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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オークランド航空博物館~ドゥーリトル・ルームのルフトバッフェ

2013-09-02 | 航空機

「ドゥーリトル」という名前の道がある、このオークランド航空博物館周辺。

アメリカ人にとってドゥーリトルはあの大戦での英雄である、ということを
前エントリでお話ししたわけですが、一体なぜこの人物がそれほど神格化されているのか。

それは何と言っても、緒戦敗退続きだったアメリカが巻き返しのために
中国本土から日本の本土を攻撃する「ドゥーリットル空襲」の指揮官であったからでしょう。




ここオークランド航空博物館には「ドゥーリトルルーム」がありました。
ジェームス・H・ドゥーリトル准将の偉業を讃えるコーナーです。

ここオークランドには名門大学UCバークレーがありますが、ドゥーリトルはここの卒業生。
MIT、マサチューセッツ工科大学で航空工学の博士号を取っていますから、
優秀な人物であったことには間違いないでしょう。



左はベルリン空爆を指揮したヘンリー・マムフォード少佐。
第二次大戦の空爆ブラザーズですね。

ところで。


日本ではとかく後半の旗色の悪くなってからの戦況だけが日米戦だと思われがちですが、
真珠湾に続きしばらくの間、日本は実は勝っていたのです。

伊潜を使った西海岸への本土空襲は、今まで自国を空襲されたことのないアメリカ政府と
国民にとって衝撃でした。

そこで、国民の士気を高め、流れを変えるための象徴的な「一発逆転」が必要になった政府は、
日本の本土、しかも首都東京を航空隊によって空爆することを計画します。

この計画は、空母から艦載機で東京を空襲し、その後は中国大陸まで逃げてくる、
という、非常に無茶な作戦でした。

これは成功すれば勿論その勇気を称え、たとえ失敗してもその犠牲を元に、
敵国への憎しみを煽り国民に闘争心を掻き立てることができる、
いわば「スケープゴート」のような作戦だったとわたしは思っています。



U.S.S ホーネット

1942年4月18日、
ジミー・ドゥーリトル少佐率いる80名の乗員を乗せた16機の陸軍機B‐25は

ここから飛び立った。

最初に成功した東京爆撃である。



先日アラメダの「ホーネット」を見学してきましたが、このアラメダは
偶然ですがドゥーリトルの出生地です。

ところでこのホーネットはドゥーリトル隊を輸送したということばかり語られますが、
どうもその後日本の手で沈められたということがほとんどクローズアップされません。

まあ、「ドゥーリトルの偉業を語るコーナー」なのでそれも致し方ありませんが、
そもそもアラメダに停泊している「8代目ホーネット」でも、7代目の最後については
ほとんど展示物では触れられていません。

アメリカ人は沈没したフネそのものをアツく語ったりはしないみたいです。
むしろ、あまり面白くないので必要でなければ触れずにおこうという感じ。

日本人が「大和」を伝説にし、神格化しているとすら思われるほどの
畏敬の念をもって今日も彼女のことを語り続けているのとはだいぶ違いますね。


冒頭写真は、由来はわかりませんが、ホーネットの模型の上の意味ありげな旭日旗。
どうやらこれを以て「ホーネットは海軍に轟沈された」と言いたいのか・・・。

しかしアメリカ人には全くわかっていないようですが、
これは海軍旗ではありません(爆)

いや、誤解のないように言っておくと、ここにあるのは確かに軍艦旗なんだと思いますよ。
しかし、十六条旭日旗と軍艦旗の違いなど、ドイツ軍のファッション程に気もとめないアメリカ人、
つまりこの「左右非対称」の軍艦旗を額に入れて展示するときに、
勝手に日の丸が中央に来るように「細工」しちゃったんですね。



この旭日旗の右上アップ。

ほら、折り畳んだ跡が見えるでしょ?
しかも、本来左端の部分を右に折り込んで、つまり上下逆なんですねこれ。


飾るならちゃんと飾れ(怒)







写真とドゥーリトルを扱ったテレビ番組のお知らせ。

 

左はそのものズバリ、「ドゥーリトル空襲」。
右は映画にもなった「東京上空30分前」。

そういえばあの映画で片足?だか両足を失って帰った主人公は
ローソン大尉といいましたっけね。

あれは生存者の書いた本をもとに作られていたのか。

道理で大甘だと思った(笑) 

昔「東京上空30秒前」の映画の感想をこのブログでお話したことがあります。

なにしろこの作戦、中華民国の国民革命軍の支援を受けましたから 、
露骨に中国人を称えあげ「それに比べて日本人は」といった調子の描写が続き、
戦争している当の相手である日本の印象を貶めるために、あえてこういう
対比するかのごとくあてつけがましい表現がされ、
われわれ日本人にとっては当然のことながら非常に不愉快な内容となっています。

 

アイラ・C・エーカー中将。

B-17編隊を率いてドイツ占領下にあったフランス・ルーアン爆撃を指揮しました。
ドイツ軍とルーアン市民にとっては日本人にとってのドゥーリトルのような軍人だと見た。



A-T6テキサン・トレーナー 。



おそらく隊員の持ち物。

映画でおなじみ陸軍の軍帽。
どういうわけかアメリカ軍人は軍帽を斜めにかぶりますね。
上のエーカー中将(退役後大将)くらいになるときっちりとまっすぐですが、
若い将校は間違いなく斜め被りです。

ああいう「はずし」「くずし」がアメリカの若者にはオシャレとか粋だったんですね。
わが日本軍においても、若者はそれなりに「いいかっこう」をしたがりますから、
たとえば軍帽のひさしを一生懸命山形にしたり、つぶしたりして、
決められたルールの中でも少しでも着崩してできるだけベテランに見せていました。

わたしは日本人であるせいか、やはり軍服はきっちり厳正に、が美しいと思ってしまうので、
軍帽を斜めにかぶっているアメリカ軍人を見ると

「真っ直ぐに被れ!真っ直ぐに!」

と言いたくなります。

帽子の前の小冊子は「スコアブック」。
ライフル(M1903とM1、そしてブローニング自動小銃M1918A2)の成績表です。



航空機種類の早覚え表。

窓のところには

翼の位置・・・・・・・・・・ミッドウィング
エンジンの数・・・・・・・2
翼の形・・・・・・・・・・・・後退翼、テーパード(だんだん狭くなる)丸型
ランディングギア・・・・引き込み式(retractable)
尾翼と方向舵・・・・・・方向舵2つ
機種のタイプ・・・・・・・ロングノーズ、テーパード


という情報がシルエットの下に書かれています。
おそらく、裏には正解が出てくる仕組みではないでしょうか。

ところで、この情報とシルエットで機種がわかる方は・・・・

まさかいませんよね?(挑戦的)



同じ敵として戦っていても日本軍の資料がほとんどないのにもかかわらず、
この充実したドイツ空軍関係の資料のコーナーを見よ。

なーにが「ざ・ルフトバッフェ(マーク)」だよっ。(笑)

まあ、ドゥーリトルは東京空襲の後二階級特進し、准将に昇進した後、
北アフリカ戦線の司令官に任ぜられていますから、もちろん関係はあるんですがね。



何の説明かと思ったら

「ドイツ空軍の士官の長上着である。
ブルーのウールは秋冬に使用された。
赤いパッチは階級と所属を表す。
左胸ポケットののバッジは鉄十字章、
シルバーのバッジ(パープルハートのような)、
対空砲撃部隊の印である。
右胸の鉤十字が金色なのは戦闘での功績があったことを表す」

だそうです。
やはりアメリカ人、ナチスの制服って実は美しいと思ってます?

 

 ドイツ空軍の軍帽鉄兜。
いちばん右、黄色いパイピングにも意味があるそうですが、
ちょうどガラスが光ってしまって、字が読めません。



ドイツ軍機。

どこかのブログで、プラモデルが趣味という方がここを訪れてその感想にいわく

「作りが雑だ」

どこで調べたのか、作っているのが退役した軍人さんで、趣味にしているらしい、
という話まで書いておられました。
素人のわたしにはこのモデルのどこがいけないのかあまりわかりません。
まあ、ときどき飛行機、傾いていたりするのは気づきましたが。

 

低速時のエンジン推進力が弱い、コクピットから着陸の際地面が見えない、
燃費が悪く旋回が機敏にできないのでドッグファイトに引き込まれると墜とされる。
そんな欠点満載にもかかわらず操縦するパイロットによっては最大限の武器となった

メッサーシュミットMe 262。

ミグ15について書いた時に、この機体の研究がミグに生かされた、という話をしましたが、
このことと、当初のベテラン搭乗員で十分に能力を引き出すことができたこの機体も大戦末期に
未熟なパイロットが乗って多くの命が失われたことなどと読むと、位置づけとしては

Me262はドイツ軍にとっての零式艦上戦闘機のようなものではないか

とふと思いました。



「空の騎士を名乗っていたドイツ空軍のパイロットはフリーガーブルーズと言い、
グレイの布を裏あてにしたシャープな皮ブルゾンを着用していた」

ドゥーリトルルームなのに気合を入れてドイツ軍ファッションの解説をする
オークランド航空博物館。
あんたらやっぱりドイツ軍の軍服に対して(略)

「襟章はなく、肩に航空隊所属搭乗員の黄色い認識章がある。
この星は「Oberleutnant」(中尉)である。

ドイツ軍では事情の許す限りネクタイを着用することが個人に要求された」

ほう、この辺がアメリカ軍の士官に求められたのと同じであると。
日本海軍だって第三種ではネクタイ着用だったんだぞ。
張り合ってどうするって話ですが。



 この小説は、

「インゲ・ベルガーの救難飛行報告書」

 ではないかと、大学時代3か月だけドイツ語をやったエリス中尉が翻訳してみる。 
ドイツ空軍の若き女性を主人公にした、当時のラノベではないかと思われます。
違っていたらすみません。

そして若き士官が母親の肩に手を置いている写真。
川のほとりの家は自分の生家でしょうか。

このようなものを空軍のパイロットは携えていた、ということです。

なんかね。
こういうのを見ても、戦争中在米ドイツ人には日系人のようにゲットーに入れたりされず、
さらにはドイツに原爆を落とすことは計画にもなかった、ということを見ても、
同じ白人種の国に対しては戦争をしても徹底的に相手に対する視線が違うんですよ。

一次大戦の時のように「敵ながらあっぱれ」的なスポーツのような、
敵として戦っても「殲滅」は思いもよらない、という「情け」が見えるというかね。

つまり有色人種として白人種にたてついた最初の人種である日本人は
こういった白色人種至上のそれまでの世界秩序を打ち壊したってことなんですよ。

そういうことを言うと「右翼」なんていう人もいるみたいですけど、これ事実でしょ。
アジアの多くの国が日本のそういう立ち位置を認めてくれているのに、
世界で最もそれを理解していない国が、日本を含む極東4か国だと思います。

異論は認めません。



というわけで、ドゥーリトルルームなのになぜかルフトバッフェのことばかり、
で始まってしまいましたが、この項後半に続きます。




 


オークランド航空博物館~フライング・タイガース、幻の日本奇襲計画

2013-08-25 | 航空機

日中戦争の頃、宋美齢がアメリカで話をつけ、中国軍に引っ張ってきたシェンノート。
そのシェンノートが作ったフライング・タイガースについて語っています。

ここで機体の一部、このフライング・タイガースのマークをご覧ください。

このデザインは、ロイ・ウィリアムズという

ウォルト・ディズニー・スタジオのイラストレーターが

制作しました。

まったくよおっ。(笑)

いくらウォルト・ディズニーが白人至上主義で日本人を憎んでいたからとはいえ、
ミッキーマウスに旭日旗のついた日本機を殲滅させたり、こんなことに手を貸したり、
どんだけ露骨に政治というか、軍事協力してるんだよディズニー。

アメリカだって国を挙げて国の信じる正義のために戦っているのだから、
あらゆるアメリカ国内の企業体がそれに協力するのは当たり前。

だが、子供に夢を売るアニメーション映画作成会社のディズニー、てめーはダメだ。

戦後は戦後で「パール・ハーバー」みたいな馬鹿映画を巨額の製作費を投じて作るし、
この二面性があるから、ディズニー・ランドそのものやミッキーマウスの造り上げる「夢の世界」
とやらが胡散臭くてだいっっっっきらいなんだよ!

と、何度も息子をディズニーシーに連れて行ってしっかり楽しんでいるわたしが言ってみる。

思うに、子供に対して展開する世界と、現実の世界とは矛盾することが多すぎるのです。
「友達と仲良く」とか、「人をだましてはダメ」とか、そもそも「命を大事にしましょう」
なんて、いくら現実に戦争している大人が言ったって説得力もへちまも無い。



さて、このフライング・タイガースそのものについて話すと、やはり
加藤隼戦闘機隊との死闘について触れなくてはいけなくなるので、
その詳細は、いつか映画について書くときに置いておいて、ここではフライング・タイガースの
使用していた戦闘機については

●カーチス・P40C・トマホークを使用していた
●特に零戦と比べると大した性能ではなかったが、とりあえず丈夫だった
●一撃離脱法を徹底したので時には勝てた

ということだけ書いておきます。
いずれにせよ、1937年からシェンノートの結成したフライング・タイガースは、
4年後には日米間に戦争が正式に始まってしまったので、その存在理由である
「義勇軍」と言う言葉が意味をなさなくなり、軍からの解散命令が出され、
1942年7月には解散することになりました。

解散のときに、宋美齢は目の前に居並ぶ隊員たちを「フライング・タイガー・エンジェル」
と褒め称えたと言われています。

皆さん、前回からお話ししてきてこれだけのことを初めて知った方もそろそろ思いませんか?


「もしかして日米戦争って、宋美齢が煽って実現させたようなものじゃないの?」


と。

そう、わたしは、まさしくこの悪女が米国世論を焚きつけ、「日本撃つべし」
の空気をアメリカ国内で作り上げていった張本人だと思っています。

歴史の影に女あり、ではありませんが、フライングタイガースを作ったシェンノートを口説いたのは
他ならぬ宋美齢ですし、そのフライングタイガースが実は

真珠湾攻撃前に日本空襲を計画していたことがある

と言う話を知るに至っては、日米開戦は彼女の悲願であったことを確信せずにはいられません。

そう、当時シェンノート率いるフライングタイガースによる

1941年9月下旬の
ロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画

計画が出され、ルーズベルがこれにサインしているってご存知でしたか?
英語版のウィキペディアからです。

Chennault developed an ambitious plan
for a sneak attack on Japanese bases
.

