました。

結婚は2回して二回とも短期間(2年と3年)で離婚しています。
パーキンソン病を発症し、後半生はその症状と戦いつつ
治癒することなく亡くなりました。

経済的には大変困窮した生活の中での孤独な死だったそうです。

若い頃、彼女のクライアントの一つ、製鉄業のオーティス・スチール社
セキュリティ担当者が彼女の撮影に難色を示しました。

製鉄会社が防衛産業であるからだというのですが、
国防の観点からなぜ女性であることが懸念されたのかはわかりませんね。

もう一つの理由は、製鉄所内の猛烈な暑さや危険で汚い環境に、はたして
女性とデリケートなカメラが耐えられるかどうか疑問視されたのです。

しかしなんとか懇願し、撮影の許可が出た後、彼女をトラブルが襲います。

当時のモノクロフィルムが、高温の鉄の赤やオレンジではなく、
青い光に反応したため、写真は露出不足で真っ黒になってしまいました。

そこで彼女は白い光を出す新しいタイプのマグネシウムフレアを持参し、
アシスタントにフレアを持たせて撮影を敢行しました。
その結果、当時としては最高の製鉄所の写真が撮れ、
この写真が有名になって彼女は全国的にも注目されるようになったのです。

1930年、彼女は西側の写真家として初めてソ連への入国を許可され、
またナチス政権下のドイツ、オーストリア、チェコスロバキアの撮影のため
ヨーロッパにも渡っています。

ソ連では5カ年計画を記録し、スターリンとその家族を撮影しました。



彼女は第二次世界大戦が始まると、1941年、
戦闘地域で働くことを許された最初の女性となってソ連に渡りました。

ドイツ軍が侵攻してきたとき、彼女はモスクワにいた唯一の外国人写真家でした。
彼女はアメリカ大使館に避難し、大火災の様子をカメラに収めました。

戦争が進むと彼女は北アフリカのアメリカ陸軍航空隊を始め、
ヨーロッパに進出した陸軍に配属されるようになりました。



1943年1月22日、飛行隊指揮官のルドルフ・エミール・フラック少佐は、
バーク-ホワイトを乗せたまま、第414爆撃隊B-17F
「リトル・ビル」
でチュニジアの敵飛行場を爆撃しています。

行動中、地中海で魚雷を受け、ドイツ空軍の空爆を受け、北極圏の島で立ち往生し、
モスクワで爆撃を受け、ヘリが墜落してチェサピーク号から引き上げられた彼女は、
『不滅のマギー』 'Maggie the Indestructible'
と呼ばれました。

こんな彼女を嫌う人たちはたくさんいたようですが、
ドワイト・D・アイゼンハワー将軍もその一人だったようです。

ここで紹介したことがあるベトナム戦争の女流カメラマン、
ディッキー・シャペルも、軍関係者にはえらく嫌われていたそうですが。

1945年の春、彼女はジョージ・S・パットン将軍とともに行動し、
悪名高い強制収容所、ブッヘンヴァルトで撮影を行いました。

このときも、のちの朝鮮戦争でも、パキスタンでも、彼女は
散乱した死体うや虚ろな目をした人々を記録しましたが、彼女自身は
対象物と自分の間にカメラがあったことはまだしも「救いだった」と述べています。



また、1948年、ガンジーが暗殺される数時間前に、
彼にインタビューして、あの有名な写真を残したのでした。


続く。


THE SKY SPIES 航空偵察の歴史〜スミソニアン航空博物館

2022-02-15 | 航空機

スミソニアン博物館プレゼンツ、「軍事偵察の歴史」、
このコーナーには本日タイトルの「The Sky Spies」が冠されています。

意味はそのまま「空のスパイ」ですが、「SPY」という単語は
日本語の「スパイ」の他に「みつける」「見張る」という意味もあります。
前回の「鳥の目」のように、高いところから偵察を行うとき、
新しい方法として航空機が使われるようになったのは当然の成り行きでしょう。

航空機より一足早く人類が手に入れた写真という手段と
航空機が組み合わされ、偵察が行われるようになります。

軍事情報の収集としての航空写真の命はなんといっても正確性にあります。
その意味で偵察パイロットはもちろん、
「Photointerpreter」の技量は重要な役割を担っており、その結果の成功か失敗、
正確か不正確か、準備ができているかどうかの分かれ目を決めます。

というのがスミソニアンの説明なのですが、この「Photointerpreter」
(Photo+interpreter)は直訳すれば写真通訳者となります。

この言葉は1940年代に生まれた造語で、
「航空写真の解釈を専門に行う人」
であり、黎明期にはそういう名称はなかったものの、そういう人がいたようです。

つまり、パイロットが撮ってきた写真を現像し、
そこに写っているものをアナライズするという専門職があったようですね。

■ 初期の航空偵察技術とその機材



スミソニアンの「スカイスパイ」コーナーには、実物大展示として
前回の気球のカゴから写真を撮る人と、この
de Havilland DH-4
から航空写真を撮っている人がいます。

【第一次世界大戦の写真偵察機DH-4とL-4カメラ】



まず、このデ・ハビランドの汎用機「DH-4」ですが、
軍用機としても民間機としても多くの役割を果たした機体でした。

第一次世界大戦では爆撃機の任務を負っていたDH-4は、
観察と写真偵察のための航空機でもありました。

1917年4月6日にアメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、
陸軍信号部隊の航空課は戦闘に耐えうる航空機を保有していなかったので、
国内で生産するため、前線で使用されている連合軍の航空機を調査します。

そして検討されたのは、ランスのスパッドXIII、イタリアのカプローニ爆撃機、
イギリスのSE-5、ブリストル・ファイター、DH-4
などでした。

どれも当ブログでは紹介済みですし、これも繰り返しますが、
第一次大戦ごろのアメリカの航空技術は、欧州、ことに
イギリスやドイツと比べると大人と子供レベルで遅れていたのです。
(さらにソ連はというと、そのアメリカのレベルにも達していないくらいでした)

DH-4が選ばれたのは、構造が比較的シンプルで量産性に優れていたことと、
アメリカ製400馬力リバティV型12気筒エンジン
の搭載に適していたからです。

アメリカ人の好きな「リバティ」なんとかがここにも・・・・って、
リバティ・エンジン、リバティ・プレーン・・・
これ前にもご紹介していますよね。


そのときの展示室にはリバティエンジンはありましたが、
DH-4はこの模型だけでした。


ちなみにこの左側にあるのがリバティエンジンです。

その時の項にも書きましたが、おさらいの意味でもう一度書くと、
機種は決まったものの、アメリカの量産方法を採用するためには、
イギリスのオリジナル設計からかなりの技術的変更が必要でした。

アメリカ製はパイロットと偵察員の間に燃料タンクがあってコンタクトしにくく、
墜落した時危険という設計上のミスというか問題点がありましたが、
「リバティ・プレーン」と呼ばれて1918年にフランスに送られることになります。

余談ですが、アメリカのカルチャーというのか、アメリカ人はよく、
自国の軍事行動に「リバティ」「フリーダム」の冠を被せたがりますね。

ちょうど我が家が西海岸に住んでいた頃、イラク戦争が起こりました。
フランスがそれに反対したことでアメリカ人は怒り、なぜか
フレンチフライに八つ当たりを始め、
フランスけしからんから「フリーダムフライ」と呼ぶお!となった、
という「ニュースが」流れました。

そんなある日、カリフォルニアのフリーウェイでロスアンジェルスまで行く途中、
ランチを取るために入ったメキシコ料理店で、隣のテーブルで
ちょうど注文のフレンチフライを食べながら、父親が息子(小さい)に
「なんかこれ、これからフリーダムフライになるらしいよ」
と笑いながら説明しているのを見たわたしは、むしろ、
メディアとそのやらせ以外でどこのだれがフリーダムフライと呼んでいるのか、
と疑問に思ったものです。

そして、どうして他国に攻撃をかけることが「リバティ」「フリーダム」なのか、
わたしはマイケル・ムーアは嫌いですが、彼が発したこの疑問だけには
全く同じ疑問(というか懸念)をいまだに感じ続けています。

理屈がわからん。

そして、あの日から今日まで、フレンチフライのことを
フリーダムフライと呼ぶ人や店を一例たりとも見たことがありません。

さて、約100年後、フレンチフライにまで目くじらを立てることになる
そのフランスに、アメリカは、DH-4を1,213機送りました。
そのうち進攻圏に到達したのは696機です。

DH-4の戦闘期間は4ヶ月に満たなかったが、その価値は証明されました。
第一次世界大戦中に飛行士に授与された6つの名誉勲章のうち、
4つはDH-4に搭乗したパイロットとオブザーバーが受賞したものです。

つまり、その真価は攻撃より偵察で発揮されたと言ってもいいでしょう。

第二次世界大戦になってもDH-4は「リバティ・プレーン」として、
森林警備や地質調査、陸軍航空局の航空地図、
写真撮影用の標準機として10年間使用されています。


ここにある航空宇宙博物館の機体は、この中で最初に製造されたものです。

さて、その偵察についてですが、DH-4に搭載された空撮カメラは、
手持ち以外に、後部コックピットの内側または外側に取り付けることができました。

展示されている機体には、コックピット内に
コダックのL-4カメラが設置されており、
床の小窓から写真を撮ることができます。



四角い穴と丸い穴が機体の底に空いていますね。

DH-4のマネキンが持っているのは、A-2カメラといって、
コダック社が開発したカメラで、第一次世界大戦の航空写真に使用されました。

Kodak製A-2カメラ

オリーブドラブ色に塗られた金属製のカメラで、木製のハンドルが付いています。

第一次世界大戦中、アメリカ陸軍航空局がオープンコックピットの航空機の側面から
斜め方向の写真を撮るために使用したコダックA-2ハンドヘルドエアリアルカメラ。

カメラには2つの4x5プレートマガジン、「アイアンサイト」、
ストラップが付いています。
A2型は陸軍航空局が使用したもので、海軍はA1型を使用していました。



ここには、イーストマンコダック製が第一次大戦時に
偵察のために設計したK-1カメラ実物が展示されています。
15センチのフィルムを使用し、フィルム用マガジンが内蔵されています。


初期の航空カメラは、垂直方向の映像を得るために、この写真のように
飛行機の外側に固く取り付けられていた時期がありました。

しかし、これ、問題がありますよね。
飛行機の振動です。
そりゃま機上で手持ちよりはマシだったのかもしれませんが、
細かいエンジンの振動がブレを産むことの方が多かったでしょう。

だからといって、垂直方向にこの大きなカメラを手に持って
機体から乗り出すのは、あまりにも危険な気がします。
まあ、この方法だと少なくともカメラを取り落とす心配だけはなかったかと。

【フェアチャイルドの空撮飛行機と空撮カメラ】


むむ、まるで映画俳優のようなダンディ氏、これは誰?
その名も、シャーマン・ミルズ・フェアチャイルド(Sherman Mills Fairchild)

その名前からも想像がつくかと思いますが、名門の生まれであり、
当たり前のように実業家・投資家として成功した人物で、
フェアチャイルド・エアクラフト、フェアチャイルド・インダストリーズ、
フェアチャイルド・カメラ&インストゥルメント
など70以上の会社を設立し、
航空業界に多大な貢献をし、1979年には全米航空殿堂入りを果たした人物です。

資産家の息子で、28歳にして父の数百万ドルの遺産を手にし、
父が保有していたIBMの株式も相続し株主になり、いきなり人生イージーモード。

これもごく当たり前のようにハーバード大学に入学し、
1年生のときにカメラの同期シャッターとフラッシュを初めて発明しています。
その後、アリゾナ大学、コロンビア大学で学び、企業家になることを決意。

こんな名門超金持ち高学歴高身長(最後はたぶん)のイケメンですから、
さぞモテたと思うのですが、いかんせん彼は生涯結婚しないまま通しました。
(LGBT関係であったという噂もなかったようです)
そして会社の経営以外に建築、料理、ジャズ、ダンス、哲学、テニスなどを楽しみ、
写真には特に造詣が深かったようです。

カメラの性能を地図作成や航空測量にまで拡大したいと考えた彼は、
1921年、フェアチャイルド航空測量社を設立し、
第一次大戦で余っていたフォッカーD.VIIを購入して航空写真の撮影を始め、
写真地図作成や航空測量を受けを行うをための会社を設立。

地上調査より航空写真の方が早くて安価で正確であるという評価を得ます。


フェアチャイルドFー1航空カメラ



F-1は、フェアチャイルド社が第二次世界大戦中に開発した航空カメラです。
手持ちで斜めからの写真を連続して撮影することができるため、
軍事施設の高所撮影に多用されました。


フェアチャイルド社製F-1によるニューヨークの空中写真

空中撮影を行ううちに、フェアチャイルドは既存の飛行機では
空撮で頻繁に遭遇する状況には適していないことに気づきます。
そこで1925年、フェアチャイルド・アビエーション・コーポレーションを設立し、
正確な航空地図の作成と測量のための専用機、FC-1を製造しました。


FC-1

この時期、フェアチャイルド社は航空業界で圧倒的な存在感を示し、
米国最大級の民間航空機メーカーにまで成長していました。

この後継となるFC-2は後にチャールズ・A・リンドバーグ
アメリカ横断旅行に使われることになります。

フェアチャイルド社はわずか9カ月の間に、
初期生産から世界第2位の航空機メーカーになったのでした。

しかしその後いろいろあって、ファチャイルドが亡くなると
会社も吸収合併を繰り返したすえ、跡形も無くなってしまうわけです。

ちなみに彼は亡くなったとき、50人以上の親戚、友人、
元従業員一人一人に遺言をのこしていったそうです。

2億ドルを超える遺産のほとんどは、彼が生前に設立した2つの慈善財団に寄付され
その他病院、救世軍に20万ドル、アメリカ動物虐待防止協会、
また、母校のコロンビア大学への新校舎の寄付にと見事に使い切った形です。

私見ですが、こんな逸話から彼が孤独だったような感じは受けません。
あまりにやりたいことが多すぎて、家庭を作ることまで時間が至らなかった、
という感じなのかなと思ったりします。

さて、そんなフェアチャイルドが若き日に生み出した
「K-3」は、画期的な航空カメラでした。
電気駆動のK-3は、新しいシャッターとマガジンを搭載し、
航空写真の技術を向上させることに成功しました。



カメラマンが高高度で斜度撮影を行うために
焦点距離61cm(24インチ)のK-3カメラの準備を行なっています。


戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)に、
長距離航空写真の実験に使用されたK-3カメラ。


手持ちの空中斜度用カメラ、K-5

航空機からの撮影の歴史について、もう少し続けます。


続く。

ドローン・ランチャーと無人航空機〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-02-05 | 航空機

前回のプラウラーを持ちまして、フライング・レザーネック航空博物館の
展示航空機の紹介を終わったわけですが、ここには
どういう経緯かわかりませんが、航空機以外のものもあります。


まずワイルドキャットの横にあったこれですが、
おそらくこれは何のことはない牽引式のトレーラーです。

向こうには給油用のタンカー車が見えます。


問題はこれ。機銃があったのでそのご紹介をしましたが、
ここには戦車もあったのです。
わたしにとって大変難儀なことに、戦車の類に説明がいっさいありません。


タンクの種類には違いないのですが、いかんせん砲が短いので
自走榴弾砲というようなものではないと思われます。

英語でいうところの
armoured personnel carrier、装甲人員輸送車的なものではないかと。
陸自の装備でいうと73式装甲車が一番近い気がします。




これはハウザー(榴弾)的な?