(シェンノートは日本本土への奇襲計画に対する野心を推し進めていた)

His Flying Tigers would use American bombers and American pilots,
all with Chinese markings.

(彼のフライング・タイガースは、中国軍のマークを付けながら、パイロットも爆撃機も
全てアメリカのものだった)

The U.S. military was opposed to his scheme, and kept raising obstacles,
but it was adopted by top civilian officials including Henry Morganthau
(the Secretary of the Treasury who financed China)and especially
President Roosevelt himself, who made it a high priority to keep China alive.

(米軍は彼のたくらみに否定的で反対の立場であったが、ヘンリー・モーガンソウ
(中国に出資していた会計であり秘書)を含む最高議会、そして何と言っても、
中国を優先する順位は高いとしてルーズベルト自身がこれを受け入れた)


By October, 1941, bombers and crews were on their way to China.
However the American attack never took place:
the bombers and crews arrived after Pearl Harbor
and were used for the war in Burma,
for they lacked the range to reach China.

(1941年の10月までには爆撃機とクル-は中国にむかっていた。
しかしながらアメリカの攻撃は決して起こることはなかった。
どちらもが到着したのはパールハーバーの後だったし、
それらはビルマ戦線に投入され、中国周辺に配備されることもなかった)


そう、
真珠湾の三か月前に、東京と大阪、つまり民間を奇襲することを計画していたんですよ。
シェンノートとフライングタイガースは。

この計画の出所は勿論蒋介石ということになっているようですが、
これまでのフライングタイガースと宋美齢の関係、成立の経緯を知ってしまうと
「これ絶対ダンナじゃなくて女房の要望だろ」と思えますよね。

どうしてこの空爆計画が立ち消えになったのかと言うと、
「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地に、9月を過ぎても
肝心の爆撃機も搭乗員もたどり着けなかったからです。
そのままその年の暮れになっても届かず、そうこうしている間に、12月7日、
真珠湾に日本海軍の機動部隊が空襲をかけ、日米の戦争が始まってしまったんですね。

上の英語版のウィキでも
「クルーと爆撃機が到着したのは真珠湾の後だった」
となっています。



歴史にもしもは無いけどあえて考えてみる。

この時に計画がうまくいって、先に奇襲をかけたのが中国軍(中身はアメリカ)だったら?

「昭和16年の敗戦」という項でも書いたように、当時の日本の有識者によるシミュレーションで、
どうあっても状況は日本が負けることになっていたので、こんな形で開戦してもおそらく
戦争が長引けば日本が物量戦で敗北するという結果に変わりはなかったでしょう。

しかし、敗戦から現在に至るまで日本だけが負けたことの責任を負い咎を受け、
「侵略国」の汚名を着せられて内外から侮辱されるという結論からは少しは変わっていたのかな、
という気がしないでもありません。


カイロ会談のときには、たかだか元首婦人ごときがVIP扱い、それどころか傍からは
「男の歓心を買うことが第二の性格になった、実は冷淡な愛人タイプの女」
と観察されるまでの媚びぶりで、国家元首のおじさま方にもちやほやされ得意の絶頂であった宋美齢ですが、
その後引き立ててくれたルーズベルトが死去すると、少しずつその「ドラゴンレディ」ぶりにも
陰りが見えてきます。

蒋介石は、後任のトルーマンに、さっそく中国国内での毛沢東共産党との戦いに
アメリカの支援を取り付けようとすり寄りますが、
蒋介石にもましてやこの毒婦にもなんの思い入れもないトルーマンは
露骨にこの夫婦を胡散臭がって、遠ざけてしまいます。


このため、蒋介石の国民党は毛沢東率いる中国共産党に内戦で敗北し、
その後蒋介石夫婦は国民党と共に敗走の果て、台湾に逃げることになるわけですが、
さすがかつてのオヤジころがしの名人宋美齢も、この頃には年のせいで
効力が薄れていたんでしょうか。


さて、蛇足になりますが、最後にちょっとした「イフ」をもうひとつ。

戦後、フライング・タイガースのメンバー10人が有志となって運送会社を興しました。

「フライング・タイガー・ライン」

という会社名ですが、日本人は「フライング・タイガース航空」と呼んでいました。
この会社は在日アメリカ軍へのサービスを行っていたので、堂々と?日本に就航していたのです。

かつて日本軍と死闘を繰り広げたこの航空隊の名前を、
向こうが気を遣って少し変えているのに(笑)わだかまりなくそのまま呼び続けるのが日本人。
良くも悪くもあっさりした国民なんだなと改めて思ってしまうのですが、

1941年の秋にもしフライングタイガースの輸送が上手くいって、
幻の日本空襲が成功していたら?

「ドゥーリトル」「ルメイ」「ニミッツ」とともに「フライング・タイガース」は日本人にとって
忌むべき敵の象徴としての名前となり、戦後、さすがにお人好しの日本人にも
その名前が受け入れらることはなかったに違いありません。

「フライング・タイガース」と言う名と彼ら元隊員たち自身のその後のことだけ考えれば、
計画が潰えたことはある意味幸運だったと言えるのかもしれません。






オークランド航空博物館~フライング・タイガースと宋美齢とシェンノート

2013-08-24 | 航空機

オークランド航空博物館で、デコイ・ミサイルを「子供用のレプリカ」だと思ったのは、
隣にこのミニチュアのP-40-Cトマホークが展示してあったからです。

これは紛れもなく、子供用の「フライング・タイガース」機。

幹部学校の見学記もそうですが、ひとつの写真を取り上げてはでれでれと語り、
話題を詰め込みすぎでなかなか先に進まないというのが当ブログの特徴とはいえ、
今日のタイトルはいくらなんでも詰め込み過ぎではないか、と思ったあなた。
あなたは正しい。

しかし、この「フライング・タイガース」という航空隊のことを語るとどうしても
もれなくこの二人の名前を出して来ずにはいられないのです。

本当は「アクタン・ゼロ」もタイトルに入れたかったのですがこれはまたいずれ。

と言いながら話を遠くから始めますが(笑)、この一月に台湾に行ったとき、
街を救うために乗っていた戦闘機を用水池の傍に落とし、そのため戦死し、
現地の人々から神様として崇められている海軍搭乗員の廟、「飛虎将軍廟」の記事をアップしました。

「飛虎」と言うと、たとえば中国人でも「飛ぶ虎?」と思ってしまう人がいるそうですが、
実はこの二文字で戦闘機のことを指します。

「飛虎」、つまり「フライング・タイガー」です。

この「フライング・タイガース」という部隊はアメリカの義勇軍航空隊ですが、おそらく、
「飛虎」が中国語における「戦闘機」であることを知った命名者が一も二もなく、

「かっこいいから、これでいこうZE!」

と英語の直訳を部隊名にしたのだと思われます。


1937年の盧溝橋事件、続く第二次上海事変によって日中戦争が勃発しました。
あっという間に日本側の航空機爆撃と海上封鎖で不利になった中国軍は
最初の頃ソ連から供与された飛行機で日本軍となんとかやりあってきたものの、
海軍が零式艦上戦闘機を投入したときから全く勝てなくなりました。

蒋介石は日本の脅威に対してその前から武器兵器を海外から購入し、さらには
アメリカから軍事顧問を雇い入れるなどしていたのですが・・・・。

そこで、出てくるのがこの人物。
蒋介石夫人である宋美齢です。



せっかく以前描いた絵があるので出してきました。
この派手ないでたちを見ていただきたいのですが、西洋風のジャケットの下に、
宋美齢は同じ仕立てで中国服を着ていますね。

ボストンに滞在したときに写真をご紹介した名門女子大学、ウェルズリーを卒業、
英語が堪能で、海外在住が長い宋美齢ですが、現存するどの写真を見ても彼女は
アメリカに住んでいるのにもかかわらず中国服、あるいは中国風の仕立ての服しか着ていません。

これは(わたしの考えですが)宋美齢の「戦略・勝負服」というものだったのではないでしょうか。
なぜなら彼女はアメリカに支援を求める中国そのものを代表してそこにいたからです。

日中間の関係悪化に伴って、宋美齢はアメリカに対し、中国への支援を求めて活発に運動を始めます。
タイトルのもう一人の人物、クレア・リー・シエノーを中国軍の軍事顧問にしたのも彼女です。

シエノー、というのは日本で「シェンノート」とされている人物の名前。
スペルは

Claire Lee Chennault

なので、フランス系であったことを考えるとシエノール、さらに厳密にいうと
シェンノー、シエノーが正しいと思うのですが、ここでは日本での慣例通りシェンノートと記します。
(どうも日本人「はフランス系のアメリカ人の名を、英語読みにしてしまいますね。たとえば
黒人人権運動家のDuboisなども、『デュボイス』ではなく、どう見ても『デュボワ』なのですが)

この宋美齢と言う女が、国際的オヤジころがしの達人(笑)。

達者な英語と自慢の美貌、そしていつも身に着けるニューヨーク仕立ての中国服、
ふんだんに宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジ。
「かわいそうな中国」を象徴する女性として当時アメリカ人には絶大な人気があり、
ファンクラブまであって、信奉者からの貢物は絶えなかったとか。

宋美齢は蒋介石の通訳、という立場でしたが、また
「国民党航空委員会秘書長」の肩書も授けられていました。

航空委員会、ですよ。
そう、ここでその、アメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート大佐に交渉し、
この人物を、現在の1200万円の月給で国民軍に雇い入れることに成功するのです。

このほかにも宋美齢は。駐中華民国大使館附陸軍武官のジョセフ・スティルウェルなどにも
陸軍への協力を取り付けています。
つまり中国軍は、このシェンノートを通じて、

「アメリカの派兵、すなわち日本と戦わせること」

をすでにここで約束させたということになるのです。



どうですかこのオヤジころがしの真骨頂っぷり。
国家的交渉を携わる人物が、楽しそうに軍事顧問と夫の腕にぶら下がって。

彼女はこの後国際間における存在感を増していき、ついにはルーズベルトやチャーチルと共に
カイロ会談に出席するのですが、そのとき出席したルーズベルトの次男・エリオットは、
彼女についての感想をこのように書いています。

「蒋介石夫人は男の歓心を得ることばかりに長く従事したので、
いまやそれが第2の性格のようになったような印象を受けた。
本来の性格はたぶん恐ろしいもののように思え、正直言って怖かった」

また、ジャーナリストで作家のセオドア・ホワイトはその作家の鋭い目で彼女を

「冷淡でいわゆる愛人タイプの女性だった」

とも酷評しています。
アメリカ人も転がされて喜んでいる男ばかりではなかったということですね。


ちなみに、このシェンノート、高校時代の同級生であった妻との間に
7人もの子供を作っておきながら、中国勤務になったとたん現地の女性
(もしかしたら宋美齢が手配した?)と深い関係になっていまい、糟糠の妻を離婚し、
この若い中国人女性と再婚しています。

また、その中国人女性と言うのがテレビ局のレポーター上がりで、
シェンノートと結婚した後はワシントンでロビイストになったという、
まるで「プチ・宋美齢」みたいな女性だったということです。

よっぽどこの写真のときに手懐けられたのか根っからの「転がされ好き」だったのか、
それとも宋美齢のおかげですっかり中国人女性好きになったのか。

軍人としては優秀な人物だったのでしょうけど、こういう「サイドストーリー」を知ってしまうと、
特に女性の立場からはその人物評価に点が辛くなってしまいます。


さて、当時アメリカは日本と水面下ではともかく、表向き敵対していたわけではありません。
しかし国際的には中立であらねばならないのにもかかわらず宋美齢の甘言に乗って
(乗ったふりをして?)中国に肩入れして資金を出し、日本と戦うことを決めたのです。

真珠湾が攻撃されたとき、アメリカはいかにも「全く予想もしていない攻撃だった」
などと驚いたふりをしましたが、実はそのずっと前に中国軍の皮を被って戦争していたんですよ。
自分は直接関係ない他国間の戦争に首を突っ込むという形でね。

真珠湾を卑怯だと言うなら、こちらは中立国として明確な国際法違反であり、
はっきり言ってよっぽど卑怯なんじゃないかね?

え?アメリカさんよ。


着任したシェンノートは、さっそく現状を視察し、まずは中国軍が脅かされている
零戦の脅威についての報告をしますが、
アメリカ人は全くそれを信じず、検討委員会では

「シェーンノートのような最高の専門家の言っていることは信じたい。
しかし、これが本当だとすれば、その“ゼロ”とかいう戦闘機は、
アメリカの計画中のいかなる戦闘機よりも優秀だってことじゃないか。」

一同はそれでワッと笑い、それでお開きになったそうです。
アメリカ戦争省は(そんなのあったんだ・・・)このレポートを
「実に馬鹿げている。空気力学的に不可能だ」
と一蹴し、肝心のシェンノートの部隊でも採用係官は

「日本人は皆眼鏡をかけているので操縦なんてまともにできない」とか
「日本人の作る飛行機なんて性能が悪いので任務は楽勝」

などと言って人集めをしたため、優秀なパイロットが当初はいなかったくらいです。

しかし実際にふたを開けてみると米軍の航空隊は零戦の優秀さに当初は手を焼き、


  • ゼロ(零戦のこと)と格闘戦をしてはならない。
  • 時速300マイル以下において、ゼロと同じ運動をしてはならない。
  • 低速時には上昇中のゼロを追ってはならない。


などの「三つのおやくそく(Three "NEVER")」をお触れとして出したのはまた別の話。

シェンノートがルーズベルトの後ろ盾を受けて結成したのは、
100機の飛行機、100人の搭乗員、200人の地上員を目標にした
AVG(American Volunteer Group)、アメリカ義勇軍です。

このAVGが、中国語の「飛虎」から名称を得て、「フライング・タイガース」となります。
何が義勇軍だよ、実態はアメリカ軍の派兵じゃないか、と思ったあなた、

あなたは正しい。


実は、その実態を証明する、忘れられた「作戦計画」があったのです。
なんとフライング・タイガース率いるシェンノート少将が、この頃おそらく宋美齢にそそのかされて
日本本土を奇襲攻撃しようとしていたというものなのですが、
それについては次回エントリでお話しします。







オークランド航空博物館~コステロ大尉のコルセアII

2013-08-22 | 航空機

Douglas NTA-4J Skyhawk

日本には販売されなかったので、国内で見ることはできませんが、
このスカイホーク、非常に軽量、小型、空力的洗練を実現した高性能な機体で、
その使い勝手の良さから派生型も多く、また安価であることから海外にも多く輸出されました。

どうしてこれが日本に導入されなかったのかどなたかご存知ですか?

いや、性能が良くて安いのなら、買えばいいのにと思っただけなんですが。
もしかしたら、日本ってお金持ちだと思われて足元見られてた、とか?
で、やたら高いF15を「イーグルピース計画」で売りつけられた、とか?

それはともかく、このスカイホークは、アメリカ国内ではその使いやすさと頑丈さから
練習機として使用されることが多かったようです。
トップガン(アメリカ海軍戦闘機兵器学校)でも、ミグ17のシミュレートとして使われ、
映画トップガンでも登場しましたね。
ちなみに現在、トップガンで訓練機として使用されているのはF/A18ホーネットだそうです。



この機体は「レディホーク」と名付けられており、カリフォルニアの「チャイナレイク海軍航空武器基地」
で、武器開発のためのテスト機として使用されていたようです。
ペイントがすべて塗りつぶされたのっぺらぼうになっているのはそのせいなのですね。

こういうのもつけたままペイントが剥げるに任されています。



せっかく異常接近できるのだからと、爆弾を牽引する部分をアップしてみました。



この鍵は一応開けられるようで、紛失しないように博物館がタグを付けていました。
祝祭日にはどの機にも一応コクピット体験ができるということなので、
そういう時には中を見せてくれるのかもしれません。
しかしわたしは行儀のいい日本人観光客なので、立て看板に「No Touch」とあれば
決して触らず、写真を撮るだけにしました。



テスト機になると、アメリカ軍のマークは外されてしまうのでしょうか。



Bede BD-5B

マイクロジェット、で検索すると、このビード始め、小型のジェット機が
いくつか出てきますが、この超軽量ジェット機は4540キログラム以下の機体を言います。

まるで弾丸に羽を付けただけのようなシンプルな機体。

「ホンダやマツダなどの小さなエンジンからパワーを得ている」と説明在り。
そのホンダは、いまホンダジェットというビジネスジェット機を展開しています。



カッコいいですね。
ちなみにこのビードは開発中止になってここに寄贈されたもののようです。



LTV Corsair II

鹿児島の海上自衛隊基地で、野外で雨ざらしになっている機体に対し
「劣化は避けられないので何とかするべきでは」
と苦言を呈してみたのですが、あれに文句を言うならここはどうなる、というレベルで
コルセアが放置されています。

日本の展示は屋外であっても周りを立ち入り禁止にし、さらにはしょっちゅうメンテナンスして
非常に良い状態をそれなりに保っているのが、訪問時にも塗装している様子からわかりましたが、
ここでは、機体の部分がこのように地面に放り出されていて、
博物館というよりは「飛行機の墓場」という雰囲気すら漂います。

コルセアの隣の小さな機体、これもいったいなんでしょうね。



コルセアIIは上記の「スカイホーク」の後継機として開発されました。
退役はもう22年前の1991年で今ではギリシャ軍、タイ海軍しか運用していませんが、
就役中はリビア爆撃、グレナダ侵攻、パナマ侵攻などに投入されています。

こういう事実とか、アメリカにはそこここにある軍兵士の墓地とか、
2年前まではときどき見た、一般家庭の庭先に掛けられた黄色いリボンなどを見ると、
全くアメリカというのには「戦後」と呼べる時期は無いのでは、と思ってしまいます。

それはともかく。

このコルセアIIの特徴と言えば、ノーズの下のエアインテーク。
口を開けながら飛んでいる鳥に見えて、ついつい
宮沢賢二の「よだかの星」を思い出してしまったわたしです。



エアインテークの中を撮影することに今回こだわってみたわけですが、
これ、なんでこんなところにつけたんでしょう。
まあ、どこにあろうがバードストライクは同じ確率で起こるし、
そういう意味で言えば二つあるよりは一つなら確率的には2分の1になるわけですが・・。

実はこの巨大なエアインテークは、鳥よりも問題は蒸気を吸い込んで
コンプレッサーストールを起こしてしまうことにありました。

コンプレッサーストールとは急激な姿勢変更などをするとエンジンに入る気流が乱れ、
異常燃焼や出力低下を起こす現象のことで、圧縮機失速の英語です。
コルセアIIの場合には、カタパルト発進のときにエアインテークが蒸気を吸い込んでしまい、
同じ現象が起こったようで、地上は勿論、艦上でこれはパイロットはさぞ怖かっただろうと。
この問題解決のためには、エンジンを変えるしかなかったようです。


コルセアIIのラストミッションは1973年の5月25日。
第354戦略戦闘機隊ジェレミア・F・コステロ大尉がカンボジアでの任務において
砲撃を受けた機体からベイルアウトすることができず、大尉は戦死。
その遺体は修復後本国に送られて、ワシントンのベトナム戦争犠牲兵士墓地に葬られました。

コステロ大尉は、ベトナム戦争における最後の戦死者です。

 

ここにある機体は、コステロ大尉をトリビュートする迷彩カラーに塗装されているということです。

このJeremia K Costelloで検索すると、ベトナム戦争犠牲者のページが出てくるのですが、
その中のThe wall of facesというコーナーでは戦死者の写真とプロフィールを見ることができます。

ベトナムの戦地で上半身裸の写真があったり、どう見ても学校の卒業写真だったり、
あるいは写真が無い人もいたり、他に写真が無かったのか、子供の時のスナップだけの人もいます。

ベトナム戦争に対するアメリカ国民の忌避感は大変なもので、学生運動もヒッピームーブメントも
こういうところから広がっています。

ここに見られる死者たちも、自分が無益なことのために死んでいったとは言われたくないでしょう。
しかしこんなに多くの人々が命を失ってまで、果たしてアメリカの正義は担保されるべきものだったのか。

そんなことを他国民の目から見ると、あらためて戦争は人類の行う愚挙の最たるものであり、
国家の対話方法としての戦争をいとも簡単に選択する、このアメリカという国の行先は、
やはりどこかが間違っているのではないかとしか言いようがありません。








オークランド航空博物館~ハリアーとオスプレイ

2013-08-20 | 航空機

TAV-8A Harrier

VTOL機、Vertical Take-Off and Landingという言葉を最近ニュースで聴いた、
という方はおられるでしょうか。

これは、垂直離着陸機の意味で、ヘリコプターのようにピンポイント着陸ができ、
滑走がいらない、つまり艦船上で運用できる機種のことを言います。

このハリアーは、名前は有名ですが、作った方のホーカー・シドレーという会社は
あまり聞いたことがありません。(わたしが)
しかし、デ・ハビランド社という、蛾とかハチなど虫の名前ばかり飛行機に付けている会社の名前なら、
第二次世界大戦中に活躍した飛行機が多いのでご存知でしょう。(わたしも)
このデ・ハビランドを吸収したのが、ホーカー・シドレーです。

なんでも世界で最初にできたものは凄いですが、このブイトールを採用し、
ヘリコプターの機能を持ちながら固定翼機の高速、長距離航行が可能にした
このイギリスの会社は、これだけで航空史上に金字塔を打ち立てたといってもいいでしょう。


ハリアー、という名前は、虫以外に小型の鳥の名前を採用しているホーカー・シドレーらしく、
タカ科の小さな猛禽類「チュウヒ」のことです。
会社は違いますがオスプレイもタカ科の猛禽類「ミサゴ」から取られたというのに、
なにか統一性のようなものを感じますね。



因みに、開発者はホーカー・シドレーですが、マクドネル・ダグラス社が、「ハリアーII」として
揚力強化装置を加えより洗練された後継機を造りました。
本家のイギリス軍ではもう使用されていませんが、アメリカ、スペイン、イタリア軍で運用されています。

日本にも導入計画があったそうですが、政治的な理由は勿論のこと、
運用するにも空母をもたないとか、高いとか、イギリスから購入できないとか、
そういった理由で見送られました。



あれ?

NASAのマークが尾翼についています。

これは、この機体がサニベール(この近く)にあるNASAの武器研究部門で
使用されるために所有権が移っていたからなのだとか。
その前にはマリーンコーアに配置されていました。

こういう機体が何のために使われるかというと、大きな目的は人員の揚陸だったりしますから、
海兵隊を持たない日本がこれを当時は必要としなかったというのは当然かもしれません。

ところでついでだから書いておきましょう。

オスプレイと聞くと「軍靴の足音が聞こえてしまう」タチの方々が、
今日も反対運動に血道を上げております。

8月になって起こった米軍ヘリの墜落を受けて小泉進次郎氏が

「あれはトモダチ作戦に使われた救難ヘリ。
日本国民はまず犠牲になった方に哀悼の意を示すべき」

と言ったところ、

「米軍の肩を持つのか。本当の友達なら出ていくべきだ」

などとわけのわからない屁理屈で攻撃したり、
沖縄の小学生にわざわざ首相官邸の安倍首相を差し向けて

「オスプレイも撤退させてください」

と言わせたり・・・うーん、そこまでするか、左翼。

ぎりぎりの事故を想定しての訓練で墜落したことには触れもせずただ「危険」
東北への支援に対し感謝ひとつせず「出ていけ」
おまけに子供を政治の矢面に立たせて己の思想のスポークスマンにするとは。

そこで、です。

たとえばオスプレイで検索すると「未亡人製造機」という文句が出てきたり、
子供を楯にしたりする方は「世界一危険な飛行機」などと言ったりしていますが、
それではオスプレイは本当に危険なのか?

ウィキペディアを引くと、些細な事故(整備士が台から落ちたなど)も入れて
配備後58件の事故が起きており、この数字を以て反対派は「危険」と主張しているわけです。
確かに数字だけからは事故ばかり起こしているように見えますが、内容はというと、そのうち大きなものは

MV-22クラスA事故2件(うち墜落1回)、
CV-22クラスA事故3件(うち墜落2回)、計5件です。

さらに、事故理由を見ると、

1、ガソリン切れ(おいおい)
2、自然保護区に緊急着陸したら、エンジンの排気熱で草が燃えだしアチチチ
3、夜間の着陸失敗で横転、完全にパイロットのミス

と、三件は完全に人為ミス。
2012年の2件の事故においても機体の異常ではなく操作ミスではないかという調査結果に落ち着きそうです。

製作段階では確かに事故が相次ぎ、アメリカの新聞は

Flying shame(空飛ぶ恥)

などと辛辣なあだ名を付けたそうですが、しかしみなさん。
先日このブログでも語った、辛坊治郎氏を救出したUS-2の試作段階から初期の
事故による殉職隊員の数を思い出してください。

40人もの犠牲者を出したあの救難飛行艇に対し、左翼の皆さんはなぜ何も言わなかったのか。

ちなみにオスプレイの飛行10万時間あたりにおける事故率は1.93%

CH-46・・・・・1,11%

CH53D・・・・4,51%
AV‐8B・・・・・6,76%

他の軍用機と比べて決して傑出して高い数字などではありません。
どうでもいい事故や人為ミスによる事故まで加えた事故率まで上げて、
どうしてオスプレイを彼らが目の敵にするのか。

非常にわかりやすくこの理由を説明しているニュースを抜粋します。

アメリカ・カリフォルニア州で日米共同の離島防衛訓練が始まりました。 
この訓練には日本の陸・海・空の自衛隊が参加しますが、 それに合わせて、
初めてアメリカ軍の輸送機オスプレイが日本の護衛艦に発着艦する訓練も
予定されていることから注目されています。 

(中略)

今回は初めて日本の陸・海・空、3自衛隊のおよそ1000人が参加、
離島防衛を想定した統合作戦の訓練を行います。 

実戦さながらの訓練ができる海外で3自衛隊が一体化して訓練をするのは初めてです。 


訓練をめぐっては米中首脳会談を前に
中国側がアメリカ側に対し中止要請を行いましたが、 

訓練は当初の予定通り行われる見通しです。 

TBSニュース

はい、どんな方々がオスプレイに反対しているのかよくわかりますね(笑)




この写真を撮っているときにはこの機体の特殊性に気付かなかったので、
このミサイルを中心にしてしまったのですが、それではなく、ミサイルの先の
黒いブラインド様の空気穴のようなものを観てください。

これがエンジンノズルと言い、この向きを0度(後方)から98,5度(真下より少し前)に動かすことで
垂直離陸を可能にしている装置です。
このノズルの向け方によっては、低速のときならわずかにバックできるのだそうですよ。

(車の運転が好きで、『車の運転の方が好きだ。車は飛行機と違ってバックできるから』
と言っていた元戦闘機パイロットの坂井三郎氏に聞かせてあげたらなんと言ったでしょうか)


実はエリス中尉、夏前に知人から沖縄にご招待を戴いていて、その誘い文句が
「オスプレイが見られますよ。来ませんか」というものだったのです。
いろいろと忙しくて実現しませんでしたが、帰国したら見てみたいな。
岩国基地のスーパーホーネット搭乗員との面会が実現したら、
もしかしたらオスプレイも見られるかもしれません。

上手くいきますように・・・・・・。(-人-;)

しかし、どちらかというと、かなわぬことながらこのハリアーの飛行を見てみたい。
オスプレイは固定翼とはいえ、形態がどうみてもヘリに近いけど、
こちらはこうやって地面に置かれているのを見ただけでは、
まさか垂直離陸できるなんて夢にも思いませんでしたからねえ。


と思ったら、やっとまともな映像が見つかりました。
岩国基地のフレンドシップデーの展示が何件かyoutubeに上がっていたのですが、
どいつもこいつも(笑)飛行機ばかり超ズームして動画を撮るから、
これじゃ何しているのかさっぱりわからないじゃないか!
と画面に向かってつぶやくこと数回。
ちゃんとパンして周りの風景を入れて撮影した動画が。

2012年岩国フレンドシップデー・ハリアー

うーん。実にシュール。
ホバリングしたりじわじわバックする戦闘機。
これ、実際に見てみたいなあ。

知り合いの案内ではおそらくこれ見られないだろうから、
来年5月は岩国基地だ!