M60パットン戦車

これがパットン戦車であることくらいはわたしにもわかりました。
「パットン」は愛称であり、制式名称ではありません。

M60は46、47、48ときていきなり第二次世代バージョンで、
アメリカ軍では1991年の湾岸戦争まで使われていたそうです。

イランに供与された車両は異端イラク戦争でソ連製戦車と戦闘していますし、
トルコ軍のパットンはなんなら2014年でもISILと戦っていたそうです。

ところで超余談ですが、今回戦車画像を検索していて、
エジプトの自国製戦車の名前が「ラムセス二世」であることを知りました。
あと、カナダ軍は巡航戦車に「ラム」「グリズリー」という名前をつけています。
牡羊に灰色熊。
どちらも強いっちゃ強いですが、野生動物というのがカナダらしいですね。

■ ハンヴィーHMMWVとは


説明なしといえばこんなものもぞんざいに展示されていました。
陸自のLAVと言われる軽装甲機動車に似ています。

アメリカ軍の汎用軍用車のことを
「ハンヴィー」
HMMWV, High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle,
高機動多用途装輪車両)
といいますが、そのどれかといった面持ちです。

ちなみにわたしはつい最近までハンヴィーを車の名前だと思っていました。
現在アメリカ軍は、陸軍、海兵隊、特殊作戦軍統合による
ハンヴィーの後の
JLTV(Joint Light Tactical Vehicle, 統合軽戦術車両)
を制定したばかりで、(といってももう6年前ですが)
オシュコシュのL-ATVが2018年以降調達されているはずです。



これはハンヴィーの一部を、より大きな積載量を持つ、
より生存性の高い車両ファミリーに置き換えるという計画です。

■ ドローン・ランチャーRQ-2パイオニア


まず、航空博物館のヤードに、突如レールを乗っけた
迷彩のトラックが現れました。
これは

M939 5tトラック M939 Series 5t Truck



言うて全く普通のカーゴトラックなのですが、問題は
これが乗っけているレールです。
このトラックは実はドローンのランチャー装置を載せているのです。
打ち上げるドローンというのがこれ。

AA1 RQー2B パイオニア Pioneer


RQ-2パイオニアは、1986年から2007年まで
アメリカ海軍、海兵隊、陸軍で使用された無人航空機です。
当初は「アイオワ」級戦艦に搭載され、
砲撃スポットを提供するための偵察機としての能力がテストされましたが、
のちにその任務は主に水陸両用部隊のための偵察・監視に発展しました。

開発はアメリカの航空機関連企業であるAAIコーポレーション
イスラエル航空機産業会社の共同によるもので、
なぜここにイスラエルの企業が出てくるかと言うと、このプログラムが
もともとイスラエル発のドローン機、
 タディラン・マスティーフTadiran Mastiff UAV
の実戦運用をきっかけに生まれたことに由来します。


タディラン・マスティフIII

マスティフはイスラエルで製造・運用された無人航空機(UAV)ですが、
アメリカ軍がレバノンに駐留するようになってからは、
何でも欲しがる米海軍が(個人の感想です)興味を示し、
無人偵察機開発の要求を行った結果、イスラエルの製造会社はこれを引き受け、
アメリカ企業がこれに乗っかる形で共同開発という形をとったのでした。

これはアメリカ軍そのものが、外国製品の輸入をよしとしなかったからです。

パイオニアは、海軍の要請により、より大量のペイロードを搭載するため、
このタディラン・マスティフをベースに、
それまでのリンバッハ社製の2気筒2ストロークエンジンから、
フィヒテル&ザックス社製の2気筒2ストロークエンジンに変更しました。

リンバッハ・モーターには、カリフォルニア州サンクレメンテにある
プロペラ・エンジニアリング・アンド・デュプリケーション社
28インチ・プロペラが使われていましたが、
よりパワフルなフィヒテル&ザックス社製モーターには、
ペンシルバニア州ランカスターにある
センセニヒ・プロペラ・マニュファクチャリング・カンパニー社製の
29インチプロペラ(回転方向が逆)が搭載されました。


USS 「アイオワ」(BB-61)の乗組員がRQ-2 Pioneerを回収している

パイオニアは、ロケットアシスト装置(艦上)、カタパルト、滑走路から発射され、
34kgのペイロードを搭載して最長5時間飛行した後、
ネット(船上)またはアレスティングギアで回収します。

ビデオはジンバル式のEO/IRセンサーCバンドのLOSデータリンクを介して
アナログ映像をリアルタイムで中継します。
1991年以来、パイオニアはペルシャ湾、ソマリア(UNOSOM II)、
ボスニア、コソボ、イラクの各紛争で偵察任務に従事してきました。

2005年には、海軍がパイオニアを2機(1機は訓練用)、
海兵隊が2機を追加し、それぞれが5機以上を運用している状態です。

外国軍で運用しているのは「発祥」となったイスラエル軍以外は
シンガポール共和国空軍です。

2007年、パイオニアはアメリカ海軍での任務を退役しました。
後継機となったのはRQ-7シャドーShadowUAVです。

イラクで運用中のRQ-7

こちらはアメリカ軍以外ではオーストラリア、イタリア、パキスタン、
ルーマニア、スウェーデン、韓国軍が運用しています。

【日本の無人機】

こういうのがいかにも得意そうなのが日本人じゃないかという予想通り、
日本では無人機の軍運用は大日本帝国軍時代から始まっていました。

完全自動操縦装置(帝国海軍)

海軍航空技術廠(空技廠)兵器部が進めていた完全自動操縦技術の実験で、
1937年(昭和12年)頃には研究が始まっています。

敵機編隊内での自爆攻撃、無人雷撃、新型機の無人試験飛行、
標的機や囮機としての運用などを目的に開発されたもので、
中二的命名が好きな軍がなぜかこれには全く名前らしい名前をつけず、
「完全自動操縦装置」
というのがこの無人機の名称だったようです。

まあ無人機なんで、かっこいい名前をつけたところで
それを誰が操縦するわけでなし、士気高揚の必要性もなかったってことでしょう。


無線操縦は油圧を介して他の誘導機から行われるという仕組みで、
カタパルトで射出するとその衝撃によって時限装置が起動、
補助翼、方向舵、昇降舵の順で離陸前に所定位置に
セットされたクランプが外れていき、羅針儀と速度計の計測を元に、
一定高度まで自動上昇した後に無線操縦に切り替わり、
着水も誘導機からの信号を受けてエンジン出力が絞られ、
水面に接触するとスイッチが作動してエンジンが自動停止する仕組みでした。

という感じで大変有用な機体となるはずでしたが、
いかんせん製作費が高すぎて運用できなかったということです。

そのほか、1930年代には個人が発明した
低翼単葉ロボツト機
海軍が試作した軍用グライダー
無人標的機MXY3、
一式標的機MXY4
などがありました。

日本の無人航空機のリストを挙げておきます。
  • 無人標的機 UF-104J/JA(F-104型無人機1997年退役)無人標的機 J/AQM-1
  • 空対空用小型標的 J/AQM-2(2012〜)
  • 無人標的機 KAQ-1(1950〜生産終了)
  • 空対空用無人標的機 KMQ-5
  • 遠隔操縦観測システム (FFOS)(陸自・遠隔操縦観測システム)
  • 新無人偵察機システム (FFRS)(無人偵察機システム)
  • 無人機研究システム(元・多用途小型無人機TACOM 防衛装備庁・富士重工)
  • 携帯型飛行体
  • GPSカメラ搭載自律飛行機
  • 無人航空機用制御装置
  • 球形飛行体
  • JUXS-S1
  • IR-OPV
  • フジ・インバックB2
  • HYFLEX(NASDAによる極超音速実験機)
  • ALFLEX(NASDAの自動飛行実験機)
  • RTV(JAXAの完全再使用ロケット開発実験機)
  • HSFD(JAXA)
  • NEXST-1(NAL/JAXA小型超音速実験機)
  • LIFLEX(JAXA)
  • URAMS(放射線モニタリング無人機システム)
  • S3CM(低ソニックブーム設計概念実証プロジェクトの静粛超音速研究機)
  • McART3
  • RCASS(ヤマハ発動機・農業量無線操縦ヘリコプター)
  • R-50(ヤマハ発動機・無線操縦ヘリコプター)
  • RMAX(ヤマハ発動機・ドローンヘリコプター)
  • RMAX Type II
  • RMAX Type II G
  • FAZER(ヤマハ発動機・多目的無線操縦ヘリ)
戦後ドローン関係だけで日本はこれだけ運用した実績があります。
これはアメリカに次ぎ、ドローンの本場イスラエルより数は多くなります。
JAXAとNASDAがドローンを使った実験を行なっているためです。



【パイオニアの運用】

1991年の湾岸戦争で、アイオワ級戦艦USS「ウィスコンシン」(BB-64)
発進させたパイオニアは、USS「ミズーリ」が塹壕を攻撃した直後、
イラク軍が降伏したのを確認し、国際的に有名になりました。

戦後、海軍がパイオニアをスミソニアン博物館に譲渡することを申し出たところ、
国立航空宇宙博物館の学芸員は、
「湾岸戦争でイラク軍が投降した瞬間を確認したUAV」
の寄贈をリクエストしたといわれています。

1991年の湾岸戦争では、アメリカ陸軍はアリゾナ州の駐屯地にあったUAV小隊を
三度ホーク作戦に飛行監視と目標捕捉の任務に投入しました。

ちなみに、パイオニアの名称の「RQー2B」の意味ですが、
「R」は国防総省の呼称で、偵察を意味し、
「Q」は無人航空機システムを意味します。
「2」は、目的を持って作られた無人偵察機システムの
これが第2弾であることを意味しています。




主な機能 
砲兵の照準・捕捉、近接航空支援の制御、偵察・監視、
戦闘被害評価、捜索・救助、心理作戦
コントラクター
 パイオニアUAVs, Incorporated、イスラエル航空機産業
仕様

全長:4メートル
全高:1.0メートル
重量:205キログラム
翼幅:5.2メートル
速度:110ノット(200km/h)
航続距離:185kmで5時間(100海里)
高度:4600メートル
燃料容量:44〜47リットル
ペイロード デュアルセンサー(12DS/POP-200/POP-300)

在庫数 175台納入/35台就航


オペレーター
アメリカ海軍
VC-6「ファイアービーズ」ノーフォーク海軍基地(退役)
訓練航空団第6UAV分遣隊。海軍航空基地ホワイティングフィールド(退役)
アメリカ海兵隊
VMU-1「ウォッチドッグス」海兵隊航空地上戦闘センター
VMU-2「ナイトオウルズ 」

スリランカ空軍・海軍

続く。




EYES IN THE SKY 電子戦機EA-6Aプラウラー〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-02-03 | 航空機

わたしがフライング・レザーネック博物館に行った時、
ただでさえ暑いサンディエゴの真夏の炎天下の下、
そこで何の遮蔽物もない航空機展示場を重いカメラを構えっぱなしで
しかも色々とそれなりに考えながら写真を撮って歩くのは
正直ベリーハードな体験でした。

展示されている航空機を一つも漏らすことなく短時間で説明まで撮影。
しかもアポロ13号ではありませんが、フェイリアーイズノットアンオプション、
撮影の失敗は決して許されません。(その心はおそらく2度と来ないから)

ですからどの航空機も全体1〜2カット、
細部で気になるところがあるときだけ直感で判断してズーム、
となると、どの機体も必要最小限のカットしか残っていないのですが、
あとで写真を見て驚いたのが、今日紹介するプラウラーだけは、
なぜかしつこくしつこく何カットも撮っていたことです。



うーん、わたしってそんなにプラウラー好きだったのか。

■ グラマンEA-6B プラウラー(Prowler)



EA-6Bプラウラーの主な任務は、敵の電子活動を妨害し、
戦闘エリア内で戦術的な電子情報を取得することにより、
攻撃機と機上部隊を支援する敵の防空を抑制することです。

戦いにも色々ありますが、敵の防御を崩すという
非常に巧妙な戦法を任務として負わされている、それがプラウラーです。


正確にはこのモデルノートEA-6Bは、1963年に
F3D-2Q(EF-10B)スカイナイトの代替として開発した、

EA-6A エレクトリック・イントルーダー
Electric Intruder(直訳;電気的侵入者)

の続編ともいうべき機体でした。
EA-6Aは艦上攻撃機として誕生したイントルーダーの初期の電子戦型です。


スカイナイト

【電子戦機Electronic-warfare aircraftとは】

電子戦(EW)
近年になって登場した、従来の陸空海の領域を超える、全く新しい戦争の顔です。

電磁環境の中で行われ、電子情報に依存した現代の戦闘において、
敵の情報収集を混乱させたり、誤った情報を与えたりする能力は、勝利に不可欠。

現在は多くの戦闘機がされたアビオニクス(航空電子機器)
を装備しているため、電子戦の定義そのものが曖昧になりつつあります。

たとえば戦闘機F-22ラプターひとつとってみても、
RC-135に匹敵する電子情報(ELINT)システム
ボーイング社の空中警戒管制システム(AWACS)
電子攻撃能力が搭載されているといった具合です。

【ジャミングとは?】

電子戦に特化した航空機EW機の基本任務は、
敵戦闘機の電子システムを妨害することです。

例えば、空対空戦闘中に敵機の無線機を沈黙させ、
他の航空機と通信できないようにするというように。

そのためにどうするかというと、使用するのがEWシステムとなります。
具体的には電波やレーザー光などの集束&指向性エネルギー(DE)を用いて、
相手の探知電子機器(レーダー、ソナー、赤外線、レーザーなど)
の機能を低下させるのです。

そのために、EW機は、必ず航空機のポッドに取り付けられたり、
機体に組み込まれたジャミング・システムを搭載しています。

EW機は電子戦に特化し、この目的のためだけに作られているので、
他の軍用機に比べると武装は必要最小限となっています。

EW航空機は防御手段も電子を利用して行います。
具体的には、敵のシステム上に複数の「デコイターゲット」を作成したり、
敵のターゲットディスプレイを不規則に動かなどの戦法で自らを守るのです。

それでは攻撃はどうするかというと、
アジャイル・レーダー周波数ホッピング・ラジオで、
相手のシステムの情報伝達を妨害するという方法で行います。


「ジャミング」ですが、無線とレーダー、両方の周波数で行います。
送信機を使って敵の受信機の信号を上書きし、代わりにノイズを発生させるのです。

音楽(!)ランダムノイズ、パルスなどで、敵のシステムに可聴ノイズをかけたり
「微妙な」妨害で、相手が全く音を受信できなくさせます。

レーダー周波数による妨害の方法は大きく分けて二種類。
機械的な妨害と電子的な妨害があります。

前者は反射技術を使って敵のレーダー信号を跳ね返し、偽の目標を作り出すもの。
この装置には、チャフ(異なる周波数を反射する金属片)、
コーナーリフレクター(立体的な反射物体)、
デコイ(航空機から独立した操縦可能な物体で、相手のレーダーに目標を示すもの)
などがあり、もう一つの電子妨害は、高濃度のエネルギーを送信して、
過負荷によるノイズ妨害、偽信号によるリピーター妨害を発生
させます。