さて、それではおまけとして、このオークランド航空博物館のThe ZONZAI展示を。





ドアは空きっぱなしで、中に乗って座るのもOK。
シートはつやつやで、しょっちゅう誰か坐っている様子でした。



これなんだろう。
組立飛行機のキットなら、水平尾翼に見えるけど。

全く別のところにあったリパブリックRF-84 サンダーフラッシュ
の尻尾である、にわたしはブログ人生のすべてを賭ける。

いや、あくまで状況からの判断ですが。







ヒラー航空博物館~早熟の天才スタンリー・ヒラー・Jr.

2013-08-19 | 航空機

それでなくてもどこかに行けば「重爆の隅」を(これ、気に入っちゃった)突くように
何日も何日もデレデレと、気の付いたこと関心の赴くままに語り続ける、
それが当ブログの特徴であります。

しかるに今回の滞米でたくさんの「軍・航空関係」の資料を見てきて、
今年中にすべてをお話しすることができるだろうか、と不安になる中、
またもやダメ押しで行ってまいりました。

サンフランシスコ国際空港から少し南に下ったサン・カルロスという市にある

ヒラー航空博物館(Hiller Aviation Museum)





実はここには息子がまだ4歳くらいの時に連れてきたことがあります。
ブルーエンジェルスのコクピットに座らせて写真を撮り、
ここのギフトショップで買ったトップ・ガンのパイロットスーツは、しばらくの間
息子のお気に入りになったものです。

しかしいかんせんその頃は、わたし自身航空機に何の知識もありませんでした。
まあ今だってたいしてあるわけじゃありませんが、当社比でいうと格段の差です。

そして今となってはどんなものが展示されていたのかも全く記憶にも残っていないため、
見学すれば前とは違った発見があるのではないかという期待があります。
というわけで出発。
今いるロスアルトスからはわずか車で10分です。

入口の前には冒頭画像のようなモニュメントがありました。
航空機黎明のころのグライダーですね。

この大きな二枚羽の翼は木と布でできていたのでしょうが、
それにしても、それをただ手で持って走り、丘の上から飛ぶ、といういかにも危険そうな仕組みです。

「空を飛びたい」と人は昔から翼をもつことを憧れ続け、ついにそれを可能にしたわけですが、
そこに至るまでにはこのような無謀なことにあえて危険を承知で挑戦する、
命知らずの冒険者がいたからこそでしょう。

ここはヒラー・Jr.を記念する博物館ではありますが、黎明期の飛行機野郎たちのスピリッツは、
ヒラーの「飛びたい」という気持ちの原点でもあったからこそ、
それを顕彰する意味でこのようなモニュメントがあるのだと理解しました。



エントランスの前はこのような記念碑があります。

マーチンが1935年に就航させた大型飛行艇が三機ありました。
それがM-130で、

1番機 チャイナ・クリッパー
2番機 ハワイ・クリッパー
3番機 フィリピン・クリッパー

この碑は、事故で墜落した三番機のフィリピン・クリッパーの慰霊のために建てられたもので、
このように記されています。 


太平洋で8年間就航したのち、1941年12月8日、ウェーキ島上空で
日本軍の航空機に低空からの掃射を受けたことがある。
フィリピン・クリッパーは1943年1月21日朝、悪天候をついて降下中
この地に墜落した。

真珠湾を出発、オアフ、ハワイ島からの9人のパンアメリカン航空のクルー、
そして10人の海軍軍人を乗せていた。
生存者はいなかった。

なんと。

このマーチンM-130について検索すると、
「フィリピンクリッパーはサンフランシスコで墜落事故により失われ」
と書いてありますが、それがまさに「この地」だったということなのです。
サンフランシスコ湾に着水しようとして風に流され失敗したのでしょう。

この比較的気候の温暖なサンフランシスコで「悪天候」とは・・・。
しかし確かに墜落事故の起きた1月は、実はこの地域は「雨季」でもあります。
わたしがここに住んでいた年のクリスマスは大雨と暴風雨で、
25日の朝外に出ると、そこらに折れた木切れが散っているという「台風一過」でしたから、
おそらくこのような季節の悪天候にに運悪く見舞われたものでしょう。

この文の下には死亡した全員の名前が書かれています。

合掌。

・・・・それにしても「日本軍の低空掃射」って、この短いヒストリーに必要かい?


さて、入館料は15ドル。
ギフトショップのレジがそのまま入館受付を兼ねています。
お金を払うと「手を出して」と、手首に紙のリストバンドをはめてくれました。
これがあると、いったん外に出ても再入館可です。

いよいよ中に入っていきます。



この広いアトリウムには天井にたくさんの航空機がつるして展示してあります。



外のグライダーよりは少しだけ後期のものだと思いますが、

!903年のWRIGHT FLYER(ライトフライヤー号)(レプリカ)

「初の動力付きで、パイロットが搭乗して継続的に飛行し、
機体を操縦することに成功した、空気より重い空飛ぶ機械」


あるいは、

「最初の継続的に操縦を行った、空気より重い機体での動力飛行」

「空気より重い」「動力」にこだわっているのは、それまで気球やグライダーが、
既に人類の飛行を可能にしていたからです



よく見るとちゃんと操縦士が。
操縦士は腹ばいに搭乗し、操縦しました。
ちなみに動力は「ライト兄弟自製のガソリンエンジン1基。
直径2.6mのプロペラ2つを推進式に配置し、ローラーチェーンによって駆動しました。
プロペラの
トルクを打ち消すために、2つのプロペラは相互逆回転で駆動します。

それにしてもこのパイロットのスタイル。
時代とはいえ、こんなことをするのにネクタイ付きのスーツとは。
このころは機能的な洋服などなかったのかもしれませんが、
現代のあまりにラフすぎるアメリカ人の先祖とは思えません。

さて、アトリウムからメインギャラリーに進んでいくと・・・・・



スタンリー・ヒラー・Jr.の開発した「フライング・プラットフォーム」

この名前を検索しても、日本のウィキぺディアでは「ヘリコプター・デザイナー」
という一文だけしか記載されていないのですが、英語のウィキとここでの展示を見る限り、
このヒラーという人はヘリコプターの歴史に大きな足跡を残しているというべき業績をあげているのです。



ヒラーは一種の天才で、1939、15歳の時になんと世界初の同軸ヘリコプターを発明。
この時すでにUCバークレイの学生であったヒラーのこの発明は、
ワシントンを通じて米陸軍が採用しています。
17歳の時にはワーキングモデルである

「ヒラコプター」を

「ヒラコプター」を

「ヒラコプター」を

デザインしています(あまりにもツボったので三回言いました)。

この「フライング・プラットフォーム」は、1955年の発明で、
チャールズ・ツィマーマンの「フライング・シューズ」という飛行機械のプロトタイプです。

 

気持ちよさそうな「フライング・プラットフォーム」の飛行。
ヒラー47歳の時の発明です。

ツィマーマンが提唱した理論、人間の重量と運動能力でコントロールを可能にできるという
Kinesthetic(運動感覚性、造語)を利用して作られたこれ、
空飛ぶセグウェイといった感じですね。

なぜ普及しなかったかというと、理論の「運動感覚性」は、つまり操縦には「誰がやっても安全に動く」
わけではいという特殊性と、何と言っても事故になった時に人体への被害が大きいからでしょう。





ヒラーの会社は、片手間に?あるいは本命である「飛ぶもの」の開発に
資金を得るために、このような製品を制作販売していたようです。



子供のままごと用のフライパン、スカートハンガー。
これもひとつの「発明」ですね。


 
ATOM RAY GUNというのは、微粒子のウォータージェット、つまり洗車用ノズル。

ガラス下には、「コメット」というモデルカーがあります。



ヒラーコメットのポスターに登場しているのもご本人。
商業モデルではないのでポーズの取り方がぎこちない(笑)
これはどう見ても17,8歳というところでしょう。
会社の社長でもあったんですね。天才恐るべし。

 




ローターサイクル(ROTERCYCLE)

なんと豪気な。
本当かどうかはわかりませんが、英語のページには「ディスポーザル」、使い捨てとありました。
米軍マリーンコーアで、 墜落しパラシュートで落下した搭乗員を救出するためにデザインされたものです。

40馬力のネルソンエンジンを搭載しており、50マイル(80キロ)を飛行することができます。
救出した人間の担架を搭載しており、現場から滑走路や広い場所に移送するのに十分な距離を想定して作られています。

しかしこの状態で80キロ飛行するのはかなり辛いだろうなあ。



Hiller Hornet(ヒラー・ホーネット)

ホーネットという名前をアメリカ人は飛ぶもの飛ばないものに限らずやたらつけたがりますが、
この小さなヘリコプターも「スズメバチ」の名がつけられています。 

1949年の製作で、高度はこれで6000(180m)フィートに達し、 
この結果を受けてすぐ陸軍との契約が進んだのですが、上手くいかずキャンセルされています。

原因は、陸軍の技術陣が先を越されて面白くなかったことにあるとかないとか・・・・。

軍のメンツが潰されたってわけですね。
うーん、どこにでもありそうな話ですなあ。



ヘリコプター・トレーナーDHT-2

フレームだけのヘリ。
電子チェロというのは、必要最小限だけのフレームを弦のある指板に付けてありますが、
どうもそれを思い出してしまいました。

アメリカの「デル・マールエンジニアリング(デルマールはイタリア語で『海の』)」が制作し、
1950年から60年までの間、兵器の実験やヘリパイロットの訓練に使われました。

訓練生にすれば、こんなむき出しの竹馬みたいなものに初めて乗るのは
なんとなく普通のヘリより怖かったのではという気がしないでもないのですが、



デルマール社の広告。
こんなのだとみんなと一緒でなんとなく安心だし、第一楽しそうでいいですね。

「はいみなさんご一緒にホバリングしましょう~!」



MED-EVAK(救難ヘリ)DH-20

なんと、ツインローターです。
パイロットと負傷者が二人のることができます。
従来のヘリコプターより折りたたむことができ小さい空間で運用することができるようになりました。



HA-2M スポーツスター



Hiller 360

ヒラーは1949年、カリフォルニアからニューヨークまで、
初めてヘリコプターによる大陸横断飛行を成功させました。

ちなみに初めて戦場でヘリが使われたのは、仏印戦争のときです。
ドクター・ヴァレリー・アンドレ(女性)がこのHiller 360で脱出しました。

ところで、ヘリコプターというものに少しでも詳しければ「ベル」という会社の名を聞いたことがあるでしょう。
ベル・エアクラフト」のラリー・ベルは、ヘリコプター制作の若いライバル、ヒラーの
軽量ヘリについての見通しを信頼しており、それがため、
ベルの開発したローターブレードをヒラーの新しいヘリに使うことを許しました。
1948年のことです。

10年もの間ヒラー360はヘリコプター、たとえば朝鮮戦争で使われた救難ヘリや、
水陸両用のヘリの、いわばテンプレートとなりました。



このミュージアムは非常に展示に工夫が行き届いており、たとえばこのように
マネキン人形に当時の衣装を着せて、見る者が当時を彷彿とできるような演出がなされています。

この女性も、実在の写真の人物からの再現です。



テールのところにはエンジニアが。
これはもしかしたらヒラー本人かもしれません。
彼のつなぎの背中には「HILLER」とネームが書かれています。

というわけで、ベル社のベル氏にも認められ、陸軍技術部には嫉妬され、
初めてヘリで大陸横断し、15歳の時からヘリを発明してきた男。

なのに、どうしてヘリコプターの歴史に名前が出ていないのでしょうか。
これだけの業績を挙げているのに、しかもその発明と技術はことごとく
軍が採用したりしているのに、どうして日本のウィキペディアでもその名がないのでしょうか。

どなたかこの理由をご存知の方がおられたら、ぜひ教えていただきたく存じます。








 


オークランド航空博物館~ショート・ソレントとインディアナ・ジョーンズ

2013-08-14 | 航空機


Short Solent Mk. III Flying Boat

このオークランド・アビエーション・ミュージアムは、アメリカのそこここにある
ハンガーを利用した小さな航空博物館の一つですが、そのなかでも
いくつかの「ウリ」というのがあります。

女性飛行家のアメリア・イヤハートが最後の飛行に飛び立ったのが
ここオークランド飛行場であったということから、彼女のトランクなどいくつかの資料があったり
(イヤハート機と同型のロッキード・エレクトラが何年か前まで展示されていた模様)
アラメダ海軍基地が近いことから流れてきた?いくつかの軍用機があったり。

しかし、「目玉」展示となっているのは、なんといってもこの「ショート・ソレント」です。

ハンガーから外に一歩出ると、最も巨大な機体がどおおお~ん、と擬音付きで現れ、
その威容にまず目を奪われるのですが、はっと気づけばこれがなんと飛行艇。

当ブログにおいて一時二式大艇とその子孫であるUS-2までの系譜について熱く()
語ったエリス中尉としては、思わず「おお」と声が出てしまいましたよ。

鹿屋基地で見た エミリーこと二式大艇も大きかったけど、こちらはさらに一回り巨大。
今まで見たことも聞いたこともないこの飛行艇の正体は?