【プラウラーの電子戦】


現在、グロウラーに移行しているプラウラーは、
レーダー妨害などの通信障害を利用して地上部隊や攻撃部隊を支援する
SEAD(Suppression of Enemy Air Defenses)オペレーターでした。

ICAP(Improved Capability)IIIプログラム
電子機器をアップグレードしたプラウラーは、
連続波(CW)送信機を搭載したALQ-99ジャミングポッド5基、
AN/ALQ-218 EW受信機、LR700リアクティブジャマー
HARM(高速対放射線ミサイル)、Link16データリンク
その他の非運動性の無力化機能を備えていました。

1994年、プラウラーは米軍の主要な戦術的EW機に指定されています。


【日本の電子戦機〜SIGINT】

電子戦機というのは高度な技術の総合体なので、
開発はもちろん、運用もいわゆる先進国に限られる、とされます。

というわけで、我が日本国自衛隊も国産の電子戦機を何機か保有しています。


Kawasaki C-1

あれ?これ輸送機ですよね。


EC-1

失礼しました。こちらでした。
って外側からはほとんど見分けがつかないわけですが。
EC-1は電子戦訓練機です。

ちなみにSIGINTsignals intelligenceからきた用語で、
今や電子戦よりこちらの方が優勢であると思われます。
耳で聞いたことはありませんが、おそらく「シギント」と発音するのでしょう。
違ったらすみません。

それではそのシギントってなんですか、って話なんですが、
通信、電磁波、信号等の、主として傍受を利用した諜報・諜報活動のことです。

それって電子戦と何が違うの?という気がしますが、
電子戦は同じようなハードウェアを使用し、その運用においては
部隊指揮官の意思決定が直接反映されるという点が違います。

RC-2、電子情報収集機

海自はP−3C型で データ収集機EP-3
画像データ収集機(電子情報集偵察機)OP-3C
電子戦訓練支援機UP-3D(標的の曳航やチャフ散布を行う)
試験評価機UP−3Cを運用しています。


EP-3C胴体上面のレドームが増設された(おそらく岩国)

【プラウラー(うろうろする人)】

何度か書いていますが、Plowrerとは「うろつく人」の意味があります。
情報収集が任務の航空機にはいいかもしれませんが、
日本語で「うろうろする人」と訳してしまうと、
とたんに単なるヒマな人か動揺している人みたいなニュアンスになってしまいます。

プラウラーの後継機であるグラウラー(Glowrer)は、
「唸るもの」という意味ですが、これはあきらかにプラウラーと
韻を踏んだ言葉を探してきた感じがあります。

プラウラーと名付けられた経緯はどのようなものだったのか、
そのエピソードなどがいつかわかるといいなと思っています。

EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」は、
1960年代に海兵隊のEF-10Bスカイナイトの後継機として開発されました。

EA-6Aは、標準的なA-6イントルーダーの機体をそのまま転用したもので、
2つの座席を持ち、電子戦(EW)装置を装備しています。

ベトナム戦争中、海兵隊の3つの飛行隊で使用されました。
27機生産され、そのうち15機は新規に製造されたものです。

ほとんどは1970年代に、そして最後の数機は1980年代に退役しました。
いわばより高性能なEA-6Bができるまでの暫定的な戦闘機だったのです。

ここに展示されているのは海軍のEA-6Bです。
スカイウォリアーズ(AKA-3B)の後継機として開発されたもので
大幅に設計変更され、より進化していました。
1971年からは空母で運用されるようになります。

【仕様】

2基のターボジェットエンジンを搭載しており、高い亜音速を実現しています。
長い間(1991年まで)生産されていたため、メンテナンス性が高く、
海軍や海兵隊の他の航空機よりも頻繁にアップグレードが行われています。



空爆任務のための電子戦および指揮統制機として設計されており、
単独で地上目標、特に敵のレーダーサイトなどを攻撃することも可能で、
もちろん電子信号の情報収集も可能です。



最終的なアップグレードでは、EA-6Bはシュライクミサイル(AGM-45)
AGM-88 HARMミサイルを発射できるようになりました。

【デザイン】

EA-6Bは、空母基地および先進基地での運用を想定して設計されています。
長距離・全天候型の能力、そしてと高度な電子対策。
どちらも兼ね備えた完全統合型の電子戦機です。


垂直尾翼の上に乗っかっているように見えるのはポッド型フェアリングで、
ここには追加のアビオニクス機器が搭載されています。


これですわ

プラウラーの乗員は4名。
構成はパイロットと3名のElectronic Countermeasures Officer(ECMO)
「エクモ」というと最近は医療機器としか受け取られませんが。


前にも散々話題にしたツノのような給油プローブですが、
もしかしたらわたしの当機に対する「萌えポイント」はこれかもしれません。

この給油プローブ、右に曲がっているように見えますが、
実は本当に左右非対称の作りになっているのだとか。
プロープの根元にはアンテナが付いています。



キャノピーは、電子戦機器が発する電波から乗員を守るため、
金色の陰影がつけられています。
電磁干渉からの保護と一部の電磁放射の防止の役割を果たしているのです。

【運用の歴史】

EA-6Bは1970年艦隊補充飛行隊VAQ-129に就役し、
1971年には戦術電子戦飛行隊132(VAQ-132)が最初の運用飛行隊となりました。
USS「アメリカ」(CVA-66)でベトナムへの初の戦闘配備を開始し、
USS「エンタープライズ」(CVAN-65)
USS「コンステレーション」(CVA-64)に電子戦部隊が配備されました。

1995年、EF-111 「レイブン」Ravenが退役して以来、
EA-6Bは米軍唯一の空中レーダージャマー専用機として125機が活躍しています。

レイブンって感じのスタイル


【アフガニスタン・イラクでの活動】

報道によると、プラウラーは数年前からアフガニスタンでの
対爆発物作戦に使用されており、実際にガレージ・ドア・オープナー
(ガレージを自動で開ける時のスイッチ)や携帯電話などを使った遠隔起爆装置を
妨害して未然に防いでいるということです。

イラクにも2つのプラウラー飛行隊が配備されていました。

【FLAMのプラウラー】

機体番号161882のEA-6Bは、製造された170機の機体の105番目です。

ノースカロライナ州のMCASチェリーポイントで、VMAQ-1,2,3,4、
全ての海兵隊飛行隊に所属していました。

2011年、ワシントン州NASウィッピーアイランドの海軍に移動、
続いてVAQ-131ランサーズから海軍の乗員を乗せて飛行しました。

ランサーズの徽章。電子戦部隊らしさ満点

彼女をこの航空博物館に届けたのは、4名の乗員で、
パイロットは、


フランク「ウタWuta」ウィリス中尉


マーク「ハイクHaiku」ハーン中尉、以下2名でした。
(以下2名のうち1名女性)

「詩(うた)と俳句」

何と風雅なタックネームでしょうか。
きっとこの人たち、日本勤務が長かったか、日本勤務中に付けたんだろうな。



プレイン・キャプテンの女性の名前がペイントされています。
プレイン・キャプテンの仕事については、
海軍のフィルムがあるのでこちらをどうぞ。

U.S. NAVY TRAINING FILM THE AIRCRAFT CARRIER PLANE CAPTAIN 81144

続く。


2機のファントムII F-4J (S)とRF-4B〜フライングレザー航空博物館

2022-02-01 | 航空機

サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライングレザーネックには、
F-4ファントムが2機展示されています。

我が日本国航空自衛隊では、ついこの間まで
このファントムが老体に鞭打って現役で頑張っていたものです。

アップデートにアップデートを繰り返し、
最後の頃には外側以外最初のオリジナル部分はすでになく、
わたしなどこれを現代のテセウスの船呼ぶべきではないか、
とさえ思っていたわけですが、とはいえ、
アメリカでは博物館でしかお目にかかれないこの機体が、
日本では相変わらず元気に飛んでいて、しかも最後まで
なかなか優秀だったなどという話を耳にしてからは、
むしろその運用方法を誇りに思ったものです。

■ マクドネル・ダグラス F-4J (S)ファントムII Phantom


F-4ファントムIIは、マクドネル・エアクラフト社が
アメリカ海軍のために開発した、タンデム式二人乗り、双発の
全天候の長距離超音速ジェット迎撃/戦闘機です。

適応性が大変高く、1960年にアメリカ海軍に就役してからは、
海軍のみならずアメリカ海兵隊やアメリカ空軍にも採用されるようになり、
1960年代半ばにはそれぞれの航空隊の主力戦闘機という位置を獲得していました。

ファントムは1958年から1981年までの間に合計5,195機が製造されました。
アメリカの超音速軍用機としては史上最も多く生産された機体であり、
冷戦時代の象徴的な戦闘機としての地位を確立した名機です。

【誕生までの経緯】

1953年、マクドネル社はアメリカ海軍に「スーパーデーモン」の提案を行います。

それはたとえば任務に応じて1人用または2人用のノーズを取り付けることができる
というユニークなアイデアのものでした。
しかし海軍は超音速戦闘機はもう間に合っているという態度だったため、
マクドネルは、全天候型の戦闘爆撃機に計画を作り直しました。

ところが、1955年5月26日、マクドネル社にやってきた4人の海軍将校は、
計画書を見て1時間も経たないうちに全く新しい要求を提示してきたのでした。

海軍はすでに地上攻撃用のダグラスA-4スカイホーク
空中戦用のF-8クルセイダーを保有しているし、ということで、同じ全天候型ならと
戦闘爆撃機でなく艦隊防衛用迎撃機を要求してきたのです。

スカンクワークスのケリー・ジョンソン
自社のマネジメント法則の第15番目として社員に伝えていた、

"Starve before doing business with the damned Navy.
They don't know what the hell they want and will drive you up a wall
before they break either your heart or a more exposed part of your anatomy."

「忌まわしい海軍と商売をする前にどうしても知らなければならない。
彼らは自分たちが何を望んでいるのかもわからず、あなたを壁に追いつめるだろう。
あなたの心臓、またはあなたの解剖学的構造のより露出した部分を壊す前に」

という「文章に書かれていない対海軍の法則」について以前書きましたが、
マクドネル・ダグラス社も、海軍相手の商売にはいろいろと苦労したようですね。


それはともかく、新型機は強力なレーダーを操作するために、
座席をパイロットとWTOの二人乗りとすることになりました。
設計者は、次の戦争での空戦では、パイロット一人に負わせるには
多すぎるほどの情報必要となるだろうと考えたのでした。

この決定あっての名作「ファントム無頼」の誕生だと思うと胸熱です(嘘)

デザイン面で特に際立っていたのは、特徴的なインテークです。
スプリットベーンという固定式の形状のインテークから空気を取り込みます。

ここには固定式ランプと可変式ランプがそれぞれ1つずつ装備され、
マッハ1.4〜2.2の間で最大限の圧力回復が得られるように角度が調整されています。

スプリットベーンの、各吸気口の表面から低速で移動する境界層の空気を
「排出」するために追加された12,500個の穴も特徴的な工夫でした。

穴だらけ

また、量産機には、境界層をエンジン吸気口から遠ざけるための
スプリッタープレートも装備されました。

また、主翼には特徴的な「ドッグトゥース(犬歯)」が付けられ、
高攻撃角でのコントロール性が向上しました。

これのことかしら

レーダーはAN/APQ-50を採用し、全天候型の迎撃能力を実現。
空母での運用に対応するため、着陸装置は
最大沈下速度7m/秒の着陸に耐えられるように設計されていました。


ネーミングにあたっては、「サタン」「ミトラス」(Mitras、光明神)
という案もありましたが、最終的には議論の余地のない
「ファントムII」という名称に落ち着きました。

ファントムIIは一時的にアメリカ空軍からのみ
F-110A「スペクター」と呼ばれていたこともあるそうですが、
これらは公式には使用されませんでした。



ファントムは、最高速度がマッハ2.2を超える大型戦闘機です。
空対空ミサイル、空対地ミサイル、各種爆弾など、9つの外部ハードポイントに
18,000ポンド(8,400kg)以上の武器を搭載することができます。

F-4は、当時の他の迎撃機と同様に、当初は内部に大砲を搭載しない設計でした。
後のモデルでは、M61バルカン・ロータリー・キャノンを搭載しています。



1959年以降、F-4は絶対速度記録、絶対高度記録を含む
15の飛行性能の世界記録を達成しています。

ちなみにそのファントムの記録と達成年は以下の通り。

1. Altitude - Top Flight
98,557 ft 
 1959 
2. 500 km closed course 
1216.76 mph 
 1960 
3. 100 km closed course 
1,390.24 mph 
 1960 
4. Los Angeles to New York - LANA
2 hr 49 min 9.9 sec 
1961 
5. 3 km Sage-burner
902,769 mph 
1961 
6. 15/25 km Sky burner
1,606.324 mph 
1961 
7. Sustained Altitude 
66,443.8 ft. 
1961 
8. Time-to-Climb - High Jump


3,000 m
6,000 m
9,000 m
12,000 m
15,000 m
20,000 m
25,000 m
30,000 m 
34.52 sec
48.78 sec
61.62 sec
77.15 sec
115.54 sec
178.5 sec
230.44 sec
371.43 sec 
1962
1962
1962
1962
1962
1962
1962
1962 
New York to London - Royal Blue 3
4 hr 3 min 57 sec 
1969

【運用】

F-4は、アメリカ軍ではベトナム戦争で広く使用されました。

空軍、海軍、海兵隊の主力制空戦闘機として活躍し、
戦争末期には地上攻撃や空中偵察の役割を担うようになりました。

前にも書いたことがありますが、ベトナム戦争では、
米空軍パイロット1名、兵器システム士官(WSO)2名、
米海軍パイロット1名、レーダー迎撃士官(RIO)1名が、
敵戦闘機に対して5回の空中戦勝利を達成し、エースとなっています。


もみあげのカットが時代を感じさせます

以前当ブログでご紹介したことがある、海軍エース、
デューク・カニンガムとウィリー・ドリスコール。
Randall “Duke” Cunningham (pilot) and William P. “Willy” Driscoll (WSO)


ファントムは二人乗りで、パイロットとWSOがチームとなるのですが、
操縦を行うのがパイロット、これに対し、
武器システム士官は火器管制、レーダーや武器などの操作を行う役目です。

ですから、ファントムの勝利の栄光は、共同作業の結果として
どちらにも同等に与えられることになります。



F-4は1970年〜1980年代にかけて米軍の航空戦力の主力として活躍しましたが、
時代が代わり、空軍のF-15イーグルF-16ファイティングファルコン
米海軍のF-14トムキャット、米海軍と米海兵隊のF/A-18ホーネットなど、
より近代的な航空機が登場すると徐々に置き代えられていきました。

ここにあるF-4Jは、F-4Bの改良型で、
空対空戦闘能力と地上攻撃能力の向上に重点が置かれていました。

その後1977年、F-4JはF-4Sに改良され、
スモークレス・エンジン、機体強化、機動性向上のため、
リーディングエッジ・スラットなどの改良が行われました。

なぜスモークレスエンジンに替えられたかというと、これはわかりやすい理由で
大量に排出される黒煙は敵に発見されやすかったからです。


展示されているF-4Jは、1969年1月10日にアメリカ海軍に納入され、
F-4Bの後継機としてNASミラマーを本拠地とする
戦闘機114飛行隊(VF-114)の「ツチノコ」に配属されました。

ツチノコってこんな生き物か?