このソレント、イギリスはロチェスターにあるショート・ブラザーズ社が1940年代から開発を始めました。
当初は太平洋に配備するためという計画で、名前も「シーフォードS‐45」という軍用機の予定でしたが
戦争が終わってしまい、1946年から民間利用に転向したのです。

他のシーフォード5機と共にベルファストのショート・ブラザーズ工場で改装作業を受け、
この水上艇は34人乗りのソレント マークIIIに生まれ変わります。


イギリスが統治していた植民地への移動のために使うことが当初の目的で、
取りあえずロンドンと南アフリカのヨハネスブルグ線が就航しました。

飛行するのは昼間だけ。
夜にはオーガスタ(シシリー)、カイロ(エジプト)そしてアフリカのヴィクトリア湖に
アンカーを下しながら5600マイル(9千km)のフライトを行いました。

旅客費は一人250ポンド。現在の1500ドル(15万円)であったそうです。
でもこれ、そんなに高いですか?
9千キロの距離を三泊して移動して15万円。

しかも、

  

こんな優雅な飛行機、いまどきの国際線のファーストクラス以上じゃないですか。
飛行機の中にこんな階段(しかも螺旋状)があるなんて。
外側も大きいけど、内部もとても広くゆったりし、しかも動揺も無いので
フライトは非常に快適だったと言われていますし。




しかし時代というのか、航空機の発達とともに、こういった図体のでかいものは
運用コストが合わないという理由で、生産そのものが中止になります。

その後、ソレントは1951年にオーストラリアのトランスオーシャン航空に売却され、
スター・オブ・パプア」という名前でフィジーと南洋諸島をつなぐ路線に利用されましたが、
一度事故があって、それ以来トランスオーシャンは手を引いてしまいました。

ここにある飛行艇は、1953年にサウス・パシフィック航空に売却され、名を「アイル・オブ・タヒチ」と変え、
ホノルルとタヒチ間の連絡船(機?)として利用されていたものです。

就航中たまたまオーバーホールとメンテナンスのためにここオークランドに飛行してきたのですが、
ちょうどそのころボーイング707旅客機が出現したため、タヒチ行きそのものが廃れてしまいました。
そのまま彼女は行き先を失ってしまったというわけです。

というわけで彼女の最後のフライトは、サンフランシスコベイを飛び立った1958年になりました。
その後ハワード・ヒューズ協会がこれらの機体を購入し、彼女と二人の姉妹はその管理下に置かれたため、
それ以来一度も空を飛んでいません。




飛行艇のお腹。
川西航空機が開発した「波消し装置」のようなものは全く見えません。
軍用機ではないので重量の点やスピードを出さないことが前提となり、
従ってそのような対処もそう必要ではなかったということでしょうか。



人の命を乗せている割には作りが雑な気が。
フロートのアップ写真を撮らなかったのが悔やまれます。
どうして上部にこれだけ穴が開いているのでしょうか。



飛行艇を支えている台車?
飛行艇の機体の端が、これにめり込んで潰れています(-_-)

世界でたった二機しか現存していないこの貴重な機体をこんなにぞんざいに・・・・・・・。
歴史的に貴重な機体であるからもっと大事に保存しろ!と折あらば
鹿屋の二式大艇保存方法の向上を訴えているエリス中尉ですが、
このようなものを見せられては、「航空機先進国のアメリカではどうこう」
などと口が裂けても言えなくなってしまうじゃないですかー。

さて、ハワード・ヒューズの所有として、どこかにしまいこまれていたこの飛行艇三姉妹。
10年ほど経った1969年に、三機まとめて1500ドル(かつての一人分の片道料金!)で売却され、
サンフランシスコとリッチモンドのあいだのはしけ(船代わり)として運行していました。

リッチモンドはサンフランシスコの半島太平洋側の地域で、
現在は中華系に乗っ取られて悲惨な眺めになっている地域ですがそれはともかく、
昔はともかくこの時代に、車で行った方が早そうなルートを
わざわざ海から行く意味が少しわたしにはわからないのですが・・・。

1973年には三姉妹のうち二機がスクラップにされ、一番状態の良かったこの機が生き残ります。

その後飛行機雑誌の広告に使われたりして、リッチモンドからオークランドまで
「トウイング(牽引)」され、このソレントは、1990年からここ、

ウェスタン・エアロスペース・ミュージアム(ここの正式名称)

に展示されているというわけです。

ところで、インディアナ・ジョーンズシリーズの「レイダーズ・オブ・ロスト・アーク」
この飛行艇が撮影に使われました。
インディがネパールに向けて出発するシーンです。

 

どうしてこんなにキレイなのかと思った。
これは、映画のロケのためにパラマウントが改装したのだそうです。
写真はインディの座った席。


このミュージアムのお知らせによると、なんと予約すればここでディナーが食べられるとのこと。
メインが2皿のフルコースでおひとりさま夏の特別価格125ドル。
これがお値打ちかどうかはディナーの内容にもよりますが、
万が一予約したのがたった一組で、サーブする給仕に一挙一動見守られながらの食事になっても
決してプレッシャーを感じない方であればぜひお試しください。
英語ですが、メニューを貼っておきます。

Poached Fresh Salmon
(layered with Dill & Baby Leek wrapped in Smoked Salmon 
served with a Fresh and Peppery Watercress Sauce)

Roasted Marinated Chicken Breast
(with Garlic and Herbs) 

Panache of Seasonal Vegetables 

Whole Minted Baby New Potatoes

Traditional Apple and Blackberry Crumble 
with Sauce Anglaise

Coffee & Mints

Selection of Continental Breads and Butter






現在、このソレント飛行艇は世界に二機が現存しています。
その一機が、ここ、アメリカのオークランド。
もう一機は、なんとニュージーランドのオークランドなのです。

しかし「同じじゃないか!」と思うのは我々日本人だけ。
なぜならここアメリカのオークランドは

OAKLAND

対してニュージーランドの方は

AUCKLAND

ええ、英語だとスペルはもちろん発音の違いは歴然なんですって。
日本では同じ表記&発音になってしまうので、区別のため、前者を
US オークランド、後者をNZ オークランドとするのだとか。

我々にとっては「偶然同じ!」だけど、イングリッシュピーポーには、
「え?何が同じなの?」と言われてしまうんですね。



ところで、この飛行艇。
ロンドンからちんたら飛んで、ナイルではワニなどを見たり、
途中ではヴィクトリア湖に浮かんでライオンの雄叫びを遠くに聞いたり・・・・。
ロンドンーケープタウン就航の際は一度も事故を起こしていないみたいですし。

インディアナ・ジョーンズも、さぞエキゾチックでゴージャスな飛行艇の旅を
楽しむことができたんじゃないでしょうか。


・・・あれ?

インディーの時代って、まだソレントってできてなかったんじゃなかったっけ。





キャッスル航空博物館

2013-08-10 | 航空機

その気になれば、いたるところにそれなりの航空博物館がある、
それがアメリカ。

航空機の生産にかけては車なぞと違い世界の独走状態ですし、
ふんだんに生産してきた歴史があるうえに、土地が有り余っているから
展示する場所には事欠かない。

今回少し検索しただけで、ここから行ける範囲だけでも結構な数の
航空博物館があることを知ったのですが、その中でも特に興味を惹いたのが、
ここ、

CATSLE AIR MUSEUM(キャッスル航空博物館)。

ここはかつてキャッスル空軍基地があっただけあって、軍用機が充実しているとのこと。
これは行かずばなるまい。
しかし、ここパロアルトから、キャッスル航空博物館のあるアトウォーター市まで、
片道2時間あまりかかるというではありませんか。

休暇を取ってこちらに来ていたTOと、息子を学校に送った後すぐに出発・・・・・・



する前に、まず朝ごはんを食べることにしました。
二時間のドライブなので、まずは腹ごしらえからです。



ディナーに何回か来たことのあるスタンフォードのベーカリーレストラン。
クロワッサンが本当においしい。



スタンフォード大学の関係者と思しき雰囲気の客多数。
隣は中国系の学生と朝ごはんを食べていた教授らしく、
「うん、君の意見は面白いね。今度うちのゼミで話してみよう」
などといいながら、テーブルクロス代わりの紙にグラフを書いていましたし、
この写真の左に写っている男性はユダヤ系で、ノーベル賞くらい取っていそうな
いかにも知的な風貌をしていました。

そんな雰囲気とともに朝食を楽しみ、10時に現地出発。



アトウォーターはカリフォルニアのちょうど真ん中に位置する町で、
そこに行くのは内陸にめぐらされた高速をひた走るわけですが、途中には
このような風力発電地帯があります。



巨大な風車が小さく見える広大な丘陵地。
本当にアメリカって広いなあと思います。



我が家は、免許保持者がわたし一人しかいません。
つまり、TOは免許を持っていません。

車の移動はすべて妻であるところのわたしが一手に引き受けています。
何時間かかる移動であろうが、運転を代わることはできません。
というわけで、ここへも当然わたしの運転で(TOは後ろで爆睡)。

国内ではあまり使わないクルーズコントロールのままずっと走れるほど道がまっすぐです。
高速を二回乗り換えて、休みなしの2時間10分くらいで到着しました。

昔空軍基地だった名残りで、鉄条網が貼られたフェンス。



オークランドの航空博物館に比べると段違いに立派な施設です。
やはり空軍の関係だからでしょうか。



駐車場は広大です。
平日であるせいか、おそらくスタッフの車の方がおおいのではないかという状態。

この右手を見やると・・・・・



空軍基地だった名残りのプレート各種と国旗空軍旗掲揚ポール。
そしてうしろに控えるのはハスラーポッド。
B-58ハスラーが搭載していた爆弾です。



第93爆撃航空隊がかつてここにいたということですが、1995年に閉鎖しました。
そのあと、非営利団体によってこの博物館が立ち上がったのです。
「キャッスル」というのはフレデリック・F・キャッスル准将にちなんでいるそうです。

この隊章の横には・・・・・



さりげなくブラックバードが。

うちのTOはそんなに軍用機好きと言うわけではありませんが、その彼ですら
「うわー!すごい!ブラックバードだ!」と興奮気味。

いきなり駐車場に(つまり博物館に入ることなく見られる)ステルス。
これは期待できそうですね。オークランドと違って本来の意味で(笑)

そして駐車場に立ってもう一方を眺めやると・・・・



うわー、いるわいるわ、貴重な歴史的航空機が。
コンソリデーテッドの爆撃機、レベレーターですね。

それでは中に入ってみることにしましょう。
車を停めて奥の建物に。



入口のわきにあった子供用。

扉をあけるとそこは売店とちょっとした食堂。
食堂は平日はやっていないようでした。



ただの食堂と違うのは、壁に所狭しと隊章部隊章が飾られているところ。
「ダイナー」と言う言葉がぴったりなレトロな雰囲気です。

この受付で、入場料を一人10ドル支払います。
パンフレットは無料ですが、63機もある展示航空機の解説パンフは1ドル50で購入しました。

広大な展示場は左回りに順路通りに行くように、と言われたのですが、
このパンフはその順番に航空機が写真付きで解説されていて、とても便利。
特にわたしのようにあとからいろいろをチェックする目的があると助かります。

それではいよいよ展示フィールドへ。



アトウォーターは内陸なので、同じカリフォルニアと言ってもサンフランシスコのような涼しさはありません。
まるで砂漠のような強烈な日差しが遠慮会釈なく照りつける過酷な天気で、
浜松の航空祭ですっかり懲りたエリス中尉は、長袖のパーカに手の甲を隠す布手袋、
勿論長いトレーニング用のパンツにウォーキングシューズ、
腰にはカメラが使えるようにウェストポーチ、そして斜め掛けしたニコン1、
サングラスに肩まで覆う巨大な日よけ帽という怪しいいでたち。

確かに日焼けはしませんでしたが、あまりにも暑くて帰ってきたら汗だくでした。



入るなり謎のミサイル。



AMMOって何かしら。
さらに
IYAAYAってもっと何かしら。

「いやああやあー!」

って読むのかしら。

今日はさわりと言うか予告編なので、航空機のあれこれはまた今後、
少しずつでれでれとお送りしていくつもりです。

見学通路にはガイドとして点々とこのようなマークが。



ところどころわけのわからない展示物(というか置いてあるだけ?)も。



なぜ半分に切って、ここに据え付けてあるか、なのですが・・・・。
空軍基地時代これは灰皿として使われていた、に1ドル50セント。



柵の向こうにはメンテ中?
放置されているように見える飛行機が。
これは・・・・・・・・艦載機ですね。(誰でもわかるって)



当時使われていたと思しきレトロな雰囲気の車両もさりげなく。
消防車・・・・・ですよね?



これも見る人が見たら、なんか曰くのありげなトラック。

というわけで一回りしてきて元の処に戻ってきました。



カートで移動する人もいるのかもしれません。
何しろ広大なので。

黄色いのはボーイングのB‐17フライングフォートレス。
まさに飛ぶ要塞。でかいです。

そして外を全部観終わったら、室内展示の部屋へ。



セスナが飾ってある中庭を挟んで、ギフトショップと室内展示室があります。
入っていくと、三人のおじいちゃんが解説のボランティアで来ていました。

「ここに名前書いて」

と言われて、入館名簿みたいなのに名前を書いていると、興味深げにおじその1が、

「どこから来たの?」
「東京です」

TOが答えるとおじさんその2が

「なんと。それはようこそ。もし何か質問があったら遠慮なく聞いてくんな」
「はーい」



館内はこの航空基地にまつわる伝説的な人物の遺品や、ここを舞台にした映画
「B52爆撃隊」で登場人物が着用した衣装、そしてこのような壁画やプラモ、
写真多数、そういったものが展示されていました。

こういうプラモですが、だいたいはボランティア、たいてい退役軍人が趣味で作ったりしたのを
飾っているようです。
各種展示はレトロながらになかなか凝っていて、



外から見るとこんな感じなのですが、これ実は本物のB52のノーズ。



これがその内側。
退役した飛行機を惜しげもなく使いまくっている感じですね。


無料のパンフレット。



やっぱりブラックバードが「目玉」なんですかね。



上空から見るとこんな感じです。
すごいでしょう。
そうたくさんの航空博物館に行ったわけではありませんが、
文句なしに今まででここが数ではナンバーワンです。

売店にはエアフォースが出している無料の「エアフォース・マガジン」があったので
ありがたくいただいてきました。
その筋のマニアの方にはきっと垂涎の内容です。

各種お知らせや職場紹介、歴史や世界の名機など。

今月号の特集は「コンバットにおける女性の役割」



最後に、艦内を取るふりをしておじさんの写真を撮りました。
でも、これを見たらおじさんしっかりカメラ目線ですね(笑)
気付いていたのか・・・・・。

もっとゆっくり見ていたかったのですが、帰る時間が来てしまったので、
入口にある「もしよろしかったら寄付を」と書かれたボックスに、
お札を何枚か入れました。

このおじさんたちはボランティアなので、おそらくこういうチップは
そのままおじさんたちのお小遣いになると思われたからです。
すると、彼らはニコニコして「来てくれてありがとうよ」(みたいな感じ)

そしてこのお知らせをくれて



「9月1日にコクピットデイがあって、飛行機に乗れるからいらっしゃい」

と言っていただきました。

残念。
そのころにはもうアメリカにはいません。
でも、いつかチャンスがあれば来てみたいな。


というわけで、ホーネット、オークランド、そしてこのキャッスルと、
三つの見学した場所の報告を並行してお送りしていきます。
目黒防衛省で見学したもののお話もまだまだ続きます。

なんだか連載を何本も抱えた売れっ子作家の気分(笑)





 


オークランド航空博物館~サン・ダウナーズの旭日旗

2013-08-07 | 航空機


オークランド航空博物館のことを何日間か書いたところで、
例によってご指摘を何件かいただいておりますので、訂正エントリを作成することにしました。



この初期のバイプレーンですが、隣にオークランドの中国系アメリカ人
ファン・”ジョー”・グゥエイの胸像があり、てっきりこの人物が作ったのかと思ってそう書いたら、
実はこの機は第一次世界大戦当時のイギリス空軍で活躍したものだったそうで、この説明にも

「このモデルは、1903年飛行機が最初に飛んでから15年の間に進歩したものである」

「この15年に飛行機は原始的な翼と剥き出しの骨組みのものから、
閉じられた機体に各種コントロール装置のついたものとなり、軍に利用されるようになった」

などと書いてあり、中国人は全く関係なかったある、ということがわかりました。

この模型を寄贈したのが、レイモンド・ホングという中華系だったので、
勝手に結び付けてしまったんですね。

ちなみに、もう一度検索したら、このグゥエイさんは、1909年の時点で
自分の研究所で確かに飛行機を作り、それを飛行させることに成功してもいるのですが、
どうして無名なのかと言うと

「彼の功績の大部分は、彼の民族的出自がほとんどの理由で、
同時代の航空史に埋もれてしまっている」

ということなのだそうです。

因みにこの模型の戦闘機は、当時数千機も量産されています。



このライトR-3350サイクロンエンジンについては少々追加です。

エリス中尉、どうもこういう機械のカタマリを見せられても、あまりピンとこないので(おい)
ここの部分非常にあっさりと流してしまったのですが、言われて「うぃき」を見たら、
なんと!(何がなんと!だw)
こやつはあのにっくきB-29戦略爆撃機に搭載されていたものではないですか。
道理ででかいはずだわ。
まあ、自分で挙げた博物館の資料にもそうかいてあるんですがね。

そんなエリス中尉ですから、3350というネーミングにも全く疑問を持たなかったわけですが、
これは、3350馬力・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  • 離昇馬力 2,200HP/2,800RPM
  • 高度馬力 1,800HP/2,400RPM(高度4,267m)


全然関係ないじゃん。
この数字の意味の分かる方、ウィキでしか調べようとしないわたしに愛の手を。

さて、各種訂正追加の御意見の中で、エリス中尉的にもっともツボ?だったのが、
この、



トムキャットF-14についてのこと。



もうちょい後ろ。



あああ、それでもちらりとしか写ってはおらんではないか。
旭日旗模様が。

「イケてますよね」

などと超絶とぼけたコメントを苦笑して見ていた方はおそらく多数。
イケてるも何も、これ、VF-111、サンダウナーズのペイントぢゃーありあせんか。

コメントくださった方は

「もしや気づいていてのことでしょうか?」

と愛のあふれる気を遣った逃げ道を用意してくださったのですが、エリス中尉基本的に
知りもしなかったことを「知っていた」などと言うようなことだけはいたしません。
勿論初耳でしたともさ。

そこで冒頭のマークをご覧ください。
これがVF-111、第111戦闘機隊の部隊章。

これは、二機の航空機が、太陽に向かって攻撃を加えております。
太陽すなわち、ライジングサンの国ジャッパーンでございます。

この、通称「サンダウナーズ」は、まさに昇りゆく我が旭日を、
自然の大摂理に逆らってまでも「沈みゆく落日」にしてしまおうとする、
つまり「日本を沈めてしまえ隊」という名の航空隊で、1942年に結成されました。

でもね。

わたし思うんですけど、旭日旗を見るだけでショック症状を起こし、踏んだり破いたり、
旭日旗様の意匠に片っ端から文句をつけている「あの国」は、つまり、その旗の象徴する国、
日本を嫌悪しているわけで、だからこそ拒否反応を起こすわけです。

しかし、日本と戦争していて、その日本をやっつけてやる!という意味を持つこの部隊が、
その旭日旗そのものを機体にペイントするっていうのは、どうも不思議じゃありませんか。

これって、やっぱり、この模様自体が「イケてるから」という理由以外考えられませんよね?


さて、このサンダウナーズ、最初は1942年、F4Fワイルドキャットでを使用機体として

「その精神と戦術的な優位性を具現するために」(英語ウィキペディア)

この名と、冒頭のパッチが決定されました。
1943年に使用機がはF6Fヘルキャットとなってから、ガダルカナルなどで戦果を上げ、
(このあたりは不愉快なので省略)
そののちはF9F-2パンサージェットに移行しました。

因みに、「猫戦闘機」のエントリで、ヘルキャットが「零戦に対抗して作られた」と書きましたが、
ゼロに対抗するのがが目的というわけではない、というご指摘も入りました。

アクタンで捕獲された「アクタン・ゼロ」の研究結果がこのヘルキャットに生かされた、と言う説は、
厳密にいうと間違いで、なぜならF6Fの開発はアクタン捕獲より前だからですね。わかります。

言い訳するわけではないですが、当初零がアメリカ軍に脅威であったことは間違いのない事実で、
広義の意味で「零に勝つためだった」としてもいいんではないかなー、と思ったのでした。


というのは余談で、サン・ダウナーズに戻ります。

戦争が終わって、文字通り日本はサンダウンしてしまったわけですから、もうここで
サンダウナーズは役目終了、解散してもよかったのですが、朝鮮戦争が始まり、
そこに参加した「アイアンタイガース」という名の攻撃部隊第156隊が、ニックネームと
その部隊名を引き継ぎ、「二代目サンダウナーズ」として蘇ります。

ここで、「もう敵は日本じゃないんだから、この名前と部隊章はまずくね?」

と誰も言いださないのがアメリカン。
そんなことよりもかつてのサンダウナーが強くて敵をたくさん撃墜して、
国からもたくさん表彰されたということだけでイケイケだったんでしょうね。

そして1960年にはベトナム戦争に突入するアメリカ。
サンダウナーズはここにミラマー基地配属として投入され、F-8C クルセイダー
乗機とする同隊のトニー・ナージ大尉ミグ21と対決しこれを撃墜しています。

そして1970年代。

これまで名前だけで、さすがに旭日は遠慮していた(たぶん)サンダウナーズ、
F-4BファントムIIをレストアする際、さりげなく(でもないか)旭日ペイントを復活させます。
その後、1977年に艦載を経て再びミラマーに戻ったときから、このトムキャットF‐14
使いだしました。




それが、ここオークランド航空博物館にあった、これ。

うーん。

そうと知っていれば、もう少したくさん写真を撮っておくんだった(笑)

この時に「イケてるから」などと奇しくも感想として書いてしまったわけですが、
当初の目的とその意図はともかく、日本と戦うことを止め、戦後お互い
同盟国としてやってきながらこういった意匠にこだわり続けたのも、あるときから

「昔はこういう意味だったけど、今となっては『そういうこともあった』くらいに
軽く考えてくれるとこっちとしては助かるな。
だって、なんといってもこの旭日旗模様、イケてるだろ?
日本だって、決して悪い気はしないだろ?」

という理由に変遷していったということなんですよ。彼らの言い分は(たぶん)。
やはりこの感想はある意味当を得たものであった、ってことなんですよね。(←威張るな)


そして、改めて確信したのですが、某国が旭日旗に異常な執念を見せるのも、
つまるところ、旭日旗という優れたデザインがこういう感覚で受け止められていることへの
所詮「嫉妬」なんだろうなと。
そう思えばあの国の行動原理って、すべてこの「日本と日本的なものへの嫉妬」
であると思って見ると、すっきりわかりやすいんですよね。



さて、その後1993年、サンダウナーは、アメリカ軍がソマリア内戦に介入したとき、
史上最大の人道支援作戦である「オペレーション・レストア・ホープ」
(希望の修復作戦。ソマリアの難民達に食糧と医療援助を行った)
への参加を大がかりなものとしては最後に、1995年3月、解隊しました。


あ、それから、婆沙羅大将が「F9系列」である、とおっしゃった謎の残骸について。



これですね。

いただいたコメントによると

●機首にカメラ窓らしきものが複数見える
●エアインテークの形状が違う
●後部キャノピーが機体と一体構造に見える
●塗装が当時の米海軍旗のF9系列のグロス・シー・ブルーの退色したものに見えない

ということで、この正体をいろいろと推察していただきました。
そしてお答えもいただいているのですが、それを明かす前にぜひこのページを見てください。

Help identify this plane - Oakland Aviation Museum


「ランチのためにここに立ち寄ったら、ミュージアムのフェンス裏手にこんなものが。
機種が何かわかる人いる?
ミュージアムは休館日だったので聞ける人がいなかったんだよ」

20分以内に答えが寄せられています。

リパブリックRF-84 サンダーフラッシュに見える」



サンダージェットとか、サンダーストリークと呼ばれるF-84戦闘機の偵察機バージョン、
それがこの「残骸」の正体であったようですね。

このページを最後まで読んでいただくと分かりますが、

「こんな状態の航空機を見るといつも悲しくなる・・・・」

「でも、ここは博物館だろ。いまからレストアされる可能性もあるよ」

「胴体の周りに翼も見当たらなかったんだ。コクピットだけ展示するのかも」

「こういう小さな博物館は、他の博物館が調達するために
大きな基金から資金を得て
レストアやなんかをするんだよ。
もしこれが博物館なんだったら、どこかに(展示する)チャンスもあると思う。
これがおらがの街の博物館だ。駄目だなんて言うな!」

こんな飛行機を愛するアメリカ人たちの会話があって微笑ましいです。
このスレッドが立ったのがもう4年前。

しかしながらその後、アメリカおたくたちの願望も虚しく、
この機体は皆さんもご存知のように庭に放置されっぱなし。

しかし、わたしもいま一度言う。

裏手からとりあえず展示スペースに移動しているということは、今後
このRF-84、ちゃんと組み立てられて展示される可能性があるじゃないか。

NEVER SAY DIE!(駄目だなんて言うな!)






オークランド航空博物館~トムキャットと「猫戦闘機の系譜」

2013-08-05 | 航空機


Grumman NF-14A Tomcat


グラマンという会社名のつづりがGrammanだとわりと最近まで思っていたエリス中尉です。
Uだったんですね。

戦時中、本土にやってきたグラマンは、たとえば大阪だと、
御堂筋沿いを低空飛行しながら逃げ惑う市民を掃射したり、校庭の小学生を狙って撃ち殺したり、
全くこうやって書いているだけで怒りがふつふつとわきあがってくるほどの狼藉三昧をしたため、
日本人にとってこの名前は大人は勿論子供にとってもにっくき「敵」の象徴だった時がありました。


というような陰鬱な話はさておいて、当時のグラマンと言う名の禍々しい響きとは裏腹に、
可愛らしい名前を持っていたこのF-14。
トムキャットとは「雄猫」の意味があります。

F-14
の最も大きな特徴の一つが、飛行中に主翼の後退角を変えられることでした。
最適な状態に翼の形が変えられるということなんですね。



別の機種ですが、可変翼の動き方の一例です。

この翼を動かすのを、初期には手動でやっていたのですが、このF‐14は、
コンピュータ制御で最適値を自動制御で決定できるのです。

なんかこれ、手動って、ハンドルみたいなのがあってぐるぐる回したんでしょうか。
映画「メンフィス・ベル」で、故障して片方出ない爆撃機の脚を手動で、
やはりぐるぐる回しながら出し、間に合うかどうか!がクライマックスだったりしましたが。
そういえば車の窓も昔はハンドルぐるぐるでしたよね。

とにかくこの動きがネコの耳の動きに似ているということで
愛称がトムキャットになった、ということに(公式には)なっているようです。

じゃ、他のグラマンの「ネコ戦闘機」はどうなるのっと。

可変翼の動きは後からこじつけた理由じゃないかなあ。
だいたい猫の耳こんな動き方しませんし。

というわけで、今日はこのネコシリーズを年代順に淡々とご紹介します。
「!」マークがついているのは「盛り上げ」と思ってください。

F4F ワイルドキャット!



日本軍の搭乗員には「ネコ」と呼ばれていた。そのままである。
ただし、零戦と比べると大幅に性能は劣っていて、サッチ・ウィーブ戦術の考案者サッチ少佐も、
ミッドウェーで零戦とのやりあって生きて帰って来れたのは奇跡、と言っている。
ずんぐりした機体は、ワイルドキャットというより肥満した家猫と呼ぶにふさわしい。

F6Fヘルキャット!!



零戦に勝つために作られた「地獄のネコ」。
名前に中二病が感じられるが、これは打倒ゼロファイターの意気込みを表したのであろう。
ゼロと戦闘をする際は、余分な装備は外し機体を出来るだけ軽くするように、と
ワイルドキャットの頃にパイロットに「三つのネバー」の一つとして通達がだされたが、
どういうわけかこのヘルキャットはワイルドキャットより体が大きい。
そのせいで重すぎて着艦時に脚が折れ、海に転落する事故が続出。
しかし、日本軍にとっては最も兵力を殲滅させられた「怖い猫」だった。

見た目通り装甲はむちゃくちゃ頑丈で、なかなか撃墜できなかったらしい。
戦争末期には爆装して本土で民間人を襲いまくり、日本人の言う「グラマン」とはこの6Fをさす。
まさに可愛げのない地獄のネコそのものであった。

ところで、当時の海軍では、猥談のことを「ヘル談」、そういう人を「ヘル」と言った。
これは「助平」の助を直訳した、海軍公認の隠語である。
この「ヘルキャット」が、おそらく海軍内では本来の意味とは
全く違う捉え方をされていた可能性は高いであろう。

F7Fタイガーキャット!!!