もちろん英語では”Aadvarks"(アアドバーク)です。
そういえばこの名前、「ツチブタ」と訳したことがありますが、
確かそんな名前の航空機もありましたですね。

ツチノコ飛行隊は、USSキティホーク(CV63)に搭載されて
東南アジアに2回派遣され、ベトナムでの戦闘に参加しています。

その後同じくミラマーにあったVF-213「ブラック・ライオンズ」
VF-121「ペースメーカー」のツアーを経て、

MCASユマの海兵隊戦闘機攻撃訓練飛行隊101(VMFAT-101)に配属され、
その後は艦隊海兵隊の乗組員の訓練に使用されました。

1980年にはハワイのカネオヘベイ基地に移され、
海兵隊戦闘攻撃飛行隊235(VMFA-235)「デス・エンジェル」
VMFA-212の「ランサー」と一緒に活動しました。

その後、ノースアイランド、ハワイのVMFA-232「レッド・デビル」
そして最終的にはVMFA-235に所属しました。


1986年、17年の歳月と4,680時間の飛行時間を経て退役し、
博物館ではMCAS エルトロでファントムに乗っていた予備軍、
VMFA-134「スモーク」のマーキングが復元されています。

■ マクドネル・ダグラス RF-4BファントムII


Rとついているのですぐにお分かりのように、
ここには偵察バージョンのファントムIIもあります。

マクドネル・ダグラス社のRF-4Bは、汎用性の高い
F-4ファントムIIの写真偵察バージョンです。

1965年3月12日に初飛行し、1965年5月にはMCASエルトロを拠点とする
第3海兵隊複合ユーティリティー飛行隊(VMCJ-3)に最初の納入が行われました。

RF-4Bは、海兵隊複合飛行隊VMCJ-1とVMCJ-2にも搭載され、
1966年にはベトナムのダナンでVMCJ-1に装備されて戦闘に参加しました。

マクドネル・エアクラフト社が生産した46機のRF-4Bはすべて海兵隊に提供され、
1970年12月24日には最後のRF-4Bが納入されています。
(きっと”クリスマスプレゼント!”と洒落たのではないかと思われ)

このRF-4Bの最後の12機は、RF-4Cのフレームに大きなタイヤとホイールウェル、
強化された主翼を取り付けて製造されました。
RF-4Bはより長い機首に前方および側方斜視カメラを収納し、
夜間撮影用のフォトフラッシュカートリッジを搭載していました。



画期的だったのは、飛行中にフィルムを現像したり、
低空でフィルムカセットを排出したりすることで、
地上の指揮官が空中情報をいち早く入手できるようになったことです。

また、大型のAN/APQ-72レーダーは、はるかに小型の
AN/APQ-99前向きJバンドモノパルスレーダーに置き換えられました。
地形回避や地形追従に最適化され、マッピングにも使えます。

当初、現役の海兵隊航空団(MAW)には、
写真偵察機と電子対策機を別々に供給する運用中隊がありました。
1975年、海兵隊の写真偵察任務は第3海兵航空団のVMCJ-3が担当することになり、
この飛行隊はすぐに第3海兵写真偵察飛行隊(VMFP-3)と改称されます。

この飛行隊はその後、海軍と海兵隊の両方のユーザーに分遣隊を送りました。

海兵隊で使用された最後のRF-4Bは、「砂漠の嵐」前の1990年に退役しました。


【FLAMのRF-4BファントムII】



展示されているRF-4BファントムIIは、1965年10月15日に最初に受領され、
MCAS エルトロのVMCJ-3に引き渡され、そこでその生涯を過ごしました。

1981年には、チェリーポイント基地岩国基地、そして
空母ミッドウェイ(CV-41)にも派遣されています。
(ということはずっと横須賀にもいたということですね)

1990年4月25日に5,364時間で退役し、博物館に寄贈されたこの機体は、
MCAS エルトロを拠点とする海兵隊写真偵察部隊3
Marine Photo Reconnaissance Squadron Three, (VMFP-3)
ニックネーム「Eyes of the Corps」の塗装がされています。



続く。





スコシ・タイガープログラム F-5EタイガーII〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-30 | 航空機

今のところ閉館していて再開の予定が立っていないらしい
フライング・レザーネック海兵隊航空博物館ですが、
かつては、来館者に海兵隊航空への理解と協力を求めるための
いろんなイベントを開催していたものです。

オープン・コクピット・デイとは、その日決められた航空機に
乗り込んで、コクピットに座ることができるという企画のことです。


2013年から2019年まで続けられてきたのは、
「パイロットとピクニック」Picnic With a Pilotという企画。

海兵隊のヴェテランパイロットを囲んで現役時代の
体験や自慢話などをうかがうチャンスです。
たとえば2019年8月24日にお話を伺ったというアコスタ中佐は、
TOPGUNを卒業し、FAー18のインストラクターパイロットで、
最終的には海軍長官事務補佐官まで行ったという人です。



同じ話をするとしても、こういうギャラリーなら
やっぱり、おじさんとしてはいつもより張り切ってしまう感じ?

「パイロットとピクニック」企画は、毎週土曜日に行われていたようですが、
今は博物館そのものが閉館しているので残念です。

さて、今日ご紹介するタイガーIIは、
オープン・コクピット・デイが最後に行われたらしく、
コクピットに上がるための台が、いまだに設置されています。


 ■ノースロップ F-5E タイガーII


Fー5EタイガーIIは、 軽量・多目的戦闘機という位置づけで、
1950年代後半にノースロップ社によって設計された
F-5超音速軽戦闘機ファミリーのひとつです。

タイガーIIと呼ばれるのはアップデート型のF-5のEとFで、
F-5のAとBは「フリーダムファイター」Freedom Fighterという、
タイガーとは何の関連性もない名前で呼ばれていました。

同時代の戦闘機にはマクドネル・ダグラス社のF-4ファントムIIがありましたが、
こちらと比べてFー5シリーズは小型でシンプルなため、
調達・運用コストが低く、輸出機として生産が行われました。

1970年、アメリカの同盟国に低コストの戦闘機を提供するための
国際戦闘機コンペティションで優勝したノースロップが、
1972年に導入したのが、第2世代のF-5EタイガーIIということになります。

もともとノースロップは、第二次世界大戦時代の護衛空母に乗せるため、
F-5を開発していたのに、海軍がそれらを引退させてしまったうえ、
アメリカ空軍は軽戦闘機というものを戦略上必要としなかったため、
製品の行き場を海外の販路に求めたという事情もありました。

その後タイガーIIを導入した国は、南ベトナム、タイ、イラン、エチオピア、
サウジアラビア、ヨルダン、大韓民国、リビア(王政時代)、モロッコ
で、
カナダはライセンス生産を行っていました。

冷戦中の1972年までに同盟国のために800機もの機体が生産されています。

【計画と生産】

1953年、NATO(北大西洋条約機構)は、通常兵器以外に核兵器も搭載でき、
さらに荒れた飛行場でも運用できる軽量の戦術戦闘機を必要としていました。

そこでノースロップ社のチームはヨーロッパとアジアを視察して、
各国のニーズについて調査を行ったのですが、その結果、
どこも高価なジェット機を数年ごとに買い換えることはできないと判断し、
10年以上の使用に耐える機体を目指すことにしました。

持ちがいいというよりは、長期間にわたって
アップデートできる技術が導入された機体です。

その結果、設計チームは、性能と低コストのメンテナンスを重視し、
コンパクトで高推力のゼネラル・エレクトリック社製J85エンジン2基を搭載した
小型で空力に優れた戦闘機を開発しました。



F-5Aは、主に日中の制空任務を目的として設計されていますが、
地上攻撃のプラットフォームとしても機能する機体として、
1960年代初頭に就役しました。

冷戦時代には、米国の同盟国のために1972年までに800機以上が生産されました。
アメリカ空軍は軽戦闘機を必要としていませんでしたが、
F-5AをベースにしたノースロップT-38タロン練習機を約1,200機調達しました。



このアップグレードでは、より強力なエンジン、より大きな燃料容量、
翼面積の拡大と前縁延長による旋回率の向上、オプションの空対空給油、
空対空レーダーを含むアビオニクスの改良などが行われました。

主にアメリカの同盟国で使用されていますが、
サポート任務を行うため、F-5N/F型はアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサー訓練機として運用されています。

【プロジェクト・スパローホーク】

F-5からは偵察専用のRF-5タイガーアイ🐯👁が派生しました。

また、F-5は一連の設計研究の出発点ともなっています。
YF-17コブラやF/A-18といった海軍戦闘機は、
これが元になって誕生したといっても過言ではありません。

ちなみにコブラはFー16に負けて制式採用されませんでしたが、
実用化作業を施されてF/A-18になりました。


YF-17コブラ


F/Aー18ホーネット

ノースロップF-20タイガーシャークは、F-5Eの後継機として開発された
先進的な機体でしたが、最終的には輸出先が決まらず中止されました。

1964年、アメリカ空軍はプロジェクト・スパローホークを立ち上げました。
これは、軽攻撃機であるグラマンA-6A、ダグラスA-4、ノースロップF-5A
戦術的な任務環境で評価するというプロジェクトです。

テストの目的は、これらの航空機の近接航空支援能力を判断することでした。

結果から言うと、このプロジェクトでF-5Aフリーダムファイター
有能な戦闘爆撃機であることが証明されたわけですが、
国防長官は南ベトナム空軍にジェット機を供給することにあまり熱心ではなく、
しかも残念なことに、このときF-5Aは1機、模擬空戦中に失われました。

翌月に行われた評価テストはスコシタイガーと呼ばれるものです。

【スコシ・タイガープログラム Sukoshi Tiger Program】

ノースロップF-5A/Bフリーダムファイターは、当初、
軍事援助プログラムを受けている国と、
外国軍売却で航空機を購入する国に納入される予定でしたが、
ベトナムでの消耗が激しく、すぐに入手可能であったため、
空軍は東南アジアで使用するために200機の取得を要請しました。

同機は1965年までにすでに十数カ国の空軍で使用されて輸出に成功していました。

しかし、国防総省が同機の海外販売に熱心に取り組んでいるにもかかわらず、
米空軍はF-5を1機も発注していないと主張する声もありました。

そこでマクナマラ国防長官は、
「スコシ・タイガー」と名付けられたプロジェクトのもと、
東南アジアでF-5の運用評価を行うことを命じたのでした。

ある英語のサイトには、
「プロジェクト名は、日本語の「小虎」に由来している」
と大嘘が書かれていましたが、これは日本人なら誰も間違いだとわかりますね。



1965年、ウィリアムズ空軍基地に12機のF-5Cを搭載した部隊が編成されました。
この機体は、F-5Aにいくつかの改良を加えたもので、
飛行中の燃料補給機能、装甲板の追加、
アビオニクスや搭載兵器の変更などが行われました。

10月22日にウィリアムズを出発した飛行隊は、4日後に
ベトナムのビエンホアに到着し、同日中に最初の戦闘ミッションを行います。
戦闘評価は4ヶ月強の予定で、その後帰国することになっていました。

Sukoshiというのはご想像の通り「少し」で、(もちろん”小さい”ではない)
littleというところをわざわざ日本語にすることで、
「アジア」を強調したものと考えられます。

ベトナムに持っていくのになんで日本語なんだ?という気がしますが、
まあ、彼らにとって日本もベトナムもアジアだし、
みたいな大雑把な認識を持っていたことの現れかもしれません。

それにアメリカ航空隊というのは、第二次世界大戦中から
「サラ-マル」(空母サラトガのあだ名)とか「チョットマッテ号」
(アメリカ陸軍航空軍第98爆撃群第344爆撃隊に所属したB-29爆撃機)
とか、露悪的に日本語を使って喜ぶ悪い癖があったので、
この「スコシ」もその名残りだったのではないかという気がします。


スコシタイガーでの給油テスト中

この評価でF-5は、1966年1月1日からダナンに派遣され、
前線基地での活動や北ベトナムでの任務を経験することになっていました。

計画はいくつかの段階に分かれており、

第1段階ではビエンホアから遠くない目標を攻撃し、
第2段階では部隊をダナン飛行場に移動させて地元の目標を攻撃し、
第3段階ではビエンホア飛行場に戻って集中的な作戦を行うこと、


となっていました。

スコシ・タイガー評価は1966年3月9日に終了しました。
その期間飛行隊はビエンホアから2,093回、ダナンから571回の出撃、
合計3,116時間の戦闘飛行を行いました。

評価期間中に失われた機体は1機のみで、技術的な問題から16機が損傷し、
42回の出撃が中止されました。
しかし、 評価は成功したとみなされています。

折しもプロジェクト終了時に米国の戦力増強が承認されたばかりであったため、
F-5部隊はそのまま南ベトナムに留まることが決定され、
そのまま共和国空軍に引き渡されて、
ベトナム人飛行士と整備士の訓練が開始されました。

戦闘評価は33名のチームで行われ、性能、武器運搬精度、
整備性、信頼性、操縦性、生存性、脆弱性などが、
現地のF-4、F-100スーパーセイバー、F-104スターファイターとの
比較データとして提出されました。

その結果、F-5はフル装備で560発の20mm砲を2門、汎用爆弾を2個、
ナパームキャニスターを2個搭載した場合の平均航続距離は120海里と
他の戦闘機に比べ、航続距離が短く耐久性に欠ける
という欠点が明らかになりました。

この不足を解消するために、給油機による支援が行われることになりました。
写真はそれを解消するための空中給油の様子です。

その他の細かい問題点はあっても、メンテナンスが非常に簡単で、
エンジンの交換もわずかな時間で済み、小型であるために
戦闘でのダメージも小さいうえ、搭載能力に優れ、
F-5はFACの地上攻撃機として人気を博し、最終的には
VNAF(ベトナム空軍)にも大量に供給されることになったのです。

そして1967年以降、同機はVNAFの最も強力な武器となったのでした。

【運用】



タイガーIIは、空爆と地上攻撃の両方の任務をこなすことができるため、
幅広い役割を果たしており、ベトナム戦争でも多く使用されました。
1987年に生産が終了するまで、タイガーIIは1,400機が生産されています。

F-5N/Fのバリエーションは、その後もアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサーとして使用されており、
2014年時点でまだ約500機がバリバリに就役しています。

【FLAMのF-5EタイガーII】

ここに展示されているF-5EタイガーIIは、
ノースロップ社がカリフォルニア州ホーソーンで製造した輸出用戦闘機で、
当初は南ベトナムに納入される予定でしたが、
南ベトナムが崩壊したので輸出の話はなくなり、国内配備になりました。