タイガーキャットというのはジャガーネコともいうネコ科の動物であるが、
タイガーキャットを直訳すると「トラネコ」になり、可愛い。
器量が悪かったヘルとワイルドより、若干スタイル良しになっている。

しかし、良かったのは器量だけで、重すぎる割に着陸速度が速すぎて、
あまり活用されなかった。

民間に払い下げられ、消防機としての余生を送るタイガーキャットは、
まさにジャガーネコというよりトラネコと呼ぶにふさわしいだろう。

消防機として生きるタイガーキャット

F8Fベアキャット!!!!




ベアキャットとは、クマネコ、英語名「ビントロング」というマイナーな動物。
おそらく付けたグラマンの関係者も、この動物を知らずにつけたと思われる。

ビントロング

これもあえて漢字に変換してみると、熊猫。
これは中国語で「シュンンマオ」と読み、何のことはないパンダのことである。
大熊猫でジャイアントパンダ、小熊猫でレッサーパンダ。
どちらも猫とは全く関係ない。

ベアキャットというのには「勇敢な闘士」という意味があるらしい。なんでやねん。

日本本土決戦に向けて開発されたが、これもあまり活躍せず、
日本軍とは全く戦わずに陳腐化してしまった。

F9F パンサー!!クーガー!!!

 


CATとつく動物に戦闘機に相応しいあまりかっこいいのがいないので、
困ったグラマンは、ネコ科の猛獣の名前を使うという卑怯な技に出た。
これがパンサーとクーガである。
しかし、CATとつかないものは「ネコ戦闘機」の仲間に入れてやらない、という説もある。



ちなみにこれもF9Fですって。
なぜわかるんだ・・・・・。



F14Fトムキャット!!!!!




ふう、やっと本日テーマに戻ってきた。

自衛隊が次世代支援戦闘機を装備するにあたって、世界の航空会社は熾烈な売り込みをかけ、
その結果、このグラマンのF-14と、マクドネル・ダグラスのF‐15が熾烈な売り込み合戦を行い、
その結果、F‐15が採用されたのだが、この売り込み計画をアメリカは「ピース・イーグル作戦」と称していた。

どちらが勝ってもアメリカが発注することは確かなので、つまり漁夫の利というやつである。少し違うか。
売り込みバトルのクライマックスは、1976年入間で行われた国際航空ショー。
ほぼ性能の点からF‐15に決まりかけていた劣勢を起死回生すべく、グラマンは、
西太平洋航行中の原子力空母「エンタープライズ」から、トムキャットを本土来襲させた。

今にして思えば、国内の左翼がこれに
「かつてのグラマン本土空襲が脳裏によみがえった。どうしてくれる」
と騒がなかったのはなぜか、不思議と言えば不思議である。

ともあれ、このかつての敵国に今は機体を買ってもらうための来襲は、いいところまでいったが、
やはり劣勢を挽回することは成らず、空自配備のF-15Jには、マクドネルダグラス社のF-15が
勝利を納めた。

この時にグラマンが勝っていたら、自衛隊に猫戦闘機が導入されていたのである。
この点だけが返す返すも残念である。(筆者の個人的感想であり、感想には個人差があります)



というわけで、一応「ネコ一族」をご紹介しました。
それにしてもこのペイントですが、猫というよりどう見ても鮫のつもりですよね。
ネコと言い張るならネコ耳が欲しかったかな。

ところで、この博物館、こういう展示がされていて、周りに囲いがあるわけでもなく、
しかも係員が見ているわけでもないので、その気になれば



こんな写真も、下に潜り込んで撮れたりします。
「触らないでください」
と書いてあるだけなので、触りさえしなければ何をしてもOK。

この下を匍匐前進して向こうに潜り抜けてもOK。

しませんでしたが。



トムキャットのエアインテークに頭を突っ込んで写真を撮るのもOKです。
昔mizukiさんが、空気を取り込むときに暴風雨だったらどうなるのか、という質問を
コメント欄でしておられたのを思い出しました。

その時にわたしの予想として、燃焼のメカニズムそのものが取り入れた空気を直接使用するのではなく、
赤い輪のところ、つまりインテークセクションで取り入れた空気を減速させ、
同時に圧力を増大させて圧力回復を行うのではないか、ということを書いてみました。

それが正解かどうかはいまだにわかりませんが、よく考えたらそもそも暴風雨のときに
超音速ジェット機を果たして飛ばすだろうか、という根本的な疑問が・・・・・・・。

この件、まだ質問をオープンにしておりますので、どなたかご存知でしたらぜひ教えていただきたく存じます。




あれ・・?

なぜかそこここに旭日旗様のペイントが見える気が・・・・。
やっぱり、これ、「イケてるもの」と認識されてますよね?
そうですよね?

ところで、グラマンの華麗なる「猫戦闘機の系譜」。

最後に、この猫を紹介します。

G-164 アグキャット!!!!!!!!



「アグ」とは、アグリカルチャーすなわち農業。
アグキャットは、アメリカの農家が広大な畑に肥料をまくための、
グラマンの製作した農薬肥料散布専用機。


なぜこの機種が「猫」でないといけなかったのか。
これは、グラマンの中の人が狙った壮大な「オチ」だと関係筋からは見られている。





オークランド航空博物館~哀しきミグ15(人民軍仕様)

2013-08-03 | 航空機




Aeronca 7AC Champion


オレンジの機体が可愛いエアロンカ・チャンピオン
1946年当時、2000ドルくらいで販売されていました。
主に個人使用と、飛行訓練のためにデザインされた機体です。



これはエアロンカを使用したフライングスクールのパンフレット。
このスクールで学ぶとこのような道が開けますよ、という例として、
個人パイロット、商業パイロット、運送、テストパイロット、スチュワーデス、
運行管理者などなどが挙げられています。



Kittfox IV 1200

小池一夫・池上遼一大先生作、全く意味不明のアクションマンガ、
「クライング・フリーマン」の主人公を思い出してしまいました。

組み立てキットを購入して飛行機を自分で組み立てるホームビルト機です。
ロータス・セブンなど「キットカー」の飛行機版ですね。
その中でも定番キットのひとつがこの『Kitfox』。
エンジンも選べるし、もちろこのようなアーティスティックなペイントをして楽しんだり・・。



断言してもいいけど、これを描いたのは東洋人ではないでしょう。
ドラゴンには違いないですが、どことなく「記憶スケッチ」のような「それじゃない」感が・・・・。

因みにここの説明によるとこのキットフォックスは、
「このタイプで最もマーケティング上成功した」タイプなんだそうです。



Thorp/Paulic T3B-1

先ほどのボーイング飛行学校のためにデザインされたT3B-1。
Thorpは、デザインしたジョン・ソープの名前からきています。

安定性はありますが、なんだか寸胴でかっこ悪いシェイプですね。
アメリカの飛行学校はサイドバイサイドで指導することが多いらしく、
このタイプは皆横に並ぶツーシーター式です。



Rutan 33 VariEze

外にも展示してあった、ルタン・バリイージー
サクランボのような形状の脚が可愛らしい。
でも、こんな脚でちゃんと着地できるのだろうか、そう思って画像を検索すると、
着陸のときはノーズの下からもう一脚を出してくる仕組みのようです。

地面に駐機してある時もこの前脚は出さないのが基本のようで、
まるでお辞儀をしているように見えます。

エンジンが後部にあり、ほとんどの重さがそこに集中するので翼はやはり後ろに位置し、
ノーズについている補助翼でコントロールを補助するのだそうです。



Jurca MJ.77 Mustang

スピルバーグの「太陽の帝国」という映画で、日本軍の捕虜になっていた
飛行機オタクのジム少年が、「ナカジマゼロセン」の熱狂的なファンだったにもかかわらず、
日本が旗色が悪くなって米軍機が飛来するようになると、このマスタングを見て

「空のキャデラックだ!行け行け~!」

と手の平返し、つまりどこの国のものでもかっこよければ良し、なオタクぶりで笑わせてくれました。

この映画について一度エントリを書いたことがあります。
軍事考証が無茶苦茶で、「こんな日本軍は嫌だ」のオンパレードであるこの映画。
しかし、この映画の中でも好きなシーン、
それがジムが零戦に頬ずりしているところに三人の海軍搭乗員がやってきて、
振り向いたジムが敬礼すると三人は威儀を正して答礼する、というあの場面です。
(それをなぜか陸軍軍曹の伊武雅刀が涙を流してみていて、がっくりしてしまいましたが)

それはともかく、零戦ファンのジム少年が一目で心を奪われたのが、このマスタングです。
搭載エンジンはロールスロイスのものなので、ジムは車に譬えて「空のキャデラック」などと言ったのかな。

このB型は、初期型に最初のマーリンエンジンを搭載したタイプで、これが昇華して
D型になるとこのP-51は「決定版」と言われ、ノルマンディ作戦にも参加しています。

ちなみにこれは、4分の3スケールの「レッドテイルズ」、つまり!あの

タスキーギ・エアメンバージョン

ということになります。



あらあらうふふ、今気づいたわ。
ちゃんとレッドテイルではないの。

タスキーギ・エアメンについて書いたとき、P-51でも、C型かD型かという話を
読者の方に質問して少しお話ししてみたのですが、これはそれ以前のB型。
量産されていない頃なので、タスキーギが使った可能性はあまりないように思うのですが・・。

まあ、しょせんレプリカなので、史実はどうでも「タスキーギ仕様」にしちゃえ!
というところかもしれません。
もしそうなら、アメリカ人もかなりいい加減です。

これをわざわざレッドテイルにした理由は、この博物館に
「タスキーギ・エアメン記念室」があるからなんだと思ってみたりする。

この特別展示については別の日にお話しします。



Mikoyan Gurevich MiG-15bis

わたしの記憶に間違いがなければ、これソ連機ですよね?
なんだってここにこんな塗装をされて存在しているのか。



さらにさらに。

これ、たしか中国空軍のマークですよね?
漢字で八一って入っているし。

そう思って調べたら、面白い経歴がわかったのです。

1950年、中国が朝鮮戦争に投入したミグ15は、世界に衝撃を与えました。
西側諸国はそもそもソ連が戦闘機を作っていることを知らなかったからでもあります。

北朝鮮はろくな飛行機をもたず、最初の頃こそ制空権は連合軍が掌握していましたが、
中国軍がMig15で参戦するようになってくると、そうは簡単にいかなくなってしまいます。

ソ連はドイツのMe-262を捕獲してその技術で1940年代後半にはミグを飛ばしています。
ロシア人たちは、冷戦の果てには米軍の爆撃を受けることを想定していて、
B-29B-50を迎え撃つという目的でにミグ15を開発していたと言われています。

朝鮮戦争が始まってからは、F-86セイバーに対抗するために効果的な仕様を施されました。
当時の米軍発表によると、セーバーとミグ15の対戦勝率は、4対1であったそうです。

ソ連は中国にこのミグ15のライセンス生産を許可したようですが、
結局中国は自力では全くミグ15は作っていません。

しかも中国はその後、台湾軍との間で航空戦を行っていますが、この機体で
ほとんどと言っていいほど芳しい戦果を上げることができないままでした。
これは、中国国内で生産されたものでないのでメンテナンスがいい加減だったことと、
バイロットの練度が非常に低かったから、ということになっているようです。


ここに展示されている機体はソ連で54年に製作され、中国でJ-2 Mig15として運用されたもので、
この「J」とは、中国語の「戦」(jian、战)から取られました。

これをどういう経路かわかりませんが、手に入れたアメリカ人が、冷戦後国内に輸送し、
しばらくの間このミグ15人民軍仕様は、このペイントのままで航空ショーに出されていたそうです。

いわば、さらしものっていうか、見世物扱いされていたわけですね。(涙)


ミグ15のコンセプトは小型・軽量の単純な機体に大出力エンジンを搭載するというもので、
この発想に西側の飛行機制作者は衝撃を受け、アメリカはさっそく
F-104「スターファイター」を開発しますが、こちらは



結論として、この軽い戦闘機を爆撃機や全天候迎撃機として使うことはかなり無理があり、
そのせいで米軍での試用期間は非常に短かったようです。


因みに、金門橋で中国が台湾を砲撃したとき、
アメリカはここぞとこのスターファイターを、ミグと戦わせるため(たぶん)
台湾空軍に一個飛行隊分与えていますが、残念ながら交戦の機会はありませんでした。

スターファイターの開発者はきっと「ちっ」と舌打ちしたでしょう(たぶん)。


そして時は流れてベトナム戦争。

この戦争でミグが出現したのを認めたアメリカは「すわっ」と
ミグと戦わせるためスターファイターを投入しています。

ハブ退治にマングースを投入するみたいなもんですか。

違う?

しかし、このたびも北ベトナム軍とのあいだに交戦の機会はなく、
ただ中国の領空に入ってしまったスターファイターが撃墜されるだけに終わりました。

スターファイターの開発者はきっと「ちっ」と(略)


ミグの話をしているのに、このスターファイター、「最後の有人戦闘機」、
なかなか話題が多くてどうしても主役を乗っ取ってしまい恐縮ですが、あと一つだけ。

せっかく作ったからというわけでもないでしょうが、アメリカは
自分はろくに使わずに、日本や他の国には結構な数のこの機体を売りつけています。

ドイツも買わされた国のひとつでしたが、販売にあたって、まずドイツ人のパイロットは
アメリカでこの機体に習熟するための訓練を受け、本国で使用する準備をしました。
しかしながら、天候のいいアメリカで難なく操縦できても、天候不順なドイツでは
それが原因でパイロットの死亡事故が頻発し、ついには

未亡人製造機(Witwenmacher)
ウィドウメーカー(Widowmaker)←英語で
「空飛ぶ棺桶(fliegender Sarg)」、
「縁起の悪いジェット機」、
「アンカーボルト」(すぐ地面にめり込むから?)
「テントのペグ」(Erdnagel)」(これも地面にめりこむから?)

などという錚々たるネガティブなあだ名がついてしまったそうです。
ドイツ人、むっちゃ辛辣。


ブロンドの騎士とか黒い悪魔とか言われたドイツ空軍のエース、
エーリッヒ・ハルトマンは、このF-104の導入に最後まで反対していたということです。

もしかしたら、天候の決して温暖ではないソ連で開発されたミグなら
ドイツで運用しても問題は無かったのかもしれませんが。










オークランド航空博物館

2013-07-30 | 航空機

興味を持っていなかった頃には、そんなものがあることすら知らなかったが、
一旦関心を持つと今まで知らなかった世界がすぐそこにあったことに気付く。

皆さまはそんな経験をされたことはありませんか。

わたしにとって旧海軍の興味から広がっていった世界は、自衛隊の航空祭や基地祭、
観艦式に各基地の広報館などを教えてくれました。
そして、ここアメリカにも当然のことながらその気になればそのような世界があることを。


というわけで、大仰な出だしですが、ボストンにいるときにデイトンの航空博物館について
教えていただいたことから、西海岸でもそのようなものがないか調べてみた結果、
まずこのオークランド・アビエーション・ミュージアムに行ってみることにしました。

アメリカは基本長距離移動を航空に頼る国ですので(カリフォルニアだけでも日本より広いですからね)
国際空港以外にも個人のオーナーが離発着するための小さな飛行場がそこここにあります。
このオークランド空港もその一つで、住民は国内線の移動を皆ここから行います。
というか、この空港でも伊丹なんかよりずっと広かったりするんですが。

この空港の一部に、この博物館はあります。

 


こちらのGPSは、文字入力に時間がかかるうえ、勝手に解釈して他の選択を許さない、
実に使えない代物なのですが、珍しくこの時は順調に到着。

近くの道路は「(アメリア)イヤハート・ロード」「ドゥーリトル・ドライブ」など、
有名な航空人の名前を付けた道があります。

ドゥーリトル、という名前は日本人にとってネガティブな響きを持っています。
あの東京襲撃の実行部隊を率いたからですね。

アメリカ人というのは、自分の国で戦争が起こらないものだから、自分の国の軍隊が
他所でどんな残虐なことをしていて、たとえその証拠が写真として残っていても
あくまでもそれを正義のために行う正当行為とし、他人事のようにそれを見る傾向があります。

最近、イギリスの科学ジャーナリストが東京大空襲(ドゥーリトルではなくルメイの指揮した方)
で、10万人もの非戦闘員が死んでいることを知らなかった!と発言したというニュースを読みました。

「何を今さら」と日本人は思ったりするわけですが、
考えればこういった都市爆撃は明らかに国際法にも違反した攻撃なんですよね。
しかし、原爆もそうですが、こうした市民殺戮に対し日本は決してアメリカに謝罪を求めたりしません。

「戦争だったから」
「負けたから」

日本人のあきらめの良さと人を簡単に許すお人好しさからくる許容です。

しかし、最近韓国系米人の煽動に乗って、アメリカ国内に、日本軍を辱め、
批難するための「(捏造)慰安婦の像」を建てようとしているアメリカを見ると、

「日本ももうすこし言ってやっていればこんなことにはならなかったのではないか」

とすら思ってしまいますね。
だいたい、慰安婦を20万人拉致して殺害したなんて非現実的な話を
いったいどこの誰が信じるのか。

ああ、そうか。

アメリカとしては、でたらめでもなんでも「日本軍が慰安婦20万殺した」「南京で30万殺した」
という訴えを容認することによって、それで自分たちの一般市民虐殺と相殺できるなら
認めてしまうに越したことはないと、そういう考えなんでしょうかね。


終わったことだから、戦争だったからと日本人は全国の都市空襲で亡くなった市民の数を
アメリカに対してつきつけるようなことはしないで今日まで来ました。

だけど、日本を貶めるためにホロコーストまで捏造するような民族の行為に加担するならば、
温厚な日本人も、いつあの時の米軍の残虐行為を蒸し返すかしれませんよ?



・・・・いかんいかん、こんな話になると本題を忘れてしまって。


話を戻しますが、そんなわけでドゥーリトルはアメリカ人にとって英雄。
わたしも個人的に、軍人としてのこの人物はたいしたものだったと思っています。
因みにここにはドゥーリトル記念室もありました。

ところで、この冒頭写真の博物館の佇まいを見て、

「ただの格納庫なのでは?」

と思った方、あなたは正しい。
この博物館、アメリカに大量にある航空博物館の中では小規模な方で、
ひとつの格納庫と外部に何機か展示してあるだけなのです。



エントランスからふと見やると、このような残骸が・・。
室内にはこういう機体をメンテナンスする部屋もありましたが、
何しろ1981年に非営利団体によって設立された博物館ですから、
日本のそれとは展示方法もずいぶん趣がちがうのかと。
どんなぞんざいな飛行機展示がここでは見られるのでしょうか。

これは、別の意味で期待が高まりますね(笑)



Glasair SH-II FT 

うわー、ほんとにぞんざいだわ。
アメリカでは自家用車のようにこういう航空機が使用されるので、
このGlasair IIも、HPを見ると、まるで自家用車のようなノリで宣伝しています。

昨日の夜、ポールニューマンの「華麗なる賭け」をテレビでやっていたのですが、
ボールニューマン扮する実業家(実は大泥棒)クラウンがこんな飛行機で宙返りしていたような。



VARI EZE 

これもなんて読むのかわかりませんでした。
正式名がRutan VarlEze、「ルタン ヴァリーズ」でしょうか。

あてずっぽうで調べたら、アメリカの航空宇宙エンジニアで実業家でもある
「バート・ルータン」という名前が出てきました。

ボイジャーなどもこの人の製作なんですね。

この「バリ」シリーズは、いずれもルータン制作の組み立て式小型飛行機です。

繊維強化プラスチックを使用した航空機体としてさきがけとなったという意味で
歴史的価値があるそうですが、とりあえずここでは子供の遊び場になっております(笑)

というわけで、いよいよ中へ。
入口に「大人10ドル」と書かれたカウンターが、売店と同じ場所にあり、誰もいません。
奥に向かって声をかけてみましたがやっぱり誰もいないので、そのまま入っていきました。



ピンボールのゲーム台とパイロットおじさんがお出迎え。
せっかくなのでおじさんアップ。



おじさん、歯が一本欠けています。
かつて飛行機事故で九死に一生を得た名残りでしょうか。なんちゃって。
おじさんの持っている「Welcome Aboard」は、「御搭乗歓迎」という意味。

この写真を撮っていたら、入口に巨大な人影発見。
縦も横も大きな、ここの管理人さんでした。

「さっき入ったときに誰もいなかったので・・・」と言って、10ドル払いました。
ちなみにこのとき、わたし以外に見学しているのは男性が合計三名。



このあたりには「ボーイングストリート」というのもあります。
この「ボーイング・飛行学校」は、
「ライト兄弟のライト飛行学校」( Wright brothers' Wright Flying School)、
サンディエゴの「カーチス飛行学校」に対抗して、ここオークランドに1929年に作られた養成校です。



このころの航空学校で使われていた道具、教科書、卒業写真。

文句を言うわけではありませんが、(言ってるか)解説が全くないので
これが何をする道具か全くわかりませんでした。
右側はリモコンスイッチ(コード付き)、左はパイロット用の非常便利ツール。
(たぶん違うと思います)

 

この写真は誰か著名な人物というわけではなく、ここから第一次世界大戦のコーナーに
入るため、その概要を記した上に飾られていました。
最後の文章曰く、

第一次世界大戦には6千5百万人の兵士が投入され、双方の被害数は
2千890万人が負傷、捕虜、行方不明、戦死者850万人である。
アメリカは440万人が参戦し、負傷者22万4千人、戦死は12万6千人となる



まったくねえ・・・。

自分の国を護るための戦争ならともかく、このときのアメリカの参戦理由というのが

ドイツ潜水艦がアメリカ艦船を襲ったから
英仏への売掛金の回収を確保するため

というものですから・・・。(おおざっぱ)
どんな理由でも戦争に行かせられるものはたまったものではありませんが、
こんな理由でアメリカ国民は果たして納得して戦争に行ったんですかね。



第一次世界大戦と言えば・・・・?
連想ゲームではありませんが、こういうガスマスクが思い浮かびませんか?

化学兵器としてガスが使われ出したのがこの第一次世界大戦。
呼応してそれを防ぐためのマスクも兵装として出てきたわけですが、
このころの戦争というのは初期には馬がおおきな機動力になっていましたから、
人間だけではなく、馬のマスクも開発されています。

 

ついでに、海外サイトで拾った各種ガスマスク映像をどうぞ。

 

犬。
この毛並みはテリアかしら。



これは馬ではなくロバですね。
軍馬ならぬ軍驢馬。

馬用マスクを流用したのだと思われますが。
驢馬も戦争従事させられていたとは・・・・。


えーと・・・・これなんですか?



ミッキーマウス用。じゃなくて、小さな子供用。
これは第一次大戦のものではなく、アメリカが日本と戦争することになったときに
大量に出回った市民用ガスマスクではないかと思われます。



そして、なぜかアメリカ軍使用機のモデルが唐突に。

下の段は、左からアベンジャー、P51ムスタング、P-38ライトニング、
そして上の段には水上機のヴォート・キングフィッシャーとP-40ホークに挟まれて・・・・・・



ひっそりと零式戦闘機52型が。
日本機に関するものは、この小さな模型だけでした。
まあいいですけどね。






この辺の展示の仕方も実にぞんざいです。
左下のF‐4Uコルセアなんか、傾いたままだもの。



当時のヘルメットに軍服。



ヨーロッパに送られたアメリカ将兵たちの集合写真。
それにしても、このころこんな写真を撮る技術があったんですね。
(写真は長い一枚で、つぎあわせたものではありませんでした)

このたくさんの人々のうち、生きて大西洋を渡り祖国の土を踏むことができたのは何人だったのでしょうか。



この初期の飛行機ですが、どうもこの、

 

銅像の人物、ファン・”ジョー”・グゥエイという、オークランドの中国人が
1909年当時において製作し、自分で乗ってしまった、というものらしい。

日本語でどれだけ検索しても、この人物のことは出てこなかったのですが、
当時の中国系アメリカ人の英雄的存在だったようです。

それにしても「モンゴリアン」・・・。
アメリカで中国人の店に行くと、わたしはときどき
「Are you Mandarin?」と聴かれてしまうのですが、
チャイニーズというと国籍も含むので、「マンダリン」とは「中華系(アメリカ人)」
というときに使うようです。
この場合は「モンゴル系アメリカ人が」という意味でしょうか。

いずれにせよ、当時の中華系アメリカ人でこれだけのことができたというのは
彼が持っていたのは並みの知力財力ではなかったということでしょう。



籐で編まれた気球のかご部分。



しかし、この気球、ガスバーナーで空気を暖めて上昇させるって、
もうこの時点で不安だらけですよね。

つい先日も群馬で気球の墜落事故があり男性が亡くなっていますし、
2月におこったルクソールの気球事故では人災により気球が燃え、高度300mから墜落して
気球の事故としては最悪の19人が死亡、日本人観光客も4人亡くなっています。

こういう原始的な仕組みで飛ぶものって、いざというときに対処しようがないから
わたしは決して乗りたくないですね。



エンジンだけを展示してあるコーナー。



これはライト型エンジンです。



ニュージャージー、パターソンのライト航空機で作られたと書いてありますね。



Wright EX Vin Fiz (replica)

実にオールドファッション。
これも気球どころではない事故ったときの怖さがあります。
これはレプリカで、1972年に製作されています。

空冷エンジンを動力として飛ぶライト型の飛行機でした。



本当に飛んだわけではないのかな。
しかし、こんなシートベルト一本つけて空を飛ぼうというのがすごい。



1911年当時の初飛行の瞬間。
皆成功に喜んで手に手に帽子を振っているのが微笑ましいですね。

この「Vin Fiz」というのは、スポンサーだった飲料会社の出したドリンクの名前。
Vinはフランス語のワインですから、「ワイン・フィズ」をお洒落に言ってみた風でしょうか。



おそらくこれはその瓶に貼られたラベルだったのでしょう。



Monocoupe 110

1920年半ばごろ、若い広告マンのドン・ルスコムは、オープンコクピットの
「ジェニー号」に乗る機会があったのですが、そのときにこう考えました。

「もし飛行機のキャビンが部屋のようだったら、
ゴーグルやらヘルメットなしで、
そう、ビジネススーツのまま飛行機に乗って
移動することができるんだがなあ」


彼がすごかったのは、このアイデアを実際に形にしてしまったことです。
自分のアイデアでそういう飛行機を作ることを決め、デザイナーを雇って、
かれはこの「モノクーペ」を作ってしまいました。

どうも、これはさりげなくすごい「歴史的発明」だったみたいですね。

それまで飛行機というのは外気にビュービュー吹かれながら乗るものでしたから。



Glasair Lycoming 10-360

この辺になると、ほとんど自家用車のノリ。
グレーサー社で検索すると、この機種の操縦マニュアルがダウンロードできたりします。




Ercoupe 415 C


これも戦後の「自家用飛行機」ですが、この飛行機の広告が一緒に展示されていました。



”車の運転ではハンドル操作に加えて脚での操作をせねばなりませんね。

しかしエアクーペの操縦では、ハンドルに手を置くだけでいいのです。

世界一安全なエアクーペには「スピン防止」機構があり、脚を使う必要がありません。”

これが宣伝文句として有効なのか?
と現代のわれわれは思わず考えてしまうような宣伝文句が書かれています。
まあ、このころ自動車がオートマチック以前のコラム式マニュアルが基本で、
クラッチ合わせなどが非常に煩雑であったことを考えると、
これでも「じゃ飛行機買おう」となる人がいたのかもしれないとは思いますが。

こういった自家用機でここにあるものはほとんどが篤志家の寄付によるものです。
買い替えたりするときにこういう博物館に愛機を寄付するというのも、
アメリカの飛行機愛好家の一つの「名前の残し方」なのかもしれません。


オークランド航空博物館シリーズ、他の話題を挟みながらまたしてもでれでれと続きます。