シリアルナンバーは74-01564で、
1976年にT-38Aタロンからのアップグレードに伴い、
まず、ネリス空軍の第57戦闘機兵器航空団に送られました。

F-5Eは、ソ連のMiG-21とほぼ同じ大きさと性能を持っていたため、
アグレッサーとなって敵対的な戦術を教えたり、
米空軍飛行隊にDACT(Dissimilar Air Combat Training)として使われました。

第57飛行隊は最終的に第64アグレッサー飛行隊となり、
当機は部隊指揮官の飛行機として活躍しています。

その後、米海軍に移管され、ネバダ州ファロンにある
打撃戦闘機群127飛行隊(VFA-127)の「デザート・ボギーズ」に送られ、
海軍飛行隊にアドバーザリー訓練を提供しました。
そして1996年、VFA-127が解体されるまでそこに所属し、
その後VFC-13戦闘機隊の「セイント」に移されます。

聖人って・・。

「セイント」は、海軍戦闘機兵器学校(TOPGUN)がファロンに移転した際、
NASファロンでのアドバーザリー訓練の役割を担いました。

2007年、この機体はフロリダ州セントオーガスティンにある
ノースロップ社のメンテナンス施設に送られました。
海軍がスイス空軍のF-5Nを購入した際に、本機の退役が決定され、
海軍籍から外されました。

■スイスから「輸入」されるタイガーII



これはどういうことかと思って調べてみたのですが、
米海軍がスイス空軍から取得したF-5E 16機とF-5F 6機を改造し
取得して、仮想敵の高高度・高速の戦術戦闘機として運用したということです。

F-5はここでも書いたように長年その役割を担ってきましたが、
最新の安全システム、航空電子機器、共通の戦術的能力がなかったので、
最近スイス空軍から取得した16機のF-5Eと6機のF-5Fを改造し、
アップグレードをして運用しようということのようです。

2020年から、米軍はスイスから22機のF-5E/Fを取得し、
現在就航している43機を補完し、場合によっては置き換えていっています。

PMA-226のアドバーザリー部隊チームリーダーであるフォーサイス氏は、

「このパンデミック下、1970年代の機体に21世紀の技術を統合するのは
技術、スケジュール、管理にかなりの問題があったにも関わらず、
パートナー、艦隊、PMA-226チームとの建設的な協力が任務を成功に導いた」

と述べているそうです。

アップグレード改造を受けるF-5機は、
F-5N+/F+
と命名される予定です。

空対地警告、悪天候対策、燃料レベル警告などの必要な計器類を追加することで、
パイロットや機体を失う潜在的なリスクを低減するのが目的で、
このアップグレードはまた、「友軍」の空対空訓練を改善するため、
戦術的な機能が追加されたものとなっています。


特筆すべきは、Tiger IIがアドバーザリーの役割に理想的で、
安価に運用でき、保守が簡単で複雑なシステムがないことです。

しかし、現在の状態では、現実的には
MiG-21「フィッシュベッド」(MiG -21のNATOコードネーム)
程度の「脅威の再現」しかできないことがわかっており、
今、信頼できる対抗手段を現実として導入するために近代化が切実に必要なのです。



続く。





最後のスカイホーク製造番号2960のペイントの謎〜フライングレザーネック航空博物館

2022-01-28 | 航空機

なぜかスカイホークだけが3機もあるここフライングレザーネックですが、
前回ご紹介した練習機、TA-4Fは、この横の航空基地で
訓練飛行の際に事故を起こし、修復が不可能とわかったので
そのまま運んできて展示するという特殊な経緯だったことがわかりました。

そして3機目のスカイホークですが、これも博物館にとって好都合なことに、
前者2機とバージョンが違い、塗装もご覧の通り全く別物です。

■スカイホークA-4M II


A-4MIIは、スカイホークシリーズの最後のバージョンとして製造されました。
つまり最終形というわけです。
名機と言われたスカイホークの最終形だけあって、
A-4MスカイホークIIは、明らかに最も高性能な機体となりました。

もともとスカイホークは、あのジェット機時代には、
アメリカ海軍の輸出機として最も人気のある機種であることは証明済みでした。

サイズが小さかったので、第二次世界大戦時代に就役した
古くて小型の空母でも、取り回しが可能だったからです。


その結果、1979年までの27年間の長きにわたり、
2960機もがあらゆるバージョンで生産されることになりました。

そのミッションはこのようなものです。

「攻撃的な航空支援、武装偵察、防空を
海兵隊遠征軍のために提供する」

A-4Mは近接航空支援プラットフォームの要件を満たすため、
アメリカ海兵隊に特別に製造された最後の機体と言ってもいいでしょう。

元々近接航空支援そのものは、空軍力の任務としては古典的であるがゆえに
航空優勢の獲得が航空戦の第一議となってくると重要性は低下していました。

しかし、アメリカ海兵隊の海兵隊航空団は、伝統的に
近接航空支援任務を重視しており、研究を重ねていたのです。

というのも、海兵隊の主任務の一つが地上部隊の支援であったからですが、
この結果として開発された攻撃法の1つが、急降下爆撃だったというくらいです。


さて、その要件を満たす機体に搭載された
推力11,200ポンドのプラット&ホイットニーJ52-P408エンジンは、
従来のものよりも20%は強力なものとなりました。

また、視認性を向上させた大型のフロントガラスとキャノピー
視覚的な爆撃精度を上げるためのアングルレート・ボミングシステム
(ARBS、角度速度爆撃システム)
を搭載しています。

このARBSは元々海兵隊の攻撃機のために特に設計されたシステムで、
無誘導武器を使用して近距離支援活動を行う際に、
昼夜を問わず爆撃の精度を向上させることが目的でした。
これは通常外部か機首に取り付けられています。

また、共通の光学システムを使用した自動レーザー追尾システム
パイロット制御の追尾テレビも搭載されているので、
パイロットはARBSを使ってテレビの画面で地上目標を確認し、追尾装置をロック。

するとトラッカーがレーザーで照射されたターゲットに自動的にロックオンします。
パイロットはその後表示される指示に従うだけ、という簡単機能。

もうここまできたら、あとはコンピュータがダイブの角度と、
トラッカーの角度の許容範囲内の組み合わせを検出し、
勝手に爆弾を発射して攻撃までしてくれるというわけです。
It's so easy!


展示機のノーズチップをご覧ください。
このブルーに見えるクリアカバーの後ろにマウントされているのがARBSです。

この世界ではずいぶんと早くからAI(といっていいのかどうかわかりませんが)が
人間の代わりを務めてきたようですね。

これによって、戦闘機パイロットには昔のような「射撃の腕」というものは
全く必要なくなってしまったということになります。

もちろんそれとは別の能力が要求されるようになるので、
パイロットになるのが簡単になったというわけではないと思いますが。

また、この写真でノーズセンサーの両側に、
猫のウィスカーパッド(ヒゲ袋)みたいな形のがありますが、ここには
ALR-45レーダー警告システムのアンテナが設置されています。

1969年、より強力なSAMとAAAが登場したため、
米海軍は、海軍攻撃機用の次世代警告システムAN/ALR-45を開発しました。
AN/ALR-45は、ハイブリッドマイクロサーキットを搭載した
世界初のデジタルシステムです。

1970年から1974年にかけて、AN/ALR-45は導入されました。

機首の下には、ALQ-126デセプションジャマー送受信システム
のアンテナがあります。


また、艦上での着陸距離を短縮するためにドローグパラシュートが搭載されました。
これも当時の先端技術だったようです。

Solo Turk F-16 Drogue parachute landing and he lost a part of it RIAT 2018 AirShow

着陸後に小さなパラシュートが開くのはエアショーでお馴染みですが
なかなか可愛らしい光景でなごみます。
ドラッグシュート(Dragchute)という言い方もあります。

その他改良されたものは、

無煙バーナー缶
角型の垂直尾翼の上に配置された敵味方識別(IFF)アンテナ



ヘッドアップディスプレイ(HUD)などが変更されました。

最初のスカイホークの項で説明しましたが、
もともとA-4は核兵器の軽量運搬プラットフォームとして設計されました。

【運用】

Mighty Mikes「マイティ・マイクス」は
Mud Marines「マッド・マリーンズ」を守るための
究極の近接航空支援兵器として改良されました。

マッド・マリーンズは先日紹介した映画「フライング・レザーネックス」で
説明した通り、海兵隊歩兵を表すのですが、マイティ・マイクスって何?

マイティ・マイクスというとこれしか考えられないんですが。
30 minutes of Mighty Mike 🐶⏲️ // Compilation #8 - Mighty Mike


海兵隊でのA-4の愛称だったんでしょうか。
推測するに、マイティ・マイクスはA-4機体の愛称なんじゃないかしら。


さて、先ほど説明したARBS= Angle Rate Bombing Systemの搭載で、
A-4Mは、間違いなく世界最高の近接航空支援ジェット機となったわけですが、
皮肉なことに、A-4MはA4Aを除くスカイホークの中で
唯一、戦闘に参加していないバージョンとなってしまいました。

なぜなら、A-4Mが初めて就役したのは、ベトナム戦争が収束に向かっていた
1971年であり、湾岸戦争に先立つ1990年2月には第一線を退いていたからです。

というわけで、海兵隊のA-4Mは、その現役期間中、

日本に前方展開して、実現しなかった戦争に備えていた

のでした。(-人-)
まあ、配備されるだけで終わる戦闘機は別にこれだけというわけではないからね。
それをいうなら自衛隊になってからの日本の戦闘機はどうなる。

ちなみに、A-4を運用していた他国軍にイスラエル軍がありますが、
ここは中東のいくつかの紛争があったのでMiG-17を敵として出撃しています。

ただし、中東で実戦に投入されたA-4は、ほとんどがドッグファイトなどより
対空砲(AAA)や地対空ミサイル(SAM)に撃墜されていたようです。

数少ない例の一つとして、エズラ・ドタン大佐が、
A-4のポッド式空対地ロケット弾でMiG-17を1機、
同じくA-4の30ミリ砲で翼を落としてもう1機、計2機を撃墜しています。

しかもEzra Dotanはイスラエル空軍のエース(勝利数5)として、
乗機はミラージュネシェルのエースにカウントされており、
たまたまA-4に乗っていた時に撃墜しただけと認識されているようです。

A-4Mは合計160機が製造されました(うち2機は改良型のA-4F)。

【A-4の終焉】

1979年2月27日、アメリカ海軍がマクドネル・ダグラス社の
A-4M Bureau Number (BuNo) 160264
を受領したことにより、25年間にわたるスカイホークの生産が終了しました。

この間、2,960機のスカイホークがラインから出荷されました。
最後の『スクーター』(A-4の愛称の一つ)を最初に飛ばした飛行隊は
VMA-331バンブルビーでした。


1990年、VMA-211が最後のA-4Mから
AVー8BハリアーIIに移行させていきました。
そして最後にサービスを終えたのは1994年のことでした。

HPによると、ここにあるのはその最後の機体160264なのだそうです。
さらに、最後に生産された2960機の、さらに一番最後の機体です。

その証拠、2960の数字が書かれている

最後に受領したのはNASレムーアのVA-23ブラックナイトで、1967年でした。
パッチに書かれているATKRONは前にも説明したことがありますが、
Attack Squadronからできた造語で「攻撃飛行中隊」を表します。



メリーランド州のNAS Patuxent Riverにある海軍航空試験センター(NATC)
カリフォルニア州のNAWCチャイナレイクにある
VX-5ヴァンパイアズにも所属して、ミサイルテストに参加していましたが、
その後海兵隊に返還され、海軍と海兵隊を行き来し、
NASメンフィスにあるVMA-124ウィストリング・デス Whistling Death
での所属を最後に引退しました。


ところで、HPには、間違いなくこの機体と同じ写真と共に、

「このジェット機は現在、MCASミラマーのVMA-124の
最後のカラーを身にまとっています」


と書かれているのですが、VMA-124の塗装はこれなんです。


「ブルーエンジェルス」としっかり書いてある現地の機体を
さすがのわたしも見間違えようがないのですが、ただしこのペイント、
記憶にあるブルーエンジェルスのそれとは全く違います。

なのにどうしてこう既視感があるんだろう、と考えてみたら、
これ、ブルー・インパルスに似てませんか?


機体には国旗が。
右からトルコ、ニュージーランド、クェート、アメリカ、イスラエル、
オーストラリア、青と白のはたぶんアルゼンチン。

この国旗の配列と、「ネイビー/マリーンズ」というペイント、
ブルーエンジェルスのマークを見てわたしははたと合点がいきました。

おそらく、この塗装はアメリカ軍の「どこにもない」オリジナルで、
FLAMが考えたところのA-4の歴史をあらわしているのでは
と。
その結果たまたまブルーインパルス に似てしまったのではないでしょうか。

国旗はA-4を採用した国全てを表し、
使用したのは海軍と海兵隊、ブルーエンジェルスの機体にも使われたことがある。

そういうことなんじゃないかな。
みなさまどうお思いになります?

しかし、それならそうとどこかに一言説明しておいてくれないと、って気がします。


今気がついたのですが、ここの入り口の看板には
このスカイホークが同じペイントのまま描かれていました。
オリジナルの塗装を施し、実際に飛ばすこともあったようです。



スカイホークの生産が1979年に終了した当時、
27年間にわたる生産期間はアメリカの戦術機の中で最長でした。


続く。



マングースとスーパーフォックス TA-4Jスカイホーク〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-26 | 航空機

FLAMにはA-4スカイホークが3機あります。
前回、A-4Fという最初のバージョンをご紹介したわけですが、
現地では少なくとも形に少しの違いも見分けることができませんでした。

そして今日ご紹介するスカイホークには頭に「T」が付いています。
それはこれが訓練機であることを表しています。

しかし、アメリカ軍の軍用機に詳しい人なら、
この機体を見ただけでこれが訓練用だとわかるのだそうです。
そのポイントはペイント。(お、韻を踏んでる)
オレンジと白のマーキングがどうやら訓練機を表しているらしい。


■ マクドネル-ダグラス TA-4Jスカイホーク Skyhawk

【そのミッションと訓練機の色々】

海軍及び海兵隊の学生飛行士のための高度な艦載ベースの
ストライク(打撃)ジェット訓練機です。

今更ですが、ジェット練習機とは、
基本的な飛行訓練や高度な飛行訓練を行うためのジェット機のことです。
通常それは専用に設計されるか、あるいは既存の航空機を改造して作られます。

軍用ジェットエンジン搭載機が導入され、同時に
専用の操縦訓練機が必要となりました。

1940年代、つまり最初の訓練機は、グロスター・メテオ(英)
ロッキード・T-33などの既存の設計に手を加えたものでしたが、
その後、エアロL-29デルフィンBACジェット・プロボスト(英)など、
最初から訓練機として設計されたものが登場しました。


ロッキード T-33

一般的に軍航空の訓練では、基礎訓練にピストン機やターボプロップ機を使い、
訓練が段階的に進むと、ジェット練習機の過程に入ります。

しかし、アメリカでは、セスナT-37ツィートのようなジェット練習機が、
訓練の初期段階にも使われるようになってきました。

さらに、イギリスでは、戦闘機や攻撃機のパイロットに選ばれたパイロットは、
フォーランド・ナット(Folland Gnat)のような、高度な訓練機を使いました。

RAF飛行訓練学校の訓練機フォーランド・ナット

アメリカ軍の練習機としては以下のようなものがあります。

ロッキードT2V シースター Sea Star(退役)
テムコTTピントPinto(退役)
マクドネル・ダグラスのT-45ゴスホークGoshawk(現役)
ノースアメリカンのT-2バックアイBuckeye(現役)
ノースロップT-38タロンTalon(現役)



T-38タロン

ちなみに我が自衛隊では、1962年からなんと2006年までの長きにわたり、
富士重工のT-1を使用してきました。


T-1

その後置き換えられたのは1975年から2006年までのT-2で、
生産は三菱重工業です。


T-2

現段階での空自での訓練パイロットの中等練習機は、
川崎重工のT-4であるのは皆様ご存知の通り。


T-4(ドルフィン)
TA-4J Skyhawk Documentary

【TA-4Jスカイホークのヒストリー】

1965年、スカイホークの最初のタンデム(縦列)二人乗り、
デュアルコントロールのトレーナー(訓練)バージョンが海軍用に開発されました。

その際、胴体は2フィート4インチ延長され、それに対し
胴体の燃料タンクは100ガロンの大きさにまで縮小されています。

T-4には、訓練機ではない方のA-4Fに利用可能であれば、
あらゆる種類の武器を搭載するだけの能力がありました。


【計器飛行訓練機】

A-4スカイホークの訓練機バージョンTA-4Jは二人乗りで、
T-9Jクーガーに代わって訓練の役割を担うようになりました。

そしてその後T-45ゴスホークに取って代わられるまでの数十年間、
白とオレンジのマーキングを施した上級ジェット練習機として活躍しました。

さらにTA-4Jは、すべての海軍マスタージェット基地で、
計器訓練RAGに割り当てられました。

RAGって何かしら、とアメリカ人でも思うと思うのですが、
ここには全く説明がありません。

RAGとは、
「Replacement Air Groups」
とかつて呼ばれていた海軍と海兵隊の部隊のことで、
現在はFRS「Fleet Replacement Squadron」ですが、
「RAG」という呼称はそのまま残っており、普通に使われています。

FRSは飛行士、飛行士官(NFO)、および下士官の乗組員を、
彼らが飛行を割り当てられた特定の最前線の航空機で訓練する部隊です。

リプレースメント(代替)・パイロット
リプレースメント(代替)兵器システム士官

は、

(カテゴリーI)新たにウィングマークを取得した飛行士
(カテゴリーII)航空機を別のタイプに変更する飛行士
(カテゴリーIII)空白期間を経てコックピットに戻る飛行士


のことをいいます。

訓練を終えた卒業生は、艦隊飛行隊に配属されます。
また、FRSは航空機の整備士を育成し、飛行隊の減少に備えて代替機を提供し、
整備と航空機の運用を標準化する役割を担っています。

回り道をしましたが、TA-4Jは、この部隊における
計器飛行の訓練機として使用されていたということです。


また、TA-4Jは、海軍航空隊がまだ多くのプロペラ機を保有していた時期に、
ジェット機への移行のための訓練に利用されましたし、また、
海軍航空隊員の年次計器訓練、チェックライドに使われていました。

年次訓練というのは、現役を降りたあとのパイロットが
技量維持のために行う飛行訓練のことです。
英語では「チェックライド」と呼んでいるようです。


計器飛行というのは、前にも説明したことがありますが、
視界が天候等で不良となっても、目視なしで計器を頼りに操縦を行うことです。

もちろん平常の操縦では行われることはありませんが、
(それどころか、航空法によって有視界飛行が可能な場合は禁止されている)
どんなコンピュータ搭載の最新艦の乗組員でも、天測を行い、
海図に定規で線が引けるように、いざというときに備えて行われる
マニュアルモードでの訓練と考えていただくといいかと思います。

この事態は通常気象条件により起こってきますが、
これも航空法によって決められたところによると、
この条件が揃った状態のことを、

計器気象状態
 Instrument Meteorological Conditions ;
IMC

と称します。

計器飛行訓練に割り当てられたTA-4Jは、
外界の情報を遮断するために、フードが折りたためるようになっていました。

INSTRUMENT FLIGHT IN THE T-38A TALON TRAINING AIRCRAFT U.S. AIR FORCE FILM 84344

このアメリカ空軍編纂の計器飛行訓練の映像は、Tー38タロンで行われております。
7:30くらいから乗り込んで、8:30にキャノピーを下ろしますが、
後ろの訓練パイロットだけが、その後ゴソゴソと(笑)
手動でフードを引っ張って外界を遮断しています。

その後、

計器に従って離陸が行われ、(10:00~)
高度の維持、コースの入力に続いて、アプローチ(22:00~)
タッチダウン寸前からの再離陸(25:00~)
マニュアルモードに切り替えての着陸

と全てが一本で見られます。
なんか、見てるだけなら簡単で誰にでもできそうに思えますが、
ここに来ることができる時点で一握りの「エリート」なんだろうなあ。

ちなみにアメリカ海兵隊の計器飛行が行える部隊は、

VF-126(カリフォルニア州NASミラマー)
VA-127(ネバダ州NASファロン)
VF-43(バージニア州NASオセアナ)
VA-45(フロリダ州NASセシルフィールド、後にキーウェストに移転)

でした。

  【アドバーザリー(アグレッサー)】

さらに、単座のA-4スカイホークが世界各地の飛行隊(VC)に割り当てられ、
そこで訓練などに使用されました。

1969年にあの海軍戦闘機兵器学校(TOPGUN)が設立されます。
空戦機動(ACM)訓練が新たに重視されるようになったことで、
A-4スカイホークが機器RAG部隊とマスタージェット基地の複合飛行隊、
両方で利用できるようになりました。

軽快なA-4は、TOPGUNが好んで「MiG-17役」として使用します。

F-4ファントムももう誕生していましたが、
こちらはまだ戦闘機としての能力を最大限に発揮し始めたばかりで、
小型の北ベトナムのMiG-17やMiG-21相手には
期待したほどの性能を発揮できなかったのが正直なところでした。

TOPGUNでは、改造したA-4E/Fを使って行う、
異種格闘技戦訓練(DACT)を導入しました。

「マングース」(Mongoose)と呼ばれた改造機は、背骨のハンプ、
20ミリ砲とその弾薬システム、外部の貯蔵庫をなくしており、
スラットは固定されていました。

USN F-14A Tomcats vs. A-4 "Mongoose" & F-16N Air Combat Training

このビデオで0:14に映るのが改造されたA-4「マングース」です。
(マングースのスペルがMongooseだと初めて知ったわたし)

トムキャットは何の因果か、マングースとF-16を同時に相手にしている模様。

スカイホークは小型で、よく訓練された飛行士の手にかかれば
低速での優れた操縦性を発揮するため、艦隊乗組の飛行士に
DACTの細かいポイントを教えるのに理想的な機体だったと言われています。

中隊はやがて、アドバーザリー訓練という主要な役割に移行したことを示す、
鮮やかな「脅威タイプ」の塗装を施すようになりました。
(航空自衛隊でもアグレッサー部隊の塗装は派手でしたよね)

これらの訓練をより効果的に行うために、単座のA-4Eなどが導入されましたが、
「究極のスカイホーク」は、改良型のJ52-P-408エンジンを搭載した
「スーパーフォックス」SuperFox Agressorだったとされます。


画像はハセガワさんにお借りしております


ファロン基地のアドバーザリー部隊

この機種は、1974年のUSS「ハンコック」最終巡航時に艦載されたもので、
また、1973年にブルーエンジェルスが選択した機種でもあります。


旧USMCスカイホークが余ってきたこともあって、
A-4MバージョンはVF-126とTOPGUNの両方で使用されることになりました。

A-4は、F-5E、F-21(Kfir)、F-16、F/A-18によって
アドバーザリーの役割が強化されたにもかかわらず、
1993年にVF-43が退役し、その後まもなくVFC-12が退役するまで、
「仮想敵国の脅威の代用」機の役を果たし続けました。

2003年、スカイホークは退役、最後に運用したのはVC-8でした。

A-4Mをアドバーザリーの役割で運用していた部隊は他にもあります。
テキサス州ダラスにある海軍航空予備軍の
オペレーション・メンテナンス・デタッチメント(OMD)です。

ここに配備された4機のジェット機を操縦した飛行士の多くは、
空軍基地の司令官を含めてNASダラスに所属していました。

そしてF-4ファントムIIや後にグラマンF-14トムキャットの
仮想敵機としてその訓練と開発に貢献しました。

その他の任務は、カリフォルニア州ミラマー、
ネバダ州ファロンへの目標曳航などです。

それにしても、アグレッサーとなってから「究極の機体」が登場するとは、
何とも息の長い名機だったんだなと感嘆せずにはいられません。

【FLAMのTA-4J】

機体ナンバー158467は、地中海のNAS基地に展開していた
VT-7が海軍の学生パイロットの訓練に運用していた機体です。

1992年、MCASエルトロでクロスカントリー訓練を行っていたところ、
離陸事故が発生しましたが、学生とインストラクターに怪我はありませんでした。

機体はその後経済的に修理が不可能であると判断されたため、
1995年5月にこの博物館に運ばれて展示されています。

海兵隊の航空事故履歴を当たってみましたが、
事故と言えるほどの重大事故ではなかったのか、調べてみたところ、
どこをみてもその日(7月19日)にエルトロでの事故報告はありませんでした。

見た目は特にわたしには事故の形跡は全くわかりませんが、
見る人が見たら、なにか足りない部分があったりするのかもしれません。


続く。


ロフト爆撃とは A-4F スカイホーク〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-24 | 航空機

ベトナム戦争時代のヘリコプターを紹介した後は、
戦闘機スカイホークを取り上げることにします。

ここフライングレザーネック航空博物館には、
なぜかスカイホークが少しずつ違うバージョンで3機展示してあります。

■マグドネル・ダグラス A-4 スカイホーク

ダグラス・A-4スカイホークは、1950年代初頭、
アメリカ海軍と海兵隊のために開発された単座亜音速空母対応攻撃機です。
使用年は「1956−1998」となっており、
まるまる40年もの間現役だったということになります。

A-4スカイホークは、ダグラス・エアクラフト・カンパニー、
後のマクドネル・ダグラスによって設計・製造された
デルタ翼のシングルターボジェットエンジン機です。

見た目からスマートなスカイホークは比較的軽量で、
最大離陸重量は11,100kg、最高速度は1,080km/時以上。
5つのハードポイント(武器搭載ポイント)には、さまざまな種類の
ミサイルや爆弾などの弾薬を搭載することができます。

【その任務-核投下のためのマニューバ】


USMCの攻撃任務、それは攻撃的な武装偵察を提供し、
海兵隊遠征隊の防空を行うことです。

軽量でありながら、A-4の爆弾搭載能力は、
第二次世界大戦中のボーイングB-17爆撃機と同等とされ、
低空爆撃システムと「ロフトテクニック」と呼ばれる技術を用いて
核兵器を投下することもできました。

この英語でいうところの「ロフト」なる技術なのですが、
これを表す「デリバリーテクニック」を「運搬技術」と訳すと、
どうしても意味が噛み合わなくなるのに気が付きました。

ロフトはつまりトス・ボミング(Toss Bombing)と同義であり、
これ自体がアメリカ空軍の爆撃方法のことだったのでした。

トス爆撃 / ロフト爆撃 (Loft bombing)は、主に低空を飛行し、
機体を引き起こしつつ、爆弾を進行方向前方へと放り投げる方法を言い、
爆弾投下後、機体はそのまま上昇・反転し、退避します。

この方法の利点は、爆弾を放り投げるため、
投下機は目標に接近することなく、爆撃を行うことができるというもので、
なるほど、これなら核爆弾でも安全に落とせます、というわけですね。

そしてA-4は搭載能力がB-17並で、しかもインメルマンターンで
投下後避退することも可能な機体、ということが言いたいわけです。

Toss Bombing - Delivery Of Atomic Weapons By Light Carrier Aircraft - Execution (1959)

このビデオの3:00すぎから、どうやって核を投下し、
その場から退避するかを図解で説明しています。
後半には実際に爆弾投下をしている実写映像があり。



さらにこれはロフトテクニックの一つ、「オーバーザショルダー」という方法です。

第二次世界大戦の大型爆撃機は、核を落とす時、
(といってもそれが行われたのは合計二回だけだったわけですが)
高高度からほぼ無差別に投下するしかありませんでした。

しかし、この方法を用いると、低空から目的地にピンポイントに投下を行い、
しかも機体に爆発の影響が及ばないうちに速やかに現場離脱することが可能です。

技術上、民間人への無差別攻撃とならざるをえなかった
「広島・長崎」の教訓と反省生かされた、
落とす側にも落とされる側にも優しい、
実に人道的な核投下方法と言えましょう。

(もちろん嫌味です)

【仕様】

A−4のデザインはいわば「シンプル・イズ・ベスト」の好例といえるでしょう。

前縁スラットは重力と空気圧がかかると適切な速度で
自動的にドロップするように設計されており、その仕組みには
モーターはもちろん、パイロットスイッチさえ必要としません。

翼の上のボタンが並んでいるような翼端前面がスラット

前縁スラットとは、主翼の前縁に垂れ下がった「張り出し」のことです。
フラップと連動して下がり、揚力を増やす効果を得るもので、
翼との隙間(スロット)によって大迎え角時の失速を防ぎ、
速度が上がれば格納されます。


構造をここで見ていただきます。

主脚(3本ある脚のうち、前方のもの)が主翼桁を貫通しておらず、
格納した時にホイール自体のみが翼の内側にあり、下部構造支柱は
翼下表面の下のフェアリングに収納されるように取り付けられています。

と文字では分かりにくいので、動画をご覧ください。

DOUGLAS A4 SKYHAWK LIGHT ATTACK AIRCRAFT SALES FILM 80624

フィルム最初に、主脚が格納される寸前までの映像を見ることができます。

この仕様の採用の目的は、強度を変えずに翼構造自体を軽くすることにあります。
また、重い翼の折り畳み機構をなくすことによって、
多大な重量の節約を実現することができるようになったという意味で
画期的だったといわれています。


エンジンは、当初ライト社製のJ65ターボジェットエンジンでしたが、
A-4E以降はプラット&ホイットニー社製のJ52エンジンを採用しています。

先ほどのA-4のビデオの4:10から見ていただくと、
エンジンが内蔵されている位置を赤でわかりやすく教えてくれます。

【A-4F バージョンノート】

A-4Fからのアップグレードには、1,300ポンド以上の推力を備えた
Jー52ーPー8Aターボジェットが含まれます。

着陸後の走行距離を最大1000フィート短縮するために、
翼には新しいリフトスポイラーが追加されました。

その他の変更点は、ゼロゼロ射出座席(A zero-zero ejection seat
速度0、高度0でも、射出座席装置による機体からの脱出が可能)、
パイロットを保護するための機体への防弾、防空砲素材、
そしてコクピット後方にフェアリングハンプが追加されました。

フェアリング・ハンプ。コクピット後方が山なりに出っ張っている

この「コブ」の中には電子機器やアビオニクスが収納されており、
これらについても最新式のものに改良されています。

zerozero射出といえば、当博物館の室内展示を出る直前に、
このようなものが無造作に置いてあったのですが、
これはまさかそんなものではないですよね?

ゼロゼロ機能は、低高度・低速飛行中や地上での事故の際に、
乗員が回復不能な状態から上方に脱出するために開発されました。

通常、パラシュートは、安全に着地するための一定の高度を必要とします。
そのため、ゼロゼロ機能が導入される前までは、
最低の高度と低速度という条件が揃わなければ脱出できませんでした。

ゼロ(航空機)の高度から脱出しようとすれば、当たり前の話ですが、
シート自身を十分な高度まで持ち上げる必要があります。


初期の座席は、航空機から砲で発射される仕組みと同じものだったため、
座席内に仕込まれた非常に短い「砲身」に必要な衝撃を与えていました。
そうしないとパイロットの人体が押しつぶされてしまうからですが、これでは
どうしても総エネルギー量が制限され、高さを増すことができませんでした。

しかし、ゼロゼロ技術では、小型ロケットでシートを適切な高度まで上昇させ、
小さな爆発でパラシュートのキャノピーを素早く開くため、
パラシュートの開傘に対気速度と高度を必要としません。

まず、レバーが引かれると、シートキャノンがシートを機体から外し、次に
シート下のロケットパックが発射されてシートを高度まで持ち上げます。

ロケットの発射時間はキャノン砲よりも長いため、大きな力は必要ありません。
また、ゼロゼロロケットシートだと、イジェクションの際に
パイロットにかかる力は大幅に軽減し、怪我や脊髄の圧迫を減らすことができます。

もちろん人体への衝撃が全くなくなるわけではいので、
射出による脱出は、ゼロゼロ射席以降でも、パイロットにとって
「それを体験するときはパイロット人生が終わるとき」
というくらいの異常事態であることに何ら変わりはありません。

(とレガシーホーネットの海兵隊パイロット本人から聞いたことがあります)

A-4Fのプロトタイプは1966年に初飛行を行い、
海兵隊へは1967年から始まり、146機が製造されました。

【ベトナム戦争での運用】

A-4Fはベトナムでの使用を最初から目的に設計された最初のスカイホークで、
太平洋沿岸の飛行隊にのみ割り当てられ、大西洋艦隊には配備されませんでした。

ベトナム戦争に投入されるようになると、上空を飛行するパイロットの
主な脅威は、地上からの銃撃と高射砲となりました。

パイロットをこれらの攻撃から保護するために、
コックピットの周りには装甲板が設置され、先ほど書きましたが、
機体全体には耐弾性、耐対空砲性の素材が追加されます。


ベトナム戦争期間中、A-4Fに搭乗した海兵隊航空隊は
VMA-214「ブラックシープ」Blacksheep


VMA-223「ブルドッグ」Bulldogs

VMA-311「トムキャット」Tomcats


予備軍としてはVMA-131「ダイヤモンドバックス」、
VMA-133「ドラゴンズ」、VMA-134「スカイホークス」、
VMA-142「フライングゲイターズ」
もA-4Fに乗っていました。

ちなみに311航空隊のトムキャッツは、2020年の秋に解散しています。
もしやコロナのせいで?と思ったのですがさにあらず、
ハリアーIIを装備していた部隊だったので、一旦解散してから
次にF-35Cに移行し、再就役をする予定だそうです。

F-35というから垂直離着陸型かと思ったら、Cが付くのは艦載機タイプの模様。

ちなみにVTOL、垂直離着陸できるのはB型、
F35-Aは空軍用で一般的な離着陸(CTOL)機。
ABCと順番に来ていますが、F35ーCは空母搭載型、つまり
CはキャリアーのCというわけです。


【FLAMのA-4F】

FLAMののA-4F(BuNo.154204)は、1967年8月に
海軍のVA-23「ブラックナイツ」に受け入れられ、
ヤンキー・ステーションのUSS「タイコンデロガ」(CV13)艦載飛行隊に
代替機として加わるというデヴューを果たしました。

1968年2月、204はヤンキー・ステーションに留まり、
USS「ボノム・リシャール」(CV31)搭載部隊、
VA-93の「ブルー・ブレイザーズ」に移され、
ケサンの戦いで米海兵隊を支援する任務に従事しました。

1968年5月28日、大規模な修理のために日本の厚木基地
FAWPRA(Fleet Air West Repair Facility)に送られ、修理後
NAS厚木の戦闘作戦支援活動(COSA)に移され、再配置されました。

この機体は、USS 「コーラル・シー」(CV 43)乗組、
VA-153の「ブルーテイル・フライズ」 に連れられて、帰ってきました。

戻った後、VA-212「ランパント・ライダーズ」 "Rampant Raiders "
(獰猛な攻撃者という意味?)にすぐさま移され、再び
1969年、USS 「ハンコック」(CV 19)に搭載されてベトナムに戻ることに。

任務を成功させた後、VA-127 「ロイヤルブルーズ」"Royal Blues "に入り、
ここでは戦闘機の代替パイロットのための高度な全天候型ジェット計器の訓練や、
ライトジェット攻撃パイロットのための再教育訓練に使用されました。

ここでの5年間の任務の間、誘導ミサイルのテストを行うために
NAS Pt.MuguのVX-4に一時的に貸し出されています。

そしてまたしてもVA-55「ウォーホース」とともに最後のベトナム派遣で
再びUSS「ハンコック」に搭乗し、あの脱出作戦フリークエント・ウィンド、
イーグル・プル作戦、ブルー・スカイ作戦
に参加しました。

USS「ハンコック」がカリフォルニア州アラメダ海軍基地に戻ると、
204は基地に残り、NASアラメダの航空隊予備軍、
VMA-133(MAG42)「ドラゴンズ」に14年間所属。

1989年海軍予備軍のVFC-13「セインツ」に移管され、
NASミラマーで異種空戦訓練(DACT)を行うアグレッサーとなりました。

この時、アビオニクスの「ハンプ」が取り除かれたので、
展示機には、どこを探しても本項に書いたところの特徴的なコブはありません。

その後1991年に運用を終了し、MCAS エルトロの博物館に展示されています。


続く。





CH-53A シースタリオン〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-08 | 航空機

■ シコルスキ CH-53A シースタリオン Sea Stallion
 
展示ヤードにその姿があり、現地には説明の看板がありながら、
なぜかフライング・レザーネック航空博物館のHPには
影も形もその存在がないという不可思議なことになっていますが、
気を落とさず説明していきたいと思います。


CH-53Dシースタリオンは、海兵隊で使用されている中量輸送用ヘリコプターです。
もともと海兵隊ように開発されたもので、現在は
ドイツ、イラン、イスラエル、メキシコで運用されています。

そのミッションはというと、海兵隊任務部隊などを支援するために
重機、人員、物資をヘリコプター輸送することで、
1962年から運用するために発注されました。

シコルスキのヘリコプターの中では最大級の大きさであり、
従来の固定翼機に匹敵する耐荷重能力を備えていました。

【誕生までの経緯】

1960年、アメリカ海兵隊はHR2Sヘリコプターの後継機を探し始めていました。

1961年から陸海空軍は合同で
三軍VTOL輸送機”Tri-Service VTOL transport”
の開発を開始していましたが、
設計はあれこれと複雑になるわ、計画は長引くわで、
これでは満足のいく時間内に実用機を受け取ることができないとして、
結局海兵隊はこの計画からいち抜けたーと脱退しています。

このときですが、結果的にはヴォート・エアクラフトXC-142という
超かっこ悪いティルトウィング垂直離着陸機が
世界で初めて誕生しています。


「どすこ〜い」

XC-142Aは5機製造されましたが、そのどれもが事故を起こし、
うち3機が失われ、実用化には至りませんでしたから、
いちはやくこの計画から足抜けした海兵隊は、慧眼だったか、
あるいは危機を見抜く力があったということなのでしょうか。

この機体、わたしはオハイオ州はデイトンの
国立アメリカ空軍博物館で実際に見ているはずなんですが、
データをいくら探しても出てきません。


VTOL機に見切りをつけた海兵隊ですが、海軍兵器局が
1962年3月、海兵隊に代わって、海兵隊のために
「ヘビー・ヘリコプター・エクスペリメンタル/HH(X)」
の要求を提出しました。
その要求は、

「航続距離120マイル、最高速度170マイル、最大8,000ポンドの貨物、
乗客、医療用リッターを持ち上げることができる
マルチロール・ヘリコプター・プラットフォーム」

というもので、強襲輸送では、兵員ではなく重装備の運搬ができること。

この「豪勢な」要求にはいくつかの企業が飛びつきました。
ボーイング・バートル社はCH-47チヌークの改良型を、
カマン・エアクラフト社は英国フェアリー・ロトダイン複合ヘリの開発型を。

そしてシコルスキー社は長年ヘリコプターの飛行に携わってきた経験から、
大型の実用機CH-54「ターレ」とS-64「スカイクレーン」をもとに、
CH-54/S-64と同様の頑丈さと柔軟なシステムを備えた機体に
新しいエンジンを積んだS-65を提案しました。

ボーイング・バートル社とシコルスキー社の競争は激しく、
チヌークはアメリカ陸軍が保有して評価を得ていたこともあって有利でしたが、
最終的にシコルスキー社が落札しました。

【製作】

海兵隊は当初、4機の試作機を調達しようとしていましたが、
苦しい懐具合を忖度したシコルスキー社が、
契約をキャンセルさせないように開発費の見積もりを下げ、
2機だけにすれば安くですみますけど?と提案しました。

当時のアメリカ国防長官ロバート・S・マクナマラは、
チヌークを共同で運用すれば費用の面でもお得で便利、と考えていたため、
この計画に対して圧力をかけてきたそうです。
海兵隊はこれに対し、
「チヌークを改造するのは安くない、かえって費用がかかる」
とマクナマラ側を説得し、要求を通しました。


こういった政治的な側面や技術面が進捗を遅らせたため、
コネチカット州にあるシコルスキー社の工場で
初号機が初飛行を行ったとき、当初の予定より約4ヶ月遅れていました。

2,860軸馬力のT64-GE-3シリーズのターボシャフト・エンジンが2基搭載された、
CH-53「シースタリオン」ヘリコプターは、飛行試験中にもかかわらず、
すでに米海兵隊は16機を発注していました。

飛行試験は予想以上に順調に進み、開発期間の遅れを取り戻すことができ、
1964年は一般公開の運びとなりました。
CH-53Aシースタリオン
という軍用呼称と名前が付けられたのもこの頃で、
約2年後には初めてベトナム戦争の実戦部隊に参加しています。

Sea stallionというのはタツノオトシゴのシーホースと違い、
完全な造語で、スタリオンは「種馬」の意味です。

海軍&海兵隊使用のヘリには「Sea」が付くことになっていますが、
馬は馬でも、英語では猛々しく雄々しいイメージの
「スタリオン」を持ってきたところに「シーホース」からの発展性を感じますね。



【仕様】

CH-53の外観は、ヘリコプターとしてはオーソドックスなレイアウトといえます。
コックピットのフライトデッキは前方に大きく張り出したデザインで、
機体の外側を見渡せるようにガラス張りの窓で覆われています。



フライトデッキには2名のパイロットが配置され、
胴体側面のドアからアクセスします。

コックピットの真後ろには、重機関銃を搭載できる武器ステーションが2つ。
各砲手が任務を行うためのオープンエアの四角いポートが与えられています。

CH-53の胴体はもちろん幅よりも全長が長いですが。
この正面を見てお分かりのように、実に堂々とした顔つきです。

胴体から突き出たサイドスポンソンによって幅が広くなり、
外部燃料タンクをさらにその外側に搭載して航続距離を伸ばすことができました。

エンジンは胴体上部の側面、前方よりにマウントされています。
6枚羽根のメインローターマストは胴体に密着し、
胴体の屋根から突き出たエンジンルームの固定具の上に乗せられます。

タラップは電動で下降し、タラップの端には銃座を設置することも可能。
貨物室は広く、武装した兵士は向かい合って2列に座るようになっています。

シースタリオンはGPSセンサーを内蔵しており、
キットとして7.62mmと50口径の銃が搭載されています。
通信はUHF/VHF/HF無線、セキュア通信機能、IFFを搭載しています。


シースタリオンは、同じシコルスキー社の
S-61R/ジョリー・グリーン・ジャイアントシリーズにデザインが似ているので、
「スーパー・ジョリー・グリーンジャイアント」とあだ名がつけられました。

コックピットの後ろの胴体右側には乗客用のドアがあり、
後部には動力式の荷台が付いています。
水陸両用を目的としたものではありませんが、胴体は水密性があるので
緊急時にのみ着水することができました。

操縦機能については、3つの独立した油圧システムが使われています。

乗員はパイロット、副操縦士、クルーチーフ、空中監視員の4名の乗員、
兵員は38名、4名の医療従事者というのが基本のセットです。

搭載貨物は内部に3,600kg、外部にスリングフックで吊るして
5,900kgを搭載することができました。

艦艇に搭載できるように、テールブームとローターは折りたたみ式。



CH-53DにはAN/ALE-39チャフディスペンサーや
AN/ALQ-157赤外線対策などの防御対策が施されています。

【空軍・海軍での運用】

CH-53は、1967年の1月には早くもベトナムの戦場に到着していました。
ベトナム戦争シリーズで何度も書きましたが、ベトナムの暑いジャングルの中、
敵はどこにでも潜み、どこからでも出てくるかに思われたようです。
しかも彼らはソ連の支援を受けていました。

CH-53はすぐに実戦の「洗礼」を受けることになりました。

しかし一旦任務に就くと、CH-53は比較的信頼性が高く、
頑丈であることが証明されました。

当初期待された仕様通りに撃墜された飛行士を救出し、
大量の貨物や兵員をホットゾーンに出入りさせ、
必要に応じて負傷者を安全地帯まで移動させることができたのです。

ベトナム戦争期間、全部で139機のCH-53Aが製造されました。
あの「フリークェント・ウインド(頻繁な風)」作戦では、
人員の避難を行うなど重要な役目を果たしたのもシースタリオンです。

海兵隊は1980年にイランで行われたアメリカ人人質救出作戦
「イーグルクロウ」
では、海兵隊の回転翼部隊が出動しましたが
ヘリコプターが激突炎上し「デザート・ワン」は惨事と恥辱に終わりました。


また、海兵隊のCH-53はグレナダ侵攻における
「アージェント・フューリー」作戦で使用されました。


アメリカ空軍も、この大型輸送ヘリコプターに注目しました。
1966年に最初の8機(HH-53B)を発注しました。
「スーパー・ジョリー・グリーン・ジャイアント」と名付けたのは空軍です。
もともとこのグリーンジャイアントは、
墜落した飛行士の捜索救出のために特別に改造された戦闘救助機でした。

救助活動中のHH-53C

改良された「グリーン」系のHH-53Cは、空中給油できるプローブと
さらに外部燃料タンクによって作戦範囲が改善されていました。

味方のパイロットは敵地のはるか遠くで墜落する可能性が高かったからです。

アメリカ空軍のスタリオンは、ベトナム戦争末期以降も運用されたが、
その目的はパイロット救出の一点にありました。
燃料補給プローブ、チャフ/フレアディスペンサー、
装甲を備えた広範なジャマー群も搭載され、
サーチ&レスキュー機能を向上させるためのサーチライト、
電動ホイストも追加されています。

空軍では、1970年にアイボリーコースト作戦として、
北ベトナム収容所のSS「マヤグエス」の乗組員を救助するため
海兵隊と空軍保安部隊を乗せて飛びました。

アメリカ海軍もいわば「CH-53のブームに乗った」形です。
1971年、海軍はシースタリオンを空挺掃海艇として使用するために、
15機のCH-53Aモデルをアメリカ海兵隊から直接受け取っています。



これらは米海軍では「RH-53A」と呼ばれ、
より強力なターボシャフトエンジン(各3,925軸馬力)、機雷除去装置、
水中の機雷掃討用のの12.7mmブローニング重機関銃2挺を搭載していました。

その後、アメリカ海軍はCH-53Dを「RH-53D」として30機納入し、
再び掃海任務に使用しています。
CH-53Dの登場により、米海軍はRH-53Aを米海兵隊に返還し、
これらは元の米海兵隊のCH-53Aの規格に戻されました。

アメリカ海軍は最終的にRH-53Dモデルを、
より近代的なMH-53E「シードラゴン」に変更しました。
CH-53E「スーパースタリオン」は、初代「シースタリオン」を
さらに強力にしたもので、第3のエンジンを搭載し、運搬能力が向上しています。

「シードラゴン」というのはタツノオトシゴ的な生物ですが、
「スーパースタリオン」(超種馬)ってすごいネーミングなだあ。
もはや「海」何も関係ないっていうね。

かっこよすぎか


また、VIP輸送用の「VH-53F」もあります。

イラクでのフリーダム戦争では、CH-53は空軍、
アメリカ海兵隊、アメリカ海軍によって運用されました。
「不朽の自由作戦」の支援でも三軍全てで運用されています。

2012年、CH-53Dがアフガン地域で最後の任務を行いました。

2007年9月17日、海兵隊は10機のMV-22Bオスプレイを配備しました。
今後海兵隊のCH-53DとCH-46Eシーナイツの主要な代替機となっていく予定です。

ただし、パワフルなCH-53Eは代替せず、代わりに
開発中のCH-53Kが海軍と海兵隊のCH-53Eに取って代わる予定で、
いくつかのCH-53Dヘリコプターは第3海兵連隊の訓練用に残されます。

最後のCH-53Dは2012年11月に退役しました。


サービス USMC

推進力:2基のGE T64-GE-413ターボシャフトエンジン
対気速度:160ノット
航続距離:578nm
乗組員:クルー パイロット2名、乗務員1名
武装:3挺の50口径機関銃
積載量:兵員37名または24名の患者・4名の付添い人、
または8,000ポンドの貨物

続く。





鹵獲されたイラク軍の「ヒューイ」〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-05 | 航空機

フライング・レザーネック航空博物館の展示ですが、
HPで紹介されているのに現地になかったり、逆にHPにはあるのに
撮ってきた写真のどこにも機体が見当たらない、という例がいくつかありました。

修理中だったのか、それとも別の博物館に移転していたのか
今となってはわかりませんが、今日ご紹介する機体は、
HPにその名前があって、展示機もその名前であるのは確かなのに、
実物はどう見てもHPのものとは違う、という特殊な例です。


■ ベル UH-1N

冒頭写真はわたしが撮ってきた写真ですが、HPに載っていたのはこれ。



どちらもUH-1N ヒューイに見えますが、
そもそも色が違う。大きさが違うし窓の数も違う。

しかし、とりあえずこちらを先に説明しておきます。

【ベル UH-1 イロコイス(愛称:ヒューイ)】

単一のターボシャフトエンジンを搭載し、
2枚羽根のメインローターとテールローターを備えた
軍用ユーティリティヘリコプターです。

1952年にアメリカ陸軍が、医療搬送と実用性を兼ね備えたヘリコプターを
ベル・ヘリコプター社に要求し、1956年に初飛行しました。

UH-1は米軍初のタービン式ヘリコプターであり、
1960年以降16,000機以上が製造されています。

イロコイは当初HU-1だったことで1をiと読み「ヒューイ」と呼ばれていましたが、
1962年に正式にUH-1に再指定されたにもかかわらず、
ヒューイの愛称はそのまま変わらずに親しまれてきました。

UH-1はベトナム戦争で初めて実戦投入され、約7,000機が配備されました。

【ベトナム戦争とヒューイ】

1962年、海兵隊は、セスナO-1固定翼機カマンOH-43Dヘリコプターに代わる
突撃支援ヘリコプターの選定コンペを行いました。
優勝したのは、すでに陸軍で運用されていたUH-1Bです。

このシングルエンジンのヘリコプターはUH-1Eと名付けられ、
海兵隊の要求に合わせて改良されました。

主な変更点は、海上使用に備えて耐腐食性に優れたオールアルミ製の採用、
海兵隊の地上周波数に対応した無線機
停止時にローターを素早く停止させるための艦上用ローターブレーキ
そして屋根に取り付けられたレスキューホイストなどです。

UH-1イロコイ(またはヒューイ)ヘリコプターは、
ベトナム戦争のイメージそのもの、と言っても過言ではないでしょう。

そのイメージのほとんどは、ヒューイの全艦隊が任務地に向かって、
または任務地から飛びたつ姿です。

ガンシップは固定翼機の支援を補うために使われ、
着陸地点の調査や周辺の敵軍の排除を行います。
そしてその後、輸送機が兵員を運びこむのです。

地上での戦いでは、これらのヘリコプターが残って地上支援を行ったり、
負傷者を救出したりしました。
時にはジェット機の接近戦を支援することもありました。
まさにアメリカ軍の主力機であり、あらゆる戦略に対応できたのです。

UH-1は、第二次世界大戦以来、最も多く生産された航空機となりました。


UH-1Nは、ベル205の胴体を伸ばした機体をベースに開発されました。
もともとは1968年にカナダ軍(CF)向けに開発されたもので、
CUH-1Nツインヒューイという名称でした。

しかし、カナダの下院軍事委員会の委員長が、米軍用機の購入に反対して、
この計画はポシャってしまいました。
委員長が反対した理由は、プラット&ホイットニー・カナダPT6Tエンジン
そのときカナダで生産されていたからでした。

しかも当時のカナダ政府は、アメリカのベトナム参戦を支持しておらず
それどころか、アメリカの徴兵逃れをした人を受け入れていたのです。

そこで米国議会は、アメリカ軍の購入を承認したというわけです。

UH-1Nの海兵隊への納入は1971年に始まり、それから43年間
活躍したUH-1Nイロコイは、2014年9月になってようやく退役しました。

海兵隊ライト・アタック・ヘリコプター飛行隊773は、
これを運用した最後の海兵隊で、最後の派遣を2013年まで行なっていました。

その後UH-1NはアップグレードされたUH-1Yヴェノムに置き換えられます。
海兵隊によるUH-1Nの最後の戦闘配備は2010年のアフガニスタンでした。

FLAMのUH-1N(BuNo.159198)は、1974年アメリカ海兵隊に受け入れられ、バージニア州MCAFクアンティコのHMX-1に
「兵器システム評価機」として派遣され、その後は
新しいヒューイのパイロットとクルーの訓練に使われていました。

2010年4月26日に退役して、その時からここに展示されていたようです。
(ただしこのときには戸外にはでていませんでした)





さて。
それではこちらのヒューイ的なヘリコプターです。

「HAHAHAHAHAHAHA」
というアテレコをしたくなる顔の表情ですが、
これ、さっきのと顔が違いますよね。
現地展示機の方が口角上がってるし。

それでは、運良く現地の説明を忘れずに撮ってくることができたので、
それを翻訳しておきましょう。

【ベル214ST(スーパートランスポーター)】

ベル214STは、ベル・ヘリコプターのVH-Aヒューイシリーズから派生した
ミディアムリフトのツインエンジンヘリコプターです。

なんだ、同じヒューイの仲間だけど、全く別のヘリだったのね。

ベル214というのはUH−1ヒューイのエンジン強化型で、
「ヒューイプラス」と呼ばれていましたが、この214STは
されにそのエンジンを双発にし、大型にした、いうならば
「特大型ヒューイプラス」というべき機体です。
もちろん、そう呼ばれていたわけではありませんので念のため。

STはスーパートランスポーターのことですが、
元々は「Stretched Twin」から来ていたそうです。
さすがにストレッチツインは意味がわかりません。
「ストレッチする双子」・・・?

214と214 STは同じ番号でありながら全く外観が違います。


わたしには「全く違う」と言われても、そんなもんですかという感じですが、
言われてみれば、確かにローターの付いているところが違うかな。

そもそも「ヒューイプラス」なるヘリの存在は聞いたこともないのですが、
それはなぜだと思います?

214STは、もともとベル214B「ビッグリフター」をもとにした
軍事プロジェクトとして開発され、
イランでの生産を行うためにイラン政府によって資金提供を受けているのです。


【イラク革命とヘリの製造】


なるほど!
それで初めてこのペイントがイラン国籍機を意味するのだとわかったわたしです。
ピンクがかった機体の色も、砂漠での運用に合わせた仕様だったんですね。


尾翼にも思いっきり国旗ペイント。
ちょっとデザイン的にここに国旗をあしらうのはどうかなと思いますが。

214STの暫定的なプロトタイプは1977年2月、テキサスで最初に飛行しました。
しかし、
「1979年、シャーが転覆します」

シャー?ガンダムかな?

というベタなボケは無視していただくとして、
シャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王、
それもイラン系の王の称号のことです。

それくらいは一般常識として知っていましたが、
「転覆=withdraw」の意味がわからず、わたしはここではたと困りました。

もしかしたらわたしだけかもしれませんが、総じて日本人って、
中東とかアラブとかの歴史や出来事があまり理解できていないってことないですか?

というわけで「シャーの失脚」と言われても全くピンとこない上に、
検索すると子猫が「シャー!」とやっている画像が出てきたりするもんですから、
ついそちらに時間をとられてしまいながらもなんとかわかったところによると。

1979年2月11日、この日は「中東を変えた歴史的な出来事」または
「アメリカとイランの敵対の歴史が始まった日」
つまり、「イラン革命の日」だったのです。


かつてのイランは今とは違い、シャーが支配する王政の国でした。

「最後のシャー」となったパフラヴィー2世は親米でしたが、
これに国内の民族主義勢力が反発します。

1951年、民族主義者のモサデグ氏が首相に就任し、石油の国有化を宣言しますが、当然のことながらアメリカはこれに烈火の如く怒り心頭。
ありがちなことですがCIAなどの工作によって、クーデタを起こさせて
首相を失脚させ、親米のパフラヴィー2世に再び実権を戻してしまいます。

つまりアメリカはイランを中東における“反共の砦”にし、
石油資本をメジャーに握らせることに一旦は成功したというわけです。

このアメリカとの蜜月期間、パフラヴィー2世は、豊富な石油マネーをもとに
軍備拡張やさらなる近代化を進めますが、その弊害で農村は疲弊。
インフレが発生し、国民の間では次第に経済的な不満が高まっていきます。

そして反政府デモの弾圧をきっかけに暴動が拡大し、
1979年、パフラヴィー2世はついに国外に脱出、王政は崩壊しました。

この後パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国して
反米路線を掲げる「イラン=イスラム共和国」が成立しました。

その後、パフラヴィー2世の受入をアメリカが認めたことを受けて、
アメリカに反発したホメイニ支持の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を襲撃。
1年以上も大使館員とその家族52人を人質にとる事件、
アメリカ大使館人質事件が起きたのは、強烈な記憶にある人も多いでしょう。

その後のイラン=イラク戦争も、隣国イラクのサダム・フセイン
アメリカの支援の下、革命の混乱に乗じてイランに侵攻したのがきっかけです。

つまり、その後の世界におけるアメリカと中東の今日に至る齟齬は、
全てこの1979年の革命をきっかけに始まっていると
いうわけです。

まあ、それまでの、大国と仲良くしてもらう代わりにオイルを搾取される関係を
そもそも平和な状態と呼べるのか
、という説もありますがね。

ついつい、大東亜戦争に突入するまでの日本の追い詰められ方と、
この新米政権下のイラン国内の疲弊の構図を重ねてしまうわたしです。


【革命後の設計変更】

話を戻しましょう。

新米政権が倒れたので、ベル・エアクラフトは生産計画の変更を余儀なくされます。
イラン国内から生産を撤退し、ダラスのフォートワースの施設で
残りの214STを建造しました。

1981年から始まった製造に続き、1982年に納入が開始されました。
(どこに?って、それはイラン軍だったのではないかと思いますが)

その際、ベル214STにはスタンダードな214からの設計変更がありました。
より機体が大型化し、胴体が伸びて、10〜18人の乗員用の座席を備え、エンジンは
1.625shp(1.212kW)のゼネラルエレクトリックCT7-2Aを2基積んでいました。

このヘリコプターは、いくつかのground-breakingな、
つまり画期的なベル社の革新をもたらすものでした。

それは、「1時間の乾式トランスミッション」(残念ながら意味不明)
そしてファイバーグラス素材のローターブレード
エラストマー樹脂(ゴムの種類)のローターヘッドベアリング
スキッドかウィール型か選べるランディングギアなどの採用などであり、
コクピット用のドアと両側の大きなキャビンドアが独立していたことでした。

燃料上限は435ガロン(1646L)で、燃料は増槽が追加できます。
これからもわかるように、この機体はベルで製造された最大のヘリコプターでした。

ベルは最終的に100機の214STを製造しました。
軍用バージョンとして製造されたものは、イラク、
ブルネイ、ペルー、タイ、ベネズエラなどに配送されました。

1991年には生産を終了し、機体はベル230におきかえられていくことになります。

【FLAMのBell214ST】

この特別な214ST(シリアル番号28116)は、
1980年代にイラク政府によって購入され、「砂漠の嵐」のときには
イラク軍のヘリとして任務を行なっていました。

1991年2月27日の朝、海兵隊第1師団の部隊が
クェート国際空港に入り、掃討を開始した時です。
燃え尽きた航空機と破壊された建物の真っ只中に、
(他人事みたいな言い方ですが、そもそもこの破壊をしたのはアメリカだよね)
イラクのマーキングを施したほとんど真新しいベル214STがあったのです。

第一師団の海兵隊員たちは、すぐにこの歴史的機体の「鹵獲」を主張し、
アメリカに「送り返す」手配をしました。

ヘリコプターは、「砂漠の嵐」における海兵隊員の
卓越した支援に対する感謝の印として、
その後、ここMCASエルトロに拠点を置く
第3海兵師団(第3海兵航空団)に与えられました。

このベル214STは、捕獲されたとき750時間の飛行距離を記録していました。
現在の価格は250万ドル以上ということです。


続く